ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. その他一覧
  3. 英国幻視の少年たち
  4. 『英国幻視の少年たち6 フェアリー・ライド』発売記念SS
第3回

『英国幻視の少年たち6 フェアリー・ライド』発売記念SS


 数分産まれるのが早ければ、人生は逆転していたのだ。
 ジャック・タガートは、その可能性についてよく考えた。英国特別幻想取締報告局の中にいて、そのことに思いを馳せずにいるのは不可能だった。この国では、ある条件下で産まれた者は「第二の目を持つ」、つまり、妖精やゴーストその他幻想的生命体を見る力に恵まれ、よって絶えずそれらの存在に遭遇することが、産まれた瞬間に決まる。報告局はそういう者たちを集め、育て、使う機関だ。天使と悪魔について実際に学び、四元素と精霊について知り、いつか対ファンタズニックとして、ゴーストを狩ったり妖精のイタズラを防いだりするようになる。
 みんなおなじように育ち、みんな似たような存在になる。
 本当はひとりひとりちがうのに、「第二の目を持っている」、ただそれだけの理由で。

「ここにいたのか」
 ルークが言った。声を聞く前から、足音で兄だとわかっていた。――嘘だ、見栄っ張り。自分を捜しにくるやつが、兄のほかにいるはずがないだけだ。
 ジャックは顔をあげる。少し眠っていた、だから自分がどこにいるかを思い出すのに一呼吸分が必要だった。
 五月の終わり、夜のユーストン駅構内。時間を持て余した人間たちが集まるベンチの上。迷い込んだハトが数羽、だれかの落としていったポテトチップスを啄ばんでいる。ロンドンのハトは眠らない。
「酔ってるのか?」
「……ノー、サー」ジャックは立ち上がりながら答える。「飲んだけど、酔ってはない」
「においでわかる。飲みすぎだ」
「鼻がいいな」
「どうやって手に入れた?」
「もらった」
「だれに」
「尋問好き」
「煙草も?」
 隣に並ぶと、これもにおいが残っていたのか、ルークが声を低くした。ジャックは言い返す。
「犬か、お前」
 二人とも不機嫌だった。いつものことだ。エスカレーターで一階におりたところで、ちょうど前方を歩いていた若い女の肩からショールが落ちて、ルークが拾って呼び止めた。女が振り返り、二人を見て目を丸くする。
「あなたたち、双子?」
 ジャックはちらりと兄を見た。ルークは一秒くらい間を空けてから「そうです」と認め、薄いピンク色のショールを差し出した。礼を言って女が受け取る。肩にかけ直しながら、「一卵性でしょう?」と相手は続けた。「だって、よく似てるもの。まちがえられたりしない?」
 ジャックは鼻で笑った。女には気づかれなかったが、兄には聞こえたにちがいない。耳もいいのだ。
「いいえ、あまり」
 ルークは答え、礼儀正しさを加えるために微笑んだ。女と別れ、二人は今度こそ駅を出る。腕時計を見ると十一時すぎだった。まだ地下鉄は動いているが、ルークは歩く気でいる。無駄に金を遣うことが嫌いなのだ。ここから寮まで一時間弱くらいだろうか。途中で逃げるという手もある、とジャックは考えた。右手で髪をかきあげ、自分でも煙草の残り香に気づく。たしか大学生風の若い女がくれた。いっしょにパブに入ったが、ジャックの見た目では――というか実際にも――若すぎたから店に拒否されて、だから女がスーパーで買ってきたものを駅の外のベンチで飲み合ったのだ。
 安っぽい香水のにおいを思い出す。横目で兄を見て、どこまで気づいているだろう、とジャックは思う。この品行方正で優秀な兄は、双子の弟がどこまで堕ちていこうとしているのか、知っているのだろうか。
「帰ったら、シャワーを浴びろ」ルークが言う。「水を飲んでから寝るんだ」
 返事を期待していない口調だった。最近、だれからも、なにも期待されなくなった。

「だれか!」
 という叫び声が聞こえてきたのは、大英博物館の前を通り、コヴェント・ガーデンの近くまで来たときだった。
「だれか! だれか! 対ファンタズニック! ボクの声が聞こえる人! だれか! いないの! ねえ!」
 二人はほぼ同時に足を止めた。ゴーストだ。ジャックでも無視できなかったのは、その声がいやに幼く響いたからだ。子どものゴースト。兄と目を合わせ、たぶんこれも同時に、一時的な休戦に同意した。
「ここにいる!」
 ルークが声をあげ、たまたま傍を通った一般人がびくりとしてから、訝しむような視線を向けてきた。ジャックが睨むと急ぎ足で立ち去る。
「どこっ? 聞こえる? 急いで、お願い急いで!」
 どこからか声が返ってきた。やはり少年の声だ。「話し続けるんだ」「こっち! こっち! 子猫が死んじゃうの!」いくつかの飲食店を除いてほとんどの店が閉まっている繁華街を、声の方角へと走った。そして二人は、途中の塀から飛び出してきたゴーストと鉢合わせて急停止した。十歳くらいの、金髪の少年。上等そうな革靴を履いていて、ここらよりもチェルシー地区辺りが似合う外見をしていた。
「あ――。双子?」少年はまばたきして、二人を見ると大抵の人間が言う台詞を吐いた。それから思い出し、「こっち!」と叫んで塀をすり抜けようとする。
「君、いいか、道を通ってくれないか!」
 ルークが慌てて呼びかけると、少年は戻ってきて、焦れったそうに頷いた。ゴーストになってからだいぶ経っているらしく、歩くのではなく浮いている。塀と塀の間、道というよりは隙間と呼ぶべき場所を通って抜けた先は、路地裏の果て、ひどく暗い行き止まりだった。
 汚らしい灰色の猫が、ぼんやりと光をまとい地面に座っている。「へいき、連れてきたよ!」少年が駆け寄って抱き上げる。猫もゴーストなのだ。見たことはあるが、めずらしい。
「ここ、ここの中なの」胸に猫を抱え、少年は二人に訴えてくる。なんだかわからなかったが、とりあえず近づいて彼の指すほうを見た。
 廃墟みたいなビルの壁、迷い込んだ酔っ払いが蹴り飛ばしてできたようなちいさな穴の中。「子猫がいるでしょう、わかる? 五匹だよ」少年がジャックとほとんど顔のつきそうな距離で訊いてくる。無論ゴーストだからどうやっても接触することはないのだが、奇妙な感じがした。
「鳴き声はする」ルークが答えた。
 ジャックも壁に耳をつけ、「ニー」とか「ミー」とかいう声を聞いた。ジャックの隣で少年が今度は壁に顔を突っ込んでいる。
「暗すぎる」ジャックはジャケットを脱ぎ、腕をまくりながら兄を見た。「剣は?」
「ない。ナイフを貸せ」
「――……」
「持っていないことは知ってる」ルークは押し殺した声を出した。「ジャック」
 ジャケットのポケットを漁り、折りたたみ式のそれを兄に渡した。ルークが少年と猫のゴーストを振り返る。
「火の精霊の力を借りる。君たちが触れるのは危険だ、私の傍には来ないように。――放しては、いけないよ」
 少年は、猫をぎゅっと抱いて頷いた。
 刃を出したナイフを右手で握り、ルークが短く言葉を唱える。ナイフの先がかすかに光り、次にまぶしいほど強くなったが、一瞬後にはペンライト程度に落ち着いた。
「相変わらず器用だな」
 ジャックはつぶやき、まず子猫の位置を確認するために覗き込んだ。「……!」そして言葉を失くした。振り返る。少年が真剣な面持ちでジャックを見ている。その腕に抱かれた猫が鳴き声をあげている。
「ジャック」
 ルークが抑えた声を出した。光量の制御に神経を遣ってるんだろう、表情が険しい。「なに? どうしたの? ボクがお兄さんの『目』になろうか?」少年が心配そうに囁く。
 なんでもない、と首を振り、ジャックは腕を突っ込んだ。上半身ごと穴の中に入ることができれば楽だろうが、絶妙に狭い。首をつりそうになりながら子猫の位置を再度確かめ、右手で一匹目をそっと掴む。濡れたみたいな身体、不安になるほどに軽い。そっと取り出した。白っぽい毛並み。少年が歓声をあげる。
「温めないとすぐ死ぬぞ」
 ジャックは言った。ルークは、どうすればいいかわからない、という顔をしたが、ナイフを左手に持ち替え、ハンカチを取り出した。ジャックは子猫をそれにくるみ、さらに放り出した自分のジャケットの内側に置いた。
 二匹目、三匹目までは順調だった。四匹目だけあまり動かなかったが、とりあえず出した。五匹目も無事。ジャケットの上に全員並べ、ルークのハンカチで拭く。
「だれも目を開けない」ルークが言う。
「普通開けないだろ。産まれたばっかなんだぞ」ジャックは言い返す。「まだ体温調整ができないんだ。温めろ」
 兄は文句を言いたそうな顔をしたが、しゃがむとナイフをジャケットの上にかざした。ジャックはその場に座り込み、四匹目をそっとマッサージした。死んではいない。いまはまだ。ちらりと兄を見る。額にじわりと汗が浮かんでいた。性質がちがうからはっきりとはわからないが、相当体力を使う作業をさせていることは知っている。派手に燃やすほうがよほど楽だろう。生き物を適温で温めるなんて、対ファンタズニックの能力ではない。ストーブの役目だ。
 四匹目が、いままでよりももう少しだけ、力強く動いた。気がした。
「――連れて帰る」
「全員を?」
 兄の声は批判的な響きをふくんでいた。だから、ほぼ反射的に「当たり前だ」と返していた。
「しかしそれは――」
「別々に帰ればいい。お前が先に。俺がひとりでやる」
「私が言いたいのは、」
 ルークの口調が荒くなりかけ、制御が甘くなったらしくナイフが光った。兄が短く息を呑んで黙る。場が険悪になったのを察したのか、「ねえ!」と少年が口を開いた。
「ヴォルフさん、今日は店で寝てるんだ。ここの近く! ついてきて!」
 少年に抱かれた灰色の猫が、同意するように一声鳴いた。

「――こいつ、ランスの」
 連れていかれたおもちゃ屋の階段を見上げ、ジャックは思い出した。ランス・ファーロング、人間より幻想的生命体とばかり付き合うあの変わり者の仲間の一人に、ゴーストのガキがいると聞いたことがある。永遠に成長できないおもちゃ屋の子どもだ。「ああ」ルークが短く応じる。
「そうだよ。ランスの友達」先導していた少年が振り返り、ジャックがジャケットごと抱えている子猫たちをそっと覗き込んだ。「この上に、ヴォルフさんって人がいるの。作業台で居眠りしてるから、起こして!」
 兄は躊躇った。当たり前だ。見ず知らずの人間を夜中に叩き起こすなんて、礼節を重んじるこいつにはもっとも避けたい行為のはずだ。
「早く! 大丈夫、絶対怒らないから。早くしないと、ボクが店をめちゃくちゃにするしかなくなるよ」
 ジャックは目配せをした。お前が行かないなら俺が行くぞと脅しているのだ。案の定、ルークは目をつぶると覚悟を決め、ナイフを畳んでこちらのポケットに潜らせた。階段をあがってドアをノックする。「もっと! 強く! ドアを蹴り飛ばすとかさあ」傍で少年に叱咤され、それでも兄は思い切り悪く、やや強めのノックに切り替えただけだった。
「見てくる!」
 テディベアの代わりみたいにゴーストの猫を抱いたまま、少年が消える。ジャックはルークの隣に並んだ。ルークが子猫にちらりと視線を向ける。
「助かるのか?」
「神様あたりにでも訊けよ。俺が知るか」
 兄は黙った。――もはや反射なのだ、とジャックは思う。冷静で現実的な口調を向けられると、ケンカ腰で返してしまう。直後にうんざりする。自分に。
 ルークがもう少し強くドアをノックする。
「わかってんのか?」
「――なにを」
「あのガキが抱いてんのが母猫だ。さっきの穴の中に死体があった」
 兄は手を止め、ただ「そうか……」とつぶやいた。
 ドアから少年の頭が出てきて、二人は同時に後退る。
「起きたよ!」
 どったどったという、寝ぼけたような足音が、ドア越しに近づいてくるのがわかった。

 ヴォルフという名前の小柄な、六十歳くらいに見える男が出てきた。ルークが礼儀正しいが冗長な説明をしようとしたのを遮って「死にそうなんだ」とジャックが子猫たちを見せると、寝ぼけ眼が一瞬で見開かれ、ものすごい勢いで店内に引き込まれた。おもちゃよりも雑貨やオルゴールのほうが多く並ぶスペースを抜け、レジ台の下を通って作業場に連れていかれる。
 馬鹿みたいに人がいいのだ、とすぐにわかる人間が世の中にはいるが、ヴォルフはそれらしかった。ジャックは、そしておそらくルークも、それぞれちがう理由で、そういう人物を苦手とする傾向があった。だから、少し困った。いかにも私的な空間に押し込まれたのも居心地が悪い。
「なんだ、リヴァーがいるのか、そこに? どこ? そっちか!」空き箱にタオルを詰め込み、子猫たちを移しながら、ヴォルフはきょろきょろした。「お前が見つけたって? よくやった!」ゴーストが見えないのに少年のことを受け入れているらしい。リヴァーと呼ばれた少年は、褒められると生意気そうな顔を崩し、へへっと笑った。
「温めなきゃいけないんだったな。いまお湯を沸かしてる。それと、そうだ、息子を呼ぼう、医者なんだ」
「獣医ですか?」ルークが訊く。
「いや、人間向けだが。かまわない、俺よりはわかるだろう。ちょっと電話を。いいか、必要なものがあれば適当に使ってくれてかまわない、場所はリヴァーに訊け」
 早口に告げると、レジ台まで戻って電話をかける。「バートを出せ! 緊急事態だ。――もしもし? 子猫が死にそうだから、いますぐ店に来い。――知らんよ、拾ったんだ。五匹いる。五匹だな?」ルークが頷いた。「五匹だ、全員生きてて、温めている最中だ。そうだ、ジョージのところに寄ってこい、あいつは猫好きだから」
 ジャックは空のペットボトルを見つけて、それにお湯を入れて箱に詰めた。子猫を温めるのは、本来は母猫の役目だ。そこまで考えて、果たして自分はどこでこの知識を手に入れたのか疑問に思う。兄が知らないのだから、授業で得たものではない。当たり前だ。こんなことは、対ファンタズニックのすることではない。
「寮に連れていくことはできない」ルークが囁いた。
「押しつけていくのか?」ジャックは言い返す。
「それでいいよ」少年が口を挟む。「寮に住んでるんでしょう? ランスの知り合いだって言えば通じるよ。ヴォルフさんなら大丈夫だよ、この子たちの面倒みて、家も見つけて、見つからなかったら自分で飼うよ」
 たぶんそうなんだろうと、初対面でも信じられるなにかが、ヴォルフにはたしかにあった。ジャックはルークを睨む。兄も彼の性格を察しているし、それに甘えるつもりだろう。そうするしかないのだ、という態度で、無難に、器用に。
「あっ」
 と、少年が高い声をあげた。
 二人が振り返ると、少年は両手を見下ろして、「あー!」ともう一度叫んだ。――猫だ。猫がいなくなった。少年がいまのいままで抱えていた、灰色の猫。この空き箱の中で身体を押しつけ合いながら眠っている子猫たちの母猫のゴースト。
 消滅したのだ。
 動物のゴーストは、普通、あまり長くはもたない。
 少年は涙を溜めて、「知ってたけどさあ……」とつぶやく。ジャックは慰めたかったが、咄嗟に言葉が浮かばなかった。ルークが隣で顎をひく。兄も、そういうことには向いていない。昔はうまかった気がするのに。
「いま、息子が来る。なんだこいつらは、指人形みたいだ、まったく」ヴォルフが戻ってきて、空き箱を覗いてにっこりとした。「なんだ、どうした? 深刻な顔して」
「いえ――」ルークが答える。少年はふわりと宙に浮き、そのまま天井に――、いや、ロフトのような場所に入り込んでしまった。「その、ゴーストが」
「リヴァーか?」
「彼が」兄がヴォルフに向き直る。「彼の抱いていた猫が、消滅しました」
「この子らの母猫か?」
「そうです」
 ヴォルフの人なつこそうな瞳が、一気に曇った。
「そうか。リヴァー、おい、泣くな! お前のおかげでこいつらが助かったから満足したんだろ」
 上から「知ってるよ!」という泣き声が降ってきて、ルークが通訳をした。ヴォルフが息を吐く。部屋が気まずい静寂に包まれ、子猫たちの寝息だけが響いた。ジャックは右手で一匹ずつに触れ、それから立ち上がり、レジ台の下を通り抜けて店を出た。
 階段を駆けおりると、春の夜が待っている。
 ジャケットを置いてきてしまった。寒い。空を見上げて、それから二階の窓を見る。オレンジ色の光が漏れている。兄は弟の無礼を謝り、少年と子猫を気遣いつつ、やがて店を出てくるだろう。兄は冷たくはないが、優先順位のはっきりしている人間だ。なにをどうするべきか、いつも正解を知っている。自分とちがって。
 ――なにが。
 なにがこんなに気に入らないのか。なにをどうしてほしいのか。自分でもわからなかった。今夜、ジャックが夕食後に寮を抜け出さなければ、あの女に出会わなければ、駅で眠りこけなければ、こんなことは起こらなかった。関わらずに済んだ。そのほうがよかった。
 遅い、と思ってから、自分が兄を待っていることに気づいて舌打ちし、踵を返した。

 子猫と比べるとはるかに冷たく、硬くなった母猫の亡骸を手探りで掴んで取り出した。こんなのから五匹も出てきたことに、いまさら驚いた。
 自分とルークも、おなじ母親から産まれたはずだ。
 もちろん親を見たことはないので、あまり想像できない。母親というよりも、一個体、というイメージくらいしかない。「第二の目」を持つ者の大半は、いつかの土曜日、おなじ胎の七番目の子として産まれている。報告局はそういう条件で誕生した子を集めて回っている。みんなひとりで、自分たちのように兄弟で引き取られる例はめずらしい。厳密に言えば、七番目の子はルークだ。ジャックは八番目。だから兄と比べると、ずっと第二の目が弱い。同級生と比べても弱い。「双子で七番目」なら圧倒的に優秀なのに、「双子で八番目」となると落ちこぼれになる。産まれた瞬間から決まっていた運命。
「遅かった」ジャックは膝の上の猫を見たままつぶやいた。
「ピアノを弾かされた」狭い道を抜けてやってきた兄が答える。「あの子のために」
「ゴーストに?」
 目が合う。双子の兄。自分とよく似た顔。
「音楽が好きなんだと。ヴォルフ氏曰く、ランスが慰めるためによくやっていたそうだ。あんたもなにか弾けないかと、頼まれた」
 ジャケットを投げられる。ジャックは受け取って猫をくるんだ。来ることを知っていた。猫のために来たのではない。自分のためだ。
「なに弾いた」
「『エリーゼのために』」ルークは軽く肩をすくめた。「譜がなかったから。ピアノはだめなんだ、知ってるだろう」
 兄が得意なのはヴァイオリンだった。自分はどちらもさしてできない。
「猫は?」
「あの人はすごいな。息子だけじゃなく、奥方も、猫好きの隣人まで来た。あとはなにも心配いらないと言われた。助けてくれてありがとうと」
 苦笑は、どこか傷ついているようにも聞こえた。ジャックは立ち上がる。
「どこ行ったんだっけ、ランス・ファーロング」
「ウィッツバリーだ」兄が答える。
 あいつは研究職を選ぶとばかり思っていたのに、去年早々に独立して、ロンドンから消えてしまった。
「で、俺たちが行くのは?」
「……ウェールズにあるちいさな町だ」
 兄の平坦な口調に、ジャックは息苦しさを覚える。
 ルークだけなら、もっと早く独立できたはずだった。それこそランスとおなじくらいに。『火』として抜群に優れているのだから、都会が向いている。ゴーストが多くいるような。だけど兄は田舎を選んだ。自分を連れていくことを選んだ。『地』でも多少は役立ちそうな地を選んだ。
 猫を抱いて歩きながら、ジャックはつぶやいた。
「あんたは、もっと早くに俺を見捨てるべきだった」
 ゴーストも、だれもいない、暗い街角。
 潰されそうなほど狭い道に入る。
 ジャックは産道を連想する。
 ――兄は自分を押しただろうか。
 双子が産まれる順番は、どうやって決まるのだろう。
「もっと昔に。そうすれば」
 そうすれば、お互いこんなふうには、ならなかった。
 罪悪感。なにに対しての? 絡み付いてだめになる。傍にいるほど傷ついて、傷つける。
 ルークはなにも言わなかった。ジャックは続ける。
「……きっといつか、後悔する」
 少しだけ声が掠れた。
 双子は静かに、夜を往く。
 空っぽの猫を埋める場所を探して、沈黙に包まれたまま、どこまでも、彷徨った。

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す