ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 試し読み一覧
  3. 虹龍の許嫁 囚われの歌巫女は龍神様に愛される
  4. 虹龍の許嫁 囚われの歌巫女は龍神様に愛される

虹龍の許嫁 囚われの歌巫女は龍神様に愛される

 暗く狭い場所で
 声も発せられず身動きも取れず
 恨みばかり募らせる中
 一筋の光を見せてくれたのは
 君の歌声だった


 第一章 復活の虹龍

 ──歌うことが生き甲斐だった。
 透明な水のせせらぎと共に歌声を響かせられるだけで、私は幸せだった。
 他に何もいらなかった。
 ……それなのに、どうして。

 ぞう色の石で囲まれた歌唱の練習場の隅は、今日もどこか冷え冷えとしていた。場内の中心に歌い手たちが集まっているからこそ、ひとり別行動をしているななは余計虚しさを覚える。
 溜まった埃を箒で掃くと、宙に舞ったそれが肺に入り込み、七彩は咳き込む。
 なかなか咳が止まらず涙目になっていると、部屋の中央からは澄んだ伸びやかな声が響いてきた。
 惨めな思いをするだけだからあまり視界に入れたくないのに、つい七彩の目は歌声の主の方を向いてしまう。
 そこでは七彩より一歳年上のとみが、自信に満ちた笑みを浮かべ、優雅に舞いながら歌唱している。
 もうじき開催されるせいりゅうしんの生誕祭のために誂えられた衣装はとても華やかで、透けた素材の面紗ベール披肩シヨールがはためく様は、優雅極まりなかった。
 そんな富子を、うっとりとした面持ちで他の歌い手たちが取り囲む。自分はもう二度と披露することの叶わない歌舞を見せつけられ、胸の痛みを覚えた七彩は慌てて富子から目を逸らした。
 下を向くと、つぎはぎだらけの自分の衣服が自ずと見えてしまい、富子とのあまりの落差に、七彩はますます惨めさを感じてしまうのだった。
 すると、ちょうど富子の歌舞が一段落し、辺りは静かになった。
 静寂はほんの一瞬で、すぐに歓声と拍手が上がる。
「さすがは富子さん! 相変わらずなんて美しい歌声なの!」
「舞もとてもしなやかで、まるで妖精みたいだわ」
「本当! 空から舞い降りた天女のようね。やっぱりあなたが、今のりゅう族では一番の歌い手だわ!」
 歌い手たちが、興奮した面持ちで富子を持て囃す。
「まあ、みんな褒め過ぎよ。なんだか恥ずかしくなってしまうわ」
 当の富子は、照れ笑いを浮かべながらもまんざらでもない様子だ。
 しかしそんな富子を褒めちぎる声は止まない。
 七彩は彼女らに背を向け、ひたすら埃を丁寧に箒で掃いた。
 何も感じるな、何も考えるな。
 いくら望んでも、もう決して手に入らない煌びやかな世界。欲すれば欲するほど、虚しくなるだけだ。
 だからできるだけ心を無にする必要がある。
 そうすることが、もっとも自分の心が傷つかない方法だと、七彩はわかっていた。
 そんな風に、必死に心を静めながら機械的に箒を動かす七彩だったが。
「ちょっと、七彩」
 富子に低い声で背後から呼び止められ、七彩は手を止める。
 雑用係という、一族の中で最底辺の仕事を与えられている七彩は、もっとも実力のある者と認められている富子に逆らえる立場ではない。
 富子が『烏は白い』と言えば、七彩にとっても烏は白くなるのだ。
「……はい」
 消え入りそうな声で返事をしながら、恐る恐る振り返ると、富子が大股で七彩の方に近寄ってきた。
 数々の装飾品で彩られた彼女は、勝ち誇ったように微笑んでいる。
 また、富子に付き従うように控えている他の歌い手たちは、一様にニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。
「この衣装、今度の青龍神さまの式典までに全部綺麗に洗って干しておいてちょうだい。皺がひとつでもあったら許さないんだからね?」
 高圧的かつ、嫌みたっぷりな口調だった。
 この先の流れは決まっている。どんなに綺麗に洗おうと、彼女は小さな皺を見つけては言いがかりをつけ、七彩を折檻するのだ。
 だが、富子を始めとした歌い手たちにもう三年近くも虐げられている七彩にとって、このような行動はもう慣れっこだった。
「かしこまりました、富子さん」
 無表情で淡々と言葉を返し、再び七彩は箒を動かし始める。
 富子たちは、七彩が傷つけば傷つくほど愉悦を覚える。
 彼女らの興をそぐには、機械的にすべてを受け入れるのが一番だった。
 しかし。
「つまんない女。もっと情けない顔しなさいよ」
 富子は小声でそう囁くと、埃が入った塵取りを豪快に蹴飛ばした。
 数十分かけて広い練習場を掃除したのに、一瞬で台無しにされたのだった。
「あら、ごめんなさいね。披肩がはためいたせいでよく見えなかったわ」
 心から楽しそうに富子は言った。
 彼女の取り巻きたちも、クスクスと含み笑いをしている。
「……いえ」
 震えた声で、なんとかそう答える七彩。
 いつもならここまでの嫌がらせはしないのに。
 今日は富子の虫の居所が悪いのかもしれない。そんな日は七彩の悲惨な姿を彼女は求める。
 七彩が惨めであればあるほど、富子は喜ぶのだ。
「そう? まあでもあんたは雑用以外、やることがなくて暇を持て余しているものね。私たちのように歌と舞の練習をする必要なんて一切ないもの。仕事ができてよかったじゃない」
 そう言い放つと、披肩を翻して富子は練習場を出て行った。
 ひとり残された七彩は、散らかった埃を前にして、しゃがみこんでしまう。
 泣くものかと涙を堪えるほど、視界が滲んでいく。
 こんなくだらない仕打ちに打ちのめされる弱い自分が、心から憎かった。
 どうして。どうしてこんなことに。
 ──華やかな衣装を身にまとい、もうじき行われる青龍神の生誕祭で歌って舞うのは、自分だったかもしれないのに。
 涙をぬぐいながら、再び埃を集めた七彩は、練習場を後にして外に出た。
 そしてとぼとぼと、この水の国に張り巡らされた水路のわき道を歩きながら、三年前の出来事を思い起こす。
 三年前──十五歳になったばかりの七彩が、歌い手として一人前となり、初めて青龍神の御前で歌と舞を見せることになった晴れ舞台。
 それまで歌い手として将来を嘱望されていた自分が、一瞬で『呪いの娘』に成り下がり、歌声を奪われてしまった日の出来事を。

  *

「七彩、素晴らしいわ! かろやかな舞に、なんて透き通った声なの……!」
「長い龍歌族の歴史の中でも、七彩ほどの類まれな才能を持った子はそういなかったでしょうね!」
 もうじき十五歳になる七彩が練習場で歌舞を披露すると、他の歌い手たちや、すでに歌い手を引退した世話役の者たちは、手放しで称賛した。
 赤子の頃に捨てられた七彩は、龍神を喜ばせるために歌唱を披露する、龍歌族という一族に拾われた。
 龍歌族の女たちは、幼い頃から歌と舞の技術に生涯を捧げる。
 そこに身分の序列はなく、ただ才能のある者は歌い手として尊ばれ、才のない者や男衆はもっぱら補佐に回ると決められていた。
 よって、生まれながらにして美しい声と柔軟な体を持っていた七彩は、幼少の頃から一族の皆の期待を一身に受けていた。
「みんな、ありがとうございます! 私、もっと歌と舞が上手になるように頑張ります!」
 自分の歌と舞を見た皆が、目を輝かせて褒めたたえてくれる。
 その光景に大いに喜びを感じた七彩は、満面の笑みを浮かべて、礼を述べた。
 物心つく前から芸を仕込まれていた七彩は、息をするように身についている歌唱も踊りも、心から愛していた。特に歌に関しては、練習時間以外にも大声で歌っては、さらなる鍛錬を積んでしまうほどである。
 うっかり風邪をひき、一週間歌唱を禁じられた時は全身がうずうずして仕方がなかった。
 ──一族随一の歌い手となって、この歌で龍神さまに喜んでもらいたい! もっともっと上手にならなくっちゃ!
 龍歌族の皆は七彩の歌が素晴らしいと常に称賛してくれるが、七彩自身は現状にまったく満足していなかった。
 もっとうまく歌える。
 昨日よりも今日の方が。そして今日よりも明日の方が。
 それを信じて疑わない七彩は、一日中歌唱について思考を巡らせるのだった。
「七彩の歌と舞を見れば、そうろうさまもあおさまも、大層お喜びになるだろうな」
 一族の中でもとしかさの男性が、満足げに頷きながら言った。
 蒼太朗とはここ水の国を治めている青龍神で、蒼磨はその息子である。
 歴代の青龍神一族の中でも蒼磨は随一の才能を持っているらしく、蒼太朗は『蒼磨は私よりも優れた青龍神になるだろう』と、よく吹聴している。
 世界には龍神の加護を受けた七つの大国が存在するが、水の国は中でも勢力の強い国で、蒼磨はその期待を背負っていた。
 水の国は文字通り、青龍の力によって湧き出た豊富な水が国の特徴である。
 街中に水路が張り巡らされ、徒歩では遠い移動は小舟で行う。
 また、火の国など水資源が乏しい国に水を送る代わりに、燃料などを交換品として得ることで、水の国の生活は保たれていた。
 現青龍神の蒼太朗は、歴代青龍神の中でも能力はかなり高い方にあるとのことで、ここ三十年で水の国はとても豊かになったらしい。
 ──蒼磨さま……。本当に喜んでくれるかな?
 神秘的な美しさを湛えた瞳で自分を見つめてくる蒼磨の顔を思い浮かべ、七彩はほんのりと耳が熱くなるのを感じた。
「そうねえ。もしかして蒼磨さま、そろそろ七彩に求婚してくるんじゃないかしら?」
「そうかもしれないわね! 蒼磨さまも十八歳になられて、お年頃だものね」
「え……!」
 求婚という、自分には縁がなさそうな単語が飛び出てきて、七彩は狼狽した。
 国を治める龍神族の数は少なく、その人口は人間の千分の一ほどしかない。
 さらに女性はほとんど生まれないため、龍神族の男性は人間の女性を娶る場合が多く、水の国では、龍歌族一の歌い手を青龍神の嫁として迎えるのが通例となっているのだ。
「お、お姉さま方ったら。私はまだ十四歳ですよ?」
 のぼせ上がりそうになるのを必死で堪える七彩だったが、姉分たちはニヤニヤしながらこう続けた。
「そうは言ってももうすぐ十五歳じゃない。人間の十五歳はもう立派な大人よ?」
「そうよ、十五歳になってすぐに婚儀を挙げたってなんらおかしくないんだからね?」
「は、はあ……」
 きっと、自分の顔は真っ赤になっているのだろう。
 楽しそうにからかわれ、七彩はたじたじになる。
 七彩は歌と舞に生きているだけの少女でしかなかった。男性との付き合い方など想像すらできないほど初心なのである。
 ──わ、私に結婚なんてまだ早すぎるわ。
 そんな風に七彩がおどおどしていると。
「七彩、顔が少し赤いんじゃなくて? 具合でも悪いの?」
 今まで少し離れた場所にいた富子が、声をかけてきた。
「富子さん……!」
 仲のいい富子の登場に、七彩は安堵する。
 ひとつ年上の富子とは、歌唱の練習はもちろん、日常生活でも行動を共にすることが多かった。
 また、歌や舞に行き詰まった際に七彩が悩んでいたら、話し相手となり励ましてくれたり、気を紛らわせてくれたりした。
 富子は七彩がもっとも気を許している相手であり、一番の友人だった。
「あ、大丈夫よ富子さん。一生懸命歌ったばかりだから、少し疲れただけだと思うわ」
 蒼磨との結婚を想像して赤面していただけだが、真実を告げるのは恥ずかしくてそう誤魔化した。
 それまで眉間に皺を寄せ、心配そうな面持ちをしていた富子だったが、頰を緩ませ安心した表情になる。
「そう? それならよかった。それにしても今日の七彩の歌はとても素晴らしかったわ。もう私よりも断然上手ね!」
 嬉々とした面持ちで褒めてくれる富子だったが、七彩は少し複雑な気持ちになる。
 富子の歌だって、七彩が惚れ惚れしてしまうほど見事だ。きっと自分たちの歌唱技術は拮抗していると思う。
 しかし最近の富子は今のように『私よりも』とか『歌も舞も七彩の方が上手だもの』と、自身を下げつつ七彩を持ち上げるようなことばかり言う。
 そんな発言を聞くと、なんだか胸がざわつくのだった。
「……そんな。富子さんの歌には、私はいつも聞き惚れているのよ」
「あら、ありがとう」
 七彩の本心からの褒め言葉に、富子は満面の笑みを浮かべた。
 ──まあ、でも。富子さんはいつだって優しいし。これからもきっと一緒に、いい歌い手になれるように頑張っていくのよね。
 友人として、時には好敵手として。
 七彩が胸の中でそう結論付けていると。
「七彩! 蒼磨さまがいらっしゃったわよー!」
 姉分のひとりが、声を張り上げた。
 ──蒼磨さまが……!
 喜びと緊張が七彩の全身を走る。
 蒼磨はよく、この場所──歌い手たちが過ごしている歌舞の練習場に現れる。
 そしていつも七彩に声をかけ、『歌、頑張っているようだな』などと励ましてくれるのだった。
 蒼磨はすでに練習場に入ってきており、入り口付近で世話役の男性に挨拶されているのが見えた。
 長身痩軀で、凜々しさを感じさせる端整な顔立ちは父の蒼太朗譲りだ。
 蒼磨の周囲にいる龍歌族の女性たちは皆、うっとりとした面持ちで彼に視線を送っている。
 そんな蒼磨に対して自分が抱いている仄かな好意が、恋心なのかはまだ七彩は確信が持てない。だが、顔を見れば嬉しいと感じるし、彼に歌唱を褒めてもらいたいという気持ちが常に胸に存在することだけは、間違いなかった。
 蒼磨の方へと駆け寄る七彩。
 しかし、その途中で鋭い視線を受けた気がして、一度足を止めた。
「……?」
 視線を感じた方を見てみると、富子が佇んでいた。
 彼女は柔らかい微笑みを浮かべながら、次期青龍神である蒼磨の方を見ている。七彩の方など、見てもいない。
 ──気のせいかな。
 そう思った七彩が蒼磨の方へと向かうと、歌い手たちと言葉をかわしていた蒼磨が自分の方を見て目を見開き、その青い瞳がそれまでよりも一段と美しく輝いたように見えた。
「七彩!」
 弾んだ声で名を呼んでくれた蒼磨は、着用している水色のかんの裾を翻しながら七彩の方へと駆け寄ってきた。
「蒼磨さま! いらしてくださって嬉しいです」
 こみ上げてくる嬉しさを抑えきれず、上ずった声で七彩は答えた。
 そんな自分の様子を見てか、蒼磨は機嫌良さそうに微笑む。
「はは。今日もかわいいな、七彩は」
「え……。あ、ありがとうございます」
 蒼磨は最近、こうして返答に困るような甘い言葉をかけてくる。
 龍神族の言葉を否定することもできなくて、七彩はお礼を言うほかなかった。
 ──近頃の蒼磨さまは、私のことを『かわいい』とか『美しい』とか、そんな風におっしゃる時が多いのよね……。男性が女性に対して褒める言葉というか……。
 もしかして本当に、自分のことが好きなんじゃないだろうかと思ってしまう。
「それで、歌の練習はどんな調子だ?」
「はい! たった今まで練習に励んでいました。もうじき行われる、青龍神さまの生誕祭で、私の歌を初披露する予定です」
 今度は答えやすい質問だったので、七彩は意気揚々と返答した。
 龍歌族は十五歳になると歌い手として一人前となり、龍神族の前で歌を披露することを認められる。
 つまり青龍神の生誕祭が、蒼磨に初めて公式の場で自分の歌を聞いてもらう機会となる予定なのだった。
「そうか、それは楽しみだな。それにしても、もうじき七彩も十五歳になるのだな」
 そう呟くと、七彩をじっと見つめてくる蒼磨。
 深い青を湛えた蒼磨の瞳は、吸い込まれそうなほど美しく、七彩は怯んでしまう。
「は、はい……」
「年齢で考えればつまり、そろそろ私がお前に結婚を申し込んでも何らおかしくはないというわけだな」
「え……」
 先ほど姉分たちにも同じ内容で囃し立てられたが、面と向かって本人から結婚について口に出され、七彩は顔はおろか耳までらせてしまう。
『器量が良く、歌の才能もある七彩が蒼磨さまに娶られるに違いない』と、皆がよく噂していることを、七彩本人も知っていた。
 七彩自身、『いつか私は蒼磨さまに妻として迎えられるのだろうか』と考えたことはあったし、ひとつの可能性として夢見ていた。
 それがとうとう現実味を帯びてきたことに、心からの嬉しさを覚える。
 するとそんな七彩の頭をそっと撫でながら、蒼磨は満足げな表情になる。
「はは、いちいち顔を真っ赤にさせてかわいいなあ、七彩は。初心なところが実に私好みだ」
「あ、蒼磨さまったら……」
「こんなにかわいいと、心配になってくるよ。私と結婚したら、歌い手はやめてもらうことになるな」
 微笑みながら放たれた一言だったが、虚を衝かれた七彩は、掠れた声でこう尋ねる。
「え……? どうしてですか?」
 伝承には、過去に龍神族と結ばれた歌い手たちが、結婚後に芸事をやめる話などなかったはずだ。
 さすがに出産前後や子供が乳飲み子の頃は休んでいたようだが。
 すると蒼磨は七彩の頰に触れながら、口を開いた。
「お前が歌い舞う姿は天女のごとく美しい。他の男が見たらせんじょうてきな感情を抱くかもしれん。私にはそれが耐えられんのだ」
 蒼磨は相変わらず柔和な笑みを浮かべていたが、青い光が宿った瞳からは有無を言わさぬような圧が感じられた。
「私に他の男性が……? そんなわけないです」
 暇さえあれば歌の稽古ばかりしている七彩は、一族以外の男性とはほとんど関わったことがなかった。
 富子はたまに、水の国に住む少年たちと繁華街で遊んでいるようだが、七彩は興味がないので一緒に出掛けたことはない。そんな生真面目でつまらない自分に、蒼磨以外の男性が近寄ってくるとは思えなかった。
「お前は自分の美しさに気が付いていないようだな。今は、七彩が青龍神の息子である私のお気に入りだと皆が知っているし、年齢的にまだ子供だから男が寄ってこないだけなのだぞ」
「そうなのですか……? でも蒼磨さま、私は──」
 歌を取られてしまったら、何も残らないがらんどうの人間となってしまいます。
 そう続けようとしたが、蒼磨が七彩の声に言葉を被せてきたため、口を噤む。
「七彩は私の手の中に閉じ込めておきたい。お前には私さえいればいいんだ。なに、結婚までは特別に自由にさせてやるのだから、それまでに思う存分歌い納めをすればいいではないか」
 少し強めの口調で蒼磨は言った。
 蒼磨の言葉には違和感を覚えた。
 そしてなぜか、少しの恐怖心も。
 結婚は幸せなことであるはずなのに、なんだか不穏な気配を感じてしまった。
 ──ううん。青龍神に見初められるのは、水の国に住まう女性にとって一番幸福なことには違いないわ。こんな風に感じる私がおかしいんだ。
 胸に生まれた気持ちの乱れを七彩は慌ててなかったことにし、無理やり口角を上げてみせた。
「はい、そうですね」
 素直な七彩の様子に、蒼磨は満面の笑みを浮かべたのだった。
「ああ、愛しているぞ、七彩」
 そしてその数日後、当代の青龍神・蒼太朗の生誕祭が執り行われた。
 水の国の中心にある、代々の青龍神が祀られている神殿内の式典場では、華やかな衣装を身にまとった歌い手たちが、次々と舞台に現れる。
 式典では、年嵩で実力派の歌い手たちが一番手を務め、徐々に歌い手の年齢が下がっていく。
 本日が初舞台の七彩と富子の若いふたりは最後の演目に出る予定だった。
 舞台にもっとも近い上座の、蒼太朗の隣に蒼磨は腰を下ろしていた。
 また、他の席には青龍神一族ではない龍神族たちが座っており、場内はほぼ満席のようだった。
 舞台袖から、蒼磨が満足げに微笑みながら歌い手たちの歌と舞を眺めているのが七彩には見えた。
 ──舞台で初めて蒼磨さまに歌を聞いてもらえる!
 そう考えると緊張してきた。
 汗をかいた手のひらを七彩はぎゅっと握る。
 すると。
「七彩、肩がすくんでいるわよ。だめよ、力んでいたらいい声が出ないじゃない」
 傍らにいた富子が少し笑いながら声をかけてくれた。
「と、富子さん。本当にその通りね。でも私、ドキドキしちゃって」
「そっか、蒼磨さまも見ている初舞台だものね。でもいつも通りにやれば七彩なら大丈夫よ! 祭事用の歌い手の衣装もとても似合っているしね」
 にっこりと微笑んで、富子が励ましの言葉をかけてくれる。
 七彩は改めて自身が着用している衣装を眺めてみた。
 光沢のある布で誂えられた、ふんわりとした肌触りのよいじょうには、繊細な刺繡が美しく施されている。また、肩に羽織った披肩は透き通っている上に、色とりどりのガラス石がふんだんに縫い付けられており、少し風にはためいただけでキラキラと輝くのだった。
 ずっと憧れていた祭事用の衣装を身にまとった自分を、先ほど全身が映る大きな鏡で確認したが、我ながら惚れ惚れしてしまった。
 ──そうね。富子さんの言う通り、いつも通りに歌えば大丈夫に違いないわ!
「ありがとう、富子さん。あなたのお陰で緊張がほぐれたわ」
「あら、いいのよお礼なんて。私たちは一緒に舞台に立つ、仲間なんだからね」
 控えめな態度を取りながらも、またもや嬉しい言葉を言ってくれる富子。
 富子が隣にいてくれて本当によかったと、七彩は心から思う。
 そしてそんな会話をしているうちに、いよいよ七彩と富子の番となった。
 富子のおかげで幾分か緊張は和らいだもののやはり完全には解けず、七彩は自身の心臓の音を感じながら、富子と共に袖から舞台へと歩いた。
 舞台に立つと、真正面に座る蒼太朗と蒼磨の姿が見えた。
 七彩と視線を合わせた蒼磨が、口角を上げる。
 ──蒼磨さまに、私の初舞台を……歌を聞いてもらうんだ。
 そう意気込んだ七彩だったが、先日の蒼磨の『私と結婚したら、歌い手はやめてもらうことになるな』という発言がふと脳裏に蘇り、またもや不穏な感情が生まれてしまった。
 ──こんなこと考えている場合じゃないのに。それにもしかしたら、今日の舞台が気に入れば、蒼磨さまも考え直してくれるかもしれないじゃない。『またお前が歌う姿を見たい』って、言ってくれるかも。
 そう思い直した後、すべての雑念を意識の外に追いやった七彩は、富子と共に歌い始めの姿勢を取り、その場に静止した。
 すると。
「ほう。右手にいる娘は初めて見る顔だな」
 蒼太朗の渋い声が聞こえてきた。
 中年らしい皺が頰や額に刻まれてはいるが、精せい悍かんで整ったおもちは青龍神らしく神秘的で美しい。
 あと数十年もすれば、蒼磨もあんな顔になるのだろうか。
 そんな蒼太朗から見て右手にいるのは七彩であった。
「はい。先日十五になったばかりの娘でして、蒼太朗さまに歌唱をお聞かせするのは
今日が初です。とても才能に溢れている歌い手ですので、きっと蒼太朗さまもお気に
召すかと思います」
 蒼太朗の言葉に答えたのは、彼の傍らに控えていた龍歌族の頭の男性だった。
 祭事の際、頭は常に蒼太朗の側につき、歌い手たちの紹介や歌の解説などを行うの
が習わしなのである。
「ほう、それは楽しみだ」
 顎を触りながら、蒼太朗が品定めをするような笑みを浮かべる。
 その隣で、蒼磨も優美に微笑んでいた。
 青龍神に認識されたことによって、七彩の胸の鼓動はさらに速まる。
 しかし練習の時と同じ音楽が、自分の後ろに控えた管弦楽隊によって奏でられると、強張っていた体の力があっという間に抜けてしまった。
 前奏で、富子と共に披肩をはためかせながら舞い始めた七彩は、すでに平常心を取り戻していた。何十回、何百回と体に刻み込んだ舞は魂が覚えているらしく、七彩は無の心で踊ることができた。
 その後、まず富子の伸びやかな歌声が場内に響き渡る。
 蒼太朗はその美声に酔いしれているようで、目を閉じて堪能しているのが舞の途中にちらりと見えた。
 そして富子の歌唱が終わると、次は七彩の番だ。今回の演目は、富子と七彩それぞれの独唱が交互に行われる。
 七彩は大きく息を吸った後、管弦楽隊の演奏に自分の歌声を乗せる。華やかな楽器の音と伸びやかな自分の声がぴたりと重なり、練習以上の美しい響きを生み出してくれているように七彩は感じた。
 ──私、ちゃんと歌えている。楽しい……! 何て楽しいの!
 気分が高揚し、いつも以上に喉が開いていく。
 美しい歌い手の衣装を身にまとい、大きな舞台で青龍神に自分の努力の成果を見てもらうことが、こんなにも心が満たされることだったなんて、七彩はこの時まで知らなかった。
 ──ああ、やっぱり。やっぱり私は、生涯こうして歌っていたい。結婚後も歌い続けたいって、今度蒼磨さまにお願いしよう。
 きっと蒼磨ならわかってくれる。
 今日の自分の歌を聞いてくれた蒼磨なら。
 自分の身も心も蒼磨のものだと伝えれば、きっと七彩の願いを許してくれるに違いない。
 歌って舞う七彩の胸が、そんな風に希望に満ち溢れた時だった。
「うっ……ぐっ!」
 舞台正面の席から、低く呻く声が響いてきた。
 何事かと七彩はハッとするも、流れてくる音楽も止まないし、龍歌族の頭や蒼太朗からも中止の命令がないため、歌い続ける。
 しかし。
「父上!?」
「ど、どうなさいましたか蒼太朗さま!」
 蒼磨と龍歌族の頭の慌てる声が響き、さすがに楽隊の者たちが演奏を止めた。
 七彩はようやく口を噤み、その場に静止する。
 呻き声のした方では、蒼太朗が胸を押さえうずくまっていた。
 顔面蒼白の彼のこめかみには血管が浮き出ており、ひと目でただごとではないのがわかる。
 ──蒼太朗さま、どうなさったのかしら……!?
 こんな時に突然の病だろうかと、純粋に蒼太朗の身を案じる七彩だったが、なんと蒼太朗は震える指先で七彩を指すと、七彩を睨みつけながらこう告げたのだ。
「その娘……その娘だっ。その娘が、歌い始めた……瞬間! 息ができぬほど、苦しく、なったのだっ」
 息も絶え絶えに放たれたその言葉に、七彩は呆然とする。
 ──え!?
 私の歌で? 一体どういうこと……?
 わけもわからずその場に立ち尽くしていると、席に着いていた龍神族や七彩の後ろにいた楽隊の者たちから、ざわめきが聞こえてくる。
「あの娘が歌った瞬間に、蒼太朗さまが苦しまれた……?」
「七彩の歌声に、何かあるってこと?」
 不穏な言葉が次々と耳に入ってきて、七彩は青ざめる。
 そしてそんな七彩に糾弾するような視線を向けながら、蒼太朗はこう叫んだ。
「そなた、呪われているのではないか!? 歌声を聞いただけで青龍神である私がこんなに苦しむなんてっ。きっとそうだ!」
「そ、そんな! 私は呪われてなど!」
 まったく心当たりがない七彩は、必死に反論しようとしたが混乱してうまく言葉が出てこない。なぜなら、今まで七彩の歌を聞いて誰かが苦しむなんてことは、一度だってなかったのだ。
 蒼太朗の息子の蒼磨だって、練習場で何度も七彩の歌声を耳にしている。
 誰もが、美しい歌声だと称賛してくれた。
 そんな自分が呪われているはずなど……。
 困り果て、泣きそうになる七彩。
 すると傍らで事態を静観していた富子が、一歩前に出た。
 優しい富子のことだから、きっと何らかの弁護をしてくれるに違いないと、七彩は期待した。
 しかし。
「呪い……。ひょっとしたらと、私もかねてから思っておりました。だってこの子の歌声には、禍々しい気配が感じられますもの。思い出してみれば、毎夜隠れるように練習場に入り浸っていて、明らかに怪しい行動を取っておりましたわ」
 神妙な面持ちの富子の発言に、七彩は耳を疑う。
 確かに毎晩のように練習場にこっそり入ってはいたが、それは歌の練習をするためであり、何も後ろめたいことなどない。
「と、富子さん!? 一体何を──」
「他の歌い手の者たちは何も感じていなかったようですし、一見普通の少女である七彩に呪いなど……と、私の気のせいだと思い込んでいたのですが、やはり私の直感は正しかったようですね。念のためご報告しておけばよかったわ。申し訳ありません」
 七彩の驚きの声を遮り、富子は深刻な声音で蒼太朗へ告げると、深々と頭を下げた。
 その時、下を向いた富子の口元が笑っているように見えた。
 七彩はもうわけがわからず呆然とする他なかった。
 ただの人間の娘である自分が呪われているはずなどないではないか。
 それなのに、今まで苦楽を共にしてきた富子はなぜこのような発言をするのだ。
 しかも、ほくそ笑むように口元を歪めながら。
 富子の言葉を受けた蒼太朗は、わなわなと身を震わせていた。
 謎の苦しみからはすでに解放されているようだが、その青く輝く瞳は憤怒に満ちている。そしてその眼差しは、真っすぐに七彩にぶつけられていた。
 水の国の民にとっては唯一無二の絶対神である青龍神の怒りを、七彩は買ってしまっている。
 なぜ、どうして。
 七彩だって、日ごろから青龍神を崇めていたし、今日も起床してすぐに祈りを捧げたのに。
「なんと不吉な女だ……! 崇高な青龍神を苦しめる呪いの歌声を所持し、あまつさえ神聖な儀礼の場で披露するなどっ。そこの娘を早く退出させろ! もう金輪際歌わせるんじゃないぞっ」
 蒼太朗が七彩を再び指差し、怒鳴りつける。
 そしてそんな彼の傍らにいた蒼磨は、七彩を不審そうに見つめていた。
 ──あ、蒼磨さま! 助けて!
 想いを通わせている彼ならば、この間自分を娶ると言ってくれた蒼磨ならば、助けてくれるかもしれない。
 七彩は藁にも縋る思いで蒼磨を見つめ、弁明のために口を開こうとした。
 しかし。
「まさか七彩が呪われていたなんて……。にわかには信じられないが、その歌声を聞いて父上が苦しまれたのなら、真実なのだろうな」
 七彩の言葉を聞く前に、蒼磨は静かにそう言ったのだった。
 その態度に七彩が面食らっていると、蒼磨が今度は忌々しげに睨みつけてきた。
「もしや七彩は、龍神族に謀反の企みを? お前は私のことも騙していたのか?」
「そ、そんなっ。違います! そもそも私は呪われてなどっ」
 とんでもない疑いをかけられ、七彩は声を張り上げて必死に否定するが、蒼磨はさらに鋭い眼差しを向けてきた。
「黙れ! 私だって信じたくはないが、父上が呼吸困難を訴えるほどの苦しみを覚えたのが、お前が呪われている確固たる証拠ではないかっ。二度とその不吉な歌を聞かせるな!」
 怒気をはらんだ声でそう言い捨てる蒼磨は、もはや取り付く島もない。
 つい先日、甘い言葉をかけながら頭を撫でてくれた蒼磨の豹変に、七彩は強い衝撃を受けて、その場に立ち尽くした。
 ──蒼磨さまも私を信じてくれないの? 私は呪われてなどいないのに。私はもう、歌を歌ってはいけないの? どうしてこんなことに……。
 歌唱が生き甲斐である七彩にとって、蒼太朗の『金輪際歌わせるんじゃないぞっ』という言葉と、蒼磨の『二度とその不吉な歌を聞かせるな!』という言葉は、もはや死刑宣告と言っても過言ではなかった。
 その後のことは、はっきりと覚えていない。
 きっと誰かが七彩をその場から引っ張り出したのだろう。気が付いたら、龍歌族の皆が住まう地区の隅に立つ、仕置き小屋に入れられていた。
 生後間もない頃から七彩を世話してくれた龍歌族の大人たちなら、自分の言い分を信じてくれるかもしれないと、七彩は『私は呪われていない』と何度も主張した。
 だが、誰も七彩の言葉を信じてくれなかった。
 青龍神が治めるこの国では、蒼太朗の命令は絶対なのである。
 胸の中に疑いがあったとしても、蒼太朗の意に反することなら呑み込まなければならないのだ。疑いを抱いてしまったことすら、罪なのである。
 そんな国で、人間の小娘でしかない七彩の言い分など、誰も受け入れてくれるはずがないのだ。
 ──もしかしたら私は本当に呪われているのかもしれない。ええ、きっとそうよ……。だって全知全能の青龍神さまがそうおっしゃるのだから。
 皆に呪いの娘扱いされ、心が折れてしまった七彩は、次第にそんな風に考えるようになった。
 こうして七彩は、その声で歌唱することを禁じられた。
 青龍神を苦しませたのだから、処刑されないだけましと思えと言い捨てられることすらあった。
 それからは最低限の衣食住だけを与えられ、奴隷さながらの生活を送らされていた。
 これまで家族同然だった龍歌族の者にも『青龍神さまを呪った娘』と疎まれて、ことあるごとに虐げられることとなったのだ。

  *

 七彩の世界が一変したあの出来事からちょうど三年が経った。
 現在、富子は龍歌族でもっとも優秀な歌い手として、皆から持て囃されている。
 七彩が歌っていた頃も、彼女の歌は褒められていたので当然の成り行きだろう。
 今年の青龍神の生誕祭でも、富子を中心とした演目で歌と舞を披露する運びとなっている。
 そして生誕祭の当日の朝がやってきた。
 練習場にて、七彩は富子や他の歌い手のための衣装を、黙々と準備していた。
 すると。
「ちょっとあんた、準備は大丈夫なわけ? 不手際があったらただじゃおかないんだからね。今日は私の晴れ舞台なんだから!」
 背後から刺々しい富子の声が突き刺さり、七彩は身をすくませる。
「は、はい……」
 弱々しく返事をしながら振り返ると、富子が腕組みをしながら立っていた。
 忌々しそうに七彩を睨んでいたが、その瞳はやけにギラついている。
 七彩をしつこく虐げる時、富子はよくこんな顔をするのだった。
「あんたみたいな呪いの娘ごときが私の衣装の準備ができるのだから、光栄に思いなさいよね」
「……はい」
 あまりに冷淡な富子の物言いに、七彩は思わず涙ぐんでしまう。
 ──どうしてこんなことになってしまったの。なぜ、富子さんはあの日を境に執拗に私を虐げるようになったのだろう……。
 それまでは、姉妹のように仲良くしていたのに。
 思うように歌声が出ずに落ち込んだ時は、富子が七彩を励ましてくれたこともあったというのに。
 そんな風に、遠い昔の富子の姿を七彩が追懐していると。
「ふん。何よ、あからさまに悲しそうな顔をしちゃって。本当は今日だって自分が歌を披露するはずなのに、富子なんかよりも自分の方が歌は上手いのに……とでも考えているんじゃないでしょうねえ?」
 富子が嫌みったらしい口調で言った。
 ぎくり、と七彩の胸に戦慄が走る。
 別に富子よりも自分の方が歌唱の実力がある、とまでは七彩は思っていない。
 しかし富子に対して、思うところがないわけではなかった。
 富子は大事な歌唱の場の前日にもかかわらず、夜遊びに出かけたり、喉に悪いとされる珈琲を飲んだりと、万全の状態で歌唱に臨む心構えが足りないように思う場面が多々あったのだ。
 案の定、そんな時の富子の歌は高音が掠れていたり、音程がところどころ外れていたりと、完璧な出来ではなかったのも確かだった。
 そんな本心を、富子に見透かされたような気がした。いくら頑張ったところで、呪いに冒されている自分は富子の足元にも及ばないというのに。
「め、めっそうもございません。決してそのようなことは……」
 慌てて七彩は否定した。
 富子は怯える七彩の顔を眺めると、「ふっ」と息をついてからにたりと笑った。
 底意地の悪さが感じられる、不気味な微笑みだった。
「私ね、ずっとずっと幼い頃……そう、物心がついた頃から、あんたのことが大っ嫌いだったの」
『大っ嫌い』という部分に、やたらと力を込めて富子が告げた。
 その言葉に、七彩は耳を疑う。
 だって、物心がついた頃から呪い騒動の前までは親友のように、そして時には姉妹のように、微笑み合って遊んだり歌の鍛錬に励んだりした仲だったではないか。
 七彩が呪われた娘だとわかったために、富子の態度が変わったのだと思っていた。
「だって、みんながあんたの歌ばっかり褒めるから。あんたの容姿ばっかり持て囃すから。あんたさえいなければ、私が一番かわいくて、若手の中で一番歌が上手いはずなのにって。だからあんたを陥れてやろうって思ったの」
「陥れる……?」
「三年前のあの日、蒼太朗さまにあんたが呪いの娘だって言われた時のやりとりは、覚えているわよねえ?」
 間延びした声でそう告げる富子の言葉に、七彩は頷いた。
 もちろん覚えている。
 忘れたくても忘れることなんてできなかった。
 あの日、七彩は地獄の底につき落とされたのだから。
「あの時富子さんは、かねてから私の歌声に禍々しい気配を感じていたとおっしゃっていましたね。そんなものが私にあったなんて、自分では気が付きませんでした」
 青龍神が苦しみを訴えるまで、誰ひとりとして七彩が呪われていることに気づいてはいなかったが、富子だけは、なんとなく察していたと言っていた。
 富子の隣で歌唱練習する機会が多かったからだろうか。
 そんな風に七彩が考えていると。
「そうよねえ。私だってそんなの全然気が付かなかったもの」
 富子が低い声で紡いだ言葉の意味が一瞬わからず、七彩は「え……?」と小さく声を漏らした。
 富子は相変わらず、七彩を見つめてあざけるように微笑んでいる。
 しかし先ほどよりも、笑みに含まれた気味の悪さが濃くなった気がした。
「どうにかして私はあんたを消してやりたかった。あんたさえいなければすべてが私の思うがままになるんだから。……だから、蒼太朗さまがあんたが呪われてるって叫んだ時は『しめた』って思ったのよ。ずっとあんたの側にいた私が『七彩の歌声からは禍々しい気配を感じる』って言えば、みんなは本当にあんたに呪いがかかっているって思うじゃない?」
 話しているうちに、富子はどんどん悦に入るように邪悪な微笑みを深めていった。
 一方で七彩は、富子の言葉をすぐには受け入れられない。
 ずっと彼女のことは友人だと信じていた。
 呪いがあるせいで、関係性が変わってしまったのだと、自分を納得させようとしていたのに。
 三年前のあの日、『七彩の歌声からは禍々しい気配がする』と富子に指摘された時は驚愕したが、彼女がそう言うのならそうなのかもしれない、自分は本当に呪われているのかもしれないと、徐々に考えるようになってきていた。
 しかしそのすべてが偽りだったと富子は言っているのだ。
 ──やっぱり私は呪われてなどいなかった? 青龍神さまがあの時苦しんだのはもしかしたらたまたま?
 何らかの体調不良が、偶然七彩が歌唱した時と重なったのかもしれない。
 今となってはわからないし、もしかしたら本当に七彩が呪われている可能性もゼロではないが。
 だが、富子の行動はすべて七彩を陥れるためであり、七彩の歌声に禍々しい気配など感じていなかったのは事実なのだろう。
 何年も傍らで優しく微笑んでいた富子の胸には、ずっと七彩を陥れたいという負の欲望が渦巻いていたのだ。
「そんな……。富子さん、噓でしょう……?」
 やはり受け入れがたくて、七彩は掠れた声で問う。
 しかし富子はそんな七彩の頭頂部の髪をむんずと摑んだ。
 そして顔を近づけ、七彩に見せつけるように微笑む。
 現在の七彩の不幸にまるで快感すら覚えているような、不気味でこうこつとした禍々しい笑みだった。
「誰もあんたの言い分なんて信じないからね! 今のあんたを見ていると気分がいいわ。もっと暗い顔を、もっと絶望に苦しんでいる顔を見せてちょうだい。ああ、せいせいする」
「そん……な……」
 あまりの言い草に、七彩は震えた声を吐き出すことしかできない。
「ふふっ。この前私、蒼磨さまから結婚を申し込まれたの。今日の式典で婚約を発表する予定よ。……お祝いしてちょうだいね」
 勝ち誇った顔と声でそう告げ、富子は摑んでいた髪を引っ張りながら七彩を突き飛ばした。頭頂部がずきずきと痛む。しかし張り裂けそうな胸の痛みに比べれば、なんてことはない。
 ──私はあの日、富子さんに陥れられたっていうの……。
 三年越しに知らされた富子の仕打ちに、七彩は床に這いつくばりながら悲しみに打ちひしがれた。
 実は、蒼磨と富子の結婚を蒼太朗が命じたらしいという噂は、少し前に七彩も耳にしていた。
 三年前は蒼磨に仄かな好意を寄せていたが、彼は『私は呪われていない』と訴える七彩の話をまったく信じてくれなかった。
 そのため、蒼磨に対する親愛の情はもう七彩の中では消滅している。
 しかし彼と仲睦まじく過ごした日々が幸福であったことは間違いなかった。
 もうあの日々は決して戻ってこないのだと、富子の婚約宣言によって改めて突きつけられ、七彩はさらなる悲哀を覚えた。
 ──もう嫌だ。何もかも。……私は、私は、もう消えてしまいたい!
 以前、一生懸命歌の稽古に励んだこの練習場も、かつての好敵手であった富子の顔も、見るだけで、心が裂かれるように辛い。
 一刻も早くこの場から立ち去りたい衝動に駆られた七彩は、立ち上がって走り出してしまう。
「これから式典だっていうのに、どこへ行くのよこの雑用係っ。私の世話をしなきゃダメじゃないの!」
 背中越しに富子の怒鳴り声が響いてきた。
 今富子に従わなければ後でもっとひどい目に遭うことはわかっている。
 しかし七彩は、ただこの場から消えたいあまり、返事もせずに走り去った。
 無我夢中で龍歌族の里を駆け抜けて、息も絶え絶えになった頃。
 気づいたら七彩は、今にも朽ち果てそうなほど古い神殿の前にいた。
 石畳はでこぼこな上に、石造りの社もとうろうも大きく欠けている。
 長い間、誰の手も入っていないことは一目瞭然だ。
 しかし社に幾重にも巻き付いた緑色のつたや、人の気配のしない空気がやけに神秘的だった。
「また、来ちゃった……」
 ここは七彩が呪いの娘と言われてからしばらく経った頃、たまたま発見した場所。
 誰も近寄らないのをいいことに、気落ちした時はここに来て心を休めていた。
 現在では滅びてしまった龍神を祀っていた神殿らしいが、詳しいことは七彩もわからない。
 だが、人の手から離れて朽ち果てる寸前だというのに、どこか美しいこの場所に来ると、ざわついた胸がなぜか安らぐのだった。
 社の前でしゃがみ込み、しばらくの間浅く呼吸をする七彩。
 気持ちは段々落ち着いてくるも、富子の口から出た真実があまりに辛く、頰を涙が伝う。すると七彩の全身を包み込むように、温かく爽やかな風が吹いた。
 ──やっぱりここには誰かがいる……気がする。
 以前も、同じようにこの場所でひとり涙を流していたら、同じように風の温かさを感じた。まるで傷ついた七彩を慰めてくれるような、頭を撫でてくれているような、優しいそよ風を。
 気のせいだろうとは思う。
 だが、誰からも拒絶され、虐げられている自分を案じてくれる何者かがいるかもしれないと考えると、七彩の胸は躍るのだった。
 七彩は立ち上がり、深呼吸をした。
 そして。
“古の誓い、今も変わらず
 龍神よ、永遠に我が側に
 祈りを捧げ、魂を捧げ
 神のわざ、今ここに現れん”
 腹に力を入れながら、伸びやかな声で歌唱をした。
 歌うことを禁じられた七彩は、この誰もいない朽ち果てかけた場所でのみ、その歌声を響かせられるのだった。
 歌い終えると、七彩を取り巻く風がさらに優しくなった……気がした。
 そして、その時だった。
《……今日も素晴らしい歌声だな。心が洗われるようだ》
 その声は、鼓膜を通してではなく、脳内に直接響いてきた。年若き青年と思われる、思わず聞き惚れてしまうような透き通った声音だった。
「え……?」
 誰に言われたのだろうと、七彩は思わず辺りを見回す。すると、社の前にひとりの男性の姿があった。
 彼の佇まいがあまりに美麗で七彩は目を見張る。
 煌びやかな銀髪は眩しく、色白の肌は陶器のように滑らかだ。
 そして大きく切れ長の目に、高いりょう、形のよい唇が完璧な位置に配置されたその顔は、目を見張るほど美しい。
 蒼太朗や蒼磨をはじめ、龍神族は人間に比べて容姿が整っている者が多い。
 しかし、もし眼前の青年が青龍神一族と並んだら、蒼太朗や蒼磨の美しさなど霞んでしまう。
 それほどまでに青年の美は群を抜いていた。
 何より華やかなのは、角度によって青にも、赤にも、黄にも見えるその瞳だった。その豊かな色彩は、空に浮かぶ虹を彷彿とさせる。
 しかし彼が普通の人間や龍神族でないのは一見して判断できた。
 その全身が透き通っていたからだ。
《すまない。今はまだ不完全な姿なんだ。俺はここに封印されているから》
 ──不完全な姿? 封印されている? 一体どういうことなの?
 状況がよくわからず、七彩は困惑してしまう。
 だが、明らかに普通ではない彼を前にしても、不思議と恐怖は一切覚えなかった。
 その声も表情もとても穏やかだったし、この場所がかねてから心の拠り所だったからだろうか。
「あなたは……?」
《俺ははる。君は? ずっと名前が知りたかった》
「な、七彩……」
 恐る恐る七彩が答えると、晴虹は優美な笑みを浮かべた。
《七彩か……。いい名前だ。やっと君の名前を呼ぶことができたが、まだこの手では触れられないのだな。ああ、なんと残念なことか》
 晴虹が七彩に近づき、頰に手を伸ばしてきた。七彩は身構えるも、晴虹の手はすり抜けてしまう。
 先ほどまだ不完全な姿だと晴虹は自身のことを説明していたが、透き通ったその体は実体を伴わないらしい。
《俺は七彩の歌をずっとこの社の中で聞いていた。君の歌には力がある。何度も聞いているうちに、俺の失われた力が徐々に戻ってきた。そして今日ようやく、仮の姿だが君の前に現れることができたのだ》
「え……」
 事情はいまだによくわからない。
 だが、七彩にとって唯一の安らぎだったこの場所には、やはり誰かがいたのだ。七彩の歌を聞いてくれた誰かが。
 ここで感じた風の温もりは、気のせいではなかったのだと知り、七彩は心から嬉しくなった。
《俺が実体を取り戻すためには、もう少しだけ君の力が必要だ。七彩、俺の頼みを聞いてくれないか》
「頼みとは……?」
こうりゅうを称える歌の詩を調べて、ここで歌ってほしい。そうすれば俺は体を取り戻すことができる》
 虹龍とは、今では伝説の存在となった龍神のことである。
 この世界には、水の国を治める青龍神を始め、火の国の赤龍神、木の国の緑龍神、風の国の白龍神、地の国の黒龍神、金の国の金龍神、銀の国の銀龍神という、七体の龍神が存在している。
 そして虹龍とは、その七龍神を配下に置く、龍神の頂点と言われた伝説の存在であるが、数十年前に、原因不明の病で滅びたと水の国では伝わっていた。
 ──なぜそんな虹龍を称える歌を晴虹さまは聞きたいのだろう?
 疑問に思っていると、遠くから鐘の音が二回鳴った。街の中心部にある時計台が、午後二時を知らせる音だった。
 七彩は青ざめる。勢いで飛び出してここまで来てしまったが、そろそろ戻って青龍神の生誕祭の準備に取り掛からなくては。
 さすがに準備を放り出してしまったら、富子に虐げられるだけでは済まない。龍歌族の皆から、雑用係の仕事を放り出したと折檻されてしまうだろう。
「……あの。私はそろそろ戻らなくてはなりません。虹龍を称える歌詞については、調べておきますので」
 正体不明の透明な青年には、これまで歌を聞いてくれていた恩を感じていた。歌詞を調べて歌唱するくらいなら、お安いご用である。
 今日は青龍神の生誕祭があるため、後日になってしまいそうだが。
《そうか、ありがとう。待っているぞ、七彩。俺には、君の歌が必要だ》
 晴虹は目を細めて柔らかな微笑みを浮かべた。その笑みのあまりの美麗さに七彩の胸は自然と高鳴る。
 ──一体、この美しいお方はどんな存在なのだろう。なぜこんなところに封印されているの?
 晴虹の正体について様々な疑問があり、彼本人に詳しく尋ねたかったが、今はそんな暇はない。
 この神殿には皆に忘れられた龍神が封じられていると噂で聞いたことはある。
 ──だけど、まさかね。
 龍神ともあろう偉大な存在が、呪いの娘の自分にこうも親しげに話してくるとは思えない。
「は、はい。それではまた」
 軽く会釈をしながら晴虹にそう告げると、七彩は小走りで古びた神殿を後にした。
 久しぶりに誰かに歌唱を褒められた喜びは一入だったが、これから富子のもとに戻らなければいけないと思い出すと、七彩の心はすぐに憂鬱さに支配されたのだった。

 朽ち果てそうな神殿で不思議な青年と出会った後、七彩は青龍神の生誕祭が行われる式典場へと向かった。
 すでに準備が始まっており、富子を始めとした龍歌族の皆に嫌みを通り越した雑言をぶつけられたが、七彩はすべてを受け止め、ただ頭を下げた。
 三年ぶりに、自分を呪いの娘扱いしない者と触れ合ったせいか、いつもより気持ちを強く持てた。
 生誕祭の準備のために、式典場内を慌ただしく駆け回っていたら、会場の壁に張りつけられた、数枚の薄い刻印石が目に入ってきた。
 この刻印石には、龍神たちを称える詩が刻まれている。今までの七彩は、青龍神以外の刻印石はあまり気に留めていなかった。
 しかし、先ほど晴虹は七彩にこう言った。『虹龍を称える歌の詩を調べて、ここで歌ってほしい』と。
 ──そうだわ。ここに虹龍を称える詩が刻印されているかもしれない。
 そう思いついた七彩は、一枚一枚刻印石を見ていく。これは赤龍神、金龍神……といった具合に七枚の石を通り過ぎた後、それはあった。
 ──これが伝説の虹龍を称える歌……。
 もう今では存在しない龍神だから、ひょっとしたら並べられていないかもしれないと少し不安だったが、残っていて安堵する。
 生誕祭が終わってからじっくり調べようと思っていたが、意外に早く晴虹に虹龍の歌を聞かせてあげられそうである。
 明日、またあの朽ち果てそうな神殿に赴こう。そして歌を聞かせてあげた後、彼が何者なのか詳しい話を聞いてみよう。実体を取り戻した後の様子も気になる。
 そんなことを考えながら準備を進め、生誕祭が開始される直前となった。
 舞台袖で、歌い手たちの衣装や小物を確認するなどの雑用に七彩が追われていたら、舞台の真正面の席に蒼太朗と蒼磨が座っているのがちらりと見えた。
 呪いの娘となって以来、蒼磨の顔を見るのは年に一度の生誕祭の日のみだ。
 かつて心を通わせた男性は、身長が伸びて体軀も逞たくましくなり、年々精悍さが増して立派な美青年に成長していた。
 ──もし、私がまだ歌を歌えていたら。今日蒼磨さまとの婚約を発表するのは私だったのかな……。
 自分をまったく信じてくれなかった蒼磨にもう恋心はないが、もしも三年前に運命が変わらなかったら……とふと想像してしまう。
 こみ上げる切なさに、七彩が唇を嚙みしめていると。
「七彩っ。衣装に皺があるじゃないの! この役立たずがっ」
 富子の金切り声が響き、七彩はびくりと身を震わせた。
 その声は、観客席の方にも聞こえていたようで、蒼太朗と蒼磨が目をぱちくりさせている。
「完璧に整えておけとあれほど言ったのに! あんたってどこまで不出来なのよっ。この呪われ女!」
 怒鳴りつけながら、七彩に煌びやかな衣装を投げつける富子。
 七彩は恐れおののきながらもその衣装を手に取り、頭を垂れた。
「あ……。と、富子さん。すぐに皺を……」
「は!? 声が小さくて聞こえないわよ! もっと大きな声で言って! 私に土下座して不手際を謝罪しなさいよっ」
 震えた声を上げる七彩に、追い打ちをかけるように富子が声を荒らげる。
 七彩も富子も今は舞台袖にいるが、何事かと蒼太朗も蒼磨も身を乗り出し覗き込んでいた。
 きっと富子は、絶対神である青龍神と七彩のかつての想い人の前で、七彩の惨めな姿をさらけ出させたかったのだろう。
「も、申し訳ございませんでしたっ」
 立場上、とにかく謝ることしかできない七彩は深々と頭を下げて声を張り上げる。
 すると。
「うっ……ううっ。息がっ……」
 観客席の方から苦しんでいるような低い声が聞こえてきた。
 ハッとした七彩が視線を向けると、胸を押さえながらうずくまる青龍神・蒼太朗の姿が見えた。
 ──これは……? 以前と同じ!?
 そう、苦痛に顔を歪める蒼太朗の様子は、三年前に七彩の歌を聞いた後に胸の痛みを訴えた時と、全く同じだったのである。
 しかし今回、七彩は歌唱していない。
 富子に向かって大声で謝罪の言葉を口にしただけだ。
 ──い、一体どういうこと?
 と、七彩が困惑していると。
「この女。成長して呪いの力が増したのだっ。う、歌わずとも、その声だけで私に呪いを送ったのだ……!」
 まだ苦しいのか、息も絶え絶えに蒼太朗が叫ぶ。
 その蒼太朗の言葉に、七彩は戦慄した。
 ──噓、そんな!?
 三年前の富子の『七彩の歌声からは禍々しい気配を感じる』という発言は、虚偽だったと先ほど判明した。
 だから七彩は『私は本当は呪われていないのかもしれない』と、僅かながらに希望を見出していた。
 しかしまさか、発声するだけで蒼太朗が苦しみ出してしまうとは。
 ──やっぱり私は呪われているんだ。私の歌は……声は……。
 惨むごい現実に直面し、その場に立ち尽くす七彩。
 するとそんな七彩に向かって、蒼太朗はさらなる絶望を突きつけるのだった。
「おい! この女に二度と喋らせるなっ。喉を……喉を引き裂いてしまえ!」
「…………!」
 七彩を指差し、蒼太朗が強くそう命じた。
 それまで、不測の事態に動揺の色を見せていた青龍神の付き人たちは、主にはっきりと命令され、戸惑いながらも七彩の方に近寄ってくる。
 ──二度と喋らせるな……? 喉を引き裂いてしまえ……? そ、そんな……!
 これまでだって歌唱は禁じられていた。
 しかし、声帯を取られたわけではないので、七彩の意思で声を紡ぐことはできたし、先ほどのように隠れて歌唱しては、胸の中の悲哀を和らげていた。
 しかし喉を裂かれてしまえば、それらのすべてが行えなくなる。誰かと会話をすることも、人目を忍んで大好きな歌を歌うことも。
 禁じられようとも、歌唱を生き甲斐に歳を重ねてきた七彩にとって、それは死を意味するも同然だった。
 青龍神の配下の者たちがじりじりと七彩に近づいてくる。
 七彩を呪いの娘だと信じ切っているようで、とても警戒した様子だ。
「嫌っ!」
 絶望を覚えた七彩は、悲痛な叫びを上げた。
 水の国の民にとって、青龍神の命令は絶対。
 蒼太朗が死ねと言えば喜んで命を投げうたなければならない。
 喉を引き裂けという命令にも、無論従わなければならないのだ。
 だから七彩が青龍神の配下の者たちを突き飛ばし、走り出したのは、この場にいたすべての者にとって信じがたい光景だったようだ。
 青龍神の命令に背いた少女の姿に、皆が動揺し、あっに取られていた。
 しかしすぐに青龍神の配下の者たちは我に返ったらしく、七彩を追いかけ捕まえようとする。
 だが皆が怯んだ一瞬の猶予があったためか、はたまた三年前まで歌と舞にすべてを捧げていた七彩の身のこなしが素晴らしかったのか、七彩は配下の者たちには捕まらず、式典場を走り出ることができた。
 そして死に物狂いで駆け抜け、体力が限界になった頃。
 足を止めると、先ほど晴虹と出会った例の神殿が眼前に存在した。
 別にこの場所に来ようと考えていたわけではないが、何かに縋ろうとする七彩の心が、自然とこの神殿に救いを求めたのだろう。
 すると「こっちの方に走って行ったぞ!」「すぐに見つけ出すのだ!」という追手の声が少し遠くで聞こえてきた。
 恐怖を覚えた七彩は、今にも崩れ落ちそうな社の開き戸を慌てて開けて、中に身を隠すが、追手の声はどんどん大きくなる。
 このままでは見つかるのも時間の問題だろう。
 ──私、喉を引き裂かれてしまうの……? 二度と歌うことも、喋ることもできなくなってしまうの?
 恐ろしい自身の行く末を想像してしまい、七彩はカタカタと小刻みに震えた。
 すると、その時だった。
《七彩。また来てくれたと喜びたいところだが、どうやら危機に瀕しているみたいだな》
 鼓膜を揺らすことなく、頭の中に直接響いてきたのは、晴虹の声だ。
「は、晴虹さま……!」
《俺の大切な七彩を傷つけるのは誰だ? 許せん……。七彩、それで虹龍を称える歌については調べてきてくれたのだろうか》
「あ……は、はい!」
 先ほど刻印石で目にした虹龍の詩は、しっかり頭に入っている。
《そうか、よかった。そういうことなら、俺に君を助けさせてほしい》
 ──えっ。晴虹さまが私を助けてくれる?
 晴虹が一体何者なのか、まだまったくわからない。
 だが、このままここで身を潜めていても、いずれ青龍神の配下に捕らえられ、喉を引き裂かれることは確実である。
 だったら、ずっとひとりきりでこの神殿で歌う七彩を密かに見守ってくれていた上に、自分の歌を称賛してくれた晴虹に運命を託してもよいのではないか。
 本当に晴虹が自分を助けてくれる可能性にかけて。
「た、助けてくださいっ。お願いします……!」
 素早く決断した七彩は一縷の望みをかけて、晴虹にそう懇願した。
 すると。
《いいとも。だが実体を取り戻した俺は、君を深く求めてしまう。それでもいいか?》
「私を深く求めてしまうとは……?」
《君を俺の花嫁として迎える、ということだ。ずっとずっとそう俺は望んでいたからな。君を俺の番にすると》
 今度は、突拍子もない要求を平然と突きつけてきた。
「えっ? わ、私があなたの!?」
 七彩は驚愕の声を漏らす。
 だが今は、悩んでいる時間などない。
 ──そうよ。どちらにしても、このままじゃ私は声を奪われてしまう。もう、晴虹さまに私の運命を託すしかない!
「わかりました! 私、晴虹さまと婚約いたします……! だからお願い、助けてくださいっ」
 七彩が決意を口にすると、晴虹と名乗る何者かは「ふっ」と鼻で小さく笑った後、こう続けた。
《そうか。ならば歌ってくれ。虹龍を称える歌を、今ここで》
「え……?」
 七彩は戸惑いの声を漏らす。
 なぜ今歌うことが、七彩が助かる道に繫がるのだろう。
《早く! このままでは捕まってしまうぞ》
「は、はい」
 晴虹に急かされた七彩は返事をすると、慌てて息を吸い込んで口を開いた。
“輝ける空に、龍の影よ
 虹の光を受けし者よ
 光の道を切り開け
 我らと共に戦わん”
 先ほど覚えたばかりの詩を、即興で考えた旋律に合わせて七彩は歌った。
 困惑しながらの歌唱だったが、歌っているうちに心が落ち着き、伸びやかな歌声となっていく。
 幼い頃から、息をするように歌を歌ってきた。
 やはり七彩にとって歌は、生きる糧と言っても過言ではないのだ。
 すると、一節歌い終わった直後だった。
 閉め切っていたはずの社の扉がひとりでに開いた。
 追手に見つかってしまうと慌てて閉めようとする七彩だったが、扉の外を見て目を見開く。
「やっと実体を取り戻せた。七彩の歌のおかげだ」
 そこには、数刻前に目にしたのと変わらない晴虹の姿があった。
 いや、一点だけ変化があった。
 先ほどは透き通っていた彼の全身が、濃い色彩を伴いはっきりとした姿になっていたことだ。
 ──ほ、本当に晴虹さまは私の歌を聞いて肉体を取り戻したのね! だけど一体どうして?
 このような特殊な能力を持った覚えはない。
 驚愕の事態に七彩が目を瞬かせていると。
「ああ。ついにこの手で七彩に触れられる時が来たんだな……」
 晴虹は手を伸ばし、七彩の頰に優しく触れた。
 今日初めて出会った男性に触れられたにもかかわらず、晴虹の指先の温もりが心地よくて、七彩はまったく嫌な気持ちにはならなかった。
 なぜか、ずっと離れ離れになっていた親しい人に再会できたような嬉しい気持ちになった。
「おっとこんなことをしている場合ではないな。七彩、とりあえずこの場を切り抜けようか」
 不敵な笑みを浮かべると、晴虹は七彩の手首を摑み、自分の胸元へ引き寄せた。
 そして。
「えっ……!?」
 なんと七彩の首と膝の裏に手を回し、そのまま抱き抱えたのだ。
 ──こ、この体勢って確か、少し前に流行った少女小説にあった『お姫様抱っこ』っていうやつだわ……!
 まだ呪いの娘となる前に、富子と一緒に楽しく読んでいた。
 抱擁やせっぷんなどの描写を見つける度に、ふたりで顔を真っ赤にしながら盛り上がっていた記憶がある。
 誰からも見放されたはずの自分が、まさか絶世の美男子に『お姫様抱っこ』をされる時が訪れるとは。
 喉を引き裂けと青龍神が命じ、正体不明の晴虹の声に導かれた後、彼の婚約者になり抱き抱えられるという怒濤の展開に、七彩は気持ちがついていかず、動揺してしまった。
 しかし。
「見つけたぞ!」
 そんな七彩と晴虹の前に、青龍神の配下の者たちが現れた。
 その数、十数人だろうか。
 あっという間に七彩を抱えた晴虹はその者たちに取り囲まれてしまう。
 ──晴虹さまは『俺に君を助けさせてほしい』ってさっき言っていたけど、一体この状況からどうやって助けるというの……!?
 これ以上配下の者たちに逆らえば、青龍神に謀反したと見なされるだろう。
 晴虹も七彩も、極刑に処せられてしまうかもしれない。
「おい貴様。その娘を置いていけ」
「どうやら水の国の民ではないようだが……。素直に言うことを聞けば、お前の罪は問わん。さあ、早く娘を引き渡すのだ」
 配下の者が、凄みを利かせた声で晴虹に告げた。
 すると晴虹は「ふっ」と鼻で笑った後、低い声でこう言った。
「俺が誰かわからないとは。龍神に仕える者失格だな、お前ら」
 七彩には意味はよくわからなかったが、青龍神の近衛兵たちを小馬鹿にするような口調だった。
 また、七彩に対して向けられていた優しい雰囲気はいずこかへと消え、代わりに晴虹から発せられていたのは身がすくむほどの威圧感だった。
 十数人の近衛兵に取り囲まれているにもかかわらず、晴虹からは堂々とした威厳が感じられる。
 近衛兵たちはそんな晴虹の態度に一瞬怯んだ様子だったが。
「な、何をわけのわからぬことを! 青龍神に仕える我らに逆らうか!」
「お前もその娘と一緒に捕らえてやるっ」
 いきり立った様子で、口々に脅し文句を叫ぶ。
 すると、その時だった。
「何を手間取っておる。早く七彩を捕らえ、喉を引き裂かんかっ」
 近衛兵の後ろから、蒼太朗の朗々たる声が響いてきた。兵を押しのけるように前に出てきて、晴虹と対峙する。
 七彩の声によって受けた痛みは治まったらしく、蒼太朗の顔色は悪くないが、こめかみに血管を浮かべて苛立ちをあらわにしていた。
 しかし、晴虹の姿を認めた直後、蒼太朗は表情を一変させる。
「そ、その瞳の虹の輝きはまさか……!?」
 驚愕の面持ちで、掠れた声を漏らす蒼太朗。
 そんな蒼太朗に、晴虹は不敵に微笑んでみせる。
「さすがにお前は俺を覚えているか。なあ、青龍神」
「や、やはりっ。こ、虹龍……! 晴虹さま! ばっ、馬鹿なっ」
 顔面蒼白となった蒼太朗から放たれたのは、信じがたい言葉だった。
 ──晴虹さまが虹龍さまですって……!?
 虹龍は各国を統治する七龍神を配下に置く、龍神の頂点と言われた、今は存在しない伝説の龍神であるはず。
 しかし確かに今、蒼太朗は晴虹の顔を見るなり『虹龍』と言ったのだ。
 蒼太朗のその言葉を聞いた近衛兵たちも「虹龍さまだと……!?」「た、確かにあの瞳の色は虹龍の証!」などと声を上げ、戦慄している。
「そ、そうか……! その娘が虹龍と出会ったことで力が増し、声を聞いただけで私が苦しみを覚えたのか……!」
 七彩にとってはわけのわからないことを、恐れおののいた様子で蒼太朗が言う。七彩が晴虹と出会ったことと、蒼太朗が苦しんだことに因果関係があるのだろうか。
「おい、青龍神。よくも長い間、あんな狭いところに閉じ込めてくれたな。今すぐにその青龍の力を奪ってやろうか?」
 蒼太朗に向かって、晴虹が威圧感を込めて告げる。
「ひっ……。どうかっ。どうかそれだけは……!」
 いつも威厳に溢れ、誰にでも顎で指図する青龍神とは思えない怯きよう懦だ な様子で、蒼太朗は晴虹に許しを乞う。
 すると。
「……と、言いたいところだが。起きたばかりで俺はあまり力が出ない。いったん退かせてもらう。だが、また来るからな。その時は覚悟しておけ、愚かな青龍神よ」
 晴虹は低い声でそう言うと、蒼太朗の答えを待たずに彼に背を向け、七彩を抱えたままなんと空中に浮遊し、そのまま蒼太朗たちからどんどん離れていった。
 ──古い神殿に封印されていた晴虹さまは虹龍……? あそこで歌う私の歌をずっと聞いていた? 私、虹龍さまと婚約しちゃったの!?
 って、私空飛んでる!?
 喉を引き裂かれる寸前に逃げ出し、数十分前までこの世のすべてに絶望していたはずなのに。
 目まぐるしい状況の変化に、七彩は気持ちが追いつかない。
 とりあえず、晴虹が自分をぎゅっと抱えたまま空を飛翔しているので、七彩は彼に身を委ねることしかできなかった。


 第二章 虹の都

「わ、私空を飛んでいる!」
 水の国の上空を飛び、高速で移動する晴虹の腕の中で、七彩は驚きの声を漏らす。
「はは、すごく驚くんだな。七彩は空を飛ぶのは初めてか?」
 どこか楽しそうに晴虹は尋ねてくる。
 その間も晴虹は飛翔を続けていて、いつの間にか七彩の眼下には水の国に面した広大な海が広がっていた。大空と海の間に自分が溶け込んでいるこの状況に、七彩は興奮していた。
 ──た、確かに龍神族の中には空を飛べる種もあるって聞いたことがあるけれど。鳥のように自由に空を飛び回れるなんて!
「は、はい」
「そっか。七彩を初めて空に連れて行ったのが、俺でよかった」
 満足げに晴虹は言って、優しく微笑む。
 予想外のことばかり起きて気持ちが追いつかない七彩だったが、ここでやっと我に返った。
「あの……。『いったん退かせてもらう』って言っていましたけど、一体どこへ向かっているのですか?」
 このままどこへ連れて行かれるのだろうと、不安を覚えていた。
 晴虹が自分を助けてくれたことは確かだし、どうやら本当に虹龍のようだが、今後がまったく見通せない。
 すると前を向いていた晴虹が、目線を落として七彩を見つめた後、不敵に微笑んだ。美しい笑みに、七彩は思わず頰を熱くさせる。
「いいところだ」
 もっと具体的な回答が欲しかったし、不安は消えなかったが、あのまま水の国にいるより悪い事態にはなりえないだろう。
 そう考えたら、今すぐに晴虹を追及する気は起きなくなった。
「七彩は俺の自由を取り戻してくれた。……俺は君を誰よりも、何よりも大切に扱う」
 体が密着した状態で晴虹にそう告げられ、七彩はどう反応していいかわからない。
 いきなり求婚してきたのはとても奇妙だったが、これまでの晴虹の発言からすると、彼は自分に好意を持ってくれているということだろうか。
 ──私が落ち込む度にあの神殿に行って歌うのを、封印されていた晴虹さまは毎回見ていたみたいだけど……。それが求婚のきっかけになったということ?
 ただ自分の精神を落ち着かせるために歌唱していただけの七彩にとっては、俄かには信じられない。
 それに、どうして七彩の歌唱によって晴虹の封印が解かれたのだろう。
 そんなことを考えていたら、なんと今度は空に浮かぶ大きな島が眼前に現れた。
 薄い雲が島の周囲にたなびいているためはっきりとは視認できないが、島の中には多くの建築物があるようだった。
「あれは……!?」
「俺が治めている都市だ。虹の都と呼ばれてる」
「虹の都……! 今でも実在したのね!」
 いなくなった虹龍と共に、彼が統治していた空中都市・虹の都も滅んでしまったと、水の国では噂されていた。
 七彩はどこかで、空に浮かぶ街なんてあったはずがないと、お伽話のような感覚で虹の都のことを思っていたのだ。
 それがまさか、今でもこうして空に浮かび、都を形成しているなんて。
 晴虹は島の端の人気がない林の中に降り立ち、「ここまで来ればもう安全だ」と、やっと七彩を抱擁から解放すると。
「では、行こうか」
 七彩の手を引き、歩き出した。
「は、はい」

  *

続きは好評発売中の『虹龍の許嫁囚われの歌巫女は龍神様に愛される』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
湊祥(みなと・しょう)
宮城県出身、都内在住。「一生に一度の恋」小説コンテストで最優秀賞を受賞した『あの時からずっと、君は俺の好きな人。』(野いちご文庫)でデビュー。以降、各出版社で次々と作品を刊行し、2023年には「余命100食」がポプラ社小説新人賞ピュアフル部門賞を受賞。

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す