三
「そんなこと、気にしなくて良かったのに。オープンキャンパスって基本、誰でも来て大丈夫だから。受験生の妹さんや弟さんとか、家族も一緒に来てたりするし、うちの大学なんかは普段から、色んな人が出入りしてるからね」
中学生だけど工作に昔から興味があって――と必死で弁解を始めた僕に、梶謙弥は笑ってそう言うと、「だったらクラフトデザインの学科に行ってみたらいいよ。工房を公開してるから」と親切に教えてくれた。
「芸術大学って、みんな油絵を描いてるようなイメージがあるみたいだけど、学科によって全然違うからね。昔よりも分野も広くなってるし」
「ここは《映像研究会》なんですよね。映像制作を学べる学科もあるんですか」
僕のあまりに無知な質問に、梶謙弥は「もちろん」とうなずいた。
「うちのサークルのメンバーは、全員ではないけど、大体が映像学科だね。俺は一応映画専攻で、映画の撮影技術や、映像表現なんかを勉強してるんだ」
暗闇から突然声をかけられ、中学生なのにオープンキャンパスに潜り込んだことを叱られるのではないかと狼狽したが、梶謙弥は何を聞いても丁寧に答えてくれた。冬美真崇の会社のホームページの写真を見て、生真面目そうでとっつきにくい印象を持っていたが、こうして話してみると、気さくなお兄さんといった感じだ。
この雰囲気なら教えてもらえるのではないかと、僕はパソコンで再生されていた映像を指差す。
「これって、映画ですか? 僕、藤沢から来たんですけど、この海岸、江の島の近くですよね」
僕の質問に、梶謙弥は「うん。確か鵠沼海岸で、朝早くに撮ったんじゃなかったかな」とうなずいた。鵠沼海岸は小田急江ノ島線だと、片瀬江ノ島の隣の駅だ。
「何年か前に、学園祭で上映するために撮ったショートフィルムだよ」
「そうして映画を撮る時って、どういう人に出演を頼むんですか? さっき映ってたワンピースの女の人、女優さんとかじゃないですよね」
思い切ってそう尋ねた途端、梶謙弥の表情が硬くなった。
「ああ、その人は安堂さんっていって、うちのサークルの先輩だよ。俺と同じ映画専攻だけど、四回生だから就活が忙しくて、もう大学には来ていないんだ」
謙弥は目を泳がせ、早口で言った。太市と同じく、ずいぶん嘘が分かりやすいタイプのようだ。しかし、なぜ安堂篤子が大学に来ないなんて嘘をつく必要があるのだろう。しかも見ず知らずであるはずの、ただの中学生を相手に。
不審に思いながらも、これ以上、安堂篤子について踏み込んだ質問をするのは不自然だった。彼女の正体が分かっただけでも、今日のところは充分かもしれない。
あれこれ説明してもらったお礼を言って、サークル紹介のリーフレットをもらった帰り際、少しだけ気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、どうして僕が中学生だって分かったんですか」
その質問に、梶謙弥は思い出したように「ああ、そのことを話すの忘れてた」と頭を掻いた。
「君、去年OWS――オープンウォータースイミングの大会に、小学生で一人だけ出場してたでしょ。イベント会社に就職したうちのOBの手伝いで、俺も会場にいたんだよ。やたら色が白くて背が高い子だったから、印象に残ってたんだよね」
梶謙弥はそう明かすと、懐かしそうに笑った。僕はなんだか気恥ずかしくなって、ありがとうございました、と、もう一度頭を下げて研究室を出た。
共通科目棟を出たあと、また学食に行ってみようかとも思ったけれど、安堂篤子がまだいるか分からないし、あまり何度も顔を合わせると変に思われるかもしれないので、そのまま正門に向かった。
しばらくしてバス停にやってきた鎌倉駅行きのバスに乗ったところで、未夢にLINEを送ったことを思い出す。見ると既読はついていたが、メッセージの返信はなかった。ということは、未夢は安堂篤子の写真を見ても、特に何も思わなかったのだろうか。
カフェテリアで彼女を見た時はまだ確信が持てなかったけれど、映像研究会の展示で流れていた映画の中の、白いワンピース姿の安堂篤子を見て、やっぱりあの動画の中で襲われていた女の人は、彼女に間違いないと思えた。
そしてそれならば、ハピネスランドで見つかった女性の遺体は、冬美真崇のパソコンに残されていた動画とは無関係ということになるのではないだろうか。どんな目的であの動画が撮影されたのかはまだ分からないが、安堂篤子はああして生きているのだから。
今日になっても、遺体の身元が分かったというニュースは出ていない。ハピネスランドで見つかった遺体は、いったい誰のものなのか。十代から三十代の女性というだけでは、警察だって調べようがないのではないか。
遺体の正体についてああだこうだと考えているうちに、バスが鎌倉駅に到着した。ロータリーから駅に向かいながら、ふと顔を上げると、駅前の雑踏の中にこちらへ大きく手を振る、小さな体格の人物がいた。見覚えのある薄手の半袖パーカーを羽織っているが、今日はキャップは被っていない。
「海斗、遅いよ。行き違いにならないようにこっちで待ってたのに」
責めるような口調で言いながら近づいてきたのは、先ほど僕のLINEを既読無視した烏丸未夢だった。
「すぐそっちに行くってメッセージ送ったのに、見てなかったの?」
「いや、届いてないけど」
口を尖らせた未夢に、もう一度スマホを確認してから答えると、未夢は不思議そうに自分のスマホを取り出した。次の瞬間、「嘘、お母さんに送ってた」と青い顔になる。
未夢が母親にさっきのは誤送信だったとメッセージを送るのを待つ間、僕の頭の中はどうして未夢はここにいるのかという疑問でいっぱいだった。僕が今日、鎌倉芸術大学に行くということは、未夢や太市はもちろん、親にすら話していない。
ようやく落ち着いた様子の未夢に、なんでここに来たのと尋ねる。「だって、写真送ってきたじゃない」と要領を得ない答えが返ってきた。
「僕が送ったのは、女の人が写った、この画像一枚だけだよ」
「だから、鎌倉芸術大学のカフェテリアで、あの動画の女の人を見つけたって教えたかったんでしょう」
未夢はそう言うと、僕の手の中のスマホに表示された画像の、ある一点を指差した。それはテーブルの上の、食べかけのオムライスだった。
「デミグラスオムライスは神奈川県内の美味しい学食メニューの三位にランクインしたこともある人気メニューなの。知らなかったの?」
あっさりと種明かしをされて、僕は絶句した。食べかけのオムライスが写り込んだ写真一つで、そんなふうに撮影した場所を特定されてしまうとは思わなかった。
学校の先生や親が口を酸っぱくして「むやみにSNSに写真をアップするな」と注意する理由が分かった気がした。いや、もしかしたらそんなことのできる未夢が、普通ではないのかもしれないけれど。
「とりあえず、暑いからどこか涼しいところに入って話そうよ。駅から歩いて三分のところに、神奈川県内の美味しいかき氷の七位にランクインしているカフェがあるから」
やっぱり未夢が普通じゃないのだと確信しながら、僕は先に立って歩く小さな背中を追いかけた。
未夢に案内されたカフェは和風の外観で、寺の多い鎌倉の街並みに似合っていた。かき氷一杯が千円近くもするのに驚いたが、未夢は平気で注文していた。僕はそんなにおこづかいが残っていないので、抹茶アイスとオレンジジュースにする。
「それで、あの写真に写ってたのは、鎌倉芸術大学の学生なんだよね」
巨大ないちごミルクのかき氷が運ばれてきたところで、スプーンで氷の山を崩しながら未夢が尋ねた。
「うん。映像学科の四回生だって。安堂篤子っていう人だった」
そう答えた途端、未夢が目を丸くして聞き返してきた。
「安堂篤子さん!? あの『夢の箱庭にて』の?」
未夢が口にした言葉にまったく聞き覚えがなかったので、素直に「それ何?」と聞いた。未夢は「なんで知らないの?」と眉を吊り上げながらスマホを操作する。そしてこちらに画面を向けた。そこには観覧車の中でお互いを見つめ合う高校生らしい男女の画像に『夢の箱庭にて』と柔らかな字体で書かれた、映画のポスターのようなものが写し出されていた。
「『夢の箱庭にて』は、何年か前にテレビ局が主催のシナリオコンクールで優秀賞を獲った作品で、それを書いたのが当時高校生だった安堂篤子さんなの。新聞とかにも載ったけど、その時は安堂さん、髪も長かったし化粧もしてなかったし、あの動画の人だなんて全然気づかなかった。歴代最年少での受賞で、次の年にはそのシナリオが衛星放送でドラマ化までされたんだよ」
未夢は頬を赤くして早口でまくし立てる。
「恋愛ドラマにミステリーを絡めたお話で、凄く面白かったんだから。緻密なプロットに加えて伏線回収も見事で、女子高生が書いたお話とは思えないって絶賛されたの。しかも安堂篤子さんは、藤沢市出身なんだよ。藤沢南高校で、文芸部に入ってたって。私、高校は藤沢南に行こうって決めてるんだ。それで一年生から塾通ってるの。あそこ、結構偏差値高いし」
確かに、その高校は偏差値が六〇以上はあるはずだった。
あまりに未夢が熱く、滔々と語るので、僕は言葉を挟む間がなかった。かき氷の存在を思い出した未夢が、練乳のかかった大きないちごを口に運んだところで、ようやく言おうとしたことを伝える。
「うちのお姉ちゃん、藤沢南高校の卒業生だよ。今、大学一年だから、安堂篤子って人が卒業したあとに入学したんだけど、それだけ有名人だったら、何かその人のこと知ってるかも」
長い前髪の下の未夢の目が、さっきよりも大きく見開かれた。胸の辺りを握り拳で叩きながらいちごを飲み込むと、「それ早く言ってよ!」と怒ったような声を上げる。
父親が偏差値六〇以下の高校には行かせないと言っているという母親の嘘を信じ、必死で努力した姉は、藤沢市でも三本の指に入る進学校に無事合格したのだった。
安堂篤子が高校生にしてシナリオコンクールで入賞し、さらにはその作品がドラマ化されるという活躍をしているのなら、今日学食で聞いた話にも納得がいった。梶謙弥と同じく映画専攻で映像研究会に所属しているということで、大学では映画の脚本を書いているのかもしれない。
「じゃあ太市が冬美真璃さんのお兄さんのパソコンから見つけたっていうあの動画は、安堂篤子さんが脚本を書いて、自分も被害者役で出演した、ミステリー映画か何かなのかもね。見る人が見ればハピネスランドの恐怖の館で撮ったって分かるから、表には出せないんだよ。てっきり『幸せの国殺人事件』のゲームのファンが撮ったものだと思ったけど――」
話す合間に器用に素早くスプーンを動かし、かき氷を半分近くまで減らした未夢は、そこで言葉を止めた。何もない宙を見つめ、ぽかんと口を開けたあと、「待って待って、嘘でしょ――」と意味不明なことをつぶやく。
やがてその目が僕に焦点を結ぶと、未夢は上擦った声で、思いがけないことを告げた。
「『幸せの国殺人事件』の製作者の大学生――AAって、もしかして安堂篤子さんじゃない?」
四
太市と三人でハピネスランドに侵入した時に、未夢から教わったインディーゲーム『幸せの国殺人事件』は、関東の大学に通う学生だということ以外、性別も年齢も一切公表していないAAというハンドルネームの人物が製作したものだった。
遊園地が舞台のノベルゲームで、園内で起きた殺人事件の謎を解く、といった内容だということは知られているが、市場に出た本数がわずかでダウンロード販売はしておらず、幻のゲームとされているのだと未夢は話していた。シナリオが秀逸で評判になったそうだが、実際にプレイした人が少ないため、どんなゲームなのか、詳しいことは分かっていない。未夢も未だ手に入らないままなのだという。
「ゲームと映像作品の違いはあるけど、ミステリーなのは一緒だし、何よりAAって、まんま安堂篤子さんのイニシャルじゃん。そうだ。あの動画って、ゲームの中に出てくるムービーだったのかも。ノベルゲームでも、事件のシーンなんかでムービーに切り替わることって結構あるし」
僕はノベルゲームはあまりやったことがなかったが、ゲームに詳しい未夢が言うなら、そうなのかもしれない。あんなにリアルな暴行シーンを撮影できたのは、芸術大学の映画専攻の学生が、技術を駆使して撮ったからだったのだろうか。
僕は未夢に、冬美真崇と同じ会社でアルバイトをしている梶謙弥という学生が、安堂篤子の後輩なのだということを話した。
「その梶さんって人、冬美真崇さんとは中学の同級生で、ずっと付き合いがあるみたいなんだ。映像研究会に所属してるって会社のホームページで見て、あの動画のことを何か知ってるんじゃないかと思ったから、オープンキャンパスに行ってみたんだよ」
それで学食で偶然、安堂篤子を目撃したのだと、改めて彼女の写真をLINEした経緯を説明した。
「じゃあきっと、梶さんも撮影を手伝ったんだね。二人だけでは手が足りなくて、真崇さんにも声をかけたってことなのかも。元不良で喧嘩に慣れてるなら、あの犯人役もこなせそうだし」
未夢は納得した様子で大きくうなずいた。ちなみに僕が話している間に、かき氷はすっかり食べ終えていた。
犯人役の人物は体形の分かりにくいレインコートを着ていたから、あれが真崇だったと断言はできないが、未夢の推測には説得力があった。製作に関わっていたのなら、あの動画が真崇のパソコンに残されていても不思議はない。
「このこと、早く太市にも教えてあげた方がいいよね」
はっとしたように顔を上げた未夢が、スマホを操作し始める。「それは待って」と、僕は思わず未夢の手を掴んでいた。
「どうして? だって太市は真崇さんのこと、あんなに心配してたんだよ」
未夢は戸惑った様子でそう訴える。でも僕は、真崇が太市からのメッセージに応答しなくなったということが引っ掛かっていた。
「とりあえず、あの動画がフェイクらしいって分かったっていうことは、太市にも伝えよう。だけど真崇さんがこの件にどう関わっているのか、まだはっきりしたわけじゃない。それに太市は、真崇さん本人にそのことを確かめたいって言ってた」
僕は言葉を選びながら、未夢を思い留まらせようとした。冬美真崇がどういう理由で太市の連絡を無視しているのか、今の時点では不明だが、彼らが撮影のために入り込んだはずのハピネスランドでは、身元不明の女性の遺体が見つかっている。真崇がそれと無関係だと確証が得られるまでは、下手に憶測を伝えるのは良くないのではないか。
あれこれと理屈を並べたものの、未夢は納得がいかないようだ。やっぱり本心を隠したままでは、未夢を説き伏せることはできそうにない。
「僕は太市にこれ以上、真崇さんと関わってほしくないんだ」
未夢の目をまっすぐに見て、そう告げた。
「だって太市が真崇さんをあんなふうに慕っているのは、お父さんのことがあったからだと思うから。太市はあの人を、お父さんの代わりみたいに感じているんじゃないか」
その言葉を聞いた未夢は、一瞬、驚いたような顔をしたあと、苦しそうに目を伏せた。しばし無言のまま、水滴のついたグラスに視線を落としていたが、やがてぽつりと、「そうかもしれない」とつぶやいた。
太市の母親と離婚したあと、ずっと会うことがなかったという太市の実の父親が事故で亡くなったのは、六年生の冬休みのことだった。
「正月早々、栃木の父親の実家とか連れていかれてバタバタでさ。卒業式用に買ったばかりのスーツ、いきなり葬式で着るとか、タイミング悪すぎじゃね?」
三学期の始業式で、しばらくWoNにログインできなかった理由を明かした太市は、あっけらかんとした調子でそうぼやいた。その頃、僕らはまだスマホを持っていなかった。
両親が離婚したのは太市が五歳の時で、それから何年も会っていなかったからか、父親の顔をよく覚えていないのだと太市は言った。
「遺影の写真、俺が生まれる前の、若い頃のしか残ってなかったんだって。事故で損傷してるから、顔は見ない方がいいって、棺桶の窓みたいなやつ、開けさせてもらえなくて。だから父親の顔、思い出せないままなんだ」
それまで見せたことのない、心が空っぽになったような顔で、太市は打ち明けた。僕はどんな言葉をかけたらいいのか分からなかった。未夢は太市の前では涙をこぼさなかったけれど、長い前髪で隠れた目が真っ赤になっていた。
そのことがあってから、あんなにきらきらと光って、くっきりと濃く存在していた太市が、ぼんやりと薄くなっていったみたいに感じた。話す声が小さくなって、休み時間はいつもバスケ仲間と体育館に直行してたのに、教室で机に伏せて寝ているようになった。明け方までゲームをしているから、学校で起きていられないのだという。太市の母親がスクールカウンセラーに相談に行ったらしいと、未夢が自分の母親から聞き込んできて教えてくれた。
そして中学に上がり、いよいよ学校を休みがちになった太市は、五月になってからは一度も登校していない。バスケチームの練習もずっと休んでいる。WoNで遊ぶ時は、前と同じ明るい太市に戻るけれど、時々、太市は無理にそう演じているんじゃないかと感じたりもした。
このままでいいはずがない。僕は太市に教室にいてほしい。休み時間にバスケをして、大きな声で笑っていてほしかった。
でもそれは僕の勝手な思いで、太市には太市の事情がある。太市にとっては、明け方までゲームをして、家からほとんど出ない今の生活が、必要なことなのかもしれない。だから僕は太市が学校に来ない理由を聞いたことも、太市が教室にいないのが嫌だと伝えたこともなかった。
未夢と話し合った末、結局太市にはその日の晩のWoNのチャットで、あの動画の被害者にそっくりな人物を偶然見かけたこと、動画は芸術大学の学生がインディーゲームのムービーとして作った可能性があると、分かったことを隠さずに伝えた。太市に嘘はつきたくなかったし、言ってしまった方が、太市は真崇と連絡を取ることを諦めるのではと未夢が意見したからだ。
実際、未夢の言ったとおりで、芸術大学の学生が冬美真崇と同じ会社でアルバイトをしていることを話すと、太市は「なんだ、そういうことか」とほっとした声になった。
「とにかく、動画がフェイクらしいって分かっただけでもめっちゃ安心した。色々調べてくれて、ありがとな」
言いながら、太市はエルフを操作してツルハシを地面に突き立てる。今日は三人で鉱山までやってきて、鉄鉱石や黒曜石、水晶といった素材を集めていた。金髪のエルフに肉体労働は似合わないが、太市が最近手に入れた《強運のツルハシ》というアイテムは、レアな鉱石や宝石を高い確率で掘り出せるのだ。
「真崇はきっと守秘義務とかで、動画のことは話せないのかもな。ゲームって権利関係とか契約とか厳しそうだし。あんまうるさく聞かないことにするわ」
それは良い方に考えすぎではないかと思ったが、それで太市が真崇に近づかずに済むなら好都合なので、僕は黙っていた。
「『幸せの国殺人事件』のソフト、私、あれからだいぶ探してるんだけど、オークションとかにもほとんど出てないんだよね。お母さんにフリマアプリで検索してもらったら、一つだけ三万円で出品されてたけど、パッケージの画像粗いし詐欺だと思う」
未夢は無念そうに言うと、戦士が持つには小さそうな、ごく普通のツルハシを岩に打ち下ろす。岩が砕けると同時に、耐久力が低くて二十回しか使えないツルハシも壊れてしまい、未夢は道具袋から新しいツルハシを出して装備した。
「AAが安堂篤子さんだったら、ますますプレイしてみたいよ。そう言えば海斗、お姉さんに安堂さんのこと、何か聞けた?」
姉は今日は友達とカラオケに行くとかで、まだ帰っていなかった。未夢にそのことを伝えると、「今度絶対聞いておいてよ」と念を押された。
「あのゲームが手に入って、動画がゲームのムービーだって確認できたら、ハピネスランドで見つかった遺体は本当に関係ないって分かって安心できるんだけどなあ」
「でも、そうなると結局、その遺体は誰のものかって問題が残るよね」
未夢のつぶやきに、僕がそう返した時だった。
「そんなの、お前じゃなく警察が考えることじゃね?」
突き放すような冷たい言い方に、コントローラーを操作する指が止まった。ゴブリンはツルハシを振り上げたままのおかしな恰好で、岩場に立ち尽くしている。
「それはそうだけど、あの遺体が発見される直前に、僕たちはハピネスランドに行ってるんだ。やっぱり気になるよ。あれが誰の遺体なのか。どうしてあんな場所に遺体があったのか――」
「気にしたってどうにもなんねえじゃん。誰だか分かったところで、もう死んでるんだし。死んだらおしまいだって、いい加減諦めろよ」
苛立った声で言い立てたあと、きつい物言いになったことに自分でも気づいたのか、太市は「悪い」と謝った。
「動画のこと、フェイクだって分かっただけで俺は充分だから。海斗も未夢も部活とか塾とか、忙しいんだろ? もうあの件は調べなくていいよ」
取り繕うように明るい調子で言うと、太市はさっさと鉱山を掘る作業に戻った。僕は泣きたいような、怒りたいようなおかしな気分で、それから少しして、明日は練習があって朝が早いからと、太市と未夢より先にログアウトした。
五
次の日。僕は所属するスクールのOWSのトレーニングに参加するために、朝の六時に起きて朝食を済ませると、自転車で藤沢駅に向かった。
母親はその時間には起きていて、練習の合間に食べるおにぎりやバナナを持たせてくれたが、昨晩遅くに帰った姉はまだぐっすり寝ていて、未夢に頼まれた安堂篤子の話を聞くことはできなかった。
竜宮城のような外観の片瀬江ノ島駅に着き、まだあまり人の歩いていない駅前通りを海の方へ向かう。途中のコンビニでスポーツドリンクを買って、国道沿いのビルの一階にあるスクールの事務所で受付を済ませた。ウェアに着替えてロッカーに荷物を預けると、一緒に練習する中高生や一般の大人たちと連れ立って集合場所のビーチに移動した。
コーチに挨拶をして、準備運動が始まったのは午前八時頃だった。遅い時間だと海水浴客で混み合ってしまうし、あまり早いとサーフィンをやっている人たちがいるので、これくらいの時間から始めるのがちょうど良いらしい。
ストレッチを終えて海に入る。まだ日が高くないので水は冷たかったが、泳ぎ出してしまうとすぐに慣れた。クロールでしばらく進んだあと、平泳ぎで顔を出し、目印のブイの方向を視認する。海では自然の波でどうしても体が流されてしまうので、こうしていちいち確認することが大事なのだと教わった。他の練習生たちと離れすぎないようにペースを保ち、リズムとフォームを崩さないように水を掻く。
沖に出ると海の色が濃くなり、海底が見えなくなる。前に練習で一緒になった子は、これが怖いと言っていたけれど、僕は恐怖の館みたいなお化け屋敷は怖いくせに、どんな深い場所でも全然平気だった。波を受け、乗り越えながら、自分一人の力で泳いでいく静かな時間が好きだった。
ブイまでの距離を三往復して、二時間のトレーニングが終わった。このあとはまた事務所に戻って着替えて帰ることになる。シャワーが混むので、少し待ってから出ようとビーチに持ってきていたスポーツドリンクを飲みながら、砂浜の手前のコンクリートの階段に腰掛けていた時だった。背後から不意に影が差した。
「お前、薗村海斗って奴?」
声のした方を振り向くと、黒の長袖のラッシュガードにハーフパンツを穿いた、背の高い男が立っていた。日焼けした足にビーチサンダルを履いているのは見てとれたが、逆光で顔が見えない。目を細め、自分の手を庇みたいにかざして、ようやくそれが知っている人物だと分かった。
「太市と仲良いんだよな。そんで謙弥の大学にも、見学かなんかに行ったらしいじゃん」
黒の短髪を逆立てた三白眼の冬美真崇が、無表情で僕を見下ろしていた。
「今日は社長のお供でさ、水上バイクで遊ぶっていうんで呼び出されたんだ。そしたら水泳帽かぶった奴らがいて、太市の連れがそういうのやってるって聞いたからさ」
それで声をかけたということなのだろうか。真崇の意図が分からず、僕は飲みかけのペットボトルを手にしたまま、呆然とその顔を見上げていた。
「んで、お前にちょっと聞きたいことあんだけど」
真崇はまぶしそうに顔をしかめながら、僕のそばにしゃがみ込んだ。長袖のラッシュガードの袖口から、手首のタトゥーが覗いた。
「真璃がどこにいんのか、太市から聞いてねえか?」
質問の意味が、僕にはまったく分からなかった。
冬美真璃は真崇の妹で、高校一年生。太市とは同じバスケチームに所属していて、親しい間柄だとは聞いていた。未夢によれば問題行動が多いとかで、あまり評判が良くないらしい。でも僕は三学年違う真璃の顔を知らないし、多分会ったこともなかった。そして太市から、真璃の話を聞いたこともない。
やっとのことで「知らないです」と答えると、真崇は「あっそ。じゃあいいや」とだけ言って立ち上がった。思わず腰を上げ、背中を向けようとする真崇に呼びかける。
「真璃さんが、家に帰ってないってことですか」
僕の問いかけに、真崇は面倒そうに振り返った。
「ああ、もう何か月になるかな。高校にも全然行ってないってよ。俺も仕事で家を空けることが多かったから、いつからいなくなったのかはっきりしねえけど」
「警察とかに、届けたんですか?」
真崇は険のある声で「あ? そんなんお前の知ったことかよ」と言い捨てると、「聞きたかったのはそんだけだから」と再び背を向け、大股で歩いていった。黒い長身は海水浴客の雑踏にまぎれ、やがて見えなくなった。
それからどうやって事務所まで帰ったのか、よく覚えていない。他の練習生よりだいぶ遅れて戻ってくると、スタッフの人に熱中症にでもなったのかと心配された。
着替えて荷物を持ってビルを出て、炎天下の海沿いの国道を歩いて駅に向かった。改札を抜け、すぐに来た藤沢行きの電車に乗り込む。
ドアの横の手すりに寄り掛かり、前に抱いたリュックからスマホを取り出すと、あることについて調べた。そしてその結果を吟味した上で、未夢に会って話したいとLINEした。未夢は午後なら出られるとのことで、中学校近くの公園で待ち合わせた。
ハピネスランドで見つかった遺体は、冬美真璃のものかもしれない。
公園の外れにある東屋で僕の考えを話すと、未夢は「そんなわけないじゃん!」と笑い飛ばした。
「だって、ニュースで言ってたでしょ。死後数年が経過してるって。何か月か前にいなくなった人なのに、そんな鑑定結果が出たらホラーだよ。いや、SFかな。《探検わくわく島》の時空が歪んでたとか」
未夢はそう言うと、公園の入口の自販機で買った冷たいカフェオレの缶に口をつけた。あくまでも冗談として受け流すつもりの未夢に、僕は先ほど調べたページを表示したスマホを見せる。それは法医学の専門家による、遺体が白骨化するまでの所要時間についての解説だった。
「遺体が白骨化するのに必要な期間は、その遺体が置かれた状況によって、かなり開きがあるんだ。たとえば土に埋められていた場合、白骨化するまでに数年は掛かる。でも地上に放置されていた場合、夏場なら三、四か月で白骨化することもあるんだ」
僕の説明を聞きながらスマホの画面を見ていた未夢は、「こんなに違うんだ……」と唖然とした表情になる。
「虫や野生動物がいる環境だと、さらに早くなるらしい。ハピネスランドの園内は自然が多いし、カラスもいた。遺体が地上に放置されていた場合、白骨化しやすい状況だと言えると思う。だからあの遺体が冬美真璃さんのものだって可能性はなくはない」
未夢は考え込むように顎に指を添え、うつむいていた。虫捕り網を手に、プラスチックの虫かごを提げた小学生の一団が、笑い声を上げながら林の方へと走り抜けていく。
「――でも、だったらどうして警察は、死後数年が経過しているなんて発表したの?」
それは当然の疑問だった。あまり気分のいい話ではないけれど、と前置きをしてから、僕はここへ来るまでに検討してきた、その理由を述べる。
「犯人はきっと、遺体を地上に放置して白骨化するまで待ったあと、島の地面に穴を掘って埋めたんじゃないかな。その上で、匿名で通報した。埋めてからあんまり時間が経ってしまうと、死亡時期を偽装した意味がなくなる。犯人は亡くなった被害者が、数年前に行方不明になった人物だと見せかけたかったんだと思う」
もし遺体が土に埋められていたのだとしたら、情報番組のコメンテーターの元刑事が言っていたように、面白半分にハピネスランドに入り込んだ何者かが偶然遺体を見つけるなんてことはあり得ない。きっとその通報をした人物が犯人なのだ。
ここまで僕の推理を黙って聞いていた未夢が、何かに気づいたように顔を上げた。僕の方へ体を向け、強張った表情で口を開く。
「海斗は、冬美真璃さんの良くない噂って、聞いたことない?」
僕は率直に、何も知らないと首を振った。その返事を聞いた未夢は、ためらいながらといった様子で、膝の上に置いた手を心細げに組み合わせて話し始めた。
「真璃さんってね、線が細くて少し幼い感じで、男子が言うには守ってあげたいと思うようなタイプの女子なの。それで中学生の時から彼氏がいたんだけど、その彼氏が真璃さんにだいぶ酷い目に遭わされたらしくて、別れてから、真璃さんのことを言いふらしてたんだ」
未夢はそこで言葉を切ると、「その元彼もどうかと思うけどね」と、ちょっと怒った顔をした。
「元彼が言うには、真璃さんは『死にたい』が口癖で、しょっちゅう『ベランダから飛び降りようかな』とか『リスカしたくなった』とかLINEしてくるんだって。自傷癖っていうのかな。実際、手首に包帯巻いて学校来たこともあったみたい。彼氏がそんなことするなよって返信すると、『じゃあやめる』ってなるから、本気で死ぬ気はないみたいなんだけどね。でも一度、夜中にLINEがあった時に気づかないで朝まで放置してたら、リスカした手首の写真が送られてきたって――それがきっかけで、怖くなって別れたって言ってたよ」
未夢は話し終えると、「だから私、太市には真璃さんと付き合ってほしくなかった」と思い詰めた顔で打ち明けた。
「太市、お父さんが事故で亡くなって、そうは見せないようにしてたけど、凄くショックを受けてたはずだよ。そんな太市に、その気もないのに死にたいなんて言われたくないじゃん。海斗も、そう思うでしょ?」
未夢の真剣なまなざしを受け止めながら、僕は考えていた。
もしも太市が、親しくしていた冬美真璃に「死にたい」と言われたり、自傷行為をした姿を見せられたりしたら、そのことをどう感じただろう。
昨晩、WoNのチャットで、太市からぶつけられた言葉。
死んだらおしまいだって、いい加減諦めろよ。
僕にはそれが、太市の悲鳴みたいに聞こえた。
公園で未夢と別れたあと、僕は家の方角とは反対の、中学校の方へ歩き出した。
野球部とソフトテニス部がスペースを分けて練習しているグラウンドを眺めながら、バス通りを進む。午後になって湧き出した灰色の雲が太陽を隠し、いくらか風が出ていた。前に未夢と待ち合わせをしたコンビニの手前の横断歩道を渡り、そこから少し細い道へ曲がって坂を登った。
団地の四階まで階段を上り、インターホンを押した。前もって連絡をしなかったけれど、幸いにして太市は家にいた。バスケチームのロゴの入ったTシャツ姿の太市に、話したいことがあると告げると、今日は部屋が散らかっているからと、団地の前の自転車置き場で話すことになった。
「昨日、海斗がログアウトしたあと、凄いの掘れたんだぜ。素材集めんの大変だったけど、やっぱ《強運のツルハシ》作って良かったわ」
ハーフパンツのポケットに両手を突っ込んだ太市が、言いながら自転車置き場の端のフェンスに寄り掛かる。太市は団地から続く坂の下に顔を振り向けると、家々の屋根の向こうに見える中学校の校舎の方へ目をやった。
トタン屋根と金属のフェンスで囲われた自転車置き場には、数台の自転車がスペースを空けて並んでいるだけだった。僕は太市の向かい側に立つ。屋根とフェンスの間から覗く空は、雲の色が一段と濃くなっていた。いつの間にか辺りが暗くなっているのに気づく。
「練習の方はどうだったんだよ。江の島、夏休みだと混んでただろ。ていうかそれって女子もいんの?」
そう問いかけながら、太市は僕の方を見ようとしない。ただ沈黙を埋めようとするように、べらべらとしゃべり続ける。
「真崇さんに会ったんだ。妹の真璃さんのことを聞かれた」
口にした瞬間、言ってしまった、と思った。もう後戻りはできない。心臓がどくどくして苦しくて、息継ぎをするように息を吸った、その時。
ばらばらっと自転車置き場の屋根が鳴った。ざああっと空から一斉に矢が飛んできたみたいに、雨が線となって地面を打つ。その場の光景は水煙に覆われ、坂の下の住宅の屋根も、中学校の校舎も、もう見えない。
「うっわ、何このタイミング。神じゃね?」
太市は僕を振り返ると、口元だけで笑った。真っ黒な瞳は、怯えたように揺れていた。その太市の目を見据えて尋ねた。
「真璃さんは、いつからいなくなったの?」
僕の視線から逃げるように、太市は雨を落とす黒い空へと顔を仰向けた。そして平坦な声で答える。
「多分、春くらい? そんなしょっちゅう会ってたわけじゃねえし、あんま覚えてない」
「なんでそのこと、僕や未夢に言わなかったの?」
太市は言葉に詰まったように黙ったあと、ポケットから手を出し、拳を握り込んだ。
「真璃のことは、関係ねえから。お前らに言ってもしょうがねえだろ」
これ以上、この会話を続けることを、僕は恐れてもいた。ここから先は、言ったら取り返しのつかないことになるかもしれないと。
でも、もう戻れないということも分かっていた。本当はもっと前から、僕らはとっくに戻れなくなっていたのだ。半年前、太市の父親が死んだその日から。
「真璃さんは、太市にも『死にたい』って言ったの? 太市はそれを聞いた時、どう思った?」
胸の中の熱い塊が、喉を通り、声となって吐き出される。言葉にしたあとも、口の中や唇に熱が残っているように感じた。
こんなことを聞きたいんじゃない。僕が太市に聞きたいのは、どうして学校に来ないのか。お父さんが死んで、悲しかったんじゃないのか。いつになったら、前みたいに教室にいて、大きな声で笑ってくれるのか。
本当に聞かなきゃいけないことが他にあるのに、なんで僕はこんなことを、太市に尋ねようとしているんだろう。
「太市、僕の方を見て。一つだけ答えてほしい」
何も答えない太市に、強い声で告げた。太市はゆっくりとこちらへ体を向けた。
「冬美真璃さんが、今、どこにいるか知ってる?」
吹き込んだ雨で濡れた腕をシャツの裾で拭うと、太市はまっすぐに僕の顔を見た。そして下唇を噛む。太市が嘘をつく時の仕草。
「――知らね」
それだけ言うと、太市は土砂降りの中へと走り出て、団地の階段を上がっていった。
その日の晩はゲームをする気にはなれなくて、宿題を終わらせたあと、なんとなくリビングに下りて、母と姉が観ている旅番組を眺めていた。
「あれ? どっかで電話鳴ってない?」
不意に壁際のリビングボードを振り返った姉の言葉で、充電ケーブルに繋いだ僕のスマホが振動しているのに気づく。手に取ると未夢からの着信だった。もう九時半を過ぎていて、こんな時間に未夢から電話がかかってきたのは初めてだった。
廊下の方へ向かいながら応答ボタンをタップする。
「海斗、今日WoNにログインした?」
前置きもなくそう聞かれた。今夜はゲームはしないつもりだと伝えようとした時、未夢は張り詰めた口調で「太市のアカウントがない」と言った。
スマホを掴む手から、力が抜けそうになる。どういうこと、と、膝が震え出すのをこらえて尋ねた。未夢が半分泣いているような声で告げる。
「フレンドのリストから、太市のアカウントが消えてる。太市、WoNのアカウント削除しちゃったみたい」
【続く】