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家族の歴史の中に描かれる、変わるものと変わらないもの。

 立春、啓蟄、春分、穀雨、立夏、夏至、処暑、秋分、立冬、冬至……。一年を二十四の季節に分けた二十四節気、あなたはすべてご存知だろうか。春分と秋分にお墓参りをするなどこの季節に合わせて年中行事を実践したり、手紙などの季節の挨拶に織り交ぜることはあっても、すべての意味と決まりごとを知っている人は少ないだろう。だが、藤巻家は違う。二十四節気すべてに決まりごとがあるのだ。瀧羽麻子『博士の長靴』は、そんな藤巻家の人々の、数世代にわたる物語。

 第一章の表題は「一九五八年 立春」。今から六十年以上も前の話である。両親を早くに失くし、十代の頃から裕福な屋敷で女中として働いていたスミは、一家の転勤のため別の奉公先を紹介される。そこは、母親と息子しかいない藤巻家。奥様は炊事は自分でこなす働き者で優しいお人柄。大学に勤務する息子は日中は留守のため、ほとんど顔を合わせる機会がない。ある雨の日、スミは家の前でわざわざ傘を畳んで佇み、ずぶ濡れになる不審な青年を見かける。彼こそが藤巻家の一人息子、昭彦だ。気象学の研究者である彼は、いつも空ばかり見上げ、心ここにあらずという印象。でも藤巻家の大事な年中行事がある立春の日、彼がとった行動は……。

 この藤巻昭彦がタイトルにある「博士」である。第二章以降、一九七五年、一九八八年、一九九九年、二〇一〇年、二〇二二年と時を重ねて、藤巻家の人々の物語が二十四節気を絡めて紡がれていく。といっても視点人物の多くは藤巻家の人間ではなく、家庭教師や隣人など、なんらかの形で彼らと接点を持つ他人である。そのため、家族の内実が生々しく描かれるのではなく、隣家の歴史を少しだけのぞかせてもらうような適度な距離感が保たれていて心地よい。そこから浮かび上がってくるのは決して大仰なものではないが、数十年の間に、家族のなかで変わったものと変わらないもの。

 六十数年間の藤巻家の歴史でずっと存在感を醸しだすのはやはり昭彦だが、彼は影響力絶大な家長というわけではない。むしろずっと、空にばかりかまけて家族には無関心のようにも見える。たとえば息子の和也は勉強を怠けてばかりなのだが、昭彦は特に叱ったりはしない。しかしそれは放任主義というよりも、息子は息子で好きなことをすればいいと思っているからで、彼自身がマイペースに好きなことに打ち込んできたからこその姿勢だろう。やがて和也は父とはまったく異なる道を歩むが、孫の成美は祖父と気が合ったようで、大学院に進んで台風の研究者となる。研究室の教授の防災に関する論文を手伝ったりもするのだが、そんな彼女がとある役所の防災課の職員との雑談で本音をこぼす。台風がくるとワクワクする自分を不謹慎だと自戒しつつ、こう言うのだ。「研究結果を防災のために活用したいっていうのは、罪滅ぼしみたいなところもあるのかも。変な言いかたですけれど、折りあいをつけたいっていうか。私がやってる基礎研究やシミュレーションが、ちょっとでも役に立てばいいなって」

 その話の流れで、祖父に言及するのだ。

「うちの祖父は、ちょっと違ってて」

「気象のしくみを知りたい、ただそれだけなんです。知ってなにをしようとか、人間にどんな影響があるかとか、そういうんじゃなくて。本当に、知りたいだけ。ある意味、純粋っていうか」

 そう、昭彦は純粋だ。ここまで好きになれるものがあって、仕事としてそれに打ち込めるとは、なんて幸せなんだろう。人の役に立ちたいというより、ただ知りたいだけというと不謹慎にも思えるかもしれないが、その「知りたい」という純粋な気持ちこそが、最大の原動力であろう。そしてその姿を見てきたからこそ、藤巻家の人々、そして周囲の人は大らかに自分のやりたいことを選べているのではないか、と思われる。

 昨今、実用的なものに直結しない基礎研究は蔑ろにされているとよく耳にするが、素人としては、基礎がなければ応用もできないのではないかと感じてしまう。そして個々の人間にとっては「知りたい」「これが好き」「これがやりたい」という基礎の思いがあるからこそ、その人の内面の広がりと豊かさが育まれていくのだろう。その基礎の思いを見つけるためにはどうしたらいいのか。最終章の、昭彦のさりげない言葉が心に残る。

「自分の頭で考えたことは、あなたの財産です」

 この言葉は深い。考えることだけでも財産なのだという励ましだと受け取ると同時に、自分は今、ちゃんと自分の頭で考えているのかと自問してしまう。

 情報の洪水の中で思考停止している現代人の姿、やりたいことをやる意味、時代とともに変化する家族の形や生き方、家族同士の距離感……。優しく軽い読み心地の物語の中に、さりげなく今日的なテーマを盛り込んでいく著者の配慮と時代を見る目に今作でも射抜かれた。そして、本を閉じた後、空を見上げたくなる一冊なのである。



プロフィール
瀧井朝世(たきい・あさよ)
1970年生まれ。WEB本の雑誌「作家の読書道」、『別冊文藝春秋』『WEBきらら』『週刊新潮』『anan』『クロワッサン』『小説宝石』『小説幻冬』『紙魚の手帖』などで作家インタビュー、書評を担当。TBS系「王様のブランチ」ブックコーナーのブレーンを務める。著書に『偏愛読書トライアングル』、『あの人とあの本の話』、「恋の絵本」シリーズ(監修)、『ほんのよもやま話 作家対談集』。

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