二 弟の名前は禄朗
お店の正面入口の自動ドアが開くと身体全体にぶつかってくる音の洪水。
いろんな音楽に電子音。
さりげなく入っていって、店内の様子を見る。
平日水曜日の午後の店内は、ガラガラだけれどもお客様がいないわけじゃない。三割の入りかな。まぁまぁね。それぐらい入っていれば平日の午後はオッケー。これから夕方になっていって、倍の六割の入りになっていれば大満足。五割でもいい。
全体的には薄暗いのだけれども、筐体からの明かりで店の隅々までハッキリと視認できるぐらいの照明。うるさいんだけれども、すぐに慣れて騒音と感じさせなくなる程度の音の洪水。そして何よりも清潔感。
どんな筐体も機器も光るところは光らせる。マットなところは埃ひとつ見えないほどに。丁寧に毎日ではなく毎時間お客様の邪魔にならないように清掃をしていく。うちのお店で働く子たちの主な仕事は掃除と言ってもいいぐらいに。
死んだ父さんもよく言っていた。どんなに古ぼけた店だろうと、きれいにしていればそこには良い客が集まってくるんだって。それって割れ窓理論と同じだよね。
そして私もそう思う。お店はきれいであるべき。きれいでなくてはお客は呼べない。まぁ自分の部屋とかはともかくね。
(よしよし)
今日も薄暗くてうるさくてそしてきれいだ。
毎日表から入ってくる度に自分の体感として感じるのは重要。〈ゲームパンチ〉は誰でも楽しめる健全なゲームエンターテインメントの場。
二階建てのビルの古さは否めないけれども、それはもうゲームセンター黎明期からある老舗の風格ってもの。当分お色直しや修繕は考えていない。まぁそれほどの余裕があるわけじゃないしね。
奥の鉄扉を開けて事務所へ。
「ただいまー」
「お帰りー」
パソコンに向かったまま言ってから、クルッと椅子を回してこっちを見る坊主頭の形が本当にきれいな旦那様。一磨くん。
「どうだった禄朗くん。何事もなく生活していけそう?」
「全然平気よ。歩くのに苦労するだけで。お風呂もたぶん家で一人で大丈夫じゃないかな」
ダメだったら言ってくるだろうし。
「一応、後でこっちから電話してみるかな。僕も久しぶりに銭湯入ってみたいし」
「そうね。お願い」
あの子は遠慮するような柄じゃないけど、とにかく人と関わろうとしないから。自分からお風呂一緒にお願いしますなんて言ってこないだろうし。義兄である姉の旦那たちにだってろくに話もしようとしないしね。
「原稿、上がった?」
「もうちょっと。何とか間に合う」
「良かった」
花咲小路商店街二丁目の〈ゲームパンチ〉二代目店主宮下一磨の裏の顔は、ラノベ作家宮野麿光司ってのを知ってる人は少ない。公表もしていないしね。私だって、結婚してほしいってプロポーズされてから初めて知ったし。
そもそもそんなにも売れてもいないからね。小さなゲーセンを舞台にした『異邦のゲーム騎士ども』が八年続くシリーズになっているけれども、続いているのは、それだけ。後は、まぁちょこちょこと。
でも、本業のゲーセンの赤字を埋めることにはなっているんだから、大したものだって思うのだけれど。そして、いつここを閉めても、夫婦二人の暮らしぐらいはなんとかなるんだけれど。
今の時代、大手以外のゲーセンに未来はほとんどないと言っていい。そして実際に赤字しか出ない小さな地方都市のゲームセンター。商売ってほそぼそとやっていける業種も確かにあるけれど、うちのたいやきみたいにね。でも、ゲーセンでほそぼそというのは、もう絶対に無理筋なもの。
それでも閉めないで頑張っているのは、ここにやってくるお客さんがまだたくさんいるのと、うちを頼りに働く従業員たちがいるから。
それでも後何年やっていけるかなぁ、って感じなんだけど。
私の仕事は、経理。これでも専門学校を出て実家の方もずっとやってきた。
「そういえば、前から訊こうと思ってたんだけどさ」
「なに?」
「禄朗くんってさ、名前、どうして数字の六じゃないの? お姉さんたちは皆数字なのに」
あぁ、それね。
大体皆訊いてくるんだけれど、知らなかったのね。そして結婚して七年になるのに今ごろ訊いてきたのね。
「全然大層な理由じゃないのよね。ほら、女の子ばかり四人でしょう」
「うん」
宇部家の四姉妹。二葉に三香に四穂に私は五月。
「五人も産んで、ようやく生まれた男の子なわけよ。古い考え方だけど跡取りなわけよね禄朗は」
「そうだね」
宇部家待望の長男。
「しっかり稼いで宇部家を繁栄させて皆を幸せにするようにってね。禄朗の禄って、ほら禄高の禄でしょう」
一磨くんが、あぁ、って膝を打った。
「給料のことね。俸禄の」
「そうそう。お金よ。そして幸せって意味もあるんだって。なので、禄朗」
なるほどね、って頷く。
「お義父さんたちはそこはしっかり考えたんだね」
「そうなのよ。娘たちは順番でいいかって適当にしてね」
私なんか五月よ。メイよ。トトロかって言いたくなるわよね。旦那さんはカンタって人を捜そうかと思ったわよ。中学校の同級生に登呂さんっていたから、ちょっと考えたわよ。
「それで、ユイちゃんはさ」
「うん?」
「もうこのまま宇部家にずっといれば話が早いんじゃないの? 実家がもうなくなったんだし。結婚式しちゃって、籍もすぐに入れちゃえばそれでいいんじゃないの」
「そうなんだけどね」
それぞれの人生における何らかのタイミングって、あるものなのよね誰の人生にも。
ユイちゃんと禄朗が結婚の約束をした。まぁそれ自体が私たちにとってもものすごい驚きだったんだけど。
そうしたら、なんとその約束をしたタイミングで、あの刑事の権藤さんと離婚してからずっとユイちゃんを女手ひとつで育ててきたお母さんまでもが、実は再婚することにしたって。
それはまぁ母子ダブルでとんでもなく目出度いことよね。一人娘のユイちゃんも、母親の新たな人生を祝福するわよね。
でも、お母さんは結婚するんだからそれまで住んでいたアパートを出て旦那さんの家へ入ることになる。
そうなると、お母さんとずっと二人で住んでいたユイちゃんは、まさか成人後に継父と一緒に住むのもなんだしと、それを機に一人暮らしを始めようと思って準備していた。
その矢先に、禄朗の怪我。
そりゃもうユイちゃんは来るわよねうちに。手伝いに。住み込みで。
そしてお母さんはつい三日前に新しい旦那さんの家に移った。そこにはいつでもユイちゃんが来られるようにって部屋も一応は用意してあるらしいけれども。
「もうすぐ二十四にもなるのに、継父と一緒に住むのもねぇ。かと言って禄朗の怪我が治ったからって新しく部屋を探すのもムダになるわよね」
「そうだよね」
そして今更継父の名字に変わるのも、どうかってものよね。変わるならさっさと宇部ユイになりたいわよね。
「それなので、お母さんはまだ籍を入れてないんですってね。ユイちゃんが宇部家に入り次第、向こうも籍を入れるって話にはなっているらしいけれど」
「じゃあもう尚更、さっさと結婚しちゃえばいいんじゃないのかね」
「まぁ、それもタイミングよね」
このまま結婚しちゃうと、なんだかドタバタのどさくさ紛れに結婚しちゃうみたいになっちゃうのは確かだからね。
「落ち着いたらって話なんだけど」
それもそんなに先ではないでしょう。二ヶ月もすれば禄朗もまともに歩けるようになるって話だし。
「そうなると、アンパイアの仕事がない今季のうちに結婚式を挙げちゃおうってことになるわよ」
「そうだね」
たぶん宇部家で最大のミステリーとして今後子々孫々と語り継がれるであろう、禄朗の結婚。何故、ユイちゃんは禄朗と。そして何故禄朗も結婚しようと思ったのか。
まぁお互いに惚れたってことなんだろうけどさ。
「あ、今日のおやつ、うちのでいいでしょ。たいやき」
「いいけど、今日は休みでしょ?」
「禄朗が椅子に座ったまま焼くテストをするのよ。それを貰ってくるからタダよ」
「いいね」
毎日、従業員とバイトの子にあげる三時のおやつ。お義父さんの時代からの習慣なのよねうちね。その昔はお昼ご飯も晩ご飯もまかないとして、近所の店から出前自由ってしていたらしいけれど、それはさすがに無理。
でも、おやつだけはね。ずっと続けてる。いいわよね、毎日おやつが出る職場って。私だったら、そこでずっと働きたくなる。
今日のシフト確認。
営業は午前十時から午後十一時までなので、早番と遅番に分かれている。早番は九時から午後五時まで。遅番は午後四時から零時まで。
「真紀さん、今日から復帰ね」
「そう」
禄朗じゃないけれど、十日ほど前にママチャリで転んでしまって足を捻って歩けなくて、しばらく休んでいた野々宮真紀さん。一緒に乗っていた優紀くんに怪我がなくて本当によかったけれど。
「真紀さんの分のおやつはちゃんと取っといてね。優紀くんの分も」
了解、って一磨くんが微笑む。
子供も抱えて一人で家計を支えている野々宮真紀さん。
まだ三十代の若さだから昼も夜も働いて大丈夫なんだろうけれど、この先どうなっていくのかなってずっと心配してる。
もしもうちを閉めることになったときに、まだ真紀さんがうちで働いていたら、再就職先をお姉たちの店のどこかにできないかなって思ってるぐらい。
でもねー。どこも小さい店だし新しい従業員を雇う余裕なんてないだろうしね。〈たいやき 波平〉はどうかと思ったけど、ユイちゃんがお嫁に来ちゃうからね。あそこは二人いたらもう充分で、それ以上の店員なんか雇えないし。
「じゃ、ちょっと行ってくるかな」
壁の丸時計を見て、一磨くんが言う。二時半か。
「うん、よろしく」
毎日おやつを買いに行くのは、一磨くんの仕事。そういうのがないと、本当に一日中座りっ放しになってしまうから。
ウォーキング四十分を兼ねて、買い出し。
「あ、禄朗に言っておいて。保育園へのたいやき差し入れは明日で、今回は二十個だよって」
「了解」
三 言葉に込めた嘘とは何なのか
言葉に込めた嘘が、わかる?
こんなことで冗談みたいなことを言う人じゃないです。本当のことを、話しているんです。
アンパイアが『ボール!』と告げた。でも、禄朗さんの判断では間違いなくストライクだった。
私も野球が大好きだからわかるけれども、際どいコースでストライクかボールか人によって判断が分かれることもある。アンパイアのその判断に不服や文句を言ってはいけないんだけれど。
でもそうじゃない。
「その球審さんは〈ボール〉と判断してコールしたんじゃなくて、〈ストライク〉と判断したのに『ボール!』と嘘を言った、ってことが、そのコールした『ボール!』っていう言葉だけでわかったということですか?」
うん、って禄朗さんが頷きます。
「その通り。キャッチャーはアンパイアに背を向けているしマスクもしてるから態度や表情はまったく関係ない。その〈言葉〉だけで嘘がわかるんだ。わかりやすくするために、やってみよう」
やってみるって。
「あ、でも禄朗さん。そろそろ試し焼きしないと。三時になっちゃいます。一磨さんがきっと取りに来ます」
禄朗さんが時計を見ます。
「そうだった。十五個ぐらいでいいかな」
「いいと思います」
〈ゲームパンチ〉さんの皆さんが食べるおやつ。ここのたいやきももちろん定番になっていて、一週間に一回はたいやきなんだそうです。
「よし」
ゆっくりと、禄朗さんが立ち上がります。
「材料だけ、頼む」
「はい」
ほとんど片足で歩いて、店の前へ。〈たいやき波平〉のたいやきは、俗に言う〈天然物〉。一匹ずつの金型に取っ手がついていて、一匹ずつ焼き上げていくもの。でも、天然物という言い方なんかはほとんどしていなくて、昔は一丁焼きとか言っていたそうです。呼び方は何でもいいし、まとめて焼いても美味しいものは美味しいんですけどね。
禄朗さんが横に長いガス台の前のスツールに座って、ガスに火を点けます。
「本当にちょうどいい高さだな」
「ですよね」
しっかり測って、禄朗さんの高さに合わせたもの。きっと他の人が座ったら足がプラプラ浮いてしまう。
「はい、粉です」
小麦粉を混ぜたもの。ここの皮の配合はもちろん秘密。皮が本当に美味しいんです。パリパリとふわふわともちもちの中間ぐらい。どう表現していいかわからない絶妙な歯応えと味。
配合と混ぜ方をしっかり教えてもらったけれど、絶対に誰にも言っちゃダメと念を押されています。
「サンキュ」
一匹ずつ焼くから、粘度もすごく大切。混ぜ方が大事なんです。
「うん、いいね」
禄朗さんが頷きます。餡も、先に準備していたものを冷蔵庫から出します。これも、実は少し冷えているものを使った方が、出来上がりの見栄えがいいそうです。その辺は言われてもちょっとわからなかったんですけど。
「よし、いいね。全然平気だ。このまま何十個でも焼ける」
「良かった」
これで、禄朗さんの足が治るまで、私がいれば店は普通にやっていけます。
「全部焼こう。〈ゲームパンチ〉に十五個?」
「そうです」
「食べる?」
「いただきます」
私のおやつも。
「じゃあ追加で四個。俺も食べよう。入院中、食べられなかった」
本当に私は、ここのたいやきが大好き。初めて食べたのはまだ中学生の頃だったけれど、衝撃的と言ってもいいぐらいの美味しさで、毎日でも食べたいと思ってしまって、それは今でも。
禄朗さんが、七つ並べられるガス台にたいやき器を七台並べます。
そして、少し考えてから、私を見ました。
「さっきの話の続きだけれども」
「はい」
言葉に込めた嘘がわかる、とはどういうことなのか。
「たとえば、俺が知ってるユイちゃんの同級生はモンちゃんだけだと思うんだが」
モンちゃん。
そうですね。小学校から短大までずっと一緒だったモンちゃん、門馬紗英ちゃん。本当に気が合う親友。
実は私が禄朗さんに逆プロポーズしたんだということを知ってるのも、今のところモンちゃんだけ。あ、お母さんにも後から教えたけれど。
「確かにモンちゃんだけですね」
他にも〈たいやき波平〉にたいやきを買いに来ている私の同級生は何人もいるだろうけれど、私から直接紹介した人は誰もいないです。
「誰か他の同級生の名前を何人か言ってもらえるか。小中高短大のどこからでも、何人でもいい。その中に一人だけ、まったく関係ない人の名前を混ぜてみてほしい」
「一人だけ、同級生じゃない人の名前を混ぜるんですね? 上級生とか、親戚のおばさんなんかでもいいんですか?」
「俺がその人を知らなければ、誰でもいいよ。同級生じゃなければね。適当に考えた名前でもいい。そして俺は後ろを向いているから。君の表情や態度が見えないようにね」
それで、当てられるんですね。
禄朗さんが、くるっと身体を回転させて後ろを向きます。たいやき器をひっくり返すタイミングは、もう見ないでもわかっています。
「じゃあ、えーと」
誰にしようかな。同級生の子たち。
「言います。中川恵美、新田公美子、田中幸太朗、阿部菜名絵、板川すず、篠崎真由」
六人。
一人だけ男性を混ぜてみたけれども。禄朗さんが、すぐにまたくるっと回転させてこっちを向きます。
「新田公美子さんが、嘘だ。ユイちゃんの同級生ではない。誰なのかはまったくわからないけれども」
びっくりです。
「当たっています。新田公美子さんは、小学六年のときの担任の先生の名前です」
「先生だったのか」
もちろん、そんなことは禄朗さんは知りません。知らないはずです。調べればわかるでしょうけれど調べているはずもないです。
禄朗さんは、小さく頷きます。
「はい、焼き上がり」
「はい」
横のバットに一匹ずつ置かれるたいやきを、包み紙の上に置いていきます。すぐに包むと湿気ってしまうので、少し置いてから。
禄朗さんはたいやき器に残ったものを掃除して、またガス台の上に並べていきます。
「これで十四個ね」
「そうです」
後は、自分たちの分の四個。
「言葉に込めた嘘がわかるというのは、こういうことなんだ。さっき、ユイちゃんは同級生の名前、と思いながら何人か言った。でも、新田公美子さんだけは、自分で同級生というのは嘘だとわかりながら言った」
そうか。言葉に込めた嘘、って。
「同級生というのは嘘で違うんだ、という私の思いを、禄朗さんはその名前からすぐに感じ取ったということなんですね」
「そういうことになるんだ」
スゴイ。
どうしてそんなことがわかるんでしょう。
「どうして感じ取れるのかを知りたいだろうけど」
七台を順にひっくり返します。
「どうしてですか」
「まったく俺にも説明できない。あえて言うなら〈直感〉としか言い様がない。ピンとくる、ってやつだね。ただ、わかってしまうだけなんだ。これもそうだろう? うちのたいやきの焼き加減はここだ、っていう直感でしかない」
直感。
直感は外れないと言います。
外れるならそれはただのヤマカンだと何かの本で読みました。そして禄朗さんの焼き加減は、本当にいつどんなときでも、全部同じです。
「あるいは第六感とか、でしょうか。霊感とか」
「霊感はちょっと困るし、たぶんそれではないと思う」
そうでした。お化けとか幽霊とか妖怪とか、その手の類いの物は本当に苦手ですよね禄朗さん。ホラー映画とかもゼッタイに観ませんでしたよね。
「物心ついたときからって言いましたね」
そう、って頷きます。
「正確には〈嘘〉というものを、きちんと理解できるようになった幼稚園ぐらいからかな。まだよくわかっていない幼い頃にはそれでよく友達とケンカしたこともあった」
「普段の会話の中で、嘘をついたのがわかったから?」
「そう、なんで嘘をつくんだよー、ってね」
子供同士のそういうケンカなら、まだカワイイもので済んでしまうけれども、大人になってからのものは。
「はい、焼き上がり」
バットに次の七個。
「今のは、説明するために俺が質問して答えてもらったけれど、たとえば、ユイちゃんが普段の会話の中で、『私の同級生に新田公美子さんっていう人がいるんですけれど』と、話したのなら、俺は〈同級生〉という言葉に嘘があるとわかってしまう。そこまではいいね?」
「はい」
「でも、どんな嘘かまではわからないんだ。〈新田公美子さん〉が〈同級生〉ではないのはわかってもじゃあどんな関係なのかはわからない。そして何故そんな嘘をつくのかは、その場で自然にわかることはほとんどない。訊いたり調べたりしなければね」
そうか。
「じゃあ、同じような表現でも、『私の知り合いに新田公美子さんっていう人がいるんですけれど』なら嘘とは感じないんですね? 〈同級生〉じゃなくて〈知り合い〉なら本当のことですから」
「その通り。〈知り合い〉なのは事実で、まったく嘘はついていないから」
そうか。
「禄朗さん。警察官だったときのことを、前に少し聞きましたけれど、ひょっとして犯人をたくさん逮捕したというのも」
ゆっくり頷きました。
「たとえば、株関係をやっている男に『何をやっているんです?』と訊くと『金融関係です』と答えた。その言葉に嘘はなかった。けれどもそのすぐ後に『金融関係の仕事をしています』と続けて言ったんだ。その〈仕事〉という言葉が嘘だと俺はわかった」
〈仕事〉が、嘘。仕事じゃないってこと。
「その男は株関係で詐欺をやっていたんだ。だから金融関係のことをやっているけれど、〈仕事〉ではないと自分でも思っていたんだな。でも、その段階では『何故仕事のところで嘘をついたのか?』の理由はわからないんだ。だから調べるしかなかった」
「それで、調べて、事件になって」
「逮捕する。その繰り返しで、俺はたぶんとんでもない数の犯人を捕まえた」
うん、と、頷きながら禄朗さんは少し息を吐きました。
「本当に、初めてこれを人に話した」
「お姉さんたちも?」
「知らない」
話したのは、私が初めて。
「もしも誰かを好きになったのなら、一緒にいたいと思うような人ができたのならきちんと話そうと思っていたんだ。でも、今まで一人もそんな人は現れなかった」
禄朗さんは、人付き合いが悪いと言われています。商店街に生まれて育ったけれど、たまたまだけれども同級生もいないし、年齢が近い友人も少ない。
そして、女性とお付き合いしたことも一度もないとお姉さんたちも言っていました。私と付き合い始めたときには、本当にびっくりして。そして大喜びしたんだって。
「ひょっとして、禄朗さん。誰とも付き合ったことがなかったというのは、嘘をついているのがわかってしまうからですか?」
ゆっくり、頷きます。
「人は、誰でも嘘をつく。騙すような悪い嘘じゃなくても、事実を隠したり言わないでいることも〈嘘〉になってしまう。誰かと何気ない会話をしていても、その中に嘘を感じてしまう言葉が出てくる」
考えてみてくれ、と、禄朗さんは続けました。
「楽しく話していても、その中に嘘がこもった言葉が出てきたら、何個もあったら、どう思う?」
「気になります。どうしてそんなに嘘をつくんだろう、と」
うん、と、禄朗さんは力無く頷きます。
「悪気はなくとも、こっちが気になってしまう。変に疑ってしまったり、自分のことを信用してないのかとか、友達なのにどうしてとか、思いが全部悪い方へ向かってしまう。かといって、本当のことを調べたりしたら、その人との関係が悪化してしまったりする」
溜息を、つきます。
「誰とも会話したくなくなる。たとえ、親姉弟だったとしても」
それで、禄朗さんは人付き合いが悪いとか、堅物だとか、仲の良い友人はいないとか。そんなふうに。
「ユイちゃん」
「はい」
「そんな俺の人生の中で、君は唯一の、言葉にまったく嘘がない女の子なんだ」
私が?
「自分では気づいていないだろうけど。もう知り合って何年になるだろう。ユイちゃんがまだ中学生の頃からだから、十年?」
「そうです」
「その間に、たくさん話をした」
しました。主に私が一方的にしゃべっていると思いますけど。
「その中に、嘘の言葉が入っていたことは、一度もないんだよ。そんな人は、本当にユイちゃんだけだった」
私だけ。
「男ではいるけれどね。稲垣なんかもその一人だよ」
稲垣さんも。
「それで、稲垣さんとは仲が良いんですか」
確かに、稲垣さんはとても正直そうな人。
「俺は、いろんな人の、嘘を知ってしまっている」
表情を曇らせて、禄朗さんが言います。
「いろんな人」
「死んじまった親父やおふくろ、姉貴たち、学校の友人たち、商店街の人たち、その他会話をした人たち」
そうか。
わかってしまうから。
「どんな嘘なのかは、わからないし、わからなくていいんだそんなものは。調べたくもない。ただ、会話をする度にその嘘が溜まっていってしまう。だから、なるべく人と話はしたくない。しないでいいなら、ずっとそのままで」
普段の暮らしの中で、ずっと一緒にいる人たちが嘘をついているとわかってしまって、それを確かめることもしないで、できないで、ずっといる。
禄朗さんの人付き合いが悪いのも、友人を作らないのも、無口とか、堅物って言われるのも、そのせいだった。
悲しくなってしまう。
どうしてそんなことがわかってしまうんだろう。
「むしろ、それを楽しめたのなら良かったのになって思うよ。それならずっと警察官のままでいて、悪い嘘をついている奴らをどんどん逮捕できたのに」
そうなんだろうか。
「でも、そんなのを楽しめない人で良かったと思います」
禄朗さんは、力無く頷きました。
「そうだな。そう思う。実家がたいやき屋で良かったと思うよ。警察官辞めても食っていけるし、たいやき焼いていれば、誰とも話さなくてもいいし」
それは確かにそうですね。
「ただね」
「はい」
少し、悲しそうな、辛そうな表情を見せます。
「どうしたって、人と会話することがある。その中に嘘の言葉が入っていることがある。気にしないように、忘れるようにはしているんだけど、どうしても忘れられない、気になることも、あるんだ」
「そう、ですよね」
たいやき焼いていたって、話しかけてくるお客さんだっているし、ここに遊びにやってくる禄朗さんの知り合いだっています。
「一人、いるんだ。忘れようとしても忘れられない女性が」
「え」
「いやいや、そういう意味じゃないよ。その嘘が、って意味」
びっくりしました。
「どんな嘘なんですか」
眼を細めました。
「さっきの話じゃないけれども、名前なんだ」
「名前」
「その人は、嘘の名前を名乗っているんだ」
嘘の名前?
「偽名を使っているってことですか?」
「わからないんだ。確実なのは、皆が知ってるその人の名前は、自分の名前ではないってことだけ。たぶん、ユイちゃんも知ってる人」
私も。