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陽湖幻燈記 婀娜(あだ)白狐は悪女となりて

 序章 陽湖、目覚める

 青空がとても高く、緑の草がとても近い。その葉をかき分けて私は走っていた。
 夏草は匂いが濃く、私の匂いも消してしまう。走っているといつしか自分もこの草原の一部になる気がする。
 草の中に背の高い人間がいた。男だ。長い黒髪を風になびかせ私を待っている。
 私の頭の上にある三角の耳が動く。彼が名を呼んだからだ。
 私は四肢に力を入れ、足で思い切り地面を蹴った。太い尻尾で方向を調整し、彼の胸へと飛びついた。
ショウヨウ!」
 彼は私をそう呼び、頭を撫でてくれた。私はその手が嬉しくて、甲高い笑い声をあげて尻尾を振った。
「小陽、小陽。可愛い小陽」
 もう一人、同じ顔をした男が現れ、私を彼のもとから抱き上げる。私はその男の顔も長い舌でなめまわした。
 そっくり同じ二人の男が嬉しそうに、楽しそうに笑い合う。私も笑った。ずっとこの幸せな時間が続くと思っていた。
 だが。
 男の一人が私の頭から手を離し、背を向ける。残された男と私は小さくなるその姿を見送った。
「──!」
 私ともう一人は彼の名を呼んだ。だが、その名は私の耳には届かなかった。
 彼の名はなんだっただろう、そして残された彼はなんという名だったろう。
「小陽……」
 残された男が私をぎゅっと抱きしめた。
「止めてくれ、──を止めてくれ。あの化け物を止めてくれ……」
 わかった、と私は彼の腕の中で叫んだ。必ずあいつを止める。約束する。
 男は優しい笑みを浮かべた。しかしその顔はぼんやりと霞んで、笑みだけが残る。
 私は叫んだ。去っていった彼の名を呼び続けた。しかしその名は聞こえない。
 私は草原の中で一人だった。高く青い空は私の嘆きを吸い込んで、いつものように輝いていた……。

 銀狐は巣の中でその翡翠色の目を開いた。白く長い睫毛の下から見た景色は、眠りにつく前とほとんど変わっていないようだった。
 彼女は四肢に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。ずいぶんと久しぶりの目覚めで体のあちこちがこわばっている。
 麓の人間たちから「シロガネ」と呼ばれる銀白色の体を伸ばし、腰を上げる。尻の後ろからふさりと大きな尻尾が八本、花のように広がった。
 ぶるぶるっと頭から背中、尻尾へかけて全身を震わせる。
 寝床に決めた洞窟からのそりと出ると、すぐに白い蛇が岩だなの上から降りてきた。
あるじさま、お目覚めですか)
 白蛇は赤い舌をチロチロと出し入れし、声を出さずに話しかけてきた。
(うむ……私はどのくらい眠っていた?)
 白銀は太陽と風に向かって顔を上げた。日差しに毛並みがきらきらと輝く。若い青葉の匂いが風に乗って体を取り巻いた。
 白銀は岩場の上から自分の森を見下ろした。人の手の入らない深い山の中、こちらもほとんど変わってはいない。生命力のあふれる瑞々しい緑の木々、ところどころ白く、赤く彩るのは杏や桃、桜の花か。
(冬が九九回来ました。春は百回目です)
(そうか、……百年か。たいした長さではないな)
(さようでございますね。なぜお目覚めに?)
 白蛇の質問に白銀は大きな口を開け、あくびをした。
(なに、懐かしい夢を見てな……)
 白銀は視線を森のさらに奥へと向けた。彼女の棲むテンガイザンはこのあたりでは一番の高峰だ。白銀の目は雲を通り抜け、距離を超越し、遠く遠く人間たちの住む麓の村へ、さらに遠く、町へ、都へと届いた。
(なにが私の眠りを妨げたのか)
 都まで見通す目は、ものの形は定かではないが、なにか黒い影のようなものを捉えた。不穏な気とでもいうべきか。
(あやつが戻ってきたのかもしれんな)
 白銀は口元を歪め白い牙を見せる。
(決着をつけるときがきたようだ……)
 これはイン大陸にある那ノ国が大国としてまとまる以前、ファリュウという三つの国が覇権を争っていた時代の話となる。

 一章 陽湖、七星と出会う

 龍の国の王宮所在地、首都であるリュウケイは人口一〇万人の大都市である。
 王宮を中心に放射状に石畳を並べた道が拓かれ、その道に沿ってさまざまな店が軒を並べ、一般の民の家はその内側に築かれていた。
 建物は木材と石で建てられ、壁を漆喰で塗ってある。屋根瓦はさまざまな色があり、その家の守り神が上に飾られていた。
 王宮から離れるにしたがって家の大きさは小さくなり、下町と呼ばれる区画では、小さなサイコロのような家がぎゅうぎゅうとひしめき合っている。
 白銀は白蛇を伴ってそんな龍京の下町に降り立った。人が大勢暮らす都では狐と蛇の姿では目立ってしまうため、二人とも人の姿となっている。
 白銀は銀色の髪とすいじゅの瞳を持つ女性に、白蛇は灰色の髪に青い目の女性に変じている。龍の国では西域との交流も盛んなので、この国に多い黒髪黒目の人々と毛色が違っても不審には思われなかった。ただ二人ともとてつもない美女に変化したので、そのために目立っていた。
 身なりはその辺の道を歩いている女と同じ、長衣に袖なしの胴衣を羽織っている。
「私のことは白銀──いや、それは麓のものがつけた名だな。ここではヨウと名乗ろう」
 妖狐は白蛇にそう言った。
「お前のことはインリウと呼ぼう」
「名前などどうでもよいのです」
 白蛇銀流は不満気な口ぶりで言った。
「わたくしはまだ主さまが山を下りた理由を聞かされておりません」
「まあ、とりあえず居を探そう」
 陽湖はそう言うと通りを歩いていた男の方へ近づいた。男は美女が自分の方へ向かってくるのにぼうっと見蕩れて突っ立っている。
「ものを尋ねるが」
「へ、へえ?」
 男は陽湖の美貌に圧倒されたか腰を屈めて頭をさげた。
「この辺りで住まいを商っているものを知らないか?」
「す、住まいですか? それならあそこの赤い看板の出ている店で尋ねるとよろしいですよ」
「そうか、すまんな」
 陽湖が微笑むと、男は腰が砕けたようにへなへなと路上に座りこんでしまった。
 赤い看板の店は住居を斡旋する房屋仲介ふどうさんやだった。陽湖はそこで、ある程度広さのある家の紹介を頼んだ。金がないので懐から翡翠の腕輪、金の指輪を取り出す。
 眠りにつく前にため込んでおいた財宝のひとつだ。
 店主は大喜びで繁華街近くの空き家を案内した。陽湖は彼の腰の軽さを見込んで財宝を金銭に換えるよう頼んだ。ついでに家を住めるようにしてほしいとも。
 店主は大張り切りで家具や雑貨、流行の衣装なども用意してくれ、荷物を抱えた使用人たちが家の前に長い行列を作った。
 そんな具合に、わずか二日のうちに陽湖の住まいが整えられた。
 陽湖と銀流の新しい巣は、とうづくりと呼ばれる龍の国の伝統的な造りで、中庭を四つの四角い建物が囲む形になっていた。
 道に面した大門をくぐると一の部屋、ここは玄関になっている。
 右に回ると居間と客間の二の部屋となり、次の部屋は主人の寝室と私室の三の部屋、最後の部屋は厨房と召使いの部屋となる。かわやと浴室は奥に別室として作られ、中庭には井戸があった。
 どの部屋も窓が大きく作られ、四季折々の風景が精巧な細工ではめ込まれていた。
 陽湖は運び込まれた山葡萄の蔓で編んだ長椅子に横たわり、窓から入る日差しに手をかざした。日当たりがよいのも気に入っているし、中庭に見える桃の花も美しい。
「ふむ、百年ぶりの人界の暮らしだが、なかなか快適だ」
「主さま」
 表情は変わらないがいらだった口調で銀流が言う。
「そろそろ山を下りた理由を教えていただけますよね」
「そうだな」
 陽湖は自分の手でお湯を沸かし、茶を入れた。この茶も茶器も房屋仲介が用意してくれたものだ。
「そら、お前も飲め」
 銀流の前に茶器を置くと、彼女は細い指をその茶の中につけた。湯気が一瞬で消え、温度が下がる。
「お前と知り合う前にやりあったやつがいてな。そいつの気配を久々に感じたのだ。目覚めたのもそのためだな。今度こそ決着をつけたいのだ」
「わたくしと知り合う前というと二百年前ですか?」
「そうだ。しかしそれは二度目。最初はな……」
 陽湖は茶碗の湯気をふうっと吹き、熱い茶に口をつけた。
「四百年以上前だ。聞いて驚け、そやつは人間だぞ」

 龍の国では時間はこの大陸共通の二四刻に分けられている。明一刻から明一二刻までは午前、暗一刻から暗一二刻までは午後となる。
 暗一〇刻を過ぎる頃、町で開いているのは酒を飲む店か色事の店だけなので通りは真っ暗になる。
 窓から明かりが漏れることもあるが、部屋に下げる灯籠ではさほど明るさも期待できない。
 陽湖は銀流を伴って、誰もいない夜の町を散策していた。天涯山の巣から感じた不穏な気配の元を見つけるためだ。
「主さま」
 銀流が薄い唇からちらと舌を覗かせた。蛇の精である銀流は舌で匂いを感じ取る。
「ふむ、血の臭いだな、しかも大量だ」
 陽湖も夜風に顔を向ける。甘い春の香の中に物騒な匂いが混じっていた。陽湖の目は血に惹かれる雑鬼たちを捉えていた。真っ暗な通りも彼女の目には夕暮れくらいには見通せる。
「行ってみよう」
 二人で歩いてじきに匂いの元を発見した。石の壁に男が一人、寄りかかっている。その腹からおびただしい血が流れていた。周辺の地面にもたくさんの流血があるが、これは男のものではないようだ。
「まだ息がございますね」
 男の周りには雑鬼が群がり、その死を待ち構えている。命が抜けたあとのむくろは雑鬼たちの大好物だ。内側から食い荒らして、ときには骸を動かし、他の人間を襲わせたりする。
 陽湖は男の前にしゃがみ、うつむいたその顔を覗き込んだ。
「お前、このままでは死ぬぞ」
 陽湖は男に囁いた。男はまだ若く、そげた頰と意志の強そうな唇を持っていた。その口からも血が滴っている。
 男の手には長剣があった。血まみれのそれは彼が敵と戦ったことを教えている。
 陽湖は地面に残った敵の足跡を数えた。ざっと一〇人。それだけを相手によく戦ったと言える。敵の死体がないのは仲間が回収したのだろう。
「最期に言い残すことはないか?」
 たんなる気まぐれだった。多勢を相手に戦い死のうとしている男への褒美のつもりだった。言いたいことがあれば聞いてやろう。
 だがそのとき、男は驚異的な意志の力を見せた。男は陽湖の腕を捕らえ──思いも掛けぬ早さだったので対応できなかった──血を吐きながら言った。
「俺はまだ死ぬわけにはいかない、やつを見つけるまでは……ッ」
「やつ?」
「かたき、だ」
 男の目は真っ黒だった。その黒の中で星のように輝く光があった。怒り、憎しみ、悲しみ、それから判明しがたい感情──。
 この光を私は知っている。これは私と同じ瞳だ。
「お前」
 陽湖は男の腕を摑み直した。
「選べ。死者となっても生きたいか。孤独という名の地獄を生きるか、それとも安寧
な死を選ぶか」
「死んでも……生きる。俺を生かせ……!」
 男は最期の息を吐き出した。
「お前の名は?」
シチ……セイ
「よかろう、七星。お前の命を預かった」
 陽湖の背中に光が射すように八本の尾が広がる。男はそれを見ただろうか?
 陽湖は自分の人差し指を鋭い犬歯で嚙み切ると、あふれる血で男の額に呪まじないの文字を書いた。それから胸元を開き、そこにも書き付ける。
「主さま」
 銀流が細い眉をひそめた。
「その呪言は……」
「我流だからな、うまくいくかどうかわからん」
 カクリ、と男が首を落とす。すでに呼吸はなかった。陽湖の尾も消えている。
「銀流、こいつを運んでくれ」
 銀流の顔から表情が抜け落ちる。かなり嫌がっているときの顔だ。
 だが、銀流はなにも言わずに男の体を抱き上げた。
「帰るぞ」
 餌にありつけなかった雑鬼たちがキイキイと足下で跳ね回る。陽湖はそれらを蹴散らしながら家へと向かった。

 二章 化け物となった男

 男が目を覚ましたのは昼を回った頃だった。
 寝かされていた寝台から起き上がる。体にはなにも身につけていなかったが、腹にさらしが巻かれていた。
 それに触れると昨日のことを思い出した。
 夜中に複数の男に襲われ、なんとか応戦したが隙を見て腹を刺された。自分でも致命傷だとわかった。
 襲ってきた男たちは死んだ仲間を引きずって逃げたが自分は動けなかった。
 こんなところで死にたくない。
 男は激しく渇望した。
 まだ死ねない、仇を討つために。
 そのとき女が二人通りかかった。
 美しい女だった。人にあらざる美貌だった。
『お前、このままでは死ぬぞ』
 だから言った。死んでも……生きる。俺を生かせ……!
 そして──。
 男は腹のさらしを解いた。醜い傷口が見えた。だが血は出ていない。
 手首で脈をとり、指先を首筋に当てて血の流れを探り、知った。
 自分は死んでいると。死んだまま生きていると。
「俺は──」
 声はしゃがれて聞き取りにくい。
 寝台には一本の長剣がたてかけてあった。
 男は寝台から降りると床に落ちた布をとって体に巻き付け、剣を持って部屋の扉を開けた。

 内庭で茶を飲んでいた陽湖は、二の部屋からのそりと出てきた男に気づいて顔を向けた。
「それ以上外に出ない方がいいぞ、七星」
 男は鋭い目つきで陽湖を見返し、屋根の陰の中に佇んだ。
「お前は生きる死者だ。私が僵キヨウ尸シ の術を使ったのだ。その体は死んでいる。腐敗は私の術で止めているが、日光に当たるとその部分の術が解ける」
「……」
 男は自分の右手を屋根の陰から日差しの中に差し出した。すると日に当たった部分がわずかに変色する。
「わかったら少し待っていろ、七星」
「七星……俺の名か」
 その言葉に陽湖は眉をひそめた。
「そうだ、お前はそう名乗ったぞ」
「七星……」
 男はもう一度呟き、自分の胸を押さえた。まるで名をそこに彫り込むように。
「衣服をまとっている部分は大丈夫なのだがな……銀流、あれを」
 呼ぶ声に応えて銀流が桶を持って現れた。中には黒い液体が入っている。
「防腐用の薬剤だ。手を浸せ」
 言われるままに七星は自分の手を浸す。液剤の色は黒かったが、手を持ち上げると染まってはいなかった。銀流は自分の手を薬剤にいれ、それで男の顔や首に塗りつける。
「毎朝これを手と顔に塗るといい。衣服から出ている部分だ」
 薬剤の桶を持って下がった銀流が、今度は衣服を持って出てきた。
「お前の着ていた服だ。着替えろ。そうしたらお前のことを聞かせてもらおう」
 七星は自分が目覚めた二の部屋に戻り、衣服を身につけた。
 黒い筒袖の上着に同色の筒型の下衣を穿く。靴は膝までの長靴だった。首も立ち襟で詰まっている。腹の部分の刃物で刺された箇所は繕ってあった。
 革の胸当てもあった。けっこう傷だらけということは修羅場を経験しているのだろう。胸当てには赤い鷲の刻印が押されている。
 腰に革帯を巻き、長剣をたばさむ。重さがしっくりくる。自分のものなのだろう。
 自分?
 男は頭を振った。頭の中に霧がつまっているようにぼんやりする。まるで眠りの中にいるようだ。
(俺はだれだ?)
 女は自分を七星と呼んだ。自分がそう名乗ったという。ならば自分の名なのだろうが、覚えがなかった。他人の名前のような気さえする。
 剣を持っているということは武人なのだろう。武人という意味はわかるが、ではなにをしていた人間かと問われると、思い出せなかった。
(俺は襲われた……黒いやつらに)
 覆面をしていたように思う。だから顔がわからない。そして襲われた理由もわからない。
「……」
 しばらく考えていたが、なにも思いつかず、男は窓から庭を見た。美しい女が優雅に茶を飲んでいる。
 あの女が自分を救った。救った……? 命はないのに救ったと言えるのか? こんな化け物にされて救われたと言えるのだろうか。
 七星は庭に出た。手や顔に日差しが当たるが今度は変色しなかった。
「座れ」
 女は七星に命じた。その通りに体が動いて、七星は女の正面の椅子に腰を下ろした。ついしゅでできた華奢な椅子が、七星の重みにぎしりと呻く。
「私は陽湖。こちらは侍女の銀流だ。私たちは天涯山に棲む妖狐とよう。今は人の姿を借りてさとに降りている」
「主さま」
 立ったままの銀流が鋭い目で主人を睨む。それに陽湖は穏やかなまなざしを向けた。
「案ずるな。この男とて今は人ではない。我らの正体を明かしたところで問題はないだろうよ。なあ?」
 陽湖は卓に肘を置き、手の甲で顔を支えて七星を覗き込んだ。七星はその目を見つめ返した。
「陽湖、か。妖しげな術を使うからには只人ではあるまいと思ったが、化け狐だったとはな」
「さまをつけろ、人間! 貴様ごときが主さまになんと無礼なことを!」
 銀流が七星に摑みかかろうとする。それを陽湖は止めた。
「呼び捨てでかまわん。七星、お前は一度死んだ。私はお前の願いを叶え、その肉体に意志と魂を閉じ込めた。お前の心ノ臓は動いていない。お前の体には血は巡らず、今は妖気が巡っている。怪我をしても血は出ず、治りもしない。だが、腐敗が進むと肉が剝がれ落ち骨だけになるから注意しろ。あと、意志で動いているからには、お前がもう生きたくないと思えば妖気は止まり魂は体を離れる。いいな?」
「わかった」
 七星は自分の手を見た。血が巡っていない青白い手。
「味覚、聴覚、視覚、触覚、嗅覚のうち、味覚はない。そもそも食欲がないからいいだろう。とはいえ飲食をする場面も必要となるかもしれない。茶を飲んでみろ」
 七星は茶が注がれた器をとり、飲んでみた。確かに香りはするが舌の上に味は感じない。ただ湯がのどを通っただけだ。
「水分などは皮膚から自然に蒸発するだろう。食べ物はできれば避けろ。消化できないから腹の中で腐るだけだ」
「わかった」
「体は使っていけばおいおいその能力がわかる。他に聞きたいことはあるか?」
「……記憶がない」
 七星の言葉に陽湖と銀流は顔を見合わせた。
「なんだと?」
「記憶がないんだ。七星という名にも覚えがない。俺はなぜ──こんな化け物になってまで生きたいと願ったのだ?」
「おいおいおい」
 陽湖はパチンと自分の額を叩いた。
「それをお前が言うのか? 死んでも生きると言ったお前が」
「あんたの術がいい加減だったんじゃないのか?」
 カシャン、と銀流の手の中の茶器が割れる。
「若造! 一度ならず二度までも、主さまになんという口のききかたを!」
 叫んだ口は耳まで裂け、鋭い牙が剝かれた。二股に割れた舌先さえ覗かせて、銀流は七星を睨みつける。
「よせよせ、銀流。確かに私の術が甘かったのかもしれん」
 陽湖は卓の上に豊満な胸を乗せ、ぐいっと七星に顔を近づけた。
「お前はあの夜言っていた。まだ死ぬわけにはいかない、やつを見つけるまでは、と」
「やつ?」
「仇だ」
「──」
 七星は胸を押さえた。動いていないはずの心ノ臓が痛む気がしたのだ。
「かた、き……」
 その様子を陽湖は楽しげに見つめる。
「そうだ、仇だ。お前は仇を捜している。そして私も仇を捜している。お前は自分の仇を捜し、私の捜し人を見つける手伝いをしろ」
「手伝いだと?」
「お前、記憶がないということは、自分がなにをしていたか、住んでいた場所がどこかもわからぬのだろう? この家の一室を貸してやる。防腐剤も提供しよう。至れり尽くせりだ。断る理由はないな?」
「……誰を捜すのだ?」
 その質問に陽湖は軽く肩をすくめてみせる。
「わからない。四百年以上生きているやつだから名は変えているだろうな」
「人間ではないのか?」
「元は人間だったが今は我らと同じ化け物だ」
「そんなやつを……捜せるのか?」
 陽湖はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「怪異が起こればやつがその元凶だ」

 三章 高七星

 陽湖は七星を連れて町へ出た。防腐剤を塗っているとは言え、念のため手には革手袋を、鼻から首まで黒い布を巻き、つばの広い帽子をかぶらせる。濃く落ちる影の下から、七星は鋭い視線を通りに向けていた。
「どうだ、お前はこういう場所で生きていたのだろう? なにか思い出さないか?」
 陽湖は賑やかな通りを歩きながら言った。広い道の両端に二階建ての建物が建っている。たいていの建物は色とりどりの布で軒先に日よけを作り、簡素な台に商品を並べていた。呼び込みの声も賑やかで、人が大勢出入りしている。
 高級店は日よけがなく、凝った装飾の施された扉を開いて店内で売買をしていた。時折二頭立て、あるいは一頭立ての馬車が玄関前について、裕福そうな装いの人間が降りてくる。
「これはお美しい旦那さま。いかがですか? 当店では西域の珍しい絹も扱っておりますよ」
 一般店の呼び込みが陽湖に声をかける。今の陽湖は銀色の髪を頭頂でまとめ、ほうと呼ばれる長衣の上に袖なしの胴衣をまとっていた。
 房屋仲介が用意してくれた衣装の中には男物もあったので、それを着ている。不思議なことに女物を着れば絶世の美女に、男物を着ればまばゆい美男子に見えるのだ。
「衣装は間に合っているな。それより最近奇妙な出来事が起こっていないか?」
「奇妙なことですか? さあてねえ……」
 客を逃したくない呼び込みが知恵を絞ってでたらめを考えている間に、七星がするりと陽湖の横を通り過ぎた。
 小間物屋の前で商品を選んでいた娘に、人相の悪い男たちが絡んでいる。男が娘の腕をつかんだとき、七星がその男の腰を蹴り飛ばした。
「な、なにをしやがる!」
 地面に倒れた男の仲間たちがいっせいに七星を取り囲んだ。七星は四方から伸びてくる腕を素早く避けると、相手の顎、胸、首に手のひらを叩きつける。一拍おいて、三人が同時に倒れた。
 さらに七星は地面に倒れた男の背に膝を乗せ、腕をひねり上げた。
「ま、待ってくれ! わかった、悪かった、俺らの負けだ!」
 地面に伏した男が悲鳴をあげる。ミシッと肩が鳴り、男は激痛に呻いた。
「七星、そこまでだ」
 陽湖が言うと七星はあっさりと手を離して立ち上がった。
「娘さん、怪我はないか?」
 陽湖に問われ、娘は顔を真っ赤にして激しくうなずく。
「気をつけていきなさい」
「は、はい……ありがとうございます」
 微笑みかけられ、娘はうっとりと陽湖を見上げた。感動のあまり目に涙が浮かんでいる。
「七星、行くぞ」
 陽湖は七星の背を叩いた。その姿を見送った呼び込みの男は、「奇妙なことって、今以上に奇妙なことはないだろうな」と呟いた。
「お前はなにか武術をやっていたのか?」
 陽湖は帽子で陰になっている七星の顔を見上げて言った。
「わからない。体が動いていた」
「お前の打った顎、首、胸はいずれも急所だ。しかもあれははっけいの型だろう。どこで習っていたのか覚えがないか?」
「わからない」
「発勁は攻撃に気力を乗せるものだ。今のお前は妖気を乗せることになる。手加減せんと相手が死ぬぞ。もめ事は困る」
「……留意する」
 と言ったそばから七星は道を逸れ、路地へ向かった。そこでは若者が老人を殴っていた。
「おい、七星!」
 陽湖の言葉を背中で跳ね返し、七星は若者の襟首を摑んで路上へと放り投げる。
 地面に落ちていた杖を拾い上げ老人に渡す七星の背に向かって、若者が突撃した。だが、七星は振り返りもせずに長い足を後方に突き出し、彼を蹴り飛ばした。
「なにが留意するだ」
 陽湖は舌打ちした。七星はそんなふうに、通りを抜けるまでに万引きを捕まえ食い逃げに足をひっかけ、大小さまざまな悪事を消していった。
「お前はなにさまだ」
 陽湖は呆れて七星の腰を叩いた。
「そんな些事に関わっていたらあっという間に一日が過ぎるぞ」
「気がついてしまうのだから仕方がない」
「視覚も奪っておくべきだったか」
 七星に食い逃げを捕まえてもらった飯店の店主が、ぺこぺこしながら紙包みを差し出した。
「ありがとうございます、こちらは些少でございますが」
「必要ない」
 背を向ける七星に店主はぐいぐいと紙包みを押し付ける。
「お役目とは存じますが心ばかりのお礼でございます。今後もよしなに」
 陽湖は飯店の店主の肩を引いた。
「役目? これがこやつの役目だというのか?」
 店主は陽湖の美貌に目をぱちぱちさせ、七星の顔と見比べた。
「は、はあ。こちらはえいさまでございましょう?」
「衛士だと?」
「はい、この制服……、ほくけいのものでございますよね。赤い鷲は二条衛士さま。勿体ないお働きでございます」
 陽湖はそれを聞き、七星に笑いかけた。
「お前の人助けが役に立ったな。北都警府へ行くぞ」

 人に尋ねながらようやく北都警府にたどり着いた。龍京市を東西南北の四つに割り、王宮の北側の治安を担当するのが北都警府だ。
 灰色の石を積み上げたような無骨でそっけない風情の建物で、周囲もまた同じ灰色の石壁に囲まれている。あとで聞いたところによると、西域の軍城を模した最新の意匠だという。
 陽湖と七星が鉄製の扉の前に着くと、門番の衛士がさっと姿勢を正して胸に手を当てた。
「ほう、お前の顔は覚えてもらっているようだな」
「いや、このせいだろう」
 七星は胸当ての鷲の刻印に手を触れた。
「龍、鷲、犬と役職が違ってくる」
「思い出したのか?」
「警府の組織図くらいは」
 門を通り過ぎ石造りの建物内部へ入る。廊下の窓は小さく、薄暗かった。
「犬が一条衛士、町の問題をその場で取り締まるものだ。鷲は個別の事件を担当する二条衛士。殺人や汚職、不正などだ。龍はその上に立ち、鷲に仕事を割り振りする。一番偉いやつだ」
 説明しながらある部屋に入ると──七星はまったく迷わず、ためらわずにその部屋へ入った──中の人間たちが驚いた顔で立ち上がった。
「何者だ!」
 確かに顔半分を黒布で覆っていれば誰かはわからないだろう。七星は布を顎先まで引き下げた。
「なんだ、コウ七星か」
「お前が連絡もなく遅れるなんて前代未聞だ」
 七星と同じ黒い上衣に革の胸当ての男たちだ。七星の背後にいる陽湖に気づいて目をみはる。
「お前は高という家名なのだな」
 陽湖は七星に囁いた。七星はまったく無反応だ。
「高。誰だ、そちらの御仁は」
 奥に座っていた顎髭のある衛士が立ち上がった。体格のよい胸の刻印は龍。この部屋で一番地位が高い男だ。
「これは──」
 七星が言葉を考えている間に陽湖が前へ出た。
「私は医師の陽と申します。実は昨夜高七星さんが賊に襲われまして怪我をされました。そこで私の医院で手当をしておりました。まだ安静にしていなければならないのにどうしても仕事へ行くと申されますので、ここまで送ってきたところです」
 陽湖は流れるように説明し、胸に手を当てて頭を下げた。
「そうでしたか」
 龍の刻印の男も丁寧に頭を下げる。地位のある人間にしては腰が低い。
「高を救っていただきありがとうございます。私は衛士班長のジンセイと申します。それで高の怪我の程度は?」
「体の怪我はたいしたことはないのですが、頭を強く打ち、記憶が混乱しています。昔のことがよく思い出せないようなのです」
「それは──」
 衛士班長はさすがに動揺した顔で部下を見た。
「しかし、警府のことは覚えていましたし、少しずつ記憶も戻っています。この症状には以前と同じことをさせるのが一番ですので、最近までしていた仕事をさせてください。それに彼を襲った犯人も、担当していた事件と関係があるかもしれません」
 ううむ、と仁勢は刈り込んだ顎髭をざらりと触った。
「わかりました。記憶のない部分はこちらで補佐しましょう」
「ありがとうございます。では七星さん、私はこれで」
 陽湖はにっこりと微笑みを浮かべ、部屋の中を見回した。衛士たちはその美しい笑みにうっとりと見蕩れている。
「高七星。これがお前の担当していた事件だ。きんびょうえいからの報告書。お前自身はまだ報告書を仕上げていないからこれしかない」
 同僚の男が七星に書類を渡した。七星はそれを受け取り、立ったまま頁をめくった。

「高七星」
 七星が警府を出ると陽湖の声が聞こえた。振り向いても誰もいない。
「そのまま歩け。私は風で声を届けている。じきに合流する」
 七星は歩調を変えずに歩いた。通りを回ると陽湖が飯店のテラスに座っているのが見えた。
 陽湖は七星にひらひらと手を振ってくる。今度は女の姿で、髪を複雑な形に結い上げていた。薄物の袍のたもとは僅かな空気の揺れにあわせてふわりとなびく。
 七星は無視して通り過ぎたが、一瞬後には陽湖が隣に現れた。
「あんたは息をするように噓をつくな、陽湖」
 七星の第一声がそれだったので陽湖は思わず笑った。
「お前の手当をしたのは本当だし、記憶がないのも本当だろう?」
「医師が妖怪で患者が化け物だという以外はな」
 陽湖は後ろで手を組み、帽子の陰の七星を覗き込んだ。
「なにか思い出したか、高七星」
「担当していた事件がわかった」
 七星は風を切るように早足だったが、陽湖は少しも遅れていない。
「記憶か?」
「いや、記録があった」
「なるほど。人はなんでも残すからな」
 七星は懐から小さな帳面を取り出した。そこに筆でなにか書き付けてある。
「俺は王宮の侍女が死んだ事件を追っていたようだ。続けて二人、いずれも毒で死んだという。これは王宮の警府、錦廟衛府からの報告書だ」
「ほう。王宮内の」
「死んだのは第二妃の侍女で、第二妃は自分の暗殺を疑っているらしい」
「暗殺される理由があるのか?」
 七星は帳面に視線を落とす。
「第二妃は賀国の出で男児を産んでいる。そのため女児しか産んでない正皇后やその取り巻きから憎まれている」
「なるほど、世継ぎ問題か。賀国というのはどんな国だ?」
「薬学や医学が発達した国だ」
 今度は見ないで答えた。その知識は七星の頭の中にあるものらしい。
「薬学か……」
「そこでは王族もみな一流の薬師だ」
 第二妃の息子が世継ぎとなれば、他国出身の妃が太皇后となる。賀国との結びつきも強くなるだろう。
 それは他の国や、龍国の保守派の望むところではない。
 国王はまだ正式に第二妃の息子を世継ぎにする声明を出していない。王宮内の派閥争いを調整しているのだろう。
 そして王は今回の毒殺事件に強い関心を持っている。王宮内の探索組織、錦廟衛府では事件が解決できなかったので(いまだに捜査は継続中だ)、警府の中でも優秀なものに探索を命じた。それに選ばれたのが七星だった。
「ほう、お前はそれほど優秀なのか」
「よくわからん」
 からかうような陽湖に七星は興味なげに答えた。
「俺は検視官とともに毒を調べていたらしい。毒の特定が難しく、それだけでも時間がかかっている。しかしその検視官は死んでしまった」
「死んだ?」
「殺されたのだ。二日前の朝、暴漢に襲われて刺殺された」
 七星はそう言いながら警府でのことを思い出していた。彼に検視官の死を教えた同僚は、ただうなずいた七星に険のある目を向けてきた。
『検視官はお前の友人だったのだろう? 悲しくはないのか。それも忘れたのか』
『俺の友人?』
『相変わらず冷たい男だ』
 そう言って背を向けた同僚の肩を七星は摑んだ。
『相変わらず、と言ったな。俺はそんな人間だったのか?』
 真面目に問う七星に、同僚は頰をひきつらせ、手を振り払った。
『ああ、そうだよ。お前は目的のためには手段を選ばず、俺たちの手柄も横取りし、付け届けも賄賂も平気で手にする。冷たく非道な男だ!』
 同僚の大声は部屋の中をしん、とさせた。七星が見回すとみんなわざとらしく顔をそむける。衛士班長の仁勢が立ち上がった。
『高七星。確かにお前には注意をしなければならんようなこともある。だが、捜査に対しては優秀な男だ。いくつもの事件を解決している。記憶を失くしているというのなら初心に戻り、後ろ指をさされない仕事をしろ』
 七星は陽湖に顔を向けた。
「俺はどうやら心の冷たい悪徳衛士というものだったらしい。それに友人だったという検視官の死を聞いても心が動かない。これは俺がそういう冷酷な人間だからか? それとも僵尸になったからか?」
「ふむ……」
 陽湖はきれいに塗られた爪で唇の下を撫でた。
「まあ記憶がないという理由もあるが、実は僵尸は強い感情を持ってはいけないのでな、私が抑制している。心が動くと術が破れて死体に戻ってしまうのだ」
 陽湖は袍の胸元──豊満な胸の谷間──からくるをひとつ取り出した。
「この中にお前の感情を封印している。これを割ればお前は感情を取り戻し、死体に戻って永遠に休むことができる」
 陽湖から胡桃を手渡された七星は、それを手の上で転がしてみた。胡桃はずっしりと重い。
「割ってみるか?」
 七星は首を振って胡桃を陽湖へ返す。
「俺は記憶を取り戻し、仇を捜さねばならんのだろう? それまでは預かっておいてくれ」
「承知した」
 陽湖は赤い唇を開けるとそれをぱくりと飲み込む。近くを通り過ぎた男が仰天の目でそれを見ていた。とても口には入らなそうな大きさだったからだ。陽湖の白いのどがごくりと動き、すぐに元の白鳥のような首に戻った。
「しかし、元のお前が冷たい人間だというのは町中でのことを見ていると信じられないな」
 陽湖は首をかしげた。その彼女を追い越し、七星はまた弱いものいじめをしている人間を取り押さえている。
「うっとうしいほど熱い人間ではないか」
 陽湖は軽くため息をつき、七星がやり過ぎないように注意しに向かった。

  *

続きは8月1日ごろ発売の『陽湖幻燈記 婀娜白狐は悪女となりて』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
霜月りつ(しもつき・りつ)
富山県生まれ。『神様の子守はじめました。』シリーズ(コスミック出版)、『妓楼の龍は客をとらない』シリーズ(小学館キャラブン!)、『神様の用心棒』シリーズ(マイナビ出版)、『明日、世界(キミ)が消える前に』『百華後宮鬼譚』シリーズ(全てポプラ社)などを手掛ける。コミカライズも多数。SF、ミステリ、ホラー好き。カレーは粉から作る派。

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