夜も更けつつある時間、帝都の下町に女性の悲鳴が響き渡る──。
「きゃあああああ!」
夜闇に響いた声の主を、助ける者はいない。
女性は必死になって逃げていたものの、彼女を追う者はいなかった。
目には見えない〝なにか〟から、逃れるように走る。
行き着いた先は帝都を流れる川。
川に飛び込んだら、この恐ろしい状態から逃げきれるだろう。けれども彼女はどうしようもなく、水中に身を投じることが恐ろしかった。
追い詰められた女性は震えながら、一刻も早く朝になるよう祈る。
だが、願いは叶わず──彼女は翌日、遺体となって発見された。
平和になったはずの帝都に、新たに忍び寄る影があった。
第一章 契約花嫁は、新たな役目を任される
各地で桜が満開となる美しい季節。馬車の中で見目麗しい男女が寄り添って座っていた。
男性の年頃は二十代半ばほどで、気だるい雰囲気と眠たげな垂れ目が印象的な和装の似合う青年である。名前を山上装二郎といい、帝都で名だたる華族の出身だ。彼は白檀の匂いをまとう古風な男性で、端整な見た目であるものの、少しぼんやりとした印象がある。
一方、女性の年頃は二十歳前後で、黄金色の美しい髪に海のように深い青い瞳を持つ。名は山上まりあ。髪と目は異国人の母親譲りで、勝ち気な雰囲気が漂う、洗練された美人である。
今日、夫婦であるふたりは共に馬車に乗り、まりあの実家である久我家を目指していた。下町のあばら屋に住んでいたまりあの両親であったが、主である父の横領の疑惑が晴れたのと同時に住み慣れた屋敷に戻ってきたため、会いにいくのだ。
山上家から久我家まで、馬車で二十分ほど。久しぶりの両親と過ごす時間に、まりあは心を躍らせていた。
「まりあ、僕が行ってもよかったの? 親子水入らずで楽しんだらいいのに」
「父も母も、装二郎様とお会いするのを楽しみにしているようでしたので」
「そうだったんだ。だったらよかった」
装二郎はやわらかな微笑みを浮かべる。以前は少し陰があるような空気をまとっていたが、今はきれいさっぱり晴れやかだ。
装二郎は今日、これまで伏せていた山上家の事情を打ち明ける決意と共に向かっているのだという。
「僕が山上家の当主じゃないって知ったら、がっかりするかな?」
「おそらくその辺も心配いらないかと。父は最初から気づいていたような気がします」
「僕が山上家の当主ではないって?」
「ええ。父は普段、柔和な印象しかないでしょうが、勘が鋭いところがあるのです」
──山上家が長年にわたって秘匿し続けてきた、双子の片割れとしての呪いのような役目を装二郎は負っていた。
山上家は三百年前に一度、当主の命が狙われ一家断絶の危機に陥った。その際、一族の血に大がかりなまじないが刻まれたのだ。
それは、山上家には必ず双子の男児が生まれるというもの。
兄を継承者として世に姿を出さないように育て、弟には予備として当主のふりをさせつつ表立った活動をさせる。
すると命を狙われるのは予備で、継承者の命は守られるのだ。
つまり装二郎は予備であり、命の危機にさらされる可能性がある山上家の当主の身代わりを務めていたのだ。
そんな装二郎だが、ある一点において失敗していた。
「魔眼持ちであるまりあのお父さんだから、噓を暴く異能を持っているとか?」
「ちがいます。結婚を申し込んできたとき、装二郎様は自分の本名を名乗っていたでしょう?」
「あ!」
山上家の当主は装二郎の双子の兄、装一郎である。社交界へめったに姿を現さないものの、その名前は広く知れ渡っていた。
それなのに、装二郎は自らの名で結婚を申し込んだ。
「顔合わせの席で、父は名前を確認していましたよね?」
──やや、装二郎君といったか。よく来てくれた。
「うわ、言ってた!」
装二郎はまりあの父の言葉を思い出し、思わずといった様子で額に手をあてる。
「たぶん、あのときに、まちがいでないか確認を取ったのだと思います」
「そうだったんだ。ぜんぜん気づいていなかったよ」
当時の装二郎は、まりあと結婚したいと熱望するあまり、継承者の花嫁を選別する予備の役割について、すっかり失念していたらしい。
それゆえに、装一郎と名乗っていなかったのだという。
「でも、よく当主ではない男との結婚を許してくれたよね」
「まあ、あのときの久我家は落ちぶれておりましたし、結婚相手を選んでいるような状況でもありませんでしたので。ただ、お父様のことですから、誰でもいいと考えていたわけではないと思います」
まりあの父親は装二郎をいたく気に入っていた。その理由については謎だが、なにかきっかけがあったのだろう、とまりあは推測している。
まりあは装二郎の手をそっと握り、安心させるように励ます。
「なにも心配はいりません。今日はお父様とお母様がうすうす察していたことを、装二郎様の口から説明するだけですので」
なにがあってもまりあは装二郎の味方だ。そう耳打ちすると、装二郎は安堵した表情で頷いた。
装二郎がそっと身を寄せると、白檀の香りがかすかに鼻先をかすめる。
まりあが世界で一番安心する香りだ。
白檀の香りは強くなく、今みたいに近づかないとわからない。そのため、まりあは装二郎の肩に身を預け、馨しい香りに酔いしれたのだった。
やがて帝都でもひときわ目を引く異国風の建築物である、久我家の屋敷に到着する。下町に住んでいた時代にはいなかった執事と侍女が出迎え、まりあの父親のもとへと案内してくれた。
水晶でできた室内灯が輝く客間で、親子は久しぶりの再会を果たす。
「まりあ、よく来てくれた!」
「装二郎さんも、いらっしゃい」
下町で暮らしていたときとなにひとつ変わらない笑顔で、まりあの両親は迎えてくれた。母の抱擁を受けたまりあは涙が出そうになる。けれどもぐっとこらえ、笑みを浮かべた。
装二郎は風呂敷に包んでいた酒瓶を差し出す。
「あの、これ、今流行のウヰスキーです」
「おお! なんともすばらしい物を、ありがとう」
異国から輸入したという年代物のウヰスキーは、装二郎と共に選んだ品だ。気に入ってくれたようで、ホッと胸を撫で下ろす。
両親揃って酒が大好きなので、楽しんでくれるだろうとまりあは考えたのだ。
侍女が淹れてくれた紅茶を飲みつつ、近況を語り合う。
まりあの父親は爵位を取り戻し、元の忙しい生活に戻ったようだ。しかしながら、以前と変わらない暮らしも続けているという。
「週末は豆腐店で働いているんだよ」
「まあ! お父様、どうしてそんなことを?」
「豆腐づくりの仕事が思いのほか楽しくてね、職場の人達との付き合いも続けたいからだよ」
伯爵である父と下町の豆腐店の者達とは、立場が異なる。社交界に戻ってきた以上、以前と同じ付き合いはできない。
「けれども、働いているときは伯爵でなく、ただの労働者になれる。だから、豆腐店の仕事を通じて彼らとの関係を続けているんだ。何者でもなかった私と仲良くしてくれた人達とのご縁は、かけがえのないものだから」
久我家が没落したばかりの頃、まりあは伯爵令嬢ではない自分に価値を見出す人なんていないことを知った。誰もまりあを見ていなかったのである。それは彼女だけでなく父親も同じだったのだ。
身分社会にいると皆、地位や財産、家柄のみに目がいき、誰もその人自身を見ようとしない。
「なにもかも失ってしまうと、自分がいかにちっぽけな存在であったか、身をもって知ることになったんだ。そんな状況の中でよくしてくれた人達との関係を絶ちたくなくてね」
「お父様……わたくしもよくわかります」
かつてのまりあもそうだった。真なる当主である装一郎との結婚を強要されたが、断固として受け入れようとしなかったのだ。
「縁を大切にした結果、わたくしは今の幸せを実感しておりますので」
「それはよかった」
装二郎がまりあを尊重し大事にしてくれるように、まりあも装二郎を心から尊敬し、この結婚を価値あるものとして大事にしたい。陰謀による没落を経験したまりあは、他人との付き合いについてこれまでと異なる考えを持つようになっていた。
「お父様、お母様。今日は装二郎様とある報告をしたいと思い、訪問しました」
まりあが話しはじめるのと同時に、装二郎は深々と頭を下げた。
突然の行動に、まりあの両親はギョッとする。
「装二郎君、いったいどうしたんだ?」
「頭を上げてちょうだい」
「ご報告していなかったことがありまして」
この件に関して、まりあは途中で知ったのに両親に伝えていなかった。自分も同罪だと思い、装二郎と共に頭を下げる。
「まりあまで!」
「いったい、どうしたっていうの?」
「──実は、僕は山上家の当主ではないのです」
しーん、とその場が静まり返る。
どうしてなにも反応しないのか。
まりあは恐る恐る顔を上げる。すると、きょとんとした両親と目が合った。
いったいなにを謝っているのか、という表情である。
まりあは装二郎の肩を叩き、もう顔を上げてもいいと耳打ちした。
「その、なんと言えばいいのかわからないけれど、装二郎君が山上家の当主でないことは、最初からなんとなくわかっていたよ」
やはり、そうだった。知っていて、まりあを嫁に送り出してくれたのだ。
「帖尾君が起こした事件が解決したあと、装一郎君が私達を訪ねてきてね。深々と頭を下げられたんだよ」
「装一郎が!?」
先を越されていたというわけである。その際に、装一郎が山上家の抱える事情について説明していたらしい。
「お引っ越しやらなにやらでお忙しいでしょうと、僕が遠慮している隙に、装一郎が来ていたなんて!」
装二郎は顔面蒼白になり、頭を抱え込む。
さすがは山上家の当主を若くして務める男、装一郎─とでも言うべきなのか。装二郎ができなかったことを、難なくやってのけたのだ。
「心配しなくても、君が山上家の当主だからまりあとの結婚を許したわけではないんだよ」
没落したまりあを妻にと望んでくれた、というのも理由のひとつだった。けれどもその前に、父には愛娘を嫁にやろうと決心した出来事があったらしい。
「君と手紙をやりとりするようになってから、まりあは明るくなってね。安心して任せられる男なんだろうな、と確信していたんだ」
「お義父様……!」
目を見張る装二郎に、今度はまりあの両親が深々と頭を下げる。
「装二郎君、改めてまりあを頼むよ」
「これまでと変わらず大切にしてくれたら嬉しいわ」
「あ、わっ、お義父様、お義母様、頭を上げてください」
慌てふためく装二郎の声を聞き、両親の肩が震えていることに気づく。わざとやっているな、とまりあは勘づいてしまった。
「お父様、お母様、装二郎様をからかうのはこれくらいにしてくださいませ。気の毒ですわ」
「おや、バレたか」
「まりあったら、すぐに気づいてしまうんだから」
部屋の中は一気に和やかな空気になる。まりあは両親のこういうところが大好きだ、と改めて思った。
そうして客間からは笑い声が絶えず、楽しい時間を過ごす。
ここでまりあの父が思いがけない提案をした。
「では、ここから男女に分かれて話そうではないか」
ギョッとしたのはまりあである。装二郎が気まずいのではないのか、と思ったのだ。
視線を彼に向けると、実にのほほんとした様子で「いいですねえ」なんて言葉を返している。
「装二郎君、まりあの幼少期の写真を見せてあげよう」
それはちょっと、と言おうとしたものの、装二郎があまりにも嬉しそうだったので止められなかった。まあいいか、と見過ごす。
男衆がいなくなると、まりあの母は嬉しそうに話しかけてきた。
「ねえ、まりあ。今日、アンナが来ているの!」
アンナというのは、かつて久我家に仕えていた使用人である。現在は結婚したものの一週間に一度はやってきて、侍女の仕事をしてくれているらしい。
アンナは医者の妻で裕福な暮らしを送っている。けれどもまりあの母を慕い、今でも通ってくれているのだ。
「せっかくだから、三人でお話ししましょう」
「ええ!」
アンナを呼び、三人で紅茶を囲む。
久我家が没落してからは、アンナは幸せな結婚生活について話したがらなかった。不幸な目に遭ったまりあ達に悪いと思って、言えなかったのだろう。
けれども今は状況が変わった。まりあはアンナから惚気話を聞き出す。
「──というわけで、わたくしめは幸せに暮らしております」
「そう、よかった」
アンナは両親に捨てられ、身寄りがなかった。そんな彼女が今、満たされた暮らしをしているというのは、まりあにとってなによりも嬉しいことである。
「ですが、医者の妻というのは正直な話、非常に暇でして……」
久我家に通う日数をもっと増やしたいと望んでいるようだが、医者の妻があくせく働くというのは外聞が悪いらしい。
「まりあ、聞いてちょうだい。アンナったら、うちに働きにくることを、私とお茶をしてくるって夫に伝えているらしいの。正直に、働きたいから久我家に通っているって言えばいいのに」
「お母様、アンナにも事情がありますのよ」
ちなみに彼女が稼いだ賃金は、全額孤児院へ寄付しているという。彼女の献身に頭が下がる思いとなるまりあであった。
アンナが心から楽しいと思うのは、久我家で働くことらしい。それ以外にもなにか趣味を見つけられたらいいと考えているようだが、いまいちピンときていないようだ。
「私にもなにか、夢中になれるものでもあればよいのですが」
これまでも、まりあの母が刺繡や裁縫、生け花などを指南したようだが、どれもアンナの琴線に触れなかったのだという。
「まりあお嬢様、なにかいいご趣味などご存じでしょうか?」
「わたくしの、趣味?」
没落する前のまりあは、時間さえあれば木刀で素振りをしたり、屋敷の周囲を走って体力づくりをしたり、と日夜、体を鍛えていた。
けれどもそれらの行為は、アンナ向きではない。なかなか難しい問題であるが、女学生時代まで記憶を遡ると、まりあではなく友人達が夢中になっていたものを思い出した。
「アンナ、読書とかいかがですか?」
「読書、ですか? 私には難しいように思えてならないのですが」
きっと今アンナが思い浮かべたのは、哲学書のような小難しい内容の本だろう。
だがまりあがイメージしたのは今流行している、若者向けのわかりやすい文章で書かれた推理ものや恋愛ものである。
「けっこう面白いらしくて、女学生時代の友人達は夢中になって読んでいましたよ」
誰かが購入した本を回し読みし、感想を言いあうことも流行っていた。
卒業後は皆、花嫁修業や結婚で忙しく、本を読む暇どころか集まるのでさえ許されなかった。そのため、読書をするという趣味は自然と廃れ、今女学校時代の友人と再会しても、本の話題が出ることはなかったが。
「まりあ様、そういった本は、貸本屋に行けばあるのでしょうか?」
「もちろん」
庶民にとって本は高級品である。そのため、街にある書店の大半は貸本屋だ。本が欲しい場合は貸本屋で注文し、取り寄せて買わなければならない。
「本については、侍女が特別詳しいらしいので、なにか面白い本などないか聞いてみたらよろしいかと」
「わかりました。ありがとうございます」
時計の鐘が鳴り、一時間も話し込んでいたことに気づく。楽しい時間はあっという間に過ぎていくようだ。そろそろお暇しよう、とまりあは立ち上がる。ちょうど、装二郎が戻ってきたところだった。
両親は名残惜しそうにしていたが、甘えるわけにはいかない。
「ここのかすていら、とてもおいしいの」
「ありがとうございます」
別れ際にそう言って、まりあの母は土産を持たせてくれた。
ガス灯が煌々と照らす大通りを抜け、ふたりが乗る馬車は華族の邸宅が並ぶ住宅街へと戻ってきた。
ここには、山上家が用意した本邸と見せかけた別邸がある。本邸は帝都の郊外に隠れるように佇んでいる。
かつて山上家が何者かの策略により一家断絶の危機に追い込まれたため、外部との接触には慎重になっている。それは真なる当主である装一郎と双子の弟である装二郎の存在が、世間に知れ渡った今でも変わらない。
誰かが装一郎と接触を図りたいときは、装二郎のもとを訪ねるようになっているのだ。
漆喰の塀が延々と続く、ひときわ立派な武家屋敷の前に行き着く。人々から『あやかし屋敷』とも囁かれる、山上家の邸宅だ。
ここには傷ついたあやかし達が運び込まれ、回復するまで療養する。装二郎がその役割を任されているというのは、今も変わらない。
門を通り抜けると、庭先で遊んでいたあやかし達に囲まれてしまう。
「まりあ様、お帰りなさいませ!」
「お待ちしておりました!」
もふもふ、ふかふかとした狐や狸のあやかし達が、まりあのもとへわらわらと集まってくる。その場にしゃがみ込むとなめらかな毛並みに埋もれそうになった。
「こらこら。みんなして、まりあに集るんじゃないよ」
「装二郎様、わたくしは平気です。むしろ幸せな瞬間ですわ」
時間さえ許せば永遠にあやかし達と遊んでいられる。そんな思いをまりあは胸にしまっていた。今は装二郎がいるので早々に切り上げ、あやかし達と別れる。
玄関に足を踏み入れると紅梅色の着物を着込み、ひだがあしらわれた異国風の前掛けをまとった、二足歩行の化け川獺がやってくる。
彼女の名はウメコ。千年ほど山上家に仕える古株で、会話に噓を織り交ぜるというお茶目な性格をしている使用人だ。
「装二郎様、まりあ様、お帰りなさいませ」
ウメコは旅館の女将も顔負けの、優雅な所作で挨拶してくれる。
「おやおや、旦那様、お出かけしている間に、男ぶりがたいそう上がったようにお見受けします。お鼻が、杉の木のように高くなっている気がするのですが」
「え、そう?」
嬉しそうな表情を浮かべる装二郎に、まりあはぴしゃりと釘を刺す。
「装二郎様、ウメコの得意とする噓ですので、信じないでくださいませ」
「えー! 信じちゃったよ」
「鼻が杉の木のように高くなっては、もはや化け物です」
「言われてみればそうかも」
がっくりうな垂れる装二郎の様子を見て、ウメコはにんまりと目を細くする。噓を信じてもらえたので、嬉しいのだろう。
「まりあのご両親に秘密を打ち明けて、一段と恰好よくなってしまったと思っていたのに」
「なにも変わりませんので、どうかお休みになってください」
「まりあも一緒に休もう」
「ええ、わかりましたから」
一度着替えて楽な恰好になろう、なんて話しているところに、パタパタと一匹の仔狐が駆けてくる。
「まりあ様、お帰りなさいませ!」
「ただいま」
嬉しそうにやってきたのは、まりあの眷属である化け狐コハルだ。
今日はまりあの両親を驚かせないよう、留守番を命じておいたのだ。
「清白は?」
「部屋でお昼寝しております」
「そう」
もう一匹、まりあには契約を交わしたあやかしがいる。白蛇の清白だ。まりあのそばを離れたがらないコハルと異なり、清白はのんびりしており、留守番も得意なのだ。
装二郎と別れ、私室に戻る。その途中、小さな影に気づいた。
「あら、あなたも出迎えてくれたの?」
「──!!」
覗き込んだ先にいたのは、毛足の長い化け猫である。
「べ、べつに、出迎えたわけじゃない!」
そう叫び、どこかへ逃げてしまった。
以前、まりあが助けて以来この屋敷に住み着き、たびたび様子を見にくるのだが、あのように素直じゃない態度を取り続けるのだ。
時間が解決するだろう。そう期待しつつ、まりあは私室の戸を開く。
窓際に置かれたひとり掛けの椅子に、清白がとぐろを巻いて眠っているのを発見した。コハルが駆け寄り、声をかける。
「清白さん、まりあ様がお帰りになりましたよ」
「うーん」
まだ眠っていたいのだろう。放っておくように言っておく。
ウメコが訪問着から楽な着物に着替えるのを手伝ってくれた。
「やや! まりあ様、少しお痩せになったのでは? 腰周りが物干し竿のように細くなっておりますよ」
「はいはい」
ウメコの噓には慣れっこなので軽く受け流す。ただ、内心面白がっているところがあり、まりあは口を覆った。先ほどウメコが装二郎に言った、鼻が杉の木ほど高くなっているという噓を思い出し、笑いそうになってしまったのだ。
「まりあ様、どうかされたのですか?」
「いいえ、なんでも。それよりもウメコ、外出中になにか変わったことはなかった?」
「なにもございませんでした」
「そう、よかった」
あやかしを匿い、あやかしと過ごすこの屋敷での暮らしに、今のまりあは驚くほど順応していた。
ここにいるあやかしは話に聞いていた恐ろしい存在ではなかった。まりあに遊んでほしくて、わらわらと集まってくる様子は愛らしいとしか言いようがない。
山上家での生活がこのように穏やかな日々になるとは、誰が想像していただろうか。
結婚してよかった、とまりあはしみじみ思った。
茶の間に向かうとすでに装二郎がいて、ごろりと転がっていた。
「まあ! 装二郎様、そんなところで眠ったら風邪を引いてしまいますよ」
「まりあがやってくるまで、横になっていただけだよ」
起き上がると、隣の座布団をぽんぽんと叩く。早く座るように促しているのだろう。まりあは仕方がないと思いつつ、ちょこんと腰を下ろす。
そこにウメコが茶を運んできた。茶菓子はまりあの母がお土産にと持たせてくれたかすていらである。卵と砂糖を贅沢に使った菓子はまりあの父の大好物で、実家にいるとき、よく食べた思い出があった。
「これが噂のかすていら、か」
「お口に合えばいいのですが」
装二郎はかすていらを手で摑み、ひと口で頰張る。その様子を見たまりあは思わず笑ってしまう。
「あ、行儀が悪かった?」
「いいえ、父もそうやって手摑みで食べるものですから」
「そうだったんだ。いや、お義父様と話が合うわけだ」
装二郎とまりあの父は、のんびりしていてどこか雰囲気が似ている。文学や食べ物の趣味も似ているようで、つい今しがたも話が盛り上がっていたらしい。
「今度、お義父様が書斎に招待してくれるんだ。楽しみだな」
「あら、そうですのね」
「僕もいつか、お義父様を書斎に招待できたらいいなーって思っているんだけれど、その前に掃除をしないと」
「掃除をしなくても、十分おきれいだと思いますけれど」
「いやいや、本の並びはバラバラだし、その前に虫干ししたいし」
なにやらこだわりがあるらしく、整理してから招きたいようだ。
「装二郎様は普段、どういった本を好んで読んでいらっしゃいますの?」
「医学書が中心かな。東洋医学だけじゃなくて、西洋医学も買い集めていたんだ。一時期は寝る間を惜しんで、読みふけっていたよ」
意外な趣味であった。なぜ、装二郎は医学書を読んでいたのか。まりあは質問を投げかける。
「装二郎様、お医者様になりたかったのですか?」
「ちがうよ。当時はなんというか、予備の呪いを医学的視点でどうにかできないか、調べていたんだ。藁にもすがる思い、って言えばいいのかな。追い詰められた状態で、なんとか生き延びようと、あれこれあがいていた」
その話を聞いたまりあは、そっと装二郎を抱きしめる。
「当時の装二郎様のおそばにいられたら、どれだけよかったか」
「うん……。まりあがいたら、心強かっただろうね」
しかしながら、久我家が没落する前のふたりの人生は交わらなかった。
「でも、そのときに出会わなくてよかったのかもしれない」
「それはどうして?」
「弱りきっているときにまりあがそばにいたら、依存しすぎていただろうから。それにたぶん、情けなさすぎて、好きになってもらえなかったと思う」
生に執着し、医学に傾倒していたときの彼は、まともではなかったという。
装二郎がぼんやりしていて浮き世離れしていた理由は、なにをしても無駄だと悟り、人生を諦めていたからだった。
「まりあと出会ったのは、余生をゆるーく生きようと決意して、装一郎の花嫁を探すために、他人にちょっとだけ興味を示すようになった時期だったんだよね」
「そのおかげで、わたくしは装二郎様に見初めていただいた、というわけですか」
「そう。僕ってば、女性を見る目がありまくりで。すばらしい慧眼の持ち主だよね」
「自分で言います?」
「言っちゃう。まりあを見つけたことに関しては、自信を持っているから」
今の装二郎は心配いらない。まりあがそばにいるし、人生を悲観しているようには見えないから。そう思って離れようとしたのに、装二郎がまりあをぎゅっと抱きしめて引き留める。
「ちょっと、装二郎様、離してくださいませ」
「まりあのほうから抱きついてきたのに。僕って、都合がいい男なのかな?」
「どうしてそういう話になるのですか!」
身じろぎできずにいたら、背後の襖が開いた音に気づく。ウメコやコハルであれば声をかけるはず。いったい誰かと振り返ったら、装二郎とまったく同じ顔を持つ男性が不可解なものを見る目で佇んでいた。
「あなたは──!? 」
「あ、装一郎じゃん」
装二郎の兄、装一郎が突如として現れた。
以前、まりあが山上家の本邸で出会ったときは礼装であったが、今日は色紋付に羽織と袴を合わせた恰好であった。
普段、着流し姿ばかりでどこか抜けている装二郎と比べると、彼は背筋がピンと伸び、表情は常に険しい。顔かたちがそっくりな双子であっても、印象はまるで異なるとまりあは改めて思う。
装一郎は鞘に収まった刀を手にしており、不穏な空気を漂わせている。
それにしてもなぜ、彼がやってきたのか。
まりあが疑問に感じていると、彼の背後からウメコがひょっこり顔を覗かせた。
「あのー、装二郎様やまりあ様に一度お声がけをしてから、と申し上げたのですが、自分の家だから必要ないとおっしゃいまして」
これは本当のことなのだろう。ウメコの噓はわかりやすいから、とまりあは内心考える。すると、装一郎は感情が読み取れない表情で話しかけてきた。
「昼間からそのように睦みあっているとは、獣のようではしたない」
そんな批判を受け、まりあは全力で装二郎の胸を押し、一瞬にして距離を取る。装二郎は乱れた襟を直しつつ、装一郎に物申した。
「家主の了承を得ずに勝手に家の中に入ってくるのも、獣みたいに無作法だよねえ」
「ここは山上家の屋敷だ」
「残念ながら、ここの屋敷の所有権だけは装一郎ではなく僕にあるんだよ」
父親の生前、装二郎は「残り短い人生だとしても、この屋敷を管理したい」と望んだ。予備である彼の寿命がそう長くないと知っていたからか、父親はあっさり許可してくれたのだという。
「財産の管理を家令に任せっきりにしているから、把握していなかったんだねえ」
兄弟の間に不穏な空気が流れる。
間に挟まれたまりあは、なぜこのような事態になったのかと内心頭を抱えていた。
兄弟ゲンカに発展しかねない。ここら辺で止めておいたほうがいいだろう。
「まさか、山上家の財産を狙っているのではあるまいな?」
「は? そんなのぜんぜん興味ないんだけれど。僕の宝物はまりあだけだよ。まあ、独身の装一郎にはわからないよね?」
「なんだと!?」
冷静な装一郎だったが、だんだんと感情を剝き出しにしてくる。
瞳には怒りが滲み、刀の柄を握りしめ、今にも装二郎に攻撃を仕掛けてきそうな危うさをちらつかせていた。
「そもそも、装一郎が結婚してくれないと僕らは正式な夫婦になれないんだ!」
「そんなことを言っても、ふさわしい相手がいないのだから仕方がないだろうが!」
「単にえり好みしているだけでしょう?」
「装二郎、お前になにがわかるんだ!」
これ以上はいけない。
まりあはそう判断し、装一郎が一歩前に踏み出した瞬間、足払いをする。
思いがけない方向からの攻撃に、装一郎は避けることができなかった。
「なっ──!?」
どたん! と装一郎が倒れてすぐ、まりあは次の行動に出る。呆気に取られていた装二郎の腕を摑み、背負い投げをしたのだ。
これもまた、きれいに決まる。
装二郎も装一郎と同じく、畳の上に転がる結果となった。
「お互いにたったひとりしかいない兄弟同士で、言い争いをしないでくださいませ!」
ケンカ両成敗だ、とまりあが宣言すると、装一郎と装二郎は大人しくなった。
装一郎の手から離れ、畳の上に転がっていた刀を拾おうとまりあは手を伸ばす。
「──あら?」
鞘から抜けているが、刃がないのだ。
「この刀はなんですの?」
「それは香刀だ」
香刀とは線香で焚いた煙で刀を具現化させるものだという。
山上家は香道の家元であり、香術と呼ばれるお香を使った呪術を操るのだ。
装二郎は煙でつくった狼を使役したり、姿隠しの煙をつくり出したり、とさまざまな香術を使う。
「装一郎は前衛、僕は後衛の香術を使うんだ」
「おふたりで戦ったら、敵なしというわけなのですね」
「そうみたい」
「だったら、先ほどのように仲違いをしている場合ではないのでは?」
まりあが指摘すると双子の兄弟はぐうの音も出ないのか、黙り込んでしまった。
静寂が訪れた茶の間に、ウメコが茶を運んでくる。乱れた座布団をきれいに並べ、「どうぞ、お座りくださいませ」と元気よく勧めた。
牙を抜かれたような状態になった装一郎は、素直に腰を下ろす。
まりあは視線で装二郎にも座るよう促した。
*
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著者プロフィール
江本マシメサ(えもと・ましめさ)
長崎県出身。『北欧貴族と猛禽妻の雪国狩り暮らし』で2015年にデビュー。著書に『あやかし華族の妖狐令嬢、陰陽師と政略結婚する 』シリーズ(集英社オレンジ文庫)、『浅草ばけもの甘味祓い』シリーズ(小学館文庫キャラブン!)などがある。