一九七六年、昭和五十一年の、私が生まれるずっと前の〈花咲小路商店街〉。こうやって歩いてみると、私がいる現代の雰囲気とそんなにも違いはないって思う。あくまでも雰囲気は、だけど。
もちろんお店の様子は全然違うんだけど、それぞれのお店の間口の広さとかは今とほとんど変わりはないし、私のいる時代と同じ店も並んでいるから、それだけで馴染みの感じがある。
歩いている人たちのファッションも、もちろん今とはいろいろ違うんだけど、慣れちゃうとそんなにも大きな違いみたいなものはないなって。
ファッションの流行は繰り返すっていうけど本当だと思う。七〇年代に流行ったスタイルやデザインは今けっこう使われているし、そもそもカッコいいと思うから流行るんであって、その辺の感覚ってたぶん昔も今もそんなに変わらないんじゃないかな。
歩いて、立ち止まって、一丁目から三丁目の様子も少し写真に撮っていく。デジタルじゃないからたくさん撮るのはフィルムの無駄になっちゃうし、四丁目以外の写真は今回はあまり関係ない。でも、丁目につき四、五枚ぐらいは撮ってみた。
こうやって写真を撮るのをどこかのお店の人に見られていれば、後で何かあったときに本当にカメラマンだったのか? なんて余計な疑念を持たれずに済む可能性が増えるからってセイさんに言われていた。
ただし、〈久坂寫眞館〉には近づかないようにって。それはもちろん。
(いい商店街よね)
初めて〈花咲小路商店街〉に来たときにも思ったんだけど、小さ過ぎず、大き過ぎず、本当にちょうどいい感じの商店街。
ちょっと思ったのは、こうやって街並みの写真を撮っているときの、たまたまそこを歩いている人たちの〈無言の反応〉みたいなものは、私たちがいる現代とはやっぱり違う感じがした。
〈無言の反応〉っていうのは写真学校の先生が使っていた言葉なんだけど、とてもよくわかる。
街の写真を撮っていて、たまたまそこを歩いていて撮影に気づいた人たちは自分も写っているかもしれない、って思う。実は、その〈思い〉が写真に出てくるんだ。ものすごく非科学的な話になっちゃうけれど、要するに〈人が作る周りの雰囲気〉みたいなもの。それが写真には出てくる。
私と重さんとセイさんが本来生きている現代では、その〈無言の反応〉みたいなものがいろんな意味でものすごく尖ってるって感じる。今は、この昭和五十一年の人たちの〈無言の反応〉は、現代と比べるとものすごく柔らかい。それが何に起因するのかは考えてもわからないっていうか、いろんな要素がありすぎて、一口には言えない。
(言うとしたら、それが〈時代〉ってものなんだろうな)
ずっと昔から続いている地続きの日々でも、人の心持ちや環境は変わる。それによって醸し出されるものも変わっていくんだ。
「さてと」
三丁目まで来た。
紙焼きを重さんに任せて戻ってきたけれど、すぐに〈矢車家〉に戻っていって、ずっといるわけにもいかない。
後で重さんが紙焼きを持ってきたときに、また二人で行って、いろいろ話をしたり、写真を撮ったりすることにした。
そして、夕暮れが近づいてきて〈花咲長屋〉のお店が開き始めたら、お邪魔して写真を撮る。そこにやってくる人たちの話を聞いたりする。
それで、あの火事の謎が、あるいは美礼さんと志津さんの姉妹説の謎が解けたりしたらいいんだけど。
(どうにもならなかったら、どうすればいいのかな)
このまま何もわからなくて、火事が起こって、私たちはそれを知っているのに黙って見過ごして写真を撮って、そして私たちの住む時代に戻るんだろうか。
でも、どう考えても、火事だけに限るんだったら、誰が火を点けたのかって謎を解く最大のチャンスはその火事なんだ。
私と重さんとセイさんは火事が起こる時間を、その瞬間を知っている。
だから、その少し前に四丁目のアーケードに潜んで見張っていれば、必ず犯人はやってくるんだ。その瞬間を写真に撮ることだってできるかもしれない。どこまでやるかは、セイさんの判断に委ねるけれど。そして、もしもその瞬間を撮るんだったら、どこに隠れてどうやって撮るかもこの後セイさんと打ち合わせしなきゃならないけれど。
(難しいよね)
四丁目の、一丁目から三丁目も同じだけど、アーケードそのものに、隠れて写真を撮れる場所なんかない。ただの屋根なんだからどうしようもない。
〈矢車家〉は残念ながらアーケードからは少し離れているんだ。アーケードに面したところには門柱と門しかないから、そこには隠れようもないし、志津さんや見里さんにどこかに隠れて写真を撮るから、なんて話をできるはずもない。
やるとしたら、あの車をどこかに停めて、その瞬間まで静かに潜んでいるしかないのかな。
それにしたって潜んでいるところを誰かに見とがめられたら犯人と間違われるかもしれない。本当にかなり難しい。
「あれ?」
トヨタのライトエースが三丁目の出口のところに停まった。重さんが手を振っている。走っていって車に乗り込んだ。運転席で重さんが微笑んだ。
「ちょうど来たときに見つかってよかった」
「早かったですね」
頷きながら、重さんがすぐに車を発進させる。
「紙焼きを全部乾燥するのに時間がかかりそうだったから、後はセイさんに任せてきたんだ。とりあえず〈矢車家〉の写真や、美礼さんや志津さんに見せても構わないようなものだけ何枚か持ってきた」
「そうですか」
「まずは、桜山公園の駐車場に行こうか。そこで持ってきた写真の確認だけしよう。丸子橋さんのも持ってきた」
了解です。
「全部の商店街の写真を撮っていたの?」
「そうです。一丁目から三丁目まで、少しですけど」
桜山まで車を走らせていく。
「この辺の風景は全然違うよ。やっぱり建物の数が圧倒的に増えている」
「そうですよね」
私はまだ、現代で桜山まで行ったことはないけれど、それでもこの辺の風景がいかにも昔だ、っていうのはわかる。郊外型のお店がまったくないから。
*
私たちが駐車場に車を停めるのとほぼ同時に、一台の車が駐車場に入ってきた。私は車にそんなに詳しくない。
「クラウンだね」
重さんが小さく言った。クラウンだったのか。この時代のクラウンは、あんなふうにカクカクしてるんだ。重さんって何気に車に詳しいですよね。
「いったん外に出ようか。カメラを持って」
「はい」
公園の駐車場で、ずっと車の中にいるカップルというのも少し目立ってしまうだろうから。撮影に来たって感じなら特に目立つこともないはず。重さんと同時にカメラを持って車を降りたら、入ってきた車は私たちのすぐ近くに停まった。
「重さん」
運転手さんの顔が見えたので、少しびっくりしたのを思いっきり隠しながら、そして運転手さんの方を見ないようにしながら小声で言った。
「丸子橋さんです」
重さんが、一瞬動揺したけどやっぱりそれを押し殺したのがわかった。
丸子橋さん。
どうしてここに来たんだろう。車から降りてくる。何も気にしていないふうに二人で歩き出したんだけど、声を掛けてきた。
「なぁ、あんたたち」
「はい」
「カメラマンのご夫婦だよな。奥さんには昨日会ったよな」
昨日と同じような着崩したスーツ姿。でもネクタイはしていない。やっぱりいかにもちょっとヤバそうな雰囲気を漂わせている。
「あ、はい」
私が返事をして、重さんはそれに合わせて表情を変えた。いかにも、今知りました、みたいな感じに。
「公園も撮るのか?」
「街の雰囲気を。ここからなら全景が撮れると聞いたもので」
重さんがにこやかに答える。丸子橋さんは、たまたま来たんだろうか。それとも私たちの車を見つけて追いかけてきたんだろうか。
丸子橋さんは、観察している。
眼で、わかる。何気ない様子を装っているけれど、私と重さんの様子をじっと見ているんだ。心の奥まで透かして見ようとしているみたいに。
「えーと、この方は?」
「あ、〈スマートセンター〉の丸子橋さん、でしたっけ? 店主の方ですよね?」
重さんが演技を続けているので、私も合わせた。私たちって結構やりますよね。自然な演技ができていますよね。
丸子橋さんは、軽く頷いた。
「丸子橋のアクセントは橋につけてくれ」
あ、そういう読み方なんですね。
「矢車さんの家に泊まって、あちこちの写真を撮っているって聞いたんだが」
「そうです。ご厄介になっています」
「あんたらは東京の人か?」
二人で同時に頷いた。丸子橋さんが、眼を細める。
「街の写真を撮っている」
「はい」
「〈花咲長屋〉の店も全部撮ってる」
「はい」
何だろう。何を訊きたいのか、あるいは言いたいのか。表情からは全然読み取れない。きっと重さんもそう思ってる。
この人、丸子橋さん、見た感じのヤバい雰囲気に隠れてしまっているけれど、その奥に何か深いものを感じる人だ。
「何が目的だ? って訊くのはお門違い、あるいは見当違いか?」
「え?」
「本当に、街の写真を撮ることだけが目的なのか?」
重さんの眼が少し細くなった。
「どういう意味でしょうか。僕たちは本当にただ街の写真を、あの〈花咲長屋〉の様子を撮っているだけですけれど」
「目的は?」
目的。
「写真を撮る目的は、どこの誰であろうと、素人だろうとプロだろうとたったひとつですよ。〈残す〉ためです」
それは、本当だ。
私たちフォトグラファーが写真を撮るのは、その瞬間をそこに残すため。動画ではなく写真なのは、切り取ったその瞬間の何かを記録に留めておくため。
「残す、か。まぁそりゃそうだな。ただそれだけなんだな?」
「何を言いたいのか、あるいは訊きたいのかよくわかりませんが、それだけです。誰かに依頼されてお金を貰っているとか、そういうのでもありません。ただ、自分たちがそうしたくてしているだけです。ひょっとして」
重さんが一度言葉を切った。
「あなたは、何かそういうことを疑っているのですか? 僕たちが誰かに何かあくどいこととか、おかしなことを頼まれてあの辺りの写真を撮っているとか?」
丸子橋さんが、唇を少し歪めた。
そうか、そんなふうに考えているのなら、このおかしな質問攻めも納得できるけれど。
「そんなことを考えているのなら、無用です。あなたのお店の外観写真も撮るかもしれませんし、実際もう撮っていますが、それを悪用したりどこかの誰かに売ったりとか、どこかに載せるなんてこともしません」
「そうなのか?」
「やるとしたら」
私が一応念押し。
「私たち二人の個展か何かで、パネルにして会場に飾ることぐらいです。発表するとしたら、ですね。今のところその予定はありませんけど」
「個展な」
丸子橋さんが軽く納得したように頷いた。
「まぁそりゃカメラマンとしてはもっともなことだよな。わかった」
何がわかったんだろう。
「変な声掛けて悪かったな。もう会うこともないだろうが、個展とかで俺んところの店の写真も使うんなら好きにしていいぞ。連絡する必要もない」
じゃあな、って車に、クラウンに戻ろうとしたけど、すごく、何かが気になってしまった。
何が気になっているのか自分でもよくわからなかったけど、まだ丸子橋さんを帰してはいけないような気がして。
「あの!」
振り返った丸子橋さんは、ちょっとびっくりしていた。
「何だ」
「どうして、ですか?」
「どうして?」
「どうしてそんなことをわざわざ私たちに訊きに、確認しに来たんですか?」
丸子橋さんが顔を顰めた。
「私たちが〈花咲長屋〉の写真を撮っても、あなたには何の関係もないんですよね? 丸子橋さんは〈花咲小路商店街〉の〈スマートセンター〉のご主人っていうだけですよね?」
言いながら、私が何を確認したいのかってことが自分の頭の中にハッキリしてきて、自分で驚いてしまった。
「ひょっとして丸子橋さん、私たちが何か撮っちゃいけないものを撮りに来たんだって思ったんですか? 何か撮られては都合の悪いというか、知られたくないものが丸子橋さんのところにあるんじゃないですか? それか」
きっとそれだ。
「あそこには秘密のようなものがあって、それを、誰かに知られてはいけないものを私たちが探りに来たんじゃないかって疑ったんじゃないですか? それで私たちに質問しに来たとかですか?」
丸子橋さんが思いっ切り眉を顰めた。
「さっき言ったよなあんたたち。自分たちはただ街の様子を残したいから、写真を撮りに来ただけだって。その他には何もないんだろう?」
「ありません」
本当はあるけれども、残したいっていうのは真実で事実。
「でも」
重さんだ。
何かを決めたような表情をしている。
「丸子橋さん。あなた、どこからかはわかりませんけれど、尾行してきましたよね?」
尾行?
「ここに、桜山に着く前から、あなたの運転するそのクラウンが後ろにいるのを僕はわかっていました。ただ単に同じ方向に進んでいる車だって思っていましたけど、違ったんでしょう? 最初から僕たちにそれを確認するために尾けてきたんですね?」
本当に?
丸子橋さんは、少し息をついた。
「何か、隠しているものがないと、そんなことを確かめようとは、尾行までしようとは思わないですよね普通は」
「そうなんですか? 尾行してきたんですか?」
「だとしたら、俺が尾行してきたとしたらどうなんだ。あんたらこそ他には何もないって言いながら、やっぱり何かあります、って話なのか」
「丸子橋さん」
重さんが、ゆっくり言った。
「僕たちは、ドネィタス・ウィリアム・スティヴンソンさんの身内です」
びっくりした。
それを言ってしまうの重さん。そして身内っていうのは、確かに上手い表現かも。
思いっ切り、丸子橋さんの眼が丸くなった。
「もちろんご存じですよね? ドネィタス・ウィリアム・スティヴンソン、日本名は矢車聖人さん。矢車見里さんの娘さん、志津さんの夫です」
「あたりまえだ」
「私たちは、彼の、秘密の身内です」
「秘密? 身内? 何だそりゃ」
「人には決して言えない身内ってことです。これは志津さんも、見里さんも、ポールさんも誰も知りません。まったくの秘密なんです」
首を傾げて、丸子橋さんは私たちを見た。
「秘密って、今それを俺に言ったじゃねぇか。赤の他人の俺に言えるようなら秘密でも何でもないぞ」
「ある意味で、あなたを信頼したからです」
思わず重さんを見てしまった。
丸子橋さんもだ。驚いてる。
信頼。
何をどう信頼したのかわからないけど、交渉の仕方としてはすごくいいやり方だと思う。重さんって、やっぱり仕事ができる人だ。
「あなたは何らかの目的で僕たちを尾けてきた。それを隠して僕たちに何かを確かめようとした。脅すでもなく、あくまでも紳士的に。そして友好的に。自分の店の写真なら好きに使っていいとまでの好意を示してくれました。そのやり方を、あなたの人となりを信頼しました」
丸子橋さんが、少し首を傾げて重さんをじっと見ている。
「そんな簡単に人を信用していたら、いつかとんでもなくひどい目に遭うぞ」
「簡単ではありませんよ。僕の眼は三つあります」
「三つ?」
重さんが、カメラを構えた。
「二つの眼と、カメラのレンズです。良いカメラマンのファインダーは、その人の本質を捉えます」
カメラを下ろした。
「あなたは、信頼できる人だ」
首を軽く横に振って、丸子橋さんは苦笑いをした。
「超能力でも持ってるのかよ。あんたらどう見ても日本人だが、聖人は元イギリス人だぞ。それで身内ってどういうことだよ」
「血が繋がっていることだけが、身内ってことじゃないでしょう。あなたもそういう世界にいるんじゃないですか? 確かめたわけじゃないけど、そんなふうに聞きましたが違いますか?」
丸子橋さんが、肩を竦めて見せた。
「知ってたのか」
「噂ですが。そしてそういう噂を手に入れられるところに僕たちはいます。あの〈スマートセンター〉の奥で何かが行われているというのも、ある程度は知っています」
そこまで言うの。ドキドキしてしまったけれど、丸子橋さんに動揺とかは見られない。ただじっと重さんを見てる。
「もちろん、警察とかそういうのではないですよ」
「そんなのはわかってる」
丸子橋さんは少し笑った。
「あいつらの匂いはすぐにわかる」
「匂いでわかるのであれば、矢車聖人の匂いも感じていますよね? あなたは」
セイさんの匂い。
もしも丸子橋さんが本物のヤクザなら、いろんな意味で堅気ではないセイさんの匂いも感じているはず、って重さんは判断したんだろうか。たぶん、そう。
丸子橋さんが、軽く手を広げた。
「なるほど、そういう意味での身内な。堅気の世界でそれがどんなもんなのかはまったくわからんが、要するに、あんたらは志津ちゃんの旦那とは、切っても切れない仲ってことなんだな?」
「そうです」
セイさんは、この時代のセイさんは外国にいるからこれが伝わることはない。仮に帰ってきてからでも、セイさんは丸子橋さんのことをほとんど何も知らなかったんだから、何の関係もできないはず。
あくまでも、はず、だけど。
「その身内が、自分たちの素性を隠して〈矢車家〉にお邪魔してるってのは、やっぱり何かを探りに来たって話なのか? 俺の推測は当たっていたと?」
「堂々巡り、じゃないか。卵が先か鶏が先かみたいな質問ごっこになってしまいますよね。丸子橋さん。僕たちは決して〈矢車家〉に仇なす者じゃない。あたりまえですよね。矢車聖人の身内なのですから。何かを暴こうとしているわけでもない。皆を救おうとしている者です」
「救う?」
「〈矢車家〉には秘密がありますよね? まだ矢車聖人も知らない秘密です。それが、巡り巡って〈矢車家〉に仇なすかもしれない。僕たちはそれを心配しています。どんな秘密なのかはおおよそのところはわかっていますが、誰にも知られずに確認したい」
「それは」
私が、女性である私が言った方がいいような気がした。だって、どう考えても女にとっての大きな秘密なんだろうから。
丸子橋さんはきっとそれを知っている。
「聖人さんでは確認しようがありません。しない方がいいのです。身内ではあるけれども、〈矢車家〉には何の関係もない私たちが確認して、この先、未来に何も起こらないことを確認したいだけです。もちろん、私たちが知ったことは誰にも知らせません」
「聖人にもか」
「今、彼はイギリスに戻っています。身内である私たちが、わざわざ矢車聖人の留守中に、〈矢車家〉を訪れてこうしていることそれ自体が、聖人にも絶対に知られないようにしているという証明になりませんか?」
むぅ、って感じで丸子橋さんが、唸った。
それから、周りを見た。
「何かがあるかもしれないって、お前たちが感じたのか? 仇なすかもしれないって、匂いを。だから、調べに来たのか?」
「そうです」
重さんが、はっきりと言った。
「名前も偽名か」
「偽名です」
「カメラマンってのは、本当なんだな」
「それは、本当です。夫婦ではありませんが、一緒に住んでいるのは事実です」
丸子橋さんは、くいっ、と顎を動かして、クラウンを示した。
「こっちに乗ってくれ。外で大声で話せるようなことじゃない」
クラウンの中は、煙草臭かった。でもこの時代の車って、たぶん全部こうなんだろうって思う。タウンエースも思いっ切り煙草臭かったから。
そして、丸子橋さんも運転席に座ったと思ったら、胸ポケットから煙草を取り出して、火を点けた。
吸っていいか、なんて訊かない。それはこの時代の当たり前なんだ。ハンドルを回して少し開けた窓から煙が流れていく。
「奥さん、じゃないのか。彼女の名前は篠塚吉子さんだっけ? 偽名は」
「そうです」
「本名は聞かせてもらえないんだな?」
「知らない方がお互いのためです」
重さんが言う。
たぶんなんだけど、でもそうとしか思えないけど、丸子橋さんはセイさんがただ者じゃないっていうのを何となくわかっているんだ。〈怪盗セイント〉なんてことは知らないだろうけど、それでも普通の人じゃないってことは何となくわかってる。それは、自分がヤクザ者だから。堅気の世界の人間じゃないから相通じるもの。
重さんは、それを利用しているんだ。私たちもセイさんと同じ世界の人間だって匂わせた。いつ思いついたかわからないけど、丸子橋さんと会った瞬間に思いついたのかも。
「どこまで知ってる」
丸子橋さんが、隣の助手席に座った重さんに言った。
「志津さんの出生に関する秘密です。それが、今後大きな災いになるかもしれない」
言った瞬間に、丸子橋さんが一度唇を引き締めて、大きく息を、煙を吐き出した。
「そんなのは、昔々の噂話だろう。〈スナック美酒〉の美礼と腹違いの姉妹だって話だろ? ただの親戚だよ。違うぜ」
「違うぜ、と、断言できるってことは、違う事実を丸子橋さんは知ってるってことですね」
重さんが、丸子橋さんを見つめて言う。
「事実は、腹違いじゃないのでしょう。種違いじゃないですか?」
「えっ?」
びっくりして思わず声を出してしまって、すぐに口を手で塞いだけど遅かった。丸子橋さんは私を見た。
「奥さんも知らなかったってことは、今思いついたのか旦那さんは」
「そうですよ。あなたがここに来たということから、推測しました」
丸子橋さんが、ここに来たから?
種違い?
「丸子橋さん、美礼さんは、あなたと見里さんの間に生まれた子供ですね? そして、志津さんはポールさんと見里さんの間に生まれた子供。つまり、美礼さんと志津さんは、種違い、父親が違う姉妹なんだ。そうなんですね?」
ええっ?
「それを知っているのは、本当に一握りの人間だけ。美礼さんすらきっと知らない。 つまり、〈矢車家〉にとって相続できる一人娘である志津さんは、実は一人娘じゃない。見里さんの子供はもう一人、美礼さんもそうなんだ。相続者の一人である。それが、大きな災いの種になることを、美礼さんの父親であるあなたは知っている。だから、僕たちの後を尾けてきて確かめようとしていたんだ。そうじゃないですか?」
美礼さんと、志津さんは、二人とも見里さんの娘。
美礼さんの父親は、丸子橋さん。
丸子橋さんは、眼を細めて、重さんを見ている。唇が、動いている。
「ただの推測で、よくそこまで失礼なことを言えるもんだな」
「何度も言います。あなたが、僕たちの前に現れたことが、それを示しているんです。そして、僕たちはあなたにも〈矢車家〉にも害を為す人間ではない。訪れるかもしれない災いを防ぐために来ています。そのために、真実を知る必要があるんです」
ふぅ、と、丸子橋さんが息を吐いた。手にした煙草の灰が落ちそうだ。
「あんた仏教か? キリスト教か?」
え?
「どっちでもいいし、何でもいいや。あんたにも親はいるだろ」
「いますね」
「神様でも仏様でもご先祖様でも親でも何でもいい。それに誓って、嘘偽りがないって言えるか? 聖人の身内で、訪れるかもしれない災いを防ぐために来たってことを」
「もちろんです」
「私もです。何でしたら、私たちの命に懸けてもいいです」
本当に。
丸子橋さんが、眼を閉じて、そして眼を開いた。
「その通りさ。美礼の父親は、俺だ。母親は、見里さんだ」
そうだったんだ。母親が違うんじゃなくて、つまりポールさんが浮気をしたんじゃなくて、見里さんが、浮気をした。
いや、そもそも浮気かどうかもわからないんだ。まだ結婚した時期と生まれた時期を確かめてもいないし。
「ちょいと、移動するか」
丸子橋さんが言った。
「長い話になる。いつまでもここに停まっているのを誰かに見られてもまずい。これでも、〈花咲小路商店街〉ではちょいとした顔なんでな」
小路幸也
1961年北海道生まれ。「東京バンドワゴン」「花咲小路」シリーズのほか、『三兄弟の僕らは』『マイ・ディア・ポリスマン』など著作多数。