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第1回

『英国幻視の少年たち3 グリム・リーパー』フリーペーパー掲載SS

 イギリスには、「ファンタズニック」という言葉がある。
 幻想的生命体に遭遇した人々が陥るパニック状態のこと。
 妖精や精霊、ゴーストなんかがごく普通に存在するこの国では、ファンタズニックもまた頻繁に起こる――。

 そんなわけだから、古本屋で本を数冊買った帰りに夜道で迷っても、俺はたいして驚かなかった。東京をふらふらしていると見知らぬ人間に怪しげな勧誘を受けるように、イギリスの田舎にいれば妖精によって道に迷わされるものなのだ。特に俺はいま、いかにも古そうな本を数冊カバンに入れているし、今夜は満月、場所はちょうど、静まり返った丘にさしかかったところ。妖精が出そうな条件は揃っている。
 勧誘は無視するのが基本だ。妖精に道を迷わされたときは、服を裏返しに着ればいい。それで解決する。……はずだった。
「…………」
 シャツを裏返しにした俺は、数分そのまま突っ立って、それから深呼吸した。
 おかしい。道に迷ったままだ。
 正確にいえば、妖精は人間に幻を見せて惑わせる。さっきまで丘の脇の小道を歩いていたのに、いまは庭園のような場所にいる。くらくらするほど強いバラの香り。服を裏返しに着ればこの幻が消え、本来の景色に戻れるのがパターンなのに、そうならない。
 困った。鍋が吹きこぼれたら、普通すぐに火を止める。しかしそれでも中身が溢れ続けたら、だれだって当惑するだろう。いまの俺がそれだ。服を裏返しに着る以外の対策を、俺は知らない。
「……スー?」
 とりあえず、顔なじみの妖精の名前を呼んだ。俺を道に迷わせる確率ナンバ・ワン。しかし、彼女の笑い声が聞こえてくることはなかった。あの無邪気な妖精に無視なんて高等な技術はない。俺を道に迷わせているのはスーではないらしい。
 いよいよどうすればいいかわからない。
 歩いていればそのうち解けるようなものではないと知っている。だから無駄に動き回ってもしかたない。この状況を作り出している妖精を見つければいいのかもしれないが、いくらファンタズニックに慣れてきたとはいえ、虚空に向かって「もしもし妖精さん、失礼ですが、少々お時間よろしいでしょうか」などと話しかける勇気はなかった。出てこなかったときのむなしさがすごい。
 俺はポケットからスマホを取り出して、同居人に電話をかける。
 ファンタズニックを解決するための人間――、「対ファンタズニック」も、この国にはきちんといるのだ。

 ランス・ファーロングは、15分ほどでやってきた。
 赤毛の仏頂面。着ている薄手のセーターが濃い灰色だからか、月明かりの下だからか、いつもよりさらに顔色が悪く見えた。
 そして、やつが近づいてきた途端、視界が急にぼやけた。「は――」俺は息を止める。まさかこのタイミングで戻るのか。歪んだバラが気持ち悪くて目を閉じると、次に開けたときには、ワープしたみたいに景色が切り替わっていた。急激な変化にくらりとする。
「……カイ?」
 目の前に立ったランスが訝しげな顔をした。
「……呼び出しといてなんだけど、解決した」
「戻ってきたの?」
「ああ。お前が来たら、急に……」
 なにか嫌みを言われるかと思ったが、ランスは暗いグリーンの瞳をわずかに細め、丘を振り返った。青白い月が馬鹿でかい照明装置みたいに、丘を暗い銀色に染めている。だれもいないし、なにもない。少なくとも俺には見えない。
「ちょっと待ってて」
 ランスは囁き、ふらっと丘を登り始めた。
 なにかに呼ばれたように。
 目を離せばふっと消えそうな背中だ。俺は見失わないように、その姿をじっと目で追った。遠くなる。遠くなる。こんなに静かな夜だから、離れていても足音が聞こえた。風が吹くと丘がざわめく。ランスが満月に呑まれる幻を見たような錯覚がして、不意に鳥肌が立った。
「――」
 思わず名前を呼びかけたのと、月光が一番よく当たる場所でやつが足を止めたのは同時だった。
 ランスは地面を見下ろし、右手を伸ばした。なにかを拾い上げる仕草をする。それから右手を振り上げ、地面に向かって礼をした。カーテンコールに立った役者みたいなやつ。古風で芝居がかっていて、しかしこの非現実的な空間には、これ以上なく似合っていた。
 帰りのほうが早かった。気のせいかもしれない。ざくざく歩いてきたランスは、俺のところに戻ってくると右手を差し出した。手のひらに載っているのは、見たこともない銀貨だ。土で少し汚れ、錆びたような鈍い銀色をしているが、驚くほど繊細な装飾がされている。ひっくり返してみた。植物の模様以外、文字はなにも書かれていない。
「なんだこれ」
「妖精の銀貨。さっきまで踊っていた妖精が落としていったんだって。花の精霊たちが教えてくれた。とても貴重だから、僕に知らせたかったと」ランスは一瞬だけ微笑んだ。
「……で、それと俺との関係は?」
「君を惑わせたのは花の精霊たちだ。君なら僕を呼ぶと思ったんだろう」
「なんだそれ。普通に話しかけろよ」
「彼女たちは内気だから……。僕でも声を聞いたことしかない」
 俺は丘を見上げた。ランスに会いたいから俺を迷わせる。なかなか図々しいが、まあ、精霊に文句を言ってもしかたない。ランスから「迷惑をかけた」くらいのひと言があってもよさそうだが、残念ながらこいつにそういう発想は期待できない。
「……帰るか」俺はつぶやいた。
 満月に背を向ける。風に乗って運ばれてきた花の香りが甘かった。

Profile

深沢仁(ふかざわ・じん)

第2回「このライトノベルがすごい!」大賞優秀賞受賞作『R.I.P. 天使は鏡と弾丸を抱く』でデビュー。他の作品に、『睦笠神社と神さまじゃない人たち』(このライトノベルがすごい!文庫)、ボカロ小説『Dear』(PHP研究所)などがある。趣味はさんぽ、旅。音楽を聴きながら、遠いところに行くのが好き。「英国幻視の少年たち」シリーズ。『この夏のこともどうせ忘れる』(ポプラ文庫ピュアフル)

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