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第1回

ダイナーⅡ(第1回)

 氷で手を冷やしてから肉を殴る男は初めてだった。
 手が傷むからと、肉叩きを使うよう云ったんだけれど〈だいっじょぶ!〉とまるで気にする様子がない。本人はこうすると肉に手の温度が伝わらず〈良いパティ〉が準備できると信じている。彼はキッチンテーブルの上で素早く──それはもう本当に舗装工事に使うランマのような勢いで、牛の肩やロイン、バラを潰していく。Chimp Piss(ウチ)ではこれらを混ぜ合わせたものをミンチにしてバーガーの種を作る。割合はわたしの目分量だ。脂の白と赤身の混合した色合いが綺麗だと、味も良くなる気がしている。
「トト、もういいよ」
 わたしが声を掛けると男はこちらに向かってニッと真っ白な歯を剥き出し、それから雑用に戻る。
 店を開けるのは朝6時。半日後の午後6時に閉店する。理由は街道を行くトラックが、日が暮れるとグッと少なくなってしまうのと、夕飯になるほどの料理は出せないし、腐った雑巾(ダスター)のような酔っ払いを相手にするのは懲り懲りだったからだ。

 Chimp Pissはハンバーガーとパンケーキ、パイをメインにした定食屋(ダイナー)だ。昼間なら、わたしは相手によっては酒も出す。酔っぱらい運転がどうのという法律があるのは知っているけれど、そもそもプロ以外にはそんな接客はしないし、プロは運転を誤るほど呑みはしない。バーガーとビールの相性がどれほどいいか、骨の髄まで知っている。
 また朝の11時まではデザートは出さない。これは家族連れがむやみに来るのを防ぐ意味がある。わたしは安っぽい万能感を漂わす家族を見るのが苦手だったし、涎掛け(ビブ)だ、おしぼりだ、お水(ひや)だ、など頻繁な要求に応えるには手が足りない。

 この店はわたしがひとりで始めた。いまはふたり雇っている。肉を殴るトトと、デザートを作り、わたしが苦手なお愛想を振りまいたり、コーヒーを注ぎ足すサトミだ。ふたりとも求人募集を見てやってきたわけじゃない。トトはウチで無銭飲食をしたのがきっかけで、サトミはウチの駐車場でヒモらしきボーイフレンドに車の中で殴られていたのを助けたのがきっかけだった──わたしはそのハズレ馬券のような男の顔に煮えたコーヒーをポットごと浴びせてやったのだ。
 怒り狂った男は飛び出してきて、わたしを殺すと宣言したので、腰に下げていた鉈(なた)をその手に置いてやった。
「どうぞ」
 思わぬ重さに虚を突かれた男は、爪先にそれを落とした。ブーツの先端にしっかり喰い込んだのを見て奴は蒼白になった。足指が落ちたと錯覚したのだろう。
「それはジープのトマホークっていうの」
 わたしは鉈を抜き、向き直った。「刃はステンレスだけど、キロ弱の自重があるから、この車のボディならツナ缶みたいに開けることができるわよ」
 わたしはバナナ色のセダンに指で線を引いた。
「ふざけんな!」
 取れかけたブーツの先端を下にたぐり込んだまま向かってきたので、男は勢い良くつんのめり、ボンネットに側頭部を激突させた。悲鳴の代わりにおならが聞こえ、奴は白目を剥いて転がった。
 車を降りていたサトミが顔を強張らせ、わたしを見ていた。
「これが目を覚ますのを待つ? それとも中でなにか食べる?」
〈食べる〉嬉しそうにサトミは頷いた。
 ふたりでバーガーとサラダを突ついていると、派手なクラクションがひと鳴りし、バナナが去って行った──それからサトミはウチで働くようになった。

 トトもサトミも旧道をずっと先に行った、街の外れに住んでいる。トトは片道一時間以上かけ、前かごと荷台の付いた昔の校長先生が乗っていたような自転車で通ってくる。それはトトがここの給料を貯めて自分で買ったものであり、とても大事にしていた。雨でも雪でも、トトはそれを使って朝五時に店の裏にあるわたしの住居部にやってきて店の鍵を受け取ると、店内のゴミを出し、掃除を始める。サトミは九時に軽ワゴンで乗りつけ、そこからわたしが下拵(したごしら)えをしておいたバナナやライム、チョコのパイを焼く。

 さっきも云ったように客の大半は流通トラックやタクシーの運転手、営業のサラリーマンだ。たまたま通りかかったというような客もたまにはいるが、幹線道路を遠く離れたこんな場所に来るのは道に迷った者ばかりだし、ナビが発達した昨今ではそんな人達もめっきりいなくなった。

 なんとなく気配でわかったと思うけれどトトは普通じゃない。まず四則計算が苦手だ。漢字の読み書きも巧くない。言葉は興奮してくるとつっかえる。本人の話だと小学校ぐらいまでは行っていたそうだが、そこから先の説明は、家庭環境も含めてすべてがあやふやで混沌としてしまう。歳はわたしよりも十は上だと思うのだが、なにしろ身分を証明するようなものはなにひとつ持ってないし、電話もよく掛けることができない。しかし、正直で力持ちで優しい。そして何よりもわたしが気に入っているのは、今まで出会ったどんな男よりも大食いだということ。なのにブヨブヨはしていない。全身がまるで黒いゴムで出来たボーリングの玉のようだ。

 一度、どれだけ力があるのか試そうとサトミが云い出したことがある。その時、わたしとサトミが乗った軽ワゴンの下に手を入れ、たちまちのうちに持ち上げた。運転席で斜めになったサトミが〈ストップ! ストップ!〉と焦って叫んだ声を今でも覚えている。

 トトは常に白い〈元は、という意味で〉つなぎを着ている。服がないというので一緒に街の服屋に行くと、5Lの白いつなぎを四着買い、それらを使い回している。サトミはトトを年上の弟のように扱い、トトにはそれが心地良いようだった。
 要するに、わたしたちはぐれもの三人は、なかなか巧くやっていたということだ。

 週に二回、サトミは閉店の一時間前に店を退(ひ)ける。いったん、街へ戻るのだ。そしてまた戻ってくると、軽ワゴンの中から小学生の子どもたちが三、四人ほど降りてきて店に入る。彼らは小さな鞄や袋に筆記道具を詰めている。サトミが無料で塾をするのだ。大学出のサトミは中学生ぐらいまでのことならば難なく教えられるのだという。現に先生になる資格も持っている。

 始めは計算や読み書きの苦手なトトのため、閉店後にやっていたのだが、どうせやるならとサトミが経済的に塾に通えない子どもたちを集めて連れてくるようになったのだ。学年はバラバラなので、わからないところをサトミが順番にマンツーマンで教えている。彼らは七時半になると授業を終え、わたしの料理を食べ、またサトミに送られ帰っていく。新しい服を着ている子はいない。髪は伸び、汚れていて、虫歯も多く、なかには何もせずにノートを見ているだけの子もいる。つい不安になって〈大丈夫なのか〉とサトミに訊いたことがあった。するとサトミは〈ここに来てる間は大丈夫〉と云い。事実、暫くすると蕾(つぼみ)がゆっくり開花するようにその子は勉強に専念するようになった。
 子どもは傷つき易いけれど、治る力もすごく持っているんだとサトミは云った。そんなわけで、Chimp Pissは〈ダイナー〉と〈無料の塾〉という二足の草鞋を履くようになっていた。

                   *

「……ままさぁん」
 昼が終わり、デッキで休憩をしているトトがわたしに情けない声を出した。
「どうしたの」
「チャップが変ですの」
 チャップとは、この辺りにいる野良犬で、トトが残飯などを皿に残しておくのを習慣にしていた。えらく警戒心の強い雑種で、トト以外の人間には躯を触らせないし、昼間は滅多に姿を見せない。
「誰かが、チャップのご飯食べてるよぅ」
「そんな莫迦なことあるはずないでしょ」
「ほんとですよ。きてくださいよ。きてみてくださいよ」
 トトのトーンが普通じゃないので、わたしはコーヒーを置くと裏に廻った。
「ほら」トトが指差す先に餌鉢があった、中身は空っぽだ。
「ちゃんと食べてるじゃない」
「ちがいますよ。チャップはこのバーガーのカケラは食べないんですよ。カラチをぬっておいたのですから」
 鉢を掴みながらトトは身振り手振りで、しばらく前から誰かがチャップの餌を横取りしているのではないかと疑っていたこと、だから昨日は犬には刺激が強くて食べられないマスタードを残飯に塗っておいたことなどをまくしたてた。
「でも、トト。チャップの奴、よっぽど腹が空いてたんじゃない? あれもあんた同様に温(ぬる)いんだからさ、ははは」
 話に混ざろうと出てきたウェイトレス姿のサトミが煙草を横咥えしながら笑った。
 トトは首を音がしそうなほど横に振った──自分は死ぬほど真剣だという意思表示だ。
「ままさぁん、誰かぬすんでる。チャップは腹へりだから、ぬすまれたら死んじゃいます」
「誰かって。この辺りには他に野犬や野良猫がいるようには思えないんだけど……」
 するとトトは前にも増して首を振った。「ちがいまっす! ひとです!」
 サトミが声を出して笑った。「あんた、莫迦じゃないの? なんで人間が犬の残飯なんか盗むっていうのよ?」
「わからない! でもほんと! ままさぁん、ほんとでっす!」
 トトは、つなぎのポケットから一枚の綺麗な紙を差し出した。
「こ、これ。しょうこです。ぼく、これを餌に入れておいたの。そしたらカラッポに食べられてた。ちゃ、チャップはこんなことできないもの。こんなにちゃんと剥いてたべない」
 それはウチで売っているチョコでコーティングされたキャンディーの包み紙だった。
「確かに犬なら、こんなにキレイには剥けないかもしんないね」
 トトから包み紙を受け取ったサトミが呟き、わたしにそれを差し出した。
「そう……」
 ね、と云いかけた言葉が途絶した。胃袋を直に掴まれ、絞り上げられる衝撃が走った。事実、サトミに肩を揺すられるまで時間の感覚が消えていた。

「どうしたの?」
「え? ああ……ちょっと疲れたみたい。横にさせて……」
 なんとかその場を誤魔化し、わたしは住居部に戻った。が、居たたまれず、結局はデッキで包み紙を眺めたり、ポケットにしまったりしながら午後はふたりに店を任せっきりにしてしまった。すっかり冷めたコーヒーを四度目に取り替えに来たとき、サトミがわたしを見据えて云った。
「説明してくれるんでしょうね」
 大きな瞳がわたしを捉えていた。
「そうね……そうしなくちゃね」
 頷いたサトミが店に戻る。
 見上げると今の季節には珍しく、低く垂れ込めた空が唸るような音を立て、冷たい風が吹き始めていた。
 包み紙にはこう書かれていた──〈ボンベロ〉

                 *

 閉店後、わたしはトトとサトミに店を三日休むと告げた。
「お給料は休みの間の分もきちんと払うわ」
 まず店主としての条件を説明したが、当然ふたりがそれで納得するはずはない。
 トトは哀しげな表情をしているだけだったが、サトミは挑戦的だった。
「あの包み紙に何が書いてあったの」
「なにもないわ」
「嘘。見せてよ」
 わたしはポケットから取り出した包み紙をサトミに渡した、そこには〈ハズレロ〉とわたしが書いた字がある──同じ模様の包み紙を用意しておいたのだ。
「なにこれ」
「わからないわ。わたしが店を休もうと思ったのはこれが原因じゃないから……今は云えないけれど、考える時間が欲しくなったのよ」
「全然わかんない。勝手ね」
「ごめん。でも必ず説明はするわ。だから時間を頂戴。お願い」
 自分でも道理の通らない言い分だったが、他に言い方が見つからない。ふたりを巧く丸め込もうという気にもさらさらなれなかった。

 ふたりが帰ると同時に雨が激しくなった。
 わたしはシャツの下に雑誌を巻くとガムテープで縛り、刃が当たっても簡単に動脈を切断されないような硬いデニム生地の服に着替えた。店の照明を落とし、入口が見通せるテーブルに鉈と肉切り包丁を載せて待つ。
 十時を過ぎた頃から通りを行き交う車は姿を消した。
 時折、激しい雷鳴が店内を青白く光らせる。
 ドアは素通しの硝子に飾りレースが掛かっている。開けばカウベルが鳴る。
 わたしは外から姿が見えない位置を選んでいた。包み紙に字を書き入れたのはボンベロではない。彼の流儀に、そんなまどろっこしい方法はない。だとすれば、彼を知る何者かが書き入れ、それを伝言(メッセージ)として残したことになる。そいつはボンベロを知り、わたしとの過去も知っているのだろう。すなわち、こちらを歓迎するつもりは毛ほどもないということだった。

 零時を少し廻った頃、ほんの一瞬だけ集中力が途切れた。雷鳴が瞬き、ハッとした。ドアの硝子越しに人影があった。全身の皮膚が熱湯に投げ込まれたように痺(ち)りついた。銃撃される恐怖に身をテーブルの下に隠した。が、相手は微動だにしない。肉切り包丁を手にわたしはゆっくりドアに近づいた。相手はひとりのようだった。大柄のシルエットがドアの開くのを待っているように感じられた。
 這うようにドア枠まで近づくと立ち上がる。
 レースの陰から相手を確認した──顎の下に冷たいものが、そっと当てられた。
 ドアの外には服と帽子とズボンの掛けられたフックが案山子然と吊り下げられていた。
『武器を捨てろ……振り向かず、そのままゆっくり退がれ』
 低いが柔らかな声が背中に触れた──首に当てられているのはナイフに違いなかった。
 わたしは云われた通りにした。
「あなたがあれを書いたのね」
「〝ボンベロ″か? その通り」
 後退(あとじさ)る踵(かかと)を蹴られ、思わず尻餅を突く。カウンターの腰板に後頭部をぶつけ、わたしは短い悲鳴を上げた。
 目の前で、フルタング仕様のフィレナイフが揺れていた。キッチンのナイフブロックに刺してあったものだ。顔をあげると子どもがいた。否、正確には子どもと青年の中間のような少年が肩幅にスタンスを取り、わたしを睨みつけていた。
「あんたが大馬鹿な子(オオバカナコ)か」
 Chimp Pissではその名を使ったことがない。保健所等への申請は住民票も含めて名義屋から買ったものを使っていたし、免許は更新していない。
「……そうよ」声が緊張からしゃがれていた。
 少年の躯からは、わたしが忘れかけていたアノ感覚が伝わってきていた──人の命が紙屑同然に扱われる世界の感覚。
「誰から此処を訊いたの?」
 それには答えず、少年は獲物をどこから喰おうか品定めしている肉食獣のように、わたしの前をうろついた。と同時に、今までにない緊張感が身内に充満してくる理由がわかった。彼はナイフをわたしに使うことに何の躊躇(ためら)いも感じないという確信だった。
「使えるのか?」
「え?」
「あんたは使い物になるのか?」


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『ダイナーⅡ』をより楽しむために、未読の方はぜひ『ダイナー』から!
〈主演〉藤原竜也×〈監督〉蜷川実花のタッグが話題の映画『Diner ダイナー』(2019年公開)の原作本はこちらです↓


Profile

平山夢明

1961年、神奈川県川崎市生まれ。1994年にノンフィクション『異常快楽殺人』を発表、注目を集め、1996年に『SINKER──沈むもの』で小説家としてもデビュー。2006年には短篇「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞を受賞。2007年、同タイトルを冠した短編集が「このミステリーがすごい!」第1位に選ばれた。2010年『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞をダブル受賞。2017年より「週刊ヤングジャンプ」にてコミック化され、大人気連載中。

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