ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 小説連載一覧
  3. ハッピーワーク、ハッピーホーム
第2回

 今朝も大阪城は太陽の光を受けて、しゃちほこが金色に輝いている。

 まず、ベランダに出て、朝日を浴びたあと、(はや)()は部屋に戻り、冷蔵庫を開けて、牛乳パックを取り出した。

 牛乳を飲もうと思ったが、グラスがない。

 正確に言えば、グラスはあることはあるのだが、使えないのだ。家にあるグラスはすべてシンクに放置されており、牛乳を入れることが可能な清潔なグラスはひとつも残っていなかった。

 仕方がないので、隼人は牛乳パックに口をつけて、そのまま飲むことにした。それから、六枚切りの食パンの袋を開け、二枚つづけて、むしゃむしゃと食べる。

 このところ夜遅くまで企画書の作成をしていたので寝不足だ。使ったあとの食器が山積みになっているだけでなく、部屋は散らかり放題、クリーニングに出すつもりのワイシャツも置きっぱなしという状態であるが、とにかく企画書はできあがった。

 パックの牛乳を飲み干して、ゴミ箱につめこむと、身支度をして、部屋を出る。

 マンションから少し離れたところで、ゴミ収集車の奏でるメロディが聞こえてきた。

 ああ、そういえば、今日、ゴミの日だったのでは……。

 そう気づいた隼人であったが、引き返している時間はなかった。

 今日は大事な編集会議が行われる日で、くれぐれも遅刻はしないようにと、編集長に念を押されていたのだ。

 編集会議。

 その言葉の響きに、隼人の胸は熱くなる。

 なんとも編集者らしい仕事ではないか。

 頭のなかには、会議室のホワイトボードの前に立ち、両手を広げ、堂々たる態度で、素晴らしい企画のプレゼンをしている自分のイメージが浮かぶ。

 やる気に満ちた軽快な足取りで、隼人は駅へと向かった。

   ***



 教科書を作るメンバーには、隼人たちのように出版社で働く編集者のほか、編集委員と呼ばれるひとたちがいる。

 今日の編集会議では、その編集委員たちが集まって、話し合いが行われるのだ。

 編集委員は、小学校や中学校など教育現場で実際に教えている先生やその分野の専門家である大学教授などで構成されている。

 先生方は学校の授業が終わってから出版社に来るらしく、編集会議は夕方の六時半という遅い時間から行われる。その時間帯に合わせて、仕出し弁当の手配をして、会議室のセッティングをしておくのも、隼人に任せられた仕事だった。

「編集長! 今日の会議で、ぜひ、提案したいプランがあります!」

 会議のための準備を整えたあと、隼人は雪吹(ゆぶき)のいるデスクに近づき、そう切り出した。

「教科書に使うイラストなのですが、もっと、子供の心をつかむような感じにしたいと思いまして。そこで、考えてみたのですが、有名な少年漫画家に描いていただくのはいかがでしょうか。こちらに、漫画家さんの候補リストを作ってきました!」

 企画書を差し出したが、雪吹は受け取ろうとしない。

「必要ありません」

 けんもほろろな態度で、そう言われた。

「熱意があるのは結構ですが、物事には順序というものがあります。一年目はまず知識を身につけて、仕事の流れや全体像を把握するところからはじめてください」

「いや、でも、せっかく書いたので、せめて、ちょっと読むだけでも……」

「企画書を出すようにと、いつ、言いましたか? 優先順位を考えて、任せられたことをまずは完璧にこなせるようになってください。企画を考えるのはそのあとの話です」

 そう言われて、ぐうの音も出ない。

 寝不足になりながらも仕上げた企画書であったが、目を通してもらうことすら叶わず、隼人はすごすごと引き下がるしかなかった。

 やがて、編集委員の先生方が集まってきたので、お茶を出すよう、雪吹に命じられた。

 給湯室でお茶の用意をしたあと、会議室に入るまえにノックをして、一礼してから部屋に入り、上座である奥の席から順番にお茶を出していく。

 段取りはしっかりと頭に入れていたものの、実際にやるとなると、どうもうまくいかない。

 あれ? 上座って、奥から右まわりだっけ……? 左まわり……?

 不安になっていたところ、編集委員のひとりから不手際を指摘された。

「あら、まあ、このお茶。濃さのちがい、気づかなかったの? こっちのお茶とこっちのお茶では、見るからに色がちがうじゃない。きちんと淹れたら、こんなふうにはならないでしょう?」

 いかにもベテラン教諭という風格のある女性の編集委員に言われ、隼人は戸惑った。

「えっ……」

「急須のお茶は少しずつ均等に注いでいくものなのよ」

 呆れたような声で言われて、隼人は自分のやり方を思い出してみる。

 急須に茶葉と湯を入れたあとは、なにも考えず、近くにあった茶碗から順に注いでいった。だから、最初の茶碗は茶葉の成分があまり抽出されておらず、色の薄い茶になっており、あとに注いだ茶碗は抽出時間が長くて、濃い茶になっていたのだろう。

「いや、でも……」

 濃さがちがうといっても、飲めないほどではないはずだ。

 大した失敗だとは思えない。

 それなのに、ここまできつい口調で責められるのはショックであった。

 そもそも、濃さが均等なお茶がいいのなら、わざわざ急須で入れたりせず、ペットボトルでも配ればいいのではないだろうか。

 隼人が内心でそんなことを考えていると、雪吹が湯飲み茶碗に手を伸ばした。

「申し訳ありません。すぐに淹れ直してまいりますので」

 それをさえぎったのは、古風な三つボタンの背広に身を包んだ白髪の紳士然とした編集委員である。

「いいですよ、いいですよ。わざわざ、淹れ直さなくても。たまには薄い茶を飲むのも一興というものではないですか」

 そう助け舟を出してくれた紳士に、隼人は好感を持つ。

 家庭分野の教科書の編集委員は女性が多く、男性は少数派で、そういう面でも隼人にとっては親近感があり、味方を見つけたような気持ちになった。

「それで、彼は、この春から?」

 一同の視線が集まり、隼人が口を開くより先に、雪吹が言った。

「はい。ご紹介が遅くなりましたが、今年度より家庭分野に配属された()(ぐち)です」

 雪吹にそう紹介され、隼人は手に持っていた盆をテーブルに置き、あたふたとスーツの内ポケットから名刺を取り出す。

「瀬口隼人です。よろしくお願いいたします」

 挨拶をしながら、編集委員に名刺を渡していく。

 この名刺を実際に使うのは、今日が初めてだ。研修で名刺交換の練習はしたものの、これまで社外の人間に挨拶をする機会はなかった。

 自分の名刺を渡して、相手の名刺を受け取るという動作をしながら、隼人は内心で、ああ、社会人っぽい……と思う。名刺交換により、会社員になったことを実感した。

 お茶について指摘をしたのは、澤園教育大付属中学校の校長である()()(はら)(いく)()だ。

 そして、助け舟を出してくれたのは、苗代女子大学教授の(とみ)()(じゅん)(ざぶ)(ろう)であった。

「瀬口くんも、家政科出身ですか?」

 富野は親しげな笑みを浮かべて、隼人を見つめる。

「俺、いや、私は文学部だったので、家庭分野についてはまったくの素人なのですが、これから勉強していきたいと思っております!」

 勢いよくそう答えた隼人の横で、雪吹がつづけた。

「彼は家庭分野どころか、教育についても、まったくの門外漢でして……。(あわ)()が言いますには、あえて専門知識のない人材を入れることで、新しい風を吹かせたいという考えで採用されたのですが、このような調子ですので、先生方にはなにかとご迷惑をおかけしてしまうこともあるかもしれず……。至らぬ点も多いと思いますが、ご指導のほどよろしくお願いいたします」

「新しい風、ですか。いかにも淡路さんらしい考え方ですな」

 納得した様子で、富野はうなずく。

「けれど、いくら新しい風と言っても、仮にも家庭科の教科書を作ろうという人間が、お茶ひとつ満足に淹れられないなんて」

 宇治原は眉をひそめて、隼人のほうに視線を向けた。

「まあまあ、宇治原先生も、そのあたりは大目に見てあげましょうよ」

 富野の言葉に、宇治原は首を横に振った。

「いいえ、これは学びの機会です。こちらだって、細かいことにいちいち目くじらを立てたくはありませんのよ。けれど、彼のためにも、ここは言ってあげるべきでしょう。私たちは家庭分野のエキスパートなのです。こんなお茶の淹れ方を見逃すことはできません。ここで教えてあげることで、彼は学ぶことができるのですから」

 宇治原がそう言うのを聞いて、雪吹も大きくうなずいた。

「まったくもって、宇治原先生のおっしゃるとおりです。こんな基本的なことも知らないなんて、お恥ずかしい限りです」

 雪吹はそう言うと、会議室に置かれた棚へと近づく。

 そこには、(だい)(おお)(さか)(しゅっ)(ぱん)で作っているすべての教科書が並べられている。

 雪吹は一冊の教科書を取り出すと、ページを広げてみせた。

 急須やコンロの写真があり、見出しには「お茶で家族だんらん」と書かれている。茶葉を量ったり、湯を沸かしたりする手順が、くわしく説明されており、注意ポイントとして、濃さがおなじになるように人数分の湯飲み茶碗に少しずつ順番に注いでいくということも、きちんと補足されていた。

「お茶の淹れ方については、小学校の教科書にも載っているのですよ?」

 雪吹の言葉は疑問形のように語尾があがっているが、返答を求められているのか、ただ嫌みったらしい口調なのか、判断がつきかねた。

 なにを言っても責められるような気がして、隼人は答えあぐねる。

 そこに、また、富野が口を開いた。

「まあまあ、雪吹さんも。彼の通っていた学校では、調理実習でお茶の淹れ方をやらなかったのかもしれませんし」

 富野はそう言いながら、隼人のほうを見る。

「瀬口くんは、そのイントネーションからして、関西の人間ではなさそうですね。出身は関東ですか?」

「はい、東京です」

「ということは、(せい)(うん)(どう)さんの教科書を使っていた可能性が高い、と」

 富野が言うと、宇治原もうなずく。

「たしかに、あっちは晴雲堂さんが多いですからねえ」

 晴雲堂も教科書を作っている出版社であり、大大阪出版にとっていわばライバル的な存在だ。

「そうしますと、最初の調理実習はお茶を淹れるのではなく、ゆで卵……」

 雪吹が言うのを聞いて、隼人は思い出した。

「あっ、作りました! ゆで卵!」

 いくつかの出版社が出している教科書のうち、どれを使用するかは、市町村や都道府県の教育委員会が決めることになっている。

 つまり、全国どこでもおなじ教科書が使われているわけではないのだ。

 大大阪出版に就職することになり、隼人は初めてそのことを知って、驚いたのだった。

 義務教育というものは、みんなでおなじような教育を受けるものだというイメージを持っていて、ちがう教科書を使っているなんて考えもしなかった。

 就職が決まったあと、隼人は自分が子供のころに使っていた教科書がどこの会社のものであったか気になって、自宅の本棚や押し入れなどを捜してみた。しかし、残念ながら、小学校や中学校の教科書はすべて処分されており、一冊も手元に残っておらず、諦めたのであった。

 よりによって、ライバル社の教科書を使っていたとは……。

「でも、お茶の淹れ方をまったく習わないということなんてある?」

 ひとり言のように、宇治原がつぶやいた。

「あちらの教科書にも少しは載っていなかったかしら」

 宇治原の発言を受け、雪吹が答える。

「火を使ってみようのコーナーで、コラム的に触れられていましたが、最初の調理実習で行うことはなく、順序だてて説明しているページはなかったと思います。晴雲堂さんはゆで卵と青菜のおひたしにページを取って、ゆで時間ごとの写真を載せて、火のとおり具合について、くわしく説明していたので、調理実習としてはそちらを主軸に置いているようでした」

「教科書によって、調理実習で作るものがちがうんですか?」

 隼人がそんな疑問を口にすると、またしても宇治原は呆れたような声を出した。

「なんにも知らないのねえ」

 その言葉が、隼人の胸にぐさりと刺さる。

 知識不足であることは事実なので、反論はできない。しかし、だからといって、こんな言い方をしなくてもいいのではないだろうか。

 雪吹と宇治原に責められ、うなだれていたところに、富野の穏やかな声が届いた。

「文部科学省が告示する学習指導要領は、あくまでもガイドラインにすぎません」

 隼人は顔をあげ、富野の説明に耳を傾ける。

「学習指導要領をふまえた上で、なにをどう教えるかということは、現場に委ねられているのです。なので、調理の基礎として、ガスコンロの安全で衛生的な使い方を教えるために、お茶を淹れてもいいし、卵をゆでてもいいし、粉ふきいもを作ってもいい。どのような授業展開で、生徒たちの興味や関心を喚起して、技能を身につけさせていくか、教師の腕の見せどころですね」

 富野は楽しそうに語っており、教育というものへの情熱が伝わってくるようだ。

「家庭科の学習は、小学五年生からはじまります。その最初の調理実習として、お茶を淹れることで、調理の経験だけでなく、家族とのふれあいの時間を持ち、だんらんの大切さを理解するというように学びへと広げることができます。一方、ゆで卵や青菜のおひたしを作れば、栄養素の働きや食事バランスといった学びと関連づけることもできるでしょう。家庭分野における学びは、実に幅広いので、工夫のしがいがあるというものです」

 富野の説明に、隼人は大きくうなずいた。

 お茶を淹れるということひとつとっても、こんなにしっかりと考えた上で、教科書に載せているのだ。

 そう思うと、お茶の用意をするときに、あまり深く考えず、雑な淹れ方をしてしまったことが恥ずかしくなってくる。

「お茶、淹れ直してきます!」

 隼人はそう言うと、給湯室へと向かった。

 そして、今度は教科書で見たとおりの手順でお茶を淹れ、おなじ濃さになるよう湯飲み茶碗に均等に注いでいく。

 お茶を淹れ直して、再び、会議室に戻ると、雪吹が仕出し弁当を配っていた。

 和やかな雰囲気で雑談をしつつ、仕出し弁当を食べているなか、隼人は邪魔にならないようお茶を出していく。

 富野はお茶を一口飲み、隼人と目を合わせると、満足げにうなずいてみせた。

 合格点をもらえたようで、ほっとする。

 宇治原はちらりと確認するように、お茶を見たものの、口をつけることはなかった。

 認めてもらえなかったようで、しょんぼりとする。

 しかし、落ちこんでも仕方ない。

 隼人は気持ちを切り替えて、つぎにやるべきことを考えた。

 議事録を作成するよう、雪吹に言われていたのだ。

 弁当を食べ終わったあとは、片づけをして、資料を配布する。そして、編集会議がはじまった。

 雪吹の議事進行によって、さまざまな意見が飛び交うなか、隼人は末席に座って、それを記録していく。

「食品成分表のページですが、ただの数字の羅列では生徒の興味を引き出すことは難しいと思うので、ここはもう少し工夫がほしいところですね」

「現場の意見を言わせていただくと、この書き方では生徒に伝わりませんよ。文章だけではわかりにくいので、写真かイラストが入るといいかもしれません」

「こちらのページは情報量が多すぎる気がします。これだけ詰めこまれていると、どこがポイントなのかが把握しづらくて、かえって印象が薄れるのではないでしょうか」

 去年の一年間に何度も行われた編集会議で、基本的な編集方針はすでに決まっているので、今回の会議では具体的な内容について検討していく。

 議論は白熱して、夜遅くまでつづいた。

 編集委員たちに礼を述べ、見送ったあと、隼人は自分の席に戻り、議事録のつづきを書こうと思った。だが、もう、かなり遅い時間だ。

 雪吹のほうを見ると、帰り支度はしておらず、このあともまだ残業をするようである。

 どうしたものか……。

 締め切りについては何も言われなかったので、いつまでに議事録を提出すればいいのか、わからない。

 ためらいつつも、隼人は席を立って、雪吹に近づいた。

「あの、議事録なのですが、今日中に仕上げたほうがいいですか? それとも、明日でも構いませんでしょうか?」

 雪吹は特に表情を変えることはなかったが、無言の圧を感じる。

 え? 帰るつもりなの? 新人のくせに?

 言葉には出さないものの、そのようなことを考えているのであろう気配を隼人は感じ取った。

 雪吹は椅子に座ったまま、静かな声で答える。

「今日中にできないというのでしたら、構いませんよ、明日でも」

 わざとらしい倒置法で言われ、責められているような気がますます強くなる。

 やはり、帰らずに仕上げたほうがよかったか……。

 そんな隼人の内心のつぶやきを読み取ったかのように、雪吹は口を開く。

「もちろん、定時は過ぎていますし、帰っても構いません」

 吹雪は言いながら、手帳を広げると、ペンを構えて、言葉をつづけた。

「しかし、そのまえに、少しだけ。今日の会議について、振り返りを行ってください」

 隼人はうなずくと、あわてて頭のなかで言うべきことを整理する。

「あ、はい、えっと、今日の会議では、教科書作りにかける先生方の熱い思いを感じることができて、一ページの内容だけでもあんなにたくさんの話し合いをして作られるのだということがわかって、とても勉強になりました」

 隼人の発言を聞きながら、雪吹はペンを走らせる。

 なにをメモったんだろう……。

 特に記録しておくべきことを言ったつもりもなかったのに、雪吹が意味深長な動きをするので、隼人は気になった。

「反省点は?」

 雪吹にうながされて、隼人は答える。

「お茶の淹れ方については、事前にしっかり調べておくべきでした。今度から気をつけます」

 隼人の発言を聞いて、雪吹はうなずいた。

「こちらも、まさかあんなミスをするとは思わなかったので、事前に教えておくべき項目に入れておらず、確認を怠ってしまいましたが……。先生方が笑って許して下さったからよかったものの、家庭科の教科書を作っている者としては、顔から火が出る思いでした」

 雪吹は小さく溜息を吐いて、言葉をつづける。

「そもそも、うちで出している教科書については、事前にすべて目を通しているはずですよね。小学校の家庭科の教科書をきちんと読んでいれば、お茶の淹れ方も載っているのですから、あんな失敗をするわけがなかったと思いますが。隅々まで目を通したのですよね?」

 研修の一環として、大大阪出版が出している教科書を読んで、レポートにまとめるという課題があったので、読んだつもりではいた。しかし、そのときには家庭科の担当になるとは思っておらず、流し読みをしてしまったのだ。家庭科をおろそかにして、国語の教科書ばかり熱心に読んでいたなんてことは、口が裂けても言えない……。

 隼人はうなだれ、とりあえず謝った。

「すみません。いちおうは目を通したつもりでいたのですけど、ちゃんと覚えてなくて……」

 そう言ったあとで、失敗に気づく。

 謝罪するときは「すみません」ではなく、「申し訳ありません」と言うべきなのでは……。

 社会人らしくない言葉づかいをしてしまったが、雪吹はとがめることなく話を進めた。

「教科書の内容と学習指導要領については、しっかりと頭に叩き込んでください」

 やや強めの口調で、雪吹は言う。

「一字一句、完全に記憶しろとは言いませんが、せめて、どのようなことが記載されているかくらいは覚えてもらわないと、仕事になりません」

「はい、申し訳ありません。以後、気をつけます」

 お茶の淹れ方を知らなかったり、教科書の内容をきちんと覚えておかなかったりしたことについては、言い訳の余地はなく、素直に聞き入れる。

 しかし、つづけられた言葉には、引っかかるものがあった。

「それから、編集委員の先生方に対する態度にも、気になるところがありました」

 やや声をひそめて、吹雪は言う。

「宇治原先生には決して逆らわないように。編集委員の先生方のなかでも、特に難しいひとだから。ご機嫌を損ねないよう、細心の注意を払って、怒らせないということを頭に入れておいてください。わかりましたか?」

 雪吹は最後に念を押したが、隼人はうなずくことができなかった。

「わかりません」

 そう答えた隼人に、雪吹はわずかに目を見開く。

「わからない、とは?」

「いや、だって、決して逆らわないとか、意味がわからないんですけど。いい仕事をするためには、意見が対立することだってあると思いますし。なんで、そこまで気を遣う必要があるんですか?」

 隼人が言うと、雪吹は低い声を出した。

「そういうところよ」

 非難めいた視線を向け、雪吹は話す。

「あなたのそういうところが、心配だから、わざわざ忠告をしているの。くれぐれも余計なことを言ったり、先生方を怒らせたりして、トラブルを起こさないように気をつけて」

「でも、それって……」

 隼人は反論をしようとしたが、それは許さないというように、雪吹は言葉を被せてくる。

「宇治原先生はとても影響力を持っている存在なのです。勉強会を開いて、後進の指導にも熱心で……。そんなひとを怒らせてしまったら、採択に響きかねません」

 採択とは、学校で使用する教科書を決定することだ。

 教科書出版社にとって、採択の数は売り上げを意味する。採択が多いほど、その会社の教科書がたくさん売れる。逆に、採択が少なければ、その後の四年間は収入減が確定してしまうということになり、会社にとっては大問題である。

 雪吹の言わんとすることが、なんとなく隼人にも理解できてきた。

「編集委員の先生に嫌われたら採択が減るとか、そんなことあるんですか?」

 隼人は驚いて、そう訊ねる。

「実際にそういうことがあるかという問題ではなく、そういう事態も考え得るということを話しているのです。何事も、想定しておくに越したことはありませんから」

 淡々とした口調で、雪吹は答えた。

「もちろん、先生のご意見に納得できないときもあるでしょう。しかし、それは内容に反映させなければいいだけの話です。いいですか? くれぐれも、その場で反論しないように気をつけてください。先生方の意見はすべてありがたく頂戴して、なにをどう取り入れるかは、こちらで考えればいいのです」

 話を聞いて、頭ではわかったものの、心がどうにも納得しない。

「それが大人のやり方ってやつですか」

 思ったことが、つい、口から出ていた。

 雪吹はまたしても「そういうところよ」と言いたげに非難めいたまなざしを向ける。

「そうですね。いつまでも学生気分でいられては困ります。社会人としての自覚を持ってください」

 隼人はうなずくと、自分に言い聞かせるように「わかりました」と答えた。

 もやもやした気持ちを抱えたまま、隼人は会社を出た。

 夜道を歩き、駅に着き、電車に乗って、スマホを見ると、(はる)()からメッセージが何件も届いていた。

〈お疲れさま!〉

〈隼人くんは、きょう、どんな一日だった?〉

〈私は仕事をがんばったから、自分へのごほうびです!〉

 可愛い絵文字入りの文章のあとに、コンビニで買ったと思われるプリンパフェの写真がアップされている。

〈甘いものを食べて、ハッピー回復!〉

〈隼人くん、まだ、仕事中かな?〉

〈がんばってね!〉

 恋人からの明るいメッセージに、沈んでいた隼人の気持ちは一気に浮上した。

〈おつかれー。いま、仕事帰りで、電車〉

 そう送ると、すぐに返事があった。

〈こんな遅くまで仕事だなんて、やっぱり、編集者って、ハードなんだね~〉

〈今日は編集会議だったから〉

 隼人がそんな文章を打ち込むと、陽花のメッセージが表示される。

〈徹夜で作った企画書、どうだった?〉

 うっ……。

 一瞬、返事を打つ指が止まった。

 いま、もっとも触れられたくない話題ではあるが……。

 気を取り直して、返信する。

〈まあ、ぼちぼちって感じかな〉

 どうでっか。

 ぼちぼちでんな。

 大阪で暮らすようになって、そんな言いまわしがあることを知ったが、まさか実際に自分が使う日が来るとは思いもしなかった。

〈ぼちぼち、かー。おもしろーい!〉

 陽花は大ウケして、爆笑しているパンダのイラストをアップした。

〈隼人くん、どんどん、大阪のひとっぽくなってきてるね!〉

〈そうか?〉

〈もっと、大阪弁、使ってー〉

〈なんでやねん!〉

 ご期待に応えるべく、そう打ち込むと、楽しげなメッセージが返ってきた。

〈つっこみだー。芸人さんみたいー〉

 離れていても、陽花が笑っている顔がありありと目に浮かぶ。

〈実際には、まわりにあんまり大阪弁を使うひと、いないんだけどな〉

〈そうなの?〉

〈職場のひとは、わりと、ふつうに標準語だし〉

〈そっかー。たしかに、東京でも、標準語だけど実は地方出身とかあるもんね〉

〈そうそう。丁寧な話し方だと気づかないこと多い〉

 つぎのメッセージまで、少し間があった。

〈方言って、かわいいよね〉

 なんと返事をしていいか、隼人は迷う。

〈うーん、まあ、ひとによるかな〉

 またしても少し間があって、メッセージが送られてくる。

〈大阪弁の女の子に、きゅんっとなったりしない?〉

〈ないない〉

 即座に返事を打ち込む。

〈身近で、バリバリ大阪弁なのって社長だけど、オカンって感じだし〉

〈オカン! 関西のひとって、お母さんのこと、ほんとにオカンって呼ぶの?〉

〈どうだろ。実際にはまだ聞いたことない。職場でしか話す相手いないし〉

 つぎは、それほど間を置かず、陽花のメッセージが表示された。

〈同期って、ふたりとも女の子なんだよね?〉

 少し考えてから、隼人は返事を書く。

〈担当の教科がちがうから、ほとんど接点ないけど〉

 大大阪出版には、隼人のほかに新入社員が二名いるはずだが、研修で必要最低限の会話をしたきりであった。

〈じゃあ、仕事の愚痴を言い合ったりしないの?〉

〈ああ。ない〉

〈もしかしたら、そのふたりは女子同士だから仲よくしているけど、隼人くんに対しては遠慮しているのかもね〉

〈それはあるかも〉

 研修のときから、うっすらと壁を感じるというか、ランチなどに誘ってもらえていないような気はしていた。

 しかし、だからといってランチに誘ってもらいたいかというと微妙なところだ。昼休みくらいは自由にすごしたい気持ちもある。

〈新人同士で、いろいろ話したりしたいのに、相手がいないって、つらいよねー〉

〈陽花のところは、同期がいないもんな〉

 いくつかの企業に応募したものの、陽花は内定を得ることができず、結局、父親の紹介で、関連会社の事務として働くことが決まったのだった。

 この春から入社したのはひとりだけで、しかも十数年ぶりの新規採用であり、陽花いわく「まわりはおじさんおばさんばっかり」らしい。

 そうこうしているうちに、電車は森ノ宮駅についた。

〈いま、駅。帰ってからは、議事録作りだ〉

〈そっかー。大変だね〉

〈明日の仕事中にやってもいいんだけど、どうせなら進めておきたいし〉

〈無理だけはしないでね〉

〈私はもう寝ちゃうよ。おやすみ〉

 画面から投げキッスが飛んできたので、隼人もハートマークを返す。

〈おやすみ〉

 東京と大阪で暮らすことになり、物理的な距離はあるものの、ネットのおかげで、こうして以前と変わらず、つながることはできている。

 愛しい彼女とのやりとりによって、隼人はすっかり気力を回復していた。

 よしっ、帰ったら、議事録をささっと片づけるぜ!

 やる気に満ちた表情で、隼人は電車を降りて、帰路についた。

   ***



 やばい、寝過ごした!

 スマホで時間を確認すると、隼人は布団から飛び起きた。

 アラームを止めたあと、二度寝をしてしまっていたようだ。幸い、寝返りを打った拍子に、枕元にあったスマホに顔面をぶつけて目が覚めたので、致命的なほど寝過ごしたわけではないが……。

 大急ぎで顔を洗い、着替えて、朝食は摂らずに、家を出る。

 遅刻するか、間に合うか、ぎりぎりといったところだ。

 マンションのエントランスを抜け、全速力で駅まで向かおうとしたところで、ひとりの少年にぶつかりそうになった。

 少年も、隼人を避けようとして、ふらつき、倒れそうになる。

「おっと、すまん!」

 隼人はあわてて、手を伸ばして、少年を支えた。

「だいじょうぶか?」

 少年はネギの入ったエコバッグを肩から下げ、両手では大事そうに段ボール箱を抱えている。

「はい、だいじょうぶです。あのっ、お兄さん、猫、好きですか?」

 少年はそう言うと、期待に満ちた目で、隼人を見あげた。

「猫……?」

 怪訝な声で聞き返すと、下のほうから「みゃあ」とか細い鳴き声が聞こえた。

 見ると、段ボール箱のなかに、子猫が一匹、うずくまっている。

 つぶらな瞳に、薄ピンク色の小さな三角形の耳、ほわほわとした毛並みで、まさに可愛さの権化とでも言うべきすがたであり、あまりのキュートさに息が止まりそうになった。

「この子、捨て猫みたいで……。でも、うちはペット禁止やから、飼ってくれるひとを探して……」

 少年はうつむき、心配そうな顔をして、子猫を見つめる。

 隼人の住んでいるマンションはペット可の物件で、たまに小型犬を抱いた住人とエレベーターで遭遇することがあった。

 猫、か……。

 隼人はもう一度、ちらりと子猫を見る。

 子猫はぷるぷると震え、小さな口を開け、弱々しく鳴き声をあげている。

 まんまるの瞳と目が合ってしまうと、もはや、見捨てることなど不可能であった。

「わかった!」

 うなずいて、隼人は言う。

「俺が責任を持って、飼ってやる」

 それを聞いて、少年の顔がぱあっと明るくなった。

「ありがとうございます」

 うれしそうに言ったあと、少年は子猫に語りかける。

「よかったなあ。いいひとが見つかって」

 隼人はその声から、どことなく、さみしげなニュアンスを感じ取った。

 本当は自分が飼ってあげたいのに、それが無理で手放さないといけないのはつらいだろう……。

 そう考えて、隼人は口を開く。

「俺はそこの『キャッスルビューもりのみや』の505号室に住んでるから」

 マンションを指さし、少年に伝えた。

「猫に会いたくなったら、いつでも遊びに来ていいぞ」

 すると、さっきよりも、もっと明るい声が響いた。

「ほんまに?」

 うれしさのあまり、敬語を使うことも忘れているようだ。

「やったあ、めっちゃ、うれしい! いつでも、この子に会えるなんて!」

 飛び跳ねんばかりに喜んだあと、少年は名乗った。

「僕、()()()()()っていいます。家は、そこのマンションで……」

 流果が指さしたのは、隼人が住むマンションのすぐ近くであった。

「おお、ご近所さんだな」

 思わぬかたちで新しい知り合いができて、隼人も声を弾ませる。

 そこで、はたと気づいた。

「っていうか、時間! やべえ! こんなことをしている場合では……」

 時刻を確認して、隼人は冷や汗をかく。

 もはや、遅刻は決定的である。

「とりあえず、こいつ、いや、この猫、俺があずかって、会社に連れて行くから」

 流果から子猫の入った段ボール箱を受け取って、隼人は言った。

「流果くんも、学校、あるだろ」

 その言葉に、流果の表情がわずかに暗くなる。

 なにか引っかかったものの、隼人は先を急ぐことにした。

「猫のことは安心しろ。俺がちゃんと育てるから」

 そう言い残すと、隼人は子猫の入った段ボール箱を抱えて、会社へと向かったのであった。

    ☆☆☆



 メッセージのやりとりを終えると、スマホから手を離して、陽花はベッドに寝ころんだ。

 隼人くん、忙しそうだな……。

 いろいろと聞いてもらいたいことはあったが、そんな余裕はなさそうだった。

 それに、話したいといっても、どうしても伝えなければならないような内容ではない。ただ、愚痴を言いたかっただけだ。

 陽花が働くことになった会社では、もっとも年の若い女子社員が、朝から全員分のお茶を淹れて、それぞれのデスクまで運ぶことになっている。いまどき、そんな習わしがあるなんて、陽花には驚きであった。学校ではずっと男女平等の教育を受けてきて、女だからという理由でなにかをやらされるなんて経験がなかったのだ。しかし、ここで働くことになった以上、逆らうのもどうかと思って、陽花は前例に従い、毎朝、粛々とお茶を運んでいる。

 お茶を淹れるのは、それほど苦ではない。慣れてしまえば、朝のルーティンとして、なにも感じずに行うことができる。問題はそのあとだ。お茶を運ぶと、職場のおじさんたちが目を細めながら「やっぱり、若い子の淹れてくれるお茶はいいねえ」などと言って、舐めまわすように陽花を見てくるのだ。その視線が、実に不快で、逃げ出したくなるのだが、愛想笑いを浮かべて、とりあえず「ありがとうございます」と言っておくしかなかった。

 会社には同期がおらず、職場の愚痴を言い合うことはできない。先輩はいるが、いわゆるお局様的な存在で、いつも不機嫌そうにしているので近寄りがたく、打ち解けることなどできそうになかった。

 しつこくメッセージを送っちゃって、嫌われなかったかな……。

 自分の行動を思い返して、陽花は気に病む。

 今日は書類にミスがあるということで、お局様的な先輩にきつく叱られて、やり直すことになった。しかし、書類をよく見ると、実は相手の勘違いで、べつに直す必要はなかったので、結局、やり直したほうの書類ではなく、最初の書類を使うことになったのだった。

 その悔しさを話したくて、メッセージを送ったものの、隼人から返事はなかった。

 それで、がっかりして、気分転換のために、コンビニに寄って、スイーツを買うことにしたのだ。その一連の流れをすべて隼人に送っていた。

 メッセージ連投したせいで、重いって思われていたら、どうしよう……。

 返信がないことにじりじりして、何度もメッセージを送ってしまったことを陽花は反省する。

 以前つきあっていた彼氏から別れ話を切り出されたとき、相手が口にしたのが「重い」という言葉だった。

 告白されて、つきあった。最初は相手のほうから「好きだ」と言ってきて、陽花のほうは相手に好印象を持っていたものの、特別な感情があったわけではなかった。それが、つきあっているうちに逆転して、陽花はどんどん相手のことを好きになり、それと反比例するように、相手の気持ちは冷めていった。

 そんなころに、隼人と出会った。つきあっているひとがいることを話すと、隼人は「彼氏がいるなら、あきらめるしかないかー」と残念そうにつぶやいた。そんな隼人の言動に、陽花は尊敬に近いような気持ちを抱いた。好きだという気持ちがバレてしまうのが、こわくないのだろうか。自分の本音を素直に口に出して、まわりを気にせずに行動できるなんて、すごい……。そして、彼氏と別れたことを伝えると、隼人は告白をしてきたのだった。

 告白をされたとき、隼人のことが好きだったのかというと、陽花にはわからなかった。ただ、いまは好きだと自信を持って言える。つきあっているうちに、好きになった。

 いつも、そうだ。

 自分からなにかを好きになることはない。

 求めてくれる相手を好きになる。

 就職活動では、そんな自分の性格を嫌というほど思い知ることになった。

 優柔不断。決められない。他人任せ。

 たくさんの求人のなかから、どこに行きたいかなんて、選ぶことができなかった。

 なりたいものがあって、それに向かって、迷いなく進んでいこうとしている隼人を見ていると、まぶしかった。大学のほかの友人たちも、志望動機をしっかりと書き、つぎつぎと内定をもらっていくなか、陽花は就職が決まらなくて、最終的には父親に頼ることになった。

 少なくとも、自分を求めてくれる会社はあったのだ。

 いろいろと職場でつらいことはあるけれど、必要としてもらえているのだから、やれることをやっていこう……。

 うっすらと涙の浮かんでいた目をこすって、陽花はベッドから起きあがった。


藤野恵美(ふじの・めぐみ)
1978年大阪府生まれ。2003年、『ねこまた妖怪伝』で第2回ジュニア冒険小説大賞を受賞し、翌年デビュー。著書に、13年、啓文堂大賞(文庫部門)を受賞した『ハルさん』のほか、『初恋料理教室』『わたしの恋人』『ぼくの嘘』『ふたりの文化祭』『ショコラティエ』『淀川八景』『しあわせなハリネズミ』『涙をなくした君に』『きみの傷跡』などがある。

                

このページをシェアするfacebooktwitter

関連記事

関連書籍

themeテーマから探す