ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 試し読み一覧
  3. 姉の逆恨みで罪人にされた私が冥府の王に溺愛されてます 悪妹婚姻譚
  4. 姉の逆恨みで罪人にされた私が冥府の王に溺愛されてます 悪妹婚姻譚

姉の逆恨みで罪人にされた私が冥府の王に溺愛されてます 悪妹婚姻譚

「貴様を、我が花嫁を傷つけた罪で“地獄送り”に処す!」
 豪奢な屋敷に招かれた貴賓たちが、息を呑む。
 今、私を断罪したのは、鬼の一族の次期当主となる男。
 私は彼に、嫁入りする予定だった。
 ところが彼は別の女性を抱きながら、私に冷たい目を向けている。
「この、“あくまい“め!」
 彼に抱かれている女性は他でもない、血を分けた実の姉だ。
 私は姉を長年虐げてきた悪い妹……“悪妹”と糾弾されて、地獄行きを言い渡された。

「今謝れば、あなたを許してあげるから」
 甘い囁きは、醒めた心には響かない。
 代わりに私を引き寄せたのは、
「共に、地獄へ堕ちようか」
 美しい金色の瞳と、底知れぬ悪が蔓延はびこる暗闇だった──。


 一章 悪妹の苦悩

「おお、かや。待ちわびたぞ」
 長い袖が揺れると、白檀がほのかに香り立つ。
 深い瑠璃色のきぬに、金糸で織り込まれた四季の花。
 帯には光の加減で玉虫色に輝く刺繡が施され、丁寧に結われた黒髪には美しい花簪がきらめいていた。
「お父様、お待たせして申しわけありません」
 私、あきづき茅乃は華族の令嬢らしく、背筋を伸ばしてほほ笑んだ。
 まさに豪華けんらんな衣装を身にまとった私を見て、父は満足げに頷いている。
「うむ。さすが、この日のためにあつらえた一級品なだけあるな」
「いいえ旦那様。お召し物より目を引く茅乃様の美しさこそ、一級品に違いないですわ」
 古参侍女のじょうとうだ。
 つい鼻で嗤いかけた私とは裏腹に、今度は母が上機嫌になって頷いた。
「本当に、とても綺麗だわ。今日の祝宴でも、茅乃が誰より目立つわね」
 母が口にしたのは、私が念入りに着飾る羽目になった理由わけ
 祝宴──今日はこれから、くにで名声を馳せる鬼の一族・かみしらいし家の屋敷へと向かわなければならない。
 屋敷では次期当主、神白石しゅうの二十歳を祝すパーティーが開かれる。
 さぞや華やかで格式高い宴だろう。
 私達、、はそのパーティーに、彼の花嫁候補として招かれていた。
「茅乃、わかっているね。お前が柊夜様の花嫁に選ばれたら、秋月家うちの格が上がるということを」
「もちろん。承知しております、お父様」
「神白石家の当主は代々、齢二十を迎えたら良家の子女を娶めとるのが習わしですからね」
“鬼の一族”はそうすることで、より優秀な子孫を残せるらしい。
 瞳を細めて狡猾な笑みを浮かべた両親から、私はそっと目をそらした。
 ──私達が住む此の國では、あやかしや神々といった、人ならざる者……“げんよう”が、人々と共存共栄している。
 幻妖は人並外れた力を持ち、皆が暮らす此の國の“じょう”にて、政治や事業、芸事に至るまで、数多の功績を築いてきた。
 故に、高名な幻妖の伴侶に選ばれることは、人にとっては最上級の誉れとされる。
 特にこれから向かう神白石家は強大な力を持つ鬼の財閥一族で、幻妖の頂点に君臨する存在だった。誰もが畏れ敬い、その威光にあやかろうとしている。地上で神白石家に歯向かう者などおりはしない。
 唯一、対抗できる勢力があるとすれば、それは──……。
 罪人たちの住処、“ごく”を統べるりくどう家の者だけだろう。
 六道家は地獄を牛耳る幻妖の一族で、当主は代々“えんおう”の座に就くことが決められていた。
 子供の頃、噓をついたら閻王に舌を抜かれると、しつこく脅かされたものだ。
 なぜなら閻王は地獄に堕ちてくる罪人を裁き、その罪に見合った罰と制裁を与える御役を担っているから。
 噂では、六道家の現当主はヒグマを膨らませたような大男なのだとか。
 実際に見た者はほとんどいないが、冷酷無比な悪の王として有名で、地上の神白石家を白の一族とするならば、地獄の六道家は漆黒の一族とまで言われていた。
「茅乃なら、必ず柊夜様のお心を射止められるわ」
「ああ。同じ年頃の華族の娘の中で、茅乃は群を抜いて美しい上に聡明だからな」
 つい考え込んでいた私は、浮ついた言葉で現実に引き戻された。
「茅乃は、私達の自慢の娘だ」
 続けられたのは、幼い頃から何度も聞かされてきたかんげんだ。
 自慢の娘……この言葉のせいで私は、これまで多くの時間と自由を奪われてきた。
「お父様、お母様、どうもありがとうございます」
 けれど今日、ようやくこれまでの苦労が報われようとしている。
 神白石柊夜の花嫁に選ばれれば、両親と私の年来の悲願が実るのだから。
「柊夜様にお会いできるのが、今からとても楽しみです」
 私は口元が引き攣りそうになるのを堪えて、両親が絶賛する顔面に愛らしい笑みをたたえた。
「──噓つきだな」
 そのときだ。甘い吐息を含んだ囁きが、耳をかすめた……ような気がした。
 ハッとした私は、反射的に声のしたほうへと目を向けた。
「茅乃、どうした」
「い、いえ。なんでもありません」
 どうやら両親には聞こえなかったらしい。
 空耳だろうか。視線の先には、神白石家が迎えのために寄越した黒塗りの車が一台停まっているだけだった。
 車のドアの前には軍服と似た趣向の、黒い詰襟を着た御者がひとり立っている。
 背の高い、黒髪の男性だ。
 彼はずっと微動だにせず、私達が車に乗り込むのを待っていた。
 もしかして、今のは彼が? いいえ、まさかね。一介の御者が、私達の会話に口を挟んでくるなんてありえない。
 それも、神白石家が寄越した御者なら重々礼儀をわきまえているはず。
 自問自答をした私は、彼から視線を外そうとした。
 ところがその瞬間、不意に顔を上げた彼と目が合って、心臓がドキリと跳ねた。
 金色の──瞳?
 前髪の隙間から覗く彼の瞳は、暗闇を切り裂くような、とても美しい色をしていたのだ。
 思わず吸い込まれてしまいそう。
 その目はすぐに、彼が制帽をぶかに被り直したせいで見えなくなってしまったけれど。
「では、そろそろ祝宴に向かうとするか」
 再び父の言葉で我に返った私は、いつの間にか止めていた息を吸い込んだ。
 心臓は、ドッドッドッと大げさに脈を打ち続けている。
「さあ、行くぞ。時間に遅れては困るからな」
 再度口を開いた父は私の動揺などつゆ知らず、御者の彼が待つ車のほうへと足を向けた。
「嫌だわ、あなた」
 と、そんな父を母が呼び止めた。
「どうした?」
「もう、あなたってば、また忘れていますよ」
「なんのことだ?」
「まったく。茅乃だけでなく、和香のどかにも何か声をかけてあげてくださいな」
 和香──母がその名を口にした途端、穏やかだった空気が一変した。
 今度は勢いよく振り返った父の視線を追いかける。
 するとそこには薄紅色の着物に身を包んだ、青白い顔をした女性が立っていた。
「ああ、そうだ。忘れていたよ」
 最初からずっとそこに佇んでいた彼女は、私の実姉の“秋月和香”だ。
 神白石家から届いた招待状には、たしかに姉の名も記されていた。
「今日は茅乃だけでなく、和香も連れていかねばならんのだったな」
 私に向けていたものとは真逆の、冷淡な声に鋭い目つきで父が言う。
 睨まれた姉はビクリとしてから首をすくめて、顔色を青くしたまま俯いた。
「わかっているとは思うが、お前のことは仕方なく連れていくだけだ。招待状の指示に背いて、先方の不興を買うわけにはいかないからな」
「……はい。申しわけありません、お父様」
 やせ細った体に似合った、か細い声で姉が答えた。
 強い風が吹けば、どこか遠くに吹き飛ばされてしまいそう。
 別に謝る必要はないのに、姉はいつでも人の顔色を窺いながら、今のように謝ってばかりいた。
「しかし茅乃に比べて、和香は何を着せても貧相なままだな」
「あなたってば。和香を茅乃と比べたら可哀そうですよ」
「ははっ。可哀そうなのは、和香に着られた衣装ではないか?」
「おほほほっ。もう、おかしなことを言うのはやめてくださいな」
 父と母のみならず、やり取りを聞いていた使用人たちまでクスクスと笑い出す。
「ほ、本当に申しわけありません」
 対する姉は、真っ赤になって縮こまっていた。
「……っ」
 呆れた私は、とっさに口を挟みそうになったが、すんでのところで踏みとどまって、唇を引き結んだ。
 今、私が姉を庇うのは容易なこと。
 でも、それでは姉自身のためにならないと、私は嫌というほどわかっていた。
 姉自身がどうにかしないと、周りはつけあがるばかりなのだ。
「本当に本当に、申しわけありません……」
 だけど姉がこうなってしまったのも、元はといえば私達家族のせいだった。

 姉の和香と妹の私は、正真正銘血を分けた実の姉妹だ。
 年はひとつ違いで姉が十八、私が十七歳。
 五歳の私が神白石家の現当主・神白石むねちかの関心を得るまでは、姉妹わたしたちは対等だった。
『秋月家のご令嬢たちは、誕生日が近いそうだな。何か望むものはあるか?』
 私達の命運を分けたのは、今から約十二年前のこと。
 然る式典でご挨拶に伺った際、宗親様から質問をされたのがきっかけだった。
『私は、綺麗なお花が欲しいです』
 先に答えたのは姉の和香だった。
 妹の私はやや考えたのち、
『私は、たくさんの時間が欲しいです』
 と、実直に答えた。
『ほう、なぜ多くの時間を望む?』
 宗親様が興味を寄せたのは私の答えだった。
『だって、たくさんの時間があったほうがお得です』
『どういうことだ?』
『たくさん時間があれば、欲しいものをよりたくさん手に入れられると思うんです』
 貪欲な子だと、呆れられてもおかしくなかった。
 けれど宗親様は僅かに片眉を持ち上げたあと、喉の奥で愉快そうに笑い声を転がした。
『くくっ、なるほど。そなたほど聡明な娘なら、我が息子の花嫁の座を得る厳しい競争を勝ち抜けるだろう』
 神白石家の当主の花嫁には、貴族の中で最も才知に秀でた、年若い娘が選ばれる。
 その日、神白石柊夜は体調不良で式典を欠席していたが、宗親様が公の場で息子の花嫁に言及するのは初めてだったため、周囲の人々はわかりやすくざわめきたった。
『秋月のご令嬢の今後に期待する。これからも研鑽に励めよ』
 以来、私は神白石柊夜の花嫁候補の魁さきがけとして注目を浴びるようになった。
 栄華を求める父と母は大層喜んで、とにかく私を褒めたたえた。
 そしてその一件を機に、両親は私のことしか目に入らなくなった。
 私を神白石柊夜の花嫁にするべく、ありとあらゆる手を尽くし始めたのだ。
 ふたりは“神白石柊夜の花嫁候補筆頭の私”を溺愛するあまり、次第にもうひとりの娘である姉を二の次に─いや、蔑ないがしろにするようになっていった。
 私にばかり目を掛けてお金を使い、姉の和香には必要最低限のものしか買い与えない。
 一緒に通っていた習い事も、『和香には無駄なこと』だと辞めさせた。
 常に私を優先し、姉を路傍の石のような存在として扱った。
 しばらくすると周囲の人々の認識も、“無能な姉”と“才色兼備な妹”として定着していった。

「和香を褒めろと言われても、何ひとつ言葉が出てこないな」
 伏せていた目をそっと上げた私は、父に責められる姉を静かに見つめた。
 あれから十二年、私は努力を重ねて望まれた以上の成果を出し、花嫁候補筆頭の座を揺るぎないものにした。
 対する姉は、いつしか愛されることを諦めてしまったようにも思う。
 私が、そんな姉を憐れんでいないと言うのは、それこそ立派な噓になる。
「お姉様、この簪をつけてみたらどう?」
 結局私は黙っていられず、自分の髪についていた花簪を引き抜いて、姉に差し出した。
 姉は俯いていた顔を上げ、おどおどしながら私と花簪を交互に見る。
「この簪、お姉様が着ているお着物の色とよく合うと思うの」
「え? でも……。私がつけても、似合わないだろうから」
 姉は、簪を受け取らなかった。
 するとやり取りを見ていた父が、たまり兼ねた様子で噴き出して手を叩く。
「ふっ、ははっ! 和香の言うとおりだ。茅乃のものが、和香に似合うはずがない!」
「まったく、茅乃ってば。姉をからかってはいけませんよ」
「いえ、お母様。私は本当にこの簪がお姉様に似合うと思って勧めたんです」
「ん? ああ、そうか。茅乃は哀れな姉に施しを与えてやろうとしたのだな」
「そういうつもりは……」
「いいのよ、わかっているわ。茅乃は本当に優しくていいね」
 両親は私の言葉を遮ると、勝手に納得して頷いていた。
 どうしていつも、こうなってしまうのか。
 思い込みの激しい両親には、私の想いは意にそぐわない形で受け取られてしまう。
 ちらりと姉のほうを見ると、姉はまた俯いて、唇を嚙みしめていた。
 やっぱり、何も言わないほうがよかったのかもと、思わず後悔した瞬間、
「くっ……」
 また、甘い吐息のような声が耳に届いた。
 今度は笑い声だった。反射的に御者の彼に目を向けたら、相変わらず制帽を目深に被って姿勢よく佇んでいた。
 まるで、笑ったのは自分じゃないとでも言いたげに。
 その様子があまりに不自然で、私はつい目をすがめてしまった。
「あの、あなた……」
「さて、無駄話はこれくらいにして、いい加減出発しよう」
 ところが、かけようとした言葉は、再び父によって遮られてしまった。
「君、神白石家まで急いでくれ」
「はい、わかりました」
 御者の彼は父に指示された通り、車のドアを優雅に開けた。
 私は乗車の際にちらりと様子を窺い見たけれど、彼と目が合うことはなかった。


 二章 悪妹の誕生

 栄耀栄華、唯我独尊。神白石家の屋敷は、そんな言葉が似合う壮麗なる御殿だった。
「本日は、このような寿ことほぎの宴にお招きいただき、誠に光栄に存じます」
「ふむ、よくぞ参られた。秋月家のご息女が、拙息のための宴に花を添えてくれること、大変嬉しく思っている」
 神白石家に着いたあと、私だけ、、、は現当主であられる宗親様と奥様にお目通りした。
 姉は着いて早々に、父から壁の花になるよう命ぜられたのだ。
 父からすれば、姉を会場に連れてきたという名目だけは守れたからいいのだろう。
 かくいう私も出発前の失敗が頭を過ぎって、今回は姉に助け舟を出せなかった。
「宗親様におかれましても、お変わりなくご壮健であらせられること、誠に喜ばしき限りでございます」
 もう一度深々と頭をさげる。私がこうして宗親様とお会いするのも、約十二年ぶりだ。
 宗親様は私との過去のやり取りなど覚えていないだろうが、花嫁候補筆頭として耳にはしているのか、興味を示してくれているようだった。
 父と母は野心と期待をむき出しにして、私の隣で目を爛々と輝かせている。
 そのあからさまな様子に、背筋には冷たいものが走った。
 本当に、やめてほしい。宗親様に嫌悪感を抱かれたら、これまでの苦労が水の泡になる
かもしれないのに。
「柊夜様にも祝意をお伝えしたく存じますが、今はどちらにおられますでしょうか」
 私は両親に頭を冷やしてもらうべく、一旦この場から離れようと考えた。
 ところが私の問いに宗親様と奥様は難しい顔をして、予想外の返事を口にする。
「じつは、柊夜は今、虫の居所が悪くてな」
「虫の居所、ですか?」
「ええ、ちょっと……。それで今は、奥の部屋にこもっているのよ」
 広い会場内はたくさんの招待客で華やぎ、賑わいに包まれていた。
 でも、主役であるはずの神白石柊夜の姿は見当たらなかったので、気になってはいたけれど。
「ご体調が優れないのであれば心配です」
「いや、そうではない。どうやらうちのきたりについて、納得がいかないようでな」
 宗親様の言う仕来りとは、この宴で自身の花嫁を決めることを指していた。
 それに納得がいってない?
 つまり神白石柊夜は、今日は花嫁を決める気がないということだろうか。
「まったく、次期当主の自覚がない未熟者で、ご列席くださった皆様には申しわけない」
 宗親様が呆れた様子でため息をついた。
「しゅ、柊夜様は、どうして仕来りに難色を示しておられるのでしょうか?」
 恐る恐る尋ねたのは、花嫁候補筆頭の娘を持つ親として、仕来りに難色を示されては困る私の父だ。
 父に問われた宗親様は、奥様と顔を見合わせたあとで自身の顎先に手を添えた。
「どうやら柊夜は、“運命のつがい”にこだわっているようでな」
「運命の番……」
 幻妖の花嫁になろうというのだ。もちろん、その言葉はよく知っている。
 運命の番は、幻妖にとって絶対的かつ唯一無二の崇高な存在だ。
 そばに置くためなら手段も厭わず、己の命が尽きるまで執着し続ける、幻妖にとっては最愛の伴侶となる相手。
 幻妖は運命の番を本能的に見分けることができるが、生きているうちに出会える確率は〇・一パーセント以下とも聞く。
「で、では、柊夜様は運命の番以外を娶る気はないのですか?」
 また、恐る恐る父が尋ねた。
 すると宗親様は厳しい口調で、迷うことなく断言する。
「いや、我が神白石家の仕来りは絶対だ。柊夜がなんと言おうが、次期当主としての最初の務めは果たしてもらう」
 つまり神白石柊夜がどんなにゴネようが、今日の祝宴で必ず自身の花嫁を決めさせるということだ。
「ご英断だと思います」
 安堵の息をついた父の隣で、私も密かに胸を撫でおろした。
 よかった。今日決めてくれなければ、私はまた胃が痛む毎日を繰り返す羽目になるところだった。
 脳裏を過ぎるのは、神白石柊夜の花嫁たるべく私が過ごしてきた日々だ。
『茅乃は将来、柊夜様の花嫁になるのよ』
 あの日、宗親様に甘い夢を見せられた両親は、幼い私の肩に指を強く食い込ませた。
 私は、それまで週に一度だった習い事を、週七日まで増やされた。
 華道に茶道、書道に料理、和裁洋裁。ピアノに和歌に日本舞踊、絵画や礼儀作法に薬学、雑学、経営学まで。
 神白石柊夜の花嫁として抜かりなきよう、ありとあらゆる知識を学ばされたのだ。
 新たな知識を得る時間はとても興味深く、有意義だったのはせめてもの救いだけれど。
 女学校にも通いながらそれだけのことをこなし、一時期は専属の家庭教師までつけられ
ていた。
 両親から寄せられる過度な期待という名の重圧プレッシャー。周囲からの羨望の眼差し、嫉妬にまみれた令嬢たちとのくだらない牽制合戦。
 それが、約十二年。自分は恵まれていると理解しながらも、逃げたいと思ったことは、一度や二度ではなかった。
 でも、私は“とある出来事”をきっかけに、花嫁になる覚悟を決めたのだ。
 神白石柊夜に嫁ぐのは私だ。私以上に、花嫁に相応しいはいないのだから……。
「きゃっ!」
 そのときだ。後方から、短い悲鳴が上がった。
 ハッとして振り向くと姉の姿が目に飛び込んできて、思わず肩から力が抜けた。
「私、よそ見をしていて……。申しわけありません!」
「いやいや、こちらこそお召し物を汚してしまって申しわけない」
 どうやら、招待客の男性とぶつかってしまったらしい。
 男性が持っていたグラスの中身が姉にかかり、薄紅色の着物が汚れていた。
「はぁ。まったくあいつは、何をやっているんだ。本当に我が家の恥だな」
 つぶやいたのは隣にいた父だった。
 今、会場内にいる人々の視線は姉へと注がれている。
 当の姉はといえば、いつも通りに顔色を青くしながら狼狽うろたえていた。
「ほ、本当に申しわけありませんっ」
 わかりやすく背中を丸めていて、激しく動揺している様子が痛いほど伝わってきた。
「失礼いたします」
 見ていられなくなった私は宗親様に頭を下げると、その足で姉のところへ向かった。
「あっ、茅乃……」
たなはし様。姉がご迷惑をおかけしたようで、申しわけありません」
 姉がぶつかった相手は、以前に一度だけご挨拶したことのある華族の男性だった。
 お名前は、棚橋しんいちろう。年は私よりも六つ上で趣味はチェス。御家は貿易関連の事業を営んでいると記憶していた。
「棚橋様のお召し物は汚れておりませんでしょうか」
「ああ、僕は大丈夫だ。たしか、あなたは……」
「秋月家の次女の茅乃と申します。以前、父の仕事の関係先で、ご挨拶をさせていただきました」
「おお、そうだ! あのときは、僕の趣味のチェスの話を熱心に聞いてくれましたよね」
「ふふっ、覚えていてくださって光栄です。棚橋様のお話がわかりやすいので、大変勉強になりました」
 私は棚橋様を立てながら、精いっぱい愛らしい笑みを浮かべた。
 すべては穏便に、この場をやり過ごすため。
 そして私が注意を引きつけているうちに、姉をこの場から逃がす算段でもあった。
「こちらこそ、こうしてまたお会いできたこと、大変嬉しく思う。以前お会いしたときに
も目を奪われたが、今日の瑠璃色の着物もよく似合っていて一段とお美しい」
「そう言っていただけて光栄です」
「その、髪につけている簪の花は、鈴蘭と紅梅かな」
「ええ、そうです。棚橋様はお花にもお詳しいのですね」
「いや、ちょうど我が家の庭にも鈴蘭が咲いていたから目を惹かれた。本物もいいが、そ
うして簪になると無垢な白が黒髪に良く映えるものだね」
 私の思惑通り、棚橋様は相好を崩して目を弓のように細めた。
 そのすきに私は、後ろ手で姉に下がるようにと合図を送ったつもりだった。
 この場は私が収めるから、お姉様は裏でお召し物を整えてきて、という意味合いで。
「僕はチェスが好きですが、茅乃殿はどのようなご趣味を──」
「本当に、ごめんなさい!」
 ところが姉は、私の予想の遥か斜め上をいく行動に出た。
 突然声を張りあげたかと思えば私を押し退けて、棚橋様に詰め寄った。
「茅乃は、あなたではダメなんです!」
「お、お姉様?」
「ええ、と。突然どうされたのです?」
 棚橋様は明らかに戸惑っている。
 かくいう私もお姉様の言動の意図がわからず、目を白黒させて固まった。
「茅乃は、柊夜様の花嫁になる予定の子なのでっ」
「は……?」
「だからっ。あなたと茅乃がどうこうなることはないと、私は言いたかったんですっ」
 一瞬、周囲の空気が凍りついたのがよくわかった。
 あわてて棚橋様に目を戻すと、棚橋様は顔を真っ赤にして震えていた。
 それはそうだ。大衆の面前で、お前なんかお呼びでないと言われてしまったのだから、狼狽えもするだろう。
「妹に代わって、姉の私が謝ります。本当に申しわけありませんでした」
 ちょっと待ってほしい。なぜ、私の代わりにお姉様が謝るの!?
「お姉様! 棚橋様はそういうつもりで、私と話をしていたわけじゃないわ!」
「え? じゃあ、どういうつもりで……?」
 どういうつもりも何もない。ただ、世間話をしていただけだ。
 そもそも棚橋様も華族なのだから、私が神白石柊夜の花嫁候補筆頭であることくらい、耳にしているに決まってる。
「茅乃?」
 きょとんとされて、さすがに苛立ちを覚えてしまった。
 姉は、どこまで周りが見えていないのだろう。私は、悪い意味で注目を浴びていた姉を助けるために、間に入って場を繫ぐつもりだったのに。
「棚橋様、本当に申しわけありません」
 無駄に辱めを受けた棚橋様は、私が謝罪をしたあとも怒り心頭のままでその場を立ち去っていった。
 悪い人ではないのに心が痛む。フォローを期待して両親を窺い見たけれど、両親は宗親様しか目に入らない様子でご機嫌取りを続けていた。
「あ、あのね。私はただ、茅乃のためを思ってしただけなの」
「もういいわ」
 頭が痛くなった私は、こめかみを押さえてため息をついた。
 つい、昔のことを思い出してしまい、胸に秘めた古傷がうずいた。
 ……あれは、私がまだ八つにも満たない頃のこと。
 ある日、秋月家の庭の隅で、黒い毛色の子犬が足から血を流しているのを見つけた。
 烏にでも襲われて、庭に逃げ込んできたのかもしれない。
 そう思った私は子犬を自室に連れ帰ると、内緒で看病することにした。
 なぜ秘密にしたのかと言えば、両親には反対されるだろうと思ったからだ。
『どうせ飼うなら良血統の犬を』と言って、この子は捨てられてしまうに違いない。
 だから、この子が元気になるまでは私が責任持って世話をしよう。
 そして元気になった暁には、この子を幸せにしてくれる飼い主を見つけようと、当時の私は考えた。
『絶対に、大丈夫だからね』
 今になって思えば、子供ならではの思いつきだと思う。
 それでも私は献身的に、子犬の看病をした。
『ふふっ、はとっても可愛いね』
 子犬は両目の上に中世の貴族のような白くて丸い模様があったので、麻呂と名付けた。
 麻呂は特徴的な鳴き方をする子で、部屋にいても騒ぐことは一切なかった。
『きゃふ、きゃふっ!』
 赤いリボンをスカーフのように首に結んであげると、嬉しそうに鼻を鳴らした麻呂。
 麻呂は、とても人懐っこい子犬だった。そのうちに私にとって麻呂は大切な存在となり、気がつけばよき話し相手にまでなっていた。
『ねえ、麻呂、聞いてくれる?』
『きゃう?』
『私はどうして、好きでもない人の花嫁にならなきゃいけないのかな?』
 本音を言える相手は麻呂だけだったのだ。
 もちろん、犬である麻呂が相談事の答えをくれるわけではなかったけれど。
『きゃふ、ふっ!』
『ふふっ、麻呂ってばくすぐったいよ』
 それでも私は、麻呂がいてくれるだけで幸せだった。
 麻呂はその小さな体を寄せて、冷えた私の心を温め続けてくれたのだ。
『麻呂、どこにいるの?』
 ところがある日、麻呂は私の前からこつぜんと姿を消した。私は屋敷中をくまなく捜したけれど、どうしても見つけることはできなかった。
 絶望していた私の前に姉が現れたのは、半日以上が過ぎた頃だった。
『茅乃、どうしたの?』
『お姉様っ! どこかで黒い子犬を見なかった?』
 尋ねた瞬間、私の目からは涙がこぼれていた。
 記憶している限りでは、私が泣いたのはこれが最後だったと思う。
『その子、とても可愛い、いい子なの! でも、足の怪我が治ったばかりで……』
 幼い私は、僅かな希望を摑むように姉にすがった。
 それが、大きな間違いであったとも気づかずに。
『ああ。その犬なら、知っているわ』
『ほ、本当!?』
『ええ、でもね、よく聞いて。あの犬は、とても縁起が悪い犬だったの』
『え、縁起が悪い犬?』
 一瞬、頭の中が真っ白になった。姉の言っていることの意味が、わからなかったのだ。
『あの犬は、目の上に丸い模様があったでしょう? 四つ目の犬は、飼い主を不幸にするらしいの。だから私は茅乃のために、あの犬を家の外に追い出してあげたのよ』
 目の上に丸い模様がある四つ目の犬とは、麻呂のことに違いない。
 つまり麻呂をどこかへやったのは、姉だったというわけだ。
『酷いっ、なんでそんなことしたの!?
 麻呂は縁起が悪い犬なんかじゃないわ! 私、麻呂を捜しに行ってくる!』
『無駄よ。もう、どこにもいないと思う』
『どうして……?』
『あの犬はいい子どころか恩知らずよ。私が外に出した途端、嬉しそうに走り去って行ったんだから』
 まるで、麻呂がこの家にいたくないと言ったかのような口ぶりだった。
 話を聞いた私は大きな衝撃を受けたけれど、自由に憧れていた当時の私には、麻呂の気持ちが痛いほどわかる気がした。
 そしてわかってしまったら、もう麻呂を捜しには行けなくなった。
 愕然とする私を見た姉は、なぜか目に涙を溜めながら口元に笑みを浮かべた。
『私はただ、茅乃のためを思ってしただけなの』
 すべては私を、神白石柊夜の花嫁にするために──。
 説明し終えた姉は、呆然とする私を尻目にさめざめと泣いていた。
 どうして姉が泣くのか、私にはわからなかった。
 いつの間にか涙が乾いていた頰を、冷たい風が静かに撫でた。
『茅乃には、私の分まで頑張ってもらわなきゃ。ね?』
 私の中に諦めと開き直りの感情が生まれたのはこのときだった。
 姉の言葉を聞いて、自分はここから逃げられないと悟ったのだ。
 “こうなったら、何がなんでも神白石柊夜の花嫁になってやる”
 そうして心の拠り所を失った私は、覚悟を決めたのだった。

「──お姉様は、いつも私のせいにするのね」
 ぽつりとつぶやくと、姉はあのときと同じように瞳を潤ませながら私を見つめた。
「私が茅乃のせいにしてるって、どういうこと?」
 なぜ今も、姉が目に涙を溜めているのだろう。考えても、理由がさっぱりわからない。
 そのうち考えるのも馬鹿らしくなって、気がつくと私は、口元に嘲笑を浮かべていた。
「お姉様は、的外れなのよ」
「的外れ?」
「私のためと言いながらしていることが、何ひとつ私のためになっていないってこと」
 冷たく言い放つと、姉がまた青ざめた。
 そして潤ませていた瞳から、いよいよ大粒の涙をこぼし始める。
 その涙を、私は冷めた目で眺めてしまった。
「お姉様が何かしてくれなくても、私は柊夜様の花嫁になるから問題ないわ」
 もう一度、温度のない声で突き放した。神白石柊夜の花嫁にさえなれば、姉の涙を見ることも、欲にまみれた両親の姿を見ることもなくなるはず。
「そういうわけだから、お姉様は早くお召し物を整えてきて」
 そこまで言うと、私は回れ右をした。
 これ以上姉と一緒にいたら、もっと酷いことを言ってしまいそうで怖かったのだ。
 だから、もうこれでおしまいにしよう。
 ところが姉は何を思ったのか、立ち去ろうとした私の腕に、突然しがみついてきた。
「ど、どうしてぇ?」
「え?」
「どうして茅乃まで、私をそんなふうに言うの!?」
 瞳孔が開いた目で見つめられ、息を呑む。
「私はいつも、茅乃のために我慢してきたのに! 私は茅乃のために、どんなときでも陰になってあげたのに、酷いわ!」
 姉は、何度も“私のため”と繰り返した。
 狂気じみた様子に、私の肌は粟立った。
「ねぇ、茅乃。どうして……どうしてなの?」
「お、お姉様、離してっ」
 急に泣きわめき始めた姉のせいで、周囲の人たちに奇異な目で見られている。
 どうにかして、落ち着かせないと。
 そう思っても、姉は私の腕を強く摑んで離そうとはしなかった。
「茅乃。あなたが光り輝けたのも、私がいるからでしょう!?」
「い、痛っ」
「全部、全部、私が日陰の存在でいてあげたおかげなのにっ!」
 私の腕を摑む手は荒れていて、爪先は痛々しくひび割れていた。
 その爪が着物を裂いて、肌に突き刺さるのではないか。
 恐怖を感じた私は、とっさに姉の手を振り払ってしまった。
「あ──」
「そこで何をしている!?」
 そのときだ。ホールに、凜とした清廉な声が響いた。
 あわてて振り返ると、そこには白い紳士服に身を包んだ男性が立っていて、思わずヒュッと喉が鳴った。
「しゅ、柊夜様?」
 間違いない。特徴的な銀色に輝く髪に、端整な顔立ち。
 スラリとした体軀と褐色の瞳は、写真で何度も見た神白石柊夜そのものだった。
「お前は……」
 神白石柊夜は騒ぎの中心にいた私達のほうを見ながら息を呑んだ。
 その目は大きく見開かれ、驚きと一緒になぜか動揺を滲ませていた。
「た、大切な祝宴に水を差してしまい、申しわけありません」
 青ざめた私はすぐにそう言って、頭を下げた。
 神白石柊夜は、騒がしい場を嫌うと聞いている。だから、これまでは父である宗親様が盾となり、ほとんど公式行事に出席したことはなかったけれど……。
 今日は、彼の二十歳を祝すパーティーだ。
 突然の主役の登場により、会場内は今日一番のざわめきに包まれた。
「柊夜様だわ! ちょっと、私の髪は乱れていない?」
 特に神白石柊夜の花嫁の座を狙うご令嬢たちは、皆一様に表情を引き締めた。
 対する私は出遅れたどころか、良くない形でお目通りする羽目になってしまった。
 悪い意味で注目されているのなら、いっそのこと逆手にとって話題の種にしてしまう?
 と、苦肉の策を思いついたそのときだ。
 視界の端に、床に転がっている姉の姿が映った。
 私に手を振り払われて、しりもちをついたのだ。姉はあわてて立ち上がるどころか、床に手をついたままほうけていた。
 たぶん、神白石柊夜の整った容姿に見惚れているのだろう。その恰好でいることが不敬にあたるとは、微塵も考えることもなく。
「お姉様、早く立ち上がって──」
 ところが、私が声をかけた瞬間、
「お前、名はなんと言う?」
 再び神白石柊夜が、清廉な声を響かせた。
 え?
 神白石柊夜はそのまま、こちらに向かって真っすぐに歩いてくる。
 わき目もふらず、まるで強い力に引き寄せられるように、ゆっくりと近づいてきた。
「はぁ、最低。結局、選ばれるのは花嫁候補筆頭の、あの女なの?」
 近くにいたどこぞのご令嬢の、負け犬じみたぼやきが耳に届いた。
 花嫁候補筆頭のあの女とは、もちろん他でもないこの私だ。
「お前の名を、聞かせてくれ」
 そしてそのご令嬢の予想通り、神白石柊夜は私の目の前で足を止めると同じ質問を繰り返した。
 甘く、焦がれるような熱い眼差しにゾワッとする。
 その目に映された女性は、誰もが虜になるのだろう。
 けれど彼の褐色の瞳は──花嫁候補筆頭であるはずの私を、映してはいなかった。
「なあ、君の名前は?」
「わ、私、ですか?」
「ああ、そうだ」
「私は……秋月和香と申します」
「和香か。儚く美しい君に似合う名前だ。俺は和香のことを、ずっと探していた」
 神白石柊夜が膝を折ってまで手を差し伸べたのは、私の足元に転がっていた姉だった。
「私を探していたって、どういうことですか?」
「君を見た瞬間、雷に打たれたような衝撃が、体に走った。本能が、君こそ俺が生涯愛するたったひとりの花嫁だと、告げたんだ」
「それって……」
「和香は、俺の運命の番だ」
「はあ?」
 やり取りを見ていた私の口からは、思わず気の抜けた声がもれてしまった。
 だけどふたりは私のことなど気にも留めずに見つめ合い、甘い世界に浸っている。
 お姉様が、神白石柊夜の運命の番?
 驚く私に見せつけるように、神白石柊夜は姉のことをとても大事そうに抱き寄せた。
「皆、よく聞け。彼女──秋月和香は俺の運命の番であり、この世で唯一となる最愛の花嫁だ」
 姉を抱き寄せたまま立ち上がった神白石柊夜は、堂々と宣言した。
「う、運命の番? 噓でしょ!?」
「だってあれは、“無能な姉”のほうよね!?」
 神白石柊夜の宣言のあと、周囲からはどよめきがあがった。
 当然だろう。神白石家の次期当主である彼が見初めたのは、才色兼備と名高い私ではなく、無能と噂の姉のほうだったのだから。
「無能な姉とは、どういうことだ」
 どよめきの一部を耳にした神白石柊夜が、低く唸るような声を出した。
 すると、彼のそばに侍従らしき女性が近づいて、落ち着いた声で説明した。
「和香様には妹君がおられて、その妹君が柊夜様の花嫁候補の筆頭であると、長い間噂されていたのです」
「ああ……あれか」
 侍従から説明を受けた神白石柊夜は、うんざりした様子で相槌を打った。
 一応、私の噂は耳にしていたようだ。
「和香様が無能などと言われたのも、もともとはその噂が原因だと考えられます」
「そうなのか、和香?」
 甘ったるい声で、神白石柊夜が自身の腕の中にいる姉に尋ねた。
 問われた姉は相変わらず潤んだ瞳で神白石柊夜を見つめる。
 そうしてやや逡巡したのち、弱々しくもしっかりと頷いて、私をチラリと窺い見た。
「はい。私は長い間、実の妹と比べられて、家族に虐げられてきました」
「は……?」
 今度は低い声が出てしまった。
 すると、ようやく私の存在に気づいたらしい神白石柊夜の目がこちらを向いた。
「彼女が、和香様の妹君であられる茅乃様です」
 ご丁寧に、侍従が私のことまで紹介してくれる。
「つまるところ、貴様を含む一族が、和香を苦しめる諸悪の根源というわけか?」
「ご、誤解です、柊夜様っ!」
 そのタイミングですっ飛んできたのは、父と母だった。
 ふたりのあとから、宗親様と奥様もついてくる。
「彼らは和香様のご両親です」
 また、侍従が簡潔に説明した。
「わ、私どもは、和香を冷遇などしておりません!」
「当然でございましょう!? 和香も私達にとっては、大事な娘なのですから!」
 驚くべき手のひらの返しようだ。
 お父様とお母様が、お姉様を冷遇などしていない? そんなの、真っ赤な噓にもほどがある。
 私はつい笑いそうになったところを、すんでのところで堪えて黙った。
「なあ和香、そうだろう? 私達は和香のことを、愛おしく思っていただけなんだ」
「え、ええ、そうよ。愛しているからこそ、厳しく当たってしまっただけなの」
 無理のある言いわけだ。両親は姉が神白石柊夜の運命の番であったと知って、挽回を図ることにしたらしい。
「和香は、私達の自慢の娘だ」
 私に囁き続けた呪いの言葉を、恥ずかしげもなく姉に吐いてすがった。
 私はその光景を、ひたすら冷めた目で見つめていた。
「和香、どうする?」
 でも、私達家族の命運が、神白石柊夜の花嫁に選ばれた姉に握られていることは間違いない。
「和香のしたいようにすればいい。和香の願いは、俺がすべて叶えてやる」
 また甘ったるい声を出しながら、神白石柊夜が姉の髪に愛おしそうに頰を寄せた。
「私は……謝ってもらえたら、それで十分です」
「何? 本当にそれだけでいいのか?」
「はい。だって私にはもう、私を花嫁と呼んで慈しんでくださる柊夜様がいますから」
 たぶんそれは、神白石柊夜にとって百点満点の答えだったのだろう。
「和香は、なんと謙虚で美しい心の持ち主なんだ!」
 感激した様子で声を上げた神白石柊夜は、姉を一心に見つめた。
 周囲の人々もふたりを見て、妙に納得した様子で頷いている。
 その様子は私からするととんだ茶番にしか思えず、妙な気持ち悪さを感じた。
「和香、今まで本当にすまなかった!」
「和香、本当にごめんなさい。私達が馬鹿だったわ!」
 両親の謝罪を受けた姉はそっと目を細め、また弱々しくも満足そうにほほ笑んだ。
 そしてその目を、今度はゆっくりと私に向ける。
 次はお前が謝る番だと、視線はたしかに訴えていた。
「茅乃?」
 姉に名を呼ばれた瞬間、肌がゾワリと粟立った。
 名前の先に続くのは、“あなたは謝らないの?”という問いだとわかる。
「まさか貴様は、和香に謝罪しないつもりか?」
 姉の代わりに尋ねてきたのは、神白石柊夜だった。
 予想外の展開に、思考が追い付かない。だけど、これだけはたしかに言える。
「逆に伺いたいのですが、なぜ、私が謝らなければいけないのですか?」
「なんだと?」
「私は、後ろめたいことはしていません。ただ、求められた期待に応えてきただけです。それなのに、どうして姉に謝る必要があるのか、さっぱりわからないのです」
 震えていることを悟られぬよう、お腹に力を込めて説明した。
 誓って言える。私はお姉様を虐げたことなど、一度もない。
「謝罪を求められても、謝る理由がないので謝れません」
「茅乃、何を言い出すんだ!」
「そうよ! 馬鹿なことを言っていないで、早く和香に謝りなさい!」
 両親は焦りと呆れ交じりの表情で私をなじった。
 私だって馬鹿ではないから、ここで逆らえば分が悪くなることは理解している。
 当然、鬼の一族の次期当主である神白石柊夜に楯突くことにも恐怖していた。
 だから両親のようにさっさと謝って、穏便に済ませることが賢い選択だともわかっているけれど。
 謝るということは、私も両親と同じように姉を虐げていたと認めることになる。それだけは、どうしても納得できなかった。
「今謝れば、心優しい和香は貴様を許すと言っているのだぞ」
「いえ、何度も申し上げている通り、私はお姉様に許していただく必要はないのです」
「許される必要がない?」
「はい。先ほども申し上げた通り、私はお姉様に許しを請うようなことはしていません。だから私は、お姉様に謝る理由がないのです」
 もう一度気持ちをふるい立たせて、キッパリと言い切った。
 すると両親は顔色を青くして固まり、周囲の人々は戸惑いながら、ざわめいた。
「それが貴様の答えというわけか?」
 神白石柊夜だけは、怒りに燃えた目を私に向けている。
 私は恐怖を押し殺し、小さく息を呑んでから、その目を真っすぐに見つめ返した。
「はい。私はお姉様に、絶対に謝りません」
「茅乃、どうか今は意地を張らないで!」
 次の瞬間、叫んだのは姉だった。
 驚いた私は、神白石柊夜の腕の中で涙をこぼしている彼女へと目を向ける。
「柊夜様。茅乃は自分が柊夜様の花嫁に選ばれると思っていたのに、見初められたのが私だったからショックを受けて混乱しているんです」
「は……?」
「ねぇ、茅乃。あなたは私に頭を下げればいいの。あなたは私の可愛い妹だもの。今すぐ謝れば、柊夜様もあなたを罪には問わないわ」
 そう言うと姉は、目に涙を浮かべたままニッコリとほほ笑んだ。
 対する私は啞然として、返す言葉を失った。
 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。
 私が、柊夜様の花嫁に選ばれなかったから、ショックを受けている?
 たしかに、姉が運命の番だったことには驚いたし衝撃を受けたけれど、微塵もショックは受けていない。
 あんなに、神白石柊夜の花嫁という立場に固執していたはずなのに。
 むしろ、なんとも思わないことにショックを受けてしまいそうなくらいだった。
「ああ、そっか」
「なんだ?」
「あ……いえ、なんでもありません」
 心の声をつい口に出したら、神白石柊夜にげんそうに問われ、あわてて首を横にふった。
 つまり私は、この人の花嫁になんて、本当は一ミリもなりたくなかったのだ。
 というか、姉が花嫁に選ばれたなら、私はお役御免となる。
 もう、花嫁になるための努力は必要ない。
 そう考えたら、私の心は羽が生えたように軽くなった。
「ねえ、茅乃。これが最後の機会よ」
 強大かつ絶対的な権力に護られながら、姉が再び静かに口を開いた。
 かくいう私は解放感に心が満たされ、恐怖は完全に消え去った。
「ほら、早く。今謝れば、あなたを許してあげるから」
「……ありがとう、お姉様」
「え?」
「お姉様のおかげで、私は自由になれそうよ」
 思わず笑ってお礼を言うと、今度は姉が怪訝そうな顔をした。
「でも、それとこれとは話が別だし。何度せがまれても、私は絶対に謝らないわよ」
 静まり返った会場内に、堂々と声を響かせた。
 すると次の瞬間、神白石柊夜が姉を抱き寄せている手とは反対の手を振り上げる。
「この──“悪妹”め!」
「悪妹?」
「俺の愛しい花嫁を傷つける、悪い妹……悪妹だ! 秋月茅乃。貴様を、我が花嫁を傷つけた罪で“地獄送り”に処す!」
 地獄送り──。
 神白石柊夜がそう宣言した直後、私の背後に禍々しい闇を纏った巨大な門が現れた。
「あ、ああっ! まさか、地獄の門か!?」
 腰を抜かしたのは、父だ。地獄の門とはその名の通り、地獄に繫がる入口のこと。
 強い力を持つ幻妖にのみ、顕現させることができる代物だ。
「柊夜、待てっ」
 とっさに止めに入ったのは宗親様だった。
「大した罪名もないままに、ご令嬢を地獄送りに処すとは拙速に過ぎる!」
「いいえ、父上。“神白石家の次期当主の花嫁を傷つけた罪”は、立派な罪名でしょう。当家の威厳を示すためにも、これは必要な処罰です!」
 それらしく言って宗親様の制止を振り払った神白石柊夜は、再び私を鋭く睨みつけた。
「ふ、ふふっ」
 対する私は、笑わずにはいられなかった。
「何がおかしい!?」
「いえ、おかしな罪名だなと思って。こんなことで、威厳など示せるのでしょうか?」
「な、なんだと!? 貴様、神白石家までも愚弄するつもりか!」
「滅相もありません。それで私は、この門をくぐって地獄に行けばいいのですか?」
 神白石柊夜の眼光など意にも介さず、私は地獄の門を振り返る。
 門の向こうは真っ暗で、道どころか僅かな灯りすら見えない。
 地獄は罪を犯した者が送られるかくりで、一度堕ちれば二度と戻れないと言われている場所だ。
 畑に生える食べ物はすべて腐っていて、猛毒の植物があちこちに芽吹いているらしい。
 さらに地獄の大地は業火に包まれており、罪人たちは三日もいれば正気を失ってしまうのだとか。
 私はこれから、そんな場所へと堕とされようとしている。
「貴様、地獄が恐ろしくはないのか?」
 神白石柊夜が不審そうに私に尋ねた。
 頭の悪い質問だ。振り返った私は地獄の門を背に、堂々とほほ笑んだ。
「きっと地上ここより、地獄のほうがマシでしょうね」
 周囲にいる人たちが、私の笑顔に見惚れている。
 神白石柊夜は声を詰まらせ、啞然として固まっていた。
「気に入った」
 そのときだ。どこからともなく、また甘い吐息のような声が聞こえた。
 ハッとして目を向けると、今まで誰もいなかったはずの地獄の門の前に、先刻の御者の彼が立っていた。
「あなたが、どうして──」
 ここにいるの? と尋ねる前に、彼の背後にある地獄の門から、強い風が吹きつけた。
「ひいっ!」
 悲鳴をあげたのは周囲にいる人たちだ。
 体が凍りつくような恐ろしい冷気。その風は、御者の彼が目深に被っていた帽子を遠くに吹き飛ばした。
「あ……」
 次の瞬間、その場にいる全員が息を呑む。
 御者の彼の美しくも神秘的な金色の瞳が露になり、思わず目を奪われた。
 瞳だけではない。からすを連想させる艶のある黒髪に、目鼻立ちの整った顔。
 この世のものとは思えぬ美貌は、目にした者全員を惹きつけた。
「あ、あなたは?」
「俺の名は、六道かげだ」
「り、六道、千景様?」
「千景でいい。俺は茅乃を花嫁として迎えようと、今決めた」
 色気に満ちた笑みを浮かべながら、彼──千景は低く響く声で言った。
 私は思考が追い付かずに、身動きが取れなくなってしまう。
 すると彼の冷たい手が、冷え切っていた私の手を静かに摑んだ。
「強く愛らしい罪人よ。共に、地獄へ堕ちようか」
 青天のへきれきとは、まさにこのことだ。
 突拍子がなさすぎて、なんと答えればいいのかわからなかった。
「き、貴様が、なぜここにいる! 招待状は出していないはずだぞ!」
 私が考え終わるより先に吠えたのは、神白石柊夜だ。
 対する千景は顔色ひとつ変えずに、飄々と答える。
「ただの暇つぶしだ。お前の花嫁選びに興味はないが、散歩ついでに見物するのも一興かと思ってな」
 神白石柊夜は苦虫を嚙み潰したような顔で、千景を睨みつけた。
 私が言えたことではないけれど、神白石家の次期当主にここまで不敬な物言いができる人は、そういない。
 “六道“千景。やはり彼は、“あの六道家”の一員のようだ。
 でも、六道家は地獄に住んでいるはず。暇つぶしなんかで、ふらりと地上に来られるものなのだろうか。
「あなたは一体、何者なの?」
 恐る恐る尋ねると、千景は金色の瞳を細めて愉しそうに笑った。
「普段は、“閻王”を名乗っている」
「え、閻王?」
「ああ、そうだ。俺は、地獄を統べる悪の王。地獄の閻王、六道千景だ」
 その口上を聞いた私は、今度こそ息の仕方を忘れそうになった。
 つまり彼こそが、地獄を牛耳る幻妖の一族・六道家の現当主というわけだ。
 ヒグマを膨らませたような大男だと聞いていたのに、こんな絶世の美男子だなんて、噂は当てにならないにもほどがある!
「さて、自己紹介も終わったことだし、早速ふたりで堕ちて行こう」
「お、堕ちて行くって、一体どこに?」
「もちろん、地獄に決まっている。迷子にならぬよう、俺がしっかり抱えていくよ」
「ひゃっ!?」
 次の瞬間、ふわりと体が宙に浮いて、私は千景に抱きかかえられた。
「ま、待て! 貴様、その悪妹を花嫁にすると言ったが、正気なのか!?」
 また、神白石柊夜が叫んだ。
 すると千景は一瞥したあと、いよいようんざりした様子で短く息を吐いた。
「悪妹と閻王なら、お似合いだろう?」
 たしかに一理ある。
 なんて、思わず心の中で相槌を打ったのも、束の間。
「これ以上絡まれるのは面倒だ、さっさと行こう」
 千景はそう囁いて軽く地を蹴り、私を抱きかかえたまま地獄の門に飛び込んだ。
「ちょ、ちょっと待っ……きゃあああぁぁ!!!!」
 つい断末魔のような叫び声を上げてしまったのは、門の先には地面がなかったから。
 私達は、漆黒の闇に吸い込まれるかの如く、真っ逆さまに堕ちていった。
 目を開けているはずなのに、何も見えない。
 感じるのは私を抱える腕の温かさだけで、眩暈めまいを覚える余裕もなかった。
「安心して、俺にすべてを任せればいい」
 安心するどころか、気がつくと私の意識は途絶えていた。
 意識が途絶える瞬間に瞼の裏に映ったのは、門に飛び込む直前に見えた光景だ。
 地上で、私の目に最後に映ったもの。
 それは“絶対に許さない”とでも言いたげに、私を鋭く睨みつける姉の鬼のような形相だった。


 三章 悪妹の憂鬱

『どうしてお姉様も一緒に、お花の先生のところに行けないの!?』
 闇の底に落ちていく途中で、懐かしい夢を見た。
 あれは、いつだったか。たしか私が神白石柊夜の花嫁として期待を寄せられてから、一カ月近く経った頃だったように思う。
『とにかく次回からは、茅乃ひとりで教室に通いなさい』
 それまでふたりで通っていたお花の教室に、私ひとりで通うようにと両親から言いつけられた。
 姉が生ける花を見るのが好きだった私は、烈火の如く抗議した。
『私よりも、お姉様のほうが何倍も上手にお花を生けられるのよ!? 私はこれからも、お姉様と一緒に教室に通いたい!』
『茅乃、いけません。そんなふうに駄々をこねたら、柊夜様の花嫁に相応しくない子だと思われてしまいますよ』
『茅乃は和香という余計なものには囚われず、私達の言うとおりにすればいいんだ』
『嫌よ! お姉様のことをそんなふうに言うなんて、お母様もお父様もすごく変だわ!』
 私は両親が言うことに納得できず、幼いなりに憤りを覚えた。
 けれど私がどれだけ反論しても両親は意にも介さず、姉も言われるがまま従い続けるだけだった。

『ねぇ、お姉様。私、思ったんだけどね。私達ふたりで家出をしてみるのはどう?』
 そうして両親の態度に嫌気がさした私は、あるときそんな提案を姉に持ち掛けた。
『私と茅乃が家出?』
『そう! だって、お父様もお母様も酷いわ。私、本当に怒ってるんだから』
 今思えば家出なんて、無計画かつ現実味のない発想だ。
 でも、あのときの私は本気だった。
 両親が姉を蔑ろにすることが、どうしても許せなかったのだ。
『ふたりが考えを改めるまで、絶対に家には帰らないの!』
 だから今夜にでもこっそりと家を抜け出そう。
 ところがそう言って張り切る私を、姉は鼻で嗤ってたしなめた。
『夜中に家を抜け出すなんて悪い子がすることよ。危険だし、私はしたくないわ』
『え、じゃあ……他に何か、いい案はある?』
『そんなのないわ』
『でも、それじゃあお姉様が……。お姉様は、このままでいいの?』
 尋ねると、姉は私のほうを見ることもなく、落ち着いた様子で目を閉じた。
『このままでいいも何も、私にはどうしようもできないことだから』
『どうしようもできないこと?』
『ええ、そうよ。だって私は、無駄な努力はしたくないの。だからお父様とお母様が言うことは、間違ってないと思ってる』
 そう言った姉は、決して強がっているようには見えなかった。
 姉には、現状を打破する気などさらさらなかったのだ。自分は何をやっても無駄だと、開き直っているようだった。
『仕方ないのよ。私は、可哀そうな子なんだから』
 そっと瞼を開けた姉にシュンとしながら言われて、返事に困った私は黙ってしまった。
 そんな私を前に、姉は続けて、儚げな笑みを浮かべながら言ったのだ。
『だからこれからは、茅乃が私の分まで頑張ってね』

  *

「ん……」
 久しぶりに、よく眠れたような気がする。
 ふかふかの布団に、仄かに薫るきゃの香。目を閉じていても、周囲がうっすらと明るいのがわかった。
 今は何時だろうか。たしか今日は、月曜日だったはず。
「いけないっ、早く支度をしないと!」
 月曜の朝はお花のお稽古と、薬学の先生が講義をしに来ることになっている。
 寝坊したと思って焦った私は、目を開いた直後に勢いよく上半身を起こした。
 ゴチンッ!
 と、次の瞬間、おでこが何かとぶつかって、誰かが短い悲鳴をあげる。
「いってぇ!」
「え?」
「し、ろく、大丈夫!?」
「大丈夫なわけあるかぁ! なんだよこの女、石頭かよっ!」
 そうそう、私って石頭なのよ……と、心の中で頷いた私は、あわてて声がしたほうへと
目を向けた。
 するとそこにはかりぎぬに身を包んだ、見た目がそっくりな童子がふたり。年齢も同じくらいで、見るからに双子だ。
 右目が前髪で隠れている子は涙目で額を押さえていて、左目が前髪で隠れている子はお
ろおろしながら先の童子を心配していた。
「あなたたちは? というか、ここは一体……」
 どこなのだろう。思わずあたりを見回した私は、目を点にして首をひねった。
 今、私がいるのは表情豊かな木目が息づく、風情ある和室だ。
 その真ん中に敷かれている綿がたっぷり含まれた良質な布団で、私は呑気に眠っていたらしい。
 しかも、いつの間にか着物を脱がされ、白いしんに着替えさせられている。
「茅乃、目が覚めたか」
 と、自分が置かれている状況を頭の中で整理していたら、絵巻物のような絵が描かれたふすまが開いた。
「あなたは……」
 現れたのは、金色の瞳と絶世の美貌を持つ男だった。
「丸一日目覚めないから心配したぞ」
 そう言って、私を見つめるその目を見た瞬間、自分の身に起きたことを思い出す。
 彼は、地獄を牛耳る閻王──六道千景だ。
 私は自分が嫁ぐはずだった相手に断罪されて、誰もが恐れる地獄に堕ちた。
「あなたが目の前にいるってことは、何もかも夢ではなく現実ってことよね」
 ぽつりとつぶやいてから、重く長い息を吐く。
 千景は肯定するように金色の瞳を細めると、私のそばまで来て腰をおろした。
「ここは、地獄にある俺の屋敷だ。俺が席を外している間、茅乃のことはそこにいるみょうと司録が介抱していた」
 千景の視線を追いかけて童子たちに目を向けると、ひとりはしゃんと背を伸ばして座り、もうひとりはムスッとしながら胡坐あぐらをかいていた。
「あなたたちが、私を着替えさせてくれたの?」
「い、いえ! お着替えは、女性のさんがしてくれました!」
「馬頭さん?」
「あっ、馬頭さんは、今は所用のためご不在でして……」
「司命っ、こんな礼儀知らずの女に、敬語なんか使う必要ねぇよ! マジでいてぇ!」
 胡坐をかいているほうの童子が、たんこぶができた額を撫でながら吠えた。
 どうやら右目が隠れている子の名が司録で、左目が隠れている子が司命みたい。
 司録くんは横柄な態度で口が悪く、司命くんはおどおどしていて気弱そう。ふたりは双子だけれど、いかにも性格は正反対といった感じだ。
「ほんと最悪だ。だからオレは、介抱なんてしたくないって言ったのに──」
「司録、口を慎め。礼儀知らずは、お前のほうではないか?」
 文句を言い続ける司録くんを千景が窘めると、司録くんは気まずそうに目を伏せてからそっぽを向いた。
「すまない、茅乃。司録は悪い奴ではないが、強情なところがあるんだ」
「いえ……指摘された通り、先にお礼を言うべきでした。私が眠っている間、お世話をしてくれたみたいで、どうもありがとう」
 私は感謝を伝えるために、きちんと座り直して頭を下げた。
 司録くんには当然のように無視されたけれど、司命くんはあわあわと狼狽えて大きく首を横に振る。
「お、お礼なんていいんですっ。千景様の花嫁様をお世話するのは、部下である僕らにとって当然のことですから!」
「千景の部下?」
「はいっ。僕と司録は、普段は千景様のお役目のお手伝いをしてるのでっ」
 千景のお役目の手伝い。つまりふたりは、閻王の仕事の手伝いをしているということだろう。
「ふたりとも、その年で仕事をしているなんて偉いのね。立派だわ」
「え? えへへ。それほどでも」
「馬鹿っ! ちょっと褒められたくらいでデレデレすんなっ!」
「あいたっ! 何するのさ司録、小突かなくたっていいだろっ」
 善意で褒めたつもりだったのに、喧嘩が始まってしまった。
 仲裁に入るべきか悩んでいたら、千景が「司命、司録、そのあたりでやめておけ」と、また一声で窘めた。
「見苦しいところを見せてばかりだな。だが、こう見えてふたりとも仕事はできるんだ」
「賑やかでいいと思います」
「そう言ってもらえると助かる。茅乃には俺の花嫁として、ここで生活してもらうことになるからな」
 と、会話の流れでさらりと言われて、ぎくりとした。
『俺は茅乃を花嫁として迎えようと、今決めた』
 それは地獄に堕ちる直前に、彼に言われた言葉だ。
 悪い夢でも見たのかと思ったけれど、どうやらその話も現実だったらしい。
「とはいえ、地獄での暮らしには、そう簡単には慣れないだろう。何か困ったことがあれば、俺かここにいる双子か、他にも──」
「あのっ! それについてなんですが!」
 このままだと、話が勝手に進んでしまう。そう予見した私は、とっさに声を上げた。
 話を遮られた千景は、不思議そうに私の顔を見つめている。
 覚悟を決めた私はもう一度布団の上で姿勢を正すと、一拍置いてから、勇気をふりしぼって口を開いた。
「大変申しわけないのですが……。私は、あなたの花嫁にはなれません」
「なんだと?」
 低い声で聞き返されて、反射的に身がすくむ。
 千景は地獄を牛耳る閻王だ。求婚を断られるなど夢にも思っていなかったのか、目を丸くして驚いていた。
「俺の花嫁になれないとは、どういうことだ」
 改めて真意を測るように尋ねられた私は、手元に視線を落とした。膝の上に置いた手が僅かに震えている。恐怖を隠すように拳を握りしめると、深呼吸しながら目を閉じた。
 閻王である彼を怒らせたら、どうなるかわからない。
 けれど、だからといってひるむわけにはいかない。
 今、思っていることを言わなければ、地上にいた頃の二の舞になってしまうから。
 心を落ち着けるために深く息を吐いた私は、ゆっくりと瞼を開いて顔を上げた。
「私は、花嫁はもう、こりごりなのです」
 そう言って、金色の瞳を真っすぐに見つめ返した。
 千景はまた真意を測るように目を眇めると、膝に片肘をのせて頰杖をつく。
「つまり、誰の花嫁にもなるつもりがないということか?」
「いいえ……嫁ぐ相手は、自分で決めるということよ」
 揺るがぬ声で言い切ると、千景は一瞬目を見開いたあと、「そうか」とつぶやき、表情をやわらげた。
 地上で暮らしたこれまでの人生は、心を殺されたような毎日だった。
 贅沢な願いだとはわかっているけれど、私は今度こそ、自分らしく生きていきたい。
「自分に正直でありたいの。まずは、地上でできなかったことがしたい。私はもう何にも縛られずに、地獄でひっそり静かに暮らしたいのよ」
背筋を伸ばして、思いの丈を千景に伝えた。
 すると千景は数秒の間を空けてから、金色の瞳をそっと細める。
「地獄で静かに暮らしたい、か。ならば茅乃は、地獄ここがどんな場所かを知る必要があるだろうな」
 落ち着いた声音で言った千景は、長いまつ毛を伏せて黙り込んだ。
 何か考え事をしているみたいだ。どうしたのだろうと首をひねったとき、顔を上げた彼
が、私の前に右手を差し出した。
「口で説明するよりも、実際に見たほうが早い。これから出かけよう」
「え……出かけるって、どこにですか?」
「“りんがい”だ」
「輪廻街? って、どんなところなの?」
 まったく理解ができずに聞き返すと、千景は口端を上げて意味深な笑みを浮かべた。
 そして、戸惑う私の手を引いて立ち上がる。
「輪廻街は千景様のお膝元で、地獄の文化が栄える場所です!」
 代わりに説明してくれたのは、それまで黙って話を聞いていた司命くんだった。
「地獄の文化が栄える場所?」
「はいっ。輪廻街では、たくさんの民が暮らしているんです!」
 地獄にある輪廻街と呼ばれる場所に住んでいる者たちは、地獄の民──ごくみんと呼ばれているらしい。
 司命くんいわく、地獄民の多くが地獄に堕とされた人々の子孫なのだとか。
 つまり輪廻街にいる人や、幻妖たちの多くは、地上にいた罪人の末裔というわけだ。
「輪廻街に行けば、地獄の暮らしについて学べるはずだ」
 そう言った千景は、金色の瞳を僅かに細める。
「オレは行きませんからね!」
 と、不意に口を開いて千景の言葉を遮ったのは、司録くんだった。
 司録くんはすぐさま立ち上がると、ふっと体を宙に浮かして消えてしまった。
「あっ! 司録、待って!」
 追いかけるように司命くんも立ち上がる。おろおろしながら振り返った司命くんは、千
景が頷いたのを見て、私にぺこりと頭を下げてからドロンと消えた。
 閻王の部下なのだから当然かもしれないけれど、ふたりとも幻妖だったらしい。
「すまない。司録あれにも、いろいろと事情があってな」
「いえ……。このまま輪廻街に行ってしまっても、大丈夫なんですか?」
「ああ、問題ない。そもそも俺が連れて行くつもりだった」
 司命くんと司録くんが去ったせいで、今、部屋には千景と私のふたりだけ。
 急に静かになったからか、私は妙にそわそわしてしまった。
「で、出かける前に、着替えないとダメよね」
 考えてみたら、寝衣姿で男の人とふたりきりなのだ。それも部屋には布団が敷いてあるのだから、落ち着かなくて当たり前。
 変に意識して青ざめた私は、繫がれたままの手を離して、自身の胸元へと引き寄せた。
「わ、私の服は、どこにあるの?」
「続き間になっている隣の部屋だ。もともと着ていた着物とは別に、地獄でも名の通った店の品を買い占めておいたから、好きに選んで着るといい」
「え……ずいぶん、無駄遣いをするのね」
「俺は、茅乃のいろいろな姿が見たいんだ」
 ためらいなく言い切られて、一瞬、息の仕方を忘れそうになった。
 鼓動は早鐘を打つように高鳴り始め、千景に聞こえてしまうのではと冷や冷やする。
 本当に……千景は一体、私のどこがそんなに気に入ったのだろう。
 わからない。閻王ともなれば、地位に見合った縁談がいくらでも舞い込みそうなものだ。
 それとも六道の名を恐れて、誰も近寄ってこないのだろうか。
 だとしても彼の美貌をもってすれば、引く手あまたに違いない。
「まさかとは思うけれど……」
 もう、考えられる理由は、ひとつしかなかった。
「私、あなたの運命の番なの?」
 思い切って、直球の質問をぶつけた。
 すると千景はきょとんと目を丸くしたあと、ふっと顔をほころばせる。
「いや。茅乃は、俺の運命の番ではないな」
「え?」
「運命の番とやらに出会ったことがないから確信は持てないが、違うような気がする」
 千景は飄々と答えた。一方の私は拍子抜けして、張っていた気が緩んだ。
 どうやら私は、彼の番ではないようだ。ホッとしたような、胸にぽっかりと穴が空いたような、複雑な気持ちになって放心してしまう。
「運命の番とは関係なく、俺は茅乃が欲しいんだ」
「じゃ、じゃあ……たとえば私を花嫁にしたあとに、運命の番が現れたらどうするの?」
「どうでもいいな」
「どうでもいい?」
「ああ。本能だけが根拠の愛など、実に浅はかでくだらないものだ」
 そう言うと千景は腕を組み、首を傾げながら表情をやわらげた。
 その姿があまりに美しく、堂々としていて、私は見惚れずにはいられなかった。
「俺は神白石が相手でも、一切揺るがぬ、茅乃の意志の強さに惹かれた」
「私の、意志の強さに?」
「そうだ。聡明で、媚びないところも面白くて気に入った。こんなふうに、誰かをずっとそばで見ていたいと思ったのは初めてだ」
 神秘的な金色の瞳は、たしかに私だけを映していた。
「今後も、茅乃以上に心惹かれる相手は現れないだろうな」
 断言されて、いよいよ頰が熱くなる。
 こんなふうに真正面から好意をぶつけられたのは、私のほうこそ初めてだ。
 千景と話していると、調子が狂う。自分の意志とは関係なく高鳴る鼓動に、戸惑いを隠せなかった。
「茅乃は、本当に俺の花嫁になるのは嫌か?」
「そ、それは……」
 たじろぎながら後退り、胸元にあてた手を握りしめる。
 心臓の音がうるさい。小さく息を吸った私は、キッと千景を睨みつけた。
「私は先ほど言ったとおり、嫁ぐ相手は自分で決めたいだけよ。千景の花嫁になるのが嫌というのは、語弊があるわ」
「なるほどな。茅乃の想いは、よくわかった」
「え?」
 突然聞き分けがよくなった千景は、後退った私を追うように一歩前に詰め寄った。
 至近距離で見つめられ、少しでも気を抜いたらその場にへたり込んでしまいそう。
「ならば俺が、茅乃の心を射止めてみせよう」
 思いがけない言葉に驚き、瞬きを繰り返したら、意地悪な笑みを浮かべる千景と目が合って、ますます頰が熱くなった。
「そ、そんなの無理よ! とにかく私は、もう花嫁はこりごりなの!」
 早口でまくし立てた私は顔をそむけ、そのまま彼に背を向けた。
 一刻も早くこの部屋から出るべきだと、頭の中で警笛が鳴っている。
 あわてる私を見て、千景は面白そうに笑っていた。なぜだかわからないけれど、“負けた”気分になって腹が立つ。
「せっかくなので、一番値が張りそうな衣装ものに着替えてきますっ!」
 捨て台詞を吐いた私は隣の部屋に移動すると、あえて千景のほうを向いてから、ぴしゃりと音を立てて襖を閉じた。
 すぐに、襖の向こうからは、たまり兼ねたような笑い声が聞こえてくる。
 本当に、調子が狂う。
 悔しくなった私は、いつもよりもたっぷり時間をかけて衣装を着替えた。


  閑話

『茅乃は和香に比べて、何をやらせても呑み込みが早いわね』
 出来のいい妹と、人並み以下の残念な姉。
 物心ついたときにはすでに、茅乃と私を見る両親の目は違っていた。
 両親だけじゃない。使用人や、その他の者たちも同じだ。茅乃は、自分が柊夜様の花嫁候補筆頭になってから、周りが変わったと思っていたようだけれど。
 そんなの、差別を表面化させるきっかけにすぎなかった。
 年子といえど、中身も外見も姉が妹に劣るのだから、私が残念に思われるのは当然だ。
 そう……仕方がなかった。
 最初からそう、、だったから、私が悪いわけでも、私の努力が足りなかったわけでもない。
 私は、とても可哀想な姉こ 。全部、姉の私よりも妹の茅乃が優れているのが悪いのだ。
 私が理不尽に虐げられ、蔑まれたのは、茅乃という悪い妹がいたせいだ──。

「──かっ、のどか、和香っ! 大丈夫か!?」
 白雲を敷いたようなしとねと、柳の枝の如くしなやかな腕。
 昨夜は両方に包まれながら、この上なく幸せな気持ちで眠りについたはずだった。
「しゅう、や、さま? 私……」
「和香、大丈夫か? ずいぶんとうなされていたようだが」
 新しい朝。重い瞼を開くとそこには、私を心配そうに見つめる柊夜様がいた。
 昨日、私は彼の二十歳を祝う宴で、彼の運命の番として見初められた。
 人間の女性なら誰もが憧れ羨む、神白石柊夜の花嫁に選ばれたのだ。
 秋月家の無能な姉と呼ばれた、この私が。まるで都合のいい夢を見ているみたいだけれど、全部現実に起きた本当の話だ。
「和香?」
「ううっ。柊夜様っ、いや、どこにもいかないでっ!」
 飛び起きた私は、柊夜様の胸にしがみついた。
 すると彼は、私を心底大事そうに抱きしめ返してくれる。
 宝物を扱うように、それはそれは大切に。
「和香、大丈夫だ。俺は和香のそばから離れたりしないよ」
「ほ、本当? 絶対に?」
「当たり前だろう。和香は俺の最愛の花嫁なんだから、一生離したりするものか」
 ああ、温かい。これから先、何があっても必ず彼が守ってくれる。
 なぜなら私は、地上一の権力を誇る鬼の一族の次期当主、神白石柊夜の運命の番だ。
 改めて事実を嚙みしめたら、自然と口元がほころんだ。
「柊夜様が見つけてくれるまで、私、ずっとつらかった」
「出会うのが遅くなってすまなかった。これからは、俺が和香を幸せにすると誓うよ」
 昨日、この屋敷に連れて来られる前にも言われた台詞を、もう一度耳元で囁かれた。
 実際に、柊夜様は祝宴が終わるなり私の両親に話をつけて、私を神白石の屋敷に移り住ませてくれた。
『心優しい和香があの両親を許しても、俺は和香を苦しめてきた奴らを許すことも信用することもできない』
 そう言って、両親がいる家には二度と帰さないと宣言し、夜はひとつの布団で一緒に寝ることを求められた。
 私も柊夜様のそばにいたかったし、迷うことなく彼の提案を受け入れた。
 当然、私のお父様もお母様も反対なんてしない。
 ただ、柊夜様のご両親だけは、『正式な婚姻については、十分な準備期間を設けよう』なんて言って、難色を示していたけれど。
「和香、どうした? 不安に思うことがあれば俺にちゃんと話してくれ」
 眉根を寄せて黙り込んだ私の頭を、大きな手が優しく撫でる。
 私は表情を戻して上目遣いで柊夜様を見つめると、瞳を僅かに潤ませた。
「お義父様とお義母様は、私が柊夜様の花嫁になるのは嫌なのでしょうか」
「まさか! そんなはずはない」
「じゃあ、どうして今すぐ正式な婚姻関係を結ぶことを認めてくださらなかったの?」
 震える声で尋ねると、柊夜様は悔しそうに目を伏せた。
「言い難いが……和香は長い間あの家で、虐げられてきただろう?」
「はい。思い出すだけで胸が苦しいです。でも、それと柊夜様との結婚に、何か問題があるのですか?」
「俺は、問題ないと思っている」
“俺は”ということは、やはりお義父様とお義母様は、私が彼の花嫁になるのを反対しているということだ。
 わかりやすく肩を落とすと、柊夜様があわてて抱きしめる腕に力を込めた。
「すまない、言い方が悪かったな。父上と母上は、和香を心配しているだけなんだ」
「お義父様とお義母様が、私のことを心配してる?」
「ああ。俺は将来、鬼の一族の総本山である神白石家を背負って立つ身。花嫁には、あらゆる苦難や問題が降りかかることだろう」
 だから柊夜様のご両親は、人一倍芯の強い女性でなければ、当主の花嫁は務まらないと考えているらしい。
「それこそ、地獄の門の前でたんを切った、あの悪妹のような豪胆さが必要だと……」
 と、そこまで言った柊夜様は、自分の失言に気づいて口を噤んだ。
 神白石家の当主の花嫁には、悪妹のような豪胆さが必要?
「つまり、相手が茅乃なら、おふたりはすぐに結婚を許したということですか?」
「あ……い、いや! あくまでたとえ話だ! そもそも、俺が正式に花嫁を迎えるために
は、神白石家以外の鬼の他家当主の承認も必要なんだ」
 柊夜様は丁寧に説明し直してくれた。
 けれど私の心は暗く沈み、忘れようとしていた光景を思い出してしまった。
『ありがとう、お姉様』『お姉様のおかげで、私は自由になれそうよ』
 そう言って清々しく笑った、茅乃の憎らしい姿を。
 地獄が恐ろしくはないのかと尋ねた柊夜様に、
『きっと地上ここより、地獄のほうがマシでしょうね』
 と言って、腹が立つほど愛らしい笑みをたたえた、茅乃いもうとのことを──。
「う、ううっ。ふ、う……っ、ああっ!」
「和香、どうした!?」
 突然えつを上げて泣き出した私を、柊夜様がまた不安そうに窺い見た。
「う、うっ。柊夜様もお義父様とお義母様も、何もわかっていないんだわ!」
「どういうことだ?」
「だって私は、ずっと茅乃という悪意に晒されながら、長い年月を耐え抜いたのに!」
 そんな私は、誰よりも芯の強い女性だと認められるべきなのだ。反対に、あの最後の振
る舞いで茅乃が評価されるなど、絶対にあってはならないことなのに。
「結局茅乃は、地獄に堕ちても私を苦しめるのよ!」
「和香、落ち着くんだ!」
「このままじゃ、茅乃のせいで柊夜様と結婚できないっ。茅乃は今頃、地獄で私のことを笑っているわ! 絶対、そうに決まってる!」
 子供のように声を上げて泣き叫ぶと、私を抱きしめる柊夜様の腕に力がこもった。
 茅乃、茅乃、茅乃! 妹は、どこまでわたしの邪魔をすれば気が済むのだろう。
「しゅ、柊夜様もっ、いつか茅乃に盗られちゃうっ」
「なっ、そんなはずないだろう! 俺には番である和香しか見えていない!」
「ほ、ほん、とう? 絶対に、私だけ?」
「当たり前だ。そもそも俺があんな悪妹に唆されるわけがない! 和香は俺の愛を信じられないか?」
 そう言って私を見つめる柊夜様の瞳は、褐色ののうのようだった。
 見目も人並み外れて整っているし、誰もが絶賛する容姿をしている。
 ああ、こんなに素敵な人が私のものだなんて、優越感に浸らずにはいられない。
 でも──彼を見ていたら、ふと、ある人の姿が脳裏に浮かんだ。
『強く愛らしい罪人よ。共に、地獄へ堕ちようか』
 褐色の瞳よりも美しい、金色の瞳を持つ“彼”だ。
 凄絶な美貌と色香を纏っていた彼は、柊夜様以上の美男子だった。
「和香?」
 呼びかけられて、我に返った私はあわてて柊夜様に焦点を合わせた。
 すぐに首を振った私は、自分で自分を戒める。彼について考えていたことを、柊夜様には絶対に気取られてはいけない。
「あっ、わ、私……。取り乱して、ごめんなさい。柊夜様のことを、信じていないわけではなくて」
「じゃあ、何がそんなに不安なんだ?」
「そ、それは……だって、茅乃は私のことを恨んでいるはずだから。きっと今頃、柊夜様の花嫁に選ばれた私を憎み、呪おうとしているはずです」
 精いっぱいのか細い声で告げると、柊夜様は忌々しそうに舌打ちした。
「わ、私が不安なのは、全部、茅乃いもうとのせいなの」
「悪妹め。やはりあの場で、息の根を止めておくべきだったな。あのとき、ヤツという邪魔さえ入らなければ、今ごろは和香に安寧の日々を与えてやれたのに」
 柊夜様が言う“ヤツ”とは、金色の瞳を持つ彼、閻王・六道千景のことだろう。
「あの方は、本当に茅乃を花嫁にするつもりなんですか?」
「わからない。アイツはかなりの変わり者で、何を考えているのか読めない奴なんだ」
 言いながら、柊夜様は苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「不可侵の盟約さえなければ、あの場でヤツごと焼き払ってやれたのに」
「不可侵の盟約?」
 聞き慣れない言葉が気になり聞き返すと、柊夜様は「ああ」と相槌を打った。
「鬼の一族と六道家との間に、古くから結ばれている盟約だ」
 地上で最も強い力を持つ鬼の一族と、地獄を統べる六道家がぶつかり合えば、血に染まる大戦を引き起こしかねない。
 そのため両者の間では、“互いの領域を害してはならない”という、不可侵の盟約が結ばれているということだった。
「盟約には、もちろん人物も含まれる。だからどんなに憎らしくとも、ヤツに手を出すことはできなかった」
 また、柊夜様は苦々しい顔をする。
 今の言い方だと柊夜様は、以前から閻王様にいい印象を持ってはいないようだ。
「柊夜様は、閻王様をよくご存じなの?」
「いや、幻妖の会合で、何度か顔を合わせたことがあるだけだ。いつも、人を嘲笑う言動をする奴で──って、まさか和香は、アイツのことが気になるのか?」
 低い声で問われて、私はまたあわてて首を横にふった。
「ち、違います! 私は今言ったとおり、茅乃が私に仕返しにくるんじゃないかと思ったら、悪い夢を見てしまうくらい不安なだけなんです」
「和香のことは、俺が守るから安心しろ」
「嬉しい。柊夜様の花嫁になれた私は、世界一の幸せ者です。でも……やっぱり茅乃が生きている限り、私が安心して眠れる夜は来ないような気がしています」
 さめざめと涙をこぼすと、柊夜様は指先で透明な雫をぬぐってくれた。
「本当に憎らしい。悪妹は地獄に堕ちてもなお、俺の花嫁を苦しめるのか」
 温度のない声が、茅乃への憎悪を語る。
 目論見通りに激高した柊夜様を見たら気分が高揚して、私はとどめを刺すように激しく首を横にふった。
「ち、違うの、柊夜様。茅乃が私を憎むのは仕方がないの。だって私は茅乃と違って無能なのに、柊夜様の花嫁に選ばれたから」
「馬鹿を言うな! 和香は無能などではない! どれだけ苦しめられようとも妹を見捨てなかった、慈悲深い女神のような子じゃないか!」
「そんな。女神だなんて、柊夜様は大げさです」
「大げさなものか。俺が必ず和香を悪夢から……いや、悪妹から解放してやるから、もう泣くな」
「柊夜様っ」
 温かい腕に抱き寄せられながら、私はそっと、ほくそ笑んだ。
 どうしましょう。柊夜様が怒ってしまったわ。
 でも、それもこれもすべて、茅乃が悪い妹なせいだから、仕方がない。
「悪妹は必ず俺が始末する。和香、心から愛しているよ」
「ありがとうございます。私も柊夜様のことを、愛しております」

  *

続きは好評発売中の『姉の逆恨みで罪人にされた私が冥府の王に溺愛されてます 悪妹婚姻譚』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
小春りん(こはる・りん)
静岡県出身、藤沢市在住。デザイナーとして働くかたわら、2013年に作家デビュー。『はちみつ色の太陽』で、第10回日本ケータイ小説大賞の大賞、TSUTAYA賞、ブックパス賞を同時受賞。主な作品に、『たとえ声にならなくても、君への想いを叫ぶ。』『願いをつないで、あの日の僕らに会いに行く。』(共にスターツ出版)、『キライが好きになる魔法』(ことのは文庫)、『鎌倉お宿のあやかし花嫁』シリーズ(アルファポリス文庫)などがある。

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す