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花屋さんが言うことには

Ⅰ 泰山木



 土曜の夜中、ファミレスに呼びだされた。
 相手は男だ。とは言ってもロマンチックな話ではない。四十代なかばの冴えないオジサンなのだ。
 君名紀久子きみなきくこのスマホに電話があったのは、三十分ほど前だ。会って話がしたいと言われ、断ろうとした。でもできなかった。最寄り駅にいると言うのだ。
 いまからきみのアパートにいってもいいかな。
 いいはずがない。やむなく紀久子は駅近くのファミレスを指定した。十時半までには必ずいきますので、と念を押し、慌てて外出着に着替え、さすがにスッピンはどうかと思い、軽く化粧もした。
 六月アタマで、夜でも長袖シャツにパーカを重ねれば、じゅうぶん凌げた。ファミレスまでの数分間、自転車を漕いだので、汗がにじんだくらいだ。
 ファミレスの前まで辿り着くと、呼びだしたオジサンが窓際に座っているのが見えた。彼も自転車に乗る紀久子に気づき、「よっ」という感じで手をあげた。会社でもおなじように挨拶をする。勤め先の上司で、第二営業部営業課第三チームリーダー補佐だ。紀久子は胸の内で補佐と呼んでいた。
 気が重い。できれば引き返したいところだが、ウチに押しかけてきても困る。パーキングの端っこにある駐輪場に自転車を置き、ファミレスに入った。
「遅くに悪いね」紀久子が席に着くと、補佐が申し訳なさそうに言う。「なにか食べる?」
「私はドリンクバーだけで」
「そう? 俺、夕飯がまだだったんで、お腹減っちゃってさ。鯖煮さばに定食頼んじゃったんだ」
 十時半で夕飯がまだなのか。いや、それよりも。
「休日出勤ですか」
「え? ああ、そっか。今日は土曜だもんな」
 わざとらしい物言いだ。
「忙しいみたいですね」
「そりゃ忙しいさ。きみが会社にこないんだもん」
 すみませんと危うく詫びそうになった。私はなにも悪くないと紀久子は自分に言い聞かせる。
「このあと会社、戻らなきゃならないし」
「家には帰らないんですか」
「帰っても寝るだけだからなぁ」
「奥さんになんか言われません?」
「俺がいないのがフツーだからなぁ。たまに帰ると五歳の子が、おかえりなさいじゃなくて、いらっしゃいませって言うんだぜ、はは。ウケるでしょ」
 全然ウケない。
「私に話というのは」
「鯖煮定食を食べてからでいい? きみもドリンクとってきなよ」
 どんな話なのかはわかっていた。会社に戻ってこいというのだ。もちろん紀久子はきっぱり断るつもりである。それにしてもしぶとい。
 十日前、社長宛に退職願いを送った。社員証と会社から支給された携帯電話もである。その日から紀久子は出社していない。すると私物のスマホにメールが山のように届き、電話もひっきりなしにかかってきた。すべて会社からだった。電源を切り、夜中にだけ確認するようにした。メールと電話は日を追う毎に減っていき、一週間もするとぱたりと止んだ。いい加減あきらめたのだろうと油断していたのがまずかった。
 さきほどかかってきた電話は、080からはじまる電話番号で、だれだろうと思ってでたら、補佐だったのである。自分の携帯電話でかけているんだと、電話のむこうでうれしそうに言われ、紀久子はうんざりした。
 ドリンクバーでプラスチックのコップに烏龍茶を注いでいると、新しい客が入ってきた。三十代前半と思しき女性で、郊外のファミレスにはあまりにそぐわないドレスアップした格好だった。なによりも目を引いたのは頭に載せた花だ。アップした髪に、白くて大きな花をあしらった髪飾りが付いていたのである。
 あれってなんの花だっけ。
 紀久子は名前に「キク」が含まれているが、花にはさして興味はない。それでもキレイな花があれば、足を止めて眺めるくらいはする。
 遠目から見ても、女性の顔がうっすらと赤いのがわかった。黒のレースをふんだんにあしらった華やかなドレスで、肩に小さなバッグを提げ、手には白くて大きな紙袋を持っている。スタッフに案内されて歩きだしたが、いまいち足取りが心許ない。彼女は紀久子達の隣のテーブルに腰をおろし、案内したスタッフに、「グラスワインちょうだい」とオーダーした。
 烏龍茶を持って席に戻る途中、紀久子はさりげなく女性を横目で窺った。その視線に気づいたらしく、彼女は微笑みかけてきた。紀久子は軽く頭を下げる。
 私を知ってる?
 そんなはずがない。十八歳の春、美大に通うために上京して六年以上、東京の西端にある鯨沼くじらぬまというこの町で暮らしている。ずっとおなじアパートで、今年の三月にはさらに二年、契約を更新した。ただし美大は地理的に東京の真ん中あたりで、電車とバスを乗り継ぎ、三十分はかかる場所だった。学生時代は美大近くのコーヒーショップでアルバイトをしていたし、やめた会社は都心だったので、六年間住んだこの町に友達どころか知りあいもいない。駅前のスーパーや帰り道のコンビニにいくことはあっても、いきつけの店などもなかった。
 いや、でも。
 女性をどこかで見かけたおぼえがあった。席に着いてからも思いだせない。補佐の肩越しに見える、彼女の頭に飾られた花の名前もわからないままだ。
「おっと、そうだ」補佐が箸を置き、背広の内ポケットからなにやら取りだした。「これ、忘れないうちに返しておくね」
 紀久子が書いた退職願いだった。
「返すってどういうことですか」
「やめちゃ困るってことだよ」
「私はやめたいんです」
「どうして?」
「定時にはぜったい帰れない、なのにどれだけ残業をしても手当がでない、土日は必ずどちらか、あるいはどちらも出勤しなければならない、でも有給休暇はとれない、ノルマのためにやたら自社製品を自腹で買わされる、商談や営業ででかけたときの交通費も自腹、社内でトイレへいくときは上司の許可が必要、仕事のあいだに飲み物をとるのは禁止」
 あげていけばキリがないが、紀久子は息が切れてしまい、口を閉じた。すると補佐がこう言った。
「だから?」
「だからやめたいんです」
「駄目だよ、そんなの。だってそうだろ。いま、きみが言ったこと、会社のだれもが文句を言わずやっているんだよ。もちろん俺もだ。みんなができて、どうしてできない? それはきみ、ワガママっていうものだ。だいたい美大卒なんて、社会にとってなんの役にも立たないきみを、雇ってあげたんだぞ、我が社は。たて突くような真似をするとはどういうことだ?」
 美大卒をネタに、からかわれたり嫌みを言われたりはしょっちゅうあった。だがここでおとなしく引き下がるわけにはいかない。
「私、ネットで調べたんです。各都道府県では、最低時給額が決まっています。ウチの会社の場合、あきらかに都のその額を大きく下回っているんです」
「これだから若い子は困る」補佐は鯖煮定食を食べながら、肩をすくめた。「すぐネットの情報を吞みにするからな。満足に仕事もできないきみが、人並みにお金をもらえるはずないだろ」
「でも労働基準法では」
「ウチの会社、そういうのは無視しているんだ」
 紀久子は我が耳を疑った。
「無視しているって、国が決めたことですよ」
「国が決めたことが甘すぎて、そんなんじゃ会社の利益がでないというのが社長の方針なんだ。バブル以降、日本が不況に喘いでいるのは労働基準法があるからだともおっしゃっていた」
 そんな会社に二年もいたかと思うと、紀久子は背筋が凍った。やはりやめるべきだ。
「やめるとしたら、それだけ会社に損害を与えることになる」補佐が言った。鯖煮定食を食べおえ、食器を脇に置き、身を乗りだしてきた。「いまでさえ無断欠勤のせいで、仕事に支障を来しているからね。事実、俺の仕事量は増えたうえに、忙しい合間を抜け、きみと会って職場に復帰するよう説得している。とんだ時間の無駄遣いだ。社長はきみがやめたら損害賠償請求をすると言いだしているんだ。少なくともいままで働いたぶんのお金を返してもらわねば割があわないと」
「そんなの困ります」
「困るよね。だから社長に交渉したんだよ。週明けには出社するように説得しますので、許してあげてくださいってね。きみは我がチームにはなくてはならない存在だからさ。それだけではない」補佐は声をひそめた。「前にも話したろ。俺はきみに個人的に好意を持っている。きみのためなら、なんでもしてあげたいんだ」
 紀久子は総毛立つ。補佐には何度も言い寄られ、外回りの最中や吞み会の席で、ラブホに誘われたこともあった。もちろんこれも会社をやめる理由のひとつだ。
 なにがきみのためだ。おまえの性欲のためだろうが。
 言い返そうにも息があがり、胸がしめつけられるように苦しくなった。額に汗がにじみでてくる。会社に通っているときもほぼ毎日、おなじ症状に見舞われた。十日前の朝には目覚めたとき苦しくて耐えきれず、とても出社できる状態ではなかった。このままでは死んでしまうと、息も絶え絶えで退職願いを書き、発送したのだ。
「キモッ」
 補佐のうしろから声がしたかと思うと、花の髪飾りの女性が立ちあがった。さらにはグラスワインを片手に持って、紀久子の隣に腰をおろす。
「だ、だれだ」
「だれでもいいだろ」
「きみの知りあいか」
「友達だよ」
 補佐の問いに女性が答え、紀久子の肩に左腕をまわしてきた。化粧や酒の匂いに混じって、甘い香りが漂ってくる。花の匂いにちがいない。
「会社のエロ親父に呼びだされたって連絡があったから、こうして馳せ参じたの」女性はワインを一気に吞み干した。そしてグラスを置き、紀久子の肩から左腕を外して、ぐいと伸ばし、呼びだしボタンを力任せに押す。「この子に会社の話を聞いたときは、いくらなんでも、そこまでブラックじゃないでしょとは思ってたんだけどさ。ブラックもブラック、まっくろくろすけでビックリだよ。あんまりビックリしたんで、途中からスマホで録音までしちゃった。ブラックなうえにセクハラじゃあ、この子も会社をやめるのは当然だよね」
 ごくりと補佐がツバをのむ音が聞こえた。
「キクちゃん」名前を、それもちゃん付けで呼ばれ、紀久子は面食らう。「タカハシ弁護士、知ってるでしょ」
 知るはずがない。だが紀久子はコクリとうなずいた。
「いま録音したのを彼に聞いてもらおっか」
「どうしてだ」補佐がいきりたつ。
「どうしてでしょうねぇ」女性はにやにや笑う。そして運ばれたグラスワインを受け取り、一口吞んでから話をつづけた。「なんにせよキクちゃんはもう会社をやめたの。損害賠償請求なんてしようものなら、こっちだってでるとこでてやるわ」
 女性がはったと睨むと、補佐はごくりと唾を飲みこみ、何も言えずにいた。身体が震えてもいる。
「まだなんかある?」
「い、いや」補佐は腰を浮かせた。
「これ、持ってって」
 紀久子の退職願いだ。テーブルに置きっ放しだったのを手にして、女性が補佐に突きだす。彼は中腰のままで受け取ると、元のポケットに入れた。
「あとこれも」女性は伝票二枚をヒラヒラさせる。
「ど、どうしてあなたのぶんも払わなきゃならない?」
「そりゃそっか。はは。じゃあ、こっちの伝票だけ」
 補佐がそれを奪い取り、立ち去ろうとしたときだ。
「あんたも会社、やめたほうがよくない?」
 女性の言葉に補佐の動きが止まる。そして顔だけをこちらにむけた。怒りを露にしながらも、目元は泣きそうだった。
「私には家族があるんだ。そうはいくもんか」

「ごめんね。私、余計なことしちゃった?」
 女性は自分の手荷物を補佐がいた場所に置き、ふたたび紀久子の隣に座った。
「とんでもない。助かりました」
「そう? よかった」
 女性は呼びだしボタンを押す。
「どうして私をキクちゃんって呼ぶんです?」
「あなた、君名紀久子さんよね。だからキクちゃん」
 フルネームまで知っているのか。
「どこで私の名前を?」
「私がだれかわかんない?」
 女性は質問に質問で返してきた。
「顔はお見かけしたことがあるんですが、いまいち思いだせなくて」紀久子は正直に答える。「ヒントをもらえませんか」
「この数年、一年に一回は話をしているわ。先月もね」
 そう言われ、女性が何者か、紀久子は気づいた。
「駅前の花屋さんですよね」
「正解っ」そこにスタッフが訪れた。「ワインをデカンタで。キクちゃんも吞む?」
「は、はい」
「グラスをもうひとつ。あとエスカルゴのオイル焼きちょうだい」
 上京してはじめての母の日、実家へカーネーションを贈ろうと思い、駅前の花屋さんにお願いしたのだ。実家は北陸なので、その花屋さんが直で届けるのではない。その花屋さんは〈花天使はなてんし〉という生花の宅配を取り扱う会社の加盟店で、そこにお願いすれば、地元の〈花天使〉加盟店が実家へ届けてくれるシステムなのだ。ネットでも可能だが、結局、鯨沼駅前の花屋さんに前日すべりこみで頼んだ。それから毎年、隣にいる女性が紀久子の接客をしてくれているのだ。今年もそうだった。
「注文書にフルネームを書くでしょ。花が含まれているひとの名前は、自然と覚えちゃうものなのよ。簡単な字だけど珍しい名字だし。私があなたの名前を知っているのに、あなたが私の名前を知らないのは不公平よね」
 そう言いながら女性は腰を浮かせ、正面の席に置いたバッグを取った。
「名刺、切らしちゃったなぁ。しょうがない」女性はバッグからペンをだし、テーブル脇にある紙ナフキンを引き抜いた。「油性だからだいぶ滲んじゃうな」
 外島李多。
「ソトジマリタさん?」
「トジマって読むのよ、それ。一応、これでも店長なんだ。私」
 スタッフがデカンタとエスカルゴのオイル焼きを運んできた。李多が紀久子のグラスにワインを注ぐ。ならば彼女のは自分が注がねばと思い、デカンタを受け取ろうとしたが、「いいよ、いいよ」と断られてしまった。
「それでは」李多は手酌てじゃくで注いだグラスを高々とあげる。「キクちゃんの退職を祝ってカンパァイ」

 目覚めたのは朝の十時だった。
 マズい、遅刻だ。紀久子は飛び起きる。いや、いいんだ。私は会社をやめたんだ。
 自分に言い聞かせ、蒲団ふとんの上に正座した。少し頭が痛い。原因は吞み過ぎだ。なにせ吐く息が酒臭い。あのあとデカンタを何本空けたのか、五本から先は数えていない。エスカルゴのオイル焼き以外にもツマミを頼んだはずだが、なにを食べたかよく覚えていない。
 李多と並んで座ったまま、どんな話をしたかはいまいち思いだせない。やめた会社の話だけではなく、元カレの話もしたような気がする。大学のゼミ仲間で、同学年だが一浪していた一歳上の男性がはじめての交際相手だったが、半年もしないうちに浮気されてあっさり破局、それからいままでカレシがいないことを切々と訴えた覚えはあった。
 李多が元の職場の同僚の披露宴に参列した話も思いだす。二次会の幹事を任され、三次会の場所も選び、そこで会計係をして、九時にお開きとなった。そして帰宅前に一杯だけ吞みたくなり、ファミレスに寄ったのだという。元の職場がタカハシ弁護士事務所で、タカハシのタカが鳥の鷹だとも教わった。
 だったら李多さん、弁護士なんですか。
 ただの事務員に過ぎないわ。
 そこで七年勤めたあと、母親の実家である花屋を継ぎ、八年が経ち、李多はいま三十八歳だった。
 とてもそうは見えませんよ。三十代でも前半だと思いました。お世辞じゃありません。マジですよ、マジ。
 そこまで思いだしてから、紀久子はベッドから下りて、浴室にむかった。洗面室兼洗濯室兼脱衣室のドアを開くなり、甘く芳しい香りが漂っているのに気づいた。香水のように人工的な匂いではない。
 泰山木たいさんぼく
 突然、頭の中に単語が浮かぶ。その花が水を張った洗面台に浮かんでいたのである。李多が頭に付けていた白くて大きな花の名前だ。商店街の美容院に頼んで、髪飾りにしてもらった経緯を本人に聞いたのを思い出す。モクレン科の常緑高木で、明治初期に日本に渡来したことや、ミシシッピ州とルイジアナ州の州花だと彼女に教わったこともだ。
 これ、あげるわ。
 別れ際、李多が頭から外して、紀久子に渡してくれた。その際に花言葉も聞き、いたく感激したばかりか、視界がぱっと明るくなり、晴れ晴れとした気分になったはずなのだが、肝心な花言葉が思いだせない。
 なんだったっけかなぁ。
 そう考えながら、上着を脱いで洗濯機に入れたとき、右手の甲になにやら書いてあるのに気づいた。
川原崎かわらざき花店 ヒル一時 リレキショ〉
 自分の字ではない。だとしたら李多だろう。
 ウチでアルバイトしない?
 李多にそう言われたのはたしかだ。花屋の名前が母親の旧姓であることも聞いた。
 いまから就職活動をするのは正直しんどい。しかも仕事が見つからなかったら、気持ちが沈んでいくばかりだろう。しかし働かなければお金がない。蓄えはわずかだ。家賃と食費だけで、あと三ヶ月暮らせるかどうかという程度である。実家にはもう居場所がない。三年前、兄が結婚し、奥さんだけでなく、三歳の男の子と一歳半の女の子が住んでいる。両親は健在なのでいまや六人家族なのだ。そんなところに東京で生きていく自信を失いましたと、ノコノコ帰る勇気はなかった。
 ここはひとつ、花屋でアルバイトをしながら職をさがそうと、酔った頭で結論をだし、よろしくお願いしますと言った覚えはあった。右手の甲の文字はそのあと書かれたのだろう。

 スーツに着替え、アパートをでたのは十一時だった。李多の文字は消えずに残っていた。油性のペンだったらしいのだ。けっこう目立つがやむを得ない。
 まずは鯨沼商店街にいき、履歴書に貼るための証明写真を写真屋で撮ってもらった。それからおなじ商店街にある百円ショップで履歴書とスティック糊を購入し、これまたおなじ商店街の琉珈琲なるコーヒーショップに入った。履歴書を書くためだ。〈花は見て楽しむだけではなく、ひととひととを繫ぐ最強のコミュニケーションツールだと思います。その花を売ることで、社会生活が少しでも豊かになればと考え〉云々と三十分ほどかけて、それっぽい志望動機をでっちあげた頃には、ちょうど昼どきになった。朝からなにも食べていないのを思いだし、ホットドッグとミックスサンドでお腹を満たした。
 まだ早いかな。
 紀久子は右手の甲を見る。〈ヒル一時〉にはまだ十分あった。鯨沼駅北口に立ち、バス停が四カ所、タクシー乗り場が一カ所の、まずまずの大きさのロータリーを挟んで真正面にある川原崎花店を見た。
 むかって右をパチンコ店、左をスーパーに挟まれた、こじんまりとした三階建てのビルの一階だ。二階は路面側の窓一面に『鯨沼囲碁俱楽部』と文字が貼ってあった。三階は中が見えないよう、窓にはカーテンが引かれている。さらにその上には四方に柵があった。どうやら屋上があるようだ。
 とりあえずいくか。
 紀久子はロータリーに沿って歩いていき、川原崎花店の前に辿り着く。店頭には縦八十センチ横四十センチくらいの黒板の看板があり、チョークでこう記されていた。
〈紫陽花や昨日の誠今日の噓 正岡子規〉
 どういう意味なのだろうと思いながら、店内を覗きこむ。間口は狭いが奥行きがあって、思った以上に広い。当然ながら色とりどりの花に彩られている。さらにどの花の前にもカードが置いてあった。花の名前と値段だけでなく、花にまつわる一言が綴られていた。季節柄か、アジサイが多く、その花びらは青が主だが、紫やピンク、白などもあった。花の形も少しずつちがい、名前と値段もべつべつだった。アジサイだけでも種類が豊富ということだ。
 店にはスタッフがふたりだけだった。ひとりは男性で作業台で花束をつくっている。背丈が百九十センチ近く、胸板は厚くて腕も太い。大学生でもじゅうぶん通るし、四十歳過ぎと言われれば、納得してしまいそうな風貌だ。もうひとり、ほうきで床を掃いている女性は、ぽっちゃりとした体型で、五十歳は超えているだろう。どちらもうぐいす色のエプロンをかけていた。
「あら、やだ、ごめんなさいね、気がつかないで」人懐っこい笑みを浮かべ、女性が声をかけてきた。「ちょっと待っててね。このゴミ、片付けたら話うかがいますんで」
 掃き集めたゴミを、フタ付きのちりとりに箒でそそくさと入れると、掃除道具を脇に置き、紀久子に近寄ってきた。
「どんな花をご所望で? ご自宅用? それともプレゼント? どちらにしてもいまの季節はアジサイがお薦めかしらね」
「表の看板に正岡子規の俳句が書いてありましたけど、あれは」どういう意味ですかと訊ねる前に、女性は「紫陽花や昨日の誠今日の噓」と諳んじた。「アジサイの色が日々変わるように、ひとの心も昨日と今日ではちがうってことよ」
 なるほど。紀久子はいたく納得する。
「スタンダードな青いアジサイがいちばんの売れ筋なんだけど、あなたみたいな若いお嬢さんなら、こちらのアジサイを気に入ってくださるんじゃないかしら」
 アジサイの割には花が小さく、葉っぱも小振りで枝も細い。可憐で繊細な印象を受ける。カードには〈ヤマアジサイ 紅〉と記されている。紅には〈くれない〉とルビが振ってあり、〈でも花が白いのはどうしてかな? スタッフに聞いてみてください〉と一言添えてあった。
「どうしてですか」
「咲きはじめは白いんですけど、太陽の光を浴びることによって、段々と赤というか、ピンクになるの。だから花びら同士が重なっているところとか花の中心は白いままだったり、色が変化しても薄かったりするのよ。入荷するの大変だったんで、お値段は張りますけどね。気に入ってくだされば、勉強させてもらいますわ」
 どうしようかなと考えている自分に、紀久子は気づいた。危うくアジサイを買ってしまいそうだ。
「ち、ちがうんです」
「アジサイはお嫌? だったらいまの時期にしかでまわらない、かわいらしい花があるの。見るだけ見ない?」
 女性に誘われるがまま、店内へ入っていく。
「これはいかが」
「かわいい」紀久子は声にだして言ってしまう。色は淡いピンク色で、風鈴みたいなカタチの花だなと思っていると、その花の前にあるカードには〈カンパニュラ 和名を風鈴草ふうりんそうあるいは釣鐘草つりがねそうといいます〉と書いてあった。
「でしょう?」我が意を得たりとばかりに、女性は頷く。「茎の下から花が咲いていくから、上のほうはまだつぼみなの。プレゼント用だったら超オススメよ」
「どうしてです?」
「カンパニュラの花言葉はね。感謝、誠実な愛、共感、節操、思いを告げる、なのよ」
 思いを告げる相手などいない。これから先、いるかどうか不安だが、いまはそれどころではない。
「お勧めいただいて、大変申し訳ないのですが」
「これもお気に召しません? だったら」
「私、花を買いにきたんじゃないんです」
「なんだ、多肉植物が欲しかったのね。だったら早く言ってちょうだいよぉ。ウチ、数はそんなにないけど、粒揃いなのよ。見て見てぇ」
 見る見るぅと付いていってしまいそうな自分を抑える。
「店長の外島さん、いらっしゃいますか」
「店長になんの御用? 雑誌かなにかの取材?」
「ではなくて」
「手」花束をつくる大男が言うのが聞こえた。
「手がどうしたの、ハガくん?」
「そのひとの右手」大男の視線は紀久子の右手にむけられていた。「李多さんが書いたんだと思います」
「見せて」断る暇もなく、女性は紀久子の右手をとる。「なるほど、李多さんの文字だわ。リレキショってことは面接にきたわけね」
「は、はい」
「だったら早くそう言ってよぉ」
「すみません」ここは謝るしかない。
「まあ、いいわ。さすがにもう起きていると思うの。電話するわね」
 女性はレジカウンターの中に入り、壁に貼り付いた電話の受話器を取って、ボタンをいくつか押した。どこに電話をするのだろうと思っていると、女性は「お嬢さん、名前はなんておっしゃるの?」と訊ねてきた。
「君名です」
 紀久子が答えると同時に「もしもし」と女性は受話器にむかって怒鳴るように言った。「李多さんっ。君名さんっていうお嬢さんがいらしてますよ。一時に約束したんでしょ。だからいまが一時ですって。どうしてって私に訊かれても、日本全国午後一時なんですよ。ええ。じゃあ、屋上にあがってもらえばいいですね」

 雲ひとつない青空だ。陽射しはすでに夏のものになろうとしており、スーツ姿だといささか暑かった。上着だけでも脱いでしまおうかと思わないでもない。屋上と言ってもたかが三階の上なので、鯨沼の町を一望するなんて到底できやしない。せいぜい見下ろせるのは鯨沼駅前のロータリーだけだ。それでもバスやタクシーの出入りは案外、見飽きなかった。
「お待たせっ」
 十分ほど経って、ようやく李多があらわれた。蒲団を抱え持ち、スーパー側にある物干し台へむかう。蒲団を干すつもりなのだろう。紀久子は駆け足で寄っていき、手伝った。
「悪いわね」
「いえ。あの、でもどこからこの蒲団を?」
「三階が私のウチなんだ。祖父母が暮らしていた頃は、二階もそうだったんだけど、一人暮らしには不要だから、少し手直しして、囲碁俱楽部にしたの」
 なるほど、そうだったのか。
「これでいいわ」蒲団を物干しにかけおえてからだ。「あそこにかけてて。いま飲み物持ってくるからさ。あ、お酒じゃないからね。はは」
 屋上にはテーブルと椅子があった。安っぽいリゾート地にあるようなプラスチック製だ。ただし屋上に置きっ放しで野ざらしになっていたのか、だいぶ汚れており、紀久子は座るのをためらった。それに李多は気づいたらしい。
「汚かった? ごめんごめん。なんか拭くものも持ってくるよ」
 目をしょぼつかせ、ときどきアクビを嚙み殺し、李多は紀久子の履歴書を眺めていた。昨日とは打って変わって、よれよれの長袖Tシャツに、やはりよれよれのスウェットの長ズボンと、パジャマみたいな格好だ。スーツ姿の自分がアホらしく思えてきた。しかも青空の下で、手作りのレモネードを飲んでいると、これがほんとに面接なのかと首を傾げてしまう。
「キクちゃん、美大のデザイン科に通ってたんだ。でもなんで食品会社に就職したの? パッケージのデザインとかしてたわけ?」
「いえ、営業でした」補佐の顔が頭の中にちらつく。さらに元の会社でさんざんこき使われていたのを思いだし、お腹がチクチク痛んだ。「グラフィックデザイナーになりたくて、その手の事務所を受けたんですが、どこも引っかからなくて、一般企業でも引っかかったのは一社だけで」それがブラック会社だったのだ。
「自動車免許、持ってるんだ」
「あ、はい」
 高校三年の二月なかば、大学に合格したあと、その頃いちばんのなかよしだった友達とふたりで、合宿教習所で免許を取得したのだ。
「いまウチで車が運転できるひとが、私だけなんだよねぇ。助かるわぁ」
 川原崎花店はほぼ毎日、配達サービスをしており、そのための車もあるという。三月まではこの役目を男子大学生のアルバイトが担っていたのだが、大学の卒業とともに、当然ここをやめざるを得なかった。そこで男子大学生は、サークルの二年後輩を連れてきて、あとを引き継いだそうだ。
「ところがその後輩がとんだヘナチョコ野郎で、一週間足らずでこなくなっちゃったの。おかげでこの二ヶ月は私が配達してたんだけど、そうなると三人でシフトを組むのが大変でさぁ。スタッフそれぞれの知りあいに臨時バイトに入ってもらって、どうにか切り抜けてはきたものの、さすがに限界でね。キクちゃん、配達をお願いできる? そんなに遠くまでじゃないのよ。ここから半径五キロ以内」
 半径五キロ以内がどれくらいの範囲なのか、紀久子はいまいちピンとこなかったが、「だいじょうぶです」と答えておいた。
 大学の頃はレンタカーで女友達を乗せ、旅行にでかけたことは幾度かあったし、ブラック会社では外回りで社用車に乗ることは珍しくなかった。つまり自分の車は持っていないにせよ、運転は同世代の女性の中ではしなれているほうだ。
 店で会ったあの大男は、車の運転ができないのだろうか。そう思っているところに、とうの大男がのっそりあらわれた。
「どうした、ハガくん?」
「これ、確認してもらえませんか」
 大男は花束を抱え持っていたのだ。たぶん彼がつくっていたモノにちがいない。
「なんのお祝いの花だっけ?」
「快気祝いで、受取の方は七十二歳の女性です」
「テーブルに立ててみて」
 花束は平たくて立つようになっていた。それを見て、紀久子はちょっと驚いてしまう。それを李多は見逃さなかったらしい。
「どうかした?」
「こういう花束を見るの、はじめてだったので」
「スタンドブーケって言うの。ウチじゃ花束の依頼を受けたときに、これをお勧めすることが多いわ。これだったら花瓶なくても平気でしょ。トートバッグにいれて持ち運びできるし、水をあげなくてもいいの」
「へぇえ」紀久子は素直に感心する。
「キクちゃんのお母さんには、毎年これでカーネーションを贈っているはずよ。〈花天使〉仕様だからさ」
 そうだったのか。贈った花の写真付きで、母からお礼のメールがくるものの、気づかなかった。
「淡い紫色のこれはなんて花です?」
 紀久子は訊ねた。平べったく開いた花で、けっこう大きい。直径十センチはあるだろう。それでも華麗というより可憐に見えるのは、花びらが薄いせいかもしれない。
「テッセンです」大男が答えた。「キンポウゲ科センニンソウ属で、カザグルマとも呼ばれています」
「言われれば風車っぽいカタチしてますね。でもテッセンっていうのは」
「茎というか蔦が鉄のように硬いことから、鉄の線と書いて鉄線と言います」
「こっちの白い花はなんですか」
「デルフィニウムと言い、こちらもキンポウゲ科です。蕾のカタチがイルカに似てて、ギリシア語でイルカを意味するデリフィスから名前が付けられました。日本ではイルカではなく、飛ぶ燕に見えたようで、大飛燕草おおひえんそうと名付けられました」
 大男が答えているあいだ、李多はスタンドブーケをしげしげと見つめている。くるくるまわしたり、手に取って鼻に近づけたりもしていた。
「キクちゃんはどう、この花束。デザインを勉強してたんだから、色合いとか、ぜんたいのバランスとか一家言持ってるでしょ」
 いきなりそんなことを言われても。
「イイとは思うんですけど」
「けど?」と李多。
「地味っていうか渋過ぎるんじゃないかなぁって」
「七十二歳とご高齢な女性へのプレゼントですので」
 大男が弁解がましく言う。
「だからこそもっと派手なほうがいいと思うんです。女性にとって大事なのは年齢より女性であることなので」
「私自身、オバサン扱いされるの嫌だもんな。こないだ服買いにいったときなんか、地味ぃな色やデザインのを店員が勧めてきてさぁ、お客様のお歳にピッタリとか言いやがって、マジ、ムカついたよ。おまえに私のなにがわかるんだっつうの。ねぇ?」
「はあ」同意を求められてもと思いつつ、紀久子の言いたいのは、まさにそういうことであった。
「キクちゃん、この花束をもっと派手にするための花を、店で選んでくれない?」
「私がですか」「いや、でも」
 紀久子と大男の声が揃う。
「なに、ハガくん?」
「これって〈花天使〉経由の注文なんですよ。写真の見本どおりじゃないとマズくありません?」
 紀久子も母に花を贈るときは、ネットの写真で選んでいた。
「まるきりちがう花を贈ったらマズいけど、そこにプラスするんだったら問題ないって」
「プラスしたら予算がオーバーしますが」
「図体でかい割に細かいなぁ」
「李多さんが大雑把過ぎるんです」
「私もいま、店におりていくからさ。キクちゃんが選んだのをプラスしても、予算内におさまるようにすればいいでしょ」
「こちらの女性は」大男が紀久子のほうを見る。
「今日からウチでバイトをすることになった君名紀久子さん」
「今日から働くんですか、私」
「もちろん今日の分のバイト代はだすわよ。時給ははじめの三ヶ月間は九百五十円、その後は千円でいいかしら。できれば週五」
「だいじょうぶです」
 週五ならば何曜と何曜が休みなのか、一日何時間働くのか、あれこれ気になるが、ひとまずあとで訊くとしよう。
「彼はハガくん。六年、ウチで働いてるけど、実質はその半分ってとこかな。店にぽっちゃりした女性いたでしょ。彼女はミツヨさん。あのひとは私より長くここで働いているんだ。それじゃ店いこっか」
「李多さん」
「なに、まだなんかあるの、ハガくん?」
「その格好では店にでませんよね」
「で、でないわよ。ちゃんと着替えて」
「髪を整えて、化粧もしてきてください。頼みますよ」
「わかってるって。うっさいな、もう」
「あっ」立ち上がるなり、紀久子は思いだしたことがあった。
「どうしたの、キクちゃん。今日はなんか用事があった?」
「いえ、ちがいます。訊ねたいことがあったのですが、いまはいいです」
「なによ。おっしゃいな」
 李多だけでなく、大男も紀久子をじっと見つめていた。こうなれば言ったほうがよさそうだ。
「昨日、泰山木の花をくださいましたよね。そのとき花言葉を教えていただいたはずなんですが、それがどうしても思いだせなくて」
 すると李多はにんまり笑ってこう言った。
「前途洋々よ」




続きは発売中の『花屋さんが言うことには』でぜひお楽しみください!!

Profile
山本幸久
1966年東京生まれ。2003年『笑う招き猫』 (『アカコとヒトミと』を改題)で第16回小説す
ばる新人賞を受賞し、作家デビュー。主な作品に『ある日、アヒルバス』『幸福ロケット』『店
長がいっぱい』『誰がために鐘を鳴らす』『神様には負けられない』『人形姫』など多数。

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