一話 子喰い鬼
益州でも一、二を争う繁栄を見せる成都。
黎明は、その喧噪に圧倒された。商品を積んだ馬車や、籠を背負った行商人、旅人たちが大路を行き交い、通りに立ち並んだ旅館や飯屋には、人々がひしめいている。
黎明がいた首都、長安も大きな都だが、活気ではここも劣らない。江南に次ぐ温暖な気候に、立ち上る運河と緑の香り。そこかしこで、人々の立てる喧噪が賑やかだ。
その国が、唐と呼ばれた時代。李黎明が成都に到着したのは、三月六日のことだった。
齢二十にして難関試験である科挙を突破した彼は、刑部(起訴や罪人の裁判、処罰などを司る部署)に籍を置き、三年の研修を終えて、今日、検屍官としてこの地に赴任することになったのである。
書に学び、師に仰ぎ、寝食を忘れて昼も夜もなく知識を頭に叩き込み、ついに人々の役に立つ時がきたのだ。
まさか、こんな大きな町の検屍官に任命されるとは、思ってもいなかった。もちろん、他にも検屍官は赴任している。おそらく、同僚の間では、黎明が最も若輩にあたるだろう。実践でしか知り得ないことは、先輩に教えを請い、学ぶつもりである。
黎明は、馬車から町の様子を覗く。柳眉の下の双眸が瞬く。白皙の頰に紅が差す。人形細工師が丁寧に通したような鼻筋。扁桃形の目が涼やかで、香り立つような、いかにも端麗な顔立ちだ。
「大きな町ですね」
「そりゃあ、ここは錦城や芙蓉城って二つ名が付けられるくらいですからね」
御者が答える。黎明は、ただただ感嘆の息を零した。
大路から繁華街に入ると、馬車が止まった。どうやら、男たちが通りの真ん中で揉めているらしい。異国の言葉を繰る男たちが、胸を反らし、腕を組み、互いに睨み合って怒鳴り声を上げていた。野次馬たちが集い、道を塞いでいる。
「参ったな。これじゃ通れねえ。誰かに抜け道がないか、聞いてきます」
御者の男がそう言い置いて、野次馬たちの中に割り込んでいく。黎明はその後ろ姿を馬車の中から見送った。
言葉の通じない者同士が揉めるのは、よくあることだ。そのうち、騒ぎを聞きつけた巡検の者にしょっぴかれていくだろう。
頰杖を突いていると、喧噪の中に女の子が啜り泣く声が聞こえた。通りの端に、十歳に満たないくらいの女童が蹲っている。黎明は馬車を降り、女童のもとに向かった。
「どうかしましたか?」
黎明が腰を折ってのぞき込むと、女童は、涙に濡れた顔を上げた。瞼が赤く腫れ、鼻腔からは鼻水が垂れている。
「あたしの小鳥、大事にしてたのに、死んじゃった……」
小さな手のひらの中に、黄色い小鳥が力なく身を横たえている。瞼は閉じられ、どす黒く濡れた首に、鋭い咬み傷が見えた。この失血の仕方では、絶命に至るまで時間はかからなかっただろう。
「この子にお墓を作って、埋めてあげましょう」
「おはか……ひとりじゃ作れないもん」
「私がお手伝いしますよ。その子が安心して眠れるように、しっかりしたお墓を作りましょうね」
黎明が女童の背中を擦りながら言うと、彼女は大粒の涙と鼻水を垂らしたまま、こっくり頷いた。
小鳥は、運河沿いの土手の、柳の根元に埋めることにした。そこなら、きれいな川も、花も、涼しい木陰もある。きっと、寂しくはないだろう。女童が両手で小鳥を持つ。黎明は真新しい朝服の袖をまくり、手頃な石を拾って、穴を掘り始めた。
土は思いのほかかたく、手強いもので、両膝をついて必死に手を動かして、ようやく浅く穴が掘れたかどうかというものだった。
「おにいちゃん……」
「もうちょっと待っててくださいね。深めに埋めておかないと、獣に掘り返されて……」
額の汗を拭いながら顔を上げると、女童が「うしろ……」と怯えた顔で零す。黎明が振り向くと、厳めしい表情を浮かべた男たちが、目を怒らせて仁王立ちになっている。
「てめえ……。どうしてくれんだ!?」
「あの、『どう』とは?」
「さっきから、てめえの掘ってる土がかかってんだよ!」
先頭に立っている、前歯の欠けた男が黎明の胸ぐらを摑んだ。確かに、男の足元は黎明が掘り返した土で汚れている。
「すみません、私、何かに集中すると途端に周りが見えなくて……」
黎明が詫びると、前歯の欠けた男は、「ああん」と喉を鳴らした。
「謝って済むと思ってんのかァ? 詫びる気持ちがあんなら、相応のモン出せるだろうが」
「相応のもの……?」
「すっとぼけてんじゃねえぞ!」
男が、黎明の衿を摑んで揺すった。
「まあ、喜ィ坊。そこまでにしとけや」
後方にいた大柄な男が、間に入って男を宥める。呆気に取られている黎明の肩に手を回し、ぐっと脇下に引き寄せた。
「兄ちゃん。いいナリしてんじゃねえか。ちょっとくらい履物代に代えてくれたって、悪くはねえだろ」
強請だ。黎明が咄嗟に女童に目をやると、全身を震わせて怯えている。
どうしよう。御者はまだ戻らないだろう。それ以前に、無断で馬車を離れてしまったから、戻っていたとしても黎明がどこにいるのかわからないはずだ。
とうとう、女童が声を上げて泣き出した。
「うるっせェな、ガキ!」
前歯の欠けた男が、女童を足蹴にしようとした─その時。
大きな影が、女童と男の間に割って入った。
銅色の肌や、彫りの深い風貌からみておそらく胡人だ。肩が広く、胸周りが厚い。体に芯が通った立ち方をしているから、武術を嗜んでいる者かもしれない。
実直そうな眉の下に、灰色がかった緑眼。黎明が、初めて見る目の色だ。かたく引き結ばれた唇が、重々しく開いた。
「揉めごとか?」
低く、重い声。緑色の眼差しが、黎明を射た。
咄嗟に黎明が頷くと、彼は「そうか」と答えて、前歯の欠けた男を殴り飛ばした。
大柄な男が、激高する。黎明を放り投げ、胡人の青年めがけて飛びかかった。
彼は男の腕を摑み、背後に回ってねじり上げる。大柄な男はうなり声を上げ、体を揺すってもがいたが、青年は手を緩めなかった。
「で、何があったんだ? 仲裁くらいはしてやるぞ」
「な、なんもねェ!」
青年の含みがある問いに、大柄な男は涙まじりに叫ぶ。
「じゃ、問題はないな?」
男は何度も頷いた。
胡人の青年は、大柄な男を投げ飛ばす。彼らは大慌てで、もつれ合いながらその場を逃げ出した。
黎明が呆気に取られていると、
「そっちは大丈夫か?」
腕組みをしながら、青年が仁王立ちで黎明を見下ろしていた。
「あ……、ありがとうございます」
「礼はいい。それより」
青年が女童に目を向ける。女童は涙も止まった顔で、呆然と立ち尽くしていた。そんな彼女に大股で近づき、片膝をつく。
「胸に抱えているその鳥は、嬢ちゃんのか?」
女童が頷く。青年は「そうか」と零すと、胡服の襟から白い手巾を取り出して、女童に向けて差し出した。
「立派な墓を作ってもらえ。顔はこれで拭くといい」
と言って、何事もなかったようにその場を後にした。
その後ろ姿に、随分くたびれた麻の袋を肩から提げているのが見えた。腰に剣を佩いている。履き古した靴から見て、どうやら、旅の者らしかった。
「怖かったけど、親切な人でよかった……」
一瞬、何か言いがかりでも付けられるのかと思ったが、厳めしい見た目で判断したことを恥じた。まだまだ人間としての修練が足りない。
女童が摘んできた花と小鳥を一緒に埋め、しっかり土を被せてから、墓標代わりに石を立てる。最後に、二人揃って冥福を祈った。
どうか、この小さな魂が、痛みや苦しみのない世界に行けますように、と。
「お兄ちゃん、ありがとう」
涙と洟が乾いた顔で、女童が礼を言う。黎明は首を横に振った。
「いいえ。官吏として、当たり前のことをしただけです」
官職とは、上司に与えられるものではない。天が、人の役に立て、民に尽くせと命じて与えるものだ。少なくとも、黎明はそう信じている。この町に赴任してきた以上は精一杯、責務に尽力するつもりでいる。
「かんり?」
「ああ、難しかったかな。役人のことですよ」
黎明の言葉に、女童の顔が強張った。
「──じゃあ、お兄ちゃん、怖い人なの?」
役人が怖い人であると、考えたこともなかった。
刑部の詰め所。その応接室で着任後の案内人を待ちながら、黎明は女童の言葉を反芻する。
いや、子どもの言うことだ。思い違いか、言葉の綾でそうなっただけのことだ。そう思うが、それでもやはり引っかかる。
出されたお茶に口を付け、胸に蟠っているものを飲み下そうとしたが、未だにしこりが残っている。
そうしているうちに、応接室の戸が開かれた。
「お待たせして、申し訳ない」
そう言って微笑んでいるのは、随分と押し出しの立派な男だった。年の頃は五十に差しかかったくらいだろう。上背があり、身幅も十分で、がっしりとした体つきをしているが、威圧感はない。背中に芯が通ったように姿勢がよく、大きすぎず小さすぎず形の揃った目鼻立ちに、浮かべる笑みには品があった。
「私は楊義艾。成都の県令(県知事にあたる)を務めております。新進気鋭の検屍官殿が着任されると聞き、ぜひご挨拶をと」
多忙を極める中、県令がわざわざ自分のために時間を作ってくれたのだと思うと、込み上げるものがある。黎明は、歓喜に震えた。
「まことに畏れ多いことです。この李黎明、検屍官として、誠心誠意、尽力いたします!」
黎明の宣言に、義艾は静かに頷いた。彼の目は深く静かだが、深奥には燃える何かがある。その熱視線が、まっすぐ自分を射貫いている。同志としてふさわしい者かを見定めるために。
「貴殿のような方がこの町に来てくださったことを、感謝します。私と貴殿は、この町の平穏を守る、いわば同志です。共に、天命に尽くしましょうぞ」
黎明はすっかり感じ入って、目頭が熱くなった。
義艾は天命と言ったが、彼も黎明と同じく、官職を天から与えられた使命と感じているのだろうか。であれば、黎明にとって義艾はまさに同志だ。
遠地に赴任するにあたり、自分は人付き合いがうまくないからと父母や同僚に心配をかけたが、この素晴らしい人のもとでなら、なんとかなりそうだ。
意気揚々と初日を終え、与えられた家に帰る頃には、すっかり日が暮れていた。燭台に火を灯し、文机に向かって墨を磨る。筆先を浸し、文をしたためた。父に、母に。そして、誰より敬愛する兄に。
──兄上。私も、ようやく兄上のように立派な官人として働くことができます。誠心誠意、この町の人々に尽くすつもりです。兄上が、私にそう教えてくれたように……。
心に、兄の姿が浮かぶ。
桃の香りを含んだ夜風に、胸が鳴った。
最初の事件が起こったのは、その数日後のことだった。
***
「おい、新入り。屍体が出た。行くぞ」
そう言って上着を羽織るのは、趙隆起。黎明の指導係にあたる検屍官で、長年この町で経験を積んでいる熟練者だ。痩せぎすで背が高く、喉仏が大きく突き出て、甲高い声をしているのですぐにわかる。
黎明は慌てて読んでいた書を片づけ、隆起の後に続いた。詰め所の前には仵作(葬儀や検屍の専門業者)の韓松栄、胥吏(地方小役人)の孫伯昭が、準備を終えて二人を待っている。彼らは険しい面持ちで、黎明と隆起を目にするなり、「行きましょう」と促した。その峻厳な様が、刑部としての責務の重さを物語っている。
黎明は、身を引き締めた。
「いいか、今回は俺のやり方を見ておけ。余計なことはしなくていい」
「はい。勉強させていただきます」
鋭く忠告され、黎明は頷く。
座学や献体を用いた授業ではなく、犯罪捜査そのものに参加するのは初めてだ。素人に邪魔をされたくないという隆起の言葉も、頷ける。
現場はそう遠くないため、徒歩で行くことになった。胥吏の伯昭を先頭に、一行は通りを進む。町行く人が振り返り、道を開け、顔を寄せて囁き合う。項を針で刺されるような視線に足を止めかけると、
「止まるな」
と、隆起が硬質な声で言い放った。
「屍体が出たんだ。視線が刺さって、当たり前だ」
眼差しの中に、冷たい、責めるような色が含まれているのは、気のせいだろうか。そんなことを思いながら、黎明は隆起の後ろに従った。
現場となった商家は大きく、裕福そうだった。
広大な敷地に、重たい瓦屋根の豪壮な屋敷。至る所に置かれた屛風や壺、燭台などの調度品も、贅を尽くしている。
「こちらです」
門前で今か今かと待ちわびていた使用人が、一行を屋敷に招き入れる。早く早くと促され、駆け足になって現場に急ぐ。
「ここです」と通された豪華な造りの寝室。黎明は、それを見るなり息を呑んだ。
「これは……」
まだ四十に届かないと思われる男が目を見開き、苦悶に顔を歪め、歯を食いしばった形相で大の字になって死んでいる。目、鼻、口、耳から血が流れ出していた。見たことのない、異様な死に方だ。「横になっていた主人が突然苦しみだして、血を噴いて死んだんです」
美しい襦に身を包んだ女が、下女に支えられ、蒼い顔で話す。黒々とした鬢に歩揺を挿し、額には花鈿を入れ、触れれば沈み込むような、柔らかそうな肌をしている。装いから見て、この家主の妻だろう。眉根を寄せ、下女の胸に力なくしなだれかかる様は艶めかしく、見る者に邪な思いを起こさせる。
屍体になった男は、寝台に頭を向け、仰向けになって倒れている。着衣に乱れはなく、血や汚れもついていない。
側卓の上には、切り分けた果物を載せた皿に、酒瓶と盃がひとつ。果物は異国のものらしく、見たこともない種類のものだ。球根のような形をしているが大きく、断面はぐじぐじと熟れて、白い繊維が赤い果肉のなかを走っている。
ぴんと張った清潔な敷布の夜具。天蓋のかかった寝台の側には、香炉が煙を漂わせている。甘ったるく、胸に溜まるようなにおいだ。風が吹き抜ける。窓が微かに開いていることに気付いた。甘いにおいが散っていく。
「遺体には手を触れていませんな?」
隆起が夫人に問う。夫人は、言葉もなく首肯して答えた。頼りない仕草だ。それだけで、色香が匂い立つ。
「では、これより検験(検証)を行う。被害者は張芳紀。検屍担当者はこの趙隆起。仵作は韓松栄。伯昭、この屋敷の者をすべて一室に集めよ。検屍が終わるまで、誰も出すな」
隆起が宣言する。伯昭は頷き、弱り切った夫人を支えながら部屋を出た。
「松栄」
隆起が合図をすると、松栄が進み出て、遺体の着物を脱がせた。手慣れた動きだ。
検屍官と仵作は二人一組で行動する。検屍官は、検験を行う官吏であるが、仵作は検屍作業の専門技術者であるため、遺体に直接触れるのは、仵作であった。
「頭部、異常なし。両目、両鼻腔、両耳からの出血あり。口内に異物なし」
髪の中に手を差し入れ、出血や異常がないかを確認する。時に、頭部に釘等を用いて殺害する方法があるからだ。口を開かせ、奥をのぞき込む。指を入れ、喉に異物を詰まらせていないかを確かめた。
「喉にゃ何もなし」
その時、黎明は、被害者の口角に赤くただれた痕を見つけた。火傷だろうか。
遺体を横たえ、検屍は続く。
「頸部、胸部および腹部、鬱血等なし」
松栄の手が、下半身に及ぶ。被害者は、尿道と肛門からも出血していた。
「九穴(目、鼻、口、耳、尿道、肛門)からの出血あり。肛門の中……異常なし、と」
仵作が、遺体の足を開き、器具を差し込んで中を確認する。
九穴からの出血は、非常に珍しい。
口から血を吐いた場合、胃や肺に損傷を受けている場合がほとんどであるし、目からの出血は瞼や眼球などの外傷によることが多い。耳からの出血は頭部に激しい損傷を負ったときだ。肛門と尿道の出血は、それぞれ別の臓器であるため、別の原因による。たとえば、喧嘩になって腹を蹴られた男が、その外傷によって血尿を出すことは聞いたことがある。しかしその場合、肛門からの出血は見られない。肛門から血を出すのは、痔疾患か、腸に直接何かしらの傷を負ったときだ。
つまり九穴からの出血は、本来それぞれ別の原因によって起こるものなのだ。よほどの衝撃で頭部と体を殴打されれば起こり得るかもしれないが、被害者にその痕跡はない。
毒殺、病死、突然死──黎明は首を捻った。突然苦しみだして、全身の穴という穴から血を噴いて死ぬ。こんな事例は、研修でも出くわしたことがない。
「抵抗したような跡はないな。縛られたような痕跡も」
松栄が、被害者の両手首を確認する。
「部屋の中にも争った形跡はなし。酒もほとんど飲んでいない」
そう言って、隆起は酒の減り具合を見た。寝台にも、大した乱れは見られない。
次いで、隆起は、屋敷の者をひとりずつ現場に呼んで聞き取りを行った。
屋敷にいるのは、張麗香──つまり張夫人と、下女二人、下男が三人だった。大きな屋敷であったが、使用人の数は少ない。
麗香は、夫の遺体を見ないよう、懸命に顔を逸らし、目を背けていた。
「遺体を発見した時のことを、詳しく聞きたい」
「はい……。主人は昨夜から顔色が悪く、少し眠ると言って、この部屋で横になっておりました。昼餉を過ぎても起きてこず……。何も口に入れないのは体によくありませんから、せめてお八つをと思い、昼八つ(十五時頃)に無花果を運びました。主人は果物を一口囓り、それからすぐに……」
そう言って、服の袖で目元を濡らす。
「無花果とはあれでしょうか。珍しいですね。異国の果物ですか?」
黎明が側卓の上の皿に目をやると、麗香は弱々しく頷いた。
「西域でとれるものです……。柔らかく、味も優しいので、食べやすいかと」
麗香が、垂れた前髪を耳にかけた。白い指先に、痛々しい水ぶくれがある。火傷をしたのだろうか。
「お怪我をされているのですか?」
黎明の言葉に、麗香が手を胸元に引っ込めた。
「香を焚く時に、火を触ってしまって」
「そうなのですね。お大事にしてください。ところで、芳紀殿に何か持病は? 常用していた薬など……」
「いえ、そういったものは特に……」
黎明が手控え(メモ帳)に書き付けていると、視線を感じた。顔を上げると、すさまじい剣幕の隆起がこちらを睨め付けている。余計な口を挟むなと言いたいのだろう。
「芳紀に恨みを抱いていそうな者に心当たりはないか?」
隆起の言葉に、麗香が激しく首を横に振った。
「夫は、善良な人間でした。孤児院に多額の寄付もしていましたし、足元を見て商品を買い叩いたり、高値で売り付けることもなく……。そんなあの人が、他人から恨みを買うなんて、そんなこと……」
「なるほど」
その次に下女、下男たちの聞き取りが行われたが、皆、口を揃えて言うことは同じだった。昨夜から芳紀──被害者は寝室に引っ込み、麗香が世話をしていた。自分たちは、各々仕事をしていて、部屋に入ってもいないという。
「誰か、芳紀に恨みを持っている人間に心当たりは? たとえば──妻の張麗香とか」
隆起が探りを入れる。しかし、これにも皆、口を揃えて、
「仲睦まじいお二人です。そんなことは間違ってもありません」
と、答えるのだった。
屋敷の者たちを、もとの部屋に戻し、屍体の前で再び三人は顔を付き合わせた。
「おい、松栄。おまえ、どう思う」
隆起は腕を組み、口を窄めて眉間に皺を寄せる。隆起の言葉に、松栄は唸った。
「死因を断定するには、わからないことが多すぎる。毒にしたって、こんな死に方知らねえな。異国の毒でも仕込まれたか、祟りにでもあったか……。今のところ、妙な死に方としか言えねえ」
そう零された言葉に、隆起が乾いた笑いを漏らす。
「ふん。毒と祟りか。どちらの線も濃厚だな」
「しかし、屋敷の者は皆、芳紀殿は善良であったと。そんな人が、恨みなど買うでしょうか?」
黎明の言葉に、隆起は鼻を鳴らした。
「こいつは奴さん一代でここまで成り上がった、やり手の商人だよ。どんなに善良でも、急激に成功した奴は妬まれるもんなんだ」
「その上、金持ちを恨んでる奴は多すぎて、全く犯人を絞れやしませんぜ。めぼしい奴から話を聞くだけで、むこう三年はかかっちまう」
成功したというだけで、そんなにこの男は恨みを買っていたのか。
黎明は被害者の生前を知らない。知っているのは、この憐れな亡骸と化した姿だけだ。
「殺人と仮定して、今のところ、一番怪しいのは妻だな」
隆起が言う。松栄も、同調した。
「しかし、奥方はとても悲嘆に暮れていらっしゃいましたが……」
「黎明殿は、おぼこでおられるようだ。女の演技力をあなどっちゃいけねえ」
「な……!」
抗議しようとして、松栄の鋭利な目つきに、言葉が引っ込んだ。剝き身の刃物を突きつけられたようで、思わず身が竦む。
「まあ、よくあるのは、他に男ができたとか、若く美しい男に目がいったとか、そのあたりでさぁな。あれだけの上玉だ。人妻と知りつつ、近づく輩は多いでしょうよ」
無精髭を撫でつけながら、松栄が嗤う。骸骨に皮膚を貼り付けたような男だが、哄笑は異様に大きくて耳障りだった。
「間男と共謀して夫を殺っちまうなんてことは、今昔、貴賤関係なく飽きるほどある。でしょ?」
「なら、その間男の存在を探ってみるか。松栄、詰め所から何人か人を呼んで、屍体を安置所へ移してくれ」
遺体をこのままここに遺してはおけない。隆起の指示に、松栄は「へい」と答え、さっそく屋敷を出て行った。
「一度、詰め所に戻るぞ。ここはそのままにして触らないよう、屋敷の連中に声をかけてこい」
隆起は顎をしゃくって、黎明に行けと促す。
「再三言っておくが、俺に言われたこと以外は何もするなよ。新入りの自覚を持って弁えろ」
新入りの自覚を持って弁えることが、顎で使われることなのだろうか。黎明は釈然としないものを覚えつつ、指示に従って部屋を出た。
大きな屋敷だ。部屋数も多い。回廊を歩きながら、中庭の景色を眺めつつ、屋敷の様子をこっそりとうかがう。これだけ大きな屋敷を、五人の使用人で維持しているのは、大変だろう。母屋各部屋の掃除に、大きな庭の手入れ、炊事に洗濯もある。池の端には離れが建っているし、門番や使用人の住居として使われる長屋門の側に厩うまやもあるから、馬の世話だってしなければならない。
伯昭が、使用人たちが集められた広間の前で見張りをしている。四角い顎に、大きな体。ずどんとした鼻筋に、穏やかな形の眉。垢抜けないが温和で優しい印象を醸している。
「黎明殿。検験はいかがですか?」
「遺体を安置所に運んで、一度詰め所に戻ることになりました。色々と調べる必要もありますし……時間がかかりそうです」
「そうですか。今度の件は、少し異様ですからね。あんな……悍ましい死に方」
気味が悪いと言わんばかりに、伯昭が身震いする。やはり、今回の件はなかなか類を見ないのだろう。突如、九穴から血を噴いて死ぬなど、古の物語に聞く呪いや祟りのようだ。
「奥方も気の毒にな。夫のあんな死に様を見たんじゃ、さぞ辛いだろうに」
「そうですね……」
黎明は、開かれている扉から、屋敷の住人たちの姿を窺った。
麗香は深く項垂れ、力なく長椅子に身を預けている。下女のひとりは麗香にお茶を勧め、ひとりは落ち着かない様子で部屋の中を行ったり来たり。三人いる下男のうち、ひとりは壁に寄りかかっており、年老いた下男と、足が悪いらしい下男は、暗い顔で何か話していた。
皆それぞれ沈痛な面持ちをしている。主人に降りかかった災難と、これからの自分たちの身の振り方に不安を抱いているのだろう。特に、年老いた者と、足を悪くしている者は、働き口を探すのが難しいはずだ。
不意に、麗香が顔を上げた。瞼がうっすらと桃色に染まっている。濡れた眼差しが、黎明を見た。そこに、深い悲しみの色があった。突然に、愛する者を奪われた痛みを湛えていた。
黎明は姿勢を正して、屋敷の住人たちの前に進み出た。一斉に、視線が集まる。
「皆さん。我々は一度、遺体を持って引き上げます。検験が終わるまで、現場になった部屋はそのままにしておいてください。できれば、他の所も」
「あの、捜査はいつまでかかりそうですか? お葬儀を……」
下女が麗香を代弁するように問う。黎明は「わかりません」と首を横に振った。
「けれど、一刻も早く原因を突き止め、必ず芳紀殿はこちらにお返しいたします」
「そうですか……」
どこか安堵したように、麗香が零す。
「不審な人物を見たり、過去に軋轢のあった人などを思い出しましたら、いつでもお話を聞かせてください」
そう言って広間を後にした。そのすぐ後、松栄をはじめとする仵作たちが数人屋敷に到着し、担架に遺体を乗せると、安置所に向けて運び出す。
詰め所に戻り、黎明はいの一番、書き留めていた手控えを開いた。そして室内の状況を、思い出せる限りの精緻さで書き出していく。
何かあるはずなのだ。自然な突然死にしろ、殺しにしろ、それを証明するものが。
呪いや祟りなどといった曖昧なもので、人は殺せない。死因は必ず理にかなったものだ。道理や理屈を無視したもののせいにしては、本人も、遺族も浮かばれない。
被害者と遺族の、心の平穏のため。自分はそのために、検屍官になったのだ。
そして罪人には、必ず裁きを下す。
北側に置かれた大きな寝台。清潔な敷布。側卓の上の酒と盃。異国の果物を載せた皿に、切り分けられた無花果。粉っぽく甘い香りを立てる香炉。窓は両開きのものが部屋の西側にひとつ。吹き込む風。被害者は、大の字になって仰向けに倒れていた。全身の穴から、血を噴いて……。
ふと違和感を覚えて、手を止める。
(これはいったい、どういうことだろう……)
被害者の死に様を見れば、これは明らかにおかしい。
*
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■ 著者プロフィール
相田美紅(あいだ・みく)
講談社X文庫ホワイトハート新人賞(2014年下半期)を受賞し、デビュー。『呪われ少将の交遊録』で第11回ポプラ社小説新人賞奨励賞を受賞。

