
昔、ほんの一瞬だけ付き合った人との別れ際「きみといるとカロリーを使う」と言われたことがある。わたしがあまりに気を使うので、相手も気を使って疲れてしまうらしい。
LINEのちょっとした返しとか、何を食べるかとか、どこに行くかとか、いちいち丁寧、もっと雑に付き合ってくれたら、というようなことを言われた。
がーーーん、と思った。そして恥ずかしかった。
気を使っているつもりは一切なかったけど、丁寧はいいことだと信じていたし、なんなら長所だと思って生きてきたから。
まさか自分の丁寧さが、相手に負担をかけ、関係にひびを入れる原因になることがあるなんて。まさに穴があったら入りたいという気持ちで、ヘラヘラ笑ってその場をあとにした。
ただ時間を経て、問題の根本はそこではないんじゃないかと気づいた。気を使った「丁寧」が悪いんじゃなくて、むしろわたしが気を使っていないから、その人の言うところの「丁寧」に見えているのではないかと。
写真のデータの種類に「RAWデータ」と呼ばれるものがある。RAWとは生(なま)という意味だ。一般に馴染み深い「JPEG」という形式は共有のしやすさなどのために処理を加え変換したもの。RAWはその処理が行われる前の情報量がたっぷりの、重いデータのことだ。
通常、人は自分の思いをちょうどいい重さの言葉に変換して他者とコミュニケーションをとっている。心の内にある言葉がRAWで、人に伝えるために調整して実際に発する言葉がJPEGのようなものではないかと思う。
社会では基本的になるべく重くなく、意味がとりやすいJPEGの言葉を使うことが好まれる。
このRAWの言葉からJPEGの言葉への変換がわたしは本当に下手なのだ。たとえば、夕食を何にするかという話をしているとき、こんなかんじの内容をLINEで送ったりする。
「わたしは寿司か焼肉がいい。だけど、どちらかというと寿司がいい。とはいえ、焼肉も全然あり。あなたが焼肉を食べたいなら焼肉にしよう。だけど、あなたが本当にどっちでもいいなら寿司がいいし、あなたがどちらも食べたくなければちがうものにしよう」
拒否反応を感じる方もいらっしゃると思う。
ただ、伝えたい思いをそのまま言葉にすると最初にこうなるのだ。寿司以外を提案している部分が「気遣い」や「丁寧」に見えるかもしれないが、自分の中に標準装備の公平性があるだけで、これが一番気を使っていない、そのままの言葉なのである。
でも、これが実際に送られてきたら、時と場合と関係性によってはわたしだって「重! めんどくさ!」と思う。RAWすぎる。こんな重いもの送ってこないでよと。
もちろんRAWの言葉での会話を許容できる関係性も大いにあるし、わかりやすくて助かると言ってくれる人もいる。結局は完全に相性なのだけど、ギョッとしたり、どんより重い気持ちになったりする人が多いのも事実だし、あるいは仕事など、距離がある関係の場合には、やっぱり戸惑うだろう。不必要にRAWの言葉を送りつけるのは、相手に負荷をかける可能性が低くはない。
そのことに気づいてからは苦労して言葉をJPEGに変換するようにしている。時間をかけて作ったJPEGの言葉を、どきどきしながら、勇気を出して送る。こんなふう。
「お寿司とかどう?」
渾身のJPEGだ。さらっと軽いし、答えやすいし、いいと思う。爽やかで気さくな印象すら与えられるかもしれない。LINEに打ち込む前に、スマホのメモ帳に絵文字付きや語尾違いなどで何パターンか作って確認してから送ることもある。
そうだ。まず、こうきいて、相手の出方を見て、次を提案すればいいのだ。
でも、なかなかつかない既読に胸がちくちくしてくる。本当は寿司なんて食べたくない相手が、LINEの向こうでなんて返すか悩んでいたらどうしよう。だんだん不安になってきて数分後に焦ってもう一通送る。
「でも焼肉もいいよね…結構なんでもいいかも!(笑)」
すごくよくないと思う。一通目を送ったあとすぐならまだしも、数分後のこれは冷静に気持ち悪い。追いLINEの重さを軽減させるために追加した(笑)も情けない。「なんでもいい」は嘘だし。既読はつかない。こんなことならRAWのほうがマシだったかも……。
相手に負担をかけないために言葉をJPEGに変換しようとすると、その技術の低さにこちらが多大なカロリーを使うことになる。
この世はJPEG変換が下手くそ人間には世知辛い。でもみんながRAWの言葉でやりとりし始めたら大変なので、このままでいいとは思う。変換技術は時間をかければ鍛えられるような気もするし。腹をくくって、みんなにRAWの言葉で送り続けてもいいわけだし。何を採用するかは結局自分で選ぶのだ。
言葉の変換が自由自在な人たちが眩しいが、その中には、無意識にRAWをJPEGに変換できる人もいるという。変換技術が高すぎて、意識に上がらないのだろうか。
でもだとすると、RAWの言葉をRAWのまま自分の心の内にありありと感じ、触れられること自体が、ひとつの才能でもあるのかと気づく。
重いRAWの言葉を胸に抱き抱え、時にそれを人にぶつけてドン引かれたり、変換できなさに絶望してきたことが、自分を、自由な詩の言葉の世界の扉へ、向かわせたのかもしれない。
伊藤 紺(いとう・こん)
歌人。1993年生まれ。歌集に『気がする朝』(ナナロク社)、『肌に流れる透明な気持ち』、『満ちる腕』(ともに短歌研究社)。