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ブタさんと家族ぐるみ(著/石田祥)

 よく行くスーパーで、山積みされたリンゴが目に入ってきた。段ボール箱には『訳アリ商品、ひと家族五個まで』とサインペンで手書きされている。
 おそらくそこに深い意味はないだろう。何人かで連れ立ってきても、カゴ一つにつき買える個数を制限しているだけだ。
 それでも家族という単位が付くと、どこか近寄りがたい。そもそも男の一人暮らしでリンゴ丸ごとを買うことなんかないと、よういちは箱から目を逸らした。

 取引先からのクレームに、急なプリント基板の仕様変更、おまけに軽微ではあったがシステム障害による製造ラインの遅れと、トラブル続きの一日だった。
 前日からの長い勤務がようやく終わったのは夕方だ。なる陽一がマンションに戻ると、妹のから連絡があった。部屋を片付ける暇もなくやってくる。
「うわ、お兄ちゃん。結構散らかってるねえ」
 ダイニングテーブルに積んだままのカップ麺や弁当の容器、脱ぎっぱなしの作業服を見て、希恵は苦笑いをした。
 陽一が暮らしている3LDKのマンションは、二十年前、結婚と同時に購入したものだ。その五年後、離婚した時には周辺の地価が下がり、ローンだけが残るならと売らずに様子を見た。だが相場が戻った頃には引っ越すのが面倒になり、職場の電子部品工場が近いこともあって、一人で住み続けている。
「普段はもっとマシなんだよ。んで、何? 夜勤からのぶっとおしで、眠いんだけど」
 瞼が重く、眉間に皺が寄る。昔から、妹が連絡してくる時は大抵が頼み事だ。
「うーん、せめて自分のお世話くらいはできててほしいな」
 希恵の呆れ笑いに、陽一はムッとした。
「そこまでひどくないだろ。おまえんちだって大差ないぞ」
 そう言いつつ、妹宅を訪れたのはもう何年も前だと気付いた。離婚したあと、陽一の娘のは元妻と暮らしているので、こちらは独り身だ。家族という単位がなくなると、実家や妹家族とは行き来が激減した。
「こっちは小さいのがいるから仕方ないの。最近、陽菜ちゃんは遊びに来てないの? 来年受験だよね。どこの大学受けるか決まったの?」
「向こうの家から通える範囲だって言ってた。まあ、なんならここからでも……。っていうか、おまえ、何しに来たんだよ」
「それがね、実はたかおみさんが海外転勤になっちゃって」
「孝臣君が? 薬品の研究職に海外勤務とかあるのかよ」
「シンガポールに新しくできるラボの現地管理者に昇進したの。結構、異例の抜擢なんだよね」
 希恵は誇らしげだ。妹夫婦の仲の良さが垣間見えて、陽一も嬉しかった。
「そりゃ、すげえじゃん」
「まあね。私もパート辞めて、とうと一緒に着いて行くことにした。せっかくいい幼稚園に入れたけど、ラボが軌道に乗るまで、最低でも一年くらいはかかるっていうから」
「ああ。行ったほうがいい。家族は離れないほうがいいぞ」
「うん。だからね」と、もったいぶってはいるが、希恵は子供の頃からよく見せる上目遣いをした。「うちで飼ってるブタちゃんを預かってくれないかな」
「は? ブタ?」
 聞き違いだろうか。眠気で思考が働かない。
「うん、ブタ。半年くらい前から飼い始めたんだ。マイクロブタのキッド君。可愛いよ。オスなの。人懐こくて、膝の上とか乗ってくるよ」
 希恵がスマホを見せようとしたので、陽一は顔を背けた。厄介事の予感がする。
「いや、意味わかんねえわ。ブタ? ブタって飼えんの?」
「飼えるよ。専門のペットショップにいるし」
「ブタはペットじゃないだろう」
 陽一は睡魔を遠ざけようと頭を振った。だが目は覚めず、いらいらするだけだ。
「おまえな、飼えなくなるなら、最初から飼ったら駄目だろ」
「私たちだって、ずっと飼うつもりだったよ。斗真には早いうちから動物と触れ合ってほしいなって思ってたから。でもハムスターは、ちょっと小さすぎて逆に心配でしょ。昔、飼ってた時は、私が小学校に入ってからだったしね。犬か猫なら兄妹みたいに仲良くできるかなって考えたんだけど、斗真にアレルギーがあって無理なの。でもブタの毛は抜けにくくて細いから、症状が出にくいのよ」
「だからって、一般家庭で飼える動物じゃないだろ。テレビでしか見たことないけど、すごい大きさなんだろ」
「マイクロブタはそこまで大きくならないのよ。個体差はあるけど、いっても四十キロで、大型犬くらい。うちのはまだ子供だから、今で五キロちょい。トイレトレーニングもだいたい済んだし、綺麗好きで、臭いも少ないの。ご飯はペレットだよ。でもなんていってもブタだから、気を付けないと太っちゃうけどね」
「情報が多くてわからん」
「ねえ、お願い」と、希恵は手を合わせてきた。「私だってほんとは手放したくないのよ。斗真にもなついてるし、私も可愛がってる。無責任だってことはわかってる。でも海外へは連れて行けないでしょう」
「おまえなー……」
 眠さで口がうまく回らない。ただ、ブタだから太っちゃうというのが微妙におかしかった。
「日本に帰ってきたら、ちゃんとまたうちで飼うから。だからお願い。それまでの間、ここでキッド君の面倒見てあげて。お願い!」
 陽一はもう目を開けていられない。ブタという、身近だが遠い存在。四十五年間の人生において、自分の領域にブタが踏み込んできたことはない。知識も経験も皆無だ。
 海を越えて、連れて行けないのか? ペレットってなんだ? ブタだから太っちゃうというのが、またジワジワとみてきて、陽一は目を閉じて笑った。どうせ昔から、妹には弱いのだ。 希恵は子供の頃から何か失敗すると、親よりも先に陽一に言いに来て、一緒に謝ってほしいと上目遣いにせがんできた。
 ハムスターを飼いたいと言い出したのは、確か小学校に入ってすぐだ。まだ世話が難しいから駄目だと親に却下されると、ほんとはお兄ちゃんが飼いたいんだよと、なぜか陽一が言わせたことになっていた。それでも、ハムスターの面倒は妹が懸命に見ていたのを覚えている。中学生の時にはどうしてもテニス部のレギュラーになりたいので、夜の走り込みに着いてきてほしいと頼まれた。大学受験を控えていたのに、後ろから自転車で着いて行ったものだ。
 だいたいの頼み事は、妹の頑張りの延長線上だ。多少、考え無しの部分もあるが、そういうところは自分に似ている。
「――わかった。いいよ。ブタ。俺が世話するよ」

 その三日後に、ブタはやってきた。
 本物だ。想像していたよりも小さいが、しっかりブタだ。
「プギー! ピギー!」
 金属をひっかくような高い鳴き声は、ブタそのものだ。希恵と夫の孝臣が荷物を運び入れる間、ケースに入れられた肌色のブタは、明らかに怒っていた。
「プギップギッ、プギーッ!」
 つまんだような鼻先が、鳴くたびにヒクヒクしている。ブタの鼻というのは絵に描いたように平たい。表面は湿っていて、肉厚だ。陽一がまじまじ見ていると、叫びと共に鼻汁が飛んできた。
「うげっ! こいつ鼻水飛ばしやがったぞ!」
 陽一はケースから離れた。ブタはケースの中で落ち着きなく動き、甲高い声で鳴き続けている。こんな大声だとは想像していなかった。マンションは家族向けで動物飼育可だ。事前にブタを飼っていいかと管理会社に確認すると、何度も聞き返されたが、承諾された。
「プギーッ!」
 また甲高く鳴く。声の震えで必死さが伝わってきて、陽一は吹き出した。
「ブタってほんとにプギーッとかいうんだな。マンガみてえ。どうした、外に出たいのか? ちょっと待ってろよ。今、おまえのために部屋を改造中……」
「できましたよ、お義兄にいさん」
 孝臣と希恵が奥の和室から出てきた。見ると、長年放置されていた余計な物は押し入れ に片付けられている。
「おー、なんか逆に綺麗にしてもらったな」
 マットが敷かれ、その上には柵が組み立てられていた。1.5メートル四方のペット用サークルだ。部屋の隅にはプラスティックの箱や餌袋など、色んな物がおいてある。
「あーあ、見事に一部屋占領されたなあ。っていうか、なんか色々と多いな。それ、全部こいつが使うのかよ 。そのでかいパックはおむつか?」
「トイレシートよ。ほら、キッド君。ここが新しいおうちよ」
 希恵はケースをサークルに入れると、蓋を開けた。ブタが鼻を鳴らしながら出てくる。
「あ、そうだ。忘れないうちにこれ渡しておくね」
 差し出してきたのは小さなカードだ。診察券らしい。陽一は書いてある名前を読み上げた。
「成瀬キッド? なんだ、こいつ。俺んちの名字になったのか」
「うん。ここに来る前に検診に行ってきた。お兄ちゃんの名前で診察券作っておいたから。マンションに一番近いところにあるエキゾチックの病院」
「エキゾチック? なんだそりゃ。変なクラブかバーか」
「お兄ちゃん、バカっぽい。犬猫以外を診てくれる動物病院ってこと。ブタちゃんを診れる獣医師って少ないから、行ける範囲でいくつか調べておいた。あとでスマホに情報送るね。餌のサイトも送るから」
 希恵からは続々と飼育の情報が出てくる。犬でも猫でも、それ以外でも、動物の世話は簡単ではないだろう。荷物の多さと情報量にげんなりする。
 だがもうブタは来てしまった。
 サークルの中でフガフガと鼻を鳴らしながら足場を嗅ぎ回るブタは、想像を超える存在感だった。

【一日目】
「フゴ、フゴ、フゴー!」
 地割れのような大きな音に、陽一は飛び起きた。
「なっ、なんだ? 地震か? 台風か?」
 慌てて周りを見るが、何も割れたり落ちたりしていない。窓の外はもう明るく、晴天だ。どうやら夢でも見たらしい。
 工場は三交代のシフト制で、今日は夕方まで眠っていられる。もうひと眠りしようとした時、水道が逆流したかのような大きな音がした。
「フゴ、フゴ、フゴー!」
「はあ? なんじゃ!」
 今度は夢ではない。飛び起きて音のほうへ走ると、居間にブタがいた。
 寝床のサークルから抜け出したらしい。しかも陽一の作業着に頭を突っ込んで、モゾモゾしている。
「フガ、フガガ」
「こら! ブタ! 人の服で遊んでんじゃねえ!」
 陽一が抱き上げようとすると、ブタはスルリと服から抜けた。
「プギー!」
 脱兎のごとく走っていく。すごい速さだ。
「うわ、ブタ速え!」
「プギー!」
 ブタは大声を上げながら居間中を走り回る。テーブルの下や台所を駆け抜け、追いつけない。
「こら、ブタ! おとなしくしろ!」
「プギー!」
 ブタは居間を飛び出し、玄関へと突進した。陽一は焦った。扉は開いていないが、万が一、外に出たら大変だ。
「こら待て、プギー! プギー!」
 咄嗟に名前が出てこず、甲高い鳴き声を連呼する。玄関ドアにぶつかる前に両手で抱き上げると、ブタは逃れ出ようともがき大暴れした。
「ワウ! ワウ! ワウーッ!」
「うるせえ! 犬かよ! ややこしい声で鳴くんじゃねえ!」
「ビャー! ビャー!」
 なんとかサークルに入れて、内側から開けられないように入口の前に荷物を置いた。犬はワン、猫はニャー、ブタはブウというのは思い込みだった。ブタはどんな動物にもたとえられないような声で鳴いている。
 共に暮らしてみて初めてわかる。その経験はある。
 だが、失敗した結婚生活でさえ一日目でここまで疲れはしなかった。ブタという生き物が、こんなに走るのが速くて、鳴き声が多様だとは。本当に地震か台風でも来たかのように、グッタリだ。

【一週間後】
 ブタに限らず、多くの動物は人が思っている以上に寝て過ごす。
 深夜の工場勤務からの帰りは、朝の通勤通学と逆の流れになり、なんだか自分だけがくたびれているように感じてしまう。陽一がマンションに帰り着くと、ブタはサークル内で爆睡していた。
 希恵が持ってきたクッションベッドは、縁に頭が乗る形になっている。そこに顎を預けて、閉じた目はまるで笑っているようだ。
「グー、グー、グー……」
「くっ。いびき搔いてるのかよ」
 陽一は笑うと、ソファに勢いよく座った。そしてハッとした。大きな音がしても、ブタはまったく目を覚まさない。
 こんなふうに夜でも朝でも物音に遠慮がなくなったのは、一人暮らしになってからだ。娘の陽菜が赤ん坊だった頃は、早朝帰りや夜中の出勤時、忍び足で動いたものだ。元妻は小さな音にもピリピリしていた。最初のほうは、ようやく寝てくれた陽菜が起きたらどうするんだと文句を言われ、最後のほうは、二人の言い合いで陽菜が目を覚ましてしまった。
「確かに、寝てるところを起こされたら、腹も立つか」
 ポツリと呟く。すると大きな音では起きなかったブタが目を覚ました。
「ブッブッブッ」
「ああ、はいはい。メシな。寝て起きて食って、ほんとおまえは気楽だよな」
「ブッブッブッ」
 こっちを見て鼻を鳴らしている。
 ブタは与えた分だけ全部食べてしまうので、置きえさはできない。専用のペレットは希恵が買ったものだ。餌にも色々種類があるらしく、追加購入する商品は細かく指示されている。
 容器に粒状のペレットを入れると、ブタはすぐさまガツガツと食べる。その食いっぷりは、見ていて爽快だ。
「不規則な暮らしで悪いな。でもおまえのほうが居候なんだからな。こっちの時間に合わせてくれよ。一緒に暮らすってのはそういうことだ。お互い、譲歩しないとな」
 陽一はしゃがんで、ブタが餌を食べるのを見ていた。餌がなくなると、ブタは鼻を突き上げた。
「プギー!」
「わはは。おかわりか。残念ながら、メシの管理は厳しくしろって言われてるんだ。なんて言っても、おまえはブタだからな。気を付けないと太っちまうらしい。わはは」
「プギー!」
 ブタは甲高く鳴く。どうやら興奮しているようだ。
「なんだ? 食い終わったらテンション上がったか? よし、プギー。食った分、運動だ」
 サークルの入口を開けると、ブタは猛進した。すごい速さで駆けていく。ある程度の運動は必要で、こうして一日一回はサークルから出して好きにさせてやる。最初の日はあまりの俊敏さに驚いたが、もう慣れた。放っておけば、そのうち満足する。
 陽一は帰り道のコンビニで買ってきた弁当を食べながら、足元を駆け回るブタの動きに笑った。生後一年未満のブタはまだあまり脂肪がついておらず、小柄だ。元気いっぱいに駆け回り、たまに板張りのフロアで滑って転んでいる。散々走ったあとは、あちこちを嗅いでいる。
「フゴッフゴッフゴッ」
「ほら、プギー。俺はもう寝るぞ。サークルに戻れ」
「フゴッフゴッフゴッ」
「しゃあねえな」
 少しだけペレットを入れた容器をちらつかせ、サークルに戻す。陽一が風呂から出ると、ブタはまたクッションベッドの縁に顎を乗せて爆睡していた。
 眠るのと、餌を食べるのと、走り回るのと、すべてが全力だ。薄い毛で包まれた体で、文字通り体当たりしてくる。その分、こっちは大変だ。単純だが手間はかかる。
 それでもブタを預かってから、家に帰る足取りが軽い。自宅に楽しみがある生活は久しぶりだ。結婚当初は楽しみもあった。だが娘が生まれてからは、元妻のプレッシャーや、昇進に伴って増した仕事の重責に追われ て、そんな感情は消え失せた。
 自分なり に、なんとか家庭を保つために努力したつもりだ。何が気に入らなくて泣かれるのか随分と悩み、最後にはこっちも泣きたくなった。離婚後、時々娘には会っている。親子には変わりないが、家族という単位は向こうが持っていってしまった。
 それが十五年ぶりに成瀬家の構成が変わった。増えたのがブタだというのが、やはり、ちょっと笑える。

【一か月後】
「うわ、ほんとにブタさんがいる」
 陽菜が半年ぶりにマンションへやってきた。サークルの前に膝をつくと、ブタは縁まで近寄ってくる。
「やだ、めっちゃ可愛い。なんか赤ちゃんみたい」
「プップ、プップ、プップ」
 聞いたことがない愛想のいい鳴き声だ。陽一は面白くない。
「おい、プギー。なんだよ、その声は。いつもはもっとブーブー鳴いてるじゃねえかよ」
 するとブタが鼻先を上げていつもの濁った声で鳴き出した。
「ブーブブブー!」
「なんだ、おまえ! 誰が餌やってると思ってんだよ!」
「ブブブーブー!」
 こっちが声を荒らげると、ブタの声も大きくなる。陽菜はケラケラと笑っている。 
「ねえ、パパ、サークル開けても大丈夫?」
「ああ。でも手は出すなよ。嚙まれるかもしれねえからな。じっとしてたら、そのうちプギーのほうから寄ってくる」
「そうなんだ。出ておいで、プギーちゃん」
 陽菜がサークルを開けると、ブタは足場を嗅ぎながら出てきた。陽菜の近くをグルグル回っている。
「可愛い。こんなにおとなしいなら、うちで預かってもよかったな」
「普段はこんなんじゃねえぞ。今日はネコ被ってんだ。走ると爪がうるさいし、見ろよ。あっちゅう間に壁紙もボロボロにされた。なんでもかんでも齧りやがる。それにこの前、病院行ってきたんだけど、結構金がかかるぞ」
「病院って、どっか悪いの? この子」
「いや、別にどこも悪くない。預かる前から希恵が予約してたんだよ。こいつ、爪切ったり尿絞りしたり、色々いるんだよ。手入れしてやらねえと泌尿器のトラブルになりやすいんだとさ。まあ、最初から簡単に飼える動物はいないってわかってたけどな。俺、毎日そいつの目とか口とか、ケツ拭いたりしてるんだぜ」
「パパが? ブタさんのお尻拭いてあげてるの?」
 陽菜は尻を向けるブタを見て笑っている。陽一も笑った。
 一人暮らしの部屋は、日中あまり風通しをしないせいかヒンヤリとして、カビ臭さが交じる。それが、誰かが来ると匂いが変わる。若干の暖かさ を感じるのは、たぶん陽一の気持ちの変化だ。気持ちに、匂いと温度が引っ張られる。
 今日はいつもとは部屋の空気が違う。陽菜が来たからだ。動きのある何かというのは匂いを運び、そこに感情や表情が生まれる。こういう時は、一人がわびしかったのだと嫌でも思い知らされる。
 ただ、めちゃくちゃ動くのにブタは例外だ。匂いを運んでこない。マイクロブタはかんせんがなく汗を搔かないため、日々の手入れをすればほぼ無臭だ。それを保つために、希恵から赤ん坊と同じように清潔にしてあげてねと頼まれていた。
 先週、『成瀬キッド』と書かれた診察券を持ってエキゾチック動物病院を訪れると、待合室には多くの人がいた。隣にいた夫婦らしき老人は大事そうに大きな籠を抱えて、中にいる何かに話しかけていた。まるで幼子相手のようだと、奇妙な気がしたものだ。
 ブタはあちこちを嗅ぎ回ったあと、陽菜のそばに寄り、膝を枕代わりにして横たわった。目がトロトロと溶けそうになっている。
「えー、どうしよう。すごく可愛いんだけど」
「おい、プギー。おまえ、俺にそんなのしたことねえだろ。おまえ、あれだな? 女好きだな?」
 ブタは陽菜の膝枕で寝てしまった。静かに撫でられて、気持ちよさそうに鼻をピクピクしている。
「ねえ、この子、ずっといるの?」
「いいや、希恵んちが戻ってくるまでだ。まあ最低でも春過ぎかな 」
「そっか」と、サークルや荷物が占める和室を見る。「ここはプギーちゃんのお部屋になっちゃったね」
 陽菜は十八歳だ。小学生の間は、せがまれると夜勤明けでもあちこちへ連れて行った。中学校に上がると向こうのほうが部活などで忙しくなり、少しずつ会う回数は減った。希恵と同じで、今でも頼み事があると可愛く連絡をしてくるが、マンションまで訪ねて来るのは用事がある時だけだ。今日は生まれた時に入った学資保険の満期が近いので、母親に言われて受け取り関連の書類を持ってきた。長く積み立てたので、大学の初期費用くらいは賄える。養育費は二十歳までの取り決めだが、学生の間は面倒を見るつもりだ。
 陽菜はモジモジと上目遣いをした。こういう仕草は甘え上手な希恵に似ている。
「どうした? なんかあるのか?」
「あのね、前からママに付き合ってる人がいるって言ってたでしょう。職場の同僚の人。もしかしたら、ママ、その人と結婚するかもしれない」
「ほお」つい声が強張る。元妻とはもう何年も会っていない。未練もわだかまりもないが、完全に平常心ではいられない。
「そうか。そんで、陽菜はどう思ってるんだ? 反対なのか?」
「ううん。相手はいい人だし、ママが幸せならそれでいいと思う。でももし、何かでうまくいかなくなったら、私、この家に住まわせてもらえないかなって」
「おう。そんなの当たり前だろうが。そっちの和室はおまえの部屋にすればいいさ。ブタは丸ごとパパの寝室に引っ越しだ」
「私がプギーちゃんと寝てもいいけど」
「やめとけ。そいつ、いびき搔くぜ。パパはいつでもどこでも寝れるから大丈夫だ。ここは元々おまえが暮らしてた家なんだから、遠慮なんかすんな」
「うん」と、陽菜は少し恥ずかしそうに頷いた。プープーと寝息を立てるブタを撫でている。
「でも意外だよね。パパが動物と暮らすなんて。しかも、ブタさんって」
「しゃあねえだろう。他に預かってくれる先がなかったんだから。全部の世話が俺一人だよ。メシからトイレから病院までさ」
「今でいうワンオペってやつだね」
 陽菜に言われて、陽一はドキリとした。
 そうか。これがワンオペってやつだ。
 すっかり大人になった陽菜を相手に、頼りになる父親の振る舞いをしても、赤ん坊の時はほとんど元妻に任せきりだった。病院への送り迎えや、頼まれたことは手伝ったつもりだ。だが、一人だけで何かをした覚えはない。すべてサポートのはんちゅうを越えなかった。
「やばい。足がしびれてきたかも」
 陽菜が顔をしかめる。陽一はブタの頭を持ち上げると、ぐらを組んで自分の足の間にブタを沈めた。
「起きねえな、こいつ。目が覚めたらびっくりするだろうな。女子高生の膝枕がオッサンに変わっててさ」
「あはは。そうかもね。じゃあ私、帰るね。保険の書類、ママに渡しとくね」
「おう」
 陽一は胡坐のまま、陽菜を見送った。一人になると、急に部屋の空気が動かなくなる。
 だが、動きがなくなっても冷たくはなかった。足の間から熱が伝わる。
「あったけえな、おまえ」
 マイクロブタは、ちゃんと手入れをすればほぼ無臭だ。走り回るし、嗅ぎ回るし、鳴き声もうるさい。楽ではない。手はかかる。だがとても温かい生き物だ。触れていなくても、一人暮らしの部屋の温度を少し上げてくれるほどだ。
 それが気持ちの問題だとしても、ブタがいれば部屋は暖かかった。

【三か月後】
 工場の勤務が終わり、帰り道にあるスーパーで弁当と総菜を買った。もうすぐ閉店時刻なので、弁当には割引シールが貼ってある。二百円も安くなっていたので、いつもは一本の発泡酒缶を二本にした。
 家に帰ると、片手にスマホ、片手に箸、たまに缶といういつものスタイルで食事をする。
 なんとなしにスマホを見ていると、気になるサイトが出てきた。
「ペットのブタが食べていいもの……。ふうん、ペレット以外でも、リンゴとか人参はオーケーなのか。リンゴねえ」
 頭を逸らして、和室に向ける。
「おい、プギー。おまえ、リンゴ食ったことあるか?」
 ブタはサークル内で伏せている。帰ってすぐに与えた餌を瞬時に完食して、あとはすることがないらしい。
「リンゴねえ。あんまり太らせると、戻ってきた時に希恵に文句言われそうだしな。お、キャベツもいいらしいぞ。キャベツなら、太らないかもな。おい、プギー、キャベツいいんじゃねえ?」
 安さでいえば、キャベツか人参だ。今度スーパーで買って帰ろうかと、更に検索をしていると、今度はマイクロブタカフェのサイトで販売している餌が出てきた。主食とは違うオヤツ用として売られている。
 このサイトは前にも見た。その時は何も気に留めなかったが、今は、興味が湧いていた。
「おやつペレットか……。げ、たっけ。いやいや、高すぎるだろ。こういうのはな、専門のとこで買うと高いんだよ。通販サイトのほうが色々あって安いんだよ」
 似たようなワードで探すと、ペットブタ用の餌が何件か出てきた。
「ほらな」と、陽一はまた頭を逸らして話しかけた。「大事なのは比較だよ、比較。この俺に高いもんを買わせようったって、そうはいかねえぞ。餌なんて、どれも大差ねえだろ。よし、プギー。弁当の割引分だけ、おまえにもご褒美だ。この一番安いやつをポチポチと……」
 スマホをタップしようとして、ふと、指を止める。
 高いとか安いとか、そういうので安易に決めてしまってよいのだろうか。
 今度は椅子から体をひねらせ、しっかり目線を合わせる。ブタは伏せた上目だ。
「……あのな、別にケチってるわけじゃねえぞ。そもそも、決めた餌だけでいいって言われてるんだからな。そうだよ。あのペレットだけで充分栄養は足りてるって言ってたしな。余計なもんはいらねえんだよ」
 だが、自分の食卓には発泡酒の缶が載っている。これこそ余計なのに、食事には酒一本を付ける。
「いや、だってな。俺は働いてるんだぜ。一日働いて、クタクタになって帰ってきてるんだから、酒の一本や二本くらいの贅沢、構わないだろう? おまえなんか、家でダラダラ寝てるだけだぞ。まさにタダ飯食らいってやつだ。それを俺と同じように贅沢しようだなんて、厚かましい……」
 言いながら、自分でもやばいと気が付いていた。髪をグシャグシャと搔きむしる。
「いや。今のはなし。今のは、ないわ。ほんと……まるで外で働いてる のが偉いみたいな考え方、今の時代には駄目だろ」
 そして、大きくため息をつく。
 今でなくても、駄目だった。昔の自分にもどこかにそんな考えがあって、横柄な態度を取っていたのかもしれない。ブタを飼い始めてから、とうに忘れたはずの過去がチラホラよみがえる。大抵が、痛い記憶だ。
「あー、そうだよ。俺がバカでしたよ。夜勤明けで苛々して、誰のお陰で飯が食えるんだ的なこと、言ったような気がしますよ。嫁さんの愚痴にも、疲れてんのにブーブー言うなって不機嫌になりましたよ」
「ブウ」
「いや、おまえじゃないし」と、陽一は苦笑いをした。十五年前、元妻に育児の相談をされても、親身に受け取っていなかった。マンションで独りぼっちだった彼女の話し相手は自分だけだったのに、ちゃんと聞いてやれなかった。
「今思うとさ、ほんと、ブーブーだって一生懸命の声だよな」
「ブウ」
「いや。だからおまえのブーじゃねえわ。いや、違うか。おまえのブーにもちゃんと意味があるんだよな。わかったよ。もっと真剣に考えるよ。おまえにとって一番楽しみな食いもんのことだからな」
 またスマホで検索をする。今度は餌の原材料やコメント、マイクロブタを飼っている人の動画やブログを探して、何がいいかを検討した。
「ううむ」
 眉間を寄せて、唸る。
「安さも大事だけどよ、でもなあ……。たまにしか食わないおやつだからこそ、いい物をっていう気もするしな。俺もたまに本物のビール飲みたいよ。いや、でもな、そもそもおやつなんかいるか? お、こっちのはセールで安くなってるぞ。セールか……。飼い主の俺でも割引の弁当食ってるんだから、それぐらいは」
 もう一度ブタを顧みると、起き上がってこっちを見ている。つぶらな黒い瞳は何を考えているかわからない。
 陽一は顔を背けると、スマホをタップしようと指を構えた。
 安いやつをポチれ。
 安くなっているので充分だ。
 俺だって割引シールの弁当に、発泡酒だ。キャベツか人参でもいいのに、こんな高いおやつペレットなんて――。
 揺らぐ指を高く振り上げる。だが、タップはしなかった。
「うおお! ちくしょう! 俺はケチじゃねえ! 一番いいやつ買えばいいんだろ! 買ってやるさ!」
 マイクロブタカフェのサイトへ移行をすると、おやつペレットをカートに入れる。気が変わらないうちに購入だ。
「おらあ! ポチポチじゃー!」
「ブピーッ! ブピブピーッ!」
 大声に呼応するように、ブタが鼻先を上げて叫ぶ。このおやつペレットをブタが気に入るかはわからない。単なる自己満足で終わる可能性も高い。
 それでもなぜか、スッキリした。もっと前からこんなふうに、誰かのために悩んで迷って、考えればよかったかもしれない。だが、今が今で、ブタがブタだからできることだろう。
 次にスーパーへ行く時には、リンゴも見てきてやろう。
 そう思う自分が新鮮だった。

【半年後】
 ブタが鼻で足元を掘り起こす『穴掘り』は、習性だ。
 祖先が土を掘って中の木の根などを食べていたので、その名残らしい。希恵が持ってきたプラスチックケースに小粒の白い石を入れてやると、ブタは鼻を鳴らして嗅いだ。
「ボッボッボッ」
 石を突いて、ケース内に散らしていく。運動にもなるしストレス発散にもなる行為だ。だが、いつも少しやるとやめてしまう。
 なので、またポチッてみた。
 休日になり、届いたブルーシートを和室に敷いて、そこに直接石を撒く。ベランダでやろうかと思ったが石が柵から落ちたら大変だ。まずは室内で試そう。
「おい、プギー。どうだ、これ」
 陽一は得意げに言った。居間で毛布を被っていたブタが顔を上げる。最近自分の名前を認識したのか、呼ぶとたまに寄ってくる。ブルーシートの端っこをフンフンと嗅いで、足裏の感触を確認しているようだ。しばらくして警戒が解けたのか、撒いた石に近づくと、それも嗅ぐ。
 陽一は発泡酒を飲みながら、黙って見ていた。ブタが鼻先で石をさわり始める。最初は小さく突く程度だったが、やがて石を弾くように下から突き上げだした。石がカンカンと音を立てる。
「ははは。かなり気に入ったみたいだな」
 缶を片手に笑う。休みの日は時刻を気にせず何本か空けるので、今日はもう適度に酔っぱらっていた。ブタが鼻で突き進む姿が面白くて、調子が上がる。
「いいぞ、いいぞ! もっと掘れ掘れ、プギー!」
 ブタが勢いよく顔を上げた。鼻先にあった石がブルーシートを越えて、陽一の元まで飛んできた。
「おお、すげえじゃん! 一番、DH、プギー選手ってか。よし、投げて打っての二刀流だ。先発投手で先頭打者ホームランだぜ。ぎゃははは!」
 ご機嫌になった陽一は大声で笑った。ブタが鼻で突きまわすと、石が四方八方に飛び散り、ブルーシートからボロボロとこぼれ出す。和室だけでなく居間にも飛んできた。
「おい、こら、プギー。やりすぎだ。撒き散らすな」
「フガ、フガフガー!」
 ブタはどんどん興奮して、鼻を突進させる。部屋中に石が散乱する。
「こら! おまえ、全部こぼれてんじゃねえかよ! シートの意味がねえだろう!」
 慌てて石を搔き集めると、そこにまたブタが突進してくる。鼻の力がすごい。穴掘りの仕草に夢中で、陽一の懐に飛び込んでも気が付かないようだ。鼻水を飛ばしながら突き上げてくる。
「なんだ、おまえ! やる気か! 負けねえぞ!」
 攻めてくるブタを摑もうとするが、丸い体は固定しづらく、しかも転がった石の上に手をついてしまった。激痛が走る。体勢を崩して膝をつくと、そこにも石がある。
「うわー! いてー!」
 叫びながら、一人でもんどり打つ。
「いててて! やめろ、プギー! 押すな! くそう、俺の負けだ!」
 気が付けばブルーシートには一粒の石もなく、真ん中ではブタが横たわって寝ている。石は方々へと飛び散っていた。
「おまえなあ、これ全部俺が掃除すんのかよ。こういう遊びじゃねえだろ」
 陽一は石を踏まないようにして、膝立ちでブタに近寄った。ブタはでっぷりした腹を気持ちよさそうに上下させている。その腹に、そっと手を置く。
「楽しかったか?」
 疲れて眠るブタに微笑みかける。後始末は大変だが、またブルーシート一面で穴掘りさせてやろうと思った。
 次の出勤日は朝からで、シフトの中で最も社員の出社が多い時間帯だ。工場内の社食で昼食を取っていると作業員のいずみが前に座った。まだ二十代前半の元気で人懐こい青年だ。仕事はしっかりするのだが、見た目と態度はチャラチャラしている。
「成瀬課長と会うの、なんか久しぶりっすね」
「うん? そりゃあ、なかなか重ならないよ」
 陽一は独り身で管理職でもあるので、出勤希望が少ない休日や深夜帯に、わざと多くシフトを入れている。こうして社食にいることがまれだ。今日のおすすめメニューは白身魚のフライ定食で、小泉のプレートも同じ料理だ。向こうは若者らしく大盛りの白飯をガツガツ勢いよく食べている。なんだか家のブタを思い出して、頰が緩む。
 小泉が急に手を止めた。半分かじった白身魚のフライを箸で摘まむと、じっと見つめている。
「なんだ、どした? 小骨でも刺さったのか」
「いえね、しょうもないこと思い出して」そしてまた食べ始める。「俺の彼女、熱帯魚飼ってるんですよ。熱帯魚って魚じゃないすか? だから俺、彼女が魚食ってる時に冗談で、おまえんちの魚も食ったらうまいんじゃないかって言ったんすよね」
 小泉の軽口に、こめかみがピクリとした。あまり掘り下げたくない気がする。
「……へえ」
「そしたら俺の彼女、激ギレですよ。なんでそんなこと言うんだって、マジで怒っちゃって、それから口きいてくれないんですよね。ったく、ただの冗談なのにさ。心が狭いっつうか、面白くないっつうか。成瀬課長もそう思いません?」
「あはは」
「ねえ、笑えるでしょう? でも別れたくないから、こっちが折れてやろうかなと。俺って心広いですよね」
「あはは。おい、小泉」
 陽一は立ち上がると、笑顔で小泉の後ろに回り込んだ。両肩に手を置き、体重をかける。
「もしも俺が、そうだな。――ブタを飼ってるって言ったら、おまえ、彼女に言ったようなことを俺にも言うのか?」
「えっ、ブタ? はは。課長がブタ飼ってるってウケる」と、小泉は笑った。だが両肩に乗せる力をどんどん強くしてやると、顔を強張らせた。
「いや、それは……。えっと、それは言わないと思います」
「だよな? だって冗談ってのは両方が面白く笑えるから 、冗談って言えるんだもんな。どっちも笑えねえ、面白くねえじゃ、なんでわざわざ人が大事にしてるもんを軽んじるようなマネすんだって話だよな? なあ、小泉。彼女が怒るのは当然だと思わねえか? 俺だったら自分ちのブタを……じゃなく、それが熱帯魚だろうとなんだろうと、食ったらうまいなんて言われたら黙ってねえよ。てめえのこめかみをゲンコツでグリグリ掘り下げて、穴開けちまうかもな。あははは」
「か、課長。怖いっす……」
 小泉は蒼白になっている。陽一はにっこり笑うと、両手で彼の背中を軽く叩いた。
「悪気なく言ったつもりが、相手を傷つける場合もあるってことだ。なんで彼女が怒ったのかわかったうえで謝らなきゃ、また同じことを繰り返すぞ」
「そ、そうですね。確かにそうかも」
 小泉は顔を引きつらせながらも頷いた。驚かせた詫びのつもりで缶コーヒーをおごってやると、わだかまりも残らずに済んだ。
 ついムキになってしまった。もう少し言い方があったと悔やむ。家に帰る途中、いつものようにスーパーで割引シールが貼られた弁当と総菜、発泡酒を一缶カゴに入れた。
 そして、果物売り場でリンゴを手に取った。
 相手が何であろうと、楽しませてやりたいとか、喜ばせてやりたいとか、そういう感情がある。
 その環境に置かれるまで知らなかった。きっと今まで、自分も小泉と似たようなことを言っていただろう。悪気もなく、平気で、誰かを傷つけたかもしれない。それに気付かせてくれたのは、家で待つブタだ。
 手にしたリンゴを一個、カゴに入れた。

【一年後】
 妹一家が一年ぶりにシンガポールから帰国した。
 前もって連絡があったので、その日に合わせて陽菜もマンションに来ていた。希恵が訪ねてきた時、ブタはサークルから出て、陽菜の手のひらを嗅いでいた。
「あ、希恵おばちゃん」
「陽菜ちゃん、久しぶりね。わあ、大人っぽくなったわね」
「だってもう大学生だよ。希恵おばちゃん、斗真君は一緒じゃないの?」
「斗真は旦那と一緒に、先に実家にいるわ。ここへ来たらきっと泣いちゃうから」
 希恵はしゃがむと、手をたたいた。
「キッド君! ママだよ! キッド君!」
 希恵は涙目だ。離れている間も希恵に頼まれ、しばしばブタの動画や写真を送らされていた。妹なりに気にかけていたのだろう。だが何度手をたたいても、ブタは顔も上げずにフガフガと鼻を鳴らしている。
 無視する様子に、陽菜は首を傾げた。
「ねえ、パパ。この子、そんな名前だったの?」
 陽一はギクッとした。しまった。慌ててバチバチと手をたたく。
「ほら、来い! キッド君! こっち来い、キッド君!」
 呼んでも騒いでもブタは知らんふりだ。希恵が睨んでくる。
「お兄ちゃん、名前変えたんでしょ」
「あだ名だ。あだ名で呼んでたんだよ」
「まあ、いいけど。ひと回り大きくなって元気そうだし。大事にしてくれてありがとうね」
「ああ。それよりお前、どうすんだ。斗真も来年小学校だろう」
「うん。でもラボの稼働が予定よりだいぶ遅れてるの。今回も延長の手続きに帰国しただけで、最低でもあと一年は戻れそうにないんだ。 だから向こうのインターナショナルスクールへ入れるつもり。お兄ちゃん、それまでの間、キッド君を預かってくれる?」
「ああ」と、まだ陽菜の手を嗅ぎ続けるブタを見る。「世話にも慣れたし、おまえらがこっちに戻ってきて、飼えるようになるまで面倒見てやるよ」
「ありがとう。必ず、ちゃんと迎えにくるから」
「わかってる。おいプ……キッド君。もうサークルに入れ。陽菜も、ばあちゃんちに行くぞ」
「うん、プ……キッド君、おうち帰るよ」
 陽菜は自分の手で誘導して、ブタをサークルへ戻した。今からみんなで成瀬の実家で集まる予定だ。陽菜が祖父母に会うのは久しぶりだ。そのうち大学が忙しくてもっと疎遠になるだろう。元妻は再婚したので、向こうには新しい家族の枠組みができた。今のところうまくやっているらしく、娘が陽一のマンションに引っ越して来る予定はない。
「陽菜ちゃん、大学楽しい? サークルには入った?」
「楽しいよ。テニスサークルに入ったんだ」
「あー、いいよね、テニス。楽しいよね」
 希恵と陽菜は喋りながら先へ行く。陽一はチラリと和室を顧みた。ブタは鼻先を上げて、こっちを見ている。
「おまえは連れて行けないぞ。留守番してろ」
「ブッ」
「ブーブー言うな。帰りにリンゴ買ってきてやるからな」
「ブッ……ブッ……」
 ブタは不満そうに足元を嗅いでいる。話ができるわけではない。連れていけるわけでもない。妹一家が帰国すれば、ちゃんと返すつもりだ。それでも何かする時には、ブタと陽一は一括りだ。
 一緒に暮らせばやはりそれは、家族だから。

  *

■ 著者プロフィール
石田祥(いしだ・しょう)
1975年、京都府生まれ。高校卒業後、金融会社に入社し、のちに通信会社勤務の傍ら小説の執筆を始める。2014年、第9回日本ラブストーリー大賞を受賞した『トマトの先生』でデビュー。『猫を処方いたします。』が第11回京都本大賞、第13回うつのみや大賞文庫部門を受賞する。著書に、「猫を処方いたします。」「ドッグカフェ・ワンノアール」の各シリーズの他、『元カレの猫を、預かりまして。』『夜は不思議などうぶつえん』『火星より。応答せよ、妹』『京都お抹茶迷宮』がある。『元カレの猫が、居座りまして。』を3月11日刊行予定。

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