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第1回

雨が降ったら 第一話

 もしも願いがひとつだけ叶うなら、ママはなにをお願いする? 娘がまだ幼かった頃に、初佳もとかはそう問われたことがある。ちょうど、保育園から帰るところだった。前後に子ども用の座席を設置した自転車にまたがり、保育園を出るなり機関銃のごとく喋る五歳の聖菜せなを後ろに、隙あらば園庭めがけて走りだそうとする二歳の拓海たくみを前にのせ、ペダルに足をかけた直後の問いかけだった。まったく疲れている時の幼児のもしも話ほど疲れるものはこの世にないな、と思いつつも、まじめに考えた。
「そうやねえ、時間のカプセルがほしいかなあ」
「時間のカプセル?」
 十代の頃の初佳は、ずいぶんぼんやりと時を過ごしていた。あの頃ありあまってた時間をカプセルにつめて保存できていたらよかったのになあと、出産後によく思った。忙しい時に、それをパカッと開けて使うのだ。今日は忙しいな、よし、じゃあ十九歳の十月八日の夜中の二時間を保存したカプセルを開けて、お風呂のカビ取りと常備菜づくりと保育園用のオムツの名前書きを済ませてしまおう、とか、そんなふうに。時間をカプセルで保存する技術がほしい。その回答は、あまり娘の興味をそそるものではなかったようだった。
「せっちゃんはな、魔法使いになりたいねん」
 いきなり、自分の話をしはじめた。
「そしたら、保育園にもほうきでビューンやな」
「ビューン」
 拓海も真似して、声を上げた。
 ちょうどそこで砂利の多い道に差しかかった。自転車ががたごと揺れて、サドルから尻が浮いた。その後もはてしなく続く娘のお喋りに相槌をうちながら、初佳は頭の片隅で考え続けた。
 でも、もしもひとりで自由に使える時間が二時間もあるなら、ほんとうはカビ取りなんかに使いたくない。お気に入りのお茶かココアかなにか入れて、ソファーでくつろぎながら本でも読みたい。いや噓、ほんとうはごろごろしたい。五分おきに姉弟のどちらかが発する「ママ、見て!」や、三分おきに発生する小競り合い、それにともなう悲鳴、夫の「なあアレ、どこ?」という、意図の摑みづらい問いかけに煩わされることなく、ただなにも考えずにぼんやり過ごしたい。
 子どもたちはかわいい。掛け値なしにかわいい。けれども、ひとりの時間がほしい。そう、たったひとつの願いは「ときどきは、ひとりの時間がほしい」です、神さま。聞いてますか?
 その願いは十八年後に叶った。脇目もふらずに歩いていたら、夜空からぴかぴかのお星さまが落ちてきた。そんなふうに、思いもよらないタイミングで叶った。

 離婚を切り出したのは夫の征典まさのりのほうだった。「同窓会で三十数年ぶりに再会した初恋の人」と残りの人生を過ごしたいのだそうで、それを聞かされた時、初佳はほんとうに、ほんとうに、ほんとうにびっくりした。
 征典がよそに恋人をつくっていることにまったく気づかなかった自分自身への驚きよりも、「えっ、この人まだそこにいたんだ」という衝撃が上回った。「そこ」とは恋愛をしている、あるいは恋愛をすることを望んでいるゾーン、ということで、初佳は結婚と同時にそこを通過し、出産後に完全に「親として、あるいは社会の一員としてどうあるべきかを考える」ゾーンに突入したつもりでいた。恋愛ゾーンから脱出できてうれしかった。
 世の中の人は、女をけなす際に「女として見れない」とか「女を捨てている」とかという表現をつかう。ここでの「女」が性別の区分ではなく、「恋愛という市場における商品」を指すならば、初佳は既婚者という立場を得たことにより、商品として値踏みされずに済むようになったことがうれしかった。
 件の初恋の人は夫と死別し、ひとりでまだ小学生の娘を育てているという。征典から「彼女と出会う前から、お母さん(初佳のことだ)のことをもう、女性として見られなくなっていた」と、重大な罪を告白するようにシリアスに、目尻に涙まで浮かべながら言われた時、二十年以上も同じ家で暮らしながらこんなにも違う価値観で生きていたのかと思った。それはもうべつべつに生きていくほうがいいんでしょうねえと、「びっくり」が過ぎたあとで冷静に受け入れた。
「おれが家を出る」
 深夜、ダイニングテーブルで向かい合って征典がそう言った時のことを思い出す。
「すべては、おれのわがままだから。きみたちはなにも悪くないんだ……」
 西原にしはら征典。大阪生まれ大阪育ち。小中高大と大阪市内の実家から通い、大阪のアパレルメーカー勤続二十五年の四十八歳。その人があらぬ方向を見つめながら「ないんだ……」などと言うのは、しかも「なにも」と「悪くない」のあいだに苦しげなため息まで挟んだのは、恋をしていたからだと思う。恋をしている人間というのは、傍から見るとじつに滑稽なものだ。
「うん、知ってる」
 初佳はそう答えた。
「わたしが悪くないことは知ってます。でも、この家はいらん」
 初佳は居間を見まわしながら答えた。自宅にいる時間のほとんどを掃除に費やしているような気がするのに、どうしてこんなに雑然としているのだろう。
 結婚する時に「嫁入り道具」として持たされた馬鹿でかい食器棚や、あちこちにシミができたのをごまかすために布のカバーをかけている三人掛けのソファー。今一度「いらん」と繰り返した。
 征典はあからさまに狼狽し「はぁ? なにを言うてんの?」と身を乗り出した。「はぁ?」は「ファー?」と聞こえた。数分前の「ないんだ……」とはどえらい違いであった。
「子どもら、帰る家なかったら困るやろ」
 聖菜は隣県で歯科衛生士の仕事をしている。拓海はまだ大学生だが、卒業後も大阪には戻らないつもりだと話していた。
「帰る、っていつ?」
「正月とか」
「あなたが迎えてやればええやないの」
「子どもに会いたないんか」
 こっちのセリフや、と呆れて息を吐いた。
「わたしはあの子らに会いたかったら、自分から会いに行く。あの子らもそうしてくれると思う」
 娘や息子のたった数日の帰省のために、自分がこれからもこの家に縛られ続ける道理などない。
「あなたは好きにするんやろ。わたしも好きにさせてもらいます」
 そのようにして、初佳はきらきらぴかぴかの自由を手に入れたのだった。

 離婚届を出すよりもはやく、職場の近くにアパートを借りた。
 駅前の雑居ビルにあるカルチャーセンターの受付事務、というのが初佳の仕事だ。拓海が三歳の時に中途採用されて、今も勤め続けている。給与は同い年の男性部長とは比べものにならないぐらいに安い。土日に単発のアルバイトをすることもある。今のところ、どうにか食べていけている。ただ、今は身体が動くからいいが、じきにガタがくるかもしれない。将来への不安がないわけではない。
 もともと住んでいた家は市のはずれにある。晴れの日は自転車で、雨の日はバスで通勤していた。
 現在は徒歩十分の通勤時間となった。職場からアパートへの途上に二十四時間営業のスーパーマーケットやドラッグストア、小さな商店がいくつもあるので、退屈はしない。住んでみてわかったことだが、このあたりの地形は迷路のように入り組んでいて、いかにも通り抜けできそうな道ができなかったり、道幅が異常に狭かったりした。ひと駅隣では再開発が進んでいるようだが、このあたりにはまだ古い町並みが残っている。
 アパートの家電はすべて、ひとり暮らし用の最低限のものだ。炊飯器は「最低限」には該当しないと考えて、買わなかった。
 家具は今のところ、テーブルと椅子とすのこベッドだけだ。いずれは本棚を買いたいと思っているが「これぞ」というものが見つからず、というか予算との折り合いがつかず、現在は近所のリカーショップでもらってきたワイン用の木箱や無印良品で買ったカゴに入れることでしのいでいる。もとの家で使っていたもののほとんどを置いてきたが、本や衣類は持ってきた。できればソファーがほしいが、こちらは予算の問題だけでなく、スペースの都合もあって難しい。
 征典はガチャガチャが大好きで、小さなフィギュアだとかペットボトルキャップだとかをキッチンのカウンターや窓の桟や壁に設置されたインターホンのモニター上に並べていた。幅二センチ以上のスペースがあるとそこは彼のギャラリーとなってしまうのである。
 ああしたものは、ほうっておくとすぐに埃がたまる。捨てていいかと問うと、嫌な顔をする。物持ちが良いというか、物を捨てるのが下手だった。
 掃除をするのはいつも初佳で、そのことにほとほと、嫌気がさしていた。離婚を切り出されるずいぶん前からだ。
 これからは、自分が気に入ったものだけを家に置く。そう思うたび、いまだに叫び出しそうなほどの幸福感に満たされる。

 スーパーマーケットで、じゃがいもをかごに入れようと腕を伸ばした時に、シャツの袖のボタンがとれているのに気がついた。どこかで落としたのだろう、と思いながらレジに並ぶ。家に帰ったら、夕飯の後にボタンつけをしなくてはならない。
 シャツやコートを買った際についてくる予備のボタンというものが好きだ。服を買うとすぐにその予備のボタンを、余り布に縫い付ける。裏にボール紙をはり、安いフレームに入れたら、ボタンの標本のできあがりだ。ほとんどお金のかからない、初佳の趣味のひとつだった。以前はバナナやアボカドにはられているシールをあつめていた。趣味というのは、べつに生きがいと呼べるような大層なものでなくたっていいのだ。
 会計を済ませ、外に出たら雨が降っていた。あいにくバッグに折り畳み傘は入っていない。たまたま荷物が多かった日に、すこしでもバッグの重量を減らしたくて折り畳み傘を抜いたのだ。また入れておかないとなあと思って、そのまま忘れていた。
 しばらく佇んでみたが、止む気配がない。意を決して、というほどでもなく、一歩踏み出した。帰ってすぐお風呂に入ればいいか、と思いながら。
 小さな商店が並ぶ裏通りを、軒先伝いに進んでいく。いつもはこの道は通らない。道幅が狭くて歩きにくそうだし、昼間でもなんとなく薄暗い。
 雨はいっそう激しさを増したようだった。スニーカーに水がしみこみ、つまさきが冷えた。ほとんどの店は照明を落とし、戸を閉めている。その中に一軒だけ、こうこうと明かりの灯る店を見つけた。
 わかば洋傘店。真鍮の看板に、そう書いてある。ガラス戸ごしに、色とりどりの傘が並んでいるのが見えた。
 店の中に入ると、ちりんちりんと涼やかな音がした。ガラス戸に鈴がとりつけられているのだ。レジの奥で人影が動き、小柄な女性が姿を現した。
「急な雨で」
「いらっしゃいませ」とか「こんばんは」という挨拶のように、彼女はその言葉を口にした。七十代、いやもうすこし上ではないかと思われる。紫に染めた髪と深緑のエプロンという色の取り合わせが美しい。さして背の高いほうではない初佳よりも、さらに頭ひとつぶん小さかった。
 エプロンの胸のところに、名札があった。スノ。名字だろうか、それとも下の名前だろうか。名札は夥しい量のラインストーンで縁取られている。いにしえのギャルの携帯電話のようだ。
 スローモーションのような動作でレジの奥からまわりこんできた「スノ」さんに「ええ、急な雨で、ほんまに」と応じる。ハンカチで頭と体を拭いてから、店内を見てまわることにした。
 壁の二面につくりつけのポールがあり、そこに傘がかかっている。数万円のものから、数百円のビニール傘までそろっているようだ。店の右手は日傘やレインコートのコーナーだ。色とりどりの商品以外には一切の装飾のない、簡素なつくりの店だ。レジの機械だけが真新しく、電子マネー決済も可能である旨のはり紙がある。この人が操作するのだろうか。高齢の女性は機械に弱いものだ、というのは完全なる偏見なのだが、それでも「ほんとうに、この人が?」と思わずにはいられなかった。
「どうしよう」
 思わず、声に出して呟いた。アパートに帰れば、二十四本骨の傘がある。骨はじょうぶで軽いグラスファイバー製だ。少々値は張ったが長く使えるだろうと、数年前に購入した。飽きの来ないデザインがいいからと、黒無地を選んだ。
 帰りつくまでのあいだだけ使えればいいのだからと、数百円のビニール傘を買うのは、どうにも気が進まない。自分の気に入ったものだけを置こうと決めたあの部屋に、間に合わせで買ったビニール傘が入りこむなんて。
 初佳の逡巡を読み取ったかのようにスノさんが近づいてくるのを、奥の鏡で確認した。あまりに動きが遅いので、「だるまさんが転んだ」をやっているような錯覚を起こした。鏡にうつったその姿を見ているくせにそ知らぬふりで背を向けているのもどうかと思い、振り返る。
「よかったら傘、貸しますけど」
 目が合うなり、思いもよらぬことを言われた。
「え?」
「お店の傘。今度通りかかった時に返してくれたらいいから」
 ちょっと待ってくださいねえ、と彼女はおっとりと言い、ガラス戸の近くに置かれた傘立てから一本の傘を引き抜いた。髪の色と同じ、紫色の傘だった。
「え、でも」
「お嬢さん、疲れてる時とお腹が空いてる時はねえ、だいじな選択をするのはやめたほうがよろしいわ。あなた、疲れてるでしょう、今」
 失礼ですけどお顔を見ればわかります、とスノさんは言う。憐憫の表情で「お顔が」と言われたことよりも、「お嬢さん」と呼ばれたことのほうに意識が向いた。いえあの、四十八歳なんですが、と思う。思うだけだ。この人から見たら、自分も若い部類に入ってしまうのだろう。
 雨はますます激しさを増している。「お言葉に甘えて」と傘を受け取った。
 傘なんて、そう売れるものでもないだろう。それなのに飛び込みの客に傘を貸して、商売が成り立つのだろうか。申し訳ないような気持ちで店を出て、傘を開いた瞬間、初佳は「わ」と声を上げた。

 雨が降ったら傘をさせ わかば洋傘店 TEL 0‌6−○○○○−○○○○

 閉じた状態の時は気づかなかったが、傘には大きな、ほんとうに大きな字でそのように書かれていたのだった。
 もしかして、これをさして歩いたら宣伝になるということなのか。だから貸してくれたの? そう思ったら、笑いがこみあげてくる。
 疲れが吹き飛んだ、とまでは言わない。ただ会社を出た時より、すこしだけ足取りが軽くなった。

 借りた傘は大きくて、初佳の身体もバッグも、しっかりと守ってくれた。じゃがいもを鍋でふかしているあいだに、スマートフォンで傘の乾かしかたを調べる。自分の傘なら雨が上がったあとにベランダに干すぐらいのことしかしてこなかったけれども、借りた傘なのでより丁寧にあつかいたいのだ。
「まず、シャワーで傘の表面の汚れを洗い流し、部屋干ししたあとに離れたところからドライヤーの温風をかけて乾かします」
 声に出して読んでみる。
「へえ、そんなことするんだ」
 ひとり暮らしをはじめてから、なにかと声に出して言うくせがついた。でないと、外に出た時にとっさに声が出せないのだ。このあいだ、コンビニで「袋あります」と言おうとしたのに、すかすかした息がもれただけだった。
 けっして広いとは言いがたい浴室で苦心して傘を洗ったあと、ペーパータオルで拭いた。部屋も浴室と同じく狭いが、家具がほとんど揃っていないおかげで傘を広げて乾かせる程度にはスペースに余裕がある。新聞紙を敷き、そこに傘を置いた。じゃがいもも、良い按配に火が通っている。
 ふかしたじゃがいもは潰して、バターと牛乳を加える。弱火にかけながら木べらで辛抱強く混ぜているとぽってりとなめらかなマッシュポテトができあがる。
 広げた傘を横目にそれを食べていたら、子どもの頃のことを思い出した。庭に家族の傘をいくつも広げて、その内側に潜んでみたことがあったのだ。母親に「傘で遊ぶな」と𠮟られたためすぐに撤去したがあの中にいるとみょうに心が落ちついた。なぜ子どもはあんなに隠れ家的なものが好きなのだろう。聖菜もよく押入れに潜んでいたし、拓海は段ボールの「ひみつきち」を持っていた。居間に設置しているためまったく秘密ではなかったが、本人はいたって満足していたようだった。
 それぞれの隠れ家の中で、彼らはなにを考えていたのだろう。初佳はというと、とくになにも考えていなかったような気がする。
 もちろん、子どもなりに悩むことはあったけれども。席替えでいじわるな子の隣の席になってしまってどうしようとか、人間は死んだらどうなるんだろうと考えて怖くなるとか。
 無口だったせいか。それとも、よく図書室で借りた本を読んでいたせいか。小学四年生の時には担任の先生が通知表に「思慮深い子です」と書いてくれていた。「思慮深い」の意味は辞書を引いて調べて理解したが、先生はなにか勘違いをしていると思った。
 図書室の本の中では、『大どろぼうホッツェンプロッツ』がとくに好きだったなあ。マッシュポテトを口に運びながら、なつかしく思い出す。しつこいぐらい何度も借りて読んだ。あの本にはじゃがいもが大好きな悪い魔法使いが出てきた。自分のじゃがいも好きは、もしかしたらあの本に影響されているのかもしれない。
 実家ではたいてい、じゃがいもは肉じゃがか、カレーに入っているか、あるいは粉ふき芋としてハンバーグのつけあわせにほんのぽっちり皿にのせられているだけだった。大人になってから洋食店でエビフライの皿につけあわせとしてのっていたマッシュポテトのなめらかさに感動して、つけあわせじゃなくて器いっぱい食べたい、マッシュポテトだけでお腹いっぱいにしてみたいと思った。
 でも結婚していた頃は、そういうわけにはいかなかった。征典が「芋は飯のおかずにならない、酒のつまみにも不向き」という人だったので、じゃがいも自体が登場回数が少なかった。それに子どもたちにはたんぱく質やらカルシウムやら、摂らせなければならないものがいっぱいあって、芋だけ出して終わりというわけにはいかなかった。
 でも今は違う。自分の食べたいものを、食べたいように食べられる。
 またひとつ夢が叶った。空になった皿を見つめて思う。栄養のバランスという面では最悪だけど、一日ぐらいこんな日があったっていいだろう。

 ベッドに入る頃には止んでいた雨が、何時ごろからかまた降りはじめたようだった。枕元のスマートフォンの振動で目が覚めて、初佳はそのことに気がついた。
 スマートフォンはまだ振動し続けている。誰からの電話なのか、表示もろくに確認せずに電話に出る。
「お母さん?」
 聖菜だ、と思う。
「せっちゃん? どうしたん?」
 ちょっと声が聞きたくなって、という類の電話ではないはずだ。こんな震えたような声で、こんな時間に電話をかけてくるのだから。上体を起こして、スマートフォンを持ちかえる。
「今、どこ?」
 聖菜が最寄り駅の名を口にする。終電に乗ってきたらしい。
「今からそっち、行っていい?」
「迎えに行こうか?」
 訊ねながら、もうパジャマの上に上着を羽織りかけていた。聖菜は「ううん、だいじょうぶ」とかすかに笑った。たんに、息がもれただけかもしれないが。
 聖菜と顔を合わせるのは、このアパートに越してきた日以来だ。引っ越しの手伝いをすると言われたが手伝ってもらうほどのこともなく、とはいえゆっくり話す余裕があるわけでもなく、駅前の牛丼屋で昼食をとって別れた。
 その聖菜が、今からここに来るという。
 聖菜が勤めているクリニックはかなり大きい、有名なところで、きびしい先生や先輩もいるけどやさしい人もいっぱいいるし、待遇も悪くない、と話していた。休日は友人と遊びに行くことが多いようで、よくSNSに楽しげな画像を投稿している。楽しそうでなによりだと思っていたのに、いったいなにがあったのか。そわそわと室内を行ったり来たりしているうちに、チャイムが鳴った。
「なんも訊かんといて」
 部屋に入ってくるなり、聖菜は初佳と目も合わせずに言い放った。初佳は聖菜が脱いだ上着を受け取って、ハンガーにかける。じっとりと濡れていた。
「傘、持ってないの?」
「なくした。なんも訊かんといてって言うてるやん」
 あらあら、と肩をすくめながら、初佳は聖菜にタオルを渡す。そんなことすらも訊いてはいけないのか。
 訊きたい。ものすごく訊きたい。なにを言うてますのや、そんなこと言われてハイそうですかとアッサリ引き下がれますかいなワテはあんさんの母親だっせ、とねっとりした大阪言葉でゴネてみようか、そうしたら様子のおかしい母にうろたえて喋りだすかも、と思ったが、初佳は「うん、わかった」と答えるにとどめた。
 聖菜が小学生の頃、ひとりでこっそり、家の洗面所で泣いていたことがあった。動揺してつい質問ぜめにしてしまい、聖菜はますますかたくなになって、ついにまったく口をきかなくなった。のちにお友だちとのトラブルであると判明したものの、ずいぶん焦った。初佳はあの時、子どもを質問ぜめにしてはいけないのだということを学んだのだった。
「お茶淹れるね」
 聖菜は「いらん」とそっけなく首を横に振った。
「いや、飲んでほしい。雨で冷えたやろうし」
 職場の若い女の子に「不眠にいいって聞いて買ったんですけど、あたしには合わんかったんです。初佳さん、よかったら」と押しつけられたカモミールとレモンのお茶を淹れた。
 いらんって言うてるのに、と眉間にしわを寄せながら受け取ったマグカップの湯気が、ほんのわずかに聖菜の心をゆるませたようだった。「寝とったん?」と、さきほどよりはやわらかい声で問う。
「うん。この時間は寝てる」
「ごめん、起こして」
「だいじょうぶ。明日、会社休みやから」
 聖菜の勤めるクリニックは土曜も診療をしていたはずだが、どうするのだろうか。朝の早い電車で帰れば間に合う、ということだろうか。気になるが、なにも訊かないと約束したので訊けない。
「明日は休む」
 初佳の心を読んだように、聖菜が呟く。「休み」ではなく「休む」か、そうか、と思いながらふたたびやかんを火にかける。今度は自分のお茶を淹れるためだ。小さなやかんだから、すぐに沸く。電気ポットは持っていない。「最低限」ではないからだ。
 難しいのは生理用品だ。去年あたりから、すこしずつ生理が不規則になってきた。三か月来なかったのでもうそろそろ閉経するのだろうか、と思っていたら先月は二度来た。完全にホルモンに翻弄されている。買い置きしておくべきか否か、実に悩ましい。
 あと何回で閉経ですよ、というのがわかるシステムだったらよかったのになあと思う。生理がラスト十回になったら血の色が赤から緑になるとか、下腹部に「ながいあいだお疲れさまでした」という文字がうっすら浮かび上がってくるとか。
「これなに?」
 聖菜が傘を指さす。
「ああ、貸してもらった」
 かいつまんで説明すると、聖菜は「ふーん」と頷く。
「お母さん、よっぽどお金持ってなさそうに見えたんちゃう」
「そうかもしれん」
 一脚しかない椅子をテーブル代わりにして、ふたりとも床に腰を下ろした。
「なんか、殺伐としてるな」
 引っ越しの荷物を運びこむためにこの部屋に入った時、聖菜は泣いた。こんな古びた狭いアパートに、と、くやしそうに顔を両手で覆っていた。
「なんでお母さんが家出なあかんの、悪いのはお父さんやのに」
 父親に「裏切られた」と感じているらしい聖菜に、初佳はなにも言ってやれなかった。「きらきらぴかぴかの自由」を手に入れられてうれしいという本音も、口に出せなかった。
 ずいぶん前から「ひとりになりたい」と思っていた。でも、自分からはとうとう切り出すことができなかった。勇気がなかった。周囲の人に「そんな理由で離婚するなんてわがままだ」と思われたくなかった。自分が悪者にならない方法で離婚できないだろうか、と考えていた自分は、ずるい。
 離婚してほしいって言われた時、ちょっと「ラッキー」って思ってしまったのよ。そんなこと、聖菜にも拓海にも言えない。
 初佳はあらためて、自分の住まいを見まわした。なるほど、殺伐としていると言えなくもない。ただ今は、傘があるおかげでそこに大きな花が咲いているかのようだ。そう言うと、聖菜はかすかに鼻を鳴らして笑った。
「なにそれ」
 聖菜は、あいかわらずお母さんはおめでたいなあ、とけっこう失礼なことを言って、冷めたお茶を飲み干し、小さなあくびをひとつした。
「あんた、寝たら」
 聖菜は存外素直に「うん」と頷いた。幼児の頃から、この子はこうだった。もう寝る時間やで、と声をかけると、「まだ寝えへん!」とごねる拓海と違い、聖菜はおとなしく寝室に向かう。征典は「やっぱりお姉ちゃんやな」「女の子はおりこうさんや」とほめそやしたけれども、初佳は聖菜の聞き分けの良さが心配だった。もっとわがままを小出しにしていかないと、どこかで爆発してしまうのではないかと。
「歯ブラシとか、持ってる?」
「うん、さっきコンビニで買ってきた」
 聖菜が洗面所で歯を磨いているあいだに、初佳は部屋着を出してやる。それに着替えて、ベッドにもぐりこむ姿を見届けてから、初佳も歯を磨く。歯ブラシも歯磨き粉も、最後の仕上げのマウスウォッシュも、聖菜にすすめられたものだ。
 ラグの上に冬物のコートを重ね、そこに身体を横たえる。厚手のカーディガンやひざ掛けをかけ布団のかわりにした。あまり寝心地はよくなさそうだが、シングルベッドにふたりで寝るよりはマシだ。
「お母さん、ほんまにそこでええの」
 がんばったらふたり寝れるで、と言う聖菜は、自分がラグの上で寝るのはぜったいに嫌なのだろう。
「ええの。ここがええの。電気、消すで」
「うん」
 暗闇の中で、聖菜の息遣いを聞いた。聖菜が赤ちゃんの時にも、よくこうやって耳をそばだてた。ちゃんと息をしているかどうか、確かめたかったのだ。泣いていても心配だったし、静かに寝ていても心配だった。はじめての子で、わからないことだらけだった。
「起きてる?」
 寝返りを打った時、聖菜が言った。
「寝てる」
 即座に答えると、聖菜は「起きてるやんか」と笑った。
「眠れない?」
 聖菜は初佳の問いには答えず、そのかわりに「男の人ってさあ」と息を吐いた。
「やっぱり、きれいな子が好きなんやな」
 それはどうやろ、と初佳は思う。男の人のサンプルが征典か、会社の面々ぐらいしか思いつかない。征典の「初恋の人」の顔は知らないが、かつて初佳を好きになったぐらいだから、征典はあまり女の外見にはこだわらないタイプのような気がする。
 征典自身は彫りの深い、いわゆる昭和のハンサム顔というやつで、聖菜も拓海もその特徴を受け継いでいる。聖菜は自分の顔を「男顔である」として、嫌がっていた。ナントカちゃんみたいな顔がよかった、とアイドルの名を挙げて悔しがって泣いたこともある。
「わたしも、きれいな女の子に生まれたかったな」
 泣くのをこらえているような声で呟く聖菜に、言いたいことは山ほどあった。でもどの言葉も、聖菜が今聞きたい言葉ではないのだろうと思った。答えあぐねているうちに、聖菜は眠ってしまったようだった。気になることを言うだけ言うてスッキリしたら先に寝るんかい、という呆れはすぐに安堵に変わる。
 娘には、なにがあってもひとりで生きていける強さではなく、なにかがあった時すぐに周囲に頼れる図々しさを持っていてほしい、と願っていた。傷つくことなく一生を終えるなんて、どだい無理な話なのだから。しかし聖菜のような子には、それはむずかしいのではないだろうか。そう思っていたのに、いつのまにかずいぶん図々しい子になっていた。こんな時間に押しかけてきて、なにも訊くな、なんて無茶を言って、人のベッドでぐーぐー寝られるならじゅうぶんだろう。図々しい子はだいじょうぶ。自分に言い聞かせるように思う。聖菜の未来を祈るように思う。だいじょうぶ、だいじょうぶ。

 起きた時、背中や腰が悲鳴を上げていた。
「あ、お母さん。おはよ」
 さきに目覚めていたらしい聖菜は、慎重な手つきでフライパンに卵を割り入れている。
「パンってある?」
「あー、ないわ」
 冷凍していたごはんを鍋であたため直し、茶碗に盛った。茶碗もひとつしかないので、自分のごはんは味噌汁椀に盛りつける。聖菜はごはんの上に目玉焼きをのせ、醬油をまわしかけている。朝、時間のない時によくこうやって食べていた。
「いただきます」
「うん。いただきます」
 立ったまま、それを食べる。箸でまっぷたつに割ったら、あざやかな黄色がとろりと流れてご飯粒にしみていった。聖菜は目玉焼きをちょうどよい半熟に仕上げるのがうまい。もしかしたら初佳よりもずっとうまいかもしれない。
「あのさあ、お母さん」
 箸をせわしなく動かしながら、聖菜が言った。前を向いたままだったから、初佳も顔をそちらに向けなかった。
「うん、なに?」
「あのクリニック、やめてもええかなあ」
 聖菜は、わざわざそれを言いにきたのだろうか。黙ってやめたら初佳が怒るか、落胆するかすると案じていたのだろうか。
「好きにしたらええわ」
 そう答えて、大きなご飯のかたまりを口に入れた。
「ええの?」
 聖菜はたぶん今、目を丸く見開いている。
「うん。せっちゃんの人生やし」
「そっか。わかった」
 そのあとはどちらも無言で、食事を続けた。
 食べ進めるうちに、聖菜が元気を取り戻していくのがわかった。
「ごちそうさま。とりあえず、今日休むって連絡だけするわ」
 聖菜がバッグからスマートフォンを取り出した時、ロック画面の壁紙が一瞬だけ見えた。メガネをかけた男と頰を寄せ合う聖菜の画像だった。いつだったか聖菜が勤めるクリニックの公式サイトで、こんな顔の勤務医の画像を見た気がした。
 聖菜は「外で電話する」と、玄関のほうに向かっていく。初佳は蛇口を上げて、食器を洗いはじめた。こうして水音を立てていれば会話を「うっかり」聞かずに済む。
 聖菜はすぐに戻ってきて、「見て。今そこで撮った」と、画面をこちらに向ける。青い空の画像だった。下のほうに、外廊下の手すりが写りこんでいる。雨の翌日の、いろいろなものが洗い流されたあとの、すこんと明るい朝の空だ。
「ええやん」
「壁紙にしようかな」
 初佳はまた「好きにしなさい」と答えて、洗い終えた茶碗をふきんで拭きはじめる。力をこめたら、かつてないほど小気味よい、ムッキュムキュというような音がした。

 聖菜を駅まで送っていくついでに傘を返しにいこうと思った。聖菜は、自分もついていくと言う。
「この店やろ?」
 歩きながら、聖菜がスマートフォンを差し出す。「わかば洋傘店」の公式サイトであるらしい。「わかば洋傘店」の文字が七色に光っていた。絶妙に古臭いデザインを、聖菜は「一周まわってかわいいかも」と、へんてこなほめかたをする。
「雨が降ったら傘をさせ。生きていたら雨の日だってある」
 トップページに書いてあった文章を、聖菜が読み上げる。借りた傘にも同じようなことが書いてあった。
「どういう意味?」
 首を傾げる娘に見つめられながら、初佳は考えた。
「生きていたら、悲しいこともある。雨の日もあるっていうのは、そういう意味やと思う」
 生きていたら、かならず悲しいことやつらいことがある。そんな日は雨に降られる己の不運を嘆くのではなく、傘をさして身を守ればいい。そう言いたいのではないか。
「晴れてる日に『また雨が降ったらどうしよう』なんて過剰に不安になる必要はありませんよ、その時はただ傘をさせばいいんですよ、ってことちゃうかな」
「ふーん、深いなあ」
「知らんけど」
 知らんけどー。知らんけどー。言い合いながら、つかず離れずの距離を保って歩いた。ところどころに水たまりが残っていて、それをよけながら、時には飛び越えながら。
 わかば洋傘店につくと、初佳と同年代と思われるひげ面の男がレジに陣取ってノートパソコンをいじっているのがガラスのドア越しに見えた。唇はへの字に結ばれ、いかにも不機嫌そうだ。昨日の「スノさん」はいないのだろうか。
 初佳たちに気づくと、男は立ち上がった。でかいな、とびっくりする。二メートルぐらいありそうだ。
「いらっしゃいませ!」
 居酒屋かと思うほどの声量と笑顔だった。今にも「何名様ですか?」と訊ねてきそうだ。
「あの、昨日ここで傘を借りまして」
「ああ、そうですか! 母が」
 母、ということは、この人はスノさんの息子であるらしい。エプロンの胸の名札には「若葉」と書かれている。「わかば洋傘店」のわかばは店主の名字なのだな、と初佳は推測する。
 なるほどヴァン・ヘイレンのパターンやなと納得しながら「あの、傘見せてもらっていいですか?」と訊ねた。傘を借りたお礼に、なにか買おうと思ったのだった。自分はもう傘を持っているから、聖菜の傘を買うつもりだ。なくしたと言っていたし、ちょうどいいだろう。
「もちろん、どうぞどうぞ!」
 いちいち声がでかい。慣れるのに時間がかかりそうだ。慣れる必要があるほど今後この店に来る機会があるのかは別として。
 店内を二周したのち、聖菜は一本のビニール傘を選んだ。ステンドグラスふうのデザインで、青や紫の花がちりばめられている。
「これ、買います」
 袋も包装も必要ないと伝え、タグだけ切ってもらう。初佳がおつりの小銭をしまっていると、聖菜が「雨が降ったら傘をさせ、ってどういう意味ですか?」と若葉さんに訊ねた。
 若葉さんは「ああ!」と頷いて、初佳が返した傘を広げる。それから真顔で「文字通りの意味で、それ以上の含みはないと思います!」と答えた。
「そうなんですか?」
「まあうち、傘の店なんでね!」
 店を出てから、初佳は聖菜を見る。聖菜も初佳を見る。ほぼ同時に「文字通りの意味」と口にした。
「ぜんぜん深くなかったな」
「深読みし過ぎた」
「深読みっていうか、こじつけレベル?」
 わー。恥ずかしー。恥ずかしいなー、と、来た時のように言い合いながらふたたび歩きだした。
「ね、ちょっとこれさしてみていい?」
 聖菜が傘を広げた。
 周囲に人がいないことを確かめて、くるくるとまわす。青や紫の光が落ち、消えたと思ったらまた現れ、せわしなく聖菜の髪や頰を彩った。光を追う聖菜の瞳があまりにもいきいきと輝いていて、初佳は思わず声をもらした。
「あんた、きれいやなあ。せっちゃん」
 傘の回転が、ぴたりと止まった。
「きれいって、傘が?」
 聖菜の唇が、ぐっと真一文字に結ばれている。
「違う、せっちゃんが」
「は?」
 あなたは美しい。何度でも言う。呆れた顔をされたとしても、素直に受け止めてもらえなかったとしても、何度でも。
 聖菜は「ふん」と鼻を鳴らして、初佳に背を向けた。駅に向かって歩き出した肩が震えているのが、傘ごしでもよくわかった。
 すれ違う人は皆一様に、晴れの日に傘をさして歩く聖菜にいぶかしげな視線を向ける。でもななめ後ろを歩く初佳には、まるで気にならなかった。雨が降っていなくても、傘が必要な時はある。
 駅が見えてきた。「また来るから」と、傘を閉じて言う聖菜の肩は、もう震えてはいなかった。

  *

■ 著者プロフィール
寺地はるな(てらち・はるな)
1977年、佐賀県生まれ。大阪府在住。2014年、『ビオレタ』で第4回ポプラ社小説新人賞を受賞し、翌年デビュー。20年、咲くやこの花賞(文芸その他部門)を、21年、『水を縫う』で、第9回河合隼雄物語賞を、24年『ほたるいしマジカルランド』で第12回大阪ほんま本大賞を受賞。他の著書に、『ミナトホテルの裏庭には』『月のぶどう』『今日のハチミツ、あしたの私』『大人は泣かないと思っていた』『カレーの時間』『雫』『そういえば最近』など多数。最新作は7月10日発売の『リボンちゃん』。

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