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  4. 帰ってきた私たちに
第14回

帰ってきた私たちに

 セイさんは、しっかりと木佐ゲンさんのことも調べていた。

「丸子橋家と矢車家に関しては、君たちが聞いたものから特段追加するような情報はない。かつての豪農、庄屋、この辺りを治めていた長同士の確執と言った具合だ。丸子橋の言った通りだよ」

「いろいろあったというわけですね」

 セイさんが、そうだろう、って感じに頷いた。

「どちらが悪者でどちらが善人というわけでもないだろう。ただ結果的に矢車家が大地主としてここを治めることになってしまったというわけだ」

「それを年寄りたちは過去の遺恨としてずっと引きずってしまっていて、丸子橋さんと見里さんはこんなふうに」

「そうなのだろうね。悲劇のロマンス。まさしくロミオとジュリエットを地で行くことになってしまった。そうして美礼さんと志津は、二人は何も知らずにその中で生きてきたのだろう」

 本当なら、親が違ったとしても姉妹として仲良く人生を歩めたかもしれなかったのに。ひょっとしたらだけど、本当の姉妹として生まれるようなことだってあったかもしれなかった。

「しかし、私たちがそれを気の毒がってもしょうがないことだ。たとえ悲恋の後に生まれたとしても、両親が揃っていた志津はもちろんだが、美礼さんもたくましく自分の人生を生きている。彼女は不幸そうだったかね?」

「いいえ」

 重さんと二人で首を横に振った。

「強く、美しい女性でした。皆に好かれて慕われて、良い人生を送っていると思いましたよ」

 重さんが言って、私も頷いた。ほんの少ししか話していないし、スナックのママさんと客という立場でしかなかったけれど、いい人だと思った。

「カッコいい女性だって思います」

「そうだろうとも。私も当時そういう印象を持っていた。いい人なのだろうな、というね。とはいえ、あの事実からすると、美礼さんと木佐ゲンの間には、何らかの関係は既にあったのだろうね」

「関係ですか?」

 ちょっと驚くと、重さんは、ほら、と言って私を見た。

「美礼さんがあのアパートで口にした言葉だよ」

「あ」

 そうか。あのアパートの部屋に、重さんのお祖父様、一成さんがいて、一緒にいたのはたぶん美礼さんで、重さんのお父様である成重さんが聞いた言葉。

 そうだ。

『火を点けて燃やしてやる』って美礼さんが言ったんだ。

「それは、美礼さんがそう思っていたとかじゃなくて、美礼さんが木佐ゲンさんから聞いた言葉を、そのまま重さんのお祖父様に教えていた、あるいは相談していたってことですか!」

「繋ぎ合わせて推測すると、そういうことになるのだろう」

 ゆっくりとセイさんが頷いた。

「もちろん、美礼さんが火を点けて商店街に害を為そうなどと考えていたはずがないというのは、もうわかったことだ。彼女はあそこを自分の家として、しっかりと生きていた。したがって、何らかの出来事があって、美礼さんと一成さんはあの部屋で会い、木佐ゲンのことについて話していたか、相談していたか、なのだろうね」

「そうとしか思えないです。美礼さんが火付けの犯人であるはずがない」

 絶対にそうだ。

「一成さんと美礼さんがどれほど親しかったのか、そして美礼さんと木佐ゲンがどんな関係だったのかはまるでわからない。しかし、木佐ゲンが〈スマートセンター〉を仕切っていたのならば、彼もまた〈花咲長屋〉の美礼さんの店の客だったのではないのかな? それは充分に考えられる」

 お客さん。

「写真ですね!」

 私と重さんが全部の店を、来ていたお客さんを撮った写真の中に。

「木佐ゲンさんが写っているかもしれない」

「おそらく写っているだろう。私は木佐ゲンの顔を確認してきたから、後で現像して確かめておこう」

 うん、ってセイさんが頷いた。

「それで、美礼さんが火事の後にどこかに姿を消してしまい、行方がわからなくなったのも頷けるというものだろう」

「自分は、木佐ゲンがそんなことを言っていたのに、知っていたのに火事を防げなかったと自責の念で、ですか」

 重さんが言って、セイさんが続けた。

「あるいは、皆に顔向けができないとか、そういう理由だったのかもしれない」

「一成さんは」

 重さんのお祖父様が。

「美礼さんからそういう話を聞いていたのに、セイさんはその後も特に変化は感じなかったんですよね? それはどうなんでしょうか」

 そうなのだが、ってセイさんが少し考えた。

「もはや確かめようもないことだが、私が気づかなかっただけかもしれない。気づかなかったのは、美礼さんが姿を消す前に一成さんとはいろいろと話をして、彼の中で納得していたのか、と。そういうことかもしれないね。騒いでも仕方のないことだと」

「それなら、まぁ頷けますね」

 重さんが言う。

「祖父ちゃんのことは、そんなにたくさん覚えているわけじゃないですけど、思い返しても人としてちゃんとしていた人です」

「それは、私もわかっているとも」

 セイさんが強く頷いた。

「木佐ゲンが、もしくは木佐ゲンと幾人かのヤクザ者があの火事を起こした、と、仮定ではあるが断定してもいいと思う。そして私たちは、その仮定を元にして、行動を起こすわけだ」

 撮影。

「木佐ゲンさんが犯人として、火付けの現場を撮影する」

 それが、私たちの起こす行動。

「今回の過去に戻ってきた理由。まさしく本番というわけだ」

 本番。

 しかも一回こっきりの撮影。

 失敗したら、誰が火事を起こしたのかは永遠の謎になってしまって、ひょっとしたら私たちが三人して過去に戻ってきたことも無意味になってしまうかもしれない。

 どういうふうに無意味になるのかは、まったくわからないんだけど。

「どうやりますか?」

 重さんが顔を顰めながら言った。

「僕らの手持ちの材料は、火事の起こる時間と、木佐ゲンが犯人であるとする仮定だけですね」

 そう。火事が起こる時間はわかっているんだから、その前から準備をする。でも、四丁目のアーケードに隠れる場所なんかない。

 火事が起こった時刻は夜の九時半過ぎ。

 正確には、最初の一一九番への通報時間は九時三十二分ってことをセイさんは調べていた。そのときにはもう火の手が上がっていたんだから、九時三十分少し前に火が点いたのかもしれない。

 九時半なんて、ほとんどの店は閉まっているけれども、まだ商店街の通りを人が歩く時間。どこかで待っていても不審がられてしまう。ましてや、私と重さんはたくさんの人に姿を見られているし、カメラを構えていたらすぐに気づかれてしまう。

 ふむ、って感じでセイさんが顎に手を当てた。

「かなり難しいとは思っていた。ここはひょっとしたら強行手段しかないか、とも思っていたのだよ」

「強硬手段とは?」

「かなり無理やりになるのだが、四丁目のどこかのお店の二階を借りるのだ」

 お店の二階。

「商店街に面したお店の二階は、ほとんどがそこの住居ですよね。そこを撮影のために借りるってことは」

「無論、撮影などとは言えないし、身分も明かすわけにはいかない。そもそも私などは顔を見られても困る。従って、騙すか、あるいは強盗でも起こして無理やりにするかしかないね。三人して覆面でも被らなければならないか、とも考えていた」

 覆面強盗。

「それを装って、二階に侵入して撮影するってことですか」

 めちゃくちゃハードな展開。

「もちろん、誰も傷ひとつつけずに、ですよね。驚かせちゃうけれども」

「無論だとも。できれば静かに制圧して静かに去りたい。そして、そういう術も私は身に付けているしそれなりに道具も用意した。だが、丸子橋の話を聞いて、木佐ゲンが犯人とするならば、そんな強硬策を採らずに撮影する解決策が見つかったね」

「何ですか。どうやるんですか」

「実に簡単な結論だ。〈スマートセンター〉の屋根の上だよ。そこがベストポジションだろう」

 あぁ! って重さんと二人で声を揃えて言ってしまった。

「屋根の上!」

〈スマートセンター〉は、詳しく調べていないけどたぶん看板建築というものだと思う。表に面している部分だけ看板のように作り込んだ建築様式になっていて、その裏は普通の二階建て住宅みたいな感じの。

「火が点いたのはアーケードの屋根の上なのだ。すなわち、四丁目の各店舗の二階の窓の下や屋根のすぐ下だ」

「放火したのなら、二階の窓か屋根の上からしたに違いない!」

「そういうことだね。そして〈スマートセンター〉の屋根は、四丁目の建物の中ではいちばん高くなっている。高さからすると三階建てのような高さだ。あそこからなら全部が見渡せて」

「その瞬間を捉えられるシャッターチャンスが最もある場所、ですね?」

「そういうことだ。決断しよう。それしかない。私たちには時間も方法も限られている」

「そうですよね」

 重さんが頷いて、続けた。

「木佐ゲンが火事を計画した張本人。理由は、ごくごく単純に、商売の邪魔になるアーケードをなくすこと、ですね」

「でも」

 火事は、ものすごい大事だ。いくら木佐ゲンさんという人がヤクザ者だったとしても。

「死傷者は出ていませんけれどもそれは私たちが知っているだけで、下手したら放火殺人にまでなってしまう可能性が高いことをただアーケードが邪魔ってことだけで簡単にやるでしょうか? 一人二人じゃなくて商店街全部、何十人もの人を巻き込むようなことですよね」

 大量殺人にまでなってしまうかもしれないのに。いや、なってないのは私たちは知っているんだけど。

 セイさんが、うむ、って感じで頷いた。

「それは、ジュリさんの言う通りなのだよ。丸子橋の話からしても、木佐ゲンはそれほど頭の悪い人間とも思えない。アーケードをなくしたいからといって、放火殺人という重罪に結びつく真似はそう簡単にはしないだろうとも思える」

「でも、起こしたと仮定するんですよね」

「起こしたのだ。火事は起こった。しかし、それは失敗した結果だ、と、考えるのが正解ではないのかな」

 失敗?

「火事を失敗、ですか?」

 そうか! って重さんが少し大きな声を上げた。

「火事とはいっても、ボヤで済ませて、一部分だけ焼けてしまった四丁目のアーケードだけをそのまま取り壊させようとしたんだけれど、そのボヤで済ませるのを木佐ゲンは失敗したってことですか」

「消火活動を間違ったってこと?」

 そうだ、ってセイさんが頷いた。

「木佐ゲンは、きっちりと消火作業の準備もしていたのだろう。ボヤで済ませて取り壊さざるを得ない状況に追い込むことが目的だったのだ。ボヤで一部が燃えてしまったのなら、それはもう四丁目だけアーケードを取り壊すしかないだろうからね」

「そしてまた新たに建て替える費用もない、ですね?」

「あるいは、その費用を〈矢車家〉に立て替えさせるか、その費用を自分たちがちょろまかすか。そこまで計画していたのかもしれない」

「丸子橋さんの話からすると、ひょっとしたら、ですね」

 重さんが言う。本当にそこまで考えていたのなら、本当に木佐ゲンさんって人は悪党だと思う。もちろんヤクザ者だからなんだろうけど。

「しかし、理由はわからないが、木佐ゲンは火事の消火に失敗してあのような大火事になってしまったのだろう。他に手下がいてそいつが失敗したのかもしれない。そして、火事の後で、この時代の若い私がいろいろ調べたと言ったね?」

 言っていた。

「もしも木佐ゲンが火事の犯人ならば、私の調査で引っかかってきてもいいはずなのに、あのときには木佐ゲンのきの字も出てこなかった。私の中には木佐ゲンの存在すらなかった。このセイントが調査しても、だ。それはすなわち」

 そうか。

「消火に失敗してあんな大火事になってしまって、自分がやった証拠を消してどこかへ逃げた、ですか。だからセイさんの調査にも引っかかってこなかったんですね?」

〈怪盗セイント〉が調べて何もわからなかったんだから、誰かが隠蔽工作をしたに違いないんだ。

 セイさんは、頷きながらも顔を嫌そうに顰めた。

「その可能性はあるし、もしくは、自分でどこかに消えたのではなく、組で何らかの処分をしたか、だろうね」

 処分。

「それは、あれですね。たぶんヤクザな人たちのやることですから、どこかの山の中に埋めたとかどこかの港に沈められてしまったとか」

 ドラマやマンガなんかでよく出てくるけれども。本当にそういうことをやっているのかどうかも私は知らないけれど。

 セイさんが頷いた。

「そういうことだろう。そして暴力団の上の方で木佐ゲンの存在も含めて、全てをもみ消したから、私が調べても何も出てこなかった。結果としてどうして火事になったかもまったくわからなかったということではないのかな。ひょっとしたら」

 セイさんが嫌そうに思いっきり顔を顰めた。

「あまり考えたくないことだが、消防や警察に暴力団の上の方と繋がった人間がいたのかもしれない」

 重さんが、唇をヘの字にした。

「むしろそう考えた方が、あれだけの火事がどうして起こったのかがついにわからなかった理由だって、素直に思えますね」

「で、あろうね。当時私もその可能性を考えてはみたのだが、何せ死傷者はいなかったのだ。大火事だったとはいえ、そこを調べるために警察関係に踏み込んでいくのは躊躇われたのだよ」

「自分に火の粉が飛んできても困りますからね」

 上手いことを言ったつもりはなかったんだけど、まさしくそうだ、ってセイさんが苦笑した。

「私も若かった。〈怪盗セイント〉の尻尾を日本で掴まれるのは避けたかった。しかも結婚し立てだった」

 そういういろんな要素が絡み合って、ついに火事の原因はわからなかった。そして、四丁目のアーケードはついに再建されずに今に至ってしまっている。

「もちろん〈スマートセンター〉もなくなってしまったんですよね? 火事の後には」

「なくなっていたよ。しばらくはあったように記憶しているが、あっさりと壊されて消えてしまっていた。それも、木佐ゲンが失敗した証拠のように思えるね」

 パン! ってセイさんが自分の腿を打った。

「では、作戦会議だ。どうやって〈スマートセンター〉の屋根の上に陣取り、誰にも知られずに撮影するか」

 そして、私たちが生きる現代に帰って行くか。

      *

 昭和五十一年七月二日。

〈花咲小路商店街〉の四丁目のアーケードがほとんど燃えてしまう日の夜。

 隠れ家でセイさんが用意した私たちの着替えは、グレーの作業着。作業着ってこの時代でも今でもほとんど変わっていない。むしろ、この時代のデザインの方がちょっとカッコいいかも。

「やっぱり、夜の闇に紛れるのはグレーがいちばんですか」

「その辺は周囲の状況にもよるのだが、商店街のような場所ではこれが最も適しているだろう。誰かの目に入っても、何か作業している人がいるな、で、それ以上認識しない」

「顔も覚えられない、ですね」

「その通りだ。変装というのは実はその状況で目立たない、というのがいちばんなのだよ」

 そうなんだろうと思う。

 作業着に革のベルトをつけて、普通ならそこにいろんな工事の道具とかを入れるんだろうけど、今回はカメラ。それもカメラとわからないようにちゃんとカバーを作って。失敗しないように、私と重さん二人ともカメラを備えた。

「セイさん、屋根の上に昇るのは僕たちに任せてもらって、セイさんは下で見張っていてもらった方がいいですよね?」

 重さんが言う。私も絶対にその方がいいと思う。

「何を言うかね。年齢による体力の衰えを心配しているのならば無用だよ。そもそも屋根の上に昇るのに体力や筋力などを消耗していては、肝心なときに使えないではないか」

「え、でも」

「覚えておきたまえ。道具というのは体力や集中力をいざというときのために取っておくために使う物だよ」

 セイさんが取り出したのは、何かグリップのような工具。

「映画などで見たことはないかね? これをワイヤーに通してこのスイッチを押すと、モーターで上へと身体を運んでくれる」

「あります! そんなものがもうあったんですか?」

「なかったね。造ったのだよ。バッテリーがさすがに小型の物がなかったので、そこは車のバッテリーを使う。これがあれば屋根に上がるのに体力はいらない」

 そもそもセイさんの表というか、職業はモデラーなのだから手先は器用だし、何でも造ってしまえるんですね。電気工学系の知識も豊富そう。

 使っていたライトエースも元々そういう関係で使うことが多い車だから、それも目立たない。

 梯子にワイヤーにロープにその他もろもろの、屋根の上に昇って作業をするための道具いろいろを積み込んで、目立たない商店街の一本裏の通り沿いに停める。もちろん、ここは駐車禁止ではなくて、停めておいても誰も見とがめないのは確認済み。

 そこから裏道を通って〈スマートセンター〉の建物の横の小路へ。ここは猫が並んで通れるぐらいの建物と建物の間だから、誰も通らない。

 ここに梯子を置いて、屋根のところにワイヤーロープを引っかけて、昇って行く。

 時刻は八時過ぎ。

 早めに屋根の上に潜んで、撮影の準備をする。

 放火するとしたら、わざわざ危険な屋根には昇らない。きっと〈スマートセンター〉の二階の窓からするに違いないから、一脚を使って屋根の上から出して窓のところを撮影できるようにする。シャッター音を完全に消すことはできないから、そこは賭け。

 三人で、安全のために命綱をつけて、屋根の上に伏せてじっと待った。

 セイさんは真ん中で、棒の先に鏡を付けて〈スマートセンター〉の二階の窓を見張っている。手作りしたっていう聴診器みたいな道具も耳につけている。これで下の物音を聞けるんだって。

 重さんは私と反対側に待機している。

 耳をすませる。屋根の下の気配を感じとろうとする。

 セイさんがピクッと動いて私たちを見た。

 ハンドサイン。

(下で、動いた)

 私も、わかった。

 屋根の下で、何か気配がある。

 窓が開いたのがわかった。

 シャッターはレリーズで押せるようにしてある。頭を屋根から出して、確認する。

 二つある窓が両方とも開いていた。そこから男たちの頭が覗いているのがわかる。

 きっとカメラのフレームは男たちの斜め上から横顔を捉えている。何度も確認したから間違いない。

 ホース?

 思わず声が出そうになるのを堪えた。セイさんと重さんと眼が合った。

 灯油の、臭いだ。

 灯油を、噴霧器みたいなもので、アーケードの上に撒いているんだ。こうやって仕掛けたんだ。

 アーケードが黒く濡れたようになるのが、わかる。

 急に風が吹いてきた。だから、灯油が広範囲に撒かれてしまっている。これも、ボヤで済ませるのを失敗した要因だったんだと思った。

 でも、アーケードの上には火を点ける装置は何もない。マッチでも擦るのかと思ったけど、それだと自分たちの真下にしか届かない。

(えっ!)

 矢! って、大きな声が出そうになるのを堪えた。

 矢。

 火矢。

 まさか、時代劇でしか見たことないものを、こんな間近で見ることになるなんて。

 誰がこんなことを考えたのか。

 確かに、火矢なら遠くまで届く。きっと矢自体は木と布しか使っていないだろうから、燃えてしまえば証拠は何も残らない。

 そういえば、矢場、って昔の矢を打つ場所で、遊技場のことでもなかったっけ。

 シャッターを切る。

 重さんもレリーズを押している。

 きっと写っている。

 この男たちが、火事の犯人たち。

 火矢が、飛んだ。

 その方向へ、一脚を動かしてレリーズを押す。

 撮る。

 悲鳴が出そうになるのを、堪えた。

 音を立てて、火がアーケードの屋根に点いた。

 絶対に、写ってるはず。

 誰がやったのかが。

 セイさんが、大きく手を振った。

 撤退のハンドサイン。

 すぐに逃げないと、私たちが火に巻かれてしまう。

      *

「では、帰ろう」

 セイさんが言った。

 火事から二日経った夜。

 現像できるものは、全部現像した。そしてそれをアルバムにまとめた。まとめきれない写真は、燃やした。ここに残しておくことはできないから。

 火事のとき、もちろん、丸子橋さんはそこに写っていない。

 木佐ゲンさんも、写っていなかった。顔がはっきりわかるほどに写っていたのは、見知らぬヤクザっぽい若い人たちが二人。部屋の中に木佐ゲンさんがいたのかどうかもわからなかった。

 ひょっとしたら、消火に失敗したのは、この若いヤクザ者の人たちが何か先走った結果なのかもしれないって話した。

 そこのところは何もわからなかったけれど、とにかく火事の原因も犯人もわかった。こうして写真に収めた。

 このアルバムを〈久坂寫眞館〉に隠しておく。

 それで、未来に、私たちの住む現代に起こるかもしれない、もしくは起こったかもしれない災いを防げれば、防げていればいいんだけど。

「準備は整った。返すものは全部返した」

「ここは、掃除しなくていいですか?」

 今まで過ごしたセイさんの隠れ家候補の家。一応、前の状態になるまできちんと片づけたけれど。

「若き日のセイさんなら、ここで誰かが過ごしたって気づいちゃうんじゃないですか?」

 そう言うとセイさんが苦笑した。

「この後、ここを訪れる若い私は多少不審に思うかもしれないがね。まぁ今の私がもう知ってしまったし、なんてことはないだろう」

 確かに。

      *

 重さんが動画を撮ろうとした瞬間。

 戻ってきた。

 今の、〈久坂寫眞館〉。

 昔に戻る前、掃除を、すす払いをしていたときに使っていた脚立もそのまま。

「時間は、どうかね?」

 あの日は掃除の日で、晩ご飯を食べた後に掃除を始めてすぐの頃。

 重さんが、すぐに時計を確かめた。

「八時二十五分になりました。掃除を始めたのが確か十分ぐらいでしたから」

 うん、ってセイさんも頷いた。

「あのとき、時間は確かめた。時計は八時二十二分を過ぎていた。ということは、私たちはせいぜい一、二分、ここを留守にしていたということだ」

 二回目だけど、あたりまえだけど、本当にわけがわからない。

「向こうでほとんど一週間ぐらい過ごしていたのに」

 こっちでは、一分か二分。前のときと同じように、聖子さんは何も気づいていない

「わからないことは考えてもしょうがない。時間の流れ方が違うというだけだ」

「そうですね」

 セイさんが、さて、とスタジオを見回した。

「もしも聖子さんが来たら、私がそこを通ったら君たちが掃除をしているのが見えたので久しぶりにスタジオにお邪魔した、ということにしよう」

「そうしましょう」

 それで何の疑いも持たないはず。

「アルバムを点検してみよう」

 三人で、あのアルバムを隠したキャビネットに向かう。私たちにしてみると、ついさっき、この裏側に隠した決定的な証拠となる写真をまとめたアルバム。

「あ、僕がやります。簡単に動きますから」

 セイさんが手を伸ばすのを制して、重さんがキャビネットをゆっくりと動かした。私も手伝う。

「ない」

「え?!」

 隠したはずの、アルバムが。

「どこにもない」

 照明が当たらないから少し薄暗いので、すぐにiPhoneのライトを照らしたけれど。

「ないです」

 むぅ、って感じでセイさんが顔を顰めた。

「まぁ、想定内ではあるが」

「そうですね」

 キャビネットを移動して掃除をしなければ絶対に見つかるはずがなかった。でも、移動したら簡単にわかるから、見つけられることも考えてはいたんだ。

「僕の知らないところで、お祖父ちゃんか、親父かが、見つけたんですね」

「そういうことだろうね。そしてジュウくんはそれについては今まで何も聞かされていない。今、突然自分の記憶になかった火事の写真について思い出したりしていないね? 誰かから聞かされたと」

 重さんが少し考えて、首を捻った。

「ないですね。僕の記憶はそのままです」

「ジュリさんは知らなくて当然だ」

「そうですね」

 私はまだここに来たばかりの人間。

 セイさんが小さく息を吐いた。

「まぁ、これで私たちの行動は見事に実を結ん、と思うしかないだろう」

「そうですね」

 確かに私たちは、火事の決定的な証拠を撮影したんだ。それは間違いない。その証拠の写真も、ここに隠した。

 それがなくなっているということは、〈久坂寫眞館〉の誰かが見つけたってこと。それによってきっとトラブルは未然に防がれた。そう思うしかない。

 音がした。

「母さんだ」

 慌てて、掃除道具の箒を手にした。セイさんが少し離れて、身なりを整えた。

 スタジオの扉が開いて、顔を出した聖子さん。

「あら、まぁセイさん」

「今晩は。お邪魔していますよ聖子さん」

「何か声がすると思ったんですよね。お久しぶりですね。どうされたんですか?」

「いや何、帰り道でそこを通ったら、このお二人でスタジオを掃除しているのが見えてね。そういえば、以前にスタジオに入ったのはもう何十年も前じゃないかと思ってね」

 懐しくて裏口からお邪魔したんだって。打ち合わせ通りの答えをセイさんがにこやかに言う。

 もうわかってしまっているからあれだけど、本当にセイさんってどんなときでも冷静沈着。そして、演技が巧い。私と重さんなんか、聖子さんが来る音がしただけで緊張してしまっていたのに。

「そうでしたか」

 聖子さんが、本当にスタジオには何十年ぶりですかねぇ、って言って、ふいに何かに思い当たったように、セイさんを見つめた。

「セイさん。あの、昔のことなんですけれどね」

「はい、何でしょう」

「昔、四丁目にあった〈花咲長屋〉にいた、酒井美礼さんって女性の方、セイさんなら覚えていらっしゃると思うんですけれど」

 びっくりした。

 思わず眼を丸くしてしまった。聖子さんは私を見ていなかったから気づかなかったと思うけど。

 どうして聖子さんが美礼さんの名前を。

 セイさんもたぶん相当驚いたと思うんだけど、まるで動揺していなかった。ほんの少し眉を顰めて、ちょっと考えたような感じの顔をして。

「もちろん、覚えていますよ。そこにあった〈スナック美酒〉のママでしたね。それに、妻の遠縁の女性でもありました」

 重さんも驚いているけど、何だろうって顔をして誤魔化している。

「じゃあ、あれかしら。こういうのってやっぱり呼んだのかしらね。こんな日にセイさんが訪ねてきたって」

「呼んだ、とは?」

 こんな日?

 セイさんも少しわけがわからないって表情を見せて、聖子さんは、何とも言えない顔をして、小さく頷いた。

「今日、葉書が届いたんですよ。その方が亡くなったって」

 亡くなった。

 美礼さんが。

 居間に移って、コーヒーを淹れた。

 私たちはほんの少し前まで、一週間ほども昭和五十一年の世界にいて戻ってきたばかりなんだけど、聖子さんにしてみるとついさっきまで一緒にいたことになる。

 何だかその気持ちというかお互いの空気感のギャップみたいなもので、ずっとドキドキしている。血圧も上がっているんじゃないだろうか。セイさんは大丈夫かなって思ってしまう。

「これなんですよ」

 聖子さんが茶箪笥の引き出しから出してきた一枚の葉書。ごくごく普通の郵便葉書だった。でも、そこに書かれていた文字がとても上手な美しい文字だった。

「北海道」

 セイさんが思わずって感じで呟いた。

「北海道ですか?」

 重さんが言って、ソファに座ったセイさんの横に移動した。私もそうして重さんと二人して横から覗き込んだ。北海道は、ついこの間まで重さんが住んで働いていたところ。

「稚内だ」

 住所は、北海道の稚内市になっていた。遠い遠い北の果ての、日本最北端の町。

 宛先は、〈久坂成重様〉。

 重さんのお父様宛て。ということは、亡くなられたのを知らなかったってことだろうか。

 差出人は〈木佐秀一〉。

 木佐。

 セイさんも私も重さんも、思わず唇を噛みしめた。互いに顔を見合わすのを、我慢した。

 セイさんが、ゆっくりと葉書を裏返した。

 文面を読む。

 そこには、祖母である美礼さんが亡くなったと。ずっと一成さんに感謝していたと。そして息子さんである成重さんにも。結局大した恩返しもできずにいるのを悔いていることを最期まで口にしていたと。いつか、お墓参りをさせてくださいとも。

 稚内は本当に遠いと思う。いくら飛行機で何時間かで東京に着くとは言っても、じゃあちょっと、と簡単に行き来できるところじゃないはず。

「この方は、ひょっとして美礼さんのお孫さんか何かになるのでしょうかね?」

 セイさんが聖子さんに訊いた。

「たぶん、そうなるんでしょうね。私も実は詳しく知らないの。もちろん会ったこともないし、話したこともない」

「そもそも、美礼さんのことも聖子さんは知らないのではないのかな? あの人は、もう随分昔にこの町を去っていった人だ」

 そうなんですってね、って聖子さんは頷いた。

「セイさんの亡くなられた奥様とは親戚で、良く似ていて仲も良かったんだって聞いたけれども」

「その通り。その話は、一成さんから? それとも成重くんから聞きましたか」

 聖子さんが頷く。

「もう随分昔、成重さんと結婚した頃になんです。まだお祖父ちゃんもお元気な頃。あ、ちょっと待ってくださいね」

 聖子さんが立ち上がって、自分の部屋に向かっていった。何かを取りに行ったんだろうか。

「まさかおふくろが美礼さんのことを知っていたなんて」

 重さんが小声で言うので、私もセイさんも頷いた。

「しかし、話を聞いていてもおかしくはない。一成さんはもちろん知っていたのだし、成重くんもあの火事の後に、美礼さんについて何らかの話を聞いている可能性だってあるのだからね」

「そうですよね」

 聖子さんがパタパタとスリッパを鳴らして戻ってきた。

 手にしているのは、写真だ。

 写真だってわかった瞬間に、絶対に驚かないでおこうって準備できた。だから、驚かなかった。

「これなんですよ。本当に大昔の写真なんですけど」

 一枚の写真。

 男の人が、火矢を構えているように見える写真。

「この写真は?」

 重さんが訊いた。

「火事になる瞬間なんだって」

「火事になる瞬間」

「四丁目のアーケードが火事で燃えたのは重も聞いてるでしょ? その人、火矢持ってるでしょ? 何かのイベントとかじゃなくて、昔、四丁目にあったお店の二階の窓のところなんですって」

 知ってます聖子さん。

 これは、角度からすると私が撮った写真です。 

「偶然、お祖父ちゃんが撮ったのよ」

 重さんのお祖父様、一成さんが?

 重さんがすっごい驚いていて、もちろん私も驚いていて。でも二人してそれを押し殺して。

「火事になる瞬間を撮ったって、じゃあこれは警察とかに持っていったものなの?」

 重さんが訊くと、聖子さんはブンブン! って首を横に振った。

「いや、わからないの。とにかく、そういうものなんですって。セイさんの家、矢車家も全焼してしまったんでしょう? 私も話でしか聞いていないんですけど」

「そうなのだよ」

 セイさんが話を合わせて頷いた。

「そうして建ったのが今のマンションなのだが、この写真のことはまったく私は知らない。そもそも火事の原因は不明になってしまっているのだが、一成さんは犯人をこうして写真に押さえていたという話なのかね?」

「どうもそうらしいんです」

 聖子さんが顔を顰めながら頷いた。

「もっとも、この写真、男の人が火矢を構えているっていうだけで、夜だから一体どこで構えているのかもわからないんですよね。窓のところっていうのだけはわかるんですけど」

 その通りです聖子さん。何せフラッシュは使えなかったので周りの状況はほとんどわからないんです。ただ、火矢の火のお陰で構えている人のことはわかるっていう感じで。

 聖子さんが、少し淋しそうな笑顔を見せた。

「この写真のことは誰にも内緒なんだって言われていたんですけど、もうお祖父ちゃんも、成重さんも、そして美礼さんも亡くなってしまったので、いいと思うんですよね。確かお祖父ちゃんもそう言っていたし。この写真のお陰で、美礼さんとか、そのときに〈花咲長屋〉にいた人たちが火事の犯人だって疑われずに済んだんだって」

 犯人だと疑われずに済んだ。

 セイさんと、重さんと、三人で静かに顔を見合わせた。

「つまり、美礼さんはそれも含めて、一成さんや成重くんに恩義を感じていた、と」

「そういうことらしいんですよ。私も、ただ話を聞いていただけなので詳しくはわからないんですよ。セイさん、その美礼さんとは当時は親しかったんですか?」

 いや、ってセイさんは少し首を横に振った。

「私も知っていたというだけでね。交流はまったくなかったのですよ。そもそも交流を深める前に火事が起こってしまって、美礼さんは遠くへ引っ越していったのでね」

「そうですか」

 いや、しかし、ってセイさんがゆっくりと頷いた。

「まさに、聖子さんが感じたように、私が今日ここに寄ろうという気になったのは、呼ばれたのかもしれないね。亡き妻は、志津は美礼さんとはもちろん親しかったし、志津の命日ももうすぐなのですよ」

 命日が。そうだったのか。

 セイさんが葉書を、ゆっくりと上に上げた。

「こういうことができる、立派なお孫さんにも恵まれたということは、美礼さんはここを離れても幸せな人生を送ってきたということでしょう。命日の墓参りで、志津の墓前にもいい報告ができそうです」

 セイさんを送ってくる、って聖子さんには言って、私も重さんもセイさんと一緒にスタジオを出た。

 あの写真と葉書は、置いてきた。もちろん、重さんがきちんと保存する。

「何がどうなってそういうふうになったのかは、もう一生わからないんでしょうね」

 四丁目に向かって歩きながら言うと、セイさんも重さんも頷いた。

「もう一度タイムトラベルでもしない限りはね」

「いや、もう充分ですよ」

 笑った。

「どこかの時点で」

 セイさんが後ろを振り返りながら言った。

「一成さんか成重くんが、私たちが残したアルバムを見つけたのだろう。誰が撮ったのかもわからないまま、これは火事の証拠だと判断し、美礼さんたちを救ったのだ」

「美礼さんだけじゃなくて、私たちが犯人だと思ってしまった木佐ゲンさんもですよねきっと」

 お孫さんは、木佐さんだったんだから。

「そういうことなのだろう。おそらくそこにまたロマンスがあったのかもしれない。見里さんと丸子橋のように結ばれない悲劇ではなく、ハッピーエンドのロマンスがね」

「そういうことですよね」

「きっとそうなんですよ。そう決めましょう。その方が絶対にいいです。そうしておけば、私たちの時間旅行も、ハッピーエンドじゃないですか」

 セイさんも、重さんも笑みを浮べて、頷いた。

「そうしよう」

 きっと、私たちがタイムトラベルをしたのはこのハッピーエンドで締めくくるため。神様がそうしてくれたんだ。

「セイさん。志津さんの命日のお墓参り、私たちも一緒に行っていいですか?」

「もちろんだとも」

 セイさんが、にっこり微笑んだ。

「きっと志津も思い出すだろう。あのときのお二人! とね」

 そうなったらいい。

「何十年後か、私と重さんが志津さんのところに行ったときには、きちんと謝ります。消えてしまってすみませんでしたって」

「それは無用だよ。その前に、近いうちに私が行って説明するから」

 いやいや、セイさん。ブラックジョークです。

 まだまだ長生きしてください。

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