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第2回

幸せの国殺人事件

   

翌日、僕と未夢は放課後に学校近くのコンビニで待ち合わせて、そこから歩いて十分くらいの距離にある太市の家に向かった。太市が住んでいるのは、バス通りを右に折れて坂を上った先にある市営住宅の四階だった。

 去年の改修工事で設置されたばかりのエレベーターで四階へと昇る。四〇一号室のインターホンを押すと、すぐに鍵を外す音がして淡い水色の金属製のドアが開いた。

「久しぶり。母親、今日は仕事だから、上がって」

 前に会った時より少し髪が伸びた、でも元気そうな様子の太市が顔を出す。カーキ色のTシャツに学校の短パンというくつろいだ格好の太市は、先に立って廊下の先にある居間に続く引き戸を開けた。

 太市の両親は太市が五歳の時に離婚していて、太市は介護士として働く母親と、この市営住宅で二人暮らしをしていた。

「飲み物、コンビニで適当に買ってきた。あとお母さんが太市のところに行くって言ったら、これ持っていきなさいって」

 未夢はコンビニで買ってきたジュースのペットボトルと、母親に持たされたという紙袋を太市に手渡す。太市はローテーブルに置いた紙袋の中を覗くと、「リオーネのごまチーズパンだ。サンキュ」と嬉しそうな顔になった。

 未夢の母親は小学校のPTAで太市の母親と一緒にベルマーク委員をやったことがあって、今も時々やり取りがあるらしい。リオーネは未夢の母親がパートをしている惣菜パンが人気のパン屋だった。

 テーブルを囲んで座り、未夢がたっぷり持ってきたパンをそれぞれ一つずつ取って齧りながら、しばらくはなんとなく遠慮がちに、小学校の元同級生や先生の噂話をしていた。そのうち、先に食べ終えた未夢が、「昨日の動画だけど」と低い声で切り出した。

「太市、あれ、誰にもらったの? WoNで知り合った人って言ってたけど、なんでそんなことになったの?」

 未夢はまっすぐに太市を見据えて尋ねた。太市は下唇を噛んで言いにくそうに黙っていたが、少ししてテーブルの上のスマホに目を落とし、口を開いた。

「ちょっと前に、一緒にクエストやって仲良くなった人なんだ。多分、大学生だと思う。休講で暇になったとか言ってたから。その人に、神奈川に住んでるって教えたら、見てほしい動画があるって言われて」

 太市は最初のうちは母親との約束を守って僕らとしかチャットをしていなかったが、いつからか時々、クエストやイベントで一緒になった相手とチャットで話すようになっていた。僕は知らない人とのチャットが苦手なのでそこに加わることはなかったが、太市がたまにこんな話をしたなどと教えてくれるので、そのこと自体は把握していた。

「でもWoNのシステムだと、個別にメッセージのやり取りとかできないでしょ」

「メアド交換したんだよ。向こうから教えてくれて」

 あっさりと答えた太市に、未夢が目を剥いた。

「知らない人とメールのやり取りするなって、学校でも言われてるでしょ。その大学生ってどこの人? ていうか、あの動画はなんのために送ってきたの?」

 凄い剣幕で追及された太市は、困ったようにうつむいた。

「それが、あの動画を送ってきてすぐに、向こうがアカウント消したみたいなんだ。何度メールしてもエラーになって。だからもう調べようがないし、話も聞けない」

 あまりに手がかりのない情報を聞かされ、未夢は何か言いたそうな様子だったが、その間を与えず太市は「それで二人に相談したかったんだ」と続けた。顔を上げた太市が、真剣な表情で僕たちを見つめる。

「あの動画、俺は本物だと思う。だってフェイクにしてはリアルすぎじゃね? 何回も見直したけど、編集したようなポイントがなかったし」

 確かに、その点は太市の言うとおりだった。僕もあれから、フェイク動画の見分け方について調べてみたのだが、何度スローにして注意して見ても、加工されたような不自然な箇所がなかった。もしもあれが作り物だったのだとしたら、相当な技術を持った人間たちが、それなりの手間とお金をかけて作ったとしか考えられない。

「なんであんな動画、撮ったのかな。最後にあのレインコートの犯人がカメラを止めたってことは、自分がやることを記録してたってことだよね」

 動画の最後のシーンを思い出したのか、青ざめた未夢が眉根を寄せる。

「分かんないけど、例えば犯人は誰かに依頼されて女の人を襲って、依頼人に証拠を見せるために撮ったとか」

 太市が述べたその推測は、僕も考えていた。他にももう一つ、猟奇的な犯人が残酷な映像をあとで自分で見返すため、という理由を思いついたのだが、未夢をさらに怖がらせそうなので、ここでは言わずにおいた。

「――じゃあ、どうするつもり? 本物だったら、放っておけないよね」

 未夢がおずおずと尋ねる。太市はすぐには答えず、話すのを迷うように唇を尖らせていた。やがて探るような目で僕らを見ると、ようやく口を開く。

「未夢をこの件に関わらせるつもりはないけど、海斗に、頼みがあるんだ」

 そう前置きをして、僕の方へ体を向けて告げた。

「ハピネスランドに、あの動画が本物か確かめに行くから、、、、、、、、、、、、、、、、ついてきてくんない、、、、、、、、、?」

 予想外の言葉に、呆気に取られて太市を見つめた。

 僕はてっきり、太市の代わりに、誰か大人にあの動画のことを伝えてほしいと頼まれるのだと思っていた。太市はゲーム内で他人とチャットでやり取りすることを禁じられている。母親に動画のことを話すわけにいかないから、代わりに僕に言ってほしいという話だと考えていたのだ。

「馬鹿じゃないの、太市。今のハピネスランドに、入れるわけないじゃん」

 僕が何か言うより先に、未夢が鋭い声で撥ねつけた。

「五年前に閉鎖されたあと、ハピネスランドの敷地は元々あったフェンスの上に有刺鉄線が張られて、部外者が入り込めないようになってるの。四箇所ある入口は全部封鎖されていて監視カメラまでついてるし、フェンスには振動に反応するセンサーもついてるって聞いたことがある」

 ハピネスランドフリークの未夢は、閉鎖になったあとのハピネスランドについても詳しかった。でもそのセンサーの話は、僕もニュースで見たので知っていた。ハピネスランドが閉鎖されて間もない頃、地元の不良たちが敷地内に侵入して騒ぎを起こす事件があり、それから警備が厳重になったのだ。

「だけどあんな動画が撮影されてるってことは、ハピネスランドが閉鎖されてから、《恐怖の館》に入った奴がいるってことだろ?」

「そんなの分からないでしょう。閉鎖される前に撮られたものかもしれないんだし」

 太市の主張に未夢が即座に反論する。すると太市は「それは違う」とスマホを手に取り、保存されていた動画のファイルをタップした。

「LINEと違って、メールで送られてきた動画はある程度情報が分かるようになってんだ。プロパティ見ると、この動画ファイルが作成されたのは今年の一月なんだよ」

 太市がこちらに見せたファイル情報には、確かに《2022/1/22》とある。ということは、あの動画は今から半年ほど前に撮影されたものなのだろうか。

 続けて太市は地図アプリを起動すると、ハピネスランドの区画を表示させ、衛星写真モードに切り替えた。テーブルに置いたスマホをこちらに向けて、真剣な顔で説明する。

「確かに振動センサーがついてるらしいけど、多分それって一部だけなんだよ。昨日、調べてきたんだ。敷地の北側って、農道になっててあまり人が通んないじゃん。そっち側のフェンスに何箇所か、バスケのボールをぶつけてみたけど何も反応がなかった。で、その北側のフェンスに、壊れてるっぽいところがあるんだ」

 言いながら、太市が画面の上に指を滑らせると、昼間に撮ったものらしい画像が表示された。ハピネスランドの高さ二メートルほどのフェンスが、幅数メートルにわたってブルーシートで覆われている。その中央部分は、周囲より少し低くなっているように見えた。

「正面から撮ったから分かりにくいと思うけど、真ん中の辺りが凹んで内側に傾いてんだ。多分事故か何かで、車とかがぶつかったんじゃね? ブルーシートの中を覗いたら、フェンスが枠から外れて、三〇センチくらいの隙間が空いてた」

 そこで言葉を切ると、太市は僕の方を向き、張り詰めた表情で懇願する。

「中に入るのが嫌だったら、俺が入る時に人が来ないか見張っててくれるだけでもいいし。来週から夏休みだろ? 海斗に予定合わせるから、部活とか塾のない日に半日だけ、付き合ってくんない?」

 その頼みに応じるかどうか以前に、太市に確かめなければならないことがいくつかあった。僕は太市を見返すと、まずは一番疑問に感じていることを尋ねる。

「太市は、どうして動画が本物かどうか、自分で調べに行こうなんて思ったの?」

 あの動画が、単に知らない人から送りつけられたものだったとすれば、太市がそんなことをする理由はどこにもないはずだ。

「本物だったとしたら、あんなことをする人間が出入りしている場所に立ち入るのは危ないって分かるよね。太市も、危険だと思うから、僕に一緒に来てほしいんだ。そうまでして、大人に知らせずに調べようとするのは、どうしてなの?」

 この当然の問いかけに、太市は黙り込んでしまった。やっぱり言えないのだ。それが分かった上で、僕はもう一つ確かめなければいけないことを問いかける。

「あの動画を送ってきたのは、誰だか分からない大学生なんかじゃないんだろ。本当は太市の知ってる人で、心配だけど騒ぎにしたくないから、自分で調べようとしてるんだ」

 僕は太市の口元をじっと見守った。けれど太市の唇が動く前に、未夢が「海斗、もうやめなよ」と割って入った。

「なんで太市が嘘ついてるって決めつけるの? 怖いんだけど。そんなふうに一方的に疑って、責めるような言い方しないでよ」

 長い前髪を透かすようにして、未夢は僕を睨んでいた。太市は僕たちから目を逸らし、顔を伏せた。

 嘘をつく母親のもとに育ち、その環境に適応してきた僕にとって、太市の嘘を見抜くのは簡単だった。太市は嘘をついたり、隠し事をしたりする時、唇を噛んだり、目線を合わせなくなったりといった仕草を見せる。

 それに未夢も多分、太市の嘘に気づいている。自分が本当のことを聞きたくないから、僕が問い詰めるのを遮ったのだ。

目のふちを赤くした未夢に、ごめんと謝って太市の方を向いた。そして「分かった。一緒に行くよ」と答えた。僕は二人の仲間だから、困ってほしくないし、助けたかった。

 はっとした顔でこちらを見た太市は、肩の力が抜けたように息を吐いた。ありがとう、と小さくつぶやいた太市の、いつになく気弱な表情を見て、僕は最後にするはずだった質問を飲み込んだ。

 できることなら、この場できちんと太市に確かめておきたかった。 「あの動画、冬美真璃さんからもらったんじゃないの、、、、、、、、、、、、、、、、、、」と――。

   

夏休みに入った一週目の水曜日。塾も部活もないその日、僕は図書館で宿題をやると母親に告げて、午前九時に自転車で家を出た。お昼ご飯代や麦茶の水筒を持たされたり、帽子をかぶれと注意されたりと世話を焼かれたのは嫌だったけど、珍しく僕の方が母親に嘘をついたことは、なんだか普段の仕返しのような気がして胸がすっとした。

「こんな時間に起きたの、すげえ久しぶりかも」

 藤沢駅で待ち合わせた太市は、黒のTシャツに迷彩柄のハーフパンツ姿でボディバッグを背負い、照りつける真夏の太陽を眩しそうに見上げた。

 二人で駅近くの駐輪場に自転車を駐めると、バスターミナルへと向かう。ハピネスランド行きの直通バスはもちろん閉園とともになくなっていたが、その区画に近いバスの停留所を調べてあった。ちょうど来たバスに乗り込み、駅から二十分ほど郊外へ行ったところで、目当ての停留所に着いたので降りる。

 まず僕たちはハピネスランドの正面の入口へ向かった。北側に行くのには、そこを通る必要があったからだ。閉園から五年経っても、ハピネスランドはほぼ解体されることなく残っている。運営会社が負債を抱えた状態で事業から撤退したことで、解体するための費用が残らなかったからだという。今のところ、売却先も決まっておらず、解体工事が始まる目処は立っていないとのことだった。

 ハピネスランドのマスコットキャラの黄色いイルカが描かれた、大きなアーチを見上げる。家族や同級生たちと何度もくぐった、カラフルなアーチを掲げた正面のゲートは、今は閉ざされている。ゲートの柵には、太い鎖が何重にも巻かれていた。僕と太市はどちらともなく立ち止まり、中を覗き込んだ。

 ゲートの奥には、水色の屋根のチケット売場が見えた。その横に、一人ずつ金属のバーを回して入るタイプの入園ゲートが五列並んでいる。チケット売場の手前にピンク色のベンチと黄緑のくずかごが置いてあって、太市と指を差して笑った。

「海斗が最後にハピネスランドに来たのって、小一の遠足?」

 僕がそうだとうなずくと、太市は「俺はそのあとに、もう一回だけ来たんだ。閉園する一週間前に、母親が連れてきてくれてさ」と言って懐かしそうな顔になった。

「閉園直前だったから、めっちゃ混んでて。ジェットコースター乗るのも一時間待ちで、ほとんど遊べなくて、ひたすら疲れて帰ったんだよな」

 フェンスの向こうに覗く観覧車や回転ブランコの鉄塔を横目に見ながら、太市と連れ立って敷地の北側を目指す。ようやく農道へと折れる角に差し掛かった時、歩道の先に佇む人影が目に入った。

 思わず足を止め、陰から様子を窺う。太市が「嘘だろ」とつぶやいた。ブルーシートで覆われた、例のフェンスが壊れた箇所の前に立っていたその人物は、こちらに気づくと、少し気まずそうに手を振った。

「ごめん、黙って来ちゃった。言えば駄目だって止められると思って」

 薄手の半袖パーカーに紺色の短パンという格好の未夢は、長い髪を後ろに束ね、顔を隠すように黒いキャップをかぶっていた。背中には小さなリュックサックを背負っている。

「なんで来たんだよ。未夢のことは関わらせないようにするって、言っただろ」

 駆け寄った太市が、強い口調で問い質す。その剣幕に、未夢は少しだけ申しわけなさそうになったが、僕らを見返すと熱のこもった声で言い立てた。

「あれからもう一度考えたんだ。あの動画は誰が、なんのために撮ったのか。太市は女の人を襲った犯人が、自分がやった証拠として撮影したんじゃないかって言ったでしょう。でも私、別の理由を思いついたの。その考えが合っているか、確かめたくて」

「なんだよ、別の理由って――」

 困惑した顔で尋ねた太市に、未夢はにっこりと微笑んで答える。

「私のことも連れていってくれるなら、《恐怖の館》に着くまでの道で教えてあげる」

 大胆不敵な物言いに、太市と僕は顔を見合わせた。

 本当なら、未夢を危ないかもしれない場所に連れていきたくはなかった。だけど未夢が考えついた別の理由とやらは、凄く気になる。

「きっと二人とも、絶対に思いつかないような理由だよ。だってこの中では、私しか知らない話だと思うし。それに私が考えた理由が正解だったら、中に入って調べても、多分危険はない」

 そう考えているから、未夢はこんなにも余裕たっぷりでいるのだと納得した。太市と視線を交わす。あの動画が撮られた目的。未夢の推測が当たっているかどうかは分からない。でも僕らの考えが合っているという自信もなかった。だったらここは――。

「分かった。一緒に行こう」

 太市が観念したように言った。「未夢が一緒なら、迷子になることもないし」と太市が付け加えると、「まかせて。最短ルートで案内するから」と未夢が親指を立てる。そしてフェンスの向こうの複雑にうねったレールを見上げた。

「ジェットコースターがこっちにあるってことは、中に入って左に進むのが近道だよ。ちょうど売店とかレストランの建物が目隠しになるから、通りから見られる心配もない」

 早くも頼もしいナビゲーション能力を発揮する未夢に苦笑したあと、太市は真顔になって周囲を見回す。

「人が来ないうちに入っちゃおうぜ。俺が最初に行くから、誰か来たら、フェンスを叩いて合図して」

 そう言うと、太市は素早い動作でブルーシートをめくり、小柄な体を滑り込ませた。僕と未夢とで左右を見張る。ブルーシートの内側で、金属が軋む音がした。シートの中を覗くと、太市は外れたフェンスを片手で押さえながら、枠との隙間を通り抜けているところだった。ボディバッグは先に投げ入れたのか、敷地の内側に転がっている。太市は無事に侵入するとフェンスを掴んだまま、こっちに手招きする。

「未夢、行って。僕が最後になる」

 未夢は緊張した顔でうなずくと、太市にならってブルーシートに潜り込んだ。僕はそれを自分の体で隠すようにしながら辺りに目を配った。再び金属が軋む音、そしてアスファルトを擦る靴音がしたあと、「海斗、来て」と未夢がささやく声がした。

 周囲を確認しながらブルーシートに手をかけた時、右の車道から、軽トラックがこちらに曲がってきたのが見えた。とっさにスマホを取り出し、画面を見ながら歩き出す。歩きスマホは良くないけれど、こうしていたら単なる通行人に見えるだろう。うつむいていれば、顔を見られることもない。

 軽トラックはそもそも歩道の中学生など気にしていなかったのか、スピードを落とすこともなく通り過ぎていった。もう一度左右を見たあと、ブルーシートをめくって潜り込む。フェンスの向こうから太市と未夢が早く早くというように手招きするが、僕はあいにく二人よりも体が大きい。水筒やなんかを入れてきたリュックを放り込んだあと、苦労して外れたフェンスを押し開けて、どうにかジェットコースターの真下に出ることができた。

「今はブルーシートが目隠しになってるけど、物陰に入らないと道路から丸見えだよ」

 未夢は左手に見える大きなテントのようなものを指差すと、「あそこまで走ろう」と言うが早いか駆け出した。足の遅い未夢を追い抜かないように、僕と太市はスピードを加減しながらあとへと続く。

 テントと見えたのは、コインゲームがいくつか置かれた遊技スペースだった。小さい子供が乗って喜ぶような、百円玉を入れると音楽を奏でながら動き回るパンダやうさぎなどの乗り物が、ひっそりと隅の方に並んでいる。そこを過ぎると、右手にコーヒーカップが見えてきた。円形の柵の外側に、《安全第一》と書かれた黄色と黒の縞々の囲いが置かれている。野ざらしにされたカップの中には、落ち葉や枯れ枝が溜まっていた。

 園内にいくつかある水色屋根のチケット売場の前を過ぎる。ガラスの小窓の内側のカーテンは閉じられ、元は白かっただろう布地が黄色く変色していた。頭上を横切るスカイサイクルのレールを見上げると、カーブの内側にカラスの巣らしきものが作られていた。その上に、ぷかぷかと綿雲を浮かべた真っ青な夏空が広がっている。

 未夢の後ろについて歩きながら、僕ら以外に動くもののない遊園地の光景を眺めた。もっとしんとしているかと思ったが、園内に緑が多いせいか、セミの声がそこかしこから降ってくるし、バイパスを走る車の音も結構うるさい。なので僕らがおしゃべりをするのに支障はなかった。

「未夢、早く教えろよ。動画が撮影された、別の理由って?」

 太市が未夢の背中に問いかける。五年越しで入園が叶ったハピネスランドを感慨深そうに見渡していた未夢は、こちらを振り向くと、唐突にある言葉を告げた。

「太市と海斗は、聞いたことあるかな。『幸せの国殺人事件、、、、、、、、』――二、三年前に、結構話題になってたんだけど」

 未夢が口にした事件に、僕はまったく心当たりがなかった。語句のイメージから、新興宗教か何かが関わっている事件なのだろうかと想像する。隣を見ると、太市は何かを思い出すように視線を上に向けていた。

「それって、いつ起きた事件?」

 僕が尋ねると、未夢は「やっぱ海斗は知らないか」と苦笑する。

「現実に起きた事件じゃないの。『幸せの国殺人事件』はインディーズのノベルゲームのタイトル。ミステリーなんだけどシナリオが秀逸で、凄く出来がいいって、ゲームのコミュニティで評判だったんだよ」

 未夢の説明に、太市が「ああ、あれか」と声を上げた。

「どっかで聞いたことあると思った。俺はやってないけど、確かあのゲームって、遊園地が舞台なんだろ?」

 未夢は「そう、よく知ってたね」と感心したようにうなずくと、さらに詳細を解説してくれた。

 そのゲームはインディーゲーム――ゲームソフトメーカーではなく個人やサークルによって製作されたいわゆる同人ゲームで、遊園地で起きた殺人事件をめぐる謎を解くアドベンチャーゲームなのだという。プレイヤーは小説を読むような感覚でゲームを進めながら、場面の分岐点で提示される選択肢を選んでいく。そこでの選択によってその後の展開が変わり、事件を解決できるかどうかといった結末も変わっていくのだそうだ。

 製作者は関東在住の大学生らしく、タイトルにある《幸せの国》はゲーム内に登場する架空の遊園地の名前に由来している。そこから推察して、ハピネスランドがモデルとなっているのではという説が出回っていたという。

「だからあの動画は、ゲームファンが悪ふざけで作った、よくできたフェイクなんだよ」

 そう未夢は断言した。ゲームの中で起きる殺人事件の被害者は若い女性とのことで、動画は事件の場面を再現したものではないかというのだ。

「このゲーム、ダウンロード販売はしてなくて、市場に出たソフトの本数も少なかったから、幻のゲームみたいになってるんだ。凄く評価されてるのに手に入らなくて、私も実際にプレイはできてないの」

 未夢は残念そうにため息をついた。ということは、ゲームの中の事件のシーンとあの動画が似ているかどうかは分からないわけだ。

「だけど、悪ふざけにしてはクオリティが高すぎないかな。ゲームのシーンの再現だとしたら、あんなにリアルにする必要はないんじゃない?」

「あのゲームには、かなりコアなファンがついてるんだってば。製作者はAAってハンドルネームの謎の人物で性別は不明。関東の大学に通う学生だってことしかプロフィールを公開してなくて――」

 僕の投げかけた疑問に、未夢がむきになって反論しようとした時だった。

「着いたぞ。《恐怖の館》」

 太市が前方を指差す。手入れされることのなくなった、鬱蒼と茂る立ち木の向こうに、二体の不気味な泥人形を門番に従えた、石造りの館を模した建物が姿を現した。

 館の鉄製の門は閉じられ、南京錠が掛かっていたが、門の高さは僕らの身長ほどしかないので、よじ登って乗り越えることができた。

 エントランス部分には動画にあった部屋と同じ凝った柄の壁紙が貼られていて、料金表や《泥酔している方、心臓の悪い方の入館はご遠慮ください》といった注意書きのボードが残されていた。中央に受付カウンターが据えられ、後ろの棚には石仮面や骸骨といったホラーな置物が飾られている。そのカウンターの左右にそれぞれ黒いカーテンの掛かった出入口があり、左が入口、右が出口となっていた。

「動画が撮られた部屋は、恐怖の館のコースだと終わりの方にあったから、出口側から入るのが早いと思う」

 未夢の的確な指示に従い、僕らはそれぞれ持ってきた懐中電灯をリュックやバッグから取り出すと、右の出口のカーテンに向かった。

「一本道だし迷うことはないと思うけど、暗いから足元に気をつけてね。壊れてるところもあるかもしれないし――」

 言いながら、勇敢にも未夢は先頭になってカーテンをめくった。そして大股で通路に踏み出した直後、ひゃあっと情けない声を上げた。何が起きたのかと、太市が慌てて未夢のいる場所を懐中電灯で照らす。未夢の右足が、通路の床に足首の辺りまで埋もれていた。

「出口から入るなんてしたことないから、うっかりしてた。出口の直前に、床がスポンジになってる落とし穴が仕掛けてあるんだった」

 未夢は恨めしそうな顔でスポンジの床から足を引き抜くと、肩を落とした。

「一本道なら誰が先頭でも同じだし、俺が先に行くよ。俺、お化け屋敷とか全然平気な方だから」

 太市が優しいところを見せて未夢と先頭を替わる。そんな二人のやり取りを、僕は無言で見守っていた。僕だって替わってあげられるものなら替わってやりたいが、とてもそんなことはできなかった。僕の恐怖耐性は、アルバムの写真の中で半べそで父に抱かれていた頃と、ほぼ変わっていない。さっきは未夢の悲鳴を聞いて、自分まで叫びそうになるのを必死でこらえたほどだったのだ。

 太市の次に未夢が、最後に僕が続く陣形で、暗くて狭い通路を進んでいく。通気が悪いせいか、梅雨時の図書室のような埃っぽい、湿っぽい臭いがした。しばらく行くと、壁の左手に鉄格子が見えてきた。牢屋のような小部屋の中央に、西洋風の棺桶が一つ置かれている。太市は通路の床を照らすと、少し出っぱっている板を、どん、と踏みつけた。

「この板を踏むと、棺桶が開いてゾンビが飛び出す仕掛けだったんだけどな。やっぱ電気が通ってないと無理か」

 残念そうにつぶやく太市の背中に(余計なことすんなよ!)と心の中で毒づいた。動かないと分かっていても恐ろしくて、板を踏まないように、棺桶の方を見ないようにして通り過ぎる。

 次の小部屋にあるのは鎖に繋がれた狼男の蝋人形だったが、これも電気が通っていないおかげで吠えたり動いたりしないので助かった。ビニール製の蜘蛛の巣が切れて垂れ下がっている箇所を、首をすくめてくぐり抜けた先に、ついに見覚えのある暖炉のある部屋が現れた。太市が部屋の中へ懐中電灯を向け、「あ――」と驚いた声を上げる。

 部屋の入口に立ちつくす太市の後ろから、未夢が室内を覗き込む。そして一点を凝視したまま足を止めた。いったい二人は何を見たのだろうと恐怖しながらも、そこに何があるのか興味の方がまさった。ゆっくりとそちらへ近づく。

 これまで見た中では一番広い、うちのリビングくらいはありそうな部屋の中央に、ロッキングチェアがこちらに背を向けて置かれていた。そこに誰かが座っているのが見えて、思わず息を呑んだ。背筋がぞくりと冷たくなる。

 肘掛けに置かれた腕の滑らかな質感で、人形だということはすぐに分かった。けどその人形から、僕は目を逸らせなかった。人形は白いドレスを着ていた。

「この人形、動画には映ってなかったけど、前からこの部屋にあったやつだよ。人が近づくと、椅子が揺れるの。でも、髪が――」

 未夢が人形を指差し、震える声で言った。遠い日に父とともにこの部屋を訪れた時の光景が蘇る。長かったはずの栗色の髪の毛は、まるで子供がいたずらしたみたいに雑で乱暴な切り方で、短く刈られていた。

 太市は部屋の隅々に懐中電灯の光を走らせ、誰もいないことを確認すると中へと踏み込んだ。僕と未夢も太市のあとに続く。太市はまず人形に近づき、頭の部分に懐中電灯を向けた。無表情な白い顔が照らし出され、心臓が縮み上がる。

「この髪の毛、ハサミか何かで適当に切ったって感じだよな。切った髪の毛が落ちてないってことは、持ち去ったか捨てたんだろうけど」

 気味悪そうに人形を見下ろしていた太市が、何かに気づいたように腰をかがめた。懐中電灯の向きを変え、肘掛けの辺りを熱心に調べている。やがて顔を上げると、「海斗、これ見ろ」と僕を呼んだ。近づいて太市が指す箇所に目を凝らす。肘掛けの一部のニスが、幅一センチほどの太さで線状に剥がれていた。

「これ、ロープか何かが擦れた跡じゃね? 反対側にも、脚の方にも、同じような跡がついてる。合計四箇所」

 太市は言葉を切ると、息苦しそうに顔をしかめた。それが何を意味するか、想像したのだろう。未夢は顔を強張らせ、人形の座る椅子から目を背けた。

「誰かが、縛られていたかもしれないってこと? でもだからって、その人が酷い目に遭ったとは限らないよ。あのフェイク動画を撮った人たちが、同じようにふざけてそういうシーンを撮ったのかも」

 そう言うと未夢は懐中電灯の向きを変え、床の絨毯を照らし始めた。まんべんなく一面を調べ終えると、ほっとした顔になる。

「ほらやっぱり、絨毯に血の跡なんてついてない。きっとあの動画は、血が流れたみたいに加工したものだったんだよ」

 確かに未夢の言うとおり、絨毯にそれらしき痕跡は残っていなかった。血の汚れは取れにくいはずだし、ここまで綺麗に洗い落とせたとは思えない。

 未夢はあくまで、あの動画はゲームファンが悪ふざけで撮影したものだと信じたいようだった。僕にも未夢の気持ちは分かった。そうでなければ、僕らは今、あの動画の中で女の人が痛めつけられていた、まさにその場所に立っていることになる。

 血の気の引く思いで自分の足元を見つめていた時、太市が不意に椅子の背に手をかけた。そして腕に力を込めると、人形ごと椅子を引きずり始める。「何してるの」と大声を上げた未夢に、太市は平然とした調子で答えた。

「ここに椅子があったら、絨毯めくれないし。ちゃんと調べて下の床にも何も跡が残ってなかったら、あの動画は未夢の言うとおりフェイクだったってことで帰ろうぜ」

 僕も太市を手伝って、人形が座るロッキングチェアを部屋の隅まで運んだ。そして端の方から、三人がかりで絨毯をくるくると巻き上げる。半分ほど板張りの床が見えたところで、真ん中の位置にいた太市が動きを止めた。

「見ろよ、これ」

 絨毯を押さえながら、太市が僕に目配せした。立ち上がり、太市のいる辺りを懐中電灯で照らす。未夢も恐る恐るといったようにそちらに顔を向けた。

 床板に、いくら擦っても落とせなかったらしい、黒い染みが薄く残っていた。その周りには、何か硬いものが当たったと見える凹みがいくつもあった。

 僕らは顔を見合わせた。太市は少し怒っているような顔で、未夢は泣きそうな顔をしている。僕はどんな顔をしていたか分からないけれど、ただ(どうしよう)と思っていた。

「どうする?」

 僕の心を読んだように、太市がぼそりと言った。  

 それから三人で話し合った。でも、すぐには結論は出なかった。

   

そのあと、僕たちは絨毯と人形とロッキングチェアを元の位置に戻し、侵入した形跡を残さないように注意してハピネスランドを出た。時刻は昼を過ぎていたが、誰もお腹が空いていなかった。三人で一緒に昼ご飯を食べることもなく、藤沢駅で別れてそれぞれ家に帰った。

 話し合いで一つだけ決まったのは、「これからどうするかを来週の月曜に話し合おう」ということだった。僕は明日から部活と塾があり、未夢も塾の夏期講習があるので、三人で集まって話せるのは、最短でも次の月曜だったのだ。

 部活も塾もない太市はやや不満げに「WoNのチャットで話せばいんじゃね?」と提案したけれど、このことは顔を合わせて話したいと、僕は譲らなかった。

 話し合いの日まで、僕は落ち着かない気持ちで、県内で行方不明になった女の人がいないか、誰かに危害を加えられて大怪我を負った女の人がいないか、ネットで情報を探した。でも僕が見つけたここ一年くらいのニュースには、被害者の詳しい情報なんかは載っていなくて、あの動画に映っていた白いワンピースの女の人は誰なのか、どうなったのか、手がかりは掴めなかった。

 そして月曜の朝を迎えた。僕が八時に起きてリビングに下りると、母親が「朝早くから何回も海斗のスマホが鳴っててうるさかったよ」と不機嫌そうに言った。見ると太市からの着信が、朝の六時過ぎから十件近く入っている。

 スマホから充電ケーブルを引っこ抜くと、廊下に向かいながら太市にかけた。太市は二回目のコール音ですぐに出た。

「海斗、ニュース見た?」

 緊迫した声が耳を打つ。「見てない。なんかあったの?」と聞き返し、テレビの方を振り向いた。

 いつもの朝の情報番組では、ヘリコプターから撮影したらしい上空からの映像が流れている。観覧車。ジェットコースター。回転ブランコ。夏休みのレジャー特集かと思ったが、やがてそうではないと分かった。あのカラフルなアーチは――。

「ハピネスランドで、女の人の遺体が見つかったって。頭部に損傷があって、他殺と思われるって言ってて」

 太市の言葉を聞きながら、テレビの前に立ち尽くす。深刻な表情でニュースを読むアナウンサーが、僕の顔をまっすぐに見て告げた。

《発見された遺体は白骨化しており、死後数年が経過しているものと思われます、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

【続く】

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