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第6回

幸せの国殺人事件

 少し前に、未夢が探していたインディーゲーム『幸せの国殺人事件』が、フリマアプリに出品されていた。だけどパッケージの画像が粗く、偽物を出品して代金を騙し取る詐欺だろうとその時は考えていた。

 ゲームの製作者は、関東の大学に通う学生だということ以外、性別も年齢も一切公表していないAAというハンドルネームの人物。未夢はそれが安堂篤子ではないかと推測していた。安堂篤子は鎌倉芸術大学に在籍する梶謙弥の先輩であり、その梶謙弥は冬美真崇と中学の同級生で今も付き合いがある。ということは、出品されていたゲームはもしかすると――。

「偽物じゃなかったんだ」

 そう言うが早いか、未夢は据付の物入れに飛びつくと扉を開けた。そして僕を振り返りもせず「海斗はカラーボックスの中を探して」と鋭い声で指示を出す。僕は慌てて未夢の肩を掴んだ。

「待ってよ、未夢。そのゲームがこの部屋にあったとして、まさか持っていくつもりじゃないよね?」

 この時点で、僕らは他人の家に不法侵入しているのだ。そこに罪名をもう一つ乗せるわけにはいかない。未夢は振り向くと、不思議そうに首を傾げる。

「なんで? 駄目なの?」

「駄目に決まってるだろ! 人の物を盗むのは泥棒だよ」

 中学一年生に言って聞かせることではないと思いながら、僕は未夢にそう説いた。未夢は我に返ったように「そうか……そうだよね」とつぶやいて、小さくうなずいた。

 分かってもらえた――と思いきや、未夢は物入れの方へと向き直り、衣類が入っているらしい衣装ケースの引き出しを引っ張り出した。

「じゃあ、速攻でクリアして元のところに返す。それだったら問題ないでしょ。盗むんじゃなく、借りるだけだから」

 何も分かっていなかった――。

 この部屋から勝手に持ち出すことがすでに犯罪なのだと、未夢に必死で説明したが、すでに未夢は僕の話など聞いていない様子で引き出しを順番に開け、次は段ボール箱を取り出して開け――といった調子で、やけに手際よく物入れの中を物色している。

 もう何を言っても、未夢は空き巣行為をやめる気はないようだ。だったら僕にできるのは、なるべく早くこの場を立ち去れるように協力することしかない。僕はため息を一つつくと、未夢の指示どおりカラーボックスの捜索を始めた。

 あのCDケースさえ見つからなければ、未夢がさらなる犯罪に手を染めずに済んだのだが、残念ながら『幸せの国殺人事件』は、カラーボックスのゲームソフトが並んでいるところに、ごく自然な佇まいで置かれていた。間抜けにも僕が「あ」と声を上げてしまったせいで「あったの?」と未夢が振り向き、手にしていたCDケースは奪い取られた。

「やっぱりこれ、パッケージの印刷が粗いよ。きっと偽物だって」

 なんとか未夢に諦めさせようとその点を指摘したが、未夢は頬を上気させて『幸せの国殺人事件』のロゴと、遊園地のイラストのプリントが入ったCDケースを見つめている。

「違うよ。多分これは市販品じゃなく、最初に作ったテスト版。関係者とかにプレイさせて、バグがないか確認するためのものだったんだと思う」

 未夢はケースを開け、真っ白なCD-Rを取り出した。裏返し、傷がないことを確認すると、ケースに入れて自分のリュックに仕舞う。

「これならうちのパソコンでプレイできると思う。早く帰って始めなきゃ」

 さっさと玄関に向かおうとするのを引き止めて、二人で荒らした部屋を急いで痕跡が残らないように片づけた。ドアの外の様子を窺ってから音を立てないよう慎重に鍵を開け、外へ出る。未夢が持っていた鍵で施錠すると素早く階段を降り、鍵を集合ポストにマグネットで貼りつけた。

「明日は私、塾がないから、一日中プレイできると思う。海斗は明日、何か用事ある?」

 団地の坂道を下りながら、未夢がこちらを振り返って尋ねた。午前中に部活があるが、午後は空いていると答えると、「だったら、お昼食べたらうちにきて」と命じられた。

「ノベルゲームだからサクサク進むとは思うんだけど、全部のルート潰さないといけないから、メモ取ったり、私が休む時の交代要員になったり、手伝ってほしいの。さすがにぶっ続けではできないと思うし」

 確かに、早くクリアして元の場所に返さなければ――その間に冬美真崇があの家に戻ってきて、ゲームソフトがないと気づくようなことがあれば、警察を呼ばれるかもしれない。僕らは手袋なんかしてなかったし、指紋を採取されたらアウトだ。

 僕は未夢の命令に従うしかなかった。

 翌日、部活を終えて帰宅した僕は、母親が冷蔵庫に準備してくれていたチャーハンを温めて食べると、自転車で前に未夢と会った公園の方角に向かった。未夢の家に行くのはこれが初めてで、送ってもらった地図を見ながら、自転車を押して向かう。途中、コンビニがあったので「コンビニ寄るけどほしいものある?」とLINEした。「エナジードリンクと甘いもの」と未夢から速攻で返事がきて、言われたとおりエナジードリンクとチョコレート菓子、他にもペットボトルの飲み物なんかを買った。

 そこから住宅街へと入り、地図アプリの案内に従って進む。やがて白い壁の三階建ての一軒家の前で「目的地到着」と表示が出た。目の前の表札に《烏丸》とあるのを確認してインターホンを押した。

「はーい、待ってね」

 未夢の声が応答し、ドアが開く。現れた人物を見て、僕はすぐには未夢だと気づかなかった。きょとんとしている僕を怪訝そうに眺めていた未夢は、はっと気づいたように、玄関の靴箱の扉についている鏡を見る。そしてなんだか恥ずかしそうに下を向いた。

「ゲームする時は、邪魔だから前髪留めてるの」

 いつもはしない眼鏡をかけて、長い前髪をヘアピンで横分けにした未夢は、いつもと別人みたいに見えて、僕は少し緊張しながら靴を脱いだ。

 未夢の母親は今日はパートで居ないとのことで、そのまま二階の未夢の部屋に案内された。六帖の洋室は、ロフトベッドの下に学習机や本棚が置かれていて、僕の部屋よりも広々している。未夢は机の上のノートパソコンを部屋の中央のローテーブルに移動させると、マウスを動かして画面を表示させた。

 メリーゴーランドと、その向こうに観覧車が立つ遊園地のイラストを背景に、女性らしきシルエットが現れる。顎に手を当てた仕草をしたシルエットの下には、白い枠で囲われたテキストが表示されていた。女性のセリフなのだろう。《イベントが始まる前に、少しでもヒントを集めなきゃ》とある。

「内容を簡単に説明すると、物語の舞台は『幸せの国』って呼ばれてる遊園地で、そこで人気ミステリー作家が主催した推理イベントが開かれるの。だけどイベント中に本物の殺人事件が起きて、その作家の大ファンだった女の子が殺されちゃうんだよね。で、イベントに参加していた女子高生の主人公が、事件の真相を推理するって話なんだ」

 カチカチと凄い速さでボタンをクリックしてセリフを飛ばしながら、未夢が説明してくれる。すでに読んだことのあるシーンなのか、画面を見てもいない。

 僕はノベルゲームというのはやったことがないけれど、このゲームは未夢がずっと探していた面白いと評判のゲームらしいので、どんなストーリーなのか結構興味を持っていた。なんとか内容を把握しようと、高速で表示されるテキストを必死で目で追う。

「あ、そうだ。お姉さんにあのこと聞いてくれた?」

 指を止めずに僕の方を向くと、未夢が思い出したように尋ねた。僕はテキストを読むのを諦め、姉から預かってきた冊子をリュックから取り出す。昨日の別れ際、未夢から姉の茜に、安堂篤子に加えて國友咲良についても、何か知っていることがないか聞いておいてほしいと頼まれたのだ。

「『南風』――何、それ。パンフレット?」

 薄い緑色の冊子の表紙に印刷されたタイトルの文字を読んで、未夢が首を傾げる。僕は冊子を裏返すと、最後の方のページをめくった。

「これ、藤沢南高校の文芸部の部誌なんだ。毎年、その時に在籍してる部員たちで編集したのを文化祭で売ってるんだけど、バックナンバーも買えるらしくて、これは安堂篤子さんが三年生の時の部誌だって」

 マウスを操作する手が止まった。未夢は「嘘、凄いじゃん!」と驚きの声を上げると、食い入るように冊子のページを見つめる。

「しばらく借りてていいって言われたから、中身はあとでゆっくり読んだらいいよ。それより、この最後のページに当時の部員の写真と名前が載ってるんだ。モノクロの写真だし、紙もただのコピー用紙みたいだから、画質は悪いけど」

 言いながら、僕は写真の真ん中に写るブレザー姿の女子生徒を指差した。肩より長い髪を二つ分けにして、特徴的な大きな切れ長の目で、まっすぐにカメラを見つめている。

「これ、安堂篤子さんだよね。写真の下に名前がある。多分この名前、写真の並び順になってるんだと思う」

 写っている部員は五名。そして写真の下に、五人の生徒の名前が横並びで表記されている。僕は真ん中の「安堂篤子」の名前を指した指を、一番右まで滑らせた。

「ここに『國友咲良』ってあるだろ? 二人は同じ高校ってだけじゃなく、同じ文芸部に在籍してた同級生だったんだ」

 写真の右端に写っているのは、安堂篤子より少し背の低い、ショートカットの女子生徒だった。未夢はページに顔を近づけ、彼女たちの写真をじっと見つめた。

「ねえ、この人、似てるよね、、、、、――あの動画に映ってた、ショートカットの安堂篤子さんに」

 そうなのだ。國友咲良と思われるその女子生徒は、安堂篤子と同じく切れ長の形の目をしていて、瓜二つとは言わないまでも、今の安堂篤子とかなり雰囲気が似ていた。

 そのことに、何か意味があるのかは分からない。単に偶然、顔や髪型が似ていたというだけかもしれない。けれど昨晩、この冊子を姉に見せられた時はかなり驚いた。それで早く未夢の意見も聞きたかったのだ。

「でも、動画で暴行を受けていたのは安堂さんで間違いないはずだよ。僕は実際に会ったし、未夢だって写真を見てそう思ったよね」

 鎌倉芸術大学のカフェテリアで隠し撮りした安堂篤子の写真を送った時、未夢も動画の女性だと断言していた。

 しかし未夢は同意を求める僕に返事もせず、何か考え込んでいるような表情で文芸部の部誌の巻末に並ぶ生徒たちの写真に見入っている。そしてぽつりと漏らした。

「『幸せの国殺人事件』ね、実は朝に一回クリアして、今二周目なんだよね」

「え? もうクリアしたの?」

 ゲームを手に入れたのは昨日の夕方で、未夢は夜は十一時くらいまでしか起きていられないはずだ。いくらなんでも早すぎる。

「このゲーム、本当に面白いの。つい夢中になって、朝も四時起きでやってたからね。評判どおり緻密なプロットで、ミステリーとしての完成度も高かった。犯人が《アユミ》だなんて思わなかったし」

 未夢は本当に面白い、評判のミステリーノベルゲームの真犯人を思い切りネタばらしすると、呆然としている僕に構わず、「それで、この事件の真相なんだけど」と続ける。耳を塞ぎたかったが、間に合わなかった。

「犯人の《アユミ》は、ミステリー作家の大ファンだった女の子なの。つまり最初に殺された、、、、、、、殺人事件の被害者、、、、、、、、

「え、ちょっと待って。たったさっき《アユミ》が犯人だって言ってたよね」

 同じ名前の人物が二人いるのだろうか。僕は未夢が言っていることの意味が分からず、眼鏡をかけた横顔をきょとんと見つめた。

「そう。《アユミ》は犯人であり、被害者でもあったわけ」

 未夢は文芸部の部誌からようやく顔を上げると、マウスを動かし、パソコン画面の右上にある《捜査ファイル》と書かれたアイコンをクリックした。その中の《登場人物》という項目をさらに開く。登場人物はシルエットで描かれており、《アユミ》はポニーテールの女の子だと察せられた。名前の下には「大学二年生・ミステリー研究会所属」と簡単に属性が添えられている。

 そしてその《アユミ》の隣には、髪型や体形が分からないように輪郭をぼかした、謎の人物のようなシルエットが描かれていた。シルエットの下には、《サエコ》と名前があり、職業は「ミステリー作家」とある。

「人気ミステリー作家の《サエコ》は、顔や本名を一切表に出していない覆面作家だったの。《アユミ》はその状況を利用して、自分が死んだように見せかけて《サエコ》を殺し、《サエコ》に成り代わっていた。《サエコ》の作品を愛するあまり、《アユミ》は自分が《サエコ》だと思い込むようになっていたの」

 未夢はそこで言葉を切ると、真剣な面持ちで僕を見据える。

「梶さんから聞いた話だと、國友咲良は安堂さんが自分の作品を盗作したって言ってたんだよね。安堂篤子さんが書いたものを、自分の作品だと思い込んでいた。そして安堂さんは覆面作家ではないけれど、國友咲良と外見がよく似ていた」

 確かに、このゲームのシナリオと状況は近いのかもしれない。しかしそんな《真相》は、現実にはあり得ない。

 でも未夢は、荒唐無稽なその《真相》を、きっぱりと口にした。

「國友咲良は三年前、安堂さんを襲って、本当に殺してしまったんじゃないのかな。つまり太市の、あの動画は本物だった、、、、、、、、、、。そして國友咲良は自分が行方不明になったように見せかけて、安堂篤子さんに成り代わって、、、、、、、、、、、、、いるんだよ、、、、、

「そんなこと、できるわけないだろ」

 僕は冷静に未夢の主張を否定した。昨日からミステリーノベルゲームを延々プレイしていたせいで、現実とフィクションの境界が曖昧になっているのかもしれない。

「まず周りが気づくに決まってるよ。家族とか、大学の友達とか」

 安堂篤子は藤沢市の出身で、大学は鎌倉だ。その距離なら今も実家に住んでいるだろう。それに似ていると言っても、そっくり同じ顔ではない。鼻や唇の形は、明らかに違っている。

「そうだね。友達は違和感に気づくかもしれない」

 未夢は僕の言葉を半分だけ肯定しながら、自分のスマホを取り出した。そして僕も何度か見たことのある、主に写真を投稿するSNSのアプリを開く。

「でも安堂さんの家族はどうかな」

 言いながら、未夢は画面をこちらに向けた。そこにはどこかの部屋の様子が写っていた。床から天井まである大きな本棚と、ノートパソコンが置かれたテーブル。その画像に、「両親が海外赴任してるから夜更かしして原稿書いても叱られない」という短いコメントが添えられている。

「これ、安堂篤子さんのアカウントの三年前の投稿。安堂さんが大学に通い始めると同時に、ご両親は海外赴任して、安堂さんは一人暮らししてるの」

 僕はスマホの画像を睨んだまま黙り込んだ。確かに家族と住んでいないのなら気づかれないかもしれないが、四年生になるまで両親が一度も日本に帰国していないなんてことがあるだろうか。それに友達の方はどうなるのか。

 その疑問をぶつけようとした時、先回りするように未夢が口を開いた。

「安堂さんが襲われたのは大学一年生の時だった。まだそんなに親しい付き合いをする友達はいなかったのかもしれない。だったら美容整形でそっくりになるように手術すれば、ごまかせるんじゃないかな。梶さんが言ってたじゃない。安堂さんは襲われて怪我をして、しばらく大学を休んでたって」

「つまり、その間に美容整形手術を受けたっていうこと?」

「きっとそうだと思う。梶さんの話では、事件のあと安堂さんは、かなり様子が変わったってことだったよね。明るい人だったのに話さなくなって、髪を短く切ったって。顔は整形できるけど、髪は伸ばせないから、切ったことにしたんだよ」

 畳み掛けるように訴えると、未夢はさらにもう一つ、驚くべきことを告げた。

「実は昨日、安堂さんにSNSでメッセージを送ったの。例の動画のスクショを添付して、『この動画の件で話を聞かせてほしい』って」

「なんでそんなことしたの?」と、思わず大声を上げる。未夢の推測がもしも当たっていれば、その《安堂さん》は安堂篤子を殺し、彼女になりすました國友咲良なのだ。

 「直接聞いて動画を撮った目的を教えてもらえたら、それが一番早いと思って」と答えた未夢に、返信はあったの、と恐る恐る尋ねる。未夢は硬い表情で、こくりとうなずいた。

「夕方には大学から帰るから、家にきてほしいって、住所が送られてきた。ねえ海斗、一緒に行ってくれるよね?」

 それからしばらく未夢がゲームを進める間、僕は選んでいない選択肢をチェックしたり、選んだルートの結果をメモしたりと、記録係を務めた。未夢が言っていたとおり、ゲームにはムービーシーンもあったが、それらはすべてアニメーションで作成されていて、例の実写の動画が使われている場面はなかった。

「今朝と別のルートでクリアしたら、ヒントっぽいものが出てきたの。もしかしたらヒントを繋ぎ合わせることで、隠しシナリオがプレイできるのかもしれない」

 先ほどクリアした二回目のエンディングが、最初にクリアした時と違っていたと未夢は説明した。

「最初にクリアした時、最後に観覧車がアップになって終わったんだけど、二回目はメリーゴーランドだったんだ。ゲームの中に、パスワードを打ち込んでプレイできるシナリオっていうのがあるの。もしかしたらエンディングに出てくるアトラクションが、そのパスワードの手がかりになっているのかも」

 それを確かめるには、すべてのルートでクリアしてエンディングを見る必要がある。いったいどれだけの手間が掛かるのだろうと僕は途方に暮れかけたが、未夢は「あと二日もあれば大丈夫」と、なんでもないことのように言った。

 そうこうしているうちに時刻は午後四時を過ぎ、そろそろ安堂篤子の自宅に向けて出発しようということになった。未夢の母親がパートから帰ってくるのはいつも五時頃とのことなので、顔を合わせなくて済んでほっとした。

 安堂篤子から送られてきた住所は、藤沢駅から小田急江ノ島線で二駅離れた善行駅が最寄駅だった。未夢の家からだと距離にして四キロ程度でそう遠くないので、僕らは自転車で向かうことにした。出かける前に未夢は眼鏡を外し、いつも通り前髪を下ろした。

 途中、何度か停まって地図アプリを確認しながら、二十分ほどで目的地に到着した。安堂篤子の自宅はバス通り沿いに建つ、グレーのタイル張りの六階建てマンションだった。敷地の中に駐輪スペースがあったので、自転車はそこに停めた。

 広くて落ち着いた雰囲気のエントランスを抜け、自動ドアの手前にあるパネルで住所にあった四〇五の部屋番号を入力してインターホンを鳴らす。少しして「はい」と聞き覚えのある気だるげな声が応答した。

「昨日、メッセージを送った者です」と未夢がパネルのマイク部分に向かって告げると、「今ロック開けたから、上がってきて」という気安い返事と同時に自動ドアが開いた。

 エレベーターで四階に昇り、四〇五号室のドアの前に立つ。未夢に言われて、緊張しながらドアの横にあるインターホンを押した。

「あれ? さっきの声、女の子だと思ったけど」

 ドアが開いた瞬間、未夢がさっと僕の後ろに隠れてしまったので、安堂篤子は意外そうな顔になった。そして僕をあの切れ長の目でじっと見つめると、「君、どこかで会ったことない?」と言った。

 大学のカフェテリアで見かけた時と同じような白いシャツにジーンズ姿で、「まあ、上がって」と中へ入るように僕らをうながす。その落ち着いた態度も、少し面倒そうな話し方も、誰かを殺してその人になりすましているようには全然見えなかった。

 それでも一応警戒しながら、彼女に続いて廊下を進む。玄関を入ってすぐ右側と、奥にもう一つドアがあった。家族で住んでいたそうなので、ファミリータイプの物件なのだろう。突き当たりのガラスドアの向こうが広いリビングになっていて、対面キッチンの向かいに四人掛けのダイニングテーブル、バルコニーからの街の景色を望む掃き出し窓の手前にソファーセットが据えられている。そのソファーの裏側に例のSNSの画像に写っていた、天井までの高さの大きな本棚があった。

「そこ座って。麦茶でいいよね」

 安堂篤子は僕らにダイニングテーブルに着くよう指示すると、冷蔵庫からペットボトルの麦茶を出してグラスに注いだ。僕の左側に未夢が、未夢の向かいに安堂篤子が腰掛け、三人で向かい合う。

「――で、君たちはあの動画、どこで手に入れたの?」

 口をつけたグラスをコースターに置いた安堂篤子が、単刀直入に切り出した。僕と未夢は顔を合わせただけで、どちらも答えなかった。僕らを交互に見た安堂篤子は、諦めたようにため息をつく。

「どうせ冬美君が流出させたんでしょう。彼、そういう迂闊(うかつ)なところがあるし」

 僕は反応せずに黙っていたが、未夢は彼女の言葉に、びくりと肩を震わせた。安堂篤子は、その様子を見て小さく笑った。

「もしかして君たちは、あの動画が本物だと思って話を聞きたいなんて言ったのかな。だとしたら勘違いさせてごめんね。あれは私が自分の作品のために撮ったものなの」

 言い切ると、安堂篤子はテーブルの上で長い指を組み合わせた。僕は彼女の顔をじっと見つめた。安堂篤子は表情を動かさず、僕を見つめ返す。嘘かどうかは分からなかった。

「そう言われても、信じられません」

 絞り出すように言うと、未夢は身を乗り出して訴えた。

「だって、本物にしか見えなかった。殴られて、血が出て、手なんか骨が見えるような怪我をしてたじゃないですか。あの動画が偽物だって言うなら、証拠を見せてください」

「いいよ。確かまだ私の部屋に残っていたと思う」

 あっさりと了承すると、安堂篤子は立ち上がってリビングを出ていった。やがて戻ってくると、手にしていた紙袋の中から透明なケースを取り出してテーブルに置く。ケースの中にあるものを目にした未夢は、怯えた顔で身を引いた。それは赤く裂けた傷口の中に白い骨が覗いた、皮膚の断片のように見えた。

「これ、ハロウィンの仮装グッズとして売られているものなんだ。ゾンビの格好する人とかが体に貼って使うんじゃないかな。私はただ貼っただけじゃなくて血糊も使ったし、リアルに見えたんだと思う。でも、あの動画はこうして特殊メイクをして、演出して作ったものなの。なんなら今、見比べてもらってもいいよ」

 見比べるまでもなく、あの動画で見た手の甲の傷口と、目の前の偽物の傷は、同じものだと思えた。未夢はうつむいたまま、声もなくその不気味な小道具を見つめていた。

「君たちに忠告しておくけど、もしも冬美君と何か繋がりがあるなら、距離を置いた方がいいよ」

 安堂篤子は真面目な顔になると、諭すように言った。

「彼、色んなややこしい人たちと関わっているみたいだし、お金に困ってやばいことをしてるって噂もあるの。未成年が付き合うような相手じゃ――」

 その時、リビングの壁に取りつけられたインターホンが鳴った。立ち上がった安堂篤子がモニターのボタンを押す。遠目にははっきりとは見えないが、男性らしき人物が映っている。来客だろうか。

 はい、と彼女が応答すると、「ああ、俺」とぞんざいな口調で男性が言った。その声を聞いて、僕と未夢は驚いて顔を見合わせた。

「ちょっとだけ待って。今、親から電話がきてて、話し中なの。終わったらLINEするから」

 安堂篤子は焦った様子も見せずに嘘の言いわけをして男性を待たせると、僕らの方を振り向いた。

「話の途中だけど、誤解は解けたと思うし、今日のところはこれで帰ってもらえる? 君たちを家に入れたって知ったら彼が心配すると思うから、鉢合わせしないようにエレベーターじゃなく階段を使ってね」

 僕らは慌ただしく帰り支度をすると、追い出されるように安堂篤子の部屋を出た。エレベーターとは反対側にある階段で一階まで降り、駐輪スペースへと向かう。自転車の鍵を外しながら、未夢は自分が耳にしたものが信じられないという様子で僕に確かめた。

「さっきの声、梶さんだったよね、、、、、、、、。安堂さんの後輩の――どういうこと? あの二人、付き合ってたの?」

 そう聞かれても、僕にだって分かるはずがない。でも訪ねてきた男性の声は、間違いなく梶謙弥のものだった。

「なんか、色々よく分かんなくなってきたから整理しよう」

 車通りのない路地に入り、並んで自転車を押しながら、未夢は自分を落ち着けようとするように大きく息をついた。

「まず海斗は、さっき会った安堂さんは、本物の安堂さんだと思う?」

 ややこしい問いかけに、僕は「そう思う」と答える。僕は安堂篤子を昔から知っているわけではないから、単なる心証の話になってしまうけれど、彼女が誰かになりすましてあのマンションに住んでいる、というような不自然さは一切なかった。加えて、ああして間近に彼女の顔を見て話をしたことで、あの文芸部の部誌に掲載されていた写真の安堂篤子に間違いないと思えた。

「私も、彼女が安堂篤子さん本人だと思う。美容整形をしたんじゃないかって疑ってたけど、整形であそこまで同じ顔にならないよね。もっと聞きたいことあったのになあ。また会ってもらえるといいんだけど」

 未夢は自身の推測は外れたものの、憧れの安堂篤子本人と話せたことに感激しているふうだった。

「安堂さんはあの動画は、自分で撮ったフェイクだって認めてたけど、それについては未夢はどう思った?」

 今度は僕の方から質問する。未夢は少し考え込むように黙ったあと、「安堂さんが言うなら、そうかもしれないけど」と自信なさそうな顔になる。

「フェイクだとしたら、なんであんなものを撮ったのか分かんなくない? だって梶さんが言ってたことが本当なら、安堂さんは自分が暴行を受けたシーンを再現したってことになるよ。何かの作品のためだったとしても、私なら絶対にそんなことできない」

 それについては、僕も未夢と同意見だった。そしてもう一つ、彼女と会って話して確信したことがあった。

「僕が初めて安堂篤子さんを大学のカフェテリアで見かけた時、あの動画の女の人とそっくりだって思うと同時に、過去に誰かから、あの動画みたいな酷い暴力を受けたようには見えないって感じたんだ。その時はただの印象だったけど、彼女は今日、初対面の僕たちを平気で自分しかいない家に招き入れた。僕は中学生だけど男だし、それなりに身長もある。過去にストーカーに拉致されて暴行された人が、そんな行動を取るとは思えない」

 未夢はその場で足を止めると、僕が何を言い出したのか分からないという表情でこちらを見上げた。

「どういうこと? だって安堂さんは國友咲良にハピネスランドに連れ込まれて、特殊警棒で殴られたって――梶さんがそんな嘘つく理由なんかないじゃん」

 理由はある、と僕は答えた。梶謙弥は、安堂篤子が國友咲良に襲われたという話をしたあと、なぜか僕らを観察するような鋭い目で見ていた。あれはきっと――。

「梶さんはあの話をすることで、僕らが安堂さんの例の動画を見たのか、確かめようとしたんだと思う、、、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、

 未夢は自転車のハンドルを握り締めたまま、呆気に取られた顔で固まった。ややあって「嘘でしょ。なんのために……」と、心許ない声でつぶやく。

「梶さんがそんなことをした理由は分からない。でもあの時、僕らは梶さんの話を聞いてあの動画のことを思い浮かべて、ちょっと不自然な反応をしてしまった。多分気づかれていると思うよ」

「じゃあ安堂さんがストーカー被害に遭ったっていうのも、嘘だったの?」

「國友咲良が、安堂さんの作品を自分の盗作だって主張してたのは本当だよ。梶さんが言ってたブログっていうのも、ちゃんと残ってた」

 それは昨日のうちに確認してあった。《安堂篤子》《盗作》で検索しただけで、該当のブログが見つかった。梶が言っていたとおり、更新は三年前の日付で止まっていた。

「考えられるとしたら、安堂さんが國友咲良に付きまとわれて中傷されたのをきっかけに、彼女に近づく人間を警戒するようになったとかかな。僕がオープンキャンパスに行った時も梶さんは、安堂さんはもう大学には来ていないって嘘をついてた」

「でもそれだけだと、あの動画がどう関係しているのか分からないよね。安堂さんは冬美真崇さんが流出させたんじゃないか、なんて言ってたけど――」

 それだ、と僕は思い当たった。

「真崇さんは、僕が太市の友達だってことも、オープンキャンパスで梶さんと話したってことも知ってたんだ。もしかしたら梶さんは真崇さんに言われて、僕たちのことを探っていたのかもしれない」

 太市はあの動画の件で、真崇から話を聞こうと何度もメッセージを送ったが返事がなかったと言っていた。真崇はあの動画について語りたくない理由があるのだ。もちろん、それが広まることも恐れているだろう。だから梶に頼んで、太市が友達である僕らに動画を見せたか確かめさせたのだ。

「僕らが動画を見たってことは、梶さんから真崇さんに伝わってしまっていると思う。そうなると太市が危ないかもしれない。真崇さんに、何かされるかも――」

 僕はスマホを取り出すと、その場で太市に電話をかけた。けれど呼び出し音が鳴るばかりで繋がらなかった。不安そうに見守っていた未夢に、無言で首を振る。通話ボタンを切り、少し考えて、「とりあえず、今日はもう帰ろう」と言った。

 午後五時を過ぎて、空はまだ明るいが、太陽はすでにだいぶ低い位置にある。未夢の母親は家に帰っているだろう。あまり遅くなると心配されてしまう。僕らは自転車に乗ると、少し急いで来た道を戻った。

 未夢を家の前まで送ると、別れ際に短くこれからのことを打ち合わせた。

「私からも、太市に状況をLINEしておく。海斗に電話してって言っておくから」

 未夢はこのあと、『幸せの国殺人事件』の別ルートのシナリオをクリアし、パスワードのヒントを集めるつもりだという。僕も引き続き太市に連絡するつもりだと伝え、その場をあとにした。

 未夢と別れたあと、僕はまっすぐに家には帰らず、少し寄り道をしていくことにした。

 今日、未夢に預けてきた藤沢南高校の文芸部の部誌である『南風』――。姉の茜が二年前に高校の文化祭で、『南風』のバックナンバーをわざわざ買ったのには理由があった。当時の友達が文芸部の部長をしており、シナリオコンクールで入賞した安堂篤子の作品が載っていると教えてくれたのだそうだ。

 その友達は卒業してしまったOBやOGたちとも交流があり、あるOGの両親が交通事故で亡くなった時は、葬儀にも参列したとのことだった。姉から友達に確認してもらうと、やはり両親を亡くしたというそのOGは國友咲良だった。僕は『南風』に掲載された作品を読んで感動したので感想の手紙を書きたいという少々無理のある理由をつけて、なんとか姉に頼み込み、友達から國友咲良の自宅の住所を聞き出してもらったのだった。

 教わった住所は未夢の家から自転車で十五分ほどの距離にある住宅街の一画で、周辺には昔からあるような古い一戸建てが多く見られた。ちょうど帰宅の時間帯なのか、自転車の小学生たちが連れ立って走っていく。他にも犬の散歩をしている女性がいたりと人通りがあるので、不審者に思われないよう、自転車を押しながらそれとなく表札の名前を確認した。そして三軒先の門柱に《國友》と苗字が彫られてあるのを見つけた。

 大きな二軒の家の間に挟まれるように建っているその二階建ての住宅は、オレンジの外壁にレンガ調の装飾が施された明るい雰囲気の外観だった。だけどよく見ると壁のあちこちにカビのような黒い汚れがあり、レンガには緑色の苔が生えている。

 閉じられた門扉の向こうに、同じくぴったりと閉じられた金属製の黒いドアが覗いている。玄関の周りは雑草が伸び放題となっていて、誰も手入れをしていないようだ。二階の正面に窓があるが、雨戸が閉じられていて中の様子は見えない。でもこの状態では、今も人が住んでいるようには思えなかった。

 やはり國友咲良は、この家には戻っていないのだろう。わざわざ現地を訪ねても、何も収穫はないとは思っていたが、そのことが確認できただけでも良かった。そう自分を納得させながら赤い洋瓦の屋根をぼんやりと見上げていると、通りの向こうから誰かがこちらへ歩いてくるのに気づいた。怪しまれないよう、慌てて自転車を押して歩き出す。

 すれ違ったその人物は、おそらく若い女の人だった。おそらく、というのは、彼女がつばの広い帽子を被り、サングラスをして、さらには大きなマスクをつけているのでよく顔が見えなかったからだ。でもどこかのバンドのロゴがプリントされた派手なTシャツと、膝上丈のデニムスカートを身につけていたので、十代か二十代くらいだろうと思った。髪は肩につくかつかないかくらいの長さで、大きなトートバッグを提げている。

 僕以上に怪しげなその女の人がなんだか気になって、すれ違ったあと、少ししてから振り返った。彼女はゆったりした足取りで、ある一軒の家の前へと歩を進めた。そうして彼女がその家の門扉へ手を掛けた瞬間、僕は「すみません!」とつい大声で呼びかけ、自転車を急ターンさせて走り出していた。

「あの、この家の人ですか」

 どうにか息を整えながら彼女に尋ねる。《國友家》の門扉を開けたサングラスにマスクの女性は、驚いたようにくっきりと形の良い眉を持ち上げたまま、僕の方を見ている。「國友さんですか」と僕はもう一度聞いた。

「――ええ、私は國友咲良ですけど」

 戸惑っているような口調で、でもはっきりと彼女は答えた。驚きのあまり、声を出せずにいる僕に「君は、近所の子?」と、逆に尋ねる。一瞬、どう答えるか迷ったけれど「そうです」と答えた。

「最近越してきたんですけど、この家、誰も住んでいないのかと思ってたので」

 流れるように嘘を口にしている自分が、ちょっと怖くなる。でも今は、そんな内省をしている場合じゃない。

「そうなんだね。しばらく事情があって留守にしてたんだけど、今はこっちに帰ってきてるの。うち、家族がいなくて私一人だけなんだ。よろしくね」

 女の人は、怪しい外見ながらも、ごく親しげにそう告げて会釈をした。そしてトートバッグの中から、自然な手つきで玄関のものらしいキーホルダーのついた鍵を取り出す。

 これ以上、しつこく話しかけるのも変に思われそうなので、僕は「よろしくお願いします」と頭を下げて彼女に背を向けた。その時、「あ」と後ろで驚いたような声がした。

 振り向くと、彼女が僕のリュックを指差していた。

「君もそのゲームやってるの?」

 その言葉に、背負っているリュックに目をやる。ファスナーの持ち手のところに、昔はスイミングバッグにつけていたWoNのノベルティタグがついていた。

「私もそれ、最近始めたの。面白いよね」

 見ると彼女が手にしているキーホルダーと見えたのは、僕が持っているのと同じノベルティタグだった。三年前の発売当初から人気のないゲームだったのに、最近になって始めた人がいたなんて――と、ずっとこのゲームをプレイしてきた僕としては、こんな場面だが嬉しかった。サングラスとマスクで顔を隠した彼女に親近感さえ覚えつつ、「じゃあ、またね」と手を振って家の中へと入っていくのを見送った。

 自転車に跨がり家路を急ぎながら、僕はこの事実を未夢にどう話そうかと考えていた。

 行方不明になったと思われていた國友咲良は、自宅に戻っていた。ああやってマスクやサングラスで顔を隠しているのは、安堂篤子へのストーカー行為など、後ろめたいことをして姿を消していたからなのか。でも初対面の立場で、どういう事情で長く留守にしていたのかを尋ねることはできなかった。

 けれど彼女はWoNのプレイヤーだ。次に会う時にゲームの話で仲良くなれたら、安堂篤子との関係を含め、國友咲良自身のことを聞き出せるかもしれない。未夢も連れて行けば、女子同士だし僕なんかより話がしやすいはずだ。

 そうして作戦を練っていた時、背中に微かな振動を感じた。リュックの中でスマホが鳴っているのだと気づき、慌てて道の端に寄って自転車を停める。スマホを取り出すと、画面もよく見ずに緑色に光る通話ボタンを押した。

「海斗? 俺だけど――」

 耳を打ったのは、数日振りに聞く太市の声だった。

「未夢からLINEもらったんだけど、俺がお前らに動画見せたこと、真崇にばれたんだって?」

「あ、うん。ごめん――」

 僕は反射的に謝っていた。太市の声が、やけに平坦で、低かったからだ。まるで怒りを抑えているみたいに。

「いいよ、そのことは。それよりさ、動画のことはもう調べなくていいって、俺言ったよな。真崇の知り合いに近づいたり、お前ら、やってることおかしくね?」

「梶さんのことなら、偶然会って話しただけだよ。太市の団地に行った時に、たまたま向こうも真崇さんの家に行ってたみたいで」

 言いわけしながら、そんなことよりも太市に聞かなければいけないことがあるのを思い出した。

「太市、WoNのアカウント、本当に削除しちゃったの? どうしてそんなことしたんだよ。冬美真璃さんのこと、聞かれたのが嫌だったのなら悪かった。あれは全部、僕が勘違いしてただけなんだ。ちゃんと謝るから――」

「真璃のことは関係ない」

 硬く冷えた声で太市は断言した。眼前に光る刃物を突きつけられたみたいに、背筋が震えた。ふうっと息を吐く音。嫌になったんだ、と、太市はうんざりしたように吐き捨てた。

「海斗、お前、中途半端なんだよ。そういうところが、ずっと嫌だった。母親が嘘つきだって悪口言っといて、母親にべったり世話してもらって、塾とか部活とか、全部母親の言いなりじゃん。しかもお前も嘘つきだし。WoNにハピネスランドを作ろうとしてるっていうの、最初から本気じゃなかったんだろ。俺や未夢の気を引こうとしただけだ」

 落ち着いた、ゆっくりとした口調。動揺は感じられない。嘘じゃない太市の言葉。

 何か言おうとすると、涙声になってしまいそうで、僕は唇を固く閉じ、鼻で深く呼吸した。そうして少しでも気持ちを鎮めてから口を開く。

「本気だよ。本気で作ろうとしてる」

 声を上擦らせながらも、それだけは分かってほしくて訴えた。でも太市は、嘘だ、と断じた。

「じゃあお前、《池》はどうするつもりだった?」

 太市に問われていることが、すぐには読み取れず、僕は黙っていた。さっきより大きなため息の音のあと、太市は尖った声で言い立てた。

「WoNって地形を作り変えたりはできない仕様だろ。お前が買った土地には、池も川もない。わざわざ作ったあのボート、どこに浮かべるんだよ。あんな場所にハピネスランドなんか作れるわけねえじゃん。本気だなんて嘘つくなよ!」

 太市の言うとおりだった。ハピネスランドを作ろうとしたのは、思いつきで始めたことだった。池をどうやって作るのかなんて、あとで考えればいいくらいに思っていた。僕は全然本気じゃなかった。

 ハピネスランドは、絶対に完成しない、、、、、、、、 、、、、、、、、。そんなことにはもう付き合えない。

 最後に太市から告げられた言葉が、僕の胸に大きな穴を開け、そこからあらゆるものが流れ出ていってしまったみたいに、僕は空っぽになった。

 その晩、僕は食事もとらず、お風呂にも入らずにベッドに潜り込んだ。どこか具合が悪いのかと母親はいつものように世話を焼こうとしたけれど、返事をしないでいたらそのうちに諦めたみたいだった。

 色々なことが頭の中をぐるぐると駆け巡り、涙が止まらなくて、やっと眠れたのは明け方だった。昼頃に目を覚ましたら、家には誰もいなかった。

 リビングに降りると、昨晩ソファーに放り出したままだったスマホを拾い上げた。未夢からLINEメッセージが二件届いていた。

《予定より早く『幸せの国殺人事件』全ルートクリアできた。ヒントも全部集めた》

 画面をスクロールして二つ目のメッセージを読む。

《でもこのソフト、体験版だからバグがあったみたい。パスワード入れても何も起きなかった》

 僕はスマホをソファーの座面に叩きつけると、わあっと大きな声を上げて、床の上のクッションを蹴飛ばした。

【続く】

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