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柘榴石の花嫁 

「今日からここがおまえの部屋だ」
 ひろ家当主、のぶちかの分厚い手が肩に乗せられ、あかは顔を上げた。
「わたしの、部屋?」
 両親からは信親に従うよう言われていた。
 ──広江さまの言うことをしっかり聞くんだ。いいな?
 ──くれぐれも失礼のないようにね、朱織。
 朱織は父と母の言葉にうなずいた。心の半分では嫌だったけれど、それで両親が喜んでくれるならと思った。
 だから用意された馬車に乗り、長い時間をかけて信親の屋敷まで来たのだ。
 はじめての馬車はとても綺麗で、華族のお嬢さまにでもなったように心が浮き立った。同時に、みすぼらしい自分が乗ったりして汚してしまわないか、それが気がかりでもあった。
 もちろん、浮かれてばかりいたわけではない。信親がなにを求めているのかは理解しているつもりだ。
 だけど、今日からここがわたしの部屋とは?
 上背があり、恰幅のいい信親は体を折り曲げるようにして朱織を見下ろしている。くしゃくしゃに寄った目尻のしわ。吊り上がる口角。顔全体に笑みが張りついている。肩に乗せられた手に力がこもった。
「これからはなんの心配もいらない。食事も。寝床も。衣服も。すべて保障しよう。手仕事をする必要だってない。うれしいだろう、朱織」
 朱織はごくりと唾液を飲みこむ。声が震えないよう、お腹に力をこめた。
「あ、あの、信親さま……おとうと、おかあは?」
わたしがおまえの新しい父親になったんだよ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 信親は満面の笑みを湛えながら答える。笑っているのに、けれどその瞳には光がない。黒々と深い洞窟のようだ。
「山下の家のことは忘れなさい。今日からは広江朱織と名乗るんだ」
 言って、小さく首を横に振る。
「いや、名乗る機会は訪れないか。なにせ、おまえはもう死んだことになっているのだから、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「死んだ、ことに……?」
 信親の背後にはふたりの奉公人が控えている。彼らは朱織を見ようとしない。
 それは、この状況に後ろめたさを感じているからか。あるいは、紅い瞳の自分を恐れているからなのか。たった十二の小娘を?
 この場にいる者のなかでただひとり、信親だけは朱織を恐れる様子もなく、むしろ歓迎するように熱い息を吐き出す。
「さあ、わたしの柘榴ざくろひめ、広江家の益々の繁栄のために──石を」
 目の前に、広江家の離れに設えられた堅牢な十字格子、、、、、、、がそびえている。
 その向こうには畳まれた布団や文机、小さな桶が用意されていた。
 漆喰の壁に穿たれた明かり取りの四角い穴。真新しい木と畳のにおい。
 厳めしい錠前を見て、ああ、と悟る。そうか……。
 見送ってくれた父と母の笑顔が頭に浮かんだ。
 両親は、娘わたしを広江信親に売ったのだ。
「か、帰してください!」
 信親の手を振り払い、その場から駆け出そうとした。が、浴衣の後ろ襟をつかまれ、あっさり引き戻される。体勢を崩し、朱織は強かに腰を打った。
「つッ」
「まったく育ちのわるい娘はこれだからいけない。教育してやらねばな」
 信親が固く握りしめたこぶしを振り上げた。
「やめ──」
 反射的に目をつむり、両手で顔を守る。が、信親のこぶしはそれを易々と突き破った。顔面に衝撃が走り、勢いのまま床に後頭部をぶつける。世界がくらりと回った。鼻とくちびるが火を押しつけられたように熱い。
「あ、ぁあ……」
 涙で視界がかすみ、どくどくと鼻から血液が流れ出る。前歯で切ったくちびるからも唾液まじりの血がこぼれる。
 だらだらとあごを伝って、浴衣の胸もとが汚れていく──ことはなかった。
 ぽろん。ぽろん。ぽろん。
 流れ出た血液はまばたきする間に石へと変じている、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、紅く禍々しい宝石へと、、、、、、、、、、
嗚呼アア。素晴らしい。なんて美しいんだ。柘榴石」
 信親は転がった紅い宝石を一粒拾い上げると、光に透かすようにのぞきこんだ。
「すべてわたしの物だ。すべて。すべてすべてすべてすべてッ!」
 朱織はふたりの奉公人へ震える小さな手を伸ばした。
「た、助け……」
 彼らは、今度は目をそらさなかった。ふたりとも化け物を見るような視線を朱織に注いでいる。
 そのときすでに、殴られてできた傷口は塞がっていた。ひょっとすると、本当に自分は物の怪の類なのかもしれない、と朱織は思った。

 ガタン、という音とともに離れの扉が開かれる。牢のすみで膝を抱えていた朱織は顔を上げた。途端に叱責が飛んでくる。
「その気味のわるい目でこっちを見るんじゃないよッ!」
 盆を持った中年の女中だ。朱織は慌てて顔を伏せた。
「す、すみません」
「柘榴石なんてモンのせいで、おかしくなっちまった連中がごまんといるって話じゃないか。あたしにまで病気がうつっちまう。旦那さまみたいにありがたがってるお偉方の気が知れないよ。それにあんた臭うんだよ」
 シュ、と衣擦れの音がした。女中が袖で鼻を覆ったのだろうか。
「ああ、やだやだ。なんであたしが化け物の世話なんて。ほら食いモンだよ」
 とん、と音がする。これは彼女が畳に盆を置いた音だろう。
「あたしが出ていくまで顔を上げるんじゃないよ」
 間もなく女中が離れを出ていく気配があった。カチャン、と錠が閉ざされる硬質な音も。
 朱織はそっとまぶたを開く。女中が消え、離れは静けさに沈んでいた。
 畳に手をつき、四つん這いで移動する。格子の下には物を出し入れするための四角い枠が設けられているものの、盆までは遠い。
 その場にうつ伏せになり、枠から右手を伸ばす。辛うじて中指の先が届くかどうかという距離だ。肩に木の枠が食いこんでくる。
「く、う」
 盆の端に指が届き、引っかくように手繰り寄せる。信親は食事の心配はいらないと言ったけれど、食べ物が運ばれてくるのは二日ぶりだった。
 器に盛られているのはわずかな汁物と冷え固まった握り飯だけ。朱織は握り飯を手に取り、端をかじる。妙に泥臭く、咀嚼するたびじゃりじゃりと音がする。それでも飲みこんだ。椀をつかんで口をつける。ほとんど味がしない。
 ぽろぽろと涙がこぼれてくる。
 お父。お母。
 つぶやいた声は行き場もなく、くしゃりと潰れてかき消える。

 ガタン、と音がしても朱織は顔を上げない。そのように学習していた。牢のすみで膝を抱え、顔を埋めたままじっとしている。
「さあ、先生。よろしく頼みますよ」
 信親の声がした。
「おや、どうした、朱織。そんなところにうずくまって。それにずいぶん臭うな。清潔にしておかなければいけないよ。おまえはわたしの大事な柘榴姫なのだから」
 朱織はゆっくり顔を上げた。
 奉公人を従えた信親の隣に、黒い着物姿の男が立っていた。はじめて見る。狐のような顔をし、右手に鞄を提げていた。朱織を見て、一瞬腰が引けたように後ずさる。
「こちらはお医者のしま先生だ。おまえの体調管理をしてくださる。よく言うことを聞くように」
 信親が目配せをすると控えていた奉公人のひとりが十字格子の錠前を外した。開かれた扉から島津と紹介された医者が入ってくる。
 島津は朱織と目を合わせず、正座をすると軽く咳払いをした。「左手を」と要求してくる。促されるままに差し出す。島津は朱織の手首に指を当て脈をたしかめた。
「少し弱いが問題ないでしょう」信親に言い、視線は外したまま「体の不調は?」と朱織に問う。
 朱織は首を横に振った。乾いたくちびるで「ありません」と答える。
 ひとつうなずいた島津は鞄から小刀ナイフと小皿、硝子ガラスの筒を取り出し、並べていった。
 十字格子の向こうに立つ信親は顔全体で笑っている。
「では、柘榴石の採取に取りかかります」
 島津の宣言で格子の内側へ入ってきたふたりの奉公人は、朱織の左右にしゃがんで肩と腕をつかんだ。
「あ、あの、な、にを……」
 あまりの恐ろしさにまともな声が出ない。奥歯がガタガタ音を立てる。でも、男たちの力に抗えない。振りほどけない。
「や、やめッ……」
 左の男が朱織の腕を無理やり伸ばす。島津はナイフを握り、朱織の左の手首にその先端を突き立てた。
「つッ」
 腕を引こうとしても、びくともしない。傷口から血液が盛り上がる。
 島津は小皿を朱織の左手の下に添えた。そこへ、コロン、と硬化した血の玉が転がる。立ち上がった島津は、小皿を十字格子の向こうへ差し出した。
「いかがでしょう?」
 信親は小皿を受け取り、血の石をあらためる。
「ナイフで手を突けば、この程度の柘榴石がひとつ生まれるという寸法ですな」
「左様でございます。通常、狂想病エクストラバガンザニアの発症者は意図せぬ能力の発動を防ぐために条件づけをおこなっておくものですが、この娘はそれをしていません。強いて言うなら“血液を外気にふれさせること”が条件と呼べるかもしれませんが」
「なるほど。効率はよくないが、取引価格を一定に維持するには、量産はしないほうがいいでしょうな」
 信親はあごをなでさすった。
「もっと深い傷を負わせれば、それだけ大きな柘榴石を採取できるのですか? 例えば腹を裂いたらどうなるでしょう? それでも傷は塞がりますか? 指を切り落としても押しつければ元通りになる?」
「現時点では答えかねます。山下夫妻によれば、たいていの傷は完治するとのことですが、どの程度までであれば修復可能なのかは試してみないと」
「そうですか。では、やってみてください。ただし殺したりはしないように」
 ぞくりと寒気がする。このふたりはなんの話をしているのだろう。腹を裂く? 指を切り落とす? だれの? ……わたしの?
「い、嫌ッ!」
 朱織は左側にいた男の手に思い切り嚙みついた。悲鳴が上がり、男の力が緩んだ隙に懸命に一歩を踏み出す。が、十字格子の小さな扉の前に信親が立ち塞がり、あっけなく道は閉ざされた。
 彼の足が腹部にめりこみ、朱織はその場で嘔吐した。腹部を押さえ、吐しゃ物のなかに顔を沈めながら体を丸める。息ができない。
「駄目じゃないか、朱織。父を困らせないでおくれ」
 内臓がめくれ上がるような痛みにあえぎながら、信親の冷たい声を聞く。と、髪の毛をつかまれ、顔を上げさせられた。
「うッ……く」
 涙でにじむ視界のなか、信親があの笑みを浮かべている。
「いい子にしているんだ。いい子にね」
 振り上げられたこぶしが、顔面に叩きこまれる。

 牢での生活はつづいた。
 朱織が閉じこめられている離れには食事や排泄、桶の水の交換などの役割を担った者が定期的にやってくる。だが、それ以外では何者も近づかない。常に世界から隔絶されたような静寂を保っていた。壁に設けられた明かり取りから助けを求めても返事はなかった。
 はじめのうちは毎日泣いていた。
 けれど、次第に涙も出なくなった。
 期待してはいけない。望んではいけない。希望を手放せば、苦痛はない。
 見るなと命じられれば目を伏せよう。愛想がないと言われれば微笑を浮かべよう。なにも感じてはいけない。考えてはいけない。

 月に数回、医師の島津が現れて、朱織の体調を確認し、血を奪っていく。
 信親の命を受けた島津は、どの程度の傷であれば修復が可能なのか、実験をくり返していた。傷の長さ、深さを計測しながら、少しずつその範囲を広げていく。
 どの傷も必ず塞がった。けれど、大きくするほどに、完治までに時間がかかることがわかった。
 これは修復能力に限りがあり、指の切断や腹部の切開をおこなった場合、元に戻せない可能性を示唆していた。当然ながら致命傷を負えば、死に至る。
 また、流れ出る血液の量が多すぎると綺麗な球体とならず、いびつになってしまうことも判明した。

 あるとき、ひどい熱病にかかった。不衛生な場で寝起きし、食事もまともに与えられていなかったため、傷の治りがいつになく遅く、そこから細菌に感染したものと思われた。
 全身が汗だくで、意識がもうろうとし、うまく息を吸うことができなかった。死ぬのかもしれないと思った。
 怖かった。怖くて怖くて怖くて、でも死ねば、もう苦しいことも悲しいことも感じなくていいのかもしれないと思った。だとしたら……。
 二日間ほど記憶が飛んでいる。朱織は死ななかった。
 回復途上の朱織の世話役として、セツという名の女中が新たにやって来た。三十半ばと思われる物静かな彼女は、朱織を「お嬢さま」と呼んだ。
「わ、わたしが、お嬢さま……?」
「旦那さまからそのように言いつかっております。訳あって離れでの生活を強いられてはいますが、広江家の大事なお嬢さまだと。ですから、きちんと食事を与え、清潔にするようにとのことです。前任者はそれを怠り、お嬢さまをご病気にさせたとか」
「あの……ま、前の女のひとは、どうなさったのですか?」
「くわしいことは存じませんが、お屋敷を出て行ってしまわれたようです。荷物もそのままだったそうで、大方、男でもできたのではないかと」
 本当にそうだろうか? と思った。自分が信親にとって“大事な柘榴姫”であるのなら、あの女中は……。
 セツは淡々と雑務をこなした。彼女もまた、朱織を見ない。いや、目が合うこともある。だが、そうするとセツは怯えたように視線をそらした。
 そのくらいのことではもう傷つかなくなっていた。食事にゴミが混入するようなことがなくなり喜ばしいくらいだ。
 島津による実験は中止となった。朱織が健康体を維持することが、なにより利益を生むと信親は考えたようだ。暴力を振るうこともなくなった。
 その代わり、彼は手ずから朱織の肌にナイフを突き立てることを好んだ。傷口から流れる血が石に変じる瞬間、彼はいつも恍惚とした表情を浮かべる。そうして満足すると、朱織に向かって感謝と謝罪の言葉を口にし、閉じた傷口をなでさすった。時には美しい着物や髪飾りを置いていくこともあった。信親の美しい妻や三人の娘のお下がりだろう。どれも綺麗なのに、それらはどこか古びていた。
 彼女たちは決して離れには近づかない。朱織を気味わるがってか。感染を恐れてか。そもそも存在しないものと思われているのかもしれない。
 彼女たちと顔を合わせることがないまま朱織はひとつとしを重ねた。
 幼い弟を背負いながら両親を手伝い、水揚げされた魚をさばいたり、鶏の世話をしたりしていたのはもはや遠い過去だ。かつて日に焼けてあんなにも黒かった肌は、すっかり白くなってしまった。

 セツは朱織に文字を教え、本や新聞を持参した。
 物語の世界に浸るとき、束の間、この牢の内側から自由になれる。
 けれど顔を上げれば、そこには十字格子が厳然と存在する。
 待遇が改善されたからといって、ここから出られるわけではないのだ。
 なにも期待しない。なにも望まない。
 食事を口に運び、一日静かに本を読み、固く絞った手拭いで体を清め、眠る。
 従順であれ。逆らうな。
 感じなければ、考えなければ、牢の内側の生活もわるくないのかもしれない。
 こんなふうに思う自分は、どこか壊れてしまったのだろうか?

 ピリピリリ。
 鳥の鳴き声がして、格子にもたれて本の世界に潜っていた朱織は顔を上げた。明かり取りに鮮やかな青色の鳥が止まっている。オオルリだ。
 朱織は本を置き、盆の上にわずかに残っていた米粒を手にして、立ち上がった。文机を壁際に寄せ、その上に乗り、手を伸ばす。
「食べる?」
 けれどオオルリは見向きもしない。首を傾げ、美しい声で鳴くばかり。
「そう」
 朱織はじっと鳥を眺めた。
 紅い瞳で見つめられても、鳥が気にすることはない。
「だれにも捕まらないでね。好きなところへ、飛んでおいき」
 わたしの代わりに──。
 朱織の願いなど素知らぬ顔のオオルリは、前触れもなく飛び立った。
 四角い空を見上げる。
 澄んだ青を背景に、その姿はもう見えない。


 第一話 柘榴姫

「お嬢さまは、鞘の会をご存じですか?」
 鈴のような軽やかな声を背中で聞き、朱織は振り返った。長い黒髪が藍色の浴衣の肩を滑り落ちる。
「サヤノカイ?」
「あ、いけません」膝立ちになっていたまつが朱織の頭の位置を直す。「前を向いていてくださらないと」
 まちねずの小袖を着た由羽は、右手に持ったくしで朱織の長い髪をとかしていく。
 ふっくらした頰とどんぐりのような目が愛らしい由羽は、広江家へ奉公にやられた少女だ。齢は十六で、朱織とはひとつちがう。実家は米農家とのことで、上に兄がふたり、下に幼い弟がひとりいるという。
「鞘の会は狂想病エクストラバガンザニア発症者による犯罪集団ですよ」

 きょうそうびょう──Extravaganzaniaエクストラバガンザニアは、原因不明の奇病だ。
 高熱と全身の激痛に苛まれること三日三晩、命を落とす者は数知れず、けれど生死のふちから生還した暁には異様な能力が顕現する。
 ある者は体が宙に浮き、ある者は触れた物体を凍結させる──病。
 ほうそう(天然痘)と同様、古くは『ほん』に症例の記載があるものの、天然痘とは由来が異なり、狂想病は自然発生的だったと考えられている。
 というのも狂想病はひとからひとへ感染することがないのだ。少なくとも、これまでにそうした報告例はなく、あったとしても偏見による流言の域を出ない。
 病を防ぐ手立てはないとされ、元号が慶応から明治に改まって三十年を経た現在でも、治療法は確立していなかった。

「鞘の会の主張によれば、狂想病は天より与えられた才能であって管理されるべきものではないそうです。各々が抜き身の太刀であるとの意味をこめ、鞘のみを携帯しているのだとか」
「ああ、それで鞘の会。最近、新聞を読んでいなかったものだから」
「昨夜、月島で商船を襲ったそうです。積み荷を強奪して、まんまと逃げおおせたって聞きました。おお怖い。まったくけいの方々はなにをしているんでしょう。ちゃんと取り締まってくださらないと」
 由羽は朱織の髪をすきながら、小さく憤慨する。

 狂想病には治療法がない。
 ゆえに、一度発症すれば一生つきあっていかなければならない。
 偏見を恐れ、病をひた隠しにする者もいれば、獲得した異能を世のために有効活用する者もいる。あるいは、それを犯罪に利用する者も。
 明治七年、内務省の主導により設置されたとうきょう警視庁は、士族反乱に対処するため一度は東亨警視本署へと改められたが、西南戦争後の明治十四年に再設置された。
 その際、狂想病発症者による犯罪に対応すべく新たに専門部署が設けられることとなった。
 こうじ町の第一庁舎から分離し、おと町に新設された部署こそが異刑部である。

「朱織お嬢さまも出歩くときはくれぐれも──」
 失言に気づいた由羽は、咄嗟に口を押さえようとして十字格子に腕をぶつけた。
「あ」
 持っていた櫛が畳の上に落ちる。
「も、申しわけありません。あの、あたし……」
「ううん。気にしないで、由羽ちゃん」
 朱織は落下した櫛を手に取り、結び目をほどくように微笑んだ。
「わたしも気にしていないから」
 格子の向こうへ櫛を差し出す。朱織がいる座敷牢の内側と、由羽のいる外側。ふたりの間には木製の格子が厳然と存在し、住む世界を明確に区分している。
 由羽もまた悲しげな笑みを浮かべ、櫛を受け取った。
「どうぞ、前を向いていてください」
 言われるまま正面へ顔をやる。白い漆喰の壁に穿たれた四角い明かり取りの向こうに、わずかに空が見える。雲が出てきただろうか。一雨ありそうだ。
 格子の向こうから伸ばされた由羽の手が、再び朱織の髪にふれる。
「お嬢さまの髪はとてもお綺麗です」
「由羽ちゃんが丁寧にとかしてくれているから。いつもありがとう」
「そんな、あたしなんて、ぜんぜん……」
「由羽ちゃんの髪型も素敵」
「ありがとうございます。うれしいです。これはマガレイトというんですよ」
「マガレイト?」
「編んだ髪をくるっと輪にする結び方です。若い子たちの間で流行っているんです」
「なんだかむずかしそう。由羽ちゃんは器用なのね」
「いえいえ、これが実は簡単なんです。今度、教えて差し上げますね」
 話しながらも由羽は手を止めず、朱織の髪を素早くまとめていく。
「さあ、できましたよ。いかがですか?」
 差し入れられた柄鏡に、自分の顔が映っている。
 死人のように白い肌と紅い瞳が、われながら不気味だ。年頃の少女らしいふくよかさに欠け、まるで病弱な少年のようだと思う。半結びの髪を束ねる天鵞絨ビロードのリボンが致命的に似合っていない。唯一、鏡で反転した左前の浴衣だけが自らにふさわしく思えた。
 広江家の養女として迎えられてからの五年間、朱織は離れに設えられたこの牢から外へ出たことがない。これからもその機会が訪れることはないだろう。
 従って、出歩くときの心配事などひとつとしてないのだった。話し相手は限られ、情報を得る手段は新聞や本だけ。それも毎日与えられるわけではない以上、鞘の会なる犯罪集団について知識がないのも当然で、この四畳半が、安全で、寒々しい、朱織の世界のすべてだった。

 七つの齢で狂想病を発症した朱織は、瞳の色が赤みを帯び、流れ出た血が石へと変じるようになった。
 血液は体内にあるうちはどうともない。しかし外気にふれるとたちまち硬化する。
 すぐさま、そのことに価値を見出した両親は、それを“柘榴石”と呼び、娘を“柘榴姫”と称して喧伝した。
 父に押さえつけられ、母が指先に針を刺すとき、いつだって悲しかった。朱織が痛みで泣くと弟たちも泣いた。柘榴石を手にした両親は、涙を流す子どもたちなど存在しないかのように、奇妙に目を輝かせていつまでもそれを眺めていた……。
 柘榴石には高値がついた。欲しがる者が増えるほどに値は上がる。
 収入が増え、着る物が変わった。食事に困ることもなくなり、父は漁に行くことをやめた。母も朱織も手仕事から解放された。
 ──朱織のおかげだ。ありがとう。ありがとう。
 ふたりがうれしそうだと、朱織もうれしかった。家族の役に立てるのなら、少しくらい痛くても我慢できると思った。両親が大好きだった。
 一方で、自分たちが村のなかで異質な存在と見なされていることにも気づいていた。だれも朱織と目を合わせない。近づくと、みんな逃げてしまう……。
 噂が噂を呼び、やがて新聞にも取り上げられ、ついに柘榴姫の名は帝都にまで知れ渡った。当時は、華族の遣いが石を求めて、朱織の住む漁村にまで買いつけに訪れるほどだった。
 海運業で財をなした広江信親もまた、柘榴姫に目をつけたひとりだ。五年前、朱織は百円(現在の約二百万円)の代価をもって広江家の養女となった。
 もっとも、そのことが公になることはなかった。人身取引はご法度だ。広江信親と両親は死亡届を偽造し、柘榴姫が亡くなったことにしたのだった。
 結果、柘榴石は高値を維持する。新たに生産されないとなれば当然だ。
 時折、闇市場に出品される柘榴石はひとびとを魅了してやまない。
 石は美しいばかりでなく、不思議な力を宿していた。懐に入れて持ち歩くだけで気分が高揚し、患部に押し当てれば回復を早める。集中力を高め、運動能力を向上させてくれさえする。
 ただし長時間、視界に入れつづけてはいけない。それを破ると精神に悪影響を及ぼし、やがて理性を失わせる。信親が朱織を傷つけることに快感を覚えていたのも石の魔力と無関係ではない。

「お嬢さん。お食事を持ってきました」
 渡り廊下より声がして、由羽が「どうぞ」と応じる。
 開かれた戸から盆を持った青年が入ってきた。
「なんだ、由羽、いたのか」
 松来きよろう──由羽の次兄だ。
 目尻の下がった柔和な顔立ちで絣かすりの着物の下に丸首のスタンドカラーの襯衣シャツを着ている。彼は広江家に奉公しながら法律を学んでいた。
「なんだとはなんですか。由羽がいたらいけないのですか? それはなぜです? 朱織お嬢さまを独占できないからですか? なんとレンな。天罰が下るといいのです。具体的には、すべての猫に嫌われ、なでようとしたら必ず引っかかれる呪いにかかるがいいです!」
「地味に嫌な呪いだな……」
 妹の暴言に清志郎は困ったような笑みを浮かべ、小さく頭を下げる。
「失礼しました、お嬢さん。妹がおかしなことを」
 朱織のほうも居住まいを正す。
「いいえ。清志郎さんと由羽ちゃんがいると、心が和みます」
「そう言っていただけると、こちらも助かります」
 朱織が十四のときに、清志郎が広江家にやってきた。その一年後には由羽も。
 年齢が近いということもあり、信親は朱織の世話を主に松来兄妹に任せることにしたようだった。柘榴姫の生存を決して口外してはならないと言い含めて。
 ふたりはその約束を固く守っている。
 清志郎ははじめて朱織の瞳を見たとき、きっと恐怖した。病がうつるのではないかとの考えが頭をよぎったはずだ。でも、それを表に出さないよう努力した。理性を働かせ、狂想病が感染することはないと自らに言い聞かせた。朱織を傷つけると想像して。彼はやさしいひとだ。
 一方の由羽は、また変わっている。
「すごい! なんて綺麗な目! うらやましいです!」
 彼女は瞳を輝かせてそう言ったのだ。
 そのとき、「失礼なことを言うな!」と取り乱す清志郎がとてもおかしかった。
「失礼します」
 清志郎は格子の前で正座すると、下に設けられた四角い枠から盆を差し入れる。その一瞬に、彼はいつも痛みに耐えるような表情を浮かべる。
 あるいは、それは思い過ごしかもしれない。それでも清志郎がこのおこないを恥じ、傷ついていると感じられる瞬間に、朱織はわずかに救われる。
 こんな醜い感情を知ったら、この兄妹は自分を軽蔑するだろう。だから胸のうちに閉じこめて絶対に逃がさないでおく。
「いいところを見繕ってきたつもりなんですが、こんなものですみません」
 盆にはわずかな麦飯と薄い汁物、魚の干物が一切れと漬物が載っていた。
「いいえ。これで十分ですよ。あまりお腹もすきませんから」
 朱織が微笑むと、清志郎は眉を下げ、場が静まる。その静寂を埋めるように、由羽が「それよりも!」と声を上げた。
「こんなに素敵な朱織お嬢さまを見て、キヨ兄さまは、なにも感想をおっしゃらないつもり? このひる行燈あんどんめ」
 兄に尻からぶつかっていく。
「なんだよ」
 清志郎は妹の尻を押し返しながら朱織へと視線をやる。
「お嬢さんがいったい──」
 そこで目を見開いた。とかされた朱織の髪が新たなリボンでまとめられていることに気づいたようだ。
 朱織は視線を落とす。なんだか耳のあたりが熱い。
「とてもよくお似合いです、お嬢さん」
 その声にゆっくり顔を上げる。
 十字格子の向こう、清志郎はやわらかな笑みを浮かべていた。
 彼の言葉がうれしくて、だから、とても悲しい。

  ◯

 雨滴が瓦を打つ音がする。日が暮れて、やはり降り出したらしい。洋燈ランプの灯りが離れの壁に十字格子の影を刻んでいた。
 固く絞った手拭いで体を清めた朱織は、浴衣をまとい細帯を巻いてゆく。
「朱織お嬢さま、それでは失礼します」
 背後より声がかかる。女中のセツは湯を張った金盥とランプを手にしている。松来兄妹がやってきてから頻度は減ったものの、彼女も変わらず朱織の世話をしてくれていた。
 由羽によれば、ずいぶん昔に娘を亡くしているのだという。ひょっとすると、朱織に喪われた命を重ねているのかもしれない。
 振り返った朱織は、「はい。おやすみなさい」と答える。
 セツは一礼して、静かに離れを辞した。
 光源が失われた座敷は闇に侵食される。空はまだ明るいものの、四方を壁に囲われたこの場所はすでに夜の領域だ。ランプを自由にすることを許されていないので、こうなっては満足に読書もできない。
 畳の上に横になる。長い髪が顔を覆ってくすぐったい。けれども払わない。座敷にはかすかにランプの石油の匂いが残っていた。ビロードのリボンを指にからめ、その手触りをたしかめる。由羽の温かな手の感触が、清志郎のやさしい笑顔が、思い出され、朱織はまぶたを閉ざした。
 なにも望んではいけない。外の世界を夢見てはいけない。
 自分はここで朽ちる運命にある。衣食住が保障されているだけ幸運だろう。
 だから悲しむなんてまちがっている。
 朱織はおさなのように膝を抱き寄せ、丸くなった。

 カチャン、と音がして、まぶたを開く。いつの間にか眠っていたようだ。きちんと布団を敷かなかったせいで、首の筋がかすかに痛む。
 と、体を起こした朱織の目に奇妙なものが映った。黒い、影が──。
「え?」
「大人しくしろ」
 押し殺した男の声がすると同時に口を塞がれていた。
 相手が顔を近づけてくる。暗闇のなか長い銀の髪が着流しの肩に垂れているのが見える。怪我でもしているのか顔の左半分をほうたいで覆い、露わな右の眼光は鋭い。金属の耳飾りをいくつもつけ、腰に鞘のみを差していた。
うずみのような紅い瞳。おまえさんが柘榴姫か」
 男の問いかけに、心臓が大きく跳ねる。
 柘榴姫は五年前に死亡したことになっている。広江家の離れに囚われていることは絶対厳守の秘密だ。漏らしたと知られれば、信親が直ちに制裁を加えるだろう。
 では、どうしてこの男がそれを知っているのか? そもそも、どうやって牢の内側へ? 先ほどの物音は開錠される音か? でも鍵は信親が持っているはずで……。
「おれはさわじんってモンだ。鞘の会で頭領をやらせてもらってる」
 鞘の会──由羽が話していた狂想病発症者の犯罪集団だ。
「可哀想に。こんなところに閉じこめられて血を抜かれるだけの人生なんて、犬畜生も同然だな」
 言って顔を歪める。一瞬遅れて笑ったのだと気づいた。
「なァ、お姫さん、外の世界で自由に生きたくはねえか?」
 外の世界? 自由?
 朱織が困惑していると、「お頭かしらァ」と、牢の外からべつの男の声がした。
「さっさと出ねえとまずいぜ。見つかると面倒だ」
 かなりの大男で、奇妙な仮面をかぶっている。花びらが散るようにただれた意匠で、おどろおどろしい。彼も腰に鞘を下げている。
「だそうだ。わるいが説明はあとだ。一寸ちょいと我慢してくれ」
 事前に用意していたらしい荒縄により、朱織は体の前で手首を縛られ、足も拘束さ
れてしまった。なにひとつ抵抗できないまま口に布を嚙まされる。
「協力的でいてくれりゃ、わるいようにはしねえよ、っと」
「──ッ!?」
 軽々と抱き上げられ、羞恥よりも恐怖が勝った。暴れることもできない。早鐘を打つ心臓。呼吸は乱れ、指先がしびれる。涙で視界がにじんだ。
 仁衛は音もなく離れを出ると、母屋へとつづく渡り廊下をそれて庭へ降り立った。いつの間にか雨はやみ、雲も晴れて、四月の夜空で星々が滴るように輝いている。
 ふたりの賊は暗闇を素早く移動していく。
 どこへ連れて行かれるのか。助けて。だれか。
 脳裏に笑みを浮かべる清志郎が浮かんだ。頰をふくらませる由羽の顔も。
「塀を飛び越える。心の準備をしてくれ、お姫さん」
 大男は仁衛を追い越すと、瓦土塀の際で向き直った。両手を握り合わせて腰を落とす。
 あの手を足場に跳躍するつもりなのだと理解して、朱織は強く目をつむった。
 布を嚙みしめる。
 直後に、ザッ、と地面を蹴る音がした。口を塞がれていなければ悲鳴を上げていたことだろう。
 体が浮く感覚がして、着地の衝撃がそれにつづいた。
「お頭。その女が?」
 新たな声に恐る恐るまぶたを開けると、見張り役だろうか、塀の外には彼らの仲間がふたり控えていた。ともに仮面で顔を隠し、腰には鞘、ふたりがかりで縄を引いている。それを伝い、先ほどの大男が塀を越えて着地した。
「ああ。情報通りだ」
 応じる仁衛にうなずき、ひとりが仮面をずらして口笛を鳴らした。ガラガラと車輪の音を伴い一頭立ての荷馬車が灯りもつけずに近づいてくる。辛うじて屋根がこしらえられているものの、強風でも吹けばバラバラになってしまいそうな粗末な馬車だ。
 抱えられていた朱織は停車したそれの荷台に降ろされる。
「乗り心地の保証はできねえが、もうちょい辛抱してくれや」
 自身も荷台に飛び乗るや、仁衛は「出せ」と御者に命じた。すみやかに馬車が走り出す。揺れる荷台の上で、御者を除いた七人がこちらを見ている。
 朱織は震えながら身を縮めた。周囲は静けさに包まれ、馬の蹄と車輪の音がよく響く。
 だれか、この音に気づいて。助けて。清志郎さん。由羽ちゃん。
 願ったそばから心は分裂する。助かるわけがない。なにを期待しているのだろう。無駄なのに。諦めればいい。なにも望むな。そうすれば傷つかない。
 力が抜けた。ごとん、と額を床板に押しつける。
 賊の目的が柘榴石であるならば、命までは取らないだろう。柘榴姫には生きつづけてもらわなければならない。これまでの十字格子からべつの十字格子へ移されるだけのこと。なにも変わらない。あるいは以前より丁重に扱ってもらいさえするかもしれない。受け入れよう。なにも感じなくていい。なにも考えない。なにも……。
 ピリピリピリピリピリピリッッッ!
 突然、呼子笛ホイッスルが静寂を切り裂いた。馬がいななき、反射的に朱織は身をすくめる。
「止まれッ! 止まれッ!」
 泥水が跳ねる音がした。荷馬車を囲む、大勢のひとの気配がある。
「お頭ッ! 異刑部の連中だッ!」
「隠密行動ってのは、どうにも性に合わねェ」
 仁衛は舌打ちをすると、右目で朱織を見下ろした。
「お姫さん、すまねえが少しばかり荒れそうだ。ここで大人しくしていてくれ」
 言うが早いか、仲間たちに目配せをして荷台から飛び降りる。
 拘束され自由を奪われたままの朱織はその場で固まっていた。次から次へと舞いこむ異常事態に理解が追いつかず、心臓だけが暴れつづけている。
「よお、明治政府の犬ども」仁衛の声が聞こえてくる。「こんな時間までお勤めたァ、ご苦労だな。まったく頭が下がる」
 どう考えても不利な状況だろうに、あくまでも不敵だ。
「わるいんだが急いでるんだ。ここを通してもらおうか」
「なぜ、ここを通れると考えているのか、理解に苦しむな」
 仁衛の軽口に答える声があった。艶のある男声テノールだ。
 朱織はささくれた床を這い、荷台の破れ目からそっと外の様子をうかがう。
 荷馬車は詰襟の制服を着た警官たちに囲まれていた。がんどうで足元を照らし、皆、警棒を隙なく構えている。
 それから──。
 濃紺の夜を背負って、ひとりの青年が立っていた。恐らく仁衛に答えたのは彼だ。左肩が外套ペリースで覆われた詰襟姿で、髪を後ろになでつけている。腰に下げた軍刀サーベルをひと息で抜き、その切っ先を仁衛に向けた。
「全員逮捕する。観念しろ、伊澤仁衛」
 警棒を構えた警官が包囲網を狭めてゆく。
「わるいがおまえさんの手柄に貢献する気はないんだよ、藤司ふじつかさ警部殿」
 皮肉めいた仁衛の言葉が合図だったかのように、例の大男が、ダンッ、と右足を踏み鳴らした。途端に空気が騒ぎ、朱織の産毛も逆立つ。ぬかるんだ地面が小刻みに波打っていた。

  *

続きは1月5日ごろ発売の『柘榴石の花嫁 鳥籠の乙女と闇の剣士』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
にかいどう青(にかいどう・あお)
神奈川県出身。作品に「ふしぎ古書店」シリーズ、「世にもふしぎなSCPガチャ!」シリーズ(以上講談社)、『ポー短編集 黒猫』〈原作/エドガー・アラン・ポー〉、『雪代教授の怪異学 魔を視る青年と六角屋敷の謎』(以上ポプラ社)など。

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