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  3. Ⅰ スカビオサ
第1回

Ⅰ スカビオサ

 真っ白だ。

 壁も床も天井も、あらゆるところが隅々まで真っ白な部屋に深作ミドリはいた。身にまとった服も真っ白だった。右手に握る絵筆の毛と柄も白く、左手のパレットもその上にある絵の具も白い。そして目の前にあるキャンバスも真っ白だった。しかも異様にでかい。一〇〇号のFサイズなので、一六二〇ミリ×一三〇三ミリのはずだが、さらに一回りも二回りも大きいように思えてならない。

 調度はなにひとつないが、自分の右斜め前になにかがあるのに気づく。どうやら自分はそれを描いているらしい。ただし部屋とおなじく真っ白で、いくら目をこらしたところで、まったく形を捉えられなかった。改めてキャンバスを見ても、やはり真っ白だった。下絵どころか木炭や鉛筆で大まかな形や配置も描かれていない。

 〆切まで二ヶ月半だっていうのにどうすんだよ、私。

 ともかく描かねばなるまい。筆先に白い絵の具をつけ、ふたたび真っ白ななにかに目をむける。

 ひとだ。

 真っ白のままだが、ひとの輪郭がうっすらと見えてきた。彼女は足を肩幅に広げて立ち、顔は正面ではなく、真横にむけていた。

 彼女? あのひとが女性だって、なんでわかった? 

 そう思っていると、真っ白な彼女の全身から、強い光が放たれた。眩しくてたまらない。どれだけ顔をそらしても、光が眼を突き刺してくる。

 そこでミドリは目覚めた。

 眩しさの原因は、東向きの窓にかかったカーテンの隙間から洩れる陽射しだった。上半身を起こすと、真っ白なF一〇〇号のキャンバスが自分を見下ろしている。まだ夢の中というわけではない。紛れもない現実だ。

 学内にある画材店で木枠と綿布ロールを購入し、キャンパスを張ったのが十月末のことだった。すでに二週間前になる。そこで作業はストップしたままなのだ。昨夜、題材だけでも決めるつもりで、高校の頃から撮りためていた千枚は優に超える写真を見ているうちに、眠ってしまったらしい。

 ミドリは東京都下にある美大の四年生だ。実家は千葉の南房総で、とても通える距離ではないので、大学近くにワンルームのマンションを借りている。だがいま目覚めたのはべつの場所だった。おなじ美大の学生四人でシェアしているアトリエだ。築年数不明、たぶん七十年以上という平屋の3LDK、家賃は四万四千円という破格の安さを四等分して払っていた。ミドリの部屋は四畳半の和室で、畳を汚さないように一面ブルーシートを敷いてある。

 美大生が借りるようになったのは二十一世紀になってかららしい。だれかが卒業したら、その年の春に学生課の掲示板にシェア仲間募集の紙を掲示する。ミドリが応募したのは二年の春だった。先着順ではなく、近所に住む大家さんおよび先住者との面接をしなければならなかった。面接では自分の作品を見せねばならず、ミドリは実家であるミモザ農園の夕暮れどきを描いたF三〇号(九一〇ミリ×七二七ミリ)を持参した。すると八十代後半女性の大家さんが、その絵を大いに気に入って、面接を通過することができた。

 寝ぼけ眼をこすりながら、ミドリはスマホで時刻をたしかめる。午前七時三分だ。ひとまずマンションに戻るかと思ったものの、ふたたびスマホに視線を落とす。今日は十一月の第二土曜だった。

 やっべ。今日、バイトじゃん。

 ミドリは川原崎花店という花屋で週四、アルバイトをしている。水土が早番で、午前八時出勤なのだ。川原崎花店があるのは、東京でも西のはずれの鯨沼という町だった。電車だけでも三十分近くかかる。美大周辺にもファミレスやコーヒーショップ、居酒屋、回転寿司などチェーン店はいくらでもあるし、コンビニも多い。バイト先は選び放題だが、ちょっとした縁があって、二年半以上前から川原崎花店で働きだした。ちょうどアトリエを借りるのが決まり、その家賃を払うのにお金が必要というのもあった。

 アトリエには自転車に乗ってきている。最寄り駅へ急げば十五分、鯨沼駅までは電車で三十分弱、川原崎花店は駅の真ん前なので駆け足で一分とかからない。時間に余裕があれば、駅のトイレで化粧をしよう。アトリエにきたときは、いつも化粧を落としていた。そのほうが素に戻れる気がするからだ。

 写真を片付けている時間はない。忘れ物はないか、あたりを見回してから、ミドリはすっくと立ち上がる。

 俺は今日も真っ白なままか。

 F一〇〇号キャンバスが訊ねてきた。そんな気がするだけに過ぎないが、えらい圧を感じたのはたしかだった。

「今日中にはぜったい題材、決めるって」

 そう言い残し、襖を開いて廊下にでる。するとまったくおなじタイミングで、むかいの部屋の襖も開き、でてきた若い女性を見てミドリは面食らった。ワインレッドの際どい下着しか身に付けておらず、スタイルのいい身体を惜しみなく、さらけだしていたのだ。ミドリと目があう。その途端、女性が悲鳴をあげた。思いも寄らぬ展開にミドリは逃げるようにして、その場を去ることしかできなかった。

「はぁああぁ」

 いけね。

 言葉を発したのとほぼ変わらないほど、大きなため息を洩らしてしまった。隣にいた店長の外島李多とじまりたが作業の手を止め、自分を見ているのに気づく。

「すみません」ミドリは即座に詫びる。

「なんか嫌なことあった?」

 李多はあっけらかんとした口調で訊ねてきた。

 世の中すべてが嫌でたまりません。

 なんて言えない。

「いえ、なにも」

「だったらいいんだけど」

 李多は目鼻立ちがはっきりして、細面で顎が尖っている。四十歳だが皺は目立たず、肌艶もいいので、三十代前半でもじゅうぶん通じるだろう。どうして独身なのかは謎だ。バツイチでもないらしい。よほど男運がないのか、彼女の御眼鏡に適う男が世の中にいないのかはわからない。

 川原崎花店に着いたのは七時五十五分だった。まずは店前の掃除、つぎに店内にある鉢物の水やりと手入れをおこなったら、切り花が挿してある花桶をバックヤードへ何度も行き来して運びこむ。さして広い店ではないし台車を使いはする。それでもなみなみと水が入った花桶を上げ下げするのは重労働だった。把手などない単なる筒なので持ちづらくてしんどい。

 そしていまはバックヤードで、店側の壁に設置されたシンク二台を李多とふたりで使っている。ミドリが住むワンルームの倍近くあるはずなのに、商品の花が棚に並び、空の鉢や段ボール箱、吸水フォームなどに占領され、そこへ売場の花桶を入れると、ひとが動けるスペースは三畳にも満たなかった。

 うぅう、冷たっ。

 切り花をだして李多に渡したら、蛇口の水をだしっ放しにして、ブリキ製の細長い花桶をスポンジでゴシゴシと洗う。夏の暑い盛りはこうして水を使うのが気持ちよかったくらいなのに、十一月ともなると、水がえらく冷たく感じた。両腕ともに肘から指先まで冷え冷えになりながらも、体力を使うため、額には汗が滲んでくる。

 李多は切り花の茎の滑りを洗い落とし、その先をハサミで切って、切り口を新しくしていく。ふと横目で見ると、その手にはこれまで見たことのない花が握られていた。筒のカタチをした薄紫色の小さな花びらが密集し、ぜんたいがこんもりとしている。そこまではふつうなのだが、その真ん中から細長い葉っぱがひょっこりでていたのだ。

「なんですか、その花?」

「ちょんまげイチスケ」

「はい?」

「って名前のスカビオサなの。昨日、市場で仕入れてきたんだ。飛びでてる葉っぱがちょんまげっぽいでしょ」

「たしかに。でもイチスケっていうのは」

「市場の市に助太刀の助って書くんだけど、理由は私も知らないな」

 スカビオサは和名を松虫草と言う。庭では春から初夏に咲く花ではある。花屋でもその時期に取り扱うが、豊富な種類が出回りだすのは秋口からだった。もともと花首が弱くて切り花としては人気がなくて、商品価値が低い花だった。それを長崎の花農家が自ら交配して、いまでは四十種類以上にも及ぶオリジナル品種を栽培しているという。

「見た目がかわいいから仕入れたんだけどさ。花農家さんが独自に開発したっていうところもグッときちゃったんだ、私。交配した種から新しい品種ができるまでに最低でも三年はかかるだろうからね。地道な努力は報われるべきだよ」

 李多はパチンパチンとちょんまげ市助の茎を斜めに切って、ミドリが洗いおえて水を張った花桶に入れた。

「そうだ。今日、キクちゃんが遅番なんで、悪いんだけどちょんまげ市助の写真を撮って、今日のオススメとして、開店前までにSNSにアップしといてくれないかな」

「わかりました」

 キクちゃんとは君名紀久子きみなきくこのことだ。年齢は二十八歳、フリーのグラフィックデザイナーではある。でもそれだけでは食べていけないため、川原崎花店でバイトを三年以上つづけている。店のSNSは彼女の担当なのだが、休みや遅番のときはミドリが更新するのが常だった。

 つぎにダリアを手に取る。川原崎花店では今週アタマから〈ダリアフェア〉と銘打ち、さまざまなダリアを店頭に並べていた。その中でも一、二を争う人気商品で、黒蝶という品種だ。花径は十五センチ前後とやや大きく、黒と赤が混じった独特な色合いをしている。

 なにかの色に似ているなと思い、ミドリはすぐさま気づく。今朝、アトリエの廊下でばったり出会した女の子の下着の色だ。彼女がでてきたのは、おなじ油絵学科で同学年だが三浪していて、シェア仲間ではいちばん年上である爲田淳平の部屋だった。

 大家さんからはあの平屋をアトリエとして使うこと以外は禁じられていた。シェア仲間同士の恋愛は禁止、異性を連れ込むなどもってのほかだった。爲田の部屋に、モデルと称した女の子が出入りするのを何度か見かけてはいたものの、ミドリは見て見ぬ振りをしてきた。大家さんにチクるような真似はしない。だれがなにをしようが関係ないからだ。

「キクちゃんに聞いたんだけどさ」

 なに言ったんだろ、あのひと。

「十二月一月は卒業制作にかかりっきりになるんでしょ。他のことはなにもできなかった、デザイン科でそんなんだったから、油絵学科はもっと大変なはずだってキクちゃんは言うんだけど、実際のところどんな感じ?」

 川原崎花店では今月一日からクリスマスリースの予約がはじまっており、来年のお正月用に生花でつくった注連縄の販売もある。いずれも個人宅だけでなく、商店街や繁華街のお店からの注文も多い。一昨年去年とコロナ禍であるのにもかかわらず大忙しだった。ミドリは手先が器用なので、接客よりもリースや注連縄づくりに励んだ。去年などは十二月後半ともなると、車庫に臨時の作業場をつくり、一日通しでつくりつづけていたほどである。

「なんならいまからバイトをひとりかふたり、補充しようと思ってんだ。キクちゃんもデザインの仕事が増えて、週四入るのが段々キビしくなってきてるし」

「十二月から一月にかけては私もちょっと」

「やっぱそうなんだ」

「すみません」

「謝ることないよ。バイトは代わりが見つけられるけど、卒業制作はそうはいかないもの。あ、でもミドリちゃんほど仕事ができるバイトはなかなかいないからなぁ。あなたのおかげでどんだけウチの店が助かっていることか、ほんと心から感謝しているのよ」

 いくらなんでも大袈裟過ぎる。李多は褒め上手で、ひとをノセるというか、その気にさせるのがウマいのだ。わかっていてもミドリは悪い気はしない。自然と口元が緩むのが自分でもわかった。

「よっこらせっせのせ」

 掛け声とともに、ミドリはシャッターを押しあげる。

 ガラガラギギガラガラギギガラギギギガラガラッ。

 李多が店を引き継いだ際、店の中身を一部改装し、シャッターも取り替えたらしい。となると十二、三年の歳月が経つ。あちこちペンキが剥がれて錆も目立つし、開閉するときにギギギと耳障りな音がするものの、これといって支障はなかった。

 川原崎花店は十時開店だが、いつも十分から十五分前にシャッターを開き、店の前にイチオシの花を並べていく。今日はもちろんフェア中のダリアだ。見事な秋晴れで、陽に照らされたダリア達は輝きを増して見えた。

 川原崎花店はど派手なパチンコ屋と大型スーパーに挟まれた築数十年のこぢんまりとした三階建てビルの一階にある。鯨沼駅南口の真ん前で、そのあいだにバス停三つとタクシー乗り場のロータリーがあっても、こうすることで駅からでてきたひと達の目を引く。狭い間口が一・三倍くらいに見えるので、効果は絶大だ。

 店頭のガラスにはサンタクロースとトナカイが飛んでいる。数日前、紀久子がお手製の型紙の上からスノースプレーを吹きかけたのだ。

 どう、ミドリちゃん? かわいいでしょ。私の自信作なんだ。

 三十路間近なのにもかかわらず、紀久子は無邪気にはしゃいでいた。悪いひとではない。だがミドリはいまいち苦手だった。だれからも好かれるところが気に入らないのだ。そう思ってしまう自分もまた、ミドリは嫌だった。

 店の前には花の他にもだすものがある。黒板の立て看板だ。縦八十センチ横四十センチくらいで、日替わりで花にまつわる一言を、主に光代さんが書いていた。早番ならば開店前に、遅番か翌日が休みのときは前日の閉店後に書いていく。昔、高校で国語の教師をしていただけあって、李多とはまるでちがって達筆で読みやすい。一文字一文字が訴えかけてくるようでもあった。

〈友がみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ 石川啄木〉

 まったくそのとおりだよ、啄木くん。

 倍率四倍だった美大の油絵学科に現役で合格しながら、ひと月も経たないうちに恐るべき現実に気づいた。この世には自分よりも絵がうまい人間がうんざりするほど大勢いたのである。それまで世界一とさえ思っていた自分の描く絵が、ある日を境にひどく稚拙でヘタッピに見えてきてしまったほどだった。

 だからといって自分の才能に見切りをつけるわけにもいかず、よりうまく描けるようになろうと、三年生まではどんな授業にも無遅刻無欠席で、どんな課題もきちんとこなし、共同のアトリエに日々通い、ひたすら絵を描きつづけてきた。それでもまったく上達しないどころか、まわりのひと達と差が開くばかりに思えてならないのだ。卒業制作が滞っているのは、これが原因と言っていい。

 就職活動もまるでウマくいかなかった。広告代理店や映像製作、ゲーム会社、テレビや映画などのセット美術など十数社ほどをコンスタントに受け、どこか一社くらいは内定をもらえるだろうから、世の中を知るためにも社会人生活を数年送ってやってもいいと考えていたのだ。甘かった。どこも書類選考で落とされてしまった。よもやこんなカタチで世の中から門前払いを食らうとは思ってもみなかった。

 啄木くんはまだいいさ。花を買って家に帰れば、奥さんがいるんだもんな。私なんかひとりぼっちだぜ。世の中すべてが嫌でたまらない。

 おっと、そうだ。

 立て看板を表にだしてから、ちょんまげ市助を撮影しようとスマホをだす。

「げっ」

「どうした、ミドリちゃん?」

 カウンターのむこうから李多が声をかけてきた。

「なんでもないです」

 爲田淳平からLINEが何通も届いていたのだ。下着姿の女についてにちがいない。だがいまは相手をしている時間がないのでスルーだ。

 花の写真だけでは味気ない。紀久子はたいがい花言葉に絡めたコメントを書きこんでいた。ミドリもそれに倣い、スカビオサの花言葉を検索してみる。

 あかん。

 思わずエセ関西弁を洩らしてしまう。〈悲哀の心〉だの〈恵まれぬ恋〉だの〈失恋の痛手〉だのネガティブなものばかりだったのだ。これはあかん。〈私はすべてを失った〉なんて花言葉の花を買う気にはなるまい。それでもどうにかポジティブな言葉を見つけ、ちょんまげ市助の写真に添えて、SNSにアップした。

「おはようございますっ」

 開店十分前なのに、店に飛びこむように入ってきたのは蘭くんだった。ミドリがバイトをはじめる前からの常連客である。小学三年生でありながら、花に関する知識は豊富というか膨大だった。川原崎花店の従業員四人はだれも太刀打ちできないほどだ。三日にあげずに川原崎花店に姿を見せ、短くても小一時間、長いと三時間近くは手伝っていく。土日や祝日など学校が休みのときは、開店前に訪れることが多い。

 カウンターのうしろの壁には、平べったくしたもみの枝に飾り付けがされたクリスマスツリーが吊るされている。これも今月アタマに紀久子が蘭くんの協力のもと、取り付けたものだった。

「ぼくができること、なにかありますか」

「フラワーブレイクの箱詰めしてくれないかしら」早速、訊ねてきた蘭くんに、李多はにこやかに答えた。「ぜんぶで七箱なんだけど」

 フラワーブレイクとは月二回で月額千五百円(税別)、花のチョイスは店に任せてもらい、平べったい箱に入れ、ポストに投函する川原崎花店の定期便サービスだ。昼二時に出勤してくる紀久子が、電気三輪自動車で配達にいく。ミドリは自動車免許を持っていなかった。

「入れる花は決まっていますか」

「主役はミッチャンで葉物はキイチゴ」と李多。

 ミッチャンとはダリアの品種だ。濃いめのピンクで、日持ちがいい。黒蝶とおなじ一軍女子でも、あちらがパリピならば、こちらはギャルっぽい。キイチゴは種名を梶苺カジイチゴ、葉っぱが赤ちゃんの手のひらみたいなカタチなのでベビーハンズとも呼ばれている。

 李多の祖父母の代からの顧客に華道の先生がいて、生け花に使う花材の注文をちょくちょくしてくる。キイチゴはそのうちのひとつだ。初夏の頃だと葉っぱは青々としているが、十月あたりから、赤く色づいたものが出回りだす。先週、華道の先生からの注文があったのだが、そのときフラワーブレイクに使おうと考え、少し多めに入荷しておいたのだろう。

 カウンター横にある作業台にはすでにミッチャンとキイチゴが置いてある。ミドリが店頭にダリアを並べているあいだ、李多がバックヤードから運んできたにちがいない。

「あと一本、花を入れるとしたらなにがいいかな。蘭くん、考えてくれない?」

「わかりました」

 そう答える蘭くんは川原崎花店のスタッフとおなじ、大小いくつものポケットがついた鶯色のエプロンを身に付けていた。去年の夏休み、李多がプレゼントしたのである。

「配達は午後だからじゅうぶん時間はあるわ。蘭くんは今日、どのくらいまでいられるの? 土曜の午後は水泳教室だっけ?」

「バグパイプです」

 蘭くんがバグパイプを習いだしたのは、今年の四月だ。母親がピアノを習わせようと、鯨沼駅から三つ先の駅にある音楽教室へ連れていったところ、他にもさまざまな楽器の教室があり、たまたまスタジオでおこなわれていたバグパイプの演奏会を見て、蘭くんはこれを習いたいと言いだしたそうだ。ピアノよりもおもしろそうというのが理由らしい。

「ちょっといいですか」と李多に断ってから、蘭くんは作業台にあるミッチャンとキイチゴを一本ずつ、手に取った。「なかなかゼツミョーなくみあわせですねぇ。ここにあと一本たすとなると、そうだなぁ」

 絶妙なんて言葉、私が小学三年のときには使ってなかったよな。

 とうの蘭くんは右手にミッチャンとキイチゴを持ったまま、店内に並んだ花を端から見ていく。小学三年生らしからぬ神妙な面持ちの彼を見て、ミドリは笑いだしそうになるのをぐっと堪えた。

「ミドリちゃんはバラの花束、つくってくんない?」

「わかりました」

 今月二十二日はいい夫婦の日だ。そのプレゼント用として川原崎花店では十二本のバラの花束の販売および注文をはじめていた。そのために李多は今朝、花卉市場からけっこうな量のバラを入荷してきている。まだバックヤードに置いたままなので、ミドリが取りにいくことにした。

 昔のヨーロッパでは男性がプロポーズをする際、十二本のバラを摘んで、意中の女性に贈っていたそうだ。十二本のバラには一本ずつ感謝、誠実、幸福、信頼、希望、愛情、情熱、真実、尊敬、栄光、努力、永遠といった意味があり、このすべてをあなたに誓いますということらしい。ネットの情報なのでどこまで事実かはわからない。李多としては花の販売促進のためならば、ちょっとでも贈る理由があったほうがいいのだ。

 十二本のバラの花束には〈GOOD COUPLE DAY〉という金の箔押しがされた赤いハートのカードを紐で掛ける。一言メッセージを書き込めるスペースもあった。これは紀久子の仕事だ。この他にも店名のロゴマークやショップカード、包装紙、フラワーブレイクの箱などのデザインも彼女の手によるものだった。デザイナーとしての腕前はけっして悪くない。ミドリの好みでもあった。

「ちがうかぁ」

 李多と並んでミドリがバラの花束をつくりだしてからもまだ、蘭くんは悩んでいた。ミッチャンとキイチゴに槍のごとく先が尖ったカタチの鶏頭を加えたのを見て、首を傾げている。赤、オレンジ、ピンクと色を変えたものの、納得がいかないようだった。

 遠くからキンコンカンコンと鐘の音が聞こえてきた。近くの商店街の入口に門があって、その真ん中に時計が付いており、日中は一時間毎にクジラの背中からシオを吹きだしながら鐘を鳴らすのだ。午前十時、川原崎花店開店の時間である。

「おはようございますっ」

 鐘の音の余韻があるうちに入ってきたのは、馬淵千尋まぶちちひろだった。中学まで地元の女子野球チーム、キラキラヶ丘サンシャインズに所属していた彼女は、高校でも野球をつづけるために、女子の硬式野球部がある入鹿女子高に進学した。二年生のいまはキャプテンを務めており、キャッチャーで四番打者だった。高校は都内だが神奈川寄りにあって、鯨沼からだと一時間以上かかる。制服ではなくユニフォームで通学することが多い。土曜なのに、今日もそうだった。

「いまから部活?」と李多が訊ねる。彼女はレジ横にあるノートパソコンのキーボードを忙しく打っていた。

「はい。明日、大学の女子野球チームとの練習試合がありますからね」

 相手チームの大学にあるグラウンドで、明日午前十時にプレイボールだ。どうしてそれをミドリが知っているかと言えば応援にいくからだ。日曜は遅番なので、朝からの試合ならばじゅうぶん間にあう。

 女子の高校野球にも男子とおなじく春夏の大会があるのをミドリが知ったのは、千尋が入鹿女子高校に通いだしてからだ。準決勝まで春は埼玉、夏は兵庫の複数の球場で試合がおこなわれる。そして決勝戦の舞台は春が東京ドーム、夏が甲子園なのだ。入鹿女子高校の硬式野球部は千尋が入部してはじめての夏にベスト8、今年の春夏はともにベスト4まで勝ち進んでいた。

 ミドリはまるでスポーツに興味がなく、一度もスポーツ観戦をしたことがなかった。ところが今年の三月末、李多に誘われ、彼女のミニバンで埼玉の球場まで、入鹿女子高校の準決勝戦にでかけた。紀久子に光代さんもいっしょだった。正直、まるで乗り気ではなかったのだが、他に用事がなく、断るのも面倒なので、ついていくことにした。ところが試合を見ているうちに、身体が熱くなっていき、気づいたらだれよりも大きな声で声援を送っていた。接戦の末、入鹿女子高校が一点差で敗れる瞬間、その場に泣き崩れてしまった。

 それからというもの、入鹿女子高校硬式野球部のファンとなり、夏には千尋の祖母の付き添いとして兵庫に乗りこみ、入鹿女子高の試合をぜんぶ観戦しており、いつの間にか部員全員のフルネームとポジション、プレイスタイルまでインプットしていた。さすがに我ながらキショいので、このことは千尋をはじめ、だれにも言っていない。

 秋に入るとオフシーズンなので公式戦はないが、都内および近郊にある高校の女子硬式野球部や中学生の男子硬式野球チームを相手に練習試合を半月に一度のペースでおこなっていた。九月から今回で五試合目、ミドリはいままで二試合、足を運んでいる。ほとんど推し活だ。

 どうしてここまで入鹿女子高校硬式野球部に、魅せられたのか、自分でもよくわからない。そこにはミドリの知らない青春があった。彼女達の瞬発力があって、キレのある動作に心を揺さぶられたのはたしかだった。これぞ生きている証だと思ったのである。

「蘭くんはなにしてんの?」

「フラワーブレイクの花をあと一本、考えてもらっているのよ」

 千尋の問いに李多が答えた。ノートパソコンのキーボードを打ちながらだ。とうの蘭くんは花に視線をむけたまま、眉間に皺を寄せていた。

「千尋さんこそ今日はなぁに?」と李多。「部室に飾る花を買いにきたの?」

 野球部の部室があまりに殺風景だからと、半月に一回のペースで、花束を買っていくことがあるのだ。

「すみません、今日は買いにきたんじゃなくて、市民ホールのエントランスに飾る生け花のことで」

 千尋は野球に打ちこむかたわら、華道の先生である祖母、馬淵十重に生け花を教わってもいる。なんだったら将来、祖母のあとを継いでもいい、野球と生け花の二刀流ってかっこよくありません? と話すのをミドリは何度となく聞いていた。

 市民ホールのエントランスに、市内の生け花教室の先生や生徒さんが半月に一度、持ちまわりで生け花を飾っている。馬淵先生もそのうちのひとりなのだが、今度の勤労感謝の日、祖母に代わって千尋が生けることになったのだ。

 五日前には自分の好みの花材が入荷できるか、相談するためにここを訪れている。ただし李多は生花店の協同組合の勉強会で不在だったため、ミドリが花材をメモっておいた。翌日には李多が確認し、どの花材も入荷が可能であることを、千尋のLINEに送っていた。その注文にきたのかと思いきや、そうではなかった。

「あのあとおばあさんに話したら、ユリやバラをメインに持ってくるとはどういうつもりだ、若いくせして無難でまとまり過ぎている、もっとはっちゃけなさいって、叱られちゃったんです。なので花を見ながら、新たに考えなおそうかと思いまして」

 あらま。

 馬淵先生は基本、孫娘にはアマアマだった。しかし華道のこととなると厳しくなるようだ。

「これだ、これっ」

 蘭くんが鼻息を荒くして言う。その手にミッチャンとキイチゴの他にもう一本、握られている。

「なに、それ」千尋が蘭くんに近づく。「はじめて見たよ。なんて花?」

「ちょんまげ市助」と蘭くん。

「マジで?」

「マジよ」千尋の問いに、ふたたび李多が答える。ノートパソコンはどうやら打ちおえたようだ。「スカビオサの改良種で、昨日、仕入れてきたの。ミッチャンとちょんまげ市助なんて、愉快そうなコンビでいいんじゃない。今回のフラワーブレイクはそれでいきましょ」

〈●アルバイト募集 私達といっしょにお花の販売をしてみませんか?●時給一二〇〇円(交通費支給)●勤務時間・早番午前八時〜午後四時 遅番午後二時〜午後十時 週三回〜 ※勤務日数や時間など気軽にご相談ください。●配達作業があるので、車の免許は必須となります。●老若男女問いません。未経験者でも、明るく前向きに仕事できる方ならば大歓迎!●ご興味のある方は090-××××-××××、あるいは当店SNSのDMにご連絡ください。店内のスタッフにお声がけくださってもかまいません。川原崎花店店長 外島〉

 李多がノートパソコンで打っていたのは、この文面だった。フリー素材のテンプレートを使っており、色付きで読みやすく仕上がっている。二十枚ほどプリントアウトして、李多はレジ脇に置いた。

 ミドリは十二本のバラの花束を十五セット完成させ、店に並べ、誕生日祝いのブーケに取りかかっていた。白のトルコキキョウと淡いピンクのネリネ、少し緑がかった白のミニバラ、そしてユーカリを左手の親指と人差し指でつくった輪っかに一本ずつ茎を重ねあわせるようにして束ねていく。

 千尋は三十分ほどいたが、結局、市民ホールに飾る生け花の花材は決められず、学校へでかけていった。蘭くんはフラワーブレイク七箱を詰めおえ、いまは李多とふたりで、SDGsブーケをつくっている。廃棄寸前の花を十本ほど寄せ集め、茎を短くして束ねたものだ。あまり日持ちはしませんと但し書きをしたうえで、税込み五百円で売っていた。身長百二十五センチの蘭くんは、三十センチの踏み台に乗っているため、視線の高さはミドリとほぼ変わらない。

「いらっしゃいませぇ」

 蘭くんが言った。妙齢の御婦人が店内に入ってきたのだ。

「このお花、いただきたいんですけど」

 御婦人から李多がダリアを三本、受け取る。いずれも丸くて愛らしいカタチで、色は透明感のあるパステルピンク、品種名はオズの魔法使いという。珍しい名前のせいか売行きがいい。

「ぼくがラッピングしますよ」

「お願いできる?」

 李多が蘭くんにオズの魔法使いを渡すのを見て、御婦人が「え?」と微かだがはっきりと聞こえる声を洩らす。不安そうとまでいかずとも、訝しげな顔つきになっている。こんな子どもにやらせて平気なの? と思っているのだろう。

「どうぞご安心ください」李多が満面の笑みを浮かべて言う。「彼、幼稚園の頃からの常連客なのですが、好きが高じて一年半以上、ほぼ毎日ここにきて手伝っているんですよ」

「オトナになったら、花のハカセになりたいので、いまからここで花についてベンキョーしているんです」蘭くんはオズの魔法使いの余分な葉っぱを取りだす。「こちらの花はごじたく用ですか、それともプレゼント?」

「キッチンに飾ろうと思って」御婦人はひとまず答えたが、訝しそうな顔のままだった。「どのくらいの長さにお切りしましょうか」

「ウチの花瓶、二十センチくらいなんだけど」

「でしたら」蘭くんはハサミを持って茎に当てる。「これくらいでいかがです?」

「それでいいわ」

 蘭くんは茎をパチンパチンと三本とも切った。そしてラフィアで縛って作業台にそっと寝かせると、保水のために濡れたキッチンペーパーを茎の先に巻き付け、水が漏れてこないようにアルミホイルで包む。ここまでが下準備だ。つづけてロール状のセロファンを作業台に広げ、オズの魔法使いの長さにあわせ、縦横四十センチくらいの大きさに切った。

「できれば毎日、少しずつクキの先をカットしてください。クキが短ければ花が水を吸い上げやすくなるので日持ちします。オシマイのほうはクキをぜんぶ切って、花首だけのこして、水にうかべるのもイイと思います」

 そう話しながら、蘭くんは一瞬の迷いもなく、丁寧に作業をこなしていく。御婦人の表情はだいぶ変わっていた。呆気に取られつつも、感心しているようだ。

 似たような反応をした客は、これまでも大勢いた。そんなひと達を見て、いつも李多はニヤついている。いまもそうだ。あまりイイ趣味とは言えないが、ミドリも頬が緩んでいた。

「おはようございますっ」

 オズの魔法使いをお買い上げいただいた御婦人と入れ替わりに入ってきたのはパートの光代さんだ。なぜか両手にパンパンに膨らんだエコバッグを持っていた。

「どうしたの、光代さん。今日はお休みだよね?」と蘭くん。

「李多さんにお願いがあって」

「私に? なんです?」

「ウチのお隣さんが近所に畑を借りて、野菜をつくってて、よくお裾分けしてもらうのね。で、今回は白菜を四株もいただいちゃって。漬ける前に天日干ししたいんだけど、また屋上貸してもらえない?」

 三階建てのこの小っちゃなビルは李多の持ちビルで、二階は囲碁倶楽部に貸して、三階は李多ひとりの住まいだった。屋上も出入りができて、李多が洗濯物や布団を干したり、ビーチチェアとパラソルを運びだし、青空の下で昼寝をしたりすることもあった。

 四ヶ月ほど前にも、梅干しにする梅をここの屋上で干したことがあるので、光代さんは「また」と言ったのだろう。

「いいですよ」即答すると李多はレジ下の棚から鍵をだした。屋上のドアのだろう。そして売場へでていく。「いっしょにいきます」

「悪いわね、仕事中に」

「かまいません。バッグ、ひとつ持ちましょう」

「助かるわぁ」光代さんは李多に左手のエコバッグを渡す。

「あ、そうだこれ」李多はバイト募集の紙を一枚、蘭くんに渡す。「出入口の脇んとこのガラスに貼っといてくんないかな?」

「おまつりのお知らせとか、キラキラヶ丘サンシャインズのメンバーぼしゅうとかのチラシをはってたとこと、おんなじとこですか」

「そうそう。よろしくね」

 光代さんと李多はふたりしてバックヤードへ入っていく。その裏口がビルぜんたいの玄関口に通じていて、屋上までの階段があるのだ。蘭くんはカウンター裏の棚からテープを取りだすと、店の出入口まで踏み台を運んだ。もちろんバイト募集の紙を言われた場所に貼るためだ。

 ミドリは誕生日祝いのブーケの花と葉物をすべて束ねおえた。バランスを整え、ラフィアで縛る。ラフィアヤシの葉の繊維でできた紐で、霧吹きで湿らすと、麻紐よりもしっかり結べた。

「当店ではいま、ダリアフェアでして、ここにある花はすべてダリアなんですよ」

 蘭くんが言うのが聞こえた。バイト募集の紙を貼りおえた彼は、踏み台に立ったままで、表にいる客に話しかけていた。

 あれってまさか。

 サンタクロースとトナカイが邪魔で、はっきりと顔が見えない。それでも姿恰好でミドリにはだれだかわかった。

 爲田淳平だ。

「これだけのダリアをそろえている店はそうありませんよ。必ずやお好きなダリアが」

「あ、いや、俺は」

「買う花をきめていらっしゃるんですか」

「花を買いにきたんじゃないんだ」

「多肉植物をおもとめで?」

「でもなくて」

「そっか。バイトがしたいんですね。いま店長をよんできますので、少々お待ちください」

 そう言い残すと、蘭くんは店を走り抜け、バックヤードに入っていく。呼び止めようにもまるで間に合わなかった。小学三年生ながら頭の回転は早いが、そのぶん早とちりも多いのが彼の欠点だ。

「よぉう」

 爲田が右手を軽くあげ、店に入ってきた。気障ったらしいことこのうえない。そういうのが女子ウケすると思っているのだろう。他の女子はどうか知らないが、ミドリにはウケるどころかウザかった。

「どうしてここがわかったの?」

「電話はでないわ、LINEは未読だわで連絡とれなかったからよぉ。前に鯨沼駅前の花屋でバイトをしてるって言ってたのを思いだして」

 私生活について他人に話さないよう注意していたのだが、なにかの拍子でうっかりしゃべっていたらしい。

「今朝は悪かった。すまん。謝る」

 下着姿の女のことにちがいない。

「気にしないで。大家さんにチクったりしないから」

「ショックだったろ、おまえ」

 話が微妙に噛み合っていない。

 ショック? 私が? なんで?

「でも安心してくれ。このあいだの女とは今日かぎりだ。つきあっているわけじゃない」

 だからどうした?

「おまえの気持ち、薄々気づいてはいたんだ。だけどどうしても受け止めてやる自信が俺になくてな」

 なおも長い前髪をいじりながら、爲田は意味不明な言葉を吐きつづけている。

「私の気持ちってなによ」

「俺のことを好きだって以外なんかあるか」

 はぁあぁああぁ?

「俺が女を連れこんでいたのがショックだったんだろ。わかってるって」

 なんにもわかっちゃねぇよ、おめえは。

「あんたなんか好きなわけないでしょ」

「強がりを言うのはよせって。もっと自分に素直になったほうが楽だぞ」

 ふざけたこと抜かしやがって。

 カッとなったミドリは、作業台の下にあるディスプレイ用の真っ赤なガラス製の花瓶を手に取っていた。そのときだ。

「やだ、蘭くん、ちがってたわ」バックヤードから李多があらわれた。「バイトの応募じゃなくて、ミドリちゃんの友達みたいよ」

「友達じゃありません」ミドリはきっぱりと否定し、花瓶を作業台の上に置く。「おなじ美大で、おなじ油絵学科ってだけです」

「共同でアトリエも借りています」と爲田は付け加えたあとに名乗った。

「おにいさんはミドリさんに会いにきたの?」

「私がどんなところでバイトしてるか、見たかったんだって」

 ミドリは刺々しく言う。その真意がわからないのだろう、蘭くんは目をぱちくりさせていた。

「せっかくここまできたんだから花、買ってってよ。アトリエの玄関口にでも飾ってくんない?」

「そ、そうだな。それじゃあダリアを買っていくとするか」

「でしたらどうぞこちらへ」と蘭くんが嬉々として爲田を誘う。

「危機一髪だったわね」李多がミドリの隣に立ち、話しかけてきた。「その花瓶、彼に投げつけようとしたでしょ」

 おっしゃるとおりだ。危機一髪だったのは爲田である。

「昔、開店祝いにもらったものなんだけど、バカラだからたぶん十万円はくだらないはず」

 そんなに?

「すみません」

「謝る必要はないわ。花瓶は無事だったんだから。それにミドリちゃんの気持ちもわからないではないし」

 李多も男にモノを投げつけようとした、あるいは投げつけたことがあるのだろうか。

 蘭くんに導かれ、爲田が店内に戻ってきた。その手にあるダリアは黒蝶だった。

 やっぱりな。

「フレェエエェッ、フレェエェエッ、イッルッカッ。ゆけゆけイルカッ。がんばれがんばれイルカッ」

 坊主頭の少年が声を張り上げて応援している。千尋の中学時代の友達、宇田川だ。鯨沼商店街にあるボクシングジムに通う彼は、川原崎花店の常連客でもあった。ジムに所属する選手や練習生の試合の際、渡すための花束を買いにくるのが、彼の役目なのだ。

「ゆけゆけイルカッ、がんばれがんばれイルカッ」

 ミドリもいっしょに声をあげる。隣に座る千尋の母、百花もだ。名前に花が付いていながら、馬淵先生のあとを継がず、カキツバタ文具という文具メーカーで働いている。今年の春には営業部の部長に昇進したデキる女なのだ。ただしバツイチで、二、三年前に結婚詐欺に引っかかりそうになったという。酔っ払う度に本人がだれかれとなく話すのだ。ミドリもこれまで三回は聞いている。

 昨日とおなじく、十一月第二日曜の今日も快晴に恵まれている。神奈川県川崎市にある大学のグラウンドだ。その大学の女子硬式野球部と、我らが入鹿女子高校硬式野球部の熱戦がいままさに繰り広げられていた。

 ミドリが通う美大とはまるでちがい、キャンパス自体が広大で、正門からグラウンドまで辿り着くのに徒歩で十分近くかかったほどである。バックネット裏から内野席にかけて四段のベンチシートが設けられており、手動式だがスコアボードまであった。一回裏、大学チーム側に「1」があるだけで、六回まで「0」が並んでいる。いまから七回表、入鹿女子高校の攻撃だ。女子野球は七イニング制のため、ここで一点でも取らねば負けてしまう。

 練習試合なのにもかかわらず、一塁側のベンチシートには、百人は下らないひと達が大学チームの応援に駆けつけていた。なにしろ応援団にチアリーダー、ブラバンまで揃っており、終始賑やかだった。

 翻って三塁側、入鹿女子高の応援はその三分の一ほどで、寂しいものだった。すると負けてなるものかとばかりに、宇田川が立ち上がって、応援団よろしくエールをはじめたのである。それを皮切りにこちらの応援席も盛り上がり、口々に声援を送るようになった。

「まだまだいけるわよぉ」「気合いだ、気合いぃ」「自分を信じてぇ」「練習の成果だせばだいじょうぶだからねぇ」「こっからが本番だぞぉ」

 七回表、最初の打者は三番レフト、中野留美だ。生真面目な性格の彼女は、遠目でもわかるほど緊張した顔つきになっていた。見ているだけで息が詰まりそうになる。すると初球からバットを振った。これが見事に捉え、ボールはまっすぐ伸びていき、センターの頭を越えていった。

「いけいけいけいけいけぇ」

 自分自身気づかぬうちに、ミドリはそう叫んでいた。中野留美は五十メートル七秒を切る俊足なのだ。その能力を遺憾なく発揮し、一塁から二塁と走り抜けていき、さらに三塁を目指す。相手チームのセンターがようやくボールを拾い、サードへ投げる。サードが三塁ベースの端に右足の爪先をつけたまま、グローブを填めた左手を伸ばし、センターからの送球を逃すまいとする。中野留美は三塁へ直進し、滑りこんでいく。サードがボールを取った。一瞬、グラウンドが静まり返る。

「セェェエェフッ」

 三塁の塁審が両腕を地面と平行に広げる。と同時に入鹿女子高の観客席が歓声に沸く。

 つぎの打者は千尋だ。みんなの期待が高まる。百花がカメラを構えた。娘の勇姿を撮影するのに購入した、手のひらサイズの超望遠だ。馬淵先生は華道教室があってきていない。そんな母親に見せるためでもあった。

「カットバセェェエ、まぁぶうちっ」

 これまで以上に宇田川の応援は力が入っている。

 千尋がバッターボックスに立つ。陽射しの加減か、ミドリの席からは彼女が輝いているように見えた。

 あっ。

 まるで昨日の朝に見た夢だ。真っ白な彼女はだれあろう、千尋だったのか。そしてちょんまげ市助の写真に添えて、SNSにアップしたスカビオサの花言葉がミドリの頭をよぎっていく。

 描こう。

 卒業制作の素材が決まった。

 F一〇〇号のキャンバスに等身大の千尋を描く。

 ピッチャーが大きく振りかぶって一球目を投げる。千尋はボールから目を離さず、やがて腰を捻って、肩を動かし、腕でバットを振った。

 カキィィィンッ。

 球音がグラウンドに響き渡る。 スカビオサの花言葉は魅力。

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