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第2回

雨が降ったら 第二話

 ユニバーサルシティ駅を出て一歩踏み出す瞬間、杏子きょうこはかならず、あえて顔を伏せる。脈がはやくなるのを深呼吸で抑える。一、二、三、と数えて、それからぱっと顔を上げる。大好きな風景だから、改札から吐き出される大量の人びとに紛れて歩いていくうちになんとなく視界に入ってくる、なんていうのは嫌なのだ。
 大きなテディベアに抱きつくみたいに。カラフルなボールプールに飛びこむみたいに。全身で、いちどきに、まっすぐに受けとめて、喜びを解き放ちたいのだった。
 駅からユニバーサル・スタジオ・ジャパンの入り口までのこの道はユニバーサル・シティウォーク大阪の一部で、ホテルやレストラン、飲食店やショップなどがすきまなく並んでいる。この風景は、杏子に高校生の頃大好きでよく食べていたゼリービーンズやグミキャンディのパッケージを思い出させる。そんな身体に悪そうなもの、と母の眉をひそめさせた、あの脳がしびれるほど甘い、毒々しい色のお菓子たち。
 ここを通る人は、自然と早足になる。一刻もはやくユニバーサル・スタジオ・ジャパンの中に入りたいという気持ちが勝るのかもしれない。杏子もはやる気持ちはあるが、あえてゆっくり、ゆっくりと、一歩ずつ踏みしめるようにして歩く。なぜって、楽しみはもう、ここからはじまっているのだから。
 ここに来る時は、たいていひとりだ。大好きな場所にこそひとりで来るべき、というのが杏子の持論だった。自分の心が納得するまで、楽しみつくしたい。味わいつくしたい。全力で向き合いたい。他人のペースになんか合わせていられない。
 前方に外国人観光客のグループが数名でかたまっている。頰を寄せ合い、スマートフォンを持った腕を伸ばして、自分たちと風景が首尾よくフレームにおさまるように苦心しているようだ。写真を撮りましょうか、と声をかけようか迷ったが、黙って通り過ぎた。あんなふうに自分たち自身で撮るのが楽しいのかもしれないし、と思う。杏子は自撮りというものをあまりしない。遊びに行った時に写真を撮るのは好きだけれども、自分の姿がそこにうつっていなくてもいっこうにかまわない。
 そうだ、わたしもこの風景を撮っておこう。もう何度も来ているけど、今日この日のこの場所には、二度と来られないんだもの。勇んでバッグからスマートフォンを取り出し、着信に気づいた。
 くっと眉間に力が入ってしまう。電話をかけてきたのは野原だった。
 登録名は野原のはら(出なくていいほう)となっている。登録そのものを消してもよかったのだが、忘れた頃に電話がかかってきた時に誰だかわからず出てしまう可能性もあるし、かといって着信拒否すると、角が立つかもしれない。
 悩みに悩んで、同名の同僚である、こちらはとてもいい人である野原さんの存在も考慮した結果、このような登録名になった。
 着信の通知を消去し、なにごともなかったようにスマートフォンのカメラを起動し、手早く撮影を済ませた。
 さあ、このことはもう考えない。これからうんと楽しい一日を過ごすのだ。今更なんの用だろうとか、そんなことを考えていたらだいなしだ。
 昔の男なんかに、だいなしにされてたまるか。

 ひと月に一度はユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行く。もちろん年間パスも持っている。交際していた頃にそんな話をして、野原に「若いね」と言われた。おれはもうテーマパークとかそういうの興味ないなぁ、と。
 その数週間前にも野原は同じ言葉を使っていた。奇跡の五十歳と呼ばれている、フリーアナウンサーの美しい女性の容姿にたいして「若いなあ」と。そちらは純然たる賛辞だったが、杏子にたいする苦笑交じりの「若いね」は、あきらかに違った。
「あ」と思った。嫌だな、とか、腹立つな、とかではなく、ただ「あ」とだけ思った。
 直感はまちがえない、と言ったのは誰だっただろうか。直感はまちがえない、判断をまちがえるのである、みたいなやつ。
 杏子もまちがえた。「あ」を飲みこんで、そのあとずるずると一年もつきあってしまった。たぶんこの男と別れたらあとがない、と思っていたからだ。自分と結婚したがる男などこの先現れない、と。
 それからさらにまた二年の月日が流れて、杏子は自分の「あとがない」という予想が正しかったことを知った。
 先月、四十三歳の誕生日を迎えた。野原と別れてからは、色恋沙汰とはてんで縁のない生活を送っている。
 十代の頃に想像した自分の将来は「だいたい二十代後半か三十代前半までには結婚して、子どもはひとり乃至ふたり。仕事は嫌いではないので、結婚しても続けるだろう、きっと」というようなものだったが、現状はまったく違っている。愉快だ。これからどうなっちゃうんだろ、と思う時、うっすらとした不安もありながら、連続ドラマの続きを待つようにわくわくしている。
 ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの入場ゲートを通り抜け、杏子はジュラシック・パークに向かう。日常生活で目にすることのない木々のあいだを通り抜け、行列に並ぶ。最初に向かうのはかならずジュラシック・パーク・ザ・ライド、そう決めている。
 太古の恐竜をよみがえらせたジュラシック・パークでボートに乗って楽しんでいる最中に思わぬトラブルに巻きこまれ……という設定だ。入場ゲート前に立ち、ここでもまた、喜びをかみしめる。
 すぐそばにはおそろいの、犬の耳のついたカチューシャをつけた若い男女がいる。他人の会話というのは、はっきり聞き取れてもなんの話なのかいまいちよくわからないことが多い。BGMのように、彼らの笑い声を聞く。
 ひとりで行動するのが好きだ、という人は、意外と多い。ひとり旅、ひとり酒、ぜんぜんいけます楽しめます、という女性と偶然知り合って話していた時に「でもひとりユニバは、かなり難易度高くないですか?」と問われた。
 以前は、杏子もそう思っていた。でも違う、逆なのだ。なぜならユニバーサル・スタジオ・ジャパンには「シングルライダー」専用の列がある。ひとりぶんの空席を狙うことによって、待ち時間が大幅に短縮される。むしろ難易度の低い楽しみかただ。
 もちろん複数人で来た時でも、バラバラの席につくことを厭わなければ利用できる。シングルライダーの列の杏子の前に並んでいる女性たちもそうらしく、一列に並び、絶えず振り返って笑いかけたり、後ろから肩をつついたりしてはしゃいでいる。
 この場所を好きな理由のひとつ、と思う。みんな上機嫌でにこにこしている。それって最高。
 列が短くなってきた。杏子はリュックの中からレインポンチョを取り出し、着込みはじめる。前に並んでいる女性が「え、噓。そんなに濡れるの?」とあわてている。そうなんです、そんなに? と驚くぐらいに濡れるんですよ、と思う。言わない。思うだけだ。どんなタイミングで水濡れが発生するのかをくわしく説明したくなってしまうから口を開けない。ネタバレはよくない。
 レインポンチョに袖を通しかけて、杏子は「あ」と小さく呟く。脇のところに、数センチのほころびが生じていた。

 三分ぐらい遅れそう。

 若葉わかばくんがメッセージをよこしてきた。どこでなにをしているのか知らないが、今いる場所からこの店に着くまでのルート等を考慮したうえで、「三分の遅刻」と判断したのだろう。

 OK、先に入って待ってます。

 そう返信して、店のドアを開ける。スパイスの香りが鼻腔をくすぐる。厨房だけでなく、店内の壁紙やカーテンに染みついてしまったような、年季の入った香りだ。
 せまい店だが、幸運にも奥の席が空いていた。
 ひげをたっぷりとたくわえた店員の男性に「あとでもうひとり来ます」と告げる。彼は水をふたつ運んできて、メニューを置いて立ち去った。
 自分ならこんな時は「十分ぐらい遅れそう」と、想定される時間より長めに伝えるだろうなと、紙おしぼりでていねいに手を拭きながら杏子は思う。もしくは五分とか、キリのいい時間を告げる。
 連絡したあとに三分の遅れで済んだとする。相手は「わあ、杏子さん、すごくがんばって急いで来てくれたんだ」と好感を持ってくれるのではなかろうか。
 でも若葉くんは、そんなせこい印象操作はしないのだ。結果的に人から好かれやすいのは、小ずるい杏子ではなく若葉くんのような正直者だ。人間関係において、誠実さに勝てる小手先のテクニックなどありはしないのだ。
 もっとも、三分ぐらいの遅れならば、はなから連絡しない人もいる。野原がそうだった。いつも十分ぐらい平気で遅刻してきて、謝りもしない。「待たされる側の不安」を知らない、考えたこともない男だった。
 平素ならば思い出しもしない野原のことをまた考えているのは、昨晩も着信があったからだ。考えると気分が悪くなるので、もうやめやめ、と頭を左右に振って、メニューを開いた。おいしそうなビリヤニとカレーの写真が並んでいて、その瞬間に心は「チキンか」「いや、ここはマトンか」という幸福な悩みでいっぱいになる。
「ごめんごめん」
 若葉くんが到着した。胸の前で両手を合わせ、背中を丸めて縮こまっているが、そもそも身体が大きいのでぜんぜん小さく見えなかった。
「謝られるほど待ってない」
 正面に座った若葉くんに、メニューを差し出す。
「杏子さん、カレー?」
「ううん、今日はビリヤニって決めてきたから」
「おれもそやったけど、このメニューの写真がうまそうすぎて」
「うん。わたしもそう。あんま見せんといて、心が揺れる」
「揺れてはおんねや」
 若葉くんはおかしそうに笑って、ふたたびメニューに視線を落とした。
「サモサも食べたいねんけど、いい?」
「うん。頼もう、頼もう」
 若葉くんと食事に来ると、たくさん料理を注文できるのがいい。はじめてのお店に入る時は、あれもこれも食べてみたいから、若葉くんを誘う。
 若葉くんと知り合ったのは三年ほど前だ。立ち飲み屋でよく顔を合わせるようになって、だんだん仲良くなった。
 お酒も飲むが、たがいに深酒をするほうではなく、未知の食べものにたいする好奇心がちょうど同じぐらいであるところがよかった。食べ歩きが趣味です、と言えるほど行動範囲が広くなく、たいして身軽なわけではないというところも。おいしいものを食べたいという気持ちはあるが、「蕎麦を食べるために長野に行った」などという話を聞くと、「ええ……ようやるわ」とひいてしまうような感覚を、杏子も若葉くんも持っている。
 おたがいに苦手な食べものはほとんどない。料理をシェアするには最高の相手だった。インド料理ならば市内にいくつもあるが、ビリヤニならここがいちばんだと若葉くんが力強く言ったので、この店を選んだ。
「今ビリヤニにはまってんねん、わたし」
「自分でつくったりもする?」
「つくらへん!」
 男が「料理をするのか」という質問をしてくる時は、往々にして面倒な会話に発展する。すると言ったら「得意料理は?」というようなかったるい質問タイムに移行してしまい、しないと言ったら言ったで「できたほうがいいよ、料理は」という謎のアドバイスを押しつけられる。なぜ彼らは、自分には赤の他人の料理事情に首をつっこむ権利があると思いこんでいるのだろう? 長年の謎である。しかし若葉くんは嬉しそうに「おれもおれも」と自分の顔を指さしただけだった。
「ぜったい外で食べるほうがおいしいって思う」
「そう。そうよね!」
 料理が運ばれてくると、ふたりはほぼ同時にスプーンを手にする。神聖な儀式のはじまりの合図のようだと一瞬思い、すぐに料理のほうに意識がうつる。
 杏子はあまり器用ではないので、会話と食事を同時に楽しめない。若葉くんも、そうらしい。
 食事をする時は味わうことに集中したい。温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに食べたい。喋っていると、味がわからなくなる。
 だから食べ終わるまではお静かに。それがふたりで食事をする際のルールだ。
 食べながら、杏子は時折、若葉くんの様子をうかがう。おおいに味わい、満足していることはその顔を見ればわかる。会話はなくとも、料理を分け合う人がいるのはいいものだ。目の前でおいしそうに食べている人がいるのはいいものだ。杏子は数か月に一度の若葉くんとの食事を、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行くことの次の次の次ぐらいに楽しみにしている。
「ああ、おいしかった」
 空になった皿を前に、杏子はお腹をさする。
「食べたなあ」
「食べた食べた」
 食べ終えたら、さっと店を出る。長居はしたくない。そのあたりの感覚も似ている。
「腹ごなしにちょっと歩かへん?」
 若葉くんがめずらしくそんな提案をしてきた。明日は遅番で、断わる理由もない。
「ちょっとさ、杏子さんに聞きたいことがあって」
「うん」
「歯科健診って、行ったほうがいい?」
「そらそうよ」
 杏子は市内の歯科クリニックに勤めて、もう十五年以上になる。その前は総合病院で歯科衛生士をしていたのだったが、その総合病院に勤務していた先生が独立開業する際に誘われ、思い切って転職を決めた。
「若葉くん、四十、えっと」
 たしか自分よりひとつかふたつ年下だったはずだ。
「四十一。今年、二」
「定期健診、受けたほうがいいよ。男も女も四十代から歯茎がやせていって、歯周病のリスクがグァーン! と高まるからな」
「ええ……グァーンと?」
 若葉くんがおびえた口調で繰り返す。
「そうや。グァーン! や。今までは、行ってへんかったん?」
「忙しかったから……」
 若葉くんは現在、母親のわかば洋傘店という店を手伝っているが、以前は居酒屋の店長だった。
 食べることが好きだから、という理由で外食産業を選んだ。バイヤーになりたかったが店舗に配属された。店長になってからは、ほとんど休みがなかったという。たまの休みも、疲れ果てて布団から一歩も出られない。あんなに好きだった「食べること」すら億劫になって、最終的にゼリー飲料で生きていたので、一時期は今より十キロ以上も痩せていたのだそうだ。
 そんな状況なら、たしかに口腔ケアどころではなかっただろう。
「前の仕事は、忙しすぎるからやめたん?」
「うん。このままやったら死ぬ、と思って」
 働きすぎて死ぬなんてばからしい、と思ったらしい。
「賢明な判断やな」
「それは……どうやろ」
 若葉くんはすこしさびしそうに笑って、「で、歯周病ってやっぱやばいの?」と話を戻した。
「うん。かなり。歯ブラシの他に、フロスとか歯間ブラシとか使ってる?」
「いや」
「使って! いちばん大事なのはホームケアよ」
「どんなんがええの?」
「健診に行ったら、そこでいろいろ指導してもらえるはずやで。歯磨きのやりかたから」
 自分が勤めるクリニックに来い、とは、杏子は言わない。知り合いに口の中を見られることに抵抗を覚える人は多い。しかし職業柄、つい「歯周病予防ならこのマウスウォッシュおすすめ。あと歯磨き粉はフッ素入りのやつ、千四百ピーピーエム以上のやつがいい」と、止まらない。
 そんなに一気にいっぱい言われても覚えられへんよ、と若葉くんがあわてている。
「いいいい、覚えんくて」
 歩きながら、おすすめの口腔ケア用品の画像やURLをつぎつぎと送りつける。若葉くんはそれをたしかめてから「杏子さん、すごいな。仕事に情熱持ってんねんなあ」と感心したように息を吐いた。
「持ってないよ」
 ホームケアのくだり、ちょっと高圧的ではなかっただろうか。さきほどの自分のふるまいを省みる。得意分野について質問されたことが嬉しくて、つい熱がこもってしまった。
「そうかなあ。まあとにかく、ありがとう」
 ええよ、と答えてから、しばらく無言で歩く。
「ところで若葉くんが今やってるお店って、レインポンチョも売ってる?」
 自分の得意分野について滔々と喋っておいて、若葉くんの現在の仕事に触れないのはなんとなくフェアではないというか、会話の貸借が合っていない気がした。
「あー、あんまり種類はないけど、売ってるで」
「今使ってるのが、破れちゃってさ」
 水落ち系のアトラクションに乗る時だけではなく、杏子はふだんからレインポンチョを愛用している。傘は苦手だ。片手が塞がるし、どんなに気をつけていても歩いているあいだにリュックが濡れている。レインポンチョとレインブーツで歩くのが好きだ。みんなが避ける水たまりにも積極的に入っていける。
「じゃあ、明日買いに行こうかな」
 そう言いながら、もしかしたら高かったりするかな、と思ったりもする。ネットで買うほうが安かったりするかも。
「あ、じゃあいちおうカタログとかも用意しとくわ」
「うん、ありがとう」
 駅前に出たところで「じゃあ」と別れる。雨の日は嫌いではないが、新しいレインポンチョが手に入るまでは晴れていてほしい。

 若葉くんの口から「カタログ」と聞いた時、杏子はなぜかモデルが全員白人の、分厚い紙のカタログを連想した。おそらく実家の母のもとに届く通販のカタログの影響だろう。子どもの頃、ファッション誌代わりにそれを眺めていた。
 わかば洋傘店の「カタログ」は、タブレット上に表示されている。
「これなんか、華やかでええねえ」
 若葉くんの母であるスノさんの骨ばった指が、画面の上をゆっくりと移動する。「ゆっくり」なのは操作に不慣れだからではない。もともとすべての動作が遅いのだ。
 若葉くんはいない。なぜか杏子がやって来たのを見るなり、奥にひっこんでしまった。
「杏子さん。聞いてる?」
「あ、はい」
 スノさんが華やかであると評したのはまっ黄色の、つば付きのレインハットとセットになったレインコートだった。『おさるのジョージ』のジョージの友人こと黄色い帽子のおじさんを思い出しながら「違う色のほうがいいかもしれません」と控えめに拒否した。
「あら、そう?」
「あと、こういう前ボタンじゃなくて、頭からスポッとかぶれるようなポンチョのほうがいいです。通勤カバンがリュックなんですね、だから背負ったまま着られるやつがいいんです」
「はー、なるほどなるほど。わかりましたよ」
 このへんやね、とスクロールされた画面にはカーキやグレーといった地味な色のポンチョの画像が並んでいる。黄色は派手すぎるが、地味すぎるのもちょっと嫌だ。
 最初はどれでもいい、破れた安物よりはましだと思っていたのだが、いざカタログを見てみると、やはり欲が出てきた。
 今持っているものは、三十代後半の頃にフリーマーケットにて五百円で買った中古品だ。
「杏子さん。これとか、どう?」
 奥にひっこんだと思っていた若葉くんが姿を現した。ハンガーにかかったレインポンチョを見せてくれる。スカイブルーと紺の中間のようなさわやかな色合いの、袖と裾に白紺ボーダーの切り替えがある、すてきなレインポンチョだった。
「杏子さん、前に女性用の服はポケットが浅かったり、ついてなかったりする、って言うてたやろ」
 たしかに、そんな話をした。だからダウンジャケット等を買う時はメンズを選ぶと。
「これならじゅうぶんやろ」
 若葉くんはレインポンチョのポケットに五百ミリのペットボトルを入れてみせる。
「長財布も入る」
 おそるおそる値段を確認してみたが、想像していたより数千円安かった。
「これにする!」
 スノさんと若葉くんの顔がぱっと輝いた。まったく似ていない親子なのに、その表情だけはそっくりだった。
 壁の時計からオルゴールの音楽が流れ出す。時計は家の形をしており、文字盤の下の扉からトランペットを持ったクマやらバイオリンを持ったキツネやらが現れ、音楽がなりやむとまた姿を消した。
「お茶、飲んでいってちょうだいね」
「いえ、そんな。おかまいなく」
 あわてる杏子に、レジカウンターに屈みこむようにして包装していた若葉くんが「時間あるんやったら飲んでいって。どっちにしろお茶の時間やから」と声をかけてくる。この店では十五時はお茶の時間と決まっていて、その時間に居合わせた客はお相伴にあずかれるらしい。
「お菓子もそろそろ届きますよ」
「お菓子?」
 いったん奥に入っていったスノさんはやがて、急須と湯吞みをのせた盆をうやうやしく持って帰ってきた。湯吞みは四つある。店のドアが開き「こんにちは」とひとりの女性が姿を現した。杏子と同じぐらいか、すこし年上ぐらいに見えた。
「いらっしゃいませ!」
 女性は若葉くんの声の大きさに驚いたのか、一瞬上体をそらした。
「届いてますよ、傘」
「ありがとう」
 女性は『こまどり庵』という和風のロゴが描かれた白い紙袋をスノさんに差し出し、スノさんはにこにことそれを受け取った。
 スノさんは紙袋から小さな大福を取り出してひとつずつ皿にのせながら「この人、初佳さん。初佳さん、こちらは杏子さん。息子のお友だちの」とそれぞれに紹介してくれた。
「あ、どうも。曽根そねともうします。曽根杏子です」
 頭を下げると、初佳さんは「上村うえむら初佳です」と同じ角度のおじぎを返してくれた。
「ここの大福、好きなんよねえ」
「そうですね、わたしもこの辺ではいちばんおいしいと思います」
 若葉くんが引っぱり出して来たパイプ椅子に座り、お茶と大福をいただいた。若葉くんは「おれはここでいいから」と、レジカウンターの奥に立ったまま、ひとくちで大福を食べてしまう。
「編みもの、進んでる?」
 スノさんが初佳さんに訊ねた。初佳さんは杏子に「最近はじめたばかりで、スノさんにいろいろアドバイスをもらってるんです」と説明したのち「先月編みはじめたマフラーが、今やっとふきんぐらいの長さになりました」と答えた。
「まだまだ時間がかかりそうやねえ」
「気長にやります」
 杏子は手芸が苦手だ。編みものなんて、たとえお金をもらったとしてもやりたくないもののひとつだ。スノさんは「これ、このあいだ編んだの」とスマートフォンの画面をこちらに向ける。
 画面上のスノさんは赤と黒の太いボーダーのゆるいニットをぴったりした黒い革のパンツに合わせ、髪を逆立てている。「高齢の女性」と「編みもの」というキーワードから想像されるものよりずっとパンクだった。休みの日はいつもこんな感じなのだろうか?
「おお……かっこいい、ですね」
「そうでしょうとも」
 スノさんは当然とばかりに頷き、満足げにスマートフォンをしまった。そうでしょうとも、ですと? 杏子は目を瞠る。いつか誰かにほめられたら、自分もそんなふうに言ってみたい。
 大福を食べ終えた初佳さんはレジカウンターで「お待たせしました」と若葉くんに告げる。初佳さんは受け取った傘を、ゆっくりと開いた。ゴッホのひまわりが全面に描かれた傘だった。
 鏡の前でくるりとまわして「最高です」と笑う。初佳さんが傘の代金を支払っているあいだに、杏子も湯吞みに残っていたお茶を飲み干した。
「包装しますか?」
「そのままでだいじょうぶです。もうじき、ひと雨来そうやから。むしろ来てほしいかも、はやく使いたいもん」
 そんなことを言う初佳さんと、なんとなく一緒に店を出た。ひと雨来そうという彼女の言葉どおり、空は薄暗い雲に覆われている。
「その傘、いいですね」
 ななめ前を歩き出した初佳さんに声をかけた。真っ黄色のレインコートを着る勇気はないが、ゴッホのひまわりの黄色は素敵だ。きっと雨の日の薄暗い景色のなかに、太陽が出現したように明るくなるだろう。
「わたしね、もう黒い傘を持ってるんです。ちょっと高い、じょうぶなやつ」
 一生もんやと思って、と初佳さんは杏子に歩調を合わせるためか、一瞬立ち止まった。
「でもね、なんていうか、ぱっと気持ちを明るくしてくれるような、そういう傘があったらいいなあと思ったんです。それで」
「なるほど」
「いつも『ぱっと明るい』のは疲れるけど、そういうのが欲しい日もあるから」
 杏子は初佳さんの言ったことの意味をすこし考えて「わかるような気がします」と頷いた。
「こっちですか?」
 初佳さんが前方を指さす。どちらに向かうのか、と訊ねられているらしい。
「家はこっちなんですけど」
 十字路の右を指さして「職場に忘れ物したんで、まっすぐ行きます」と続けた。化粧ポーチをロッカーに入れっぱなしであることに気づいて、帰りに寄ろうと思っていた。駅前の歯科クリニックに勤めているのだと言うと、初佳さんは「歯科衛生士さん? 娘とおんなじ」と歯を見せて笑った。
 なんかこの人いいなあ、と思う。もっと話してみたい。それはやや性急な衝動だった。恋のはじまりにすこし似ていた。初佳さんには、杏子にはない落ちつきと余裕のようなものがあり、それに加えて、サラサラしている。サバサバではないのだ。サラサラと乾いた口調が、まなざしが、ここちよい。
「『わかば洋傘店』にはよく来られてるんですか?」
「そうですね。最近」
 急な雨で店に飛びこんで、それがきっかけだったそうだ。娘に傘を買ってあげて、そのあともう一回来た時に編みものの話になって、というような経緯で、つまりつきあいはそれほど長くないらしい。十五時はお茶の時間であるということを知り、その後にお菓子の差し入れをしたところ、ひどく喜ばれた。
「あれね、一度持っていくと、次から手ぶらでいくのも悪いみたいな感じになりますよね」
「それはありますね」
 最初に持っていったのは会社の若い子が旅行のおみやげにくれたお菓子で、と初佳さんは傘を開きながら続ける。いつのまにか、雨が降り出していた。杏子も包装を開け、レインポンチョを羽織った。
「ひとりでは食べきれないから、スノさんのところに持っていったんですけどね。今日も『傘届いたよ、お茶の時間においで』なんて電話がかかってきて。完全にお菓子あてにされてるやん、と思って。急いで大福買ってきましたよ」
 笑い合ったところで、クリニックに着いた。
「あ、じゃあ。あの、また」
「はい。またお話しましょ」
 以前からの知り合いのように手を振りあって、別れた。
 通用口の鍵を取り出しながら、楽しかったなあ、と声に出して言ってみる。杏子は自分の耳で聞いて再確認することで、感情をより強く味わえると思っているので、嬉しい時には積極的にひとりごとを言うことにしている。
 楽しかった、よかった、楽しかった、と嚙みしめるがごとく呟く杏子のポケットの中でスマートフォンが振動した。取り出して誰からの電話か確かめようとも思わない。

 野原からの電話は、あの日以来、ほぼ毎日のようにかかってきている。一度も応答していないので、用件はわからない。

 杏子、ひさしぶり。金貸してくれない?
 杏子、ひさしぶり。君、新しいビジネスに興味はない?
 杏子、ひさしぶり。君、今度の選挙で投票する人は決まってる?

 おおかた、この三つのうちどれかだろう。交際しているあいだに金銭の貸し借りをしたことはなかったし、野原が特定の政党に肩入れしていたとか金儲けに熱心であったとかといった記憶はないが、歳月は人を変えてしまう。
 まあなんにせよ、無視していればじきにあきらめるだろう。そんなふうに考えていた杏子は、だから、仕事を終えて帰ってきて、自宅の玄関付近に佇む野原の姿を発見した瞬間、叫びそうなほど驚いた。電話に出ないから、家まで来たのか?
 ゆっくりと、音を立てないように後ずさりする。
 今日は帰宅後に録画しておいたドラマを見ながらビリヤニを食べることだけを楽しみに働いた。有名カレー店が監修したというコンビニのビリヤニだ。大人気で夕方にはなくなっているかもしれないと言われたから、わざわざ昼休憩の時に抜けさせてもらい、職場の冷蔵庫にいれておいたのだ。
 冷蔵庫の中で冷えているビールのことを思う。洗面所に置いた、パジャマと肌着のことを思う。帰宅後の風呂の準備までしてから出勤したのは、酔うと入浴がめんどうになる自分の性格を知り抜いているからだ。帰ったらすぐ入浴、のちビリヤニ&ドラマ&ビール。完璧なスケジューリングだったのにとんだハプニング。さすがにこの展開は連続ドラマのようには楽しめない。
 帰りたい。帰りたい。こんなにも家に帰りたいのに、野原がいるから帰れない。
 ふざけるな。静かに怒りつつ、慎重に後ずさりを続ける。あと二歩も後退したら角を曲がって身を隠すことができるという地点まで来た時、野原がふいにこちらを見た。
「杏子!」
 野原が通勤カバンを小脇に抱えて駆け寄ってくる。左手の薬指にはまった銀色の指輪が、外灯の下で鈍く光った。
「ひさしぶり。なんだよ、元気そうじゃないか」
 仕事で近くまで来たから寄った、と野原は言う。仕事で? 近くまで来たから? 寄った? は?
「なんの用ですか」
 杏子が背負ったリュックの肩ベルトをぎゅっと摑みながら訊ねると、野原は「おいおい、冷たいな」と肩を揺らして笑い出す。
「どうしてるかなと思って。電話に出ないから、なにかあったんじゃないかって心配してたんだぞ。なあ、杏子」
 杏子、とそこで言葉を切って、野原は目をわずかに細めた。
「変わってないな……いや、むしろ若返ったかも」
 心配してたんだぞ。若返ったかも。知り合ったばかりの頃、野原のこうした言葉づかいがひたすら新鮮だったことを思い出す。野原は野原で「女の子の関西弁って好きなんだよね」と言っていた。自分のこと「うち」って言う? 言わない? えーあれかわいくて好きなんだけどなあ、ちょっと言ってみてよ、ね。ね、ねえ言ってよ杏子ちゃん。
 思い出の中のすべてが、すべての瞬間の野原が、ひたすら気持ち悪い。懇願に負けて「うち」と言ってしまった過去の自分も同様に気持ち悪い。恋する者は滑稽だ。だが渦中にいるあいだは、それを客観視せずに済む。なんせ、渦中だから。
「あなたは老けました」
 厳然たる事実だ。額は後退し、着ているスーツはくたびれている。老けることがよくないことだ、とは、杏子は思っていない。たんに事実だから口にした。野原は別段気を悪くしたふうでもなく「いろいろ、苦労があるんだよ」などと受け流す。
「立ち話もなんだし、さ。ほら……」
 家に上げろ、というのか。
 なぜだ。なぜ、そんなことを言う権利があると思えるのか。野原と杏子は、たしかにかつて交際をしていた。好きだ、ずっと一緒にいたい、大切に思っていると言い合った。かつては。
 過去、過去、過去の話だ、すべて。なのに、なぜ?
 脳内で交番への道順を確認する。角を曲がって、あのコンビニを抜けて。いや、手前に横断歩道がある。野原の不意をついて走り出したとしても、歩行者用の信号が赤だったらそこで追いつかれる。
 杏子が顔を強張らせているのに気づいて、野原が笑みを浮かべた。
「なあ、もしかして警戒してる? おれはただ、昔みたいに杏子と楽しく話したいと思っただけだよ?」
「昔みたいに、楽しく?」
「そうだよ。いい友だちとして」
 なぜだ、とまた思う。だから、なぜ?
 なぜそんなに、うぬぼれていられるの?
「あ、もしかして、家に入ったとたんおれが襲うとか思ってんじゃない? ちょっと待ってよ、勘違いしないでくれよな。おれらはもう、いい年したおっさんとおばさ」
 野原の言葉がすべて終わらぬうちに、杏子は走りだした。
 こういう時のためのリュックなのだ。こういう時のためのスニーカーなのだ。ひとりで生きていくことには危険が伴う。自分で自分を守れるように、いつだって身軽でいないといけないのだ。
「杏子!」
 予想通り、野原は追いかけてきた。歩行者用の信号が青なら逃げ切れるはずだ、と走りながら杏子は思った。お願い。お願い、お願い、青でありますように。だが信号は赤だった。交差点を右に曲がり、細い路地に入っていく。しばらく走ってから、野原がついてきていないことをたしかめた。
「よし」
 呼吸を整えながら、杏子はふたたび脳内で交番へのルートを探る。めちゃくちゃに走ったせいで、交番からはずいぶん遠く離れてしまった。
 振り返ると、『わかば洋傘店』の看板が見えた。もうとっくに照明を落としていて、薄暗い。数日前に初佳さんとこの道を歩いたことを思い出す。杏子の瞳の奥で、黄色い傘がくるりと回転した。
 ふいに涙が頰を伝い、杏子はそのことに驚く。べつに、野原になにかされたわけじゃない。昔の男が会いに来ただけだ。なれなれしく話しかけてきただけだ。ただそれだけのことじゃないか。
 勘違いしないでくれと、まるで杏子がなにかを期待しているかのようにせせら笑われた。ただそれだけだ。泣くようなことじゃない。
 手の甲で涙を拭った時、背後から肩を叩かれた。
 野原ははあはあと息を切らしている。叫ぼうとしたが、とっさに声が出なかった。野原がなにか言いかけた瞬間、「うおお」というような、野太い雄叫びがとどろいた。
 声のするほうを見る。野原もなにごとかと振り返る。傘を剣のように頭上にふりかざした若葉くんが、咆哮しながらこちらに向かってきた。
 足、めちゃくちゃ遅いな。
 それが、走る若葉くんを見て最初に思ったことだった。スローモーションかと思うぐらい遅い。いや、どうやら片足を怪我しているようだ。
 だが身長二メートル近い大男が棒状のものを持って唸り声をあげている光景は、野原にじゅうぶんすぎるほどの恐怖を与えたようだった。「ヒッ」というような声を上げて、カバンを胸に抱えて走り去っていく。
 若葉くんはなおも野原のあとを追おうとしている。「やめたほうがいい」と、杏子はその袖を引いた。
「足、どうしたん?」
「ああ、これ。きのう掃除中に花瓶割って、破片踏んでん」
 掃除をしているだけでなぜそんなことになるのか、杏子には見当もつかなかった。若葉くんってもしかしてすごくどんくさいのでは? と思ったが、いくらなんでも失礼すぎるので口には出さない。
「ありがとう、たすけてくれて」
 照明は消えていたが、若葉くんは店の中にいたらしい。スノさんと一緒にレジを閉めていたら、杏子が走っていくのが見えた。ただならぬ様子であったのでのぞいてみると、物陰から男が現れた。それで、とっさに飛び出してきたらしい。
 ドアからスノさんの顔がのぞいた。
 若葉くんが握りしめている傘を指さし、「それでどついたりしてへんやろね」と息子を睨む。
「してない」
「よかった。大事な商品やからね」
 それから「けがはない?」と杏子のほうを見る。
「あ、はい。だいじょうぶです」
「あんた、送っていってあげなさい」
 スノさんはそう言うなり、顔をひっこめた。
 杏子はエコバッグの中を覗きこみ、ビリヤニが無事かどうかたしかめた。縦になったせいで、やや端に寄ってはいたが、無事だった。
「誰にも言わへんから、若葉くんも今日のこと、誰にも言わんといて」
「なんで?」
 若葉くんは、あの男は誰なのかとか、なぜ追いかけられていたのかとか、そういうことは言いたくなければ言わなくてもかまわないが、なぜ人に話してはならないのかということだけは知りたい、という意味のことを言った。杏子はすこし考えてから「恥ずかしいことやから、わたしにとって」と答える。
「ひとりで生きてるつもりやったのに」
 身の守りかたを知っている。自分の機嫌の取りかたも知っている。上手に生きているつもりだった。なのに、このざまだ。今も震えが止まらない。
 自分より大きくて強そうな男があらわれた瞬間に血相を変えた野原の顔を思い出すと、むなしかった。若葉くんにたいして感じる頼もしさの何倍も、むなしい。あの男は、杏子のことをどれだけなめているのだろう。
「とりあえず杏子さん、家まで送るわ」
 若葉くんの声は明るい。いや、つとめて明るくふるまおうと努力しているのだ。
「いい、ひとりで帰れる」
 しかし若葉くんは杏子の話を聞かずに、さっさと歩き出す。これまで若葉くんに家まで送ってもらったことなどないし、正確な住所も教えていないのだが、これまでの会話でだいたいどのあたりに住んでいるのかは見当がついているのだろう。あのへんやろ、と近くにある店の名を挙げた。
「若葉くん、足ケガしてるやん」
「かかと使ったら歩ける」
 でも、となおも渋る杏子を見て、若葉くんが溜息をついた。
「あんなぁ、杏子さん。ひとりで生きていくんなら、もっと周りの人間を上手に利用せんと」
「利用」
「そう。ひとりで生きるって、誰の力も借りんこととは違うで」
 うちの母を見てみ、と若葉くんはわかば洋傘店を振り返る。
「他人を利用しつくしてる。他人の力を借りまくって生きてる。でも見てみ、堂々としてるやろ」
 若葉くんの父親は、若葉くんが十歳の時に亡くなっている。交通事故でな、とのことだった。
 初佳さんが「お菓子をあてにされている」とぼやいていたことを思い出して、笑ってしまう。若葉くんはその笑みを、家まで送られることにたいする了承と受け取ったらしい。「はい、決まりね。行こ」と親指で前方を指す。
「スノさんって、すごいよね」
 ひとりで子どもを育てるなんて並大抵の苦労ではないやろうね、と続けようとしたが、若葉くんの「すごい、って言われるの、本人は大嫌いらしいで」という発言によって、口を噤まざるを得なくなる。
「大嫌い? なんで?」
「女手ひとつで、とか、さぞかし苦労したんでしょうねとか。よう言われるけどむかつくって。『すごい』とか『えらい』とかってほめてる態で、それ以上の理解とか歩み寄りを拒んでるみたいや。人間はもっと複雑なもんや! とのこと」
 とのこと、とそこで言葉を切った若葉くんは杏子を振り返り「意外と手ごわいやろ、うちの母」とにやりと笑った。
「ほんわか癒し系おばあちゃんと見せかけて、これがなかなか」
「そうね。ファッションはパンキッシュやし」
 ほんわか癒し系おばあちゃんよりも、「意外と手ごわい」スノさんのほうが、だんぜん興味深かった。「またお店行くわ」と呟くように言ったら、若葉くんが「おう」と短く答える。
「そんなことより、今度はなに食べようか」
「あ、わたしもそれ考えてた」
「シュラスコとかどう?」
「いいかも。じつはわたし、まだ行ったことないの」
「おれもおれも」
 楽しみやなあ、と月の見えない空を見上げて呟いた声が、闇にゆっくりと溶けていく。
 ゆっくりとしか歩けない若葉くんの歩調に合わせることは、すこしも嫌ではなかった。さっきまではあんなにも家に帰りたいと思っていたのに、今はもうすこし歩いていたいような気もしている。

  *

■ 著者プロフィール
寺地はるな(てらち・はるな)
1977年、佐賀県生まれ。大阪府在住。2014年、『ビオレタ』で第4回ポプラ社小説新人賞を受賞し、翌年デビュー。20年、咲くやこの花賞(文芸その他部門)を、21年、『水を縫う』で、第9回河合隼雄物語賞を、24年『ほたるいしマジカルランド』で第12回大阪ほんま本大賞を受賞。他の著書に、『ミナトホテルの裏庭には』『月のぶどう』『今日のハチミツ、あしたの私』『大人は泣かないと思っていた』『カレーの時間』『雫』『そういえば最近』など多数。最新作は7月10日発売の『リボンちゃん』。

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