ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 試し読み一覧
  3. 雪代教授の怪異学 魔を視る青年と六角屋敷の謎
  4. 雪代教授の怪異学 魔を視る青年と六角屋敷の謎

雪代教授の怪異学 魔を視る青年と六角屋敷の謎

 黒い夏のうたかた③

 五年前のひどく蒸し暑い七月、しいは中学二年生だった──。

「はじめまして。わたしはゆきしろそうといいます」
 子ども相手にもかかわらず、そのひとは丁寧な口調で話しかけてきた。
「椎奈くんのお母さまに頼まれて来ました。どうぞよろしくお願いします」
 優しく、穏やかで、けれど、どこか冷たい声をしていた。この声で「ビルの屋上から飛びおりなさい」とささやかれれば、心が弱っている者なら実行してしまいそうだ、と、なぜかそんなことを椎奈は思った。
「すみません。ノックをしても返事がなかったものですから、入室許可をいただいたものと判断しました。それにしてもこの部屋は暑いですね。窓を開けませんか? 熱中症になったらたいへんだ」
 椎奈が返事をしないと、相手もまた口を閉ざし、沈黙が生まれた。
 そこは椎奈の自室だった。遮しや光こうカーテンを閉めきり、冷房もつけず、物が散乱していた。洗濯していない衣類に、中身の残ったペットボトル。粘着テープで覆われた鏡。破られたアイドルのポスター。
 かすかにセミの鳴き声が聞こえていた。
 そんな部屋の片隅で、椎奈は汗に濡れながら、折り曲げた膝に顔を埋め、まぶたをきつく閉じて小さくなっていた。
 そのひとの顔を見たくなかった。だれの顔も見るわけにはいかなかった。
 椎奈が自分自身を部屋に閉じこめて、すでに二週間が経過していた。
 ふいに衣擦れの音がした。そのひとが近づいて来るのを察して、全身に力がこもった。そのひとからはシナモンのような香りがした。
「そう身構えないでください。わたしはこういうこと、、、、、、に関して少々くわしい家に生まれました。ですから椎奈くんのお力になれると思うのです」
 こういうこと? と、椎奈が心のなかでくり返すと、まるでそれが聞こえたかのように、彼は答えた。
「ケガレを浄化したり。ぎょうのモノをはらったり。およそ非科学的なやつですよ」
 汗が噴き出た。ケガレ? イギョウノモノ? なにを言っているのだろう……?
 そのひとが「椎奈くん」と呼びかけてきた。
 優しく、穏やかで、けれど、どこか冷たいその声で。
「わたしに、あなたを助けさせていただけませんか?」

 ネット記事より引用(一年前の六月一五日)

 14日午前7時ごろ、神奈川県S市のW川沿いを歩いていた男性から「ひとのようなものが浮いている」と警察に通報があった。T警察署の署員が現場に向かったところ身元不明の男性の遺体が発見された。遺体ははいが進んでおり、首に紐のようなもので絞められた痕が残っていた。所持品はなく、署は身元の特定を急いでいる。
 男性は身長約170センチ。やせ型で、グレイの上着に紺色のジーンズを着用していた。

 左目の世界

『──レポートの提出期限は九日の一七時までなので忘れないように。以上』
 一・五倍速で視聴した『宣伝文研究①』のオンデマンド講義がおわり、椎奈はぐっと伸びをする。その直後にくしゃみが出て、腰かけていたイスが、ぎっ、と音を立てた。
 かすかに左目が痛み、椎奈はまぶたをこする。
 文学部棟三階にあるコンピュータールームBは四〇台のパソコンが用意されているものの、現在の利用者は自分を含めても七人だけだった。
 前方のホワイトボードに記された予定表によれば、この教室は午後から中国語の授業で使われるようだ。ボードの下のほうにだれかが残した“かわいいコックさん”の落書きがある。
 壁の時計を見あげると一一時二〇分だった。椎奈はリュックにルーズリーフとペンをしまい、パソコンの電源を落とす。忘れ物がないかをチェックして、ホワイトボードの前へ移動した。ポケットからスマートフォンを出し、どことなく愛あい嬌きようのある“かわいいコックさん”を写真に収める。
 そうして一度、室内をふり返った。いつの間にか利用者の数が五人に減っていた。それとともに左目の痛みも消えている。
 コックさんの写真をSNSに投稿し、コンピュータールームをあとにする。

「ユキ先生、お昼食べました?」
 ノックに返事がないのはいつものこと、研究室のドアを開くと雪代宗司がデスクに突っ伏して寝ていた。柄ものの派手なシャツを着ている。今年で三九歳ということだけれど、髪はすでに真っ白だ。
 かたわらの灰皿に細身のタバコが置いてあって、薄青い煙とともに、シナモンに似た香りをただよわせていた。実際にはタバコの葉を巻いたものではないらしいけれど、ではなんなのかと訊かれても椎奈には答えられない。
 知っているのは、この煙には余計なモノを分散させる効果がある、ということだけだ。しめ縄がその内側を聖域化して不浄のモノを拒むように、煙の届く範囲を結界とすることができる、とかなんとか。宗司はじゃ祓いのこうと呼んでいる。
 しかし大学構内は全館禁煙だ。警報機が鳴りかねない。
 椎奈はため息をつき、香の火を消した。窓を開け、煙を追い出すように手のひらで空気をかき混ぜる。そうして、改めて部屋の主を見た。
「先生、寝てていいわけ? おーい」
 近づいて肩を揺すると、宗司は「ん」と妙に艶めかしい声を漏らし、顔の向きを変えた。やむを得ず、椎奈は生協で購入したばかりのお茶のペットボトルを構える。
「食らうがいい」
 シャツからむき出しになっている白い首筋に、冷えたそれを押しつけた。
「……冷たい」
 宗司はむっくりと体を起こした。まつげが長く、細面でくちびるが薄い。頰にくっきりと線を残した間の抜けた顔で、こちらを見て、まばたきをふたつ。
「寝ていません」
「なんで一瞬でバレる噓つくの」
 宗司はデスクに置いていたメガネをかけ、大きなあくびをした。とがった喉仏に骨ばった手首。左の薬指に結婚指輪をはめている。
 宗司の妻は一〇年以上前に亡くなったと聞いていた。写真で見ただけで、会ったことはない。どんなひとだったのかを訊ねたことならある。「歯磨き粉のチューブを最後まで上手に使い切るひとでしたよ」と、そのとき彼は微笑んでいた。ふたりのあいだに子どもはいない。
「もしかして原稿あがってなかったりします?」
 室内は雑然としている。棚はぎっしりと書籍や紙の束で埋まり、隙間もない。棚に収まらなかったぶんは床に積みあげられていた。デスクの上も作業するための空間がかろうじて確保されているだけで、混沌としている。ウェットティッシュ、分厚い辞書類、空のペットボトル、ボイスレコーダー、固定電話、お菓子の箱……。
 椎奈は背中からおろしたリュックをイスの背面に引っかけた。
「いえ、今朝仕上げまひぃふぁ」顔からはみ出しそうなあくびをもうひとつして、宗司はデスクトップPCを指さす。「原稿はそちらに」
 雪代宗司は大学文学部の客員教授であると同時に、ゆきしろゆうがおの筆名で活動する幻想文学作家でもある。りょうてきで美しい夕顔の作風には固定ファンが多い。狂信的な読者は『ゆきもり』と呼ばれていた。
「その感じだと昼どころか朝も食べてないでしょ? 適当に買ってきたんで、燃料補給してください」
 食べ物の入った手提げのバッグをデスクの脇に置く。すぐそばに、先週刊行されたばかりの夕顔の献本が積みあげられていた。『花にずい』とタイトルが入った表紙には骨格標本にも似た花の絵が描かれている。
 宗司は両手でつくったピースサインを顔の前で交差させた。
「#はらぺこ#感謝感激あめあられ
 ほら貝でも吹くようにチョココロネに食いつく姿を横目に、椎奈はPCの前へ移動した。無造作に置いてあった四〇〇字詰め原稿用紙の束を取りあげる。
 雪白夕顔の原稿は基本的にすべて手書きだ。それをテキストデータに入力することが椎奈の役目だった。このバイトは大学入学前からつづけている。本来は印刷所や編集部の仕事のはずだけど、こればかりはほかのひとに任せられない事情がある。一日あたり一万円のバイト代が出るので不満はない。
 原稿用紙に記された筆跡は全体的に右上がりで鋭かった。訂正記号や、崩されてつながったひらがななど、以前は解読が困難だったけど、いまはもう慣れた。
 一枚目にマスから飛びだすように「悲鳴のたまご」とタイトルが書きつけられている。少し離れたところに、こちらはやや遠慮するように雪白夕顔と筆名が記されていた。最終ページの左上に『46』とある。四六枚という意味だ。
 ぱらぱら原稿用紙をめくって内容をたしかめる。
 それはパートナーの生首と生活する女性の物語だった。昼間は食品メーカーで黙々と働き、帰宅すると生首と睦むつ言ごとをささやき合う。切断された恋人の頭部は生きていないはずなのに意識があり、ふつうに会話ができる。彼女が与えれば食事もする。ただし、体がないので食べ物は喉からぼとぼとこぼれ落ちてしまう。女性はそれをかいがいしく始末する。これは彼女にだけ見えている歪んだ世界なのか、それとも本当に生首がしゃべっているのか……。
 ふいに──椎奈の左目が熱を帯びる。
「つっ」
 宗司の手書きの文字が小刻みに振動していた。
 まるで原稿用紙から逃げだそうとするかのように。
『ひ』の文字がねじれる。
      『顔』のバランスが崩れる。
  『の』の末端がだらしなく緩む。
 原稿用紙から虫がわくように文字が這い出てくる。指を伝って移動し、皮膚に食いつき、椎奈の内部へ潜りこもうとしてくる。侵食しようとする。文字が文字が文字がインクが黒い文字が黒い黒い墨の様な黒黒黒い文字字字字字黒黒々黒黒墨黒墨──。
 両目を閉じ、世界を強制的にシャットダウンする。深く息を吸い、再起動。
 まぶたを開くと、文字は原稿用紙のなかに行儀よく収まっていた。
「これ、タイムリミットはいつです?」
「今日中にお願いしたいところです。予定は大丈夫でしょうか?」
「オーケー。問題なし。さっそく取りかかるよ」
 収納されていたキーボードを設置し、文章ソフトを起ちあげる。かたわらに自分のぶんのサンドイッチとペットボトル、スマートフォンを置いた。いくつかメッセージが届いている。先ほどの“かわいいコックさん”の写真には三件の『いいね』がついていた。たまごサンドをふた口で平らげ、炭酸飲料のふたをひねると小気味のいい音がする。口をつけると、ぷつぷつとした刺激が喉に快い。ふう、と息をつき、作業を開始した。室内にキーボードの音が響く。
 少しして宗司が口を開いた。
「乾いていない絵の具のようですね」
 ディスプレイから顔をあげると、宗司が窓から五月の空を眺めていた。中身が半分ほどに減ったペットボトルを、ぽちゃぽちゃともてあそんでいる。
「いまにも青が滴ってきそうだ。でも、ちょっと健全すぎますかね」
 こちらの視線に気づいたらしく、宗司は笑みを浮かべる。五年前からこのひとは少しも変わらないな、と椎奈は思った。あるいはもっと前から、雪代宗司の時間は止まっているのかもしれない。
「ユキ先生、口のとこチョコついてますよ。小さな子どもじゃないんですから」
 指摘すると、宗司はティッシュを一枚手にしていそいそと口のまわりを拭った。
「そういえば、ご存じですか? いずみきょうはひどい偏食家だったんですよ。チョコレートは蛇の味がするから嫌だと言ったとか」
「逆に蛇は食べたことあるのか」
「どうでしょう。『蛇くひ』という作品を書いていますが、鏡花自身は食べ物を極端に恐れていましたからね。細菌感染が怖かったようで刺身は食べませんでした。銀座木村家のあんぱんが好物でしたが、必ず火であぶっていましたし、海老は死体をエサにしていると言って口にもしなかったとか」
「やばいね、泉鏡花」
「ええ。彼は病的な潔癖症でした。食事は生きることに直結しています。なのに、それを恐れていたというのは非常に危うい」
 宗司はバッグから新たにメロンパンを取り出し、袋を破る。
「でもそんな鏡花だったからこそ、その奇想はいまだせずに美しいのです。きっと彼の目には、ふつうのひとびとの食事風景こそ不気味に映っていたことでしょう」
 白髪の文学者はその危うさをうらやむような口調で言うと、メロンパンにかじりついた。うっとりと目を細め、「しょぎょうじょうの味がします」などとのたまう。どんな味だ、と椎奈は思った。

 一日の授業がおわって、ひとり暮らしのマンションに帰ってきたときには一九時を過ぎていた。最寄り駅から徒歩一五分、鉄筋コンクリートの五階建てで、洋室八畳1K、バストイレ別。その三〇三号室が椎奈の部屋だ。
 かかとを踏んでスニーカーを脱ぎ、そのまま靴下も脱いで、窓を開けに行く。網戸にすると気持ちのいい風が吹きこんできた。洗面所に移動し、靴下は洗濯機のなかへ。生ぬるい水で手洗いをすませ、うがいをし、顔も洗う。
 体を起こすと鏡のなかの自分と目が合った。濡れて束になった前髪が額に張りついている。やや前傾姿勢になりながら左目の下に人差し指をあて、あかんべえをするように引っ張ってみた。白目の部分が少し充血している。
 右の瞳は一般的な焦げ茶だ。しかし、左の虹彩はかすかに緑がかっている。
 五年前にこうなった。
 もっとも、よく見なければ、だれも気づかない程度の差異だ。コンタクトレンズを入れて隠すほどのこともない。
 ただ厄介なことに、この左目はときどき生きていないモノを【視】てしまう。左目に伴う熱と痛みでそれとわかる。昼間、コンピュータールームでもそうだった。あのとき室内にいた少なくともひとりは生者ではない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 使い古されたフィクションの設定みたいだと思うけれど、自分ではどうにもできないことなので、あきらめて受け入れている。
 キッチンへ移動して、冷蔵庫から出した牛乳をグラスにそそぎ、飲み干す。息をつき、リュックにしまっていた雪白夕顔の直筆原稿を取り出した。テキスト入力をおえた「悲鳴のたまご」だ。それを用意した深鍋に押しこみ、ライターで火をつける。過激な雪守がこれを見たら、自分を殺そうとするに違いない。
 原稿用紙はまたたく間に燃えあがり、椎奈は換気扇のスイッチを入れた。
 瞬間、鍋から黒い腕が伸びてくる。左目に映るそれは大量の文字の寄り集まりだ。その黒々とした指先が命を欲するように首をつかんでくる──が、実際に触れられることはなかった。その手には現実的な質量がなく、椎奈の肌に接触すると同時に黒い煙と化して霧散する。
 宗司の愛用する万年筆にじゅうてんされているそれは一般的な染料インクや顔料インクではない。死してなお染みだす悪意。呪わしいほどの害意。怨念。執念。妄念。
 本来、目ではとらえられないそれらを実体化し、濃縮したもの──。
 ケガレだ。

 かつて雪代の一族は異形のモノを浄化することを生業としていた。ケガレを用いてきよめのことばを紡ぐ独自の儀式は《ゆきはらえしき》と呼ばれた。
 怪異とはカビのようなものなのだという。表面を拭き取って一見きれいになったとしても、深く潜りこんだ菌は生きつづけ、何度でも表に出てくる。
 そのたびに、ただひたすら祈る。平穏を。平安を。ひとと異形の。願い、とむらう。
 けれど時代を下るうちに需要と供給のバランスは崩れ、雪代家は衰退の一途をたどった。怪異が存在しなくなったわけではない。ひとびとがその実在性を否認することで『無い』ことにされたのだ。家業が傾いていくなか、逝祓式の正統な手順も失われてしまった。
 雪代のまつえいである宗司もまたケガレを用いて物語をつづる。たとえ不完全な儀式であろうとも、哀悼の意をこめて記された一文字一文字は万の祈りに等しい。
 しかしそれは、供養を目的としていながら、同時に、呪いの複製と拡散にもひと役買っている。ケガレによって紡がれた物語は必ず異様なまがまがしさを帯びた。最終的に読者に届くものが印刷された大量生産品であったとしても、夕顔の作品が持つ特異性はそのことと無縁ではない。
 そのため夕顔の直筆原稿をひと目にさらすことは避けなければならなかった。耐性のない者が直接読めば、悪意がもうまくに焼きつき、妄念は視神経を通じて脳を侵してしまうだろう。体調を崩すくらいであればまだましで、最悪、命に関わる。
 したがって焼却処分は必須の作業だった。
 原稿用紙が灰と化したことを確認して、椎奈は鍋にふたをする。これでよし、とつぶやき、夕飯を用意するために冷蔵庫を覗いた。賞味期限切れの納豆とキムチがあったので、今日は納豆キムチパスタにしようと思う。
 このような非日常が星那多大学文学部一年、宇佐見椎奈の日常である。

 黒い夏のうたかた①

 S海岸の幽霊洞窟といえば、椎奈の地元では有名な心霊スポットだ。
 深夜に訪れると赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
 海で溺れている子どもを助けようとすれば引きずりこまれる。
 近くで写真を撮ると顔が歪む、あるいは不気味なモノが写りこむ。
 浜辺でバーベキューを試みれば、食材が異常な速さで腐敗する。
 しばしば奇形の魚が釣れる、もしくは魚が幼児の声を発する。
 貝殻を拾ってはいけない、なぜならそれは人骨であるから……。
 そういった怪談には事欠かない。
 S海岸自体は地元民に愛されるメジャーなスポットだ。夏は海水浴場となり、観光協会主催の花火大会が毎年盛大に開かれる。岩場では磯遊びができ、多くの家族連れでにぎわう。
 そんな場所に幽霊洞窟は、ある。
 地形の関係から、かつて周辺の海面水位は現在よりも高かったと言われている。満潮になると洞窟は水没し、海藻や流木などの浮遊物が流れこんだ。ふしぎなことに、いったん洞窟に入りこんだ物は二度と外へ出てくることがなかった。岩に引っかかって出てこない、という意味ではない。洞窟内部から跡形もなく消えてしまうのだ。
 戦前、戦中、S海岸付近では幼い子どもの失踪が相次いだという。
 当時のひとびとはそれを『洞窟に食われた』と言って恐れた。
 洞窟の奥には人智を超えたなにか、、、が棲みついていて、それ、、が好んで子どもたちをのみこんでいるのではないか……と。

 五年前の夏、椎奈は陸上部の友人らと噂の幽霊洞窟へ肝試しに行った。参加者は自分を含めて五人だった。
 洞窟は岩場の奥にあって、ギザギザした開口部は巨大な怪物の口を思わせた。高さは椎奈の背より少し低いくらいか。立ち入りを禁じる立て札があったものの、それは好奇心をあおるだけで抑止の効果はなかった。
 ひとりずつ入り、奥まで行った証拠に写真を撮ってもどってくるとルールを定め、じゃんけんで順番を決めた。椎奈はいちばん最後となった。
 ひとり目はおよそ五分後にもどってきた。残っていた四人で彼を囲み、なかの様子を訊ね、健闘をたたえた。ふたり目もやはり五分ほどで出てきた。三人目、四人目と同じことがくり返され、やがて椎奈の番がまわってきた。
 椎奈はスマートフォンのライトで足もとを照らしながら前進した。外の暑さから一転して洞窟のなかは涼しく、海藻の腐敗臭が立ちこめていた。そこに混じる、ねっとりと甘い、果物のようなにおい。ごつごつした足もとの至るところに水がたまり、びょうびょうと風の音が響いていた。
 奥へ行くほど天井が低くなり、椎奈は頭をぶつけないよう気をつけて歩いた。

 やがてたどり着いた洞窟の最奥部は、そこだけ広々としており、大量の赤い花が咲いていた。品種はわからない。日の差さないこんな場所にも花は咲くのだなと妙に感心してしまった。果物のようなにおいはその花が放っているようだ。
 それら赤い花に埋もれるように、いくつものこけしとかざぐるまが並べられていた。こけしはどれも顔がはげていた。だんごを供えた皿が置かれていたので、関係者がお参りに訪れる習慣は残っているようだった。
 椎奈はその場で二枚の写真を撮った。一枚目は赤い花々に囲まれたこけしと風車の、二枚目はそれらをバックにした自撮り写真だ。その場で確認したところ幸か不幸か心霊写真にはなっていなかった。マヌケな顔で笑う自分が写っているだけ。
 来た道を引き返し、みんなと合流したあと近くのコンビニへ移動した。
 アイスをかじりながら洞窟で撮影した写真を順番に披露していった。
 ひとり目、ふたり目、三人目と写真を見ていくうち、椎奈はふと疑問に思った。
「なあ、なんで、だれもこけし撮ってねえの? 風車とか花も」
 友人たちはふしぎそうに椎奈を見た。
「ウサ、なに言ってんの?」
「え、なにが?」
「いや、だって、こけしなんてなかったし」
 一瞬、あたりが暗くなった。太陽が雲に隠れたのだ。すぐさま雲が流れて、また明るくなった。全員で自分をからかっているのかと、椎奈は笑った。
 でも、その笑いにつづく者はいなかった。
「そっちこそなに言ってんだよ。ほら写真にもちゃんと──」
 証拠を見せようと、スマートフォンのフォトフォルダを開いた。
「あれ……ちょっと待て、なんでだ。おかしい」
 写真そのものは二枚とも残っていた。けれど、そこにはこけしも風車も花も写っていなかった。それだけではない。写真のなかの自分が、なんだか少し、笑いすぎているように見えた。自然な笑みではなく、どこか作為的な……。
 ここに写っているのは、本当に自分だろうか?
 なぜかそんなことを思い、じくり、と瞳の奥が痛んだ。

 KWAIDAN

 月曜一時限目の授業がおわり、文学部棟を出ると空が青かった。重なった枝葉の隙間から光がこぼれ、足もとで小魚のように躍っている。
 六月になってから、ぐっと暖かくなり、油断すると少し暑いくらいだ。
 椎奈はスマートフォンを確認する。今朝SNSにあげた写真に『いいね』が五件ついていた。フライパンの上でたまごを割ったら黄身が双子だったので、とっさに写真に残したのだ。スマートフォンをにぎったまま、ぐっと伸びをする──と。
「手をあげろ」
 突然腰のあたりになにかを押しつけられた。
「すでにあげてるんですが」
「命が惜しけりゃ有り金置いてとっとと失せな」
「いや、なにしてんですか、みずいしさん」
 ふり返ると、水石あらが指でつくったピストルをこちらに向けていた。
「なんだよー。おもしろいこと言えよー」
「無茶ぶり」
 彼女は教育学部に在籍する二年生だ。目尻のとがった猫目が印象的で、ショートボブの髪を明るいオレンジブラウンに染めている。左耳に星のピアスをふたつ、右耳にチェーンのピアスをつけていた。ゆったりとしたシルエットのパーカーにダメージ加工されたショートパンツを合わせ、黒のリュックを背負っている。一七二センチの椎奈より五センチほど身長が低い。
「ところでウサくん、このあと授業ある? わたし、カフェテリアに行こうと思ってたんだけど、いっしょにどう? おごられてあげる」
「ナチュラルにたかってきたぞ、このひと」
 などと言いつつも二時限目はあいていたので、お供することにした。
「ウサくんってきょうだいいるんだっけ?」
 並んで歩きだすと、綺晶が訊ねてきた。
「うちはひとりですけど、なんでですか?」
「ほら、こないだの勉強会のとき、キッズから絶大な支持を受けてたからさ。ウサくんウサくん呼ばれて、慕われてたじゃん」
 勉強会というのは、星那多大公認のボランティアサークル『なごみ』がおこなっている学習支援のことだ。不登校傾向の小中学生や日本語を母語としない子どもたちといっしょに勉強したり遊んだりしている。
「ウサくん、絵うまいんだね」
「いや、そういうわけでもないんですけど」
 その日初参加だった椎奈は、彼らの気を引こうとして『ドラゴンボール』のイラストを披露した。それが思いのほかウケて、子どもたちに取り囲まれたのだけれど、リクエストをもらっても、うまく描けるのは幼いころからくり返し模写した同じポーズのそんくうとピッコロだけなので、それ以外の絵はどれも冴えなかった。
 なごみでは勉強会のほかに、月に一回、駅前清掃活動もある。メンバーの総人数は三七名なのでサークルとしては中規模だ。
「接しかたも上手だったし、下に弟か妹がいるのかなと思ったんだけど」
 彼女は肩からずり落ちてきたリュックをぐいと背負い直した。
「あー。なんか、おれ、むかしから年下に舐められやすいんですよね。中高、陸上部だったんですけど、後輩からもふつうにウサくん呼ばわりで、いじられてましたし」
「親しみやすいってことだね」
「物は言いようですね。水石さんはきょうだいいるんでしたっけ?」
「うちは姉的な者が若干一名」
 綺晶は鼻の頭にしわを寄せ、くちびるを大げさにひん曲げてみせた。表情豊かな彼女はよく変な顔をしている。そこも魅力的だと椎奈は思う。
「なんです、仲わるいんですか?」
「わたしはやつを姉とは認めておらんのだよ。たかだか二年早く生まれたくらいでわたしの姉だなどとおこがましい。あんなやつはもんだ、破門」
「どんな権限持ってんすか」

 綺晶と出会ったのは、入学して間もない四月のはじめのことだった。
 そのとき椎奈は中庭に設置されたベンチのまわりを歩きまわっていた。気温は高すぎも低すぎもせず、乾いた風が心地よい日だったけれど、椎奈は汗だくだった。
「ねえ、きみ。ちょっといい?」
 突然の呼びかけに顔をあげると、見知らぬ女性が立っていた。とっさに、新入生目当てのサークル勧誘かと、椎奈は身構えた。それどころではないのに……。
「ひょっとして探し物してる?」
 彼女はラベンダー色のパーカーにプリーツスカートというスタイルだった。
「え、あ、はい。……スマホを落としてしまって。ほかに心当たりもないんで、このあたりだと思うんですけど」
 語学の授業で親しくなった友人とその場所で昼食をとったあと、スマートフォンがなくなっていることに気づいて、あわてて引き返してきたところだった。
「やっぱり」
 彼女は黒いスマートフォンを差し出してきた。
「これじゃない?」
「あっ! おれのスマホ!」
「そこのベンチに置きっぱなしになってたよ」
 そこ、とベンチを指さす彼女の手はパーカーの袖で半分隠れていた。
「すみません。ありがとうございます。ああ、よかった」
 受け取ったスマートフォンにはかすかに彼女の体温が残っていた。ほっとして力が抜けた椎奈は、そのまま近くのベンチに腰をおろした。
「どういたしまして。一年生?」
「あ、はい、そうです」椎奈はすぐに立ちあがり、彼女と視線を合わせた。「本当にありがとうございました」
 まっすぐ向き合うと、目のまわりがメイクで薄く色づいているのがわかった。穏やかな四月の日差しが頰の産毛を光らせ、ボリュームのあるパーカーのフードが彼女の顔を小さく見せた。
「落とし物に気づいたら、事務所で確認するといいよ。わたしも事務所に届けるところだったし」
「とっさに焦っちゃって。そっか。そうですね。事務所か」
「見つかってよかったね」
「はい。ほんと助かりました。あの、なにかお礼を」
「いいって、いいって。気にしないで。それよりこれからは気をつけ──」
 いきなり、彼女が顔を近づけてきたので、椎奈はのけぞった。
「あ……の、なにか?」
「見間違いかと思ったけど見間違いじゃない」
 そう言うと、彼女は自分の左目の下に指を当てた。焦げ茶色の瞳は湖面に光が反射するように輝き、丁寧にみがかれた爪は薬指だけラメでコーティングされていた。
「カラコン入れてたりする? 左目。ちょっと緑っぽい」
「え」心臓がひとつはねた。「と、いや……入れてない、です。自前です」
「へえ」
「よく気づきましたね。じっと見ないとわからないくらいのものなのに」
 すると、彼女は猫のように目を細めた。
「そうなの? すごくきれいだと思うけど。デヴィッド・ボウイみたい」
 そのとき、ぴんぽーん、と、バスの降車ボタンを押したときのような音が頭のなかで鳴り響いた。
 椎奈が水石綺晶に心を奪われた瞬間だった。

 とはいえ、この二カ月ほどで椎奈が行動したことといえば、彼女が所属するボランティアサークルを突き止めて、加入したくらいのもので、それ以上のアプローチはできずにいた。もちろん情報収集だけは継続的におこなっている。いや、決してストーカーなどではない。くり返すがストーカーではない。
 現在、水石綺晶に恋人はいない(重要)。姉がひとりいるらしい(新情報)。小学校の教師を夢見ている。好きな食べ物はゴーヤチャンプルーで、高校時代は軽音楽部でベースを弾いていた(椎奈はリコーダーくらいしかできない)。好きなバンドは、おとぼけビ~バ~。血液型はB(椎奈もBなので輸血が可能)。誕生日は九月九日(カーネル・サンダースと同じ)。座右の銘はふじⒶの『明日にのばせることを今日するな』。犬が好き(椎奈も犬派)。魂のバイブルは『SLAM DUNK』で、人生最高の神映画は『ギルバート・グレイプ』。
 このように水石綺晶情報を更新していく。
 更新していくだけで有効利用できていないのが現状なのだけども……。

 キャンパス内にあるカフェテリアはランチ前でも大勢の学生でにぎわっていた。
「埋まってますね。先に席だけ確保しときますか」
「せやな」
 椎奈は視線をめぐらせた。カフェテリア内の貼り紙は禁止されているのに、壁のあちこちにサークル勧誘ポスターや公演を知らせるフライヤーが貼られている。
「あ。ジウヤとつのがいる。おーい、ジウヤー、タツー」
 綺晶が声を大きくして呼びかけると、壁際の席についていたキム・ジウと陸井くがい汰角が顔をあげた。それぞれの前にはラップトップPCがある。なにか作業をしていたようだ。綺晶は「おつかれー」と彼らへ近づいていった。せっかくふたりきりだったのに……との思いを封印して、椎奈はうしろをついていく。
「ああ、水石。と、ウサ。おつかれ」
 汰角は政治経済学部の二年生で、中性的な顔立ちをした美男子だ。細身のジーンズにラフなシャツを着ていた。
 ジウは韓国からの留学生で、椎奈と同じ文学部に籍を置いている。前髪を横に流して額を出し、まるいメガネをかけていた。同じく留学生の友人と動画サイトで韓国語講座を開設していて、椎奈もときどき視聴させてもらっている。毎週土曜更新だ。
 四人は全員、なごみのメンバーだった。
 綺晶とジウは右手で狐のサインをつくり、親愛の情を示すように「うぇーい」「うぇーい」と、その口の部分をつんつんぶつけあった。え、なにそれ交ざりたい、と思ったけど顔には出さないよう努める。
「ふたり、もうランチ?」
 ジウがスマートフォンで時間を確認しながら言った。
「ウサくんにたかろうと思って。いちばん高いやつ頼んでやるんだ」
「水石さん、ふつうに最低なんで自重してください」
 でも、こんなふうにいじられて思わずにやける。そんな椎奈に汰角があきれたような視線を向けてきた。
「ウサって趣味わるいよな。どこがいいわけ?」
 この秘めたる気持ちは汰角には筒抜けらしい。綺晶本人にはまったく伝わっていないというのに……。
「語らせたらひと晩かかりますよ」
「罰ゲームの領域」
 テーブルの上にはラップトップPCのほか、紙パックのいちごミルクとアイスコーヒーのグラスも置かれていた。「ここ、いいよ」とジウがイスからバッグをどかし、そこへ綺晶が腰をおろす。汰角もリュックを移動させてくれたので、椎奈は礼を言ってすわった。
「おふたりとも、なにかの課題ですか?」
 汰角は「中国経済論のレポート」と答え、ジウは「翻訳のやつ」と言いながらテキストを見せてくれた。表紙にLafcadio Hearnという著者名と『KWAIDAN』というタイトルが記されている。
「あ、小泉こいずみ八雲やくもの『怪談』。へえ、こんな授業あったんですね」
「へるんさんか。小さいころに児童向けのやつ読んだわ」綺晶はテーブルのいちごミルクを手に取り、ちゅっ、とストローで吸った。「『耳なし芳一』とか怖いよね」
「なに勝手に飲んでやがるのか」ジウが抗議する。
「まあまあ、ほら、これでも飲んで落ちついて」
「わたしのいちごミルクだがな」
 そんなふたりのやりとりを、椎奈は生暖かい目で見守った。
 へるんさん、というのはハーンのことだ。当時、島根県のまつに赴任したHearnを「へるん」と誤って表記したことが由来で、本人もそう呼ばれることを好んだと伝えられている。
 椎奈も宗司の家で『怪談』を読んだことがあった。雪代家は大学の研究室に負けず劣らず本であふれている。巨大な地震が来たら本に潰され命を落としかねない。なので、ちゃんと片づけてください、と注意したら、宗司は「本望です」などと笑っていた。あれは高校受験の前だったか。
『怪談』には「耳なし芳一」のほか「雪おんな」「ろくろ首」「むじな」などの有名な話が収録されている。椎奈がいちばん好きなのは、「かけひき」という掌編だ。
 とある使用人が罪を犯して捕まる。彼は刑の執行直前に命乞いをするが、聞き入れられないとわかるや、死後、主人たちを呪ってやると脅す。それに対して、主人はこう提案する。その怨みが本物であるならば、首を落とされた直後に目の前にある石にかじりついて証明しろ、と。使用人は必ず実行すると誓い、斬首される。ひとびとが見守るなか、切断された首はまっすぐ飛んでいき、石にかじりつくのだが──……。
 この話はラストがふるっていると思う。落語のように美しい。
「あ、怪談で思い出したんだけど」綺晶が荒ぶるジウを無視して口を開いた。「うちの実家近くにろっかく屋敷って呼ばれてる空き家があるんだよね」
「なんだそれ」汰角は笑いながらアイスコーヒーに口をつける。「もしかして幽霊が出るとか?」
「いやそれが出るらしいんだよ」
 綺晶は胸の前で両手をだらりと垂らしてみせた。典型的な幽霊のポーズだ。汰角のほうも同じポーズを取って「ガチで?」と訊ねた。
「ご存じのとおり、わたし、神奈川出身でしょ?」
「ご存じでないが」ジウが茶々を入れる。
 おれはめちゃめちゃご存じです、と思ったけど言わないでおいた。椎奈自身も神奈川県出身だ。もっとも同じ県内でも、綺晶の地元とは北と南で離れている。六角屋敷というのは初耳だ。
わかさき市のまし区ってところ。近くと言っても、うちから自転車で一〇分以上かかるんだけどね。高校生のとき一回だけ友だちと見に行ったことがある。屋根が特徴的で、六角形になってるの。それで六角屋敷って呼ばれてるみたい」
 綺晶はオレンジブラウンの髪をぐしですく。
「一〇年くらい前に、その家の女の子が急にいなくなっちゃったんだよね。ジウヤは知らないかもだけど、当時は全国ニュースで大きく取りあげられてた。汰角とウサくんは覚えてない?」
「そういえば、あったような気がする」汰角が椎奈を見る。「ウサは?」
「すみません、おれはちょっと覚えてないです。一〇年前っていうと、おれ、小三くらいですし」
「わたしは小学四年生とか五年生だった。いなくなった子もだいたい同じくらい。三人家族だったって。その子の失踪がきっかけで、うちの学校でも一時期、放課後は集団下校になったの。先生や保護者が通学路に立ってたよ。で、警察やボランティアのひとが捜したんだけど、結局見つからなかった」
 となりのテーブルの学生たちが席を立ち、入れ替わりでべつの学生らがすわる。
「しかも不幸はつづいた。少しして女の子の母親が亡くなり、そのすぐあとに父親も死んじゃったの」
「一家、全滅」
 椎奈がつぶやいた瞬間、カフェテリア内が静寂に包まれた。
 でも、それは一瞬のことで、すぐに日常の喧騒がもどってくる。
「話はそれでおわらない。そのあと何組かの家族が入居したんだけど、みんなすぐに出ていっちゃうの。その家で暮らすと鏡が歪むとか、何度閉めてもドアが勝手に開くとか、お風呂場のすりガラスの向こうにだれか立つとか、いろいろ言われてる。極めつきは──」
 一拍置いて。
「なんと、その家に引っ越してきた小学生の女の子が、もうひとり行方不明になっちゃったんだって」
 ジウが「こわムソウオ」と顔を歪ませ、汰角も「マジか」とこぼす。
 ひとりの少女が消え、その両親までも相次いで命を落とした家。そこではくり返し不可解な現象が観測され、さらなる行方不明者を生んだ。
 いまの話が事実だとしたら、たしかにふつうではない……。
「そんな家に住みたいひとなんていないでしょ? かといって取り壊されることもなくて、空き家のまま放置されてるってわけ。ネットではそこそこ有名な心霊スポットだよ」
 そう言うと、綺晶はジウのいちごミルクを、ずごごごと音をさせて飲み切った。
このやろうインマ。勝負してやるので表出ろ、水石」
 ジウがいきり立つ。と、椎奈の背後から声がかかった。
「いまの話に聞き覚えがあります」
 ふり返ると宗司が立っていた。無数の蝶がデザインされたカラフルなシャツを着ている。派手すぎて自分だったらぜったい着こなせない、と椎奈は思った。
「あ、ユキ先生、こんにちは」
 綺晶が言い、宗司も「こんにちは」と返事をする。宗司は日替わり定食を載せたトレーを手にしていた。シュウマイとみそ汁、白いごはん。山盛りのサラダが彩りを添えている。
「先生、聞いてたんですか? 恥ずかしいなあ」
「すみません、立ち聞きするようなマネをしてしまって」
「雪白先生」汰角が席を立つ。「あの、おれ、こないだの新刊買いました」
「ああ、それはお買い上げありがとうございます」
 宗司はトレーを持ったまま頭をさげた。
「おれ、先生のファンなんです。授業は取ってないんですけど。その、迷惑でなければ、サインをいただけませんか?」
 ちらっと汰角を見やると、頰がかすかに紅潮していた。彼が雪白夕顔のファンだとは知らなかった。雪守なのかもしれない。
「ええ、もちろんです」
 汰角はイスの背に引っかけていたリュックから書店のカバーがかかった書籍とサインペンを取り出した。宗司は「ここ、よろしいですか?」と断り、直前まで汰角がすわっていた席に腰をおろす。
「お名前をうかがえますか?」
「陸井汰角といいます。陸地の井戸って書いて『陸井』で、さんずいに太いで『汰』、『角』は鹿とか牛とかのツノです。あ、でも宛名はなくてもべつに」
「陸井さんですね。めずらしいお名前ですね」
「よく『りくい』って呼ばれます」
 宗司は表紙を開き、『陸井汰角様へ 有難う御座います』とメッセージをしたためたあと、自身のサインと日付を入れた。
「ありがとうございます。大切にします」
「喜んでいただけて、わたしもうれしいです」
「やべえ。マジでやべえ」
 汰角が「やべえ、やべえ」とくり返しながら椎奈の肩にこぶしを打ちつけてくる。うれしいのはわかるけど、ふつうに痛いからやめてくれ、と思った。
『花に髄』と名づけられたその本は、ここ数年、雑誌などに掲載された短編作品を集めたものだった。夜店ですくってきた心臓を水槽で飼う話、就寝中の恋人の体と自分の体とを縫合し離れられなくしてしまう話、ひとの頭蓋骨から書籍を摘出する脳外科医の話など、意味不明な物語ばかり一〇編が収められている。すべて椎奈がテキスト入力したものなのでよく覚えている。
 単行本化にあたり、書きおろしが一話追加収録されていて、それは人体の欠損描写をすべて砂糖菓子で表現した物語だった。語り手の殺人鬼が殺めた相手は脳みそや血液のかわりに生クリームやチョコレートソース、ブルーベリージャムを垂れ流す。臓器のかわりにグミやゼリーやプリンをまき散らす。
「それで、先生、六角屋敷について、なにか知ってるんですか?」
 椎奈はタイミングをはかって訊ねた。
「ええ、はい。あ、いえ、六角屋敷と呼ばれているその家について知っているわけではないのですが、小学生の女の子が失踪したのち、ご両親も相次いでお亡くなりになったという痛ましい出来事は覚えています。一〇年ほど前のことですよね。その後、越してきた家族から新たな行方不明者が出たかどうかまでは記憶にないのですが、事実だとすればなにやら不穏ですね」
 サインに使ったペンにキャップをすると、宗司は綺晶を見やった。
「それで、水石さん」
「あ、はい」
「その建物ですが、いまも残されているのでしょうか?」
「えっとどうかな」綺晶は左斜め上を見た。「たぶん、あると思いますけど」
「そうですか」
 宗司はメガネの奥で、欠けゆく月のように目を細める。
「では水石さん、ご面倒をおかけしますが、その場所をくわしく教えていただけませんか?」

  *

続きは3月5日ごろ発売の『雪代教授の怪異学 魔を視る青年と六角屋敷の謎』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
にかいどう青(にかいどう・あお)
神奈川県出身。作品に「ふしぎ古書店」シリーズ、「SNS100物語」シリーズ、「予測不能ショートストーリーズ」シリーズ(以上講談社)、「撮影中につきおしずかに!」シリーズ、『ポー短編集 黒猫』〈原作/エドガー・アラン・ポー〉(以上ポプラ社)など。

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す