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「幸せの対価」◆芙蓉城の検屍官SS◆

 唐代。ようじょうとの呼び名高い都、せい
 早朝、ものやぐらの下で死亡している男性が発見された。中肉中背で、年の頃は三十ほど。後頭部からおびただしく血を流し、開いたままの両目、鼻腔から血が伝っている。右腕、左足の骨が一部突き出しており、一見したところ、転落死のようだが、自殺か他殺かはわからない。
 けんかんちょうりゅうと、そのさく(検屍の作業を行う専門技術者)であるかんしょうえいは、野次馬の集う中、屍体を前に額を付き合わせた。
「近所の飲み屋の主人に聞いたところ、このほとけぁ、おうじゅんいつという男でさ」
「常連か?」
「毎日通い詰めてるってわけでもないが、顔と名前を覚えるくらいには。昨夜も仕事帰りに寄って、適当に飲んで帰ったみたいですぜ。なんでも、近々婚礼の予定があったとか」
「なるほど。飲み過ぎて馬鹿でもやったか……。おい、はくしょう。野次馬どもを下がらせろ」
 隆起の指示に、しょ(地方小役人)であるそんはくしょうが頷く。彼は大柄な体躯で、野次馬の目から現場を隠すように立ちはだかると、見物人たちに散っていくよう促した。
「これよりけんけん(検証)を行う。被害者は王順逸。検屍官はこの趙隆起。仵作は韓松栄」
 隆起の宣言を合図に、松栄は検屍道具を鞄から取り出すと、遺体の服を脱がせた。
 遺体の頭部に手を差し込み、丁寧に観察する。
「頭部……激しい外傷、出血ともにあり。両目、鼻腔出血あり。口内にゃあ異常はなし……と。内臓は潰れてやがるな」
 胸から腹の辺りを数カ所手のひらで押し、部下に指示をして遺体をひっくり返す。
「背面――擦過傷、打撲傷あり。肛門の中にゃあ……凶器になるようなもんはねえな」
 特殊な器具で肛門の中を確認すると、再び遺体を仰向けに戻す。
「松栄、どうだ?」
 隆起の問いかけに、松栄は小さく唸って顎を撫でると、物見櫓を見上げた。
「この様子じゃあ、誰かと争ったとは思えねえ。考えられる線としちゃあ……しこたま酒を飲んで櫓に上って、落っこちて死んだかな」
「婚礼を控えて自殺の可能性も低いな。酩酊した末の事故死か」
 隆起が納得したように頷く。泥酔した者が、用水路で溺れて死んだり、今度のように高いところに上って転落死することは、さほど珍しいことではなかった。
「――いえ、ちょっと待ってください。事故で片付けるには少し気になることがあります」
 二人の間に割って入るように、声を上げる青年がいた。
 扁桃アーモンド形の目に、すっと通った細い鼻梁。抜けるような白い肌に、細く長い眉。
 れいめい。新しく成都に赴任した、新人検屍官である。
「……優秀な李黎明検屍官殿は、あっしらとは違う見解をお持ちで?」
 松栄は、不愉快だといわんばかりに片眉をつり上げ、皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「結論を出すのは早計だと思います」
 短く答えながら、黎明は遺体の腕を取った。
「よく見て下さい。このご遺体の両腕に、爪で掻きむしった痕があります。一回や二回ではありません」
 黎明が順逸の手を見る。短い爪に、皮膚片が確認された。おそらく、自分で掻きむしったのだろう。つぎに遺体の口元に鼻を寄せ、においを確かめた。
「それに、酩酊したとするには、お酒の臭いがしません」
「だが、酔いもせずこんな櫓に上るか?」
 隆起が舌打ちを零しながら眉を顰める。
「酔っていようが、しらふだろうが、転落死という結果に変わりはない」
「遺族にしてみれば、受け取り方が全く違うと思います。見て下さい。何本かの指の爪が剥がれています。必死に何かを摑もうとしたような……」
 黎明はそう言うと、物見櫓を見上げた。丸太のような形状の木を組んでできたもので、上には屋根を掛けた物見台と、梯子がかけてある。物見櫓は火事や見張りの時などに使われるため、通常の建物より高く建築される。
再び順逸の両手を見た。擦ったようなあとがある。何で擦ったのかは、わからなかった。
次に、彼の肩掛け鞄を開く。中には、仕事で使うらしい工具と、紐で通した小銭、可愛らしい生地で作った巾着袋が入っている。巾着袋には、お守りらしきもの。
 手控えに書き留め、出したものをすべて、順逸の鞄に戻す。どれも、貴重な証拠だ。
 物見櫓に上っていた胥吏が、物見台の手すりに、人間の爪の痕が刻まれているのを発見した。順逸の手の爪が一部剥がれていることから、おそらく彼の残したものだろう。手の擦り傷は、手すりを強く握り締めた痕か。
「彼はなぜ櫓に上る必要があったのか。被害者の死亡前後の行動まできちんと捜査するべきです」
 黎明が隆起と松栄に視線をやると、二人は鼻を鳴らした。
「そんなに調べたいのなら、貴様に一切を任せてやる。――ただし、条件付きでな」
「条件?」
「もしこの男が酩酊しての転落死だった場合、貴様は今後一切捜査に口を挟むな」
 隆起が口角をつり上げて笑う。松栄も、面白そうに顎を撫でさすった。
「そりゃ、いい。検屍官殿のお手並み拝見といきましょうや」
 ――と、そういうことになった。
 
     ***

 黎明の話に耳を傾けていたアシタルは、いかにも不愉快そうに眉根の皺を深めた。
 灰色がかった緑眼に、あかがね色の肌。高い鼻梁に、重たく引き結ばれた唇はいかにも寡黙そうだ。
「毎度、くだらん連中だな」
「実際、自由に動けるので、ありがたいといえばありがたいのですが」
「邪険にされ、部下の仵作も胥吏もつけられず、犯罪捜査をすることがか?」
「ですので、用心棒の葦幹殿がいて心強いです」
 黎明があっけらかんとして答えると、葦幹は眉を顰めたまま鼻を鳴らした。
「この辺りに王順逸殿の住まいがあるはずなのですが……」
 黎明が足を止め、手控えを確認しながら首を傾げる。
 二人は、王順逸の住まいに向かっていた。
 飲み屋や芝居小屋、食堂に博打小屋が軒を連ねた歓楽街。その裏手に、ひっそりと群れを成すように家屋がひしめいている。
 川沿いの家に、庭先でなにかを天日干ししている老女を見つけ、黎明は声を掛けた。
「――ああ、順逸が……。そうかい、かわいそうにねえ」
 順逸の遺体が発見されたという黎明の話を聞くや、重く垂れた目元に涙を浮かべた。どうやら、知り合いのようだ。
やっと、、、幸せになれるはずだったのにねえ……」
やっと、、、、とは?」
 黎明は筆を取り出し、毛先を舐める。
「あの子はねえ、ずいぶん、苦労してきた子なんだ。はやくに父親が死んじまってねえ。足の悪い母親を、小さい頃から支えてた。十歳そこそこで大工に弟子入りしてさ。その母親だって、何年か前に風邪をこじらせて死んじまった。しばらくは落ち込んでいたが、ようやく立ち直ってねえ。支えてくれるいいひとができて、幸せになれるところだったんだよう」
 まるで我が孫のことを語るように、老女は順逸のことを口にする。
 父が早逝し、障害を持った母を助けながら、十歳で働き出すとは、相当の苦労人だったらしい。黎明は話を手控えに書き留めた。
「あの子も……、めいりんもさぞ辛いだろうね」
「鳴鈴とは?」
「順逸のいいひとさ」
 嘆息する老女に順逸の住まいを聞き、再び足を進める。
 指示された場所には、古く、小さいが、手入れの行き届いた家があった。手押し車や箒が、戸の側に立てかけられており、アサガオの蔓が、花壇から格子戸に巻き付いている。
 黎明が戸を叩いて声を掛けると、軋んだ音を立てて開いた。
 中から、ほそおもての女性が顔を覗かせる。
「私は検屍官の李黎明と申します。こちらは、王順逸殿のお家でよろしいでしょうか」
「ええ」
 女性は頷き、黎明と葦幹を中に通した。
 机や椅子などの家具は質素で、年季が入っている。しかし清潔感があるのは、物が丁寧に整理整頓されているからだろう。
 用意された綿の薄い座布団に座り、話を聞く。
 女は、鳴鈴と名乗った。順逸とは婚礼を挙げる予定だったらしい。すっかり肩を落として、顔色も悪かった。
「死亡した順逸殿について、いくつか教えていただきたいことがあります。順逸殿は、お酒を好む方でしたか? 正体を失うほど飲むことがあったり、家屋の屋根に上るなど、突飛なことをしたことは?」
「ありません。お酒だって、飲む方ではないです。お酒より、甘いものが好きな人で……」
 鳴鈴が首を横に振って答える。
「では、持病などはありましたか? 最近、様子が優れなかったとか……」
 鳴鈴は再び首を横に振った。
「――あの、本当に、死んだのはうちの人……なんですよね?」
 小さく零す。黎明は、筆を止めて顔を上げた。
「ご遺体の顔を、ご確認いただいていないのですか?」
「いえ、けい(起訴や罪人の裁判、処罰などを司る部署)の詰め所で見ました。けれど、納得できなくて」
 鳴鈴が、膝の上に置いた拳を固める。
「あの人――順逸は、物見櫓から転落して死んだって、だけど、そんなのおかしいです」
「おかしいというのは、なぜです?」
 声を振り絞る鳴鈴の拳の上に手のひらを重ねて、黎明は彼女を見つめた。短い睫が震えて、涙が滴る。
「あの人は、高いところが怖くて。小さい頃、大工に弟子入りしてすぐ、足場から落ちて大けがしたって二階建ての建物だって怖がる人なんです。だから、現場でかんながけや、木材の運搬なんかをさせてもらっていて……。たとえ酔っていたって、物見櫓なんて上れるはずないんです……!」
 黎明と葦幹は、顔を見合わせた。
「隠していたけど、このところ様子も変だった。時々手が震えていたり、疲れているふうなのに、気分だけは高揚していたり……。絶対に、なにかあるはずなんです!」
 鳴鈴が叫ぶように言い、黎明の手をきつく握り返す。
「だから……どうか、あの人が死ななければならなかった理由を教えてください……」
 鳴鈴の目から涙が溢れる。
 黎明は、彼女の内に満ちる悲しみの激しさに胸を揺さぶられた。
「お約束します」
 刑部の者として、検屍官として、死の真相を解き明かすと。

 鳴鈴に礼を告げ、順逸の家を出る。
「高所を怖がる人間が、物見櫓に上り、転落して命を落とす……。話としては不自然です」
 黎明の言葉に、葦幹は「ああ」と短く答えた。
「その男が、たまたま物見櫓の下で背後から何者かに襲われたという可能性はないのか?」
「ご遺体の状態から、おそらく転落したことが原因かと」
 黎明は、口元に手を添えて唸った。
「私もお酒を好むほうではないですが、そういう人が自ら泥酔するまで飲むことは稀なように思います。それに実際、順逸殿からあまりお酒の臭いはしなかった。高所恐怖症の男性が物見櫓を上るなんてこと、理由もなくしないでしょう。何者かに追われていたとか、上るように脅迫されたか……。いずれにせよ、必要に迫られてということになる。となれば、それは事故ではなく殺人です」
「屍体に争った形跡はないと言っていたな。だが、ろくでもない連中に絡まれていれば、少なからず目撃者はいるんじゃないか?」
「そうですね。では、明日は順逸殿が最後に立ち寄った飲み屋に向かってみましょう」
 それに、酒を飲まないはずの被害者が飲み屋に出入りしていたというのも気になる。
 とはいえ、すでに日が傾いている。続きは、明日のほうがいいだろう。

 約束を交わし、葦幹と詰め所の前で別れる。
 検屍官執務室の扉の前で、ちょうど伯昭と鉢合わせた。
「黎明殿、いいところに……。王順逸のことで、耳に入れていただきたい話が」
 蒼い顔で言う。
「なにかあったのですか?」
「俺も気になって、物見櫓の付近を聞き込んでみたんです。そうしたら……」
 気が重たいというように、伯昭は視線を落とした。
「あの夜、順逸を見たという男がいたんです。どんな様子だったか、教えてもらったんですが……」
 順逸は、夜闇の中でひとり悲鳴を上げながら両腕を掻きむしり、必死になにかを喚いていたという。
「最初は喧嘩かと思ったらしいんですが、順逸がひとりで怒ったり、泣いたり、謝ったりして、まるでき物に憑かれているのかと……。その後、急に走り出して姿が見えなくなったと言っていました。見ているだけでも恐ろしくなって、すぐに現場を離れたらしいです」
 怖気が走ったのか、肩を震わせ、伯昭は大きな体を縮こめた。
 それは、錯乱していたということだろうか。
 もし順逸が何らかの理由で錯乱していたのだとしたら、怖いはずの高所に上り、転落したのも頷ける。
 憑き物などといった曖昧なものが、順逸の命を奪ったなど、到底納得できない。
 しかしそれが――順逸を錯乱させるもの――たとえば病気や、毒であるとするならば、話は別だ。
 問題は、いったいなにが彼をそうさせたのか。
 黎明は、伯昭に礼を告げると、執務室の自分の机に向かって、手控えを開いた。
 順逸はまだ若く、年の頃は三十ほど。近々婚礼をする予定だった。
 酒はあまり飲まず、甘い物を好む。飲み屋に通っていた。高所を怖がり、大工をしているが仕事は鉋がけや木材の運搬。持病はなかった。鳴鈴の話によると、時々手が震え、疲れているふうだが、気分が高揚していたという。
 死亡の直前、ひとり悲鳴を上げながら両腕を掻きむしり、必死になにかを喚いていた。
 そして物見櫓に上り、転落。死亡。
 気分の高揚――掻きむしった両腕――錯乱しているかのような挙動。
「――あ……」
 ふいに、ひとつの可能性が黎明の脳裏を過った。
 こうして見れば、すべてが繋がっている。
 ――やっと幸せになれるはずだったのにねえ……。
 老女の声が蘇る。
 黎明は手控えを懐にしまい、息を吐いた。

     ***

 翌日。
 くだんの飲み屋はこぢんまりとしていた。
調理場と客席を仕切る間仕切りに、木の板をずどんと置いたような素っ気ないつくりの机が五、六台ある。
 昼を過ぎてはいるが、酒を飲むには早い。そんなわけで、店には先客が一人と、黎明と葦幹だけだ。適当な席に着くと、店の者が顔を出した。五十がらみの男だ。葦幹は酒を、黎明は吟味したあげくに揚げた団子と茶を頼む。
「葦幹殿はお酒をよく頼みますよね。お好きなんですか?」
「飲み屋に来ているから酒を頼む。それだけだ。あんたはいつも飲まないな」
「幾つになってもお酒に慣れないので、自分に合っていないのだろうと諦めました。葦幹殿は、いつからお酒を? 強いんですか?」
「いつからとは覚えていない。俺みたいな稼業をやっていると、飲み屋こういうところがいい商売の場になったりする。それで自然と飲むようになっただけだ。酔う、酔わないは体調による。疲れている時や、体調が優れないときは飲まないほうがいい」
「なるほど。嗜好というより、環境面が強いんですね」
「あんたが思っているほど、いいものではないぞ。酒が翌日まで残ると厄介だ」
 話しているうちに、店の者が料理を運んできた。礼を言いながら、黎明が尋ねる。
「私は検屍官の李黎明と申します。ここに通っていた王順逸という方について、話を聞かせてくださいませんか?」
「ああ。時々来てたよ」
「お話しでは、順逸殿はお酒をあまり飲まない人だったそうですが……」
「そうかもしれないね」
 話を短く切り上げるように答える。
「では、一昨日の夜、ここで順逸殿がいざこざに巻き込まれたり、絡まれたりするということはありましたか?」
「いいや。その日は珍しく酒を飲んでいたが、変なのに絡まれてはいなかった。うちに来る客はみんな大人しいと思うよ」
「なるほど、ありがとうございます」
 黎明が男の話を手控えに書き留めると、彼はさっさと奥に戻っていった。
 油で揚げて軽く胡麻をまぶした団子を前に、黎明はじっと考える。
 お酒を飲まない人間が、飲み屋に通う。出される料理は塩気の効いた小鉢料理が多く、酒を飲まない黎明が頼むことができたのはこの揚げ団子くらいだ。つまり、食事目当てで通っていたのではないだろう。
 では、彼はいったいなにを求めて、ここに通っていたのか。
 自分の推測が正しければ、ここには――。
 弾力のある団子と、口の中で甘く溶ける餡を噛みしめながら、黎明は茶をすすった。
「――おい、そのまま聞け」
 葦幹は低く声を落とした。
 黎明が視線を上げると、葦幹が眼差しを横に流す。その先に、奥でひとり飲んでいる男の背中があった。
「あいつ、あんたの話を聞いて体が強張ったぞ。なにか後ろめたいことがある」
 ――どうする。
 葦幹が目で問う。
「……話を聞いてみましょう」
 黎明が答えるのとほぼ同時に、男が席を立った。
「すみません。すこしお話を――」
 黎明も立ち上がって声を掛けるが、男は突如として黎明を突き飛ばすと、脱兎のごとく走り出した。ぶつかった椅子や机が音を立てて倒れる。
「葦幹殿! 彼を捕まえてください!」
 黎明が声を上げるのと、葦幹が男の腕をつかんで捻り上げたのは同時だった。
「ぐあ……!」
 顔を歪め、男が唸る。
「大人しくしろ。抵抗するなら、このまま腕を折るぞ」
 葦幹が男と額を突き合わせ、睨み付ける。葦幹が力を込めると、男の腕が妙な方向にたわんだ。痛みに喘ぎながら、男は何度も頷いた。
 
 男は、薬の売人だった。
 飲み屋の裏手。葦幹に胸ぐらを摑まれて壁に身を押しつけられたまま、男は黎明の尋問を受けている。
「俺が売ってるのは、別に変なもんじゃねえ。滋養強壮の薬だよ。煎じて飲めば不眠不休で働けるんだ。ありがたい寺の裏手に生えててね。信心深い連中の中には、神仙の姿を見た奴だっている」
 黎明の手には、小さな包みが載っている。
「神仙の姿を見たということは、これはただの滋養強壮剤ではありませんね。原料はなんですか?」
「さて、なんだったかな……」
 男は視線を流してとぼけようとするが、葦幹が腕に力を込めると、ぐうと苦しげに唸った。
「俺の雇い主が聞いているんだ。思い出せるな?」
 そう脅しかけるように言うと、男は慌てて頷く。
きのこだよ! べつに食ったからって死ぬようなもんじゃねえ! ちょっと気分が良くなったり、眠気がとんだりするだけだ! あとは、別嬪な仙女とか、極楽みてえな場所とか、そういういい夢を見れたってやつもいる!」
 覚醒作用や、幻覚作用がある毒茸。いくつか覚えがある。
 黎明の中で、すべてが糸で繋がっていく。
「……王順逸という男性に、これを売ったことは?」
「前に何度か……。だが、一昨日は売ってない。最後に渡したのは十日も前だ。だから、俺の薬でどうにかなったってわけじゃねえ」
「では、なぜ私が官吏だと知って逃げ出したのですか?」
この町の官吏は信用できねえから、、、、、、、、、、、、、、、だよ!」
 男が叫ぶ。
「あなたは一昨日、順逸殿と接触を? なぜ、彼はこんなものを買っていたのです?」
「……女のためだよ」
「女のため?」
「自分の稼ぎじゃ楽な暮らしはさせてやれねえのに、妻になりてえと言ってくれる大事な女なんだそうだ。せめて婚礼の日くれえは綺麗な着物を着せてやりてえって、今までの倍働きたいから、滋養強壮の薬がほしいと俺の噂を聞きつけてきたのよ」
 ――隠していたけど、このところ様子も変だった。手が震えていたり、疲れているふうなのに、気分だけは高揚していたり……。
 鳴鈴の言葉が脳裏を過る。彼女の涙に濡れた顔が胸に蘇る。
 (嗚呼……。やはり――)
 黎明は心の中で深く嘆息した。
 自分の推測通りだとすれば、この事件は、あまりにも悲しい。
「ひどくくたびれたって時に、ちょっと使うくらいだったよ。これに溺れちまうやつもいるが、順逸あいつはそんなことなかった。わきまえてたんだ。それにいい奴だった。だから、知り合いの反物屋を紹介してやったんだ。いいものを安くしてやってくれって……」
 男の声が潤を帯びて、震えていく。
「一昨日の夜は、店で祝ったんだ。順逸の行っていた、でかい現場がようやく片付いて、あとは貯まった金を持って女の着物を受け取りに行くだけだって。喜んだ顔が早く見たいって笑ってたんだ。俺からの祝い酒を、あいつも飲めないなりに飲んで……」
「あなたの言う茸とは、おそらくシビレタケのことでしょう」
 黎明は、拳を握りしめた。
「シビレタケには幻覚作用があり、摂取すると神仏に会ったり未来を視たりといった神秘体験や多幸感を得ることができる。一方で、吐き気、腹痛などの肉体的な諸症状もありますが、あなたのいうとおり命を奪うほどのものではありません。――しかし」
 黎明の言葉に、男は涙を溜めた目を上げた。
「時に、非常に不快な幻覚症状が現われることがあります。その幻覚によって、自分自身や他人に危害を及ぼす恐れがあり、あまりにも強い希死念慮から自殺しようとする者もいる。虫が自分の皮膚の中を這い回っているという幻覚や、自分がどこにいるのかもわからなくなってしまうこともあると……」
 順逸の腕の掻きむしった痕。それは紛れもなく、この症状を指している。
「薬を最後に渡したのは十日も前だ! あの日は、酒を飲んだだけだ!」
 男が叫ぶ。このままでは、順逸の死の犯人にされてしまうという恐怖が、その表情から見て取れた。
「……こんなもの、、、、、を扱うのであれば、覚えておいてください。一度、こういった毒薬、、を使用した場合、完全には体から抜けていかないんです。一生、体を蝕み続ける」
 黎明は、毒薬と言い切った。
「葦幹殿は、酒に酔う、酔わないは体調も影響すると言いましたね。この場合も同じです。体の中に残っているシビレタケの毒は、飲酒や疲労など、ふとしたきっかけで再燃し、悪夢のような幻覚を見せます。順逸殿は、その日大きな仕事を終え、疲れていたのでしょう。そこに普段飲み慣れない酒が入った。彼の中に眠っていた毒が目を覚ましたとしても、不思議ではありません。実際、錯乱して腕を掻きむしっている順逸殿の姿が目撃されています」
「俺は何かの罪に問われるのか……?」
「わかりません。私は検屍報告をするだけで、判断できません。裁判は、刑部の中でも別の部署の担当ですから」
「そんな――」
 男が崩れ落ちる。黎明は、黙って項垂れる男を見ていた。

     ***

 翌日。
 黎明は検屍報告書を書き上げ、鳴鈴のもとに向かっていた。
「私は、鳴鈴殿になんと伝えればよいのでしょうか」
 黎明が、順逸の最後の場となった物見櫓を眺めながら呟く。
 川に架かった橋の向こうに、順逸と鳴鈴の家がある。
 ――あなたに、婚礼のための綺麗な着物を買おうとして、順逸殿は無理を押して働くために毒薬に手を付け、その幻覚作用によって命を落としました。
 そんな残酷なことは言えない。
「順逸殿は、いったいどんな気持ちでいたのでしょう」
 無理をして高額な着物を買おうとしなければ。
 少なくとも、毒薬を買わなくなっていた時点で飲み屋に通うのを止めていれば。
 あの日、飲み屋に行かなければ。
 売人の男から祝い酒を勧められても、飲まなければ。
 彼の人生は今と少し違ったはずなのに。
 悔やみきれないほどの「もしも」が黎明の脳裏を過る。
「……婚礼が、よほどに嬉しかったんでしょうか」
 体にむち打って、毒薬に頼ってでも、鳴鈴の喜ぶ顔が見たいと思うほどに。
 祝い酒と称した、得意ではない酒を飲もうと思えるほどに。
 祝いの気持ちとともに受け取ったそれが、命を奪うなどと思いもせず。
 ――いや、それはきっかけにすぎない。すべては、順逸の行動の結果なのだ。鳴鈴に綺麗な着物を買ってやりたいと思ったこと。お金を貯めるために無理をして働いたこと。滋養強壮の薬を求めて飲み屋に行ったこと。そこで売人の男と知り合い、毒薬を買ったこと。その男と親しくなり、祝福されて酒を飲んだこと。
 喜びも悲しみも、因果応報に訪れた。
「あんたがいくら考えたところで、順逸の気持ちなんぞわからないぞ」
 葦幹の言葉に、黎明は落としていた視線を上げた。
「そいつの身に起こったことの全ては、そいつのものだ。事件が解決したなら、それ以上はどうこうと詮索するものじゃない」
 葦幹の言うとおりだ。
 順逸の身に起こったことを、黎明の尺度で考え、善し悪しを判ずるのは、差し出がましいことかもしれない。
「そうですね……。鳴鈴殿のもとに向かう前に、寄りたいところがあります」
 黎明は、川とは反対の方向に足を向ける。
「詰め所に戻るのか?」
「いえ、反物屋に。そこに、順逸殿が渡したかった着物があるはずです。すでにできあがっていて、あとは代金と引き換えに受け取るだけだったと、売人の男が言っていましたから」
 その着物にこめられた順逸の気持ちが、遺された鳴鈴を少しでも慰めてくれるように。
「受け取ると言うが、代金はどうする」
「多少ですが、私に持ち合わせがあります。順逸殿が稼いだお金は、鳴鈴殿に全額残ったほうがよいでしょう。この先、きっと入り用ですから」
 そう答える黎明に、葦幹は「お人好しめ」と眉根に皺を寄せた。
「ところで、葦幹殿は私と食事をする時、いつもお酒を頼んでいますが、それはつるんで飲むのとは違うんですか?」
「全く違う。あんたは酒を飲まないだろ」
「では、私もお酒を頼めばつるんで飲んだことに?」
「ならん。俺はあんたの用心棒で、あんたはあくまで雇い主だからな」
「それは残念です。いつか、一緒に飲んでくださいね」
「あんたは茶にしておけ」
「葦幹殿おすすめの、飲みやすいお酒を教えてください」
 黎明がそう言って足を進めると、葦幹はその背中を眺めつつ息を吐いた。
「あんなもの、あんたには合わんだろうさ」

 終わり

  *

エリート新人検屍官とワケアリ用心棒が不審死事件の謎を追う、中華検屍ミステリー!
『芙蓉城の検屍官』は好評発売中です!

■ 著者プロフィール
相田美紅(あいだ・みく)
講談社X文庫ホワイトハート新人賞(2014年下半期)を受賞し、デビュー。『呪われ少将の交遊録』で第11回ポプラ社小説新人賞奨励賞を受賞。

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