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縁結びカツサンド

 一筆啓上仕候
 
 和久様

 古今東西、ひとかどの人物ってのは、てえしたことを言いなさるもんだ。
 あんまり感心しちまったから、お前さんにも教えてやろうと思ったが、同じ家に住んでいるってのになかなか話す時間もない。俺もいい年になってきて、いつ忘れるか、いつ思い出すかもわからねえから、こうやって書いておくことにした。

「人類のもっとも偉大な思考は意志をパンに変えること」
 ドストエフスキーとかいうロシアのおひとの言葉だそうだ。商売は知らねえが、これだけのことを自信たっぷりに言えるたあ、きっとてえしたパン屋だったんだろうと思う。
 俺はロシアのパンてのは食ったことがねえが、こういう心がけの職人が手がけたパンなら、創意工夫に満ちた素晴らしいパンなんだろう、ぜひとも食ってみたかった。俺もそういうパン屋でありたいし、そういう気概のあるパン屋がどんどん出てくりゃいいと思ってる。
 パン生地の機嫌がわかってはじめて一人前というが、粉みたいにちっちゃくてぱらぱらしたもんが、手をかけてやると、ふくふくに大きく膨らんで、あんなにうまいもんになるのはいまだに不思議なもんだ。同じ材料で同じように作ってるのに、俺のパンと、お前さんの親父が作るパンがちょっとずつ違うってのも、面白い。
 目は口ほどにものを言うらしいが、手はそれ以上に語るもんがあるんじゃねえだろうか。だから、うまく言葉にできねえことも、ただ黙って作ったもんを食えば、通じるんだろうと思う。いつか、お前さんのパンを食ってみてえものだ。

 人生ってやつにはいろんな波がある。うまく乗りこなすのも才覚だが、そんなにいい波ばっかり来るわけじゃねえ。日本人はノーと言えないとよく言うが、言えないんじゃなくて、言わねえんじゃないだろうか。それは弱さじゃなくて、強さだ。できねえと突っぱねるのはたぶん簡単だ。だが、最後の最後まで可能性にかけてみ
るその心意気ってのが立派だと俺は思う。それでだめならやめりゃいい。食わず嫌いはいただけねえが、食ったうえで嫌うのは大いにやればいい。
 俺はガキん時から鬼八って呼ばれたまんまこんなじじいになっちまったが、振り返ってみればいっぱしに店を構えられたのは、食わず嫌いしなかったせいだと思う。食材も物事もハナから否定しなかった。
(思い出したからついでに言っとくが、お前さんが冷蔵庫に入れてた、ほあぐらとかいうのを食ったのは俺だ。あんときゃシラを切ったが、謹んで謝っておく)

 いつだったか、お前さんに店の名前の由来はなんだと聞かれたことがあった。はなたれ坊主の頃だ、覚えちゃいねえかもしれねえが、子どもってのはまっすぐなもんだと驚いた。
 お前さんも知ってるだろうが、俺の信条は「パン生地と女子どもには誠実に」だ。
 それまで誰に聞かれても照れくさくてはぐらかしてきたが、お前さんには真正面から向き合って答えた。そこには、俺がいっちばん大切にしてるもんを込めたんだと。
 もしかしたら、お前さんには、いつかそれがわかるのかもしれねえ。腹割って話す時間もねえが、仕事に出てく背中を見てると、そう思う時がある。
 近頃のお前さんはなんだか、悩んでるようにも見える。
 俺の嫌いな言葉は、お前さんも知ってのとおり、「ノー」だ。否定するとすべての道が閉ざされる。解決策が見つかるはずのことも見えなくなっちまう。
 とくに、自分を否定しちゃいけねえよ。自分を信じて、一歩を踏み出すのが大事だ。その積み重ねがいつか、お前さん自身を作るんだろう。

 店は継ぐも継がぬも自由。
 縛るつもりはねえから、お前さんはお前さんの信じる道を行ったらいい。
 ほあぐらでもいい。
(どうやって食うもんか知らねえが、焼いたらうまかった)
 
 こういうことは面と向かって言うのも照れくせえもんだが、こうして書いてもやっぱりこっぱずかしくなってきたから、隠しとくことにする。
 ひょっとして、俺の目が黒いうちに見つからなかったりしてな。まあ、そんときゃそん時だ。お天道様に任せて、届くべき時にお前さんに届くよう祈っとく。
 本当なら、この手紙に、小切手だの札束だの添えておきゃ、格好もつくんだろうけどよ。
 たっぷりあんのは心意気だけだ。悪く思うなよ。
 
 平成××年八月吉日 音羽 喜八 拝
 
 ──その手紙は一年以上過ぎた今も、見つけられていない。


第一話 まごころドーナツ

   1 

 通行人もまだ少ない木曜夕方のオフィス街に、機関銃のような足音がこだまする。
 私のヒールが立てている音だ。
 定時になった瞬間、職場を飛び出した。頰をかすめる風の冷たさに秋の深まりを感じる。鞄を握る手にぎゅっと力を込め、スマホを耳に当てて、ひたすらに駅を目指す。
 吉報を、一刻も早く秀明ひであきに伝えたかった。
 きっと同じように喜ぶに違いない。すぐに待ち合わせて出かけることになるかもしれない。そう信じてかける電話は、繰り返す呼び出し音さえもどかしかった。コールが途切れた瞬間、早口に用件を伝えて、歓喜の声をわくわくと待つ。
 なのに、聞こえるのはホワイトノイズばかり。通信状態を確かめようとした時、耳に届いた予想外の声音こわねに、ぴたりと足が止まった。
《少し、考えさせて》
 いつもより硬く感じる声は、理由を聞いても教えてくれず、待ってほしいの一点張り。
 頭の中が疑問符で埋め尽くされ、呆然とその場に立ち尽くした。秀明がためらう要素なんてあったろうかと、必死に先週土曜日の様子を思い返した。

   *

 周囲を深い緑に囲まれた白亜はくあの邸宅は、二段重ねのデコレーションケーキに似ていた。
 外壁には生クリームの飾りみたいなバラの浮彫うきぼりが施され、一階より二階が小さいところもそっくりだった。あちこちから聞こえてくる小鳥のさえずりに、ここが都会の真ん中だということも忘れて、甘い夢の中に足を踏み入れた。
 一日に一組だけ心を込めてもてなすというゲストハウス風結婚式場は、SNSでの人気も高く、式場見学会には大勢のゲストが詰めかけていた。案内された大広間にはハーバル系の香りが漂い、壁や天井を飾る花々の浮彫がほどよくエレガントで、ときめいた。テーブルセッティングは上品な白と淡いブルー。ウェルカムカードに添えられた、いちごミルク色のアーモンド・ドラジェもかわいらしかった。スタッフも学生アルバイトではなく、もてなしのプロフェッショナルばかり。ゲストの一人一人にきめ細かに応対し、居心地のよさを作り出し、雰囲気がすこぶるよかった。評判が高いだけあるねとささやくと、かちんこちんに固まっている秀明はいつになく上の空で、ぎこちなく首を上下させた。
 人生の節目になる大切な日だから、できるだけこだわりたい。
 そう二人で話して、見つけた式場だった。もっとも、秀明は私の提案に首を縦か横に振るだけで、料理がおいしければそれでいいと言う。
 一歩足を踏み入れた瞬間からここだという直感があった。あえて言えば駅から遠いけれど、シャトルバスが出るというから難点に数えるほどでもない。
 模擬結婚式がはじまるとあちこちからささめく声が聞こえた。
 キャンドルの光に照らされて、サテンのウエディングドレスには、動くたびに艶やかな光沢が揺らめいた。やがて会場全体がしんと静まり返り、誓いの言葉が交わされ、用意された指輪に、スポットライトが当たった。
 厳おごそかな雰囲気の中、二人はゆっくりと指輪を手にとり、互いの指につける。輝く笑顔の横にかざされた指輪が、照明を反射してきらりと光る。二人を盛大な拍手が包み込む。
 その姿は、いつかこの場所に立つかもしれない私たちの姿に脳内で変換され、シャンパングラスを握りしめたままうっとりと見惚みとれた。お色直しのカラードレスや和装の衣裳紹介の間もずっと私はフォークとナイフを握りしめたまま、オマール海老に手をつけるのも忘れて、空想に浸った。
 式のためにと伸ばした髪はもうすぐ腰まで届く。和装でも洋装でも自分の髪で結い上げられるよう、長いこと手入れには気を遣ってきた。衣裳は髪型は、と思いめぐらしている間に時は過ぎ、秀明に、おいしいから食べなよ、と小突かれなければ、あのままデザートタイムさえ終了していたかもしれない。
 夢見心地は、予約の段になるとはかなく消えた。挙式予約は先々まで埋まっていて、いい日取りを選びたいのなら一年半以降の見込み。それでもいいという秀明と、一年以内でなるべく早くを希望する私の意見は割れて、ウエディングプランナーさんの提案するキャンセル待ちにひとまず登録することで落ち着いた。仮予約になっている日にちにキャンセルが出れば、私たちに順番が回ってくるという。一年以内で仮予約になっているのは唯一、来年九月頭の日曜日のみ。仏滅ぶつめつのためらしい。その日に登録し、会場を後にしたのだった。
「一年半後でも別にいいのに。仏滅って式挙げてもいいのかな」
 駅に着くなり入ったカフェで、秀明はアイスコーヒーを一気に飲み干し、ため息と一緒に吐き出した。今は気にしないひとも多いと、プランナーさんは言っていた。
 しきりに汗を拭うのは、かなり緊張していたかららしかった。秀明はもともと、はじめてのひとと会うことも、ひとがたくさん集まる場所もあまり得意ではない。ランチのお店も、席数の少なさで選ぶくらいだ。
 私はおろしていた髪をシュシュで束ねて、熱いカプチーノをちびちびと口に含んだ。
「私は、早ければ早いほどいい。登録の日も誕生日のギリギリ一週間前だし」
 三十か、と呟く秀明を、まだ一年近くあると軽く睨みつける。
理央りおは転勤になるんだっけ」
「そう、キャリアパスの変わり目なの。三十過ぎの未婚総合職は、男女関係なく地方に飛ばされるの。ステップアップのための武者修行だけど、せっかく遠距離の転勤が少ないから地方銀行に入ったのに」
 知らない場所での新しい生活って楽しそうだけど、と吞気な秀明に、言うほど楽なものじゃないと釘をさし、遠距離恋愛エンキョリはきっと無理だし、とつけ加えた。
「あんまり会えないのも、連絡がなかなかつかないのも、耐えられないと思う」
 そういうものかなと曖昧あいまいに呟く秀明は、残った氷をストローでガチャガチャかき混ぜ、私の手元に目を留めた。
「そういえば最近、指輪してないね」
 咄嗟とっさに左手薬指を庇うように右手を重ねた。誕生石のサファイアが埋め込まれたシンプルな婚約指輪は、そこにはない。
「なくしたら大変でしょ、大事にしまってるの」
 気を悪くしたかと一瞬心配したものの、ふうん、と気のなさそうな返事に安堵した。
「母さんが、また理央を連れてこいって」
 秀明は実家暮らしで、何度か家にもお邪魔したことがある。ご両親も、大学院生の弟くんも同じ顔で、みんな笑うと目が弓なりに細くなった。秀明のママはずっと娘が欲しかったと私をかわいがってくれ、婚約指輪を選ぶ時にも、普段も使いやすいデザインについて助言してくれた。
「それはありがたいけど、まずは式場をなんとかしないと」
 そうして料理やドレスについて、あれこれと語り合ったのだった。
   
   *

 秀明が気にする要素なんて、ひとつも思い出せなかった。
 一段と力を込めて、電話の向こうに語りかける。
「いい話だよ。八月の土曜日、しかも大安たいあんなんだよ?」
 本契約にキャンセルが出たという。見学会で相談に乗ってくれたウエディングプランナーさんが、私が一年以内にこだわっていたのを覚えていて、仮予約にしておくから検討してはどうかと連絡をくれたのだ。
 大安なら、両親はもちろん、職場や親戚の口うるさいひとだって文句のつけようがない吉日だ。本契約のキャンセルはなかなかないことらしく、プランナーさんもラッキーですよと興奮気味に推していた。
《せめて仮予約にしてもらって》
 やる気の感じられない返答のせいで、奥歯に力がこもった。
 即答で本契約を結びたいのをぐっと堪え、秀明と喜び合いながら本契約の段取りをつけようと、連絡したというのに。
 血ののぼる頭を軽く横に振り、目を閉じて、頭の中の人事部虎の巻を思い浮かべる。
 これまで仕事で蓄えた知識や経験、聞きかじりが、こういう時に案外役に立つ。ストレスというのは、悪い時ばかりではなく、よい時にもかかるものなのだという。昇進うつやマリッジ・ブルーがいい例らしい。もしかしたら秀明は、男のひとのマリッジ・ブルーなのだろうか。だとしても、人生の大舞台なのだし、お互い後悔を残さずに事を進めたい。
 大きく息を吸い、つとめて冷静に返事をした。
「もう仮予約にはなってる。期限は一週間だって。それまでに本契約の手続きに行かないと。考えておいてね」
 電話を切っても、もやもやした思いが胸中きょうちゅうを漂った。あの式場に熱を上げているのは私の方だけれど、秀明だって料理がおいしいと気に入っていたはずだ。
 納得いかないことがあるなら、言ってくれればいいのに。
 秀明はいつも言葉数が少なくて、本心がどこにあるのか、よく見えない時がある。
 
 山手線やまのてせんの窓の外には、昼とは顔つきを変えた街が続いている。
 近郊の街へひとびとを運ぶ中長距離路線と違って、都心の環状線かんじょうせんの夜は、どこも明るい。宇宙から見た夜の東と う京きようは、真ん中が暗闇なのだそうだ。皇居こうきょをとりまく静かな森を、あかりに満ちた街がとり囲んでいるという。
 この明るさにまだ少しだけ違和感がある。ほんの二か月前まで慣れ親しんでいた横浜よこはま郊外までの窓の外は、駅の周辺だけが明るく、他は暗かった。
 結婚が決まったのを、ママは手を叩いて喜んだ。
 女性らしさなんてたいして意識せずに育てられてきたのに、秀明が結婚の挨拶に来て以来がらりと方針が変わって、一人暮らしを命じられた。
 自分のことすらきちんと面倒を見られない私に秀明のお世話はつとまらないと、やけにはりきって、パパの異議も一切受けつけず、即刻実家退去を申し渡してきた。受験の時も就職の時も、ここまで熱の入った様子は見たことがなくて、本領を発揮したママの、炎でも背負っているかのような迫力に、私は頷くしかなかった。
 たしかにこれまで一人っ子の境遇に甘えて家のことは全部ママに頼りっぱなし。料理は気まぐれにパスタを茹でる程度だし、掃除と洗濯はロボット掃除機やドラム式洗濯乾燥機のボタンを押すだけが私の家事経験だった。秀明も実家暮らしだから、結婚後の生活力は私のちゃちな双肩そうけんにかかっていると言っても過言ではなくて、ママはなんとか家事力を植えつけねばと血眼になった。土日の短期集中スパルタ式家事特訓ののち横浜の実家を追い出されて、何から何まで自分の手で生活を形作っていかざるを得なくなった。
 駅のホームに滑り込む電車の窓に、商店街のアーチがゆっくりと近づいてくる。
 駒込こまごめうらら商店街。
 この街に住んでみようかと思ったのは、この商店街の存在が大きかった。
 住宅情報誌をやみくもにめくる私の横で、秀明は乗り換え検索アプリを駆使して、職場と秀明の家へのアクセスがいい、いくつかの候補を挙げてくれた。実際に足を運んでみて、この鼻歌の似合いそうな街並みが、すっかり気に入ってしまったのだ。
 改札を抜け、今や「家までのいつもの道」となった、商店街のアーチをくぐる。
 軒のきを連ねるのは、お蕎麦そば屋さん、漢方かんぽう薬局、呉服屋さん、時計屋さん、眼鏡めがね屋さんに中華料理屋さん。今の時間はどこもシャッターが下りているけれど、昼間なら、豆腐とうふ屋さんから漂う大豆の香りや、喫茶店から漏れてくるコーヒー豆の香ばしさに誘われて、つい寄り道をしてしまう。小さな商店がひしめき合う街並みは「昔ながら」という表現がぴったりで、履物はきもの屋さんでは気さくなおじさんがカラフルなサンダルを見立ててくれたり、マッチョな肉屋さんが揚げたてのコロッケをすすめてくれたりなど、ちょっとした会話や雰囲気もあたたかい。
 とりわけ、決め手になったのは、パン屋さん。
 商店街の中ほどの四つ角に佇むその店から、今日もあたたかい光がこぼれている。

 ベージュ色のレトロな二階建ての一階部分に作られた、小さなお店。商店街のメインストリートに向いた自動ドアと、路地に面した大きなガラス窓から中が見えて、窓に沿って据えられた二段の棚にパンが並ぶ。
 あんぱん、クリームパン、チョココロネ。どこかなつかしい顔つきのパンばかり。窓に白く浮かんだ「コテン」の文字は手書き風で、ぽってりと丸いパンの形にそっくりだ。
 その全体に丸みを帯びた雰囲気に、尖った気持ちも丸くなるようだ。自動ドアがぜいぜい言いながら開いて、ふわっと甘い空気に包まれる瞬間がまた、たまらない。
 六畳ほどのこぢんまりした空間の中央には陳列棚がでんと構えている。飴色になった木の床がそのまわりだけ白っぽく削れているのは、長い間お客さんたちに愛されてきた証拠だろう。白い帯は店の奥の、使い古されて角の丸くなったレジ机に行きつく。その端にちょこんと置かれたクラシックなコーヒーミルも、壁に飾られた古い新聞の切り抜きも、すべてがセピア色の空気をまとって、やさしくそこに佇んでいる。
 レジ机の奥は厨房ちゅうぼうになっていて、仕込みを進める姿が見えた。白い調理服に身を包んだ年配の男のひとは、店のご主人。ご主人がパンを焼き、奥さんが店番をしているのが、越してきた頃のこの店の風景だった。
 そこにデニム地のエプロンと紺色のバンダナ姿の若者が加わったのが一か月ほど前のこと。最初はアルバイトかと思っていたけれど、ご主人と目元がよく似ていて、親子とわかった。両親の方は棚に並ぶパンたちによく似たふくよかな体型なのに、息子の方はひょろひょろと細く背も高く、あんぱんやクリームパンの中にただひとつ放り込まれたバゲットみたいに、違和感を放っていた。もっともその違和感は、見た目からだけでなく、彼の、微妙な接客態度からもかもし出されていた。
 時間をかけて選び抜いたパンをトレイごとレジ机に載せると、息子くんの方がやってきて、いつもどうも、と頭を下げる。顔とともにその視線も徐々に上がるものの、いつも私の喉元あたりで止まる。
 そうやって伏し目がちになると、長いまつ毛が切れ長の目にかげを作って、細面の整った顔立ちが引きたつ。すっきり通った鼻筋も結ばれた薄い唇も、そのままなら凜とした印象なのに、頼りなさそうに感じるのは、背中が丸まって、しょぼんと見えるからだ。この間は、履物屋のおじさんが代金はツケといてと言って棚のあんぱんにいきなりかぶりつくのを、おろおろするばかりでとがめることもなかった。少なくとも、接客に向くタイプじゃない。もしも彼がうちの行員だったら、新人研修で真っ先に指導が入るタイプ。いや、それ以前に、採用すらされていないかもしれない。
 それに、どういうわけか私が会計をする時に限って、表情が曇るような気がする。
 また、トレイを見つめる息子くんの表情が曇ったような気がして、たまらず尋ねた。
「あの、なにか?」
「あ、いえ」
 あんぱんとくるみぱん、スライスされたぶどうぱん。なにか問題があるようには見えない。
 真ん中が小高く盛り上がったあんぱんは、見るからにあんこがぎっしり詰まっていそうだし、くるみぱんの表面には砕かれたくるみが顔をのぞかせ、ぶどうぱんの断面には、緑と紫の干しぶどうが踊るように並んでいる。コテンのパンはどれもおいしそうで、できることなら全部を食べてみたいけれど、胃袋の容量からするとがんばっても二、三個が限度。選び出すのは毎回至難の業なのだ。
 息子くんがまた一瞬、首をひねったのを私は見逃さなかった。どうしても気になってしつこく問いただすと、彼はようやく口を割った。
「どうしてわかるのかと、不思議で」
 私が選んだパンは、どれもお店のご主人が焼いたパンなのだという。
「わかるもなにも、私、ただ自分が食べたい気分のパンを選んだだけです」
「そこなんです。それが知りたいんです」
 彼は眉間みけんにぎゅっと力を込めて、パンを見つめた。
「見た目が違うのか、香りが違うのか。職人の経験値がプリントされてるわけでもないのに、俺の作ったパンと父のパンは、売れ行きが違うんです」
 彼は壁に飾られた額縁がくぶちに目を走らせた。
 中には、うす茶色に変色した新聞の切り抜きが収められていて、粗い写真にはこの店の前に立つ若夫婦が写っていた。
「うちの店、去年亡くなったじいちゃんが、あんぱんひとつから始めたんです。よく言ってました。同じ材料で同じように作っても、作り手によってちょっとずつ違うって」
 新聞の日付は昭和三十五年。そこから引き継がれてきたのは、店と味ばかりで、明文化されたレシピなどはないのだという。店の中を見渡してみると、たしかに残っているパンの個数には偏りがあるようにも思えた。
「まだまだってことなんですよね。自分のパンを焼くには」
 そう自己完結してがっくりと肩を落とす。
 お店に商品として並べている以上、店のご主人が納得する品質にはなっているのだろうし、ぱっと見ても、素人目には違いなんてわからない。
「きっと偶然ですよ。食べたいパンって日によっても変わるし、私もいつも同じパンを選ぶわけじゃないですし」
「いつもなんです」
「え?」
 息子くんは、私の喉元をじっと見つめる。
「あなた、ええと」
「理央です、段田だんだ理央。でも名字は近々変わる予定なの。下の名前で呼んでください」
「それはおめでとうございます!」
 と声を弾ませてから息子くんは表情を硬くし、「で、いいんですか?」とおずおず尋ねてきた。
 考えてみれば、名字が変わる状況には二通りある。結婚と聞き胸を撫で下ろした律義りちぎさが、どこか秀明とも重なって、親しみを感じた。私と同じ二十九だと聞いてさらに親近感を覚えたのは、見知ったひとのいない街に住んでいるせいもあるかもしれない。
 彼は、この店の三代目にあたるそうで、音羽おとわ和久かずひさと名乗った。
 三代目と呼ぶと、まだ見習いみたいなものだと恐縮した。店を継ぐかどうかもわからないという。姿勢を正して私に向き合う三代目の視線は、やっぱり喉から上には上がらない。
「理央さん、あなた、いつも父のパンを選ぶんです。日によって担当するパンが変わっているのに、必ず」
 見る「目」を持っているに違いない、と三代目は主張するものの、なにが違うのか問われても、ただ直感で選んでいる私にわかるはずもなく、二人して考え込んでしまった。
「あなたに見えてるものがわかればと思ったんですが」
「残念ながら、お悩み解決の役には立てなそう」
「きっと、技術だけじゃないなにかが、違っているんでしょうね」
 三代目はそう呟いて視線を落とし、生まれたばかりの赤ちゃんに触れるような手つきで、パンをひとつひとつ袋に詰めた。
「最終的に選んだのがあなたのパンじゃなくても、いつもすごく迷います。だから仮に足らないところがあるとしても、あとちょっとなのかも。ちなみに今日あなたが焼いたパンは?」
 三代目はパン棚の一角を指さした。その先を見て、私は笑い出してしまった。
「悪いけれど、一人暮らしで食パン一斤は買えません」
「そうなんですか?」
「だって、食べきれないもの」
 思いもよらなかったと言いながら三代目は、レジ机を抜け、食パンを一斤抱えて戻った。
「シンプルなものほど個性が出るものですよ。うちのパンの味っていったら、これです」
 パンをスライスする指先の、しなやかで洗練された仕草には、パンへの敬意がほとばしって見えた。
「そのまま食べるのはもちろん、トーストもいいですし、サンドイッチにもできますし」
 ふと気づいて、店内を見回してみる。
「そういえばこのお店、サンドイッチがないんですね」
 棚のパンにも、レジの前に並べられた売り切れ商品のプライスカードにも、サンドイッチは見当たらない。
「ああ、それは、じいちゃんの考えなんです。パン屋はパンを売るんだ、中身をとっかえひっかえして同じパンを出せるか、って」
「根っからの職人さんだったんですね」
「ええ、たいそうな頑固がんこ者で。そういうパンはご家庭で作るのがいいって。そうやって、ご家庭の味ができていくんだからと」
 三代目は、スライスされた食パンを一枚、お味見にと言い添えて袋に入れてくれた。最後まで視線は交わらなかった。
 店を出ると、針金みたいに細い月が夜空に浮かんでいた。
「家庭の味、かあ……」
 秀明と築くはずの家庭の味がどんなものになるのか、今はうまく思い描けなかった。
 それ以前に、結婚式はどうなるのか。
 薄い雲がゆっくりとたなびいて月を覆い隠していく。

    2

 こんなにおいしそうにごはんを食べるひとがいるんだ。
 秀明に興味を持ったきっかけは、その印象だった。
 長い人生、ずっと向き合って食事をしていくなら、こういうひとと一緒がいいと、あの時直感した。
 
 秀明に出逢ったのは、私が異動前、まだ支店の渉しよう外が い係だった頃だ。
 担当していたシステム開発会社での打ち合わせ中、真新しいスーツに身を包んだ彼が、慣れぬ手つきでコーヒーを出してくれたのが、私たちの最初の出逢いだった。
 コーヒーカップをカタカタ震わせながら、のう狂言きょうげんのように中腰でそろりそろりと現れた彼は、スローモーションで私の前にカップを置いた。
 今年新卒で入った浅野あさのですと紹介された彼は、スーツのポケットをあさり、深々と頭を下げながら、私に、なぜだか小袋入りのドーナツを差し出した。戸惑いながら受けとると、顔を上げてようやく間違いに気づいたらしく、緊張しててすみません、と真っ赤な顔で今度こそ名刺ケースを取り出し、その中身を床一面にぶちまけた。ドーナツを返そうとすると、コーヒーとドーナツはよく合いますから、ときっぱり断って、右手右足を一緒に出しながら去っていった。
 次に訪問した時には彼はもう新人研修を終えていて、再会したのは半年後。訪問後に入った定食屋で、偶然相席になった時だった。
 ドーナツの、と話しかけるとすぐに思い出したらしく、頰を赤らめて折り目正しく頭を下げた。あれは彼の個人的なおやつだったそうだ。あのおかげでいつもより和やかに打ち合わせが進んだと礼を言うと、はにかんだ笑顔を見せた。笑うと目が弓なりに細くなった。新卒とはいえ大学院卒の彼は、実際には私よりも年上で、私
がメニューからさけの親子丼を注文すると、僕もそれです、と頷いたきり、黙った。
 緊張していると見えて、彼はしきりにまばたきをした。それは私にも伝染して、向かい合った私たちは無言のまま、まるで試合みたいにまばたきを交わし合った。食事が運ばれてきて、ほっとしたのも束の間、私は秀明の様子に目を奪われた。
 秀明は実においしそうにごはんを食べた。
 鮭の炊き込みごはんの上にイクラを散らした親子丼はたしかにおいしかったけれど、あまりにもうれしそうに箸を運ぶ秀明の姿に、つい自分の箸を動かすのを忘れた。
 こんなにおいしそうにごはんを食べるひとは、見たことがなかった。
 一緒に食事をすると、相手のいろんなところが見える。味の好みや、好き嫌い、好物を先に食べるのか残すのか。性格や、それまで歩いてきたそのひとの日々が透けて見える。
 秀明の気持ちのよい食べっぷりは、同じ食事をよりおいしく感じさせてくれた。
 好奇心から、近隣のランチでどんなお店に行くのか尋ねると、いくつかの店を挙げたのち、よかったら案内しますと名刺の裏に個人的な連絡先を書きつけて渡してくれた。厚意に甘えて訪問のたびに昼ごはんを一緒に食べた。
 秀明が連れていってくれるお店はどこもこぢんまりしていて、すこぶるおいしかった。席数が少ない分、目が行き届いて客の反応をよく見ているから、おいしいものが作られるのだというのが、秀明の持論だった。普段からあまりしゃべらず、食事が運ばれてくると語彙ごいはほぼおいしいの一言に集約されたけれど、どんな料理でも、見ているこちらまで胸が躍るほど、おいしそうに食べた。
 人事部への異動が決まり、今までの感謝を伝えた最後の食事の席で、金目鯛きんめだいみたいに真っ赤になった秀明から、つきあいませんかと持ちかけられた。

 それから二人でいろんな料理を一緒に食べに出かけた。秀明には基本的に好き嫌いはなくて、食べられないものは、パクチーくらい。
 事前にそう伝えておいたのに、秀明が実家に結婚の挨拶に来た日、食卓には山のようにパクチーが積み上げられていた。
 この日のためにハーブ料理講座に行ったとママは大はりきりで、ハーブ農家からわざわざ取り寄せたというフレッシュハーブを自慢した。心配になって、パクチーは無理だと繰り返しても、ママは大丈夫だと請け合う。
「でも、この緑の葉っぱ」
「大丈夫。これは、コリアンダーよ」
 魔法のハーブって言われるくらい体にいいのよと、トムヤム鍋にごっそりコリアンダーを放り込み、エビとコリアンダーが透けて見える生春巻きや、きくらげや挽肉ひきにくなどの具材がすべてコリアンダーに覆われた春雨はるさめサラダを本格的だと自慢げに並べ、締めの一品として、海南ハイナンチキンライスにたっぷりのコリアンダーを盛りつけた。
 ママは、コリアンダーの別名が、パクチーや香菜シャンツァイであることを、本当に知らないらしかった。
 訂正せねばと口を開きかける私を制して、秀明は静かに箸をとった。
 いただきます、と挨拶するなり、いつもの惚れ惚れするような食べっぷりで、山盛りのパクチーをこともなげに平らげ、おいしいですコリアンダー、と笑顔を見せた。
 ママが秀明を気に入ったのはもちろん、ママが中座した隙に真実を知ったパパも秀明の気概に惚れ込んで、すんなりと結婚の承諾を得ることができた。
 帰り道、暗に結婚を認めないと言われてるのかと思って焦った、と白状した秀明は、ちょっときつかったと頭を搔きながら、あのはにかんだ笑みを浮かべた。私のためにがんばってくれた気持ちを思うと、泣きそうになった。
 胸に顔をうずめながら、このひとに出逢えてよかったと、心から思った。
 秀明は相手を尊重するけれど、自分の意見はしっかりと持っていて、そういうところは頑固なまでに譲らない。友人たちとのバーベキューの予定が台風接近予報と重なると、かたくなに反対して中止に持ち込んだし、たとえ台風が逸れて晴れたとしても、一度決めたことはひるがえさなかった。
 それに困っているひとを見ると放っておけない性分でもある。迷子になったどこかのおじいちゃんを家まで送り届け、約束にひどく遅れて来たこともあった。結果的に私は待ちぼうけをくったものの、あそこで見て見ぬふりをするようなひとなら、結婚しようとまでは思わなかったかもしれない。
 なにかがあっても、このひとと一緒ならやっていけるだろうと思わせてくれたのは、秀明の言葉というよりも、ひとつひとつの行動だった。普段から言葉にしてくれることが少ないから、なにを考えているのかよくわからないこともあるけれど、誠実な人柄は誰よりもよく理解しているつもりだ。
 でも、今回に限っては、言葉にしてくれないのが、辛かった。
 結婚式を延期しようとする理由は、想像がつかない。
 仮予約の期日が明日に迫っても、秀明は、できる限り待ってほしい、可能ならなるべく延ばしてほしいと言って、早々に電話を切ってしまった。
 つきあって以来はじめての大きなすれ違いに、私はひどく困惑していた。

   *

 お出かけ日和とばかりに晴れ上がった空を見上げても、気持ちはちっとも晴れない。
 結局、式場には無理をお願いして、仮予約をあと一週間延ばしてもらった。一旦キャンセルすることも考えたけれど、きっと瞬時に予約が埋まってしまうに違いない。どうしても諦めきれず、両家で調整をしているからもう少し待ってほしいと、必死に頼み込んだ。
 本当なら今頃、本契約していたかもしれないと思うと、ため息ばかりがこぼれた。
辛気しんきくさい顔してないでちゃんとお祈りしなさいって」
 眉を吊り上げる恵利佳えりかの横で、のろのろと頭を下げる。二礼二拍手一礼。朝から呪文のように呟かれ続けて、耳に刻まれてしまった。
 恵利佳とは初配属された支店からのつきあいで、おつぼねからの強い風当たりも昇進試験も恋愛も一緒に乗り越えてきた戦友みたいなものだ。神社めぐりに凝ってると聞いてはいたものの、恵利佳の所属するM&A推進部署は私のいる人事部よりも忙しく、参拝どころか、こうして一緒に出かけるのもずいぶんと久しぶりのことだった。
 恵利佳おすすめの東京大神宮は、東京のお伊勢いせさまとして知られ、縁結びにご利益があると評判の神社だそうだ。参拝客も若い女性が多く、種類豊富でかわいらしいデザインのお守りがたくさん並んでいた。
 神社なんて初詣はつもうで以来だったけれど、空気が清々すがすがしくて、踏みしめる玉砂利たまじゃりの音も心地好く、木漏れ日がやさしく降り注いでいた。参拝を終えると、恵利佳は私を休憩処に誘い、茶屋のお茶と赤福あかふくをご馳走してくれた。夢中で気づかなかったものの、腰を下ろすと、思いの外、足が疲れていた。
 出社時間みたいな早朝の待ち合わせでまず連れていかれた先は、羽田はねだ空港の近くにある商売繁盛にご利益があるという神社。そこでお守りを受けて神楽坂かぐらざかに向かい、今日オープンする和菓子屋さんの行列に並んだ。山ほど買い物したのち店主にお守りを手渡すと、恵利佳は朗らかな笑顔で、ここへ連れてきてくれたのだった。まだ昼というのが信じられないくらい、濃厚な時間を過ごした気がした。
「あのお店、担当したお客さんでさ。今度はうまくいってほしいんだよね」
 恵利佳のお客さんということは、合併や買収などを経験したのだろう。近頃は中小企業のM&Aも多くて、後継者不足や事業承継のためというケースが年々増加しているという。スタイリッシュな和菓子屋さんだった。色とりどりの宝石のような琥珀糖こはくとうに、絵みたいな錦玉羹きんぎょくかん、マロンペースト入りのモンブラン最中もなか。和菓子と洋菓子を組み合わせたようなきれいなお菓子を求めて、次々にお客さんが訪れていた。その様子を、恵利佳は店主と一緒になって喜んでいた。
「恵利佳は面倒見がいいよね」
 今日だって、予定がぽっかり空いた私をこうして連れ出してくれている。
 昨日、式場への連絡を終えたあと、急に心細くなって、用もなく恵利佳に連絡した。元気? というただ一言のメッセージになにかを察したらしく、誘ってくれたのだった。一人で家にこもっているとどうしても沈んでしまうから、ありがたかった。
 一緒にほおばる赤福は、しみじみと甘く、やわらかい。
 恵利佳は、お守りのことだと思ったのか、大きく伸びをして呟いた。
「どうしようもない時ほど、目に見えない力を借りなくちゃね」
 どうしようもない時こそ自分を信じなくちゃいけないのに、なかなかそうもできないから。神様仏様から見えない力をお借りして、自分は守られてるから大丈夫って信じるための力にするんだよ、と嚙んで含めるように教えてくれる。
 それは恵利佳自身が経験してきたからこそ言えることなのだろう。二年前、わずか半年の結婚生活に終止符を打ってから、恵利佳は変わった。誰かのために、と行動することが多くなったし、今日のように、周囲に気を配ることもずっと増えた。それは、趣味になった神社めぐりのおかげだと恵利佳は言う。祈るだけでなにかが変わるなんて、私には思えない。恵利佳自身が辛い出来事を経て、ひととして成長したから、他の誰かのためにと行動を起こせるようになったのだろう。
 そう話すと、恵利佳は鼻で笑って切り捨てた。
「誰かのためじゃないの。全部自分のためだよ」
「でも今日の和菓子屋さんだって、もうかかわってないでしょう? M&Aが終わったらどこかの支店に引き継いでるよね。仕事上のコミュニケーションが円滑になるとか、なにかメリットがあるわけじゃないのに」
「情けはひとのためならずって言うでしょ。結局どこかで私にめぐりめぐってくるから」
 理央もやったらいいよ、と恵利佳は熱心にすすめてきた。
「昔話にもあるでしょ、雪に埋もれたお地蔵さんに傘をかぶせてあげるとか、傷ついた動物に親切にするとか。ああいうことだけじゃなく些細なことでもいいの。お裾分けもいいよ。お福分けって言うじゃない、簡単にできるし」
「お福分け、ねえ」
 職場で旅行土産のお菓子を配ったことはあっても、福を分けるなんて気持ちでしたことはない。どちらかというと義理や義務に近かった。
 今は善行の積み上げ時だよ、と恵利佳は力説する。
神無月かんなづきだし。神様たちが出雲いづもに出かけて、ここからの一年、誰と誰の縁を結ぶか決める会議を開くんだよ」
 今度こそ切れない縁が欲しいからね、と恵利佳は顔の前で拳を握りしめる。あまりの力説ぶりに口元をほころばせると、恵利佳は、やっと笑ったと静かに息を吐き出した。
「それで、思い当たる節は? 式場の件」
 ここ、縁結びの神社に連れてきてくれたのは、それを気にしてのことらしかった。結ばれるべき縁が結ばれるようにと、私のために祈ってくれたと聞き、目頭が熱くなる。
「全然ないよ。マリッジ・ブルーなのかな。式場には文句ないし、親が反対してるわけでもないし、日取りもいい」
「別の式場にすれば?」
「あの式場がいいの。雰囲気と料理とサービス、どれかがいい式場はあっても、全部いいのは今のところあそこだけなんだもの。安くはないお金を払うんだし」
 しばしの沈黙ののち、恵利佳は、女じゃないの、と疑った。
「それはないよ、真面目なひとだし」
 だから危ないんだよ、と恵利佳は腕を組んだ。
「真面目なひとほど、浮気じゃなく本気になる。やさしいひとって相手の気持ち考えすぎて抱え込むから厄介だよ。最初はそんなつもりなくてもどんどん深みにはまってくから」
 否定したいのに、絶対にないと言いきる自信はなかった。秀明がちゃんと理由を言葉にしてくれていたらと体が強張こわばっていく。信じる気持ちに小さなほころびができ、そこから不安が煙のように立ち上っていく気がした。
 恵利佳はどこぞの名探偵のように、目をすがめる。
「で、理央の方こそ、本当の理由はなんなの? 結婚式をそこまで早く挙げたい理由」
「それは……」
 視線が私のお腹のあたりを泳ぐのを見て、慌てて打ち消す。
「違うよ、子どもとかじゃなくて」
「ならなんでよ。人事制度の三十の壁なんて、別に結婚式じゃなくて、籍さえ入れておけばいい話じゃない」
 指摘はもっともだ。入籍と社内手続きだけをさっさと済ませて、ゆっくり式を挙げるひとだって少なくない。社内の制度も状況も知り尽くした恵利佳を納得させられるようなうまい言い訳は、思い浮かびそうにもない。
 観念して、私は口を開いた。
「実は──」

 婚約指輪を、なくした。
 贈られた後は、両家への挨拶の時はもちろん、遊びに行く時やデートでも、必ず指輪をつけていた。それ以外は大切にケースにしまっていたのに、引っ越しの慌ただしさに紛れて、どこか思い出せないような場所にしまい込んでしまったらしい。引っ越し先に持ち込んだ荷物に指輪ケースはなく、実家の部屋をすみずみまで捜したけれども、見つからなかった。捨てているはずはないのだから、きっとどこかにあるはずなのに、心当たりを捜しても一向に見つからない。
 秀明に相談しようかとも思ったが、失望されるだろうか、怒らせてしまうかもしれないと思うと、言い出せなかった。滅多に怒ることのない秀明が本気で怒ったら、今まで築き上げてきた関係だって一瞬で砕けてしまうのではないかと、臆病風おくびょうかぜに吹かれた。

「─結婚式を挙げれば、結婚指輪になるでしょう、そしたら」
「婚約指輪のことは誰も話題にしなくなるだろうね」
 長い長いため息をついて、恵利佳は額に手を当てた。
「馬鹿理央。それは破談にされても仕方ない」
「で、でも、わざとなくしたわけじゃないよ。むしろ大事にしすぎた結果っていうか」
「案外、向こうは気づいてて、距離置いてるんじゃないの」
 はっとした。
 そういえばあの時も、指輪のことを言っていた。
 指輪がないと気づいてから、秀明の実家の誘いも、なにかと口実をつけて断り続けている。もしかして、うすうす勘づいていたのだろうか。
 あふれ出した不安は、雷雲のようにたちどころに心の内を暗く覆っていく。
「どうしよう恵利佳」
 恵利佳は組んだ脚をぶらぶらさせて、考え込んだ。
「なんとかして指輪を見つけるしかないよ。心当たりがないなら占いに頼ってでも。あとは、素直に言う。本心から伝えて、それでだめなら、それまでのご縁てことでしょう」
「もしも気づいてなかったらやぶへびになるじゃない。自分で言ったせいで婚約破棄されるなんて嫌だよ」
 揺らしていた脚をぴたりと止めて、恵利佳はすっくと立ち上がった。
「どうしようもない時、てわけだよね」
 促されるまま、大股に歩き出す親友の背中を、慌てて追いかけた。

   *

 昔ながらの商店街は夜が早い。
 午後七時閉店のコテンは、うらら商店街では酒屋に次いで遅くまで開いているものの、コンビニ生活に慣れた身には早すぎて、よほど急がなければ間に合わない。もっとも、店が閉まっていても厨房には三代目のきりりと引きしまった横顔が見え、パンと格闘しているらしい様子に、ひそかにエールを送った。
 歩き通しだった土曜は結局閉店に間に合わず、翌日の日曜日は定休日で、コテンのパンにありつけたのは、月曜の夜のことだった。
 私が店に入ると、三代目は会釈してレジ机に張りつき、一挙手一投足に目を凝らしてくる。パンは棚から中央の陳列棚に集められていて、目立って売れ残っている種類はなく、どれも同じくらいの個数が籠に並んでいた。
 私は相変わらず自分の食べたいパンを選び、三代目に差し出す。そのゲームみたいなやりとりが、ひととき、不安を忘れさせてくれるのもありがたかった。
「どうですか、今日のは」
 三代目は肩をすくめた。
「全部父のです。さっき、とりかけてやめたウインナロール、あれが俺のでした」
「あれもおいしそうだったの! でもたまごパンのきれいな黄色に惹かれちゃって。だけど、この間よりも売れ残ってるパンに偏りがないですよね。また一歩前進してるんじゃ」
 なんとか励まそうとする私に、三代目は厨房に積み上げられたウインナロールを指さしてみせた。私が温情で選ばないようにと、あらかじめよけていたらしい。三代目は、ため息とともに、目線をさらに下げた。
「食べる方は自信あるんですが。俺、寄り道ばっかりしてきたから、じいちゃんが目指した店もパンも、よくわかってないのかも」
 こんなんじゃ店を継ぐ資格はないと、放っておけば三代目はどんどん身を縮めていく。
 仕事で出逢ったこういうタイプは、完璧を目指しすぎて目の前の自分に自信が持てないひとが多かった。三代目の丸まった背中と、交わらない視線の理由はきっとそこにあるのだろう。外ばかりを見つめて、自分の内に目が行かないのだ。
 それなら、と水を向けてみた。
「食パン、どんなふうに食べたらおいしいですか? そのまま食べてもおいしかったけれど、食べるのが得意な三代目おすすめの食べ方って気になります」
 三代目はしばし考え、お好みですがと前置きして、とうとうと語り始めた。
「パンそのものの味を楽しむなら、トーストです。切り方で味が変わるんですよ」
 カリカリした食感が好きなら薄めのスライス。サクサクふわふわの食感のコントラストを楽しみたいなら厚めに切るのがいいという。表面に十字や賽の目に切り目を入れてから焼くのでも、バターを塗るタイミングでも味が変わるのだと、三代目は身振り手振りを加えて、楽しそうに説明してくれた。
「俺は、焼き上がり直前に、バターの塊を載せるのが好きなんです。角が丸くなって、金色の液体が溶け出したら頃合いです。溶けたバターのみ込んだところ、塊のバターがクリーミーなところ、パンだけのところ、一枚でいろいろ楽しめるので」
 思い浮かべるだけでお腹が空くと話した瞬間、三代目のお腹が盛大に鳴って、私たちは笑い合った。
「きっと、大丈夫ですよ。自分がおいしいって思う、目指すものがわかってるんだもの。その先に、あなたのパンが見つかるんだと思います。一足いっそく飛びに理想には届かないかもしれないけれど、小さな一歩から、踏み出してみたら?」
 弾かれたように顔を上げた三代目と、はじめて目が合った。
 正面から見ると顔立ちがいっそう際立ち、堂々と振舞えば二枚目に見える。
 ふと思い出して、私は鞄の中から、正方形の小さなぽち袋を取り出した。
「はい、これ」
 開けてみるよう促すと、三代目は、手のひらに転がり出た中身を、不思議そうに見つめた。
「五円玉、ですか?」
「結びつけてある紅白の糸、ご縁結びの糸なんです。お福分け」
 私は自分のスマホに結びつけた、縁結びの糸で作ったストラップを見せた。
 土曜日、あれから恵利佳に連れられて、都内の縁結びにご利益があるという神社をいくつもまわった。東京大神宮の次は、赤坂氷川あかさかひかわ神社、そして、出雲大社東京分祠ぶんし。この三社は、東京三大縁結び神社とも呼ばれていて、縁結びにとくにご利益があるのだそうだ。
 ご利益の理由はそれぞれの神様に由来するらしい。
 東京大神宮では天地万物の「結び」の働きを司る神様を、赤坂氷川神社は夫婦神と子の、家族の神様を祀っているから。そしてその子の神様は、縁結びの神様として世に広く知られ、出雲大社東京分祠に祀られている。
 恵利佳によればこうした神様の他にも、縁をくくる神様や、日本ではじめてプロポーズした神様を祀った神社なども、縁結びにご利益があるという。縁と同じ響きにちなんだ形の絵馬がある今戸神社や、神使であるの字がエンと読める日枝神社も、都内有数の縁結び神社とされているのだと説明を聞かされながら、足が棒になるまで各神社をめぐった。
「縁結びって言っても、男女の縁だけじゃないらしいんです。人間関係とかお仕事とか、ひとをとりまく一切合切と幸せを結びつけてくれるそうですよ。だから、三代目とパンの、それにお店とお客さんのご縁が結ばれるように」
 三代目は両手に包み込むように五円玉を載せ、見入っていた。
「いただいていいんですか」
「もちろん。むしろもらってくれると、私もありがたいので」
 お福分けはいつかめぐりめぐって自分のところに来るという。
 今自分にできることは、なんでもやっておきたい。職場の近しいひとたちにも、同じ五円玉を配って歩いた。できることがあるのはありがたいことでもあって、せっせと五円玉に糸を結びつけている間は、秀明のことを忘れていられた。
 土曜日以降、メッセージを送っても読んだ気配はなく、もちろん返信もない。
 仮予約の最終期限は今週末なのに、それまでに連絡がもらえるのかも不安になってくる。目を皿のようにして捜しても指輪も見つからない。考えれば考えるほど、胸にうまく空気が入ってこなくて、息苦しくなった。
 この先の五日間が、途方もなく長く感じられる。

   *

続きは発売中の『縁結びカツサンド』で、ぜひお楽しみください!

冬森灯

第1回おいしい文学賞にて最終候補。『縁結びカツサンド』にてデビュー。ほかの著作に『うしろむき夕食店』など。

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