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第一話 しろばんばのカレー

 自己紹介……と言うほどでもないが、図書館の前で彼に自分の名前を名乗った時、樋口(ひぐち)(おと)()は、肩すかしと安堵という複雑な気持ちを抱いた。

 乙葉の名前を聞くと、たいていの人はこう言う。

「樋口乙葉? 樋口(ひぐち)一葉(いちよう)から取った名前ですか?」

 さらに、本が好きな人はこう尋ねる。

「樋口一葉で一番好きな作品は何?」

 しかし彼は簡単にこう言った。

「初めまして、私は篠井(ささい)()(づる)と申します。それでは、図書館の中を案内しましょう」

 そして、くるっときびすを返して歩き出した。

 身長は百七十五センチくらい、細身で、顔は地味だけどきれいな鼻の形をしている。身長百六十センチ足らずの乙葉は彼の肩くらいまでしか届かない。人によってはイケメンというかもしれないし、地味すぎるという人もいるだろう、というような顔をしていた。

 それでも、彼は見た目や言葉ほどは素っ気ないわけでもないらしく、乙葉が引きずってきた車輪付きのスーツケースに気がつくと手を差し伸べて「よかったら、持ちましょうか」と言った。

「いいんです。これ、ちょっと壊れていて……引くのにコツがいるんです。車輪の一つが取れそうになってるから、そこを使わないようにしないと……」

 その時、彼の顔がぱあっと輝いた。

「赤毛のアン?」

「え」

 思わず聞き返すと、彼は恥ずかしそうに微笑んだあと、顔を引き締めた。

「いえ、すみません。じゃあ、中に入ったら受付のところに置いておくといいでしょう」

「はい」

「今日は東北から直接いらっしゃったんですか?」

「はい」

「じゃあ、お疲れでしょう。今日は一通りご説明して、うちの人間と挨拶したら寮の方にご案内しますね」

「いえ。大丈夫です。ちゃんと働けます」

 実際、引っ越しのトラックを昼前に見送り、そのままこのスーツケースとバッグ一つで電車に乗って東京までやってきた。もらったメールにはグーグルマップのアドレスが貼り付けてあったけど、ざっくり「東京の郊外」と聞いていた場所を探すのに、思っていた以上に時間がかかった。約束の夜七時に間に合ったのが幸いだった。

 退職、急なオファー、転職、引っ越し……そんなことがこの一ヶ月に重なって、本当は身も心も疲れ切っていた。だけど、今日は新しい職場での一日目だ。それも、ずっと夢見ていて、一度は失いそうになった、本を扱える仕事の……だから、自分がよく働く人間だと思って欲しかった。

 自動ドアの中に入ると、エントランスの壁は、白っぽい大理石が張り詰められていて、乙葉の目の高さくらいに小さな額が埋め込まれるようにはまっていた。

「ここに使われているのは本物の大理石です」と篠井が言った。

「へえ。すごいですね」

 額は七センチ四方くらいで小さい。中に親指の先くらいの小さな蝶が入っている。見たことのない蝶だな、とつい気になって、引き寄せられるように近づいてしまった。「蝶ですか」篠井を振り返りながら尋ねる。

「……蛾ですよ」

 ぎゃあっ、という叫び声が身体の奥底から出た。

「なんで、こんなものを……こんな気味悪いものを」

 確かによく見ると、羽は瑠璃色に光っているものの、胴体が蝶にしては若干太い。

「魔除け、ですって」

「え」

「オーナーが魔除けのために置いているって聞きました」

 篠井はあまり関心なさそうに言った。

「こんなものが魔除けになりますか」

「ええ。嫌いな人は二度と近づきませんから」

「まあそうですね」

「本当に、ここに関心のある人しか来なくなります。ただの冷やかしや、物見遊山の人間は来なくていいということらしいです」

「そういうものですか」

「それに蛾は夜の蝶です。海外では蛾を差別しないそうですよ。夜の蝶、昼の蝶と言うだけで」

「別に差別しているわけではありません」

 自分のことを差別主義者のようにいうなんて、と少し気を悪くした。篠井はまったく顔色を変えず、「そうですか」と言った。

「オーナーにご挨拶できますか」

 今回のことはちゃんとお礼を言わなくては、と思いながら乙葉は尋ねた。

「できないでしょうね」

「へ?」

 でも、私はオーナーに請われて、ここに来たのに、と思った。

「僕もオーナーに会ったことはありませんから」

「で、でも、篠井さん、ここのマネージャーなんですよね?」

「はい」

「それなのに?」

「はい。でもたぶん、図書館員の誰も、あの人には会ったことがないと思いますよ」

「そうなんですか」

「一年のほとんどは海外に行ってますしね」

「そうなんですか」

「オーナーについて詮索するのは、あまりよくない結果を招くと思います」

 どうしてですか、と尋ねる前に篠井はすたすたと先に立って歩いていってしまった。その後ろ姿には、もうこれで質問はおしまい、という断固とした決意が表れているように見えた。乙葉は後れないように小走りについていった。

 大理石のエントランスの奥にさらに自動ドアがあって中に入ると、右脇にチケット売り場、左に入場ゲートがあった。チケットカウンターの中には一人の女性が座っている。壁には料金表が貼ってあった。

 入館料 一〇〇〇円(一ヶ月フリーパス一万円 一年フリーパス五万円)

 篠井は乙葉を女性に紹介した。

「こちら、樋口乙葉さん。今日から一緒に働いてもらう方です」

 彼女は立ち上がると、丁寧にお辞儀をした。頭を下げると、長い黒髪がさらさらと肩から落ちた。美しい人だと思った。

「よろしくお願いします」

 慌てて、同じくらい深くお辞儀をする。

「樋口さん、こちらは受付の北里きたざと舞依まいさん」

 北里と呼ばれた女性は一言も口を利かなかった。無表情でにこりともしなかったが、篠井は慣れているのか、気にする様子もなく、「樋口さんにビジターパスをあげてくれる?」と言った。舞依は小さくうなずくと、首から下げられるようになっているパスカードをくれた。乙葉のためにすでに用意されていたように見えた。

「明日にはちゃんと館員用のパスができますから」

 そして、篠井は自分のメンバーパスを見せた。

「これを、ここにつけると、開くから」

 入場ゲートは電車の改札口を少し小さく簡素にした感じで、カードをかざすと開くようになっていた。

 篠井と同じようにかざして入った。

「あの北里さんはああ見えて、空手の全国大会優勝者です」

「え? あの人が?」

「だから、あそこで変なことはしない方がいいですよ」

「そうなんですか……」

「今、ただの図書館にしては出入りが厳しいな、と思ったでしょ」

 本当はご名答、と言いたいくらい、その通りのことを考えていたのだが、乙葉はぶんぶんと首を振った。

「いえ、思ってません」

「あと、入るのに一回千円て高くない? って思ったでしょ」

 これまた、その通りだった。乙葉はしかたなく、微笑みながらうなずいた。

「……ちょっと」

「いいですよ。皆、そう言われますから」

 篠井は図書館に入りながらつぶやいた。

「前はそうだったんですよ。無料で好きなように誰でも入れるようにしてました。そしたら、万引きや窃盗が横行するし、わけのわからない輩が来て、なんで古い本ばかり飾ってるんだ、読みたい本が一冊もねえ、っていちゃもんつけられるし、で、オーナーが決めたんです。チケット代はお金が必要というより、変なやつを追っ払うためのものです」

「はあ」

「何度も言いますが、本当に来たい人にだけ来てもらえばいいんです」

「そうですね」

「有料になってからも本を盗っていく人は時々います。だから許可を取っていない本をここから出そうとすると、館内中に警報が鳴るようになっています」

「厳しいですね」

「ここの本はすべてが、他にはない貴重なものです。気をつけてくださいね」

「はい。それはもう、重々わかっています」

 そして、もう一つのガラスの自動ドアを通って、やっと図書館の中に入れた。

 乙葉ははっと息を飲んで上を見上げた。

 入口のところは二階まで吹き抜けになっており、天井まで本棚がびっしり備え付けられて本が入っている。

「すごいですね。本当にきれい。なんて美しい」

 天井まで本が並んでいる様子は壮観だった。

「ちょっといいですよね」

 篠井は、興奮する乙葉とは対照的に冷静だった。

「すごいです。なんだか、私がずっと夢みていた図書館に近いです」

「それはよかった」

 彼はまたすたすたと中に入っていく。

 そこに並んでいる本をもっと見たかったが、仕方なく、乙葉はまた彼のあとを追った。

 吹き抜けの部屋を通ると、広い部屋に入った。入口に受付があり、男女の図書館員とおぼしき人が座っていた。二人とも、私服に黒のそろいのエプロンをしている。篠井と乙葉を見ると立ち上がった。女性の方は乙葉と同じくらいの身長、男性は百八十センチくらいの高身長でがっしりした体つきだった。

「今日から来てくれた、樋口乙葉さんです」

かいなおです」

えのきみなみと言います」

 この二人は篠井や舞依とは違って笑顔だった。乙葉はやっとほっとする。図書館の人間が皆、クールビューティだったらどうしようかと思っていた。彼らがどちらも乙葉より少し年上くらいな、同年代なのも嬉しかった。

「樋口乙葉さんて、あれですね、樋口一葉と一文字違い。なんか、関係あるんですか」

 みなみはニコニコしながら尋ねた。何度も聞かれてちょっと嫌になってさえいたのに、今はほっとした。 

「あ、母が樋口一葉が好きで。結婚して樋口って名字になった時から、女の子には『葉』の字が付く名前にしようと思ってたみたいです」

「なるほどー。樋口一葉はよく読むんですか」

「まあ一通りは。好きな作品は『十三夜』です」

「あー、あれ、短いけど切なくていですよね。『十三夜』に出てくる女性って……」

 篠井は二人の会話をまったく無視して「樋口さんにはとりあえず、蔵書整理をしてもらうことにしました」と言った。

「わかりました」

 渡海がうなずいた。

「大変だけど、頑張ってね」

「あとで、手伝いに行きますね」

 二人とも、少し同情しているようだった。渡海は苦笑いしているし、みなみは眉が少し下がっている。

「そんなむずかしい仕事なんですか」

 心配になって尋ねてしまった。

 二人が顔を見合わせた。それで気がついたのだが、なんだか、二人、双子のようによく似ている。顔がというより、身振りや表情の動かしかた、まとっている雰囲気がどこか似ているのだ。

「むずかしくはないんだけど、単純作業だから、飽きちゃうんだよね」

「あたしはそんなに嫌いじゃない。新入りさんは皆、覚えないといけない仕事だしね」

 ごめんね、でも手伝うからね、と口々に言う。そんなことを言っても、二人がどこか楽しげなので、ちょっと緊張が解けた。

「あとで、まかないを一緒に食べようね。確か、今夜は、しろばんばのはず」

 しろばんば? なんだろう、と思っているうちに、また、篠井がさっさと歩き出したので、あとについていった。二人を振り返ると、そろって右手を上げてにこにここちらに手を振っていた。思わず、乙葉も振り返した。

「さあ、こちらですよ」

 篠井はす、す、すと音を立てず、早足で歩いた。

 次の部屋もその次の部屋も、同じように壁際に本棚が並んでいて、どの棚にも本がぎっしりと並んでいた。少し広めのいくつかの部屋には壁際だけでなく、部屋の真ん中にも本棚がならんでいた。

 そういういくつもの部屋を通って、最後に、どこにも入ったところ以外に出口がない部屋まできた。つまり、この部屋が一階の端なんだろう、と思った。

 だけど、篠井は部屋の端まで……つまり、本棚の方に向かって歩き、その前で立ち止まった。

「この奥です。あなたが最初に働くのは……」

「え、でも、もう行き先はないですよね」

「いえ、この奥なんです」

 意味がわからないと思っていると、彼は手を大きく振った。

「開けよ、ドア!」

 ええ、この人、何やってるの? いい大人の顔して、子供みたいに……。驚いて、本棚と彼の顔を交互に見つめた。

 すると、本当に、本棚が左右にがらがらと開いて、その奥にちゃんと部屋があったのだった。

「うそ」

 こういうのは、海外ドラマなんかでお金持ちの家に、シェルタールームとして作られているのを見たことくらいしかない。

「……今、僕が大人げない、って思ったでしょ」

 もう、否定する元気はなく、力なく乙葉はうなずいた。

「オープンセサミ、と言わないだけでも褒めて欲しいな」

 彼は初めて、ちょっとだけ歯を見せて笑った。


 乙葉は東北地方のターミナル駅ビルの中の書店に勤めていた。

 本に関係する仕事に就きたい……それがずっと乙葉の夢だった。大学では国文学を専攻し、近現代文学のゼミで太宰(だざい)(おさむ)を題材に卒論も書いた。国語の教員と書道教諭の免許も取った。本当は図書館員の資格も取りたかったが、地方から上京し、一人暮らしをしている身の上ではそこまで手が回らなかった。奨学金までは借りていないが、ぎりぎりの家計の中から両親が仕送りをしているのを知っていたので、アルバイトで生活費を稼いでいたのだ。

 地元の教員採用試験に落ちたあと、出版社、取次会社、大手書店……思いつく限りの「本に関係する仕事」の就職活動をしたけど、どこも落ちてしまった。大学から紹介されたメーカーには通ったものの、どうしても「本」に関わりたくて、アルバイトでもいいから、とメーカーの内定を蹴った。地元に戻り、契約社員の書店員になった。

「せっかく、東京の大学に入ったのだから、一度は大きな会社に入った方が良いんじゃないの? 新卒で会社に入れるのは一度きりよ」

「アルバイトと一緒じゃないか」

 不安がる両親を「好きな仕事をしたいから。これからももちろん、就職活動するし!」と振り切って始めた仕事だった。

 面接では「小説が好きなんです!」と熱く主張して、幸いにも文芸部門に配属された。

 駅ビルの中の書店の仕事は楽しかったけど、だんだん身も心も疲弊してしまった。サービス残業は当たり前だったし、給料も低すぎた。客からの理不尽なクレームも多かったのに、その処理を店長は全部乙葉たちに押し付けた。好きな仕事というだけでは割り切れないことが少しずつ増えてきた。

 そして、売り上げ不振のため文芸の棚が減らされることになって、本社と衝突したあと、店にいづらくなった。店長は一言も助けてくれなかった。

 乙葉は就職してからずっと、SNSを匿名の書店員として投稿していた。最初の頃は仕事について希望に満ちた言葉ばかりだったのに、気がつくとつい、愚痴や悩みをこぼすことが多くなっていた。仕事を辞めようかと思っていた時に、一通のダイレクトメッセージが来た。

 

 ――拝啓、いつもツイート拝見しております。わたくし、ハンドルネーム、スリーカラーストーン、と申します。樋口さんの本、特に小説に対する愛をいつも感じておりました。現在転職を考えている、とのこと。本当に残念です。もし、よろしければ、本に関する仕事をご紹介できるかもしれないのですが、いかがでしょうか。

 

 正直、その時は喜びと疑いの気持ちがごっちゃになった。

 本に関する仕事ができる、続けられるというのは嬉しい。だけど、怪しい、怪しすぎる。

 すると、ほどなくして次のダイレクトメールが届いた。

 ――わたくしは東京の郊外で小さな図書館をしています。図書館の名前は特にありません。強いて言えば、「夜の図書館」とでも呼んでください。実際、夜七時から夜中の十二時まで開いております。勤務は午後四時から深夜の一時まで。一時間の休憩を挟みます。一般の図書館とは違っていて、普通の本が置いてあるわけではありません。置いてあるのはすでに亡くなった作家の蔵書ばかり……そういう本を作家さんが亡くなった後寄付して頂いて、こちらに展示、整理するのがうちの図書館の主な業務です。お客様にはそれを観覧して頂いています。基本的に貸し出しはしておりません。図書館という名前ですが、実質は本の博物館かもしれません。

 お給料はそう多くお出しできません。基本給は月十五万、ただ、図書館の裏に寮がありまして、ボロいアパートなのですが、無料で住んで頂けます。光熱費はご自身持ちですが、Wi-Fiはただで使えます。また、エアコンとガスコンロは付いています。必要でしたら、部屋の間取り図をお送りすることができます。

 

 このあたりで、乙葉は頬をつねってみたくなった。

 確かにお給料はいいとは言えないが、条件は悪くない。郊外とは言え、また、東京に住めるのは嬉しかった。

 何より、作家の蔵書を扱っている、というのが興味深い。

 

 ――ご興味があればご連絡ください。

 

 ものすごく迷ったけど、乙葉は返事を出した。すぐに返事が来て、そこにはzoomのアドレスと面接の日時が書いてあった。

 もう一つとても驚いたのが、面接が音声のみで、その声もボイスチェンジャーを通したものだったことだ。乙葉はずっと、オーナーを名乗る年配男性の、怪しい誘拐犯のような声と対峙することになった。

 しかし、それでも就職をやめなかったのは、そんなおかしな声の後ろにオーナーの本に対する、紛れもない愛情が見え隠れしたことだった。

「本のことを話してください」

「本のこと……?」

「あなたが子供の頃からどんな本を読んできたのか、どんな時にどんな本と出会ったのか、今はどんな本を読んでいるのか、そんなことを話してください」

「ええと、どのくらい話したらいいんですか、最初から話すと長くなっちゃいますけど」

「かまいません、全部です。最初から全部。あなたが読んできた全部の本のことを話すつもりで」

 最初は戸惑った。だけど、そのくぐもったような変な声の相手は良い聞き手だった。乙葉がする話を丁寧に聞き、熱心に相槌を打ってくれた。

 この人はきっととても博学な人だ……話しているうちに乙葉は気づいた。こんなに話が合う、そして、楽しく、勉強になる人と話したことはない、と思った。乙葉が出すタイトルはほぼ読んでいて、知らなかったものは「ちょっと待ってくださいね、ぜひ私も読んでみたいので」と言って、メモしていた。知らないことは正直に知らないと言う、誠実な人なのだと思った。

 相手のことがどんどん好きになった。この人のもとでぜひ働きたい、と思った。

 気がつくと三時間以上話していた。

「……合格です」

「え」

「ぜひ、うちの図書館に来てください……樋口さんさえ、よければ」

 あの時、自分は初めて世界に受け入れられたような気がした。

 



 本棚の奥には……洞窟が眠っていた。

 と、思うほど、壁を黒く塗られた、殺風景な部屋だった。

 壁際には段ボール箱が山積みになっており、コの字に置かれた三つのデスクがあった。デスクの上にはそれぞれデスクトップのパソコンがある。その前に二人の年配女性が立っていた。

 二人の女性はやっぱり、黒いエプロンをしていた。一人は細かい花柄のえんじ色の足下まであるワンピースでぽっちゃり型、もう一人は迷彩柄のシャツとパンツのほっそり型だった。二人の足下の、段ボール箱がある場所以外にはたくさんの本が積み重なって、彼女たちはくるぶしくらいまで埋まっていた。

「これは……」

「さっきから何度も言っている、蔵書の整理部門です。この部屋は蔵書整理室と呼んでください」

「はあ」

「お二人は、亜子あこさんとまささんです」

 紹介された二人は、すぐに深くお辞儀をした。

「亜子です」

「正子です」

 ワンピースが亜子で、シャツが正子だった。

「樋口乙葉です。よろしくお願いします!」

 乙葉も足下まで頭を下げた。

「あらまあ。ご丁寧に」

「なるほど、この方ね」

 亜子と正子は一緒に声を上げた。

「この図書館に入った人は、皆、ここで最初の仕事を覚えます。この蔵書管理がいわば、この図書館の心臓であり、頭脳であり……とにかく、一番大切なところです。この図書館はお二人の肩に掛かっていると言ってもいい」

 篠井がおごそかに言うと、亜子と正子は顔を見合わせて「うふふふ」と笑った。

「そんなねえ」

「照れるわねえ」

 篠井は二人にお辞儀をし、「それでは樋口さんをよろしくお願いします」と言って部屋から出て行った。帰りには「開け、ドア!」とは言わなかったが、扉は自然に開いた。

 その後ろ姿をあぜんとして見ていると、「樋口さん」と亜子のおっとりした声が聞こえた。

「今日、おつきになったんですか?」

「はい」

「じゃあ、お疲れでしょ」

「いいえ」……と答える前に、「あら、お若いんだもの、元気よね。私たちと一緒にしちゃだめよ」と正子が言った。

「はあ…」

 どちらの言葉も乙葉の今の気持ちだった。疲れているのも本当だし、でも、この程度ならちょっとは無理できる、というのも本当だった。だから、あいまいなまま、なんとなく顔に笑顔を貼り付けて両方に向かってうなずいた。

 乙葉の顔を見て、正子は苦笑しながら、「まあいいわ」と言った。

「とにかく、今日はざっとした仕事の中身を説明して、一緒にやってもらうわね」

「はい!」

 亜子が部屋の端に置いてあったロッカーから黒いエプロンを取り出した。

「これがここの制服って言うか、作業服なのね。何を着てもいいけど、仕事をする時はこれをするの」

「マネージャーの篠井だけは受付に座る時以外はしないわね」

 正子が言葉を添える。

「まあ、あの人は外の人にも会うからね。でも、わりに便利よ。服が汚れないしね」

「そうですね」

「黒というのもちょっと地味だけど、なんの服にも合うし、私たちは遺族の方に会うこともあるから、喪服を着てなくても改まった感じがあるしね」

 なるほど、そういうわけで黒なのか、と思った。

「サイズは普通でいいわよね」

「はい。大丈夫です」

 乙葉は亜子に手渡されたエプロンで服を覆った。エプロンは大きめにできていて、首のところの紐を調節したりしても、少しぶかぶかだ。

 ふと見ると、乙葉のことをじっと見ている二人のエプロンはどちらもぴったりサイズである。亜子はぽっちゃりしているけど、きつそうには見えないし、正子は針金ってあだ名になりそうなくらい痩せているけど、生地が余っているように見えない。

 乙葉が二人のエプロンを見返すと、「ふふふ、気がついた」と正子が言った。

「実は、私たちだけはね、エプロンのサイズを直しているの。亜子は手先が器用で手芸がうまいもんだから、身体に合わせて詰めたり、伸ばしたりしてるのね」

 亜子も「ふふふ」と笑った。

「若い人は少し大きかったり、小さかったりしてもだいたいかわいらしいものだけど、歳を取ると、ジャストサイズじゃないとみっともないの」

「いいなあ」

 乙葉は思わず言ってしまって、慌てて両手で口を塞いだ。ずっと年上の先輩にため口を利いてしまったからだ。

「じゃあ、そのうち、あなたのも直してあげる」

「え、いいんですか」

「そのうちね」

「じゃ、始めましょうか」

 正子がきっぱりとした声を出した。

「はい!」

「あなた、ここのことはオーナーに聞いているわよね」

 亜子が足下の段ボール箱を開いた。

「だいたいは」

「じゃあ、ちゃんともう一度説明するけど、この図書館は、作家……主に、小説家を中心とした作家の蔵書を、亡くなったあと、引き取って保存、展示しているのね」

「それはちょっと伺いました」

「作家本人が遺言や生前の整理でこちらに寄贈してくれているのもあるし、死後、処分に困った遺族の方から託される場合もある」

「だから、とにかく、毎月、大量の本が送られてくるし、それをまず、この部屋に集めて整理するのが私たちの仕事」

「はい」

「でも実は、今、本が集まり過ぎていて、亡くなったばかりの方の本は倉庫に入れられてるのが現実よ」

「そうなんですね」

 亜子は机の上から判子を出して見せた。

「これ、いわゆる蔵書印ね。これをすべての本の裏表紙の内側に押すの。これもまた、生前から作家さんに指定されて作ったものもあるし、死後、遺族の方と相談したり、こちらで決めたりして作ったものもあるの。基本的には作家さんの好きなように作ることになっているけど、決まりは必ずフルネームが入って、一目で誰のものかわかること。そうじゃないと、あとあと大変だからね」

「とはいえ、最初の頃はそのあたりが統一されてなくて、自由だったからイラストに下の名前だけとか、崩し文字で読みにくいとか、結構、あるの。まあ、私たちはわかるけど」

「とはいえ、これ、なかなか大切だから、きっちり押してね。今日はまず、乙葉さんにはその仕事をしてもらうことにしますか」

「はい」

 今日は判を押すだけか……ちょっとほっともしたし、少し肩すかしを食ったようでもあった。

「あら、でも、これ、結構大切な仕事よ」

 乙葉の表情を読んだようで、正子は言った。

「あ、いいえ、別に」

「それになかなか大変よ」

 亜子も言った。

 乙葉は机に座って、蔵書印を押し始めた。確かに慣れるまで、思っていた以上にむずかしかった。

 堅い木でできた印は朱肉をたっぷり、むらなくつけないとちゃんと押せない。まっすぐきれいに押して欲しいと、穏やかだった二人もそこだけは厳しかった。それに押印したあと、ぱたんと本を閉じてしまうと裏表紙にくっついてしまう。最初の何回かは二人につきっきりで指導を受けた。押したあとは専用の紙をはさむ。

 ぐっと力を均一に入れるのは思いの外、力がいる。確かにすぐ疲れてきた。

「それ、押しながら聞いてね」

 正子は、慣れてきた乙葉を見て、言った。

「はい」

「蔵書印が押された本はデータに入れて管理される。題名、作家名、第何刷りか、いつ刊行されたものかなんかをデータに入れる。ざっとだけどチェックしてメモなんかしてあったらそれも書いておく。これはネットで管理されるけど、基本的にはこの館内からは出ないように、イントラネットの中だけ。外の人はここに来ないと資料や情報は見られない」

「はい」

「一人の作家の蔵書管理が終わると、コンピューターのデータだけじゃなく、一冊の本にして保管もされる」

「へえ」

「こんなふうに」

 正子が一冊の本を出して見せてくれた。シンプルなえんじ色の本で金文字で「長峰(ながみね)妙子(たえこ)蔵書集」と書いてあった。乙葉は読んだことがない作家だった。でも昨年あたりに、彼女が亡くなったという記事を読んだことがあるような気がした。確か、十代でデビューした作家さんで、ここ何年かは新しい作品は発表されてなかったはずだ。

「これは、二階の本棚にまとめてあるわ。一冊一冊、ちゃんと製本して置いてある」

「すごいですね」

「せっかく蔵書を寄付してもらうんだから、このくらいはしなくちゃね」

「膨大な方もいるし、一冊にならないくらい少ない人もいるけどね」

 亜子が笑った。

「だけど、そういう人は少数派よ」

「今は電子書籍もあるし、紙の本は減っていくかもね。電書をこれからどういうふうに管理するのかは、問題になってくるでしょうね」

「なるほど」

 乙葉は、手は休めずにうなずいた。

「データ記録をした本は外の本棚に置かれるか、中の書庫に置かれるか仕分けされる。同じ本が何冊も並ぶわけにはいかないから。基本的に重なった蔵書は書庫に入ります」

「そうすると、中には同じもので何十冊も寄贈される本が出てくるんじゃないですか」

「そうなの」

 正子は唇をきゅっと引き締めた。

「そこが大切なところだし、悩みの種でもあるのよ。貴重な古書や絶版本もたくさんあるんだけど、最近、出たばかりの本もたくさんあるの。オーナーはそういうのも全部保存して欲しいって言うんだけど」

「はあ」

「作家さん本人やご親族、ファン、研究者の人に取ったら、どんな本も、作家の手に渡ったものは唯一無二のものだから、って」

「確かにそうですね」

「でも、今はなんとか倉庫に収められても、場所は無限じゃない」

「それもそうですね」

「いつかはいっぱいになってしまう。そうなった時にどうするか……結局、処分するしかないと思うんだけど」

「でも、オーナーの言うことにも一理、いえ、二理も三理もあるのよね」亜子さんが目をくるくるさせながら言う。

「死んだ作家がなんかの拍子に大人気作家になる日がくるかもしれないでしょう? 例えば、映画化されて有名な映画賞でも取れば、世界中から大注目されるかもしれないし、改めてなんかの賞を取ったりするかも。そしたら、ここに人が押し寄せるかも」

「今の時代、なんで火がつくかわからないですよね。有名人のSNSとかテレビ番組とか」

 乙葉も大きくうなずきながら言った。本屋に勤めていた時もそういうことは時々見聞きした。

「だけど、そんなのは本当にごくごくごくごくごく……もう、本当に何千万に一つの確率よ。宝くじに当たる方が簡単かもしれない」

 正子が辛口に切り捨てる。

「いえ、それにね。ファンや研究者にとっては作家のどんな本も貴重。本に書いてあるメモやちょっとした折り目一つが研究の一歩につながるかもしれない」

「あ、もしかして、亜子さん、国文科ですか」

「そう! なんでわかった?」

「そういうの、国文科で研究論文書いた人の考え方だなあって」

「もしかして、あなたも?」

「そうです!」

 乙葉と亜子は思わず、両手でハイタッチしてしまった。

 それを正子が苦笑しながら見ていた。

「まあ、映画賞を取るよりは研究の必要になる方が高確率よね」

 しぶしぶ、と言ったふうに認めてくれた。 


 十時過ぎた頃、榎田みなみがやってきた。

「お疲れ様です」

「ああ、お疲れ様」

 亜子が答えた。

「乙葉さんをまかないに連れ出しに来ました」

「そうねえ。ちょうど三時間だから、休憩によいわね」

 正子が部屋にかかっている時計を見上げながら言った。そして、乙葉に向き直った。

「乙葉さん、まかないご飯、食べていらっしゃい」

「え、でも」

 先輩を……それもかなり年上の人を差し置いて、先に休憩を取っていいのだろうか。

「あたしはお弁当を持ってきているの。頃合いを見て、ここで食べるつもり」

 亜子が言った。

「私は皆さんが食べ終わった頃、行くことにしているの。一人で食事をしたいから」

 二人ともきっぱりした様子だった。食べ物、食べ方にはこだわりがあるらしい。

「それから、今日はもうお帰りになっていいわよ」

「え、でも」

 ここの図書館は夜七時から夜中の十二時まで。そして、館員の勤務時間は四時から夜中の一時まで、休憩一時間と聞いている。

「乙葉さんはまだ慣れないでしょうし、今日、東北から出てきたばかりだもの。今夜は家に帰ってお体を休めなさい。引っ越しの片付けもあるでしょ」

「そうね」

 亜子もうなずく。

 確かに、今は気が張っているからそう疲れた感じはないが、部屋に帰ったらどっと出そうだった。

「いいんですか……?」

 本当にいいのだろうか。ちらりとみなみの顔を見ると、にこにこしながらうなずいている。亜子、正子の表情にも、みなみの笑顔にも嘘はなさそうだった。

 ずっと、人の顔色を見て仕事をしてきた。口では「休憩していいですよ」と言いながら、その通りにすると「気を遣えない人だ、こっちが勧めるのは儀礼的なものであるとわからないのか。『先輩がお先に休憩してください』というのが常識じゃないか」などと陰口を言う人の中で仕事をしてきて、本心からの言葉なのか、いつも疑っていた。

「もちろんよ。遠慮しないで」

 正子は深くうなずいた。

「ではお言葉に甘えて……あ、でも、よかったら」

 急に思いついて言った。

「ちょっとだけ……ほんのちょっとだけでいいので、後で受付に座ってみるのって可能でしょうか。この図書館がどんな感じなのか、もうちょっと知りたいので」

 おそるおそる提案してみると、みなみがすぐにうなずいた。

「もちろん、いいわよ。ちょうどいいわ。まかない食べたあと、渡海さんと交代するからその時一緒に座りましょ」

「やる気あるわね」

 正子が褒めてくれた。

「でも、初日から頑張りすぎて、あとでがっくりこないようにね」

「はい。もちろんです。では失礼します」

 みなみと部屋を出ると、自然、振り返って自分たちが出てきた本棚の間を見てしまった。

「あの」

「ん?」

「この出入口、どうなっているんですか。さっき、篠井さんが『開けよ、ドア』って言って開けましたけど。本当に、そういうおまじないで開くんですか」

「え、篠井さん、そんなことしたの?」

 みなみは大笑いした。

「篠井さんでもそんなことするんだー。違うわよ、あそこはね」

 みなみはもう一度、本棚のところに近づいた。そして、本棚の前で手をひらひらと動かした。すると、本棚がまたするすると両側に開いた。

 中にいた、亜子と正子が驚いてこちらを見ている。

「すみません。乙葉さんに開け方を教えていました」

 あらまあ、とか、そうなの、という声が聞こえた。

「ね。上のところがセンサーになっているの。こうやって手を振ったり、身体を触れさせれば開くのよ」

「でも、篠井さんが……」

「きっと、あの人は『開けよ、ドア』と言いながら、センサーに触れたんでしょ」

 そして、みなみは二階に向かって歩き出した。

「意外に、おちゃめなんですね、篠井さん」

「そんなの初めてよ。今度、からかおう」

「私が言ったって言わないでください」

「言わないけど、きっと、すぐわかるわよ」

「え」

「大丈夫。あの人、そんなに喜んだり笑ったりしないけど、そのぶん、怒ったり悲しんだりもしないから」

 そういうものだろうか? みなみの言葉に首をひねりながら、ついていった。

「あれ、お客さんが触れちゃった時はどうなるんですか」

「開いちゃう。皆、びっくりしてるよ」

「いいんですか」

「まぁ、一年に数回くらいだから」

 二階の一角に食堂があった。入り口に「図書館カフェ」と書かれた木の看板がかかっていた。

 名前は古くさいというか、直接過ぎる感じだったが、中はこれまたシンプルなカフェ風の作りだった。フローリングの床に白木のテーブルと椅子が並んでいる。何人かコーヒーや軽食を食べたり、本を読んだりしていた。

 入り口のところに古めかしい食券機があって、いくつかのメニューがならんでいた。よく見たかったけど、みなみがさっさと入っていってしまったので、諦めてあとについていく。彼女は一番端の六人掛けのテーブルに座った。

「ここにいると、たぶん、他の図書館員の人たちも来るわよ」

「そうなんですか」

「だいたい、皆、同じくらいの時間になるから……受付だけは別だけど」

 すると、年配の男性が来た。

「二人ともまかないでいいよね」

「はい!」

 みなみが元気に返事した。

木下(きのした)さん、いつもありがとうございます」

「ああ」

 小さくうなずいた。

「こちら、今日から来た、樋口乙葉さん」

「初めまして、よろしくお願いします」

 乙葉は立ち上がって頭を下げた。

「こちらこそ、よろしく」

 木下と呼ばれた男はあっさりと言った。

「食後はアイスコーヒーでいいかな」

 冬なのにアイスコーヒー? ちょっと疑問に思ったけど、みなみが「木下さんのアイスコーヒーはおいしいよ」と耳元でささやいてくれたので、うなずいた。

 彼もまた、ぶっきらぼうだけど親切な人のようだった。

「木下さんはね、ここに来る前に、銀座の有名な喫茶店でコーヒーを淹れていたのよ」

 去って行く彼の後ろ姿を見ながら、みなみが教えてくれた。

「へえ」

「木下さんはその店のシンボル的な存在だったんだけど店のオーナーとささいなことからうまくいかなくなって、やめさせられたんだって。店をやめた時、お客さんたち、皆、びっくりしたんだって。木下さんがオーナーで店長かと思っていたから。そのくらい、すごい人気だったらしい」

「そうなんですか。それ、木下さんから聞いたんですか」

 なんとなく、彼が自分の過去をぺらぺら話すような人に見えなかったので、尋ねた。

「ううん、違う、違う。木下さんはそんなこと言わないよ。渡海さんがコーヒー好きで、その店にも何度か行ったことがあるんだって。でも、そういう趣味の人の間ではネットに上がっているくらい有名な話らしい」

「店の方はどうなったんですか」

「それがさ、一時は客足が途絶えたんだけど、銀座の一等地にある店でしょ。コーヒーマシンを入れて、値段を少し安くしたら、今までとは違う客層が普通に来るようになって、また繁盛しているんだって。中には木下さんが淹れたコーヒーだと思って飲んでる人もいるらしい」

 ひどい話だが、よくある話のような気もした。

 そうして話していると、木下がまた来て、皿ののったトレイを置いた。

「わあ」思わず、声が出てしまう。

 トレイの上の平皿には黄色みが強いカレーが盛られていた。

「今日は『しろばんば』ね。月曜日はしろばんば」

「カレーって、元気が出ます」

 みなみがうなずく。

「さっきから『しろばんば』って言ってるのはなんですか」

「知らない? 読んだことない? 井上(いのうえ)(やすし)の『しろばんば』だよ。その中に載ってる、おぬい婆さんが作るライスカレーを再現したの」

「読んだことないんです、すみません」

「俺も、ここに来てから読んだからさ。あんまり偉そうなことは言えないけど、おもしろかったよ」

「すぐ読みます」

「『しろばんば』ならたぶん、在庫がたくさんあるはずよ。特別に貸してもらったら。丁寧に綺麗に読めば大丈夫」

「はい。そうします」

「じゃあ、いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」

 そう言って、彼は行ってしまった。

 乙葉はスプーンを取って一口食べた。普通においしいカレーだ。でも、最初に口に入れた感じはマイルドなのに、だんだんスパイシーになっていく、独特の風味がある。こういうのを癖になる味というのかもしれない。

「おいしいでしょ」

 みなみがすかさずささやいた。

「はい」

 人参やジャガイモがきれいにサイコロ状に切って入っているのはわかったけど、同じように半透明に煮込まれている野菜がわからなかった。口に入れると、くしゃっとつぶれるような歯触りだ。

「これ、なんだろう。柔らかくてみずみずしい野菜だけど……」

 カレーに入っているのを見たことがない野菜だった。

「大根よ」

「え。大根?」

 大根が入っているカレーは初めてだった。意外に合う。

「木下さん、ここにスカウトされた時、オーナーが指示した小説やエッセイの中に入っている料理をいくつか再現して出すことを条件として挙げられたんだって。料理もうまいから」

「お肉は何が入っているんだろう? お肉のうまみはあるんだけど、姿が見えない」

 さいの目の野菜がすべてを主張していて、肉が隠れている。裂けたような肉の切れ端だけ見えた。それがまた、このカレーの味に大きな影響を与えている気がした。スプーンに取って、じっと見た。

「あー!」

「わかった?」

「コンビーフですね」

「ご名答。『しろばんば』を読めばもっと詳しいことがわかるよ。曜日によって、まかないのメニューは変わるの。月曜日は『しろばんば』。まかないは一食三百円、コーヒー付き。元銀座の有名店の」

「控えめに言って、最高ですね」

 カレーを食べていると、中年の男の人が来た。

徳田(とくだ)です。はじめまして」

 ぽっちゃりした体つきで、丸い眼鏡をかけている。

「徳田さんも書店員だったんだよ。半年前くらいに入ったの」

「私、樋口乙葉と言います」

「僕、歳は篠井君より十年上なんだけど、彼はマネージャーで僕はヒラ。身体を壊して、本屋を退職したあとしばらく休んでいたし、ここに入ったのはついこの間だからね。オーナーものんびりやった方がいいって言ってくれているし」

 徳田は少し早口ぎみに説明してくれた。

「はあ。よろしくお願いします」

 徳田も木下にまかないを注文すると水を取りに立った。

「……徳田さん、いい人なんだけど、ちょっと神経質で年功序列に厳しい、というか……篠井さんの方が上の立場なことを気にしてるんだよね。それがなかったら、本当に優しいし、仕事もできるし、いい人なんだけど」

 みなみがつぶやいた。

「あとから入ったんだから、別に年上で立場が下でもぜんぜんかまわないと思うんだけど。だいたい、ここは皆、歳はばらばらだし、亜子さんや正子さんみたいな人もいるしね」

「そうですね」

「でもまあ、乙葉さんみたいに、年齢下で自分より新入りという人ができたから、徳田さんも気が楽になるかもしれない」

「そういうものですかね……」

 徳田はどこかせかせかした感じで戻ってきた。乙葉やみなみの分もちゃんと水の入ったグラスを持ってきてくれた。

 みなみはああ言うけど、いわゆる肩書き以外はそんなに気にしてないのかもしれない、と彼が運んでくれた水を飲みながら思った。上下関係を気にする人ならやりにくいな、と密かに思っていたけど、こうして年下の女にも水を持ってきてくれるくらい親切な人なんだから。

 とはいえ、しばらくは彼には丁寧に接した方がいいかもしれない、と思った。

 食後は宣言通り、アイスコーヒーを出してくれた。香り高いけど、苦くない。

「俺は、カレーのあとはアイスコーヒーが絶対、合うって思ってるの。勝手な思い込みだけど」

 木下が説明する。

「確かに合います。おいしいです」

「これは水出しコーヒー、昨日の晩から抽出したんですね」

「あ、そうなんですか。初めてです」

「水出しコーヒーが?」

「はい。名前は聞いたことあるけど。こんなにおいしいものなんだって知りませんでした」

 コーヒーを落ち着いて飲むような贅沢は実はあまりしたことがなかった。学生時代も社会人になってからも。お金がなかったし、友達としゃべるなら、チェーン系カフェで十分だった。

「もしかしたら、今まで飲んだアイスコーヒーで一番おいしいかもしれない」

「二番目はどこの?」

「セブンです」

 木下は大笑いした。

「これはこれからコーヒーの出しがいがあるな。セブン‐イレブンのアイスコーヒーは確かにおいしいけどね」

「……僕もここに来るまであんまり飲んだことなかったです、コーヒー。こんなにおいしいものだとは思わなかった」

 徳田も褒めた。

「ああ、そう。男は別にいいのよ」

 木下が大げさなくらいそっけなく答えたから、そこにいた人は徳田以外、大笑いになってしまった。

 

 まかないご飯のあと、宣言通り、受付に座らせてもらった。

「本当に大丈夫? 疲れたら、すぐ言ってね」

「あ、はい」

 二人で座っていてしばらくすると、少し年配の女性が入ってきた。白い髪をきれいにセットし、深紅のコートを着、手に杖を持っていた。顔に大きめで薄い色が入ったサングラスをかけている。ゆっくりとした歩みだった。

「こんばんは」

 震える声で挨拶してくれた。 

二宮(にのみや)さん、こんばんは」

 みなみがすぐに答えた。

「冷えますね、大丈夫ですか」

「ええ。ここまでタクシーで来たから」

「帰りも呼びますか」

「そうね、あとで声をかけるわ」

 二宮は話しながら、乙葉に気がついたようで、目をこちらに向けた。

「あ、こちらは今日から入館した、樋口乙葉さん」

「よろしくお願いします!」

 立ち上がって、ぺこんとお辞儀をした。

「あらあら、お若いのね。これからよろしくね。樋口乙葉ってもしかして、一葉と一字違い?」

「はい! 母がファンで! 一番好きな小説は『十三夜』です!」

 聞かれる前に、全部言うことにした。

「あら、しぶいわね」

 そう言うと、彼女はまたゆっくりと受付を離れ、部屋の奥に入っていった。

「あの方、年間パスポート、持ってましたね」

「あ、わかった?」

 首から下げたカードケースにそれが入っていたのにすぐに気がついた。

「あの人はね……二宮公子(きみこ)さん、常連さんよ。ここから歩いて十五分くらいのところに住んでる。何年もほとんど毎日来て、高木(たかぎ)幸之助(こうのすけ)の本棚のところにいる。他の本は見ない」

 高木幸之助は高名な時代小説家だ。亡くなってからすでに二十年以上が経つが、本は今も売れ続けているし、映画化やドラマ化されることもある。

「誰でも知っているし、きっと、二宮さんが自分から話すから言ってもいいと思うけど……二宮さんは高木さんの愛人だったの」

「えええええーーーー、愛人!!!」

 悲鳴よりも、野太い「えー」だった。

「しーっ!」

 みなみは笑いながら、唇に指を当てた。

「すみません。でも、やばくないですか」

「びっくりするよねえ。私も初めて聞いた時、信じられなかったもん」

「高木幸之助、私も読んだことありますよ。将軍様ご見参シリーズ、結構おもしろいですもん」

『将軍様ご見参』とは彼の一番有名な作品で、ドラマ化を二回されている。題名のまま、将軍様が江戸の町に現れて市井の人に交じって事件を解決するシリーズだ。

「ね。あの人、昔、高木さんに銀座に小さいバーを出させてもらってたんだって」

「うわ。もろ愛人じゃないですか! それってウィキペディアとかに載ってます? フライデーとかされたことあるんですか」

「んなわけないじゃん。一昔前の売れっ子作家だよ。今よりずっと作家タブーが強い時代だもん。ただ、一度だけ、『噂の真相』には出たことあるって自分で言ってた」

「『噂の真相』ってなんですか」

「乙葉さんは若いから知らないか」

 みなみは自分も若いのにそんなことを言った。

「今は廃刊しているけど、昔は有名だったタブーなしの雑誌でね。政治家とか小説家とかのスキャンダルをあばいてるの。今も時々、作家さんの蔵書の中から出てくるから、それで私も知ったの。たぶん、うちの図書館にはほとんど全部そろってると思うよ。二十年近く前の雑誌だし、出てる人は古い人ばっかりだけど、中にはおもしろいのもある」

「へえ」

 また、身体の奥底から野太い声が出てしまった。

「とにかくね、あの人は愛人で、ほとんど毎晩、高木幸之助さんの蔵書に会いに来るの。そこにいると、なんだか、彼と一緒にいるような気がするんだって」 

「……ちょっとロマンチック」

「高木さんは奥さんも子供もいたから生前は二人で人前に出たこともないんだって。とはいえ、二宮さんが付き合ったのって、年齢からするとすでに高木さんがそこそこおじいちゃんになってからだけどね」

「ふーん」

「とにかく、乙葉さんにもその話すると思うから、話は長いけど、知らん顔して聞いてあげてね」

「了解です!」

 話している間に、またすうっと人が入ってきた。淡いブルーの上っ張りを着た老女で小さくて痩せている。毛糸の帽子を被って大きなマスクをし、指先が切れた手袋をしていた。顔はよく見えないけど、帽子の端から、真っ白なおかっぱの髪が出ているので年を取っているのだとわかった。意外にしっかりした足取りで、こちらを見向きもせず、部屋を突っ切って行ってしまった。しばらくすると大きな掃除機とモップなどが乗っている台を引きずって出てきて、部屋を横切っていった。彼女が入っていった部屋からは、掃除機の音がし始めた。たぶん、カーペットの埃を取っているのだろう。

「今のは?」

 話が一度途切れたので、乙葉は尋ねた。

「え?」

「今、通っていった女性は誰ですか」

「ああ、鈴木(すずき)さん?」

「鈴木さんていうんですか」

「あの人は掃除のおばさん」

「掃除の方ですか」

「そう。このくらいの時間になると来るの」

「へえ。じゃあ、挨拶した方がいいかな」

 みなみは首を振った。

「あんまり人とは話さない人なの。向こうから話しかけては絶対にこないし、こっちから話しかけてもほとんど返事もしない。だから、気にしなくていいの」

 優しいみなみにしては、少し冷たい言い方のように聞こえた。もしかしたら、なんども無視されて気持ちを害しているのかもしれない。

「でも、掃除はすごく丁寧だし、悪い人じゃないの」

 乙葉の表情に気づいたのか、みなみは慌てて言葉を重ねた。

「私たちのアパートの共用部分も掃除してくれるよ。だから、時々、アパートの方でも会うかも」

「そうなんですか」

「一応、図書館の掃除兼アパートの管理人って感じなのかな。例えば、共用部分にあるポストとか、そういうのが壊れたりすると、あの人に言うの。ろくなこたえは返ってこないけど」

 みなみは苦笑した。

「次の日には直しておいてくれる」

「なるほど」

「だから、ちょっとぶっきらぼうでも、気にしないようにね」

 みなみは自分に言い聞かせるように言った。

「樋口さん」

 急に上から声が降ってきて、思わず、見上げる。

「そろそろ寮の方に行ったらどうでしょう。今日はゆっくり休んだ方がいいのではないでしょうか」

 篠井だった。

「あ、ありがとうございます」

 本当は、初めての出社(本当は出館というのかもしれない)に興奮しているのか、ぜんぜん眠くなかったし、楽しいくらいだったのだが、あまりにも皆に勧められるので、休ませてもらうことにした。

「じゃあ、私が寮まで送りましょう」

 篠井は最初からそのつもりだったのか、薄いダウンのコートを着ていた。

「ありがとうございます。あの」

「なんですか」

「亜子さんと正子さんのところにコートとバッグを置いてきたので、取りに行ってきます。それから、お二人にも挨拶したいし」

「待ってます」

 乙葉は小走りに受付を離れようとした。すると、篠井が「走らなくていいです。ゆっくり行ってください」と後ろから呼びかけた。思わず振り返ると、「この中では走らないでください。それに、レディは走らない。走るのは子供とスポーツ選手だけです」と言った。

 意外とそういうこと言うんだな、と思いながら、篠井とみなみに後ろから見られている、と意識していたら抜き足差し足みたいな感じになってしまった。 

 開けゴマ、と小さい声で言いながら、亜子と正子がいる部屋に入った。

「すみません。それでは、今日は失礼いたします」

 声をかけると、亜子が立ち上がってこちらを見た。

「あらー、わざわざ挨拶に来てくれたの? そんなのいいのに」

 亜子は朗らかに言った。

「バッグとコートも取りに来ました」

「なるほど」

「じゃあねー」と本に埋もれながら、正子が手だけ出して振った。

「明日も、よろしくお願いします」

「ゆっくり休んでね」

 何度も頭を下げながらそこを出た。


 アパートは図書館の敷地内にあった。図書館の裏の方に古い木造アパートがあって、そこを寮としているのは、最初に連絡を受けた時に聞いた通りだった。

 図書館を出て裏手に回ると、紺色の屋根に白い壁のアパートがすぐに見えた。

「寮は八部屋あります。今は全部、埋まっています。亜子さん、正子さん、渡海さん、榎田さん、北里さん、木下さん、徳田さん……そして、樋口さん。樋口さんは二階です」

「篠井さんは入ってないんですか」

 スーツケースを引きずって、彼の後ろをついて行きながら、尋ねた。

「僕はこの近くの別の場所に住んでいます」

「そうなんですか」

「まあ、自分で言うのもなんですが、一応、マネージャーという立場なので、皆さんとは別の方がいいかと思いますし、寮もいっぱいなので」

「はあ。なるほど」

 篠井は二階の右から二番目の部屋のドアに鍵を差し込んだ。階段を上がる時はスーツケースを持ってくれた

「一階は渡海さん、木下さん、亜子さん、正子さんが住んでいます。一応、男性が一階の方がいいということで。亜子さんと正子さんは万が一何かあった時、一階の方がよさそうなので」

 ドアが開くと、その鍵を乙葉に手渡しながら言った。

「万が一って?」

「地震とか火事とかですかね」

「確かに」

 お年寄りなら、その方がいいだろう。

「ここ、築四十八年なんです。古いけど、中は一応、ちゃんと直してあります」

 篠井は言いながら、電灯をぱちんと点けた。

「電気と水道は通しておきました。乙葉さんの名前で」

 それも事前に連絡されていた。

「ありがとうございます」

「ガスは明日、自分で連絡してください」

 確かに外観は古い建物だったが、壁は白く塗ってあるし、床はフローリングだった。キッチンと八畳間くらいの、1Kという作りだ。バスとトイレは別々だった。古いけど、その分、広々としている。奥の部屋に一畳分くらいのクローゼットというか物置があった。たぶん、押し入れを直したのだろうと思った。

 キッチンは二畳ほどで古めかしいが、ガスコンロも置いてある。八畳間にエアコンも付いていた。オーナーに最初に説明された通りだった。一応、すぐに生活が始められそうで、ほっとした。

「明日、引っ越しですよね」

「はい。午前中、赤帽が来るはずです。そんなに荷物はないですが」

「皆にも樋口さんが引っ越しなのは言ってあります。でも、あまり騒がないようにしてください。たぶん、皆、寝てますから。そんなに気にするような人はいないはずだけど」

「了解です」

「あ」

 篠井さんが頭に手をやった。

「今夜は布団がないですね」

「大丈夫です。適当に寝ます。明日、九時から引っ越しなので、それが終わったら出社まで少し休めますし」

 それでも篠井は困った顔になった。

「すみません。気がつきませんでした。申し訳ないな」

「本当に大丈夫です」

「そういうわけにはいかないですよ。身体が痛くなるし、寒いでしょう」

 何かないかなあ、と言いながら、彼はクローゼットを開いた。すると、そこに段ボール箱が一つ、置いてあった。

「あ、このことを言うのを忘れていました。前任者の忘れ物なんですよ。なぜか、置いていってしまって……すでに連絡済みで、そのうち、取りに来ることになってます」

「そうですか」

「申し訳ないんだけど、それまで置いておいてもらえますか」

「はい」

 荷物を置いていってしまうとは、いったい、どういう人なんだろう。

 しかし、篠井はそのことよりも今は今夜の乙葉の寝具が気になるようで、困った、困った、とつぶやいていた。

「大丈夫です。とりあえず、今夜は適当に寝ますから」

 少し強めに言うと、篠井はやっと部屋の中を歩き回るのをやめた。

「風邪をひかないようにしてくださいね。エアコンをちゃんと点けてください」

 それだけ言うと、帰っていった。

 篠井が出て行くと、なんだか急に気が抜けて、キッチンの床にしゃがみこんでしまった。

 はあ、と大きくため息をつく。

 今日は本当にいろいろあった。東北から出てきて、いろんな人に紹介されて、そして、まかないも食べて……疲れた。でも、今のところいやじゃない疲れだった。

 すぐに眠くなってきたので、服を着たまま、横になることにした。コートを脱いで、それをかけて横になった。

 目をつぶるとすぐに寝てしまった。

 しばらくした時、ドアをこんこん、とノックする音がして目が覚めた。暗闇の中で目が覚める。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。ちょっと考えて、新しい職場の一日目なんだ、と気がついた。

 ノックはもう一度鳴った。腕時計を見ると、篠井が去ってから二十分ほどしか経っていなかった。

「……どなたですか」

 震える声で尋ねたが、答えはない。

 そっと立ち上がってドアに近づき、のぞき穴からそっと見た。誰もいなかった。ぶるっと震えて、このまま無視して眠ってしまおうかと思ったけど、勇気を出して開けてみた。すると、ドアの足下に、寝袋が置いてあった。

「あ」

 もしかして、篠井か、図書館の人が置いていってくれたのだろうか。慌てて裸足のまま外に出て、アパートの二階の廊下から外を見ると、篠井が足早にアパートから去って行くのが見えた。

 呼び止めて礼を言おうとしたけれど、時間が遅いことを思い出してやめた。明日、いや、今日になるだろうか、また図書館で会ったら言おう、と思いながら寝袋を拾い上げた。

 もう一度、彼の後ろ姿を見て、「ありがとうございます」と小さくつぶやいた。

 暖かい寝袋につつまれながら、乙葉は短い夢を見た。

 いや、夢と言うより、自分の記憶をもう一度巻き戻しているような、考えごとがそのまま映像になっているようなものだった。

 本屋を辞めたことを両親に告げに行った時のことだ。

「……大丈夫なの? そんな田舎の……わけわからない図書館。住み込みだなんて」

 母は眉の間にシワを作りながら言った。

 いや、こっちの方がずっと田舎だろ、と思ったけれど、確かに武蔵野の山奥はこちらよりも田舎の可能性も高い。

 黙っていると、父親がぼそっと言った。

「何事も、三年続かないやつはダメだ」

 父はそのまま奥の部屋に立ってしまった。

 厳格な父だった。古い考えを持っているのもわかっている。だったら、ブラック企業でも、セクハラされても、会社を辞められないの? と言い返したかったが、言葉が出なかった。自分がセクハラされたわけでもない。

「……心配しているんだよ、乙葉のこと」

 樋口一葉が大好きな母親が言った。

 居間には母の本棚があって、そこには樋口一葉はもちろんのことありとあらゆる小説がずらりと並んでいる。本に関わる仕事をしたい、と言った時、母はもっと喜んでくれると思っていたのに。

 好きなことと仕事が一致しなくてもいいんだとお母さんは思うよ、例えば、公務員をしながら好きな本を読むのだって立派な人生だよ……母が言う言葉は嘘ではないと思ったけど、どこか、逃げている気がして受け付けなかった。だいたい、自分が今から公務員目指して受かるとは思えなかったし。

「私は妥協したくないんだよ」

「じゃあ、あなたはお父さんやお母さんの人生が妥協の人生だと言うの? 諦めて家族を守ってきたと?」

 母の顔色が変わった。

 今の父からは想像もできないが、昔はバンドをやっていたらしい。母はもちろん、文学少女だった。それを一人娘や家族のために捨てたなんてとても言えない。

「若い時は一時期しかないんだから、やらせてよ」

「……勝手にしなさい」

 母は吐き出すように言ったっけ。

 悪いことをした、とは思う。迷惑や負担だけをかけて二人の期待には一度も応えていない気がした。逃げているのは自分なのかもしれなかった。



 翌朝九時きっかりに、引っ越しの赤帽が来た。呼び鈴が鳴って、乙葉がドアを開けると丸顔のおじさんが顔を出した。

「赤帽でーす」

「ありがとうございます」

 一緒に下に降りていくと、赤いトラックが止まっていた。

 おじさんは慣れたふうに、テーブルや椅子、プラスチックケースなどをどんどん下ろしてくれた。大きなものから運んでいく。乙葉もケースを一つ持って、彼のあとに続いた。

「いいですよ、私だけでも運べます」

 そう言ってくれたけど、さすがに何もせずに見ているわけにもいかない。

 ケースを部屋に置いて降りてくると、トラックの脇に徳田と正子が並んで立っていた。

「すみません。起こしちゃいました?」

 乙葉は慌てて、謝る。

「いや、何か手伝うことでもあるかと思って」

 徳田がもごもごとつぶやいた。

「大丈夫です。私も手伝いはいらないと言われたくらいで」

 断っても、彼は冷蔵庫やテレビなど大きなものを運ぶのを、一緒に手伝ってくれた。やっぱり、最初の第一印象以上に、親切な人のようだった。

 正子は荷物を運ぶことはできなかったけど、少ない荷物を運び終わると、おじさんにペットボトルのお茶を渡してくれた。

「ありがとうございます。お疲れ様でした」

「いいんですか。ありがとうございます」

 おじさんは喜んでもらっていった。

 まるで、お祖母ちゃんかお母さんみたいだな、と思いながらその姿を見ていた。

「徳田さん、正子さん、すみません」

 赤帽が去ったあと、乙葉はもう一度改めて礼を言った。

「いいの、いいの。私は朝五時には目が覚めちゃって眠れないの。それに、あのお茶、スーパーの特売の時、もらったんだけど、私はああいうお茶は飲まないものだから、冷蔵庫の場所ふさぎになってたの」

「僕も朝から起きてるたちですし」

「よかったら、うちでコーヒー飲んでいかない? さっき淹れたばっかりのがあるの」

 正子が誘ってくれると、徳田は乙葉の顔を見た。ちょっと迷っているみたいだった。

「あ……よろしければ、行きます」

「僕もいいんですか」

 その答えを聞いて、徳田も本当は行きたいけど、遠慮していたのがわかった。

 正子の部屋は、乙葉とまったく同じ造りだけど、印象はまるで違っていた。

 部屋の真ん中にこたつがあって、小さな本棚がある。そして、キッチンの方に大きめの衣装ダンスと食器棚があった。どちらも濃い茶色でしっかりしたもので、それだけでキッチンを占領していた。キッチンには赤と緑のアジアンなカーペットが敷いてあった。

 なんだかお祖母ちゃんの家に来たみたいだ、ともう一度思った。実際、そのくらいの歳みたいだし。

「娘の頃、親が買ってくれた物だから、捨てられなくてね」

 徳田が食器棚を見ているのに気づいて、正子は言い訳のように言った。

「あ。いえ。実家にもこういうのがあったので」

「どうぞ、おこたに入っちゃって。冷えたでしょう」

 こたつで待っていると、正子がコーヒーを持ってきてくれた。古めかしい、ウェッジウッドのコーヒーカップに入っていた。自分は無骨なマグカップだった。

 一口飲むと、香り高いコーヒーの味が口いっぱいひろがった。

「おいしいです」

「そう? 嬉しい。駅前の珈琲屋で豆を買ってきてるの。朝だけはおいしいコーヒーを飲みたくてね。私の唯一の贅沢」

「今日はすみません。引っ越しを手伝っていただいて、コーヒーまでごちそうになって」

「僕までいただいちゃって。たいしたことはできなかったのに」

 徳田は口ごもるように言った。

「そんなことないわよ。女二人じゃ、力仕事はできないもの」

 ねえ、と正子は乙葉に同意を求める。

「はい。ありがとうございます」

「いえ」

 徳田は少しはにかんでいた。

「ね、よかったら時々、朝、コーヒー飲みに来て。私は五時から起きてるから。コーヒーを飲んだら、また、寝るの。出勤の三時まで」

 乙葉と徳田の顔をかわりばんこに見た。

「徳田さんもね」

「……はい」

 徳田が生真面目にうなずいた。

「迷惑じゃなければ」

「もちろん」

「ありがたいです」

 乙葉もうなずいた。


 乙葉はコーヒー一杯で自分の部屋に戻った。さっき徳田と赤帽のおじさんが運んでくれた布団袋から布団を引っ張り出して篠井の寝袋の隣に敷いた。そして、シーツもろくに付けず倒れ込んだ。

 やっとほっとした。初出勤を終え、引っ越しを終え、職場の人兼近所の住人との交流も終えた。

 なんとかうまくやれそうだ、そう思ったら深い深いため息が出た。

 さっきその中から出てきた寝袋の横に『しろばんば』の文庫本が置いてあった。すっかり忘れていたけど、みなみが探して持たせてくれたのだった。横になったまま開いた。

 斜めに読んでいたら、結構、すぐにライスカレーの記述があった。


 おぬい婆さんの作ったライスカレーは美味かった。人参や大根や馬鈴薯を賽の目に刻んで、それにメリケン粉とカレー粉を混ぜて、牛缶を少量入れて煮たものだが、独特の味があった。

 


 ああ、あの味だ。きっとあの時食べたライスカレーだ。

 妙に嬉しく、安心して、濃いコーヒーを飲んだにもかかわらず、そのまま睡魔に飲み込まれていった。



原田ひ香(はらだ・ひか)
一九七〇年神奈川県生まれ。二〇〇六年「リトルプリンセス二号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞受賞。「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。 他の著書に「三人屋」シリーズ、「ランチ酒」シリーズ、『三千円の使い方』、『まずはこれ食べて』『口福のレシピ』、『一橋桐子(76)の犯罪日記』など多数。

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