ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 試し読み一覧
  3. はつ恋

はつ恋

卯月~花の名前

 トキヲがいきなりおかしなことを言ったように聞こえたものだから、ハナはびっくりして、彼の背中をむ手を止めた。
「今、なんて?」
 腰のあたりに馬乗りになったまま、顔をのぞき込む。トキヲは、組んだ両手の甲にひたいを押しあててうつぶせに寝ている。ハナにはその鋭利な横顔しか見えない。
「俺に、もし何かあっても」と、彼は目を閉じたままくり返した。「悲しまんとけよ」 

 そうして、優しいため息のように付け加えた。
「俺は、もうじゅうぶん幸せなんやから」
 やぶから棒にいったい何を言いだすのだと面くらいながらも、根が律儀なハナは、四十代も半ばを過ぎた恋人の身に何かあった場合のことを考えてみる。職業柄、想像力は人並み以上にたくましいので──と言うより、子どもの頃から頭の中に想像力しか詰まっていなかったためにこの仕事についたので、つい具体的なところまで思い描いてしまう。
 彼を失った後の自分……。
 この家にひとり残され、どの日も、どの季節も、押し黙ったまま原稿ばかり書いて過ごす。縁側の日だまりに、食卓の椅子いすに、いちいちトキヲの幻影を見てはその不在を思い知らされる。眠る時、隣をまさぐっても彼はいない。真夜中に寝返りを打ったこの無骨な幼なじみが、〈ハナ姉、いま怖い夢見た〉などと言いながら抱きついてきたり、〈なあ姉ちゃん、ちょっとだけいれさして〉とのしかかってきたり、終わった後、二人の間で丸くなる猫をつぶさないように気をつけながら〈おやすみ〉の口づけをかわしたりすることも、二度と、なくなる。
 背中を揉む手が止まってからそこまで、十秒。
 十一秒めに、両目から涙が噴きだした。
「いやだぁ……」
 ハナは、大きな泣き声をあげた。驚いたトキヲが身体からだを反転させて起きあがり、ハナのほおを両手ではさむ。
「どないしてん、子どもみたいに。もしも、の話やろが」

「もしもの話でも、いやだ。なんでそんなこと言うの。この歳になって、やっとトキヲとこんなふうになれたのに、やだよ、ひとりはもう、いやだ。置いてっちゃやだあぁ」
 自分でも馬鹿じゃなかろうかと思うほど、涙はとめどなくあふれだし、頬を伝い、畳に落ちてぱたぱたと音を立てる。
「あほやな」トキヲがハナを抱き寄せ、あやすように揺らして背中をでる。「ほら、もう泣かんといてくれ。俺が悪かった。大丈夫、ちゃんと気ぃつけるから、な」
「絶対? もう、足場から落っこちたりしない?」
「ああ」
「運転も?」
「ああ、ほんまに気ぃつける」
 ううう、と唸う なって、ハナは彼の肩口に顔を埋める。
 もうあとほんの数時間後、今日のが暮れないうちに、トキヲは大阪の実家へ向けてつ。小僧の頃からさんざん世話になってきたという大工の棟梁とうりょうに、新しい現場の応援を頼まれたのだ。
 今では自らも一人親方として働くトキヲの仕事の基盤は地元大阪にあり、文章を書いて暮らすハナの住まいはここ、千葉県南房総ぼうそうの海のそばにある。しかもトキヲには、前の結婚で授かった十九の娘と、七十を過ぎた母親がいる。いくら恋しくても自分が独占してしまうわけにはいかない、とハナは思う。何しろ彼の母親は、ハナにとっても一時は親がわりだった恩人だ。子どもの頃、トキヲとハナは隣同士の家に住んでいて、まるでほんとうの姉弟のようにして育ったのだった。
 なまあたたかい春の風が吹きこんでくる。トキヲの頑丈な首に抱きついたまま、ハナは、開け放った縁側の先を見やった。昭和三十年代に建てられたというこのひなびた家の庭は、一年のうちでいちばん美しい季節を迎えようとしている。
 梅や、万作まんさく辛夷こぶしや雪柳は終わったが、今は染井吉野とあんずの花が満開だ。足もとには様々な種類の水仙と、吸い込まれそうな青色の勿忘草わすれなぐさが乱れ咲いている。そうした花々の名前は、幼い頃から母親が一つひとつ教えてくれた。自分の名前がハナなのに、花のことを何も知らないのはおかしいから、と言って。
 時折、桜の薄い花びらが風に乗ってひらひらと部屋の中に舞い込み、音もなく畳の上に落ちる。水面にふわりと浮かぶかのようなはかなさだ。
 野中の一軒家というほどではないにせよ、農業を営む隣家はうっそうとした竹林の向こうに隠れて見えず、生活の物音もほとんど届かない。日に何度か、たんぽぽとぺんぺん草に覆われた土手の上を、がたんごとんと二両きりの電車が通り過ぎてゆく。
 庭先からそのまま続く小さな家庭菜園の、ほっくり湿った畑土の匂いに、かすかな潮風の香りが入り混じる。土の匂いも潮の香りも、甘く、どことなくいやらしい。官能の端々にしっとりとまとわり付いて、ハナの身体の内側へと無数の触手を伸ばしてくる。春という季節のせいばかりではない。トキヲとくっついているとしょっちゅうこうなる。うずうず、むずむずとして、もっとぴったり、どこもかしこも隙間すきまなんかないくらいにくっついて彼を味わい尽くしたくなる。
 いい歳をして何を、とハナは自分を恥ずかしく思う。しかも、お天道様はまだこんなに高いのに。
 以前はハナにも、夫と呼ぶ人がいた。正直に言うと、二人、いた。けれど結局、二度とも別れた。子どもがいなかったこともあり、お互いに我慢を続ける理由が見つけられなかった。
 それ以来、誰かと刹那せつな的な恋人ごっこをたのしむ時間は持っても、先を考えることを避けたまま今まで過ごしてきた。老後、と呼ばれる時間までにはまだもう少し間がある気がしたし、ひとりきりの生活は何と言っても気ままで、自分の身一つならば何とか面倒を見られる。
 南房総の田舎いなかにこの家を見つけて衝動的に移り住んだのは、久々に大きな冒険をしてみたかったからだ。
 とうもろこしや西瓜すいかの畑の間を抜ける長い私道のつきあたりに、ぽつんと建てられた横板張りの一軒家。不動産屋に案内されてひと目見たとたん、むしょうに懐かしくなった。そこは、十歳まで暮らした家と、造りや雰囲気がとてもよく似ていた。北側に透明なトタン屋根をさしかけたコンクリート敷きのテラスがあって、古いとうの椅子や、角のすり減ったスツールが置かれているところまでそっくりだった。
 この家で寝起きをしたい。毎朝、目覚めたらガラス戸を開け放って愛猫を庭に出してやり、ほうきで廊下を掃き、土埃つちぼこりは固く絞ったぞうきんで水拭ぶ きをする。海の幸や畑の菜っ葉など、旬のもので料理をし、食べ、日に何度か美味おいしいお茶や珈琲コーヒーれて、午後には机に向かって書きものをする……。
 例のごとく想像力を駆使して思い描いただけで胸がふるえて、ハナは、南房総の家を手に入れた。自分自身の〈終わりの風景〉をこれから少しずつ作ってゆくのに、この家と庭はふさわしい。東京へなんか月に一、二度、用事のある時だけ出かけていけば充分だ。その時々に付き合う男のひとがいたとしても、たまに逢うくらいがちょうどいい。
 自分がかなりの恋愛体質であることはわかっている。たとえ夫婦であっても、家族や空気みたいになってしまうのじゃなく、ずっと恋人気分を味わっていたい性分であることも。
 けれど、生まれて半世紀になんなんとしている女がそんな願いを口にしたところで薄ら寒いばかりだ。この先また誰かを好きになることはあったとしても、自分の恋した相手が同じくらいこちらを好きになり、息も止まるほどの強い力で抱きしめ返してくれるなどという僥倖ぎょうこうはもう、二度とないものとあきらめたほうがいい。手に入らないものを望み続けても、自ら人生を虚しくするばかりだ。これからは、ひとりの時間をどれだけ豊かにするかを考えていこう……。
 そうして、この家に移り住んで数年。
 ハナは、トキヲと再会した。奇しくも彼のほうもまた、二度の離婚を経て今はひとりだった。

 

※つづきは11月5日頃発売の『はつ恋』でぜひお楽しみください!

([む]4−1)はつ恋
このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す