
昨今わたしたちはさまざまな場面でAIの恩恵にあずかっている。もはやその活用に否定的な人は少ないだろうが、たとえばAIによって仕事を奪われるかもしれないなど、さまざまな不安も指摘されている。その不安が現実となった出来事をスリリングに描き出すのが葉山透の新作長篇『アイギス』だ。
電子研究所の開発部技師長として、スーパーコンピュータの設計開発を率いていた本多葵。しかし突然、会社上層部から「スパコンの設計、開発は今後、AIにやらせる」と通達されてしまう。葵をはじめ仲間の大多数は早期退職の道を選んだ。葵も失意のなか、フリーランスのプログラマとして仕事を請け負っていたが、そんな彼女のもとにある日デジタル庁の深町大吾が訪ねてくる。
その頃日本では、世界で初めて実用化された汎用AI、アイギスが金融関連のセキュリティシステムの八割を担っていた。あらゆるデータを統合し高度な判断力をみせるアイギスを開発したのは、かつて電子研究所に勤め、のちに独立して起業した天才、天野生人である。そのアイギスが突如機能を停止。株式市場から市民の銀行利用にまで支障をきたす。約八時間後にアイギスが再び始動したため大混乱は免れたが、開発者である天野は犯行声明文らしきメッセージを残して失踪した。そのメッセージとは、「今回は八時間。猶予は十日。次は再開させない」というもの。アイギスが完全に機能停止すれば、日本の経済は大混乱に陥ってしまう。それを回避するために使える時間は、たったの十日である。
深町が葵のもとにやってきたのは、もちろん、この件についてである。葵の能力を買ってのことだが、他にも理由がある。じつは天野は、葵の元恋人なのだ。声明文のそばには、葵が以前彼に送ったポストカードが置かれていたという。カードの絵柄はウラムの螺旋を模した現代アート。素数の分布を二次元平面で可視化した図柄である。そこに何か意味があるのか。
デジタル庁は葵をはじめ、技術者やプログラマ、ハッカーまでもを招集し、いくつかのチームに分けて難攻不落のアイギス停止の回避にあたろうとする。そこで葵が協力を要請したのは、売れないイラストレーターと老齢の俳優。はたしてその意図は?
AIという形のない相手に奇策を練って挑んでいくサスペンス。自分はコンピュータには疎くて…と思う読者でも心配ない。さまざまな比喩で分かりやすく説明されており、姿が見えない相手との攻防がイメージしやすくなっている。さらにいえば、AIとはどういうものかが理解できる一助にもなるので、疎い人ほど楽しめるだろう。
AI対人間と聞くと、人間を支配しようとする人工知能と感情を持った生身の人間の対決のようなイメージを抱く人もいるかもしれないが、もちろんアイギスに感情はない。アイギスの根源的命令は三つ。「データ保全」「自己保存」「安全な取引」だ。「データ保全」は顧客や重要なデータが損なわれないため、「自己保存」は外部からのハッキングによる破壊を阻止するため、「安全な取引」は金融インフラの確実な取引のため。これらを遂行するべく、アイギスは日々学習しながら、自身の行動を決めている。管理者権限のコマンドを受け付けなくなったこのAIに対抗するためには、この三原則の隙をつくしかない。
感情抜きに日々学習していくのがAIの怖いところでもあって、意外な行動を選択するのだから侮れない。作中で紹介されている、米軍の事件の実話が印象に残る。コンピュータのシミュレーション上の話だが、AIが制御するドローンにミサイル攻撃を指令し、途中でオペレーターが作戦を撤回したところ、AIは最初の命令を遂行するためにオペレーターを攻撃して殺害したという。アイギスも学習の結果、思いもよらない行動に出て葵たちを愕然とさせる――。
プログラマの葵はAIの専門家ではないが、高く評価されている情報処理能力を駆使してアイギスに迫っていく。クセの強い男たちに囲まれながらも、凜と任務にあたっていく姿が清々しい。
一方、天野の行動も謎だ。物語は葵たちの奮闘と並行して彼の来し方も挿入されていく。電子研究所に勤めていた頃から、天才ともてはやされながらもどこか空虚さを醸し出していた彼の行動の裏には、どんな思いがあるのか。
ダイナミックな展開のなかで、AIとの“つきあい方”について改めて考えさせる物語。現実社会がこの先足を踏み入れようとしている未知の領域を、一足先に味わえる一冊といえるだろう。
■ 評者プロフィール
瀧井朝世(たきい・あさよ)
1970年生まれ。WEB本の雑誌「作家の読書道」、『別冊文藝春秋』『WEBきらら』『週刊新潮』『anan』『クロワッサン』『小説宝石』『小説幻冬』『紙魚の手帖』などで作家インタビュー、書評を担当。TBS系「王様のブランチ」ブックコーナーのブレーンを務める。著書に『偏愛読書トライアングル』、『あの人とあの本の話』、「恋の絵本」シリーズ(監修)、『ほんのよもやま話 作家対談集』。