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ひねくれ給仕は愛を観ない

 一章 浄化の水

「なんだその辛気くさい顔は」
 かながコーヒーを置いて笑みを浮かべたら、客にかつを見る目をされた。
 天井から重厚なシャンデリアがつり下がり、コーヒーの匂いに彩られるカフェー。
 ここは客と女給が甘く苦く言葉で遊ぶ社交場、のはずなのだが。
「相手はいらんから、どっか行ってくれ」
 しっしっと手で追い払われた叶恵は、めいっぱい上げていた口角をすんっと戻す。
 そうすると、表情筋が仕事を放棄した顔は、生気のない大きな瞳が主張する。
 よく見れば理知的に整った容貌をしているのだが、いかんせん表情がないせいで怒っている、あるいは不機嫌な印象のほうが強い。
 叶恵にそのつもりは一切ないが、客は勝手に圧を感じたらしく、目を背けてコーヒーに口をつける。
 未練がましく待ってみたが、当然チップをくれる気配はない。
「……どうぞごゆっくり」
 諦めてテーブルから離れた叶恵は、ひっそりとため息を吐いた。
 結い上げた髪から零れた後れ毛を搔き上げる。
 若い女でも、陰気で愛嬌のない女給では生活できるほどの稼ぎにはならない。
 しっぽう柄のめいせんの上につけた、真っ白なエプロンのポケットは今日も軽い。
 その意味は、収入がないどころか大赤字だということ。
「借金どう返そ……」
 つきしろ叶恵、十九歳。職業、カフェー「メイデン」の女給。
 ただいま、人生の崖っぷちだ。

  *

 の震災を経て元号が変わり、乱雑な変化に包まれる首都、東京。
 それは銀座も例外ではない。一度はすべてが崩れ落ちたが、数年経った今ではめざましい復興を果たし、以前にも増して華やかな街となった。
 次々と建ったデパートは最新流行の発信地となり、道には人力車やタクシー自動車が走る。街灯の瞬きにも負けないきらびやかなネオンの下を、洗練された衣装に身を包んだモガやモボが気取った足取りで闊歩した。
 そんな洒落者達が集う場として機能したのがカフェーだ。
 明治にできたこの文化は、はじめは文化人達の社交場として開かれた。
 時代が下った今では様相が変わり、コーヒーや酒と西洋料理と共に、女給との会話とちょっとしたふれあいを楽しむ場にもなっていた。
 華やかな着物に帯を締め、レースがたっぷりついた真っ白なエプロンを着けた女給は、女性が男並みに稼げる数少ない職業として有名だ。
 容姿と機転と愛想があれば、世間を渡り自立できる。各店でけんを競う彼女達は、銀座の華として注目と羨望を集めていた。
(まあそんなの大通りの店の子だけで、こんな裏通り勤めの女給は薄給に喘いでるんだけど)
 まさに自分のように、と叶恵は思いつつ、ぞうを引きずってすごすごキッチンに盆を戻しに行くと、嫌な人物に見つかってしまった。
「かなさん、あなたまたチップをもらってなかったわね?」
 進路に立ち塞がったのは、先輩であるひろだった。
 今の秋の時期に相応ふさわしい華やかなりんどう柄の銘仙を纏い、叶恵と同じ真っ白なエプロンを着けている。ただ化粧で強調された目元は、苛立ちにつり上がっていた。
 源氏名で呼ばれた叶恵は仕方なしに、銀の盆を抱えて向き直る。
「お客さんに、いなくていいって言われたもので」
「それで素直に帰ってくるんじゃないの! 笑顔の一つでも浮かべてしなつくってもぎ取るのよ!」
 それをしようとして今回失敗したのだが、言うと火に油を注ぐとわかっていたため、叶恵は黙り込む。
 神妙にしていたつもりだったのだが、裕美の顔がますますきつくなる。
「あなたはそんなにのんきにできる身分じゃないでしょう! 私達はチップが稼ぎなの。もらえなかったらおまんま食いっぱぐれるどころか、せん分でまた借金が増えるのよ? 山ほどたまってんでしょ?」
 痛いところを突かれて叶恵は渋い顔になる。
 女給の収入は基本的に、客からのチップによる歩合制だ。だから客に気に入られ常連がつけばつくほど、給金は増える。
 だがそんなうまい話はなく、店からの給料はゼロの上、出銭という女給が毎日店に納めるお金があるのだ。
 昼夜のまかない代や支給品のエプロン代などの被服費、下宿代まで入っていて、実質は店への上納金だと叶恵は知っていた。
 ともかくなかなか稼げない叶恵は、毎日の出銭分すら払えずに店への借金がかさんでしまっていたのだ。
「髪だって美容院にも行かず自分で結んでるし、着てるのは見覚えのある着物だし! 女給は容姿が命なのよ!? あなたがすぼらしいと私達や店の迷惑になるの!」
「それはすみません」
 三つ編みを後頭部でお団子にしたイギリス結びは、自分なりに凝ったのだが、お眼鏡にはかなわなかったらしい。
 着物も七宝柄の銘仙に昼夜帯を締めているだけだ。季節感を出している裕美からすれば、気が抜けているように見えるだろう。
 けれど美容室代も華やかな着物も、すべて自腹だ。叶恵が流行のものをそろえようとしたら、店から金を前借りすることになる。そうするとますます借金がかさんでしまうため、うかつには頼れなかった。
 裕美はその謝罪すら気に障ったらしく、叶恵の胸に指を突きつけた。
「ともかく、その陰気な顔をどうにかしなさい! 愛想笑いもできないなんて接客に向いていないわ。ほかの仕事を探すべきよ!」
 あまりにその通り過ぎて、返す言葉はない。
 叱責されている今ですら、叶恵の表情はほとんど動いていない。特に笑顔を作るのが苦手なのだ。
 どうしても顔が引きつり、相手を冷ややかに見るような表情になる。そのくせ口も大して回らないため、女給に向いていないのは自分が一番わかっていた。
 辞められるものなら辞めたい。だが叶恵にはそうできない事情があった。
「いいよいいよ、裕美さん。叶恵さんも頑張っているんだから」
 本名で呼びかけられた裕美は、はっと叶恵の背後を見た。
 つられて叶恵も振り返り、こみ上げてくる苦味を押し殺した。
 そこに立っていたのは、焦げ茶色のスーツを着こなした四十代ほどの男性だった。
 男らしい照りのある顔は、穏やかをそのまま形にしたような容貌で、怒っているところを見たことがない。
 だが裕美は緊張を宿すと気まずそうに会釈をする。
むらかみオーナー、見苦しいところをお見せしました」
 このカフェーメイデンのオーナー、村上だった。店の入るビルの持ち主でもあり、ほかにも様々な事業に投資をして資産を築いているらしいと聞いた。
 彼の気分次第で、こんなカフェー一つどうとでもなってしまう。
 だからカフェーの雇われ店長はもちろん、女給達も頭が上がらない人だった。
 村上は裕美を穏やかに諭した。
「いいんだよ。裕美さんは店のことを考えてくれているんだろう。でも、叶恵さんは頑張っているのだから、大目に見てやってほしいな。着物は、店で立て替えられるようにしよう」
「オーナー!?」
 思わぬ申し出に、裕美も叶恵も驚いて村上を見る。
 村上はなんてことないといわんばかりの顔で、叶恵へ安心させるように微笑む。
「だって彼女は行くところがないとうちに雇われたんだ。このまま放り出すのは可哀想だろう? 返済はまだまだ待てるから」
「っ! オーナーのお好きになさってくださいっ!」
 裕美は射殺さんばかりの目で叶恵を睨んだあとホールへ戻っていった。
 一人残されてしまった叶恵は、柔和な笑みを浮かべる村上へため息を吐きたいのを寸前で堪える。
 そう、叶恵はなぜか村上に気に入られていた。
 確かに半年前、この店に流れ着き高い給金に飛びついて女給として雇ってもらえたから、多少なりとも恩はある。だがしかし、彼の「厚意」は今回の着物のように、叶恵にとっては重荷だった。
 しかも村上の叶恵贔屓びいきは店の女給達は全員知っているため、おかげで叶恵は肩身が狭い。今もホールから刺すような視線を感じた。
「あの、オーナー。私にお気遣いはいりません」
 せめて着物を断ろうと叶恵が言い出すと、わかっているとでも言うように村上に首を横に振られた。
「遠慮しないでくれ、君が可愛くなるものを選んであげるからね」
(なら勝手に着物代を借金に加算しないでくれないか)
 叶恵の心の声など、村上には届かないだろう。
 断ればオーナーの厚意を無下にしたと、店長や女給達に嫌みを言われて孤立する。
 だが叶恵は店を辞めても借金を返す当てなどない。これがメイデンを辞められなくなっている理由の一つだった。
 せめてもの抵抗として無言でいると、どう取ったのか、村上は励ますように叶恵の頭にぽんと手を置いた。
 肌と肌が触れた瞬間、叶恵の全身にぞわりとおぞが立つ。
「大丈夫、君の清廉さは私が知っているからね」
「おそれ、いります」
 体が震えかけたのは、悟られなかっただろうか。
 幸か不幸か叶恵の表情は変わらなかったらしく、村上は事務室へ去っていった。
 そこでようやく息を吐いた。
「あー……くそ、辞めたい」
 この仕事が向いていないのは叶恵だってわかっている。
 だが、辞められない。逃げ場も改善方法も見つからないまま、日々をやり過ごすのに必死になるしかないのだ。
 追い打ちをかけるように、どんっと同僚に肩でぶつかられた。
「ほら邪魔、新しい客の相手でもしたら? あんたでも猫の手にはなるでしょ」
 銀座通りから一本外れた裏通り、ビルの一階にあるここカフェーメイデンは、今は夕方、少しずつ客が増える時間帯だった。
 散策の足休めや、仕事終わりに洋酒と女給のサービスを求めてくる男で賑わう。
 重厚なテーブルと椅子が並ぶ店内は八割ほどが埋まっており、客の吸うたばこの煙がそこかしこに漂っている。接客が壊滅的な叶恵でも必要とされた。
 頭が痛くとも労働は待ってくれない。
(とにかく、借金を減らすためにもチップをもらわなきゃ。こういうときに副収入のほうが来ると助かるんだけど……)
 そんなの、望みが薄いけれど、と友好的な同僚の気遣いの眼差しに目顔で礼をしつつ、叶恵は途方にくれる。
 するとドアベルが鳴って客の来店を知らせてきた。
 ほかの女給はそれぞれの担当テーブルが忙しいようだ。
 仕方なく入り口へ迎えに行った叶恵は、そこで思わず立ち尽くした。
 恐ろしく秀麗な青年だった。
 甘く垂れ下がった目尻が優しげで、すっきりと通った鼻筋ともあいまって、西洋の俳優のような華やかさがある。柔らかそうな髪を整髪剤で固めず、自然な風に流しているのがよく似合っていた。
 中折れ帽をかぶり、濃紺のニュアンスが入ったスーツを長身で着こなす姿は、その場にいるだけで、目が吸い寄せられる華がある。
(女のほうがほっとかない美男子だな。しかも遊び慣れてる)
 こんなに忙しくなければ、女給達の争奪戦になっただろう。
 叶恵が担当するとまた恨まれそうだ。
 ほどよいところで手の空いた誰かに代わってやるか、などと算段しつつ近づくと、秀麗な青年と目が合った。
「君、二人なんだけど良いかな?」
 朗らかに告げる声はよく通り、声まで良いのかと感心した。顔には出ないが。
 ただ、その言葉でようやく叶恵は彼に連れがいることに気がついた。
 連れは大きな風呂敷を抱えた純朴そうな青年だった。年齢も秀麗な青年と同じ二十代前半くらいに見える。カフェーに来るのははじめてのようで、天井からつり下がる名物のシャンデリアや、重厚で豪奢な内装をきょろきょろ見回している。
 友人だろうか。妙な組み合わせだと叶恵は思ったが、客ならば否やはない。
「はい、ご案内します」
 叶恵が二人を店内へ導こうとすると、純朴そうな青年が怖じ気づいたようだ。
「や、やっぱりいいよ、僕は……!」
 いきなり身をひるがえしたのに対応できず、純朴そうな青年の手が叶恵に触れた。
(しまっ……)
 叶恵が後悔する間もなく、目の奥の鈍痛と共にそれ、を観せてくる。

 ──そこは薄暗く、煙が立ちこめる部屋だ。仰々しくベールをかぶる女と、テーブルに鎮座するきゃしゃなグラス。中は淀んだ褐色の液体で満たされている。
『これは、あなたの罪を浄化する水です』
 彼女が大ぶりの指輪が嵌められた指先で、細い棒を差し入れ息を吹きかける。
 とたん、淀みきっていたグラスの水がたちまち澄んでいく──……

「っ」
 息を詰めた叶恵が手を引くと、店内に流れるクラシックと喧噪が耳に戻ってくる。
 視界にあるのも薄暗い部屋ではなく、重厚な家具の並ぶ店内だった。
 時間としては、ほんの一瞬のことだ。
 ため息を吐きたくなるのを叶恵は呑み込む。
(……くそ、また観るなんて)
 それは叶恵が持つ奇妙な力、せんがんだった。
 触れた物、触れた人の強い記憶が垣間見えるのだ。
 気をつけてはいるのだが、不意の事態には対処しづらく、副作用である目の奥の鈍い重みに唇を引き結ぶ。
(ただ、今観た記憶だと、もしかして……)
 叶恵が期待に胸を高鳴らせながらそちらを見ると、手が当たってしまう形になった青年が申し訳なさそうにしていた。
「ごめんなさいっ。痛くありませんでしたか?」
「いえ……大丈夫です」
 叶恵はひとまずそう答えたのだが、純朴そうな青年は顔色を悪くする。
 どうやら無表情な顔面のせいで、叶恵が不機嫌になったと思われたらしい。
 こういうとき、愛想笑いができないのも不便だな、と感じる。
 ぎこちなくなりかけた空気を緩ませたのは秀麗な青年だった。
 まるで秘め事を明かすような距離で、叶恵を覗き込んできたのだ。
「ところでなんだけど、君は知っているかな」
「な、んでしょう?」
 距離の近さに叶恵が若干のけぞりながら問い返すと、彼は微笑んだ。
 自分の魅力を完璧に知り尽くした仕草だった。
「ここに、怪奇事にめっぽう強い女給がいるって聞いたんだ」
 彼らの目的を察した叶恵は、それでも注意深く秀麗な青年を見返す。
「……どなたに聞いたんです?」
「し、新聞記者のよしさんって人ですよ。メイデンにいる『かな』って女給に会えって。彼女なら、大体の奇妙なことは確かめられると教えてもらったんです」
 答えたのは純朴そうな青年のほうだった。
 知り合いの記者の名前に、叶恵はため息を吐いた。
 ずいぶん大きく宣伝してくれたものだ。だが彼が紹介したのなら、叶恵が垣間見た光景からしてもなにか「ある」のだろう。
 叶恵は改めて、二人の青年を上から下まで観察した。
 少なくともお金は持っていそうで、金策が必要な今は正直助かる。
(ひやかしだったらせいぜいぼってやろう)
「『かな』は私です」
「えっ」
 純朴そうな青年が戸惑いがちに見返す中、叶恵は無表情のまま──ただし内心は副収入への期待ににやつきながら、店内を指し示した。
「相談はチップ次第ですよ。旦那様がた」

 奥まった席に案内すると、秀麗なほうがさっそく自己紹介をしてくれた。
「俺は、彼はもりもとくんだよ」
「ど、どうも」
「では飲み物かなにか頼んでいただけます?」
 叶恵がそう言うと、二人ともコーヒーを頼んだ。
 女給が売りのカフェーでは、飲み物の味などさほど気にされない。
 ましてや緊張しているらしい森本は、配膳したカップに申し訳程度に口をつけるだけだった。
 別に良い。本題は別なのだから。
 いつも通りの光景に叶恵はなんの感慨も浮かばなかったが、久賀は一口飲むと目を見開いた。
「わ、おいしいね。良い豆を使っているだけじゃなく、淹れ方が良いのかな」
「……どうも」
 内心驚きつつ、叶恵はぼそぼそと礼を言った。
 このコーヒーは叶恵が担当している。接客にあまり出ない代わりに裏方仕事を任されてもいるからだ。
 ただ味に言及されたのがはじめてで、叶恵は戸惑いに落ち着かない気分になる。
 とはいえそれも顔には出ていないだろう。
「さて、相談なんだけど……」
 さっそく久賀が話し始めようとするのを、傍らに立ったままの叶恵は手で制した。
「その前に断っておきますが、私は霊術家ではありません。できるのは、私のわかる範囲でいくつか助言することだけですよ」
「霊術家じゃないって言い切るんだ?」
 久賀が興味深げに目を細めるのに、見透かされるような気分がして眉を寄せた。
 霊術家は物事を見通したり、不治の病を治療したり、痛みを感じずに炎の中を通れたりするという触れ込みだ。大抵は種があるとはいえ、不可思議なことには万能というのが一般的な印象だろう。
 だが叶恵の持つ千里眼は奇妙とはいえ、世間の霊術家のような奇跡は起こせない。
 とはいえ、彼らに違いを説明してもわかるわけがないだろう、と思い直しことさら力強く頷いた。
「私はあくまでカフェーの女給としておしゃべりをしているだけ、ってていなんです。ですので、神秘的な力で物事を解決! などは求めないでください」
「なるほど、だから椅子にも座らないんだね」
 納得したように空いた椅子に目を向ける久賀に、叶恵は内心苦笑いをした。
(別に座っての接客は禁止されてないけど、座ったら同僚の嫉妬を買うからだよ)
 背中に感じる刺すような視線をいなしつつ、叶恵は彼らに手を差し出した。
「なんだい?」
「さっき言ったでしょう?」
 森本は不思議そうに叶恵の手を見ていたが、久賀は違った。
 懐から財布を取り出すと、抜いた紙幣をすっと差し出した。
 握らせてくれようとした手を慎重に避けて、紙幣を手から抜き取った叶恵は、金額を見て満足する。
(一円札か、相場通りだ。なかなかわかってる御仁だな)
 そのやりとりで、森本はようやくチップを求めていたと理解したらしい。
 少し複雑そうにする彼に、叶恵はさっさと問いかける。
「で、相談事はなんです?」
「でも……君は、不思議な力は使えないんですよね……?」
 森本のあまり気が進まない様子に、叶恵はしまったと思った。
 あまりに霊的なものを否定しすぎても、警戒されるのを忘れていた。
 叶恵は元々こういった話運びは得意ではなく、何度か客を逃している。
 内心焦ったが、今回は久賀の助け船があった。
「でも、例えば研究家なら、使えなくても詳しいというのは矛盾しないさ」
「それは、そうかもしれない……?」
「小手調べに、君が不思議がっていた、霊術家の方が起こした奇跡を話してみたらどうかな? どんな原理なのか、彼女なら解説してくれるかもしれない」
 久賀の提案に森本は心動かされたらしい。
 神妙な面持ちで話し始めた。
「その霊術家の方は、人々の病を穢れとして霊水にため込み、浄化することで治す力があるそうなんです」
 叶恵は自分の表情筋が死滅していることに少しだけ感謝した。
 その一文だけで、げんなりするほど怪しさ満点だったからだ。
 とはいえ、科学至上主義が席巻したご時世だからこそもある。科学ですら解決できない問題に直面したとき、霊術家達が希望を示せば飛びつきたくなる者がいるのだ。
 森本もその一人なのだろう、必死さと熱っぽさをにじませていた。
「今日、実際に穢れをため込んだ水を浄化する様を見せていただいたんです……!」
 その足でカフェーに来たというのはずいぶん急なことだ。
 森本は行動的な性格には見えないが、もしかしたら久賀という友人がいたことで、気が大きくなったのかもしれない。
 先ほどの反省を生かして、叶恵は努めて平静に問いかけた。
「どちらで見せていただいたんです?」
「えっとですね、先生は、定期的に浄化の見学会を開くんです。今回は銀座のビルの一室だったんですが、僕以外にも見学者が十人ほどいました。窓はカーテンが閉められて薄暗く、びゃくだんの香がたきしめられていて、とても厳粛で神秘的でした……」
「先生はその場にいた見学者の治療をしてくれたんだよね。どんな風だった?」
 うっとりと思い出す森本を久賀が促す。
 その口ぶりに叶恵は若干違和感を抱いたが、森本の弾んだ声に気を取られた。
「そうなんですよ! あらかじめ見学者の一人から穢れを移した水が、グラスに用意されてました。なんの変哲もないガラスのコップでしたね。僕も含めてその場にいた全員、ちゃんと調べましたから。水はもう見るからに淀んで飲めたものじゃなさそうな褐色の液体でした。だけど、先生が特別な細い杖を差し入れて、息を吹きかけたとたん、たちまち透明になったんです!」
「へえ、息を吹きかけるだけで、淀んだ水が透明になったのか。それは神秘的だね」
 感心したような久賀の相づちに、森本は自信を得たようだ。
 傍らの風呂敷を解いて、中から仰々しいラベルが貼られた瓶を取り出す。
「人体の六割が水だから、水分を入れ替えるだけで不治の病も治せるんだと言ってました。これが飲むだけで浄化される水だそうで、できる限り購入してきました! これでおりも……!」
 森本は完全に信じ切ってしまっている。
 確かに、目の前で水が変化すれば魅せられもするだろう。
 叶恵はひとまず必要な情報を得るために質問した。
「その浄化されたあとの水は、飲んだりして確認しましたか?」
「一度は穢れが移った水だから廃棄されるそうですよ。水も、ちょっと薬臭い気はしたけど、施術された本人が飲んでいた薬の匂いが移ったんだろうって。あ、でも吉田さんはすごく気にしてましたね」
 思い出しながらも、森本は不思議そうにする。
 叶恵は顔見知りの新聞記者である吉田の意図を察して、頭が痛くなる。
(潜入取材に行ったらあまりにカモすぎて可哀想になった、っていうより、後日真相を聞きに来るから準備しておけってところか)
 彼らからのチップが報酬ということだろう。
 自分の懐が痛まないようにする点がずるい。
 話の中で確かに種はわかった。だが誰かの思惑にほいほい踊らされるのは業腹だ。
 一気にやる気をなくした叶恵が悩んでいると、久賀と目が合った。
 彼はにっこりと笑うと、テーブルに手を滑らせる。
 手に隠れていたのは一円札が三枚。チップとしてはかなり色を付けた額である。
「久賀さんっそこまでしていただかなくとも!」
 森本が焦った顔で腰を浮かせるのに、久賀は気にした風もなく笑う。
「いいよ、俺が気になるんだ。……それで、どう?」
 話を振られた叶恵は、久賀と滑らされたチップを交互に見る。
 これで叶恵が一度にもらったチップの最高額を更新した。
 たとえ誰かに踊らされようと、金には代えられない。
 テーブルからすいと三円を受け取り、エプロンの隠しポケットに詰め込んだ叶恵は、
こほんと咳払いをした。
「承知しました。では浄化を再現してみましょうか」
「え?」
 きょとんとする森本と、愉快げに目を細める久賀の視線を感じながら、叶恵は軽い足取りで厨房へ向かった。

 テーブルに戻ってきた叶恵は、準備したティーカップをことりと置いた。
 中には褐色の液体が入っている。
「今から、この紅茶を浄化してみせます」
 不思議そうにティーカップを覗き込んでいた森本は、あっけにとられた。
「ええ!? 霊術家じゃないって自分で言ってましたよね!?」
「ですが、森本様はうさんくさい新聞記者の言うことまで信じて、私へ相談しに来たのですよね。その時点で、どこか違和感を覚えているんじゃありませんか」
「それは……その……」
 森本は言い淀んだ。図星だったのだろう。
 彼からは、あえてのめり込もうとするような熱を感じた。叶恵は諸事情でそういう気配だけは読み取るのが得意だった。
 対して久賀は、興味深そうにティーカップと叶恵を見ている。
「俺は見てみたいな。ぜひやってみせてほしい」
 好奇心のように見えるものの、それだけが本心のようにも思えずやりにくい。
(まあ、チップ分は働くか)
「残念ながら、霊術家先生のような特別な杖はないので、ストローで代用しますね」
 叶恵は片手に持っていた麦わらのストローを彼らに見せる。
 なんの変哲もないストローにしか見えないだろう。
 その先をゆっくりとティーカップにつけた。
 叶恵はそっと目を伏せる。
 それだけで、叶恵の面差しは神秘的な雰囲気に包まれる。
 彼らの視線が注がれているのを感じながら、叶恵は身をかがめてストローに息を吹き込んだ。
 ぷくりと気泡が浮き上がる。
 森本は目を見開いた。
「色が……!」
 ぷくぷくと水面が泡立つたびに、褐色は徐々に薄くなる。
 そして、まるで最初からそうだったように水は透明になっていた。
 劇的な変化には、久賀も目を丸くしている。
 特に森本はいっそ恐れに似た色を見せた。
「紅茶が水に変わるなんて……本当に君は霊術家ではないんですか?」
「違いますよ。ほら、匂いを嗅いでみてください」
 叶恵が淡々とカップを差し出すと、森本は恐る恐る鼻先を近づける。
「あれ、あのとき嗅いだのと、同じ……?」
 狙い通りだ。と叶恵が内心手を打っていると、同じように嗅いだ久賀は気づいたようで瞬いた。
「これはヨードチンキの匂いじゃないかな」
「ああ、確かに消毒薬だ! でもなぜその匂いが?」
 森本も一気に腑に落ちた顔になるが、新たな疑問を抱いたようだ。
 自然と注視された叶恵は、その要求に応えるために口を開く。
「ご指摘の通り、これは紅茶ではなく、ヨードチンキを水で薄めたものです。ヨードチンキは、レモンや亜硫酸塩に触れると透明に変化します。今回はストローの中にあらかじめレモンの汁を入れておきました」
「そこで化学反応が起きて、ヨードの色が消えたんだね」
 呑み込みの早い久賀に叶恵は頷いた。
 もう一度、レモンとヨードチンキを持ち込み、レモン汁を直接絞って入れると森本はようやく納得したらしい。
 厨房からの視線は痛いが、借金返済のためだと叶恵は無視した。
「まず気になったのは、参加者に浄化したあとの水を、色のほかは確認させなかったことです。ヨードチンキですから、飲まれたらばれます。強い香を焚いていたのは匂いをごまかすため。部屋が小さく参加者が少なかったのも、同じ理由でしょう」
 どんどん青ざめていく森本は、傍らに置いていた浄化の水の瓶を手に取った。
「で、ではこの霊水を飲んでも病気は治らないのかい……!?」
「そこまではわかりません。私が言えるのは、その女性が少なくとも、穢れの浄化はできないということです」
 霊術商法としては王道の手だ。さらに叶恵が観た光景では、周囲で感動する参加者達も少々わざとらしかった。
 仕込みだろうというのは、叶恵が知るはずのない情報なので黙っておく。
「世の中の怪奇なんて大体まやかし、なんですよ」
 そう、叶恵の目のような力はめったにない。
 森本は水の瓶を抱えながら、がっくりと肩を落とす。
 ひとまず納得はしてくれたようだ。彼が失った金額は叶恵の知るところではない。
(まあこれで四円ならぼろもうけね)
 エプロンのポケットに入った紙幣に内心にんまりとしていると、視線を感じた。
 落ち込む森本の隣にいる久賀だった。
 まるではじめて見た珍獣のように興味深そうに叶恵を見ている。
 なぜか悪寒を覚えた。
 こういう勘は無視してはいけない。
 早々に立ち去るべく叶恵がカップを盆に載せていると、久賀が森本を慰めだした。
「まあ、治らないものに縋る前に戻ってこれたと思えばいいんじゃないかな。それに、より頼りになりそうな人を見つけたじゃないか」
 聞き捨てならないことを言われた。
 ぎょっとした叶恵は、顔を輝かせた森本と目が合ってしまった。
「そうだよ! これこそ天に見捨てられていない証拠かもしれない! どうか助けてくださいませんか!」
「ええっとぉ……?」
 今にも縋らんばかりの勢いに叶恵は頰が引きつった。
 それは、人生の岐路に立たされた者の切羽詰まった色を感じさせる。
 よく、知っていた。かつて叶恵が嫌というほど遭遇した光景だから。
(他人の人生を背負うなんて冗談じゃない)
 ずっと、そういうものから逃げてきたのだから。
 あくまで叶恵ができるのは助言のみだ。たかだか茶飲み話に過大な期待を寄せないでほしい。
「旦那様がた、それはちょっと……」
 金づるは惜しいが引き際も大事だ。
 さっさと拒絶しようと口を開きかけたとき、なぜか久賀が立ち上がった。
「悪いんだけど、お手洗いに行きたいんだ、案内してくれる?」
「え、えっちょっと」
 叶恵がなにかを言う前に、久賀に押される形でテーブルから離れる羽目になる。
 一体なんだと若干不審に思いながらも、仕方なく手洗いに案内すると、ふわっと甘く爽やかな香りがした。
 客のたばこの匂いが充満した中では一種の清涼感がある。
 久賀が身をかがめてきたせいで香ってきたのだ。
 彼の左目尻にぽつりとある泣きぼくろが、妙に目に焼き付く。
 突然のことに叶恵が硬直すると、ふっと耳元で彼の吐息が聞こえた。
「森本くんは一商店を任されている裕福な男だ。謝礼は期待しても良いと思うよ?」
「っ!」
 叶恵がばっと顔を上げると、久賀は親切げな態度を崩さない。
 そこでようやく、彼が叶恵に助言をするために席を離れたのだと悟った。
 彼の感情はやはり見えなくて、ぞわぞわと警戒警報が響くようだ。
(でも、謝礼、つまりお金だ。チップに四円もくれるやつの友人なら、呉服代も稼げるのでは……!)
 あまりに強烈な誘惑だった。
 ぐらりと揺らいだ叶恵は、口を開く。
「あなたに、利益があるんです?」
 こんな得体の知れない女を引き込んで。
 言外に匂わせてしまったのは、やはりこの男の意図が読めないからだ。読めない者が一番怖い。叶恵はよく知っていた。
 叶恵の警戒に久賀はかすかに目を見開くが、すぐに口角を上げた。
「うん、もちろん」
「……ずいぶんお友達思いなんですね」
 曖昧に微笑むだけで、久賀はそれ以上答えない。
 叶恵はため息を吐いて、テーブルに戻った。案の定久賀もトイレに入ることなく後ろをついてくる。
 食えない客だ。だが叶恵は女給である。客の事情には深く突っ込まず、その場限りで楽しませれば良い。
 だから所在なげに待っていた森本へ、叶恵はせいぜい平然とした顔で言った。
「相談はチップ次第ですよ、旦那様がた」
「っはい、もちろんです!」
 あからさまに表情を輝かせた森本が、あたふたと財布を取り出すと、テーブルに五円札を乗せる。
 これで叶恵の一ヶ月分の収入だ。借金返済に消えるがあまりに助かりすぎる。
「で、なににお困りで?」
 叶恵が内心ほくほくできたのは、森本が神妙な顔で手招きするまでだった。
「狐憑き、についてなにかわかりますか」
 囁かれた単語に、相談を受けるのを少し早まった気がした。


 二章 狐憑き

 その日叶恵は休みを取った。
 固定給などなく、チップの収入がすべての女給は、休んでも自己責任だ。
 もっとも、元からチップなどほとんどもらえない叶恵では、休んでも休まなくても一緒である。考えるだけで悲しくなるが。
 メイデンの女給達は、全員店近くの下宿に住んでいるため、部屋から出れば顔を合わせるのは仕方がない。
 比較的仲のいい同僚だったらまだ良かったが、叶恵が下宿から出ようとしたときに出くわしたのは裕美だった。
 どうやら朝帰りらしくけだるげで、濃厚な化粧の気配がある。
「稼げてないのに休むなんて、いいご身分ね」
「一応、決められた休みなので……」
 裕美の指摘はその通り過ぎるのだが、許してほしい。とても気が進まないが、今から叶恵は休日返上で金策に行くのだ。
「このまま辞めればどう?」
「それはまだ……」
 すごまれて叶恵が答えあぐねていると、二人に影がかかる。
「やあ、お話し中すみません。──かなちゃん、迎えに来たよ」
 朗らかに声をかけてきたのは久賀だった。
 相変わらず秀麗な容貌で、均整の取れた肢体を洒落たスーツで包んでいる。
 だが問題は、彼が下宿にいるはずのない人であることだ。
 叶恵が驚き言葉を失っていると、久賀は柔和な笑みを裕美に向ける。
「ごめん、大事な話だった?」
 気さくに微笑まれた裕美は、客あしらいで慣れているはずなのに、顔を赤らめてしどろもどろになる。
「あ、いえその……っ」
「良かった、じゃあかなちゃん行こうか」
 立ち尽くす裕美を置いて、久賀は叶恵の腰をさらいその場から離れたのだった。

 久賀は近くの道にタクシーを待たせていた。
 走り出したタクシーの中で、叶恵は隣に座る久賀を見上げる。
「現地集合という話だったと思うのですが。なぜ迎えに?」
「ん? かなちゃんのことをもっと知りたいと思ってね」
 さらりとな台詞を吐く上に、ごく自然に叶恵の源氏名を呼んでいる。
 普通の娘であれば、先ほどの裕美のように顔を赤らめるだろう。
 ただ店の外で会うと一層うさんくささのほうが強く、叶恵は若干引いた。
 腰を攫った手を下宿から離れたとたんにはたき落としたのは正解だった。
 叶恵の表情は変わっていないはずだが、久賀は柔らかい笑みのままこう続ける。
「それに、今から名前で呼ぶ練習も必要かなって」
 叶恵の顔はたちまち硬くなる。
「お客様を呼び捨てにするわけにはまいりませんよ」
「だめだよ、だって俺達は今から森本くんの『お友達』として会いに行くんだから」
 やんわりと言い聞かせられた叶恵は、苦々しい気持ちになる。
 今日は「狐憑き」について詳細を聞くために、森本の家へ向かう手はずだった。
 その際森本は周囲に怪しまれないために、あくまで自分の友人として来てほしいと願ってきたのだ。
(「狐憑き」なんか出たとわかれば、今も昔も村八分かつまはじきだ。狐憑きになったのは身内っぽいし、むしろお坊ちゃんがよく相談に来たって感じだもんな)
 そのようなわけで、叶恵は気が進まないながらも承諾したのだ。
 叶恵の胸中を知ってか知らずか、美しい青年は朗らかに念を押す。
「報酬のためだよ。俺はれいでよろしく」
 そう、これは報酬のためであり、仕事の延長でもある。
 客の要望に応えるだけだと思えば、耐えられる気がした。
「わかりました、玲司さん。これでいいです?」
「もちろん。よろしくかなちゃん。そういえばこれって源氏名? メイデンの女給はみんなひらがな二文字みたいだったけど」
「どちらでも良いでしょう」
 叶恵がいなそうとすると、久賀──玲司はやんわりと言った。
「会話で打ち解ける練習だよ。世間話だと思って付き合って」
「はあ」
「君の店は結構奥まったところにある割には、いい調ちょうひんを置いているよね。銀座通り沿いの店にひけをとらなさそうなのに、商売っ気がないみたいだなと思ったけど、経営方針なの?」
 友人のために、ずいぶんかいがいしいことだと叶恵は若干呆れつつ、このまま狭い車内を沈黙で過ごすのも気まずいか、と思い直した。
「オーナーの道楽だからじゃないですか。あのカフェーは、元々ご友人と集まる場所を作るために始めたそうですし。あの人はお金にもならないのに困ってる若い娘を拾いますから」
「へえ、じゃあ女給に慕われているんじゃない?」
「悪く言う人はいませんね」
「かなちゃんも拾われたの?」
「まあ、そんなところです」
 勘のいいことだ、と思いつつ当たり障りない返事をする。
 優しい言葉で引き留めて、借金まみれにするのがいい人かどうかは審議がいる。
 そうでなくとも叶恵には思うところが山ほどあるのだが、女給達には親しみと尊敬を覚えている者が多いのも確かだ。
 世間話にしては妙に踏み込むといぶかしく思いながらも、これ以上は外で話すことでもないと、叶恵はそっと話柄を逸らした。
「比較できるってことは、よくカフェーに行かれるんですか」
「それほどでもないよ。プランタンとかタイガーとか、キリンくらいかな。ああ最近サロン春にも行ったか」
(どこも一流の高級店じゃないか。有名どころには一通り行ってるってことだぞ)
 叶恵は玲司の思った以上の遊び人具合に呆れた。ただそうでもなければ、こんな若い男が日中の銀座などへ遊びに来ないかと思い直す。
 カフェーに来る客は暇な大学生や、文学者や絵描きなどの芸術家、流行の最先端を気取るモボ、裕福で暇も金も持て余した高等遊民だ。
 どんな仕事をしているのか、そもそも仕事をしているのかすら怪しい者が多い。
 玲司はその典型と称していいだろう。
 ただ彼があの真面目そうな森本と友人なのが、ちぐはぐに思えて謎だった。
 そんな風に玲司と適当に話をしていると、タクシーは山手のほうにある閑静な高級住宅街へ進んでいく。
 森本の家は高級住宅街に相応しい広々とした西洋風の文化住宅で、これなら報酬は期待できそうだと内心ほくそ笑む。
 タクシー代は当たり前のように玲司が支払ってくれた。
 呼び鈴を押すと自ら出迎えてくれた森本は、玲司と叶恵の組み合わせを見るなり、あからさまにほっとした。
「来てくれてありがとうございます」
 よほど不安だったのだろう。
 通された応接間に落ち着いたところで、叶恵は単刀直入に尋ねた。
「で、どなたが狐憑きです?」
「その、僕の許嫁、でして……」
 森本は叶恵の率直さに驚いたようだったが、「他言無用でお願いしますよ」と前置きをしてから、話し始めた。
「名前は、わたなべ沙織さん、今は女学校の三年生で十五歳です。ですが一月前から、夜中に絶叫したり、暗がりを怖がったり、暴れるようになりました。あれだけ好きだったレコードの音楽すら嫌がるようになって……。今は学校にも行けず家に引きこもっているのです」
「なるほど、ではなぜ『狐憑き』だと思われたんです?」
 叶恵の問いに、森本はしょうぜんと目を伏せた。
「引きこもる直前に、学校で友人とコックリさんをしていたということがわかりまして……彼女達が『コックリさんが憑いたのかもしれない』と言い出したんです。沙織さんの父親は沙織さんの精神が弱いからだと言って、離れに閉じ込めています。かといって周囲に症状がばれるのも嫌だからと、精神病院にも連れて行かないのです」
 森本はもどかしげに拳を握る。
 まあその対応は当然か、と叶恵が内心思っていると、玲司は不思議そうに小首をかしげている。
「コックリさんって、降霊術の一種だよね? なぜコックリさんをしたから狐憑きになるのかな?」
 怪異ごとに詳しくないらしい玲司に、叶恵は端的に説明してやる。
「コックリさんで呼び出すのは、狐の霊というのが一般的だからです。そもそもが
『狐憑き』というのは、狐の霊に限らず、まるで別の者が乗り移ったように、常軌を逸した行動を取り錯乱した人達のことを指していました。近年では、ある種の精神疾患ではないかと研究が進んでいます。ただ、周囲の認知や偏見の目というのは、早々に変わりません」
「そう、なんです。僕が状態を知ったのも、たまたま沙織さんに届け物をしたときに、錯乱する彼女を目の当たりにしたからで……。彼女の家はおかしくなった沙織さんを隠そうとするばかりなんです」
 森本は悔しげにするが、叶恵は沙織の家族の反応は一般的だと知っていた。
 人は、異なる存在を異様に忌避する傾向がある。
 狐憑きが出た家は、家族ぐるみで村八分にされた例もある。一人狐憑きが出たのであれば、家族にもその素質があるのではと疑うからだ。
 そうでなくとも、狐憑きは身内の恥として扱われ、表に出さず座敷牢などに閉じ込めることすらも一般的だった。
 簡単に説明を聞いた玲司は、感心したような声を上げる。
「へえ、かなちゃんは詳しいんだね」
 彼には緊張感が足りないように思えて、叶恵は若干ジト目になる。
 森本は気にならなかったようで、必死の形相で傍らの風呂敷包みを開いた。
「このままだと沙織さんは一生閉じ込められて過ごすことになります……! どうか彼女の狐を落としてくださいっ。足りなければ、もっと出しますので!」
 森本は懐から出した封筒を、丁寧に叶恵の前へ置いた。
 中身をそっと改めた叶恵は、かすかに顔が引きつる。
 十円札が十枚入っていた。会社員初任給の倍だ。
 今の叶恵にとっては喉から手が出るほどほしい大金である。呉服代はもちろん、重なった出銭の借金まで減らせる。
 ただその金額は、どれだけ森本が切羽詰まっているかを如実に感じさせた。
 叶恵は苦々しく封筒を見つめる。
(ここまで余裕がないと、私が解決できなかったら逆恨みをするかもしれないな。だから嫌だったのに)
 もちろん叶恵に狐落としなどできない。
 狐憑きは面倒だ。適当な助言をしたら、さっさと逃げるしかないだろう。
 お金がほしくないとはいわないが、この金額を受け取って解決できませんでした、となれば絶対に恨まれる。
 最悪の未来が容易に想像できる中で全額を受け取る勇気はないが、無報酬で働くのも嫌だ。
 悩みに悩んだ叶恵は、仕方なく封筒から紙幣を一枚だけ抜いた。
 これだけでも、いつももらうチップの十倍である。
「……まあ、私が助言できるかは、観てみないとわかりませんよ。沙織さんに会うことはできますか」
 森本が勢い込んで立ち上がるのに、叶恵は続く。
 その一連の様子を、玲司が興味深そうに観察していた。

 沙織が住む家というのは、森本の家から徒歩で数分のところにあった。
 森本の家と同じくらい立派な日本家屋で、叶恵はお金はあるところにはあるのだな、としょっぱい気持ちになった。
 婚約者とはいえ他人の家に入れるのかと叶恵は懸念したが、森本が訪ねると四十代ほどのやつれた女性があっさりと奥へ通してくれた。
 聞いてみると、沙織の母親だと言われた。どうやら根回しはしていたようだ。
「幼なじみで、子供の頃からお互いの家を行き来していたんです」
「なら、別に友人を装わなくとも良かったんじゃ……」
 玲司の名前を呼び損じゃないか、と叶恵が少々不満を零したとき、どすどすと乱暴な足音が背後から聞こえた。
あつくんじゃないか。また来て君も懲りないやつだ……ん? なんだ君達は」
 尊大な口調で話しかけてきたのは、五十代ほどの精力に満ちた男だった。
 男は不審げにじろじろと玲司と叶恵を眺めてくる。
 森本は一瞬緊張と焦りを帯びながらも軽く会釈する。
「渡辺さん、ご無沙汰してます」
 それだけで叶恵は、この男が問題の沙織の父親だと理解した。
(一番の障害はこっちか。これは……典型的な昔気質かたぎそうだ)
 そういえば、森本の話でも主に父親が沙織を閉じ込めていると言っていた。
 まあ森本に策があるのだろう、と叶恵は見守ったが。
「あのう、彼らは友人達で、沙織さんの気晴らしになるんじゃないかと……」
 不審すぎるしどろもどろぶりの森本に、叶恵は天を仰ぎたいのを堪えた。
 案の定渡辺は顔を険しくする。
「アレはただ甘ったれているだけなんだよ。普段から映画だの演劇だのチャラチャラしたものばかりに興味がいって、あげくあんな風に引きこもるなぞ、世間を舐めているとしか思えん! 俺が怒鳴りつけても泣けば許されると思っているんだ!」
「渡辺さん、沙織さんはいい子ですよ」
 森本は、そこだけは強固に諫めた。
 あまり気が強くない森本のことだ、言い返しはしないだろうと考えていた叶恵は、意外に思った。が、今は悪手だ。
 渡辺は不機嫌をあらわに森本へすごむ。
「沙織を気遣うのはいいが、家長の俺に無断で他人を入れるのは感心しないぞ。ずっと目をかけてやっていたというのに、こんな無礼を働くとは……」
 今にも追い出されそうな雰囲気だ。叶恵が退散するしかないか、と思った矢先、すっと進み出たのは玲司だった。
「どうか森本くんを許してやってはくださいませんか」
 この張り詰めた空気など一切無視し哀切に訴えた玲司に、渡辺はぎょっとする。
「なっ……」
「渡辺社長、私のことを覚えていらっしゃいますか。先日の展覧会で一度お会いしたことがあるのですが」
 すかさずまくし立てた玲司を、思わず見つめた渡辺は驚きに目を丸くした。
「久賀商事の玲司くんか! まさか篤志くんと親しいとは思いませんでしたな」
 その社名に叶恵は驚いて、にこやかな玲司を見上げる。
 久賀商事といえば三越、松坂屋などと並んで復興した銀座にいち早く百貨店を構えた、親族経営の総合商社だ。渡辺の口調が急に丁寧になったことからも、玲司は直系に近い身内に位置するのだろう。
「若輩の身を覚えていてくださりありがとうございます。実は今一番勢いのある商社を引っ張っておられる渡辺社長のお話をもう少し聞きたいな、と思いまして。森本くんが子供の頃から親しくしていると伺い、無理を言って連れてきてもらったんです。まさかご本人にお会いできるとは……」
 照れくさそうにはにかむ玲司の好青年ぶりに、誰だこれ、と叶恵は二度見をした。
 森本も混乱していることからして、打ち合わせたわけでもないようだ。
 だが玲司の目的が自分だと思ったらしい渡辺は、機嫌を直してやに下がった。
「そうかそうか。はじめからそう言ってくれたら良かったものを……。これから仕事だったんだが、少し時間を取ってやらんでもないぞ」
 渡辺が腕時計を確認した拍子に、赤い椿柄のカフスが見えた。
 すべてにおいて華美な装いの中で、妙に上品だなと叶恵は思った。
「本当ですか! ぜひ武勇伝を聞かせてくださいっ。あ、そのカフス良い品ですね。どちらでご購入されたんですか?」
 玲司ははにかみながらも、ちらっと叶恵を見て、ぱちんと片目をつぶる。
 なるほどと理解した叶恵は、状況について行けていない森本の袖を引っ張った。
 もちろん体に触れないよう注意深くだ。
「森本様、玲司さんが引きつけてる間に行きましょう」
「っ! うん!」
 そうして叶恵と森本はこっそりとその場を離れた。

 彼の婚約者である沙織は、事前情報通り離れに隔離されていた。
 元は茶室だったのかもしれない、四畳半程度の大きさなのは外からわかる。
 叶恵にとっては暮らすのに十分な広さだ。だがこのような広大な屋敷の中で、小さな部屋に押し込められていること自体が彼女の扱いを感じさせた。
(狐憑きが精神病患者と同じように閉じ込められるのは普通のことだ。母親やこいつが気にかけている分だけ、マシだろうな)
 叶恵が見上げると、森本は緊張の面持ちで、小さな扉を遠慮がちに叩いた。
「沙織さん、僕です。開けますね」
 真新しく作られた外鍵を開いて、扉を開けたとたんなにかが飛んできた。
 扉の手前で落ちたのは丸めた手ぬぐいだった。
 小さな部屋の片隅にいたのは、ごく普通の少女だ。
 暗い色合いの浴衣に、羽織を肩にかけている。簡素に髪を結い上げており、暗がりのせいだけではなく顔色が悪かった。
 息を切らし興奮した様子でこちらを睨みつける目は、異様に底光りしている。
「こないで、来るな! わたしはコックリ様にすべてを捧げたんだ! あなたへお嫁になんて行かないんだ! 帰れ!!」
 本や、筆箱や、櫛。丸めた服など、部屋にあるものを次々に投げつける。少女の腕力のせいか森本には届かないが、彼は傷ついた顔で立ち尽くしていた。
 小さな部屋だ、投げる物がなくなると、沙織は布団へ潜り込む。
 布団の中から唸り声が響いていた。
「こんな感じで、家族や僕を拒絶するんです。なにを聞いても『コックリ様に身を捧げた』と繰り返していて。本当になにかが憑いているんでしょうか……」
 森本の縋る眼差しに、叶恵は苦々しい気分になる。
 思った通り、やっかいな案件すぎて回れ右をして帰りたかった。
 狐憑きといっても、様々な例がある。狐に憑かれたと思い込む例、催眠術にかけられた例、精神疾患の例。
(けど彼女はまともすぎる)
 十中八九狂言だろう、と叶恵には当たりがついた。
 こんな他人のいざこざに巻き込まれるのにはげんなりするが、それでも千里眼を使わずにすみそうでほっとする。
(十円分森本さんが納得できるよう適当な話をすればいいか。あとのことは知らん)
 叶恵がこれからの方針をまとめていたとき、玲司が庭の飛び石を歩いてきた。
「あ、森本くんかなちゃん、お待たせ!」
 まるでものさんにでも来たような気軽さに、叶恵は脱力した。
「玲司さん、あのおっさんはどうしたんです?」
「ん? 適当に話を聞いて、秘書にせっつかれてるからまた後日ってことになったよ。行かないけど」
 あの短時間で年上の男を丸め込む弁舌には感心するが、度胸がありすぎる。
 叶恵が少々呆れているうちに、玲司の興味は離れの中に移っていた。
「どう? その中に例の沙織さんがいるの?」
「はい、そうなんです。今は比較的落ち着いていて……」
「そっか、じゃあ挨拶しなきゃね。ひとまず話をするんでしょ」
 森本が説明すると、玲司はさっさと小さな引き戸に身をくぐらせた。
「こんにちは、沙織さん。ちょっと入らせてもらうね。俺は森本くんの友人の久賀と言うんだ。今日は君の──」
 彼女も年頃ではあるし、彼の秀麗な顔を見れば、多少ボロが出るかもしれない。
 そう思っていた叶恵の耳を、鋭い悲鳴がつんざいた。
「あああぁぁぁぁぁ!!! 来ないでっ、来ないでぇっやっぁああああああ!!!」
「わっ、待ってどうしたの!?」
 玲司の戸惑いの声を聞きながら、叶恵も素早く引き戸をくぐった。
 小さな部屋では、困り果てた玲司と、先ほどとは打って変わりめちゃくちゃに腕を振り回して暴れ回る沙織の姿があった。
 彼女の目は異様な光を宿しており、焦点が合っていない。
 自身の手が飾り棚に当たって血が流れても暴れるのをやめない姿は、明らかに錯乱している。
 まずい、と思った叶恵は目を丸くして尻餅をつく玲司に叫ぶ。
「玲司さんっひとまず外に!」
 玲司は素早く引き戸から外に向かうが、彼が動いたとたん沙織がびくんと揺れる。
 彼女の腕が振りかぶられるのを見た叶恵は、とっさに玲司の背中を蹴り飛ばした。
 外に出た玲司の代わりに、沙織の手が叶恵の頰を殴る。
 遠慮のない一撃は痛みよりも先に熱を感じる。
 なによりその接触は、叶恵の目の奥に強烈な痛みをもたらし……それ、を観せた。
 叶恵の視界は、強制的に別の景色に塗りつぶされる。

 ──甘い女の声が歌っている。
 その中に、男の切々とした声が間延びしたレコードのように反響した。
 “恋する乙女に神は情けを与えてはくれないのでしょうか。すれ違う二人に、忍び寄るのは引き裂く魔の手──……”
 その中で、体を這い回る悍おぞましい感触。
 真っ暗な空間をチカチカと跳ね回る光の中で、いびつに歪む悪魔のような男の顔が迫った──……
 ガンッと肩が壁に当たる衝撃で、叶恵は現実に戻ってくる。
「かなちゃんっ!」
「ったぁ……」
 肩も打ったし、頰も熱を持っていたが、それよりも目の奥がじくじくと痛い。いつもより深く観たようだ。
(でも、今の光景は──……)
 呻きながらも前を見ると、沙織が立ち尽くしている。
 青ざめて肩を震わせる彼女に、叶恵は反射的に表情を作ろうとした。
 けれど、言うことを聞かない表情筋は強ばるだけだ。
「っひ」
「かなちゃんこっち!」
 玲司によって叶恵は外に引きずり出され、引き戸の鍵を閉められる。
 それで、面会は終わりになった。

  *

 森本邸に戻ってきた叶恵は、居間で濡れた手ぬぐいを頰に当てていた。
 肩もズキズキと痛んできたが、さすがに男性の前でもろはだ脱ぎになるわけにはいかないため我慢だ。
「本当に申し訳ない……怪我までさせてしまって。彼女があんな風に反応をしたのは誓ってはじめてなんです」
 目の前に座る森本は、うなだれながら謝罪する。
 叶恵はそれが不思議だった。
「森本様は、あの様子を見ても、彼女の下に通うんですね。なんでですか」
 ごく平静に尋ねる叶恵に、森本は戸惑ったように顔を跳ね上げた。
「えっと、その……怒って、ない?」
「どこに怒る要素があるんです?」
「かなちゃん、表情がまったく変わってないからわからないよ」
 玲司に指摘されて、そうだったと叶恵は手ぬぐいを当てていないほうの頰を揉む。
 叶恵は謝罪などどうでも良かった。少女の拳程度をよけられなかったなど、むしろ自分がなまっている証で決まりが悪い。
 それより森本自身が一言も沙織を悪く言わないことのほうが気になったのだ。
「怒っているように見えたのならすみません。私は顔面が変わらないだけなので、気にしないでください」
「そう、なんですか?」
「で、なんで沙織さんと婚約解消しないんです? あの子は解消したいみたいなこと言ってましたよ」
 叶恵が指摘すると、森本は弱ったように眉尻を下げる。
「う、うん。でも。小さな頃から一緒に遊んでいた仲で、僕にとってはもう家族同然なんだ。それに小さい頃、あの子に結婚しようって言ったときの、嬉しそうな笑顔が忘れられなくて……人生を共にするなら、彼女が良いと思ったんです」
 森本はぐっと涙を呑むように再びうつむいた。
 叶恵は大きく息を吐く。
 本当に、やっかいな事案と関わってしまったと思う。
(私の千里眼は記憶が観えても、ほんの一部だけだ。人を説得するには根拠が薄いし、情報が足りない)
 叶恵の千里眼が観える範囲は、ひどく狭い。
 対象が生物の場合は、肌に直接触れたときに、本人の心に強烈に残っている事柄、あるいはその瞬間強く想起した記憶だ。しかも本人の主観が入るため、観えたものすべてが真実だとは限らない。
 しかもなにを観るか、叶恵自身にはほとんど選べない。
 にもかかわらず、人が秘めている記憶を勝手に観てしまうのだ。
 勝手に観えてしまっても、一度知ってしまったものを見ないフリするのは、叶恵にとってひどく負担だった。
 仕方ないと諦めた叶恵は、森本の話を思い返して手がかりを探すことにした。
「とりあえず、沙織さんが怖がったレコードってなんですか」
「調査を続けてくれるんですか!?」
「早くお願いします」
 きっちり終わらせて、この痛みから解放されよう。
「わかりました、ちょっと待っていてください!」
 転がるように部屋から出て行った森本を見送る。
 ふと見ると、玲司がまじまじと叶恵を見つめていた。その視線が思わぬ反応を見た、といわんばかりで、叶恵はなんとなくうっとうしく感じた。
「なんですか」
「朝より解決に前向きになったのかな? と思って」
 玲司の指摘に叶恵は不愉快さを覚えて、ぐっとけんにしわが寄る。
 すると玲司はますます興味深そうな顔になる。
「なるほど、不愉快なほうが顔に出るんだね」
「うるさいですよ」
「どういう心境の変化なのか、気になるな」
 秀麗な顔が覗き込んでくる上に手を取られかけて、叶恵は素早く距離を取った。
「ここは店じゃありませんよ」
「おや残念」
「お待たせしました、これです!」
 戻ってきた森本のおかげで、玲司の奇妙な雰囲気から解放される。
 レコードの外装を見たものの、叶恵にはよくわからなかった。
 だが隣から覗き込んだ玲司が、あ、と声を上げる。
「これ、『しゅくじょ黄昏たそがれ』の主題歌だね。主演女優が歌ってるやつだ」
「なんです? それ」
 叶恵が首をかしげると、玲司が信じられないとばかりに説明してくれた。
「活動写真だよ! もう封切りからそこそこ経ってるけど、それでも上演している活動写真館があるくらい人気なんだ」
 そういえば、女給達が話をしていた気がすると、叶恵もぼんやり思い出す。
 森本がやるせなく続ける。
「父親の渡辺さんはあんな感じで、女子は余計なことはするな、娯楽も、ましてや活動写真なんてもってのほかという人なんだ。一度少女雑誌が見つかったときには、部屋に閉じ込められたらしい。『お前をあばずれに育てたつもりはない!』だって」
「うっわ」
 叶恵はいかにも言いそうだと呆れた。
 叶恵は女学校に行ったことはないが、少女達が連れだって、書店の店先で楽しげに話しているのは何度も見たことがある。ごく普通の娯楽なのだ。
 それを禁じるとは、女を同じ人間だとも思っていない頭の固い男なのだろう。
 娘など所有物の一つくらいにしか考えていなさそうだ。
(その割には、私を見る目は、舐めるみたいだったけど。ああ、だからこそか)
 女側からどう思われているのか無頓着だから、ああいった行動が平気でできる。
 森本は渡辺の言動を恥じるべきことと考えているようで、苦々しげな顔だ。
 言葉は選んでいるものの、婚約者の父親だからとおもねることはないらしい。
「僕によくはしてくれるんだけどね。沙織さんが可哀想で。この活動写真にも行ってみたいって言ってたんだ。だから彼女が『こう』なってから、せめて歌だけでも聞かせてあげようと買ってあげたんだけど。歌を聞いたとたん錯乱してしまって……逆効果だった」
 言いつつ森本が蓄音機にレコードをセットして、針を落とした。
 少し籠もったような掠れた音と共に流れたのは、女性の甘い声だった。
 内容は恋の歌で、叶恵もラジオを通して聞いたことがあるのを思い出した。
(それに沙織の記憶の中に流れていた曲だ。チカチカする光が上演中の光だとすれば、場所は活動写真館で間違いないだろう)
 だが問題は経緯だと、叶恵は考える。
 叶恵の千里眼は、確かに相手の強い記憶が焼き付いた光景を観せる。
 そのおかげで、彼女になにが起きたかは想像がついた。
(だけど、経緯は観えないし、感情も読み取れない。たとえそこがわかっても、依頼人を説得できるかは別の話だ。まったく、千里眼なんだから全部わかれば良いのに)
 融通の利かなさにため息を吐いても、そういうものだと、昔から悟っていた。
 それでももう、沙織の記憶を観てしまったのだ。
 叶恵の脳裏にじわりと、かつての後悔が蘇ってくる。
 真っ赤に染まった彼の微笑みが、頭にこびりついて離れない。
『────』
 あのときの言葉が蘇りかけるのだけは、なんとか押しつぶして今に集中する。
(観た分は、無視しちゃいけない。もう二度と、あんな思いは、ごめんだ)
 細く息を吐いて己を取り戻した叶恵は、次にすべきことを考える。
 どこでなにが起きたかはわかった。
 なら知るべきはどうしてそうなったかである。
「森本様、沙織さんが一緒にコックリさんをしたご友人に会えませんか?」
 痛々しく赤くなった頰をまったく気にせず、そんな風に願う叶恵を、玲司は興味深そうに観察していた。

  *

 翌日の午後、叶恵は沙織の友人に会うことになった。
 やはり出しなに裕美から嫌みを言われたが、甘んじて受ける。
 森本はさすがに仕事らしく同行できないが、沙織の母親が先方に話を通してくれた上で、初対面で警戒されないよう紹介状を届けてくれた。
 お膳立てはバッチリで一安心したが、叶恵はジト目で傍らの美男子を見上げた。
「で、なんで久賀様がいらっしゃるんです?」
 紹介状と伝言を持って現れたのが、この玲司だったのだ。
 わざわざ下宿まで来たせいで、ほかの女給達が色めき立つと同時に叶恵には嫉妬の視線が突き刺さった。這う這うの体で逃げ出したが、下宿に帰ればうるさいことになるのは間違いなく、早くも気力が削がれていた。
「玲司だよ、かなちゃん。代わりのお目付役を仰せつかったんだ」
「お仕事などはよろしいので?」
 久賀商事の御曹司なのだろう、森本と比ではないほど忙しいのではないか?
 仕事放棄か? という疑いを込めて半眼で睨むと、玲司は飄々と肩をすくめる。
「俺はぼんくらで通ってるから、こうしているのが社会のためなんだよ。それにここまで関わったら顚末まで知りたいしね」
 自慢もできないことを堂々とのたまう玲司に、叶恵は呆れ果てた。
 好奇心でこんな面倒ごとに付き合うその精神には、一周回って感心するしかない。
(いや、対岸の火事だからこそ、面白がってるのか)
「……お坊ちゃんは、ずいぶん自由な時間がおありのようで」
 皮肉ってやると、玲司は面白そうに目を細める。
「で、君の見立ては? 沙織ちゃんの様子は、確かに精神の異常があるようだけど」
「……精神の病はある程度きっかけがあります。これから彼女のきっかけを確かめるつもりですよ」
 言いつつ、叶恵は待ち構えている少女に、この男をどう説明すべきか悩んだ。

 結局答えが出ないまま、指定されたミルクホールに着いてしまった。
 叶恵の勤めるカフェーとは違い、安価に軽食と飲み物が楽しめる気楽な場所だ。
 今も学生らしき青年や少女達が、思い思いにミルクやソーダを楽しんでいた。
 相手はすでに来ていて、店員に案内されてテーブルに行くと、一人だと聞いていたのだが、少女が二人、緊張の面持ちで座っていた。
 彼女達は玲司を見ると一気に狼狽うろたえる。
「えっあの、さおちゃんのお母さんが言ってた、探偵さんです、か?」
 顔を赤らめ、しどろもどろに聞く少女達に、玲司は一筆書かれた封筒を渡しつつ、如才なく応じた。
「そうだけど、俺は彼女の助手なんだ」
「助手……?」
 勝手に名乗るなと思ったが、少女達はそれで玲司の隣にいる無愛想な叶恵に気づいたようだ。
 なぜこの美男子が助手で凡庸な娘が探偵なのか。逆じゃないのかと目で訴えてくるのには年相応の素直さを感じた。
 一応、接客用の派手な着物ではなく、落ち着いた花菱模様の着物に、地味な柄の帯を締めてきたのだが、効果はないらしい。
 そもそも探偵ですらないのだが、押し問答をする気はない。
 叶恵は頭を軽く下げ、彼女達の向かいに座る。
 適当に飲み物を頼んだところで、叶恵は切り出した。
さんはどちらですか?」
「わ、たしです。隣のりょこ……りょうちゃんもいっしょに、コックリさんをした友達です」
 美貴はお下げ髪を二つ編んだ気弱そうな少女だった。良子は顎のあたりで髪を切りそろえた少女で、叶恵と玲司を警戒心も露わに睨んでくる。
「沙織はあたし達が巻き込んじゃったんです。悪いことをしたなと思うけど、他人に話す気はありません。首を突っ込まないでくれますか」
「りょこちゃん、せっかく来てくれたのにそんな風に……!」
 強い調子で拒絶する良子を、美貴が慌てて宥なだめる。だが美貴もあまり乗り気ではないらしいのは表情から感じられた。
 とはいえ予想はしていたため、叶恵は気にせず警戒する彼女達に質問をした。
「知りたいことがわかればすぐに帰ります。早く終わらせたければ、あなた達がしたコックリさんを再現してもらえますか」
 美貴達は思わぬ要求だったのか硬直する。
 先に我に返ったのは良子のほうだ。
「そんな、沙織があんなことになったのに再現なんてできるわけ……!」
「では、どこでどのようにしたのかを教えていただくだけでいいです。なにを使いました? 沙織さんと美貴さんと良子さんでされたんですよね。一般的には三本の棒をまとめて三脚にした上に、飯びつの蓋を乗せたものを占い道具にします。そして蓋の上に三人が片手か両手を乗せて『コックリさんおいでください』と呪文を唱える、というものですが、その通りに?」
「かなちゃんずいぶん詳しいね」
「これくらいは一般教養ですよ……で、どうなんです?」
 感心した顔をする玲司をひと睨みしつつ、返事を待つ。
 叶恵の圧に負けたのか、美貴がしどろもどろに答える。
「え、えっとわたしの家で、その通りに……」
「では、なにを占いましたか? 自分の将来ですか? 嫌いな先生がどうしたら辞めるか聞きました? それとも好きな人に脈があるか恋占いでしょうか」
 叶恵が適当に当たりをつけると、一瞬美貴と良子は視線を交わした。
 答えたのは良子だった。
「嫌みな先生をどうやり込めるか、相談したよ。みんなでいたずらをしてやれば懲りるってコックリさんは教えてくれた! もういいでしょ!」
「そんな複雑な結果を出せたんですか? 本物のウィジャボードならともかく、飯びつの蓋を使った手法では、可否か数字程度しか返せないとされているのに?」
 そう問い返すと、美貴と良子の顔色があからさまに変わった。
 やはりか、と思った。コックリさんは降霊術だ。本当に人にあらざる者がいるか、呼び寄せられるかは別として、その世界特有の決まった手順があり、できることも決まっている。
 彼女達が興味本位でもコックリさんをしたのなら、明確に話せるはずのことだ。
 だが、美貴も良子も言葉に詰まっている。
 これが意味するのは……彼女達は、実際にはコックリさんをしておらず、狐憑きが狂言であるとわかって黙っているということだ。
 図星を指されてパニックになったか、良子が声を荒らげた。
「っさっきからなに!? まるであたし達が悪いことしたみたいに問い詰めて!」
「少なくともあなた達は、コックリさんを利用し、沙織さんを狐憑きにしてでも隠したいことがある。それを話してほしいんです」
 叶恵が求めているのは証拠だ。
 千里眼では人を説得できない。だからその足りない証拠を彼女達から得なければならないのだ。
「教え──」
 叶恵が念を押しかけたとき、ぽんと肩に手を置かれた。
 手の主は隣に座る玲司だ。服越しならよほどのことがない限り記憶を読み取らないとはいえ、叶恵の体は勝手に強ばる。
「かなちゃん、こんな可愛い子達を追い詰めないの」
 そうたしなめられて、叶恵は彼女達の様子にようやく気づいた。
 美貴は泣きそうな顔で縮こまり、良子も青ざめた顔で震えている。
 しまった、ほしい言葉を引き出すために、性急になりすぎた。
(昔は威圧感があったほうが信者の口は軽かったけど、今は違うのに……)
 悔いても遅い。
 一瞬、千里眼で彼女達の記憶を観るか? と考えた。
 だが、千里眼を使いすぎると鈍器で殴られるような頭痛に襲われる。目当ての記憶を探り当てるまで使えば、おそらく叶恵は倒れるだろう。
 進退きわまった叶恵が口を閉ざすと、玲司はよくできましたといわんばかりに目元を緩める。
 そして彼は怯える少女二人に向き直った。
「二人ともプリンは好き?」
 唐突な問いかけに、少女達は虚を突かれたようだった。
「なに?」
 小さく威嚇するような良子の反応も関係なく、玲司はにっこりと笑った。
「おっその顔は大丈夫そうだね。店員さーん! プリンを人数分もらえる?」
「で、でも……」
「大丈夫、俺のおごりだから。ちょっと休憩にしよう」
 狼狽える美貴も玲司が如才なくいなすうちに、プリンが四つ届けられた。
 卵の黄色に茶色いカラメルがかかったプリンの上には、真っ白なクリームが絞られている。見るからにおいしそうだ。
 良子は結局、プリンの誘惑に抗えなかったようだ。吸い寄せられるようにスプーンですくい、口に入れたとたん顔が緩んだ。
「おいし……」
「おいしいね、りょこちゃん」
 同じくひとすくい食べた美貴も、すでに涙は引っ込んでいた。彼女達には効果的だったようだ。
 叶恵はさほど気は乗らなかったが、手を付けないのもしゃくなので、渋々プリンにスプーンを突き立てた。
 若干の弾力のあるプリンをカラメルごと口に含むと、卵の甘さとほろ苦さが喉を滑り落ちる。次いで上に絞られたクリームと一緒に食べると、濃厚な味わいに変わる。
 甘い物など主に金銭面でほとんど食べられないから久々で、どんどん黄色い山は減っていった。
 叶恵が無心にプリンを味わっていると、玲司がゆったりとした口調で話しだす。
「さっきは言い過ぎちゃってごめんね。でも彼女も君達を心配しているからこその言葉なのは、わかってほしいな」
 思いもよらない言い方に、叶恵はすくったプリンを落としかけた。
 彼は叶恵の抗議の目も意に介さず、戸惑う少女二人に柔らかく続ける。
「君達は、沙織ちゃんのこと、すごく大事にしているんだね」
 唇の端にクリームを付けた良子は、表情は硬いものの、話に応じた。
「……ずっと、学校も放課後も一緒だったから」
 玲司はすかさずわかるよとばかりに頷いた。
「うん。──実は俺達も、おととい彼女に会ってきたんだ」
「さおちゃんと!?」
 美貴が身を乗り出した拍子に、お下げ髪が揺れる。おそらく沙織が狐憑きとされてからは、まったく様子を知れていなかったのだろう。
 そんな彼女に玲司は愁いを含ませた目を伏せる。その仕草は、悲しみと誠実さを色濃く感じさせた。
「とてもつらそうだったよ。婚約者の森本くんも悲しそうだった。それでも彼は沙織ちゃんを救おうと俺達に助けを求めたんだよ」
「っ……」
 気の強い良子も、罪悪感をにじませてうつむく。
「沙織ちゃんは、森本くんを嫌っていたかな?」
「そんなことない、さおちゃんお嫁になるのをすごく楽しみにしてて……」
 美貴がおずおずと口にすると、玲司は一気に安堵の表情になる。
「そっか、良かった。でもあのままでは、森本くんと沙織ちゃんが可哀想だ。俺達は、あくまで沙織ちゃん達を助けたいんだよ。君達の力を貸してくれないかな」
 その声音は押しつけがましさも弱々しさもない、絶妙な塩梅だった。
 年上の、しかも美しい男に懇願されて、少女達の気持ちがこちらに傾いているのも感じられた。
(こっっっわ……)
 あれだけかたくなだった少女達の心を開いた弁舌に、叶恵は単純に引いた。
 だが、玲司の口のうまさのおかげで光明が見えてきたのも事実である。
「沙織ちゃんがとても大きなものを抱えてるって、まず気づいたのは彼女なんだよ」
 完全に気を抜いていた叶恵は、いきなり話を投げられてドキリとする。
 良い補助だったでしょ、と言わんばかりの顔をする玲司を、少し恨めしく思ったが、今できる限り精一杯の誠意ある態度を装った。
「沙織さんが怖がったレコードの曲は、映画の主題歌でした。そして彼女は若く背の高い男性が近づくと怯えていたの。彼女は活動写真館でなにかあったんでしょう」
 沙織は、叶恵や森本が現れたときには、狐憑きを装えるだけの理性を保っていたにもかかわらず、玲司を見たとたん錯乱した。
 それは、男性に著しい恐怖を与えられた者の反応だった。
 つまり彼女は信頼する森本や母親にすら言えないことに遭遇し、心に傷を負った。
 それが、覗いた記憶を元に導き出した仮説だった。
 美貴と良子の顔色が明らかに変わったことで、推測が間違っていないと確信する。
 やがて美貴が窺うように上目遣いでこちらを見る。
「ほんとうに、さおちゃんを、助けてくれるの?」
 叶恵はただ金と、自分の利己心で動いているだけだ。このような問題は助けることがひどく難しい。徒労に終わる可能性も高い。
 だからこう答えた。
「彼女にとって少しでもマシな結末になればいいと思ってます」
 絶対助ける、と言えないのは叶恵の保身だ。
 少し嫌気がさすが、少女達はそうは取らなかったらしい。
 顔を見合わせて、頷いた。
 話したのは、良子だった。
「あの日、沙織に頼まれたの。どうしても観たい活動写真があるから協力してほしい、って」
 切り出された話は、おおかた叶恵の想像通りだった。
 友人である美貴と良子は、沙織の家は厳格なことを知っていたから、そのお願いを快諾した。
 美貴の家で遊ぶという体で集まり、大人びた着物に着替え、母親の化粧品を少しだけ拝借して化粧をし、三人で活動写真館に繰り出した。
 だが当時は封切りされたばかりの人気の活動写真で、人の波に押し流され、会場内では別々の場所に座ることになってしまった。
「上映が終わって外で落ち合えたときには、さおちゃん真っ青な顔をしていて、それ、それで……」
「隣に座った男に、無体なことをされて純潔を、失った、と」
 わっと顔を覆う美貴の肩を、良子が支えた。
 玲司が痛ましげな顔をするのを横目で見つつ、叶恵は胸くそ悪さに息を吐いた。
 活動写真館は、薄暗い密室だ。しかも写真館側は利益を確保するために、じき席へ満席以上に詰めて人を入れるから、客はどうしても密着する。だからこそ、や置き引き、なにより痴漢行為に及ぶ犯罪者が出る。大勢がいるという関係上、被害者も自分がみだらなことをされていると声を上げにくい。
 だから、標的にされた沙織は、男の毒牙から逃れられなかったのだろう。
 良子が激情を押し殺しながら続けた。
「沙織は、とても両親には言えない。けれど穢された体ではお嫁にも行けない。森本さんにも知られたくないって言うから。ならいっそのこと狐憑きになればいいと提案したのよ」
 それは少女が自分の名誉を守るために行った、決死の狂言だったのだ。
 おそらく、美貴と良子も同じ空間にいたのに、沙織を守れなかったことにひどくショックを受けただろう。
 だから彼女達は沙織へのしょくざいとして「狐憑き」に協力した。
 本来なら成立しない怪異の狂言は、けれど沙織が発症した心の病によって、信憑性が生まれた。これが、狐憑きの真相なのだ。
「さおちゃん、ずっと森本さんと結婚するのを楽しみにしていたんです」
「どうか、助けてあげて……っ」
 少女二人に頭を下げられた叶恵は、軽率には答えられなかった。

 少女達が帰ったあと、ミルクホールに残った叶恵は重いため息を吐いた。
 プリンはなくなり、頼んだコーヒーはすでに冷め切っている。
 叶恵の向かいに移動した玲司は、手つかずのプリンを前に腕を組んでいた。
「これは困ったねえ。沙織ちゃんの父親は、本当のことを打ち明けたとたん、一生離れに閉じ込めかねないよ。それこそ頭ごなしに怒鳴りつけて、彼女の心の病を悪化させそうだ」
 あまり深刻そうには聞こえない声音だったが、玲司の言う通りだった。
「……そもそもこの騒動は、沙織さんが森本様に今回の件を知られたくないために起きました。彼女が前を向く気持ちを持たなければ、なにをしても無駄でしょう」
「うーん解決は夢のまた夢かなぁ」
 玲司の真剣さに欠ける声は、叶恵の耳に入らなかった。
 沙織が「狐憑き」になった原因はわかった。
 だが新たに、沙織がどう「正気に返る」勇気を持つかの問題が浮上した。
 犯罪者を捕まえても意味がない。警察に訴えたら最後、沙織の心は粉々に砕ける。
 なぜ仕事を放棄してここまでしているのか、叶恵は自問するが、このまま放っておくのも自分には難しかった。
 叶恵が知りたいのは、沙織が具体的になにをされたかだ。
 人の記憶は主観で語られる。だから、本人が恐慌状態にあると、記憶に「歪み」が生まれ、正確性を欠くことがある。
 今回の沙織の記憶がまさにそれで、「男に襲われた」という事実はわかっても、彼女の混乱で「どういったことをされたか」がすっぱり抜けていたのだ。
 どうしても客観的な情報が必要だった。
(確実性は、低いけど……やるしかないか)
 覚悟を決めた叶恵が立ち上がると、玲司は当然のようについてきた。
「次はどうするんだい?」
らちがあきませんので、ひとまず彼女達が行った活動写真館でも見てみようかと」
 本来の目的は別だが、叶恵は適当な理由を語った。
 幸いにも、目的の活動写真館はここからさほど遠くない。
「……ふうん、じゃあ途中で寄りたいところがあるんだけど、いい?」
「別に、ここで別れてもいいんですよ」
「俺結構役に立つよ?」
 その申し出に、叶恵は少々半眼になるが、玲司はしれっとしている。
 押し問答しても時間の無駄か、と諦めて好きにさせることにした。
 会計は玲司によって済まされていた。

 活動写真館では、幸いにも沙織達が観た活動写真がまだ上映中だった。
 玲司が当たり前のように入場券を二人分購入するのに、叶恵はもう動じなかった。
 活動写真は、モノクロの無声映画を、筋書きと台詞を声色たっぷりに語る弁士と、楽士の音楽で彩る演劇だ。
 封切りから一ヶ月以上経っても「淑女の黄昏」はまだまだ人気のようで、会場内に並ぶ長椅子の半数ほどは埋まっていた。
 覚悟して会場に入ったのだが、あたりを見回してもなにかを観ることはなく、叶恵はほっとする。
 人が多く集まる場所は、物や場に記憶が染みついていることがあり、目が勝手に記憶を観始めるときがある。活動写真館はその最たるもので、普段なら避ける場所だったから若干身構えていたのだ。
「真ん中あたりが見やすいんじゃないかなぁ……っとかなちゃん?」
「ここにします」
 叶恵は玲司を置いて、さっさと場内隅の長椅子を選んで座り込んだ。
 見回して確認したが、角度的に沙織が座った場所で間違いないだろう。
 玲司は不思議そうにしたが、それも一瞬だった。
「ふうん、かなちゃんがいいんならいいけど。あ、始まるよ」
 隣に座った彼の言葉通り、弁士の男が気取った歩みで現れる。
 彼は、銀幕の傍らに置かれた台の前に立つと、朗々とした声を響かせた。
「“さあ本日ご高覧に供しまするは、運命に恋にと翻弄された一人の乙女のけなげな生涯……説明はやまろうにてお届けいたします──……”」
 会場は真っ暗になり、目の前のスクリーンに明かりが灯される。
 この弁士の声もどこか聞いたことがあると思いながら、叶恵は尻に敷いた座布団に慎重に触れる。
 叶恵の千里眼は人だけでなく、物の記憶も観られる。
 どうもその時々の人の感情が焼き付くらしい。
 物には目も耳もないはずなのに不思議だといつも思うが、そういうものだと受け入れるしかなかった。誰にもこの感覚は理解されないのだから。
 ただ、物は「執心」がないせいで、観えても断片的で、よほど強烈な感情が伴わない限りあっという間に薄れる。
 しかも多くの人間が触れた物は、どんどん記憶が上書きされていくのだ。
 それでもしないよりはマシだと、叶恵は目の奥に集中する。
 視界が繫がる感覚と共に、同じ画角でわずかに異なる風景が広がる。
 だがすべて掠れ、風化したように判然としない。
 様々な活動写真と弁士の声が混ざり合い脳裏に反響するが、次々に消えていく。
 沙織の姿を捉えることはできなかった。
「“──ああ、恋する乙女に神は情けを与えてはくれないのでしょうか。すれ違う二人に、忍び寄るのは引き裂く魔の手──……”」
 銀幕に映される泣き濡れうずくまる娘の映像と、弁士の哀愁漂う声だけが響いた。
 上映が終わった。
 結局徒労に終わったと叶恵はため息を吐いた。置き土産の鈍い頭痛のせいで眉間に力が入る。人を観るよりはマシとはいえ、千里眼は使いすぎると頭痛に苛さいなまれる。
 生理的な涙がにじんでいる。おそらく目も充血し始めているだろう。
 と、視界に玲司が割り込んでくる。
「どうかしたの? 目、赤いけど」
「強い光で目が疲れました」
 めざとく気づかれたが、叶恵は適当にあしらった。どうせ本当のことなどわかりはしない。
 次の手を考えなければならないが、痛みで思考がまとまらなかった。
 叶恵に余裕がなかったために、玲司のじっと推し量る眼差しに気づかなかった。
「なんだかわからないうちに終わっちゃったねえ。なにか知りたいことわかった?」
 玲司が続けて話しかけてくるのに、叶恵は少しだけ呆れた。
 ほかの観客から、感動してすすり泣く音は聞こえていた。活動写真は良いできだったし、活動弁士の語りもなかなかだったのだろう。
 それを「なんだかわからないうちに終わった」とあっけらかんと称す玲司は、なんとなく奇妙だった。
(だからどうって、わけじゃないけど……変な坊ちゃんだな)
 ぼんやり頭の隅で考えながら、叶恵はなんとか立ち上がった。
「今日はとりあえず帰って、別の方法を探します」
 できれば確証を得てからにしたかったが、仕方がない。
 すべてを森本に打ち合けることも視野に入れるか……と、会場を出ようとすると玲司に止められた。
「あ、じゃあちょっと俺に付き合ってくれる? 沙織ちゃんになにがあったか知りたいんでしょ? いい方法があるよ」
 玲司にそんな風に言われて、叶恵は面食らう。
 自信ありげな玲司に促されて会場を出ると、活動写真館の奥へと向かう。
 もちろん途中従業員に止められたが、玲司がなにかを言うとあっさり通された。
 たどり着いたのは、活動弁士の楽屋だった。
「富山詩郎先生、失礼します」
 とやましろうとは誰だったか、と叶恵は考えかけたが、室内にいる気取った男を見て気づく。つい先ほど見た活動写真の活動弁士だ。
「君は誰だい」
 けだるげに椅子に座る富山は、扉を開いた秀麗な美男子に、いぶかしげにした。
 そんな彼に、玲司は照れの混じったはにかみ顔になる。
「すみません、富山先生の説明がとっても良くて、この感動を伝えたくて押しかけてしまったんです。ヒロインが恋を嘆くくだりは心に染みるようで涙がにじみました」
 先ほど「なんだかわからないうちに終わった」と評した男とは思えない情感溢れた感想だった。
 叶恵は玲司の変わり身のすさまじさにぎょっとしたが、富山はまんざらでもなかったらしい。
「へえ、俺のファン? 男が珍しいな。そっちのお嬢さんぐらいなら俺の追っかけもそれなりにいるんだけど」
 斜に構えた物言いながらも、富山には隠しきれない喜びがにじんでいた。
「あ、もし良ければこちら、どうぞ。お好きな銘柄だと良いんですが……」
 言うなり玲司はそっと、袋から取り出したたばこのカートンを差し出す。
 富山はそれを見ると、相好を崩した。
「俺の好きな銘柄じゃないか。ありがたくもらうよ」
 さっそく富山は一箱開けて一本取り出すと、火をつけうまそうに吸う。
 重たい匂いが部屋に充満する。
 満足そうにする彼に玲司はすかさず話しかけた。
「弁士さんはみんなご自分で説明の脚本を作られる、と聞きました。今回のヒロインのシーンも工夫されたんですか?」
「当たり前だろう。こちとら言葉で商売してるからな。ヒロインのところは、観てる女を全員泣かせる気で、センチになるよう言葉を選んでるんだぜ」
「もう、聞いてるだけで悲しくて、主題歌が流れたとたん、涙腺が緩みました」
「だろうだろう!」
 玲司の相づちとおだてが絶妙で、富山はますます気をよくして饒舌になる。
 叶恵がいることすら忘れているのではないかと思うほどだ。
 この茶番にいつまで付き合わせる気なんだ、と叶恵が内心うんざりしかけたときだ。ふと富山が愚痴のように吐き出した。
「あんたみたいに楽しく聞いてくれるやつばかりだったら、俺もやりがいあるんだけどな。活動写真館を女を引っかける場としか思ってない輩が多くてさあ……」
 えっと、叶恵は富山を見た。
 玲司がすかさず問いかけた。
「せっかくの活動写真を観ずに、そんなことをする男がいるんですか!?」
「そりゃもうしょっちゅうだよ。活弁士なんて台本を読んでるだけと思われちゃいるが、客が思っているより、舞台から客席はよーく見えるんだぜ。例えばお嬢ちゃんは一ミリも表情が変わってなかったな。はじめはつまらんのかと思っていたが、目が赤くなってんのは、そんだけ集中して観ていたんだろう?」
 叶恵の目が充血しているのは、千里眼の使いすぎのせいだ。
 決まり悪く目を逸らすと富山は良い方向に解釈したようで、小鼻を大きくした。
「んでだ、一ヶ月前くらいだったかな。封切り初日で満員だったな。ちょうどお嬢ちゃんが座っていた席あたりで、純朴そうなお嬢ちゃんが暗い顔で縮こまってんだよ。そしたらまあ、隣に座った男が銀幕も観ずにやに下がってごそごそしてるわけだ。放映を止めるわけにはいかないから言わねえけど、ちょっかいを出されてるなってわかっちまう。あれはたちの悪い男に見えたね。あの子が逃げ切ってることを願うぜ」
 あっという間に一本吸いきった富山は、二本目に火をつけて煙を吐いた。
 煙が散っていく中で、叶恵は目の前の男を凝視した。
 時期も、叶恵が沙織の記憶を観た光景とも一致する。これだけ詳細に状況を話せるなら、こちらが知りたいことも観ているかもしれない。
 確かめるしかない。
「あの、思い出に握手してもらえませんか」
 出し抜けに叶恵が言うと、富山は若干驚いたようだが、にんまりと片手を差し出してくれた。
「おう、いいぜ」
 覚悟を決めて、叶恵はその手を握る。
 とたん目の奥の刺すような痛みと共に、視界には舞台から見た客席が広がった。
 半分ほど埋まった客席の隅に、無表情な叶恵と興味深そうに銀幕を見る玲司が並んで座っている。
 その姿は唐突にぐにゃりと歪み、叶恵と玲司は沙織と若い男の姿に変わった。
 周囲も満員の客席になる。
 真っ暗な中でも、銀幕からの反射で人の顔がよく見える。
 顔をぎゃくの喜びに染める男の手は、沙織の肩に回されている。逆の手は、着物の裾のあわせから中に差し入れられ、不自然にまさぐっていた。
 沙織の凍り付く顔も、男の手がどこをなぶっているかも、叶恵は一つも見逃さなかった。
「また来てくれよ」
 声をかけられたときには、叶恵の目の前には、気障に笑う富山がいた。
 記憶を覗いた時間は一瞬だ。多少熱心に握手をした程度。
 だが、十分すぎる収穫だった。
「ありがとうございます、お邪魔しました!」
 玲司の朗らかな辞じ 去きよの礼は、叶恵の気持ちを代弁しているようだった。

 活動写真館を出ると、叶恵は強烈な頭痛と、痛みが原因の吐き気が無視できないほどになり始めた。
 しかし隣に玲司がいる以上、座り込むわけにはいかない。
 こういうとき、顔に出ないのは助かると思っていると、玲司に覗き込まれた。
「かなちゃん、俺、役に立っただろう?」
 褒めて、と言わんばかりの玲司を叶恵は見つめ返した。
 彼がたばこ屋に行って雑談しながらたばこを買ったときは、愛煙家だったのかとのんきに考えていた。だが、あの時点から話を引き出す手段として準備していたのだ。
(どの口で、ぼんくらだって言うんだ)
 有能すぎて逆に恐ろしい。人当たりの良い笑みに大事な部分を隠されて、靄の中で宙ぶらりんにされているような違和感がある。
 だが、目の奥の痛みに紛れてしまった。
「男も女もたらし込むのがうまいんですね」
「俺は快く協力してもらうために手順を踏んだだけだよ」
 とりあえずそう言うと、そんな風に返された。
 深く探る気力も起きず身をひるがえすと、玲司がついてくる。
「状況的には一ヶ月前の子が沙織ちゃんで、痴漢に遭遇したのは間違いない。とはいえ事実がわかっただけで解決策にはならないし……」
「いえ、もう十分です」
 痛みで回らない頭のせいで反射的に割り込んでしまい、叶恵はしまったと思った。
 けれど、玲司は不思議そうに首をかしげただけだ。
「なら、君はどうするの?」
 正直話をするのもおっくうで、早く部屋に帰って布団に潜り込みたかった。
 ただ役に立ってくれた礼に、叶恵はその問いにだけは答えてやった。
「沙織さんの、憑き物を落としてみようかと」

  *

 叶恵は森本にもう一度沙織に会わせてもらう約束を取り付けさせた。
 だが森本の同席は拒否した。
「どうしてですか、僕も沙織さんが心配で……」
「まあいいから。森本くん、男同士でちょっと話そうじゃないか」
 今日も今日とてなぜかいる玲司が森本を引き留めてくれている間に、叶恵は離れに向かった。
 固く閉ざされた引き戸を、軽く叩く。
 どう切り出せばいいかわからなかったし、傷ついた者を慰める方法も知らない。
 優しさなど叶恵の人生になにもなかった。しかも沙織とは少し顔を合わせただけの他人だ。
 だからこそ、無責任に言葉を投げつけることもできる。
「沙織さん、こんにちは。数日前にも訪問しましたね。森本様に依頼された……うん、なんでも屋みたいなもんです。ちょっと中に入りますよ」
 返事はなかったが、叶恵は外鍵を開けて中に入り込んだ。
 室内は相変わらず薄暗く、部屋の片隅で、この間よりやつれた沙織がいた。
 彼女は無断で踏み込んできた叶恵が、先日殴ってしまった相手と気づいたらしい。
 一瞬罪悪感の色を浮かべたが、すぐに目尻をつり上げて叫ぶ。
「わ、わたしは、コックリ様に身を捧げたんだ。だから近づくな。去れ、帰れ!」
「もう良いですよ、フリをしなくて」
 震える彼女の言葉を遮って告げると、沙織はさらに興奮したように立ち上がる。
 物がほとんど見当たらないのは、もしかしたら取り上げられたからかもしれない。
「違う! わたしにはコックリ様から授かった神通力だってあって──」
「私は、活動写真館でなにがあったか全部知ってる。君の友達から聞いた」
 沙織の顔が凍り付いた。
 その喉がひく、と鳴り、体がぶるぶると不穏に震えだす。
 彼女が再び叫びだす前に、叶恵はすかさず二の句を継いだ。
「ご両親には話していない。もちろん森本様にも」
 それで、なんとか踏みとどまってくれたらしい。代わりにストンとその場に腰を下ろした。抜け殻のように気力のない姿が痛々しかった。
 虚ろなそうぼうからは、はたはたと涙が零れていく。
「……ばか、だと。思っていますか。でもあのときはそうするしかないと思ったんです……」
 ここで普通なら慰めの言葉をかけるべきなのだろう。だが叶恵に気の利いた文句など思い浮かばなかった。
 周囲に助けを求められなかった自分へのふがいなさ。植え付けられた男への恐怖。両親を信頼し、打ち明けられなかった苦しみ。自分がした軽率な行動への後悔。
 そのすべてを理解できるなど、到底言えない。
 沙織の身に起きたことは、彼女しかわからないのだ。友人の言葉も、優しい第三者の慰めも、きっと彼女に響かない。
 ──本来なら。
 叶恵は打ちのめされる沙織の真正面に正座した。
「あなたは、まず親しげに声をかけられた。座りやすいよう席を詰めてくれたんだもんね。親切にされたらちゃんと礼を言うのはお母さんの教育のたまものかな。相手の野郎はすごく巧みだった。あなたがおかしいな? と思わないよう段階を踏んで追い詰めたんだ」
「え」
「暗くなってから、膝に手を置かれた。気のせいかと思ったらだんだん大胆になって『楽しもうぜ?』とか言われたのかな。逃げようとしたけどあんな端っこに追い詰められたら逃げようがないよ」
「ど、して……」
 叶恵が「観た」光景を話すと、沙織が信じられないとばかりに目を見開く。
 そう、叶恵は沙織がなにをされたか、知っている。
 横から盗み観たこんな叶恵だけが確かに、言えることがあった。
「あなたの苦しみをすべてはわかってやれない。けど、これだけは言わせて。周囲がなんと言おうと、あなたは一切、悪くない。悪いのはあの男のほうだ」
 ひとつ、ひとつ、区切るように言った。
 沙織の目尻に、涙がぶわりと盛り上がる。救いを得たような表情だった。
 けれど悲痛に顔は歪み、穢らわしいとでも言うように自分の体を搔き抱く。
「で、でも、わたしの軽率な行動のせいで、肌を許して、純潔を失ってしまったんです……!」
「念のために確認するけど、会場から出たあと、物陰に連れ込まれて続きとかされてないよね?」
「い、いいえ! 上演が終わってすぐ振り切って、みっちゃんとりょこちゃんと外に出ました、けど」
 最後の懸念が払拭された叶恵は、安堵の吐息を零す。
 穢らわしいのは間違いないが、観たのは沙織が膝を触られ、服の下に手を入れられたこと。
「それは純潔を失ったことにならないよ」
 叶恵が断言すると、沙織はぽかんとこちらを見る。
 その戸惑いの眼差しを受けた叶恵は、こほんと咳払いをすると、袖から用意した紙を数枚取り出して広げた。
 これから教えるのは、少し後ろめたくとも、彼女の救いになるはずのこと。
「じゃあ、ちょっと交合の授業をしようか」
 そこに描かれた絵を見た瞬間、沙織の顔にぱっと朱が散った。

 一通り教え終えた叶恵が引き戸を開けると、玲司と森本がいた。
 森本は相当気を揉んでいたらしく、叶恵を見るなり身を乗り出してくる。
 それでも中に入ろうとはしないのは、沙織が「入るな」と言ったのを律儀に守っているからだ、と沙織自身に教えてもらった。
「あの、かなさん、沙織ちゃんは……。っ!」
 森本の視線が、叶恵の背後にいる沙織を捉えるなり動揺に染まる。
 彼女はぼうの涙を流していた。
 泣きじゃくるという表現がこれほど似合う泣き方もないだろう。
 見る間に森本が怒りの形相になり、矛先は共にいた叶恵へ向かう。
「沙織ちゃんになにをしたんですか……っ!」
「や、やめてくださいっ……!」
 叶恵に摑みかかろうとした森本の動きは、沙織の制止で止まった。
 今まで会話が成り立たなかった彼女からの呼びかけに驚いたらしい。
 摑まれるいわれはなかった叶恵はほっとして、今のうちにと森本の隣をすり抜けた。
 沙織は泣きながら、叶恵が渡した紙を抱きしめていた。
 嗚咽が混じりながらも、彼女は立ち尽くす森本に呼びかける。
「叶恵、さんは、わたしを救ってくださったんです……!」
「すくって、くれた?」
 森本のどういうことか、という視線を向けられた叶恵は答えてやった。
「沙織さんに憑いていた『狐』は落としました。あとはお二人の問題です。それでもなにかあったらカフェーメイデンへどうぞ。──沙織さん、あとは、大丈夫?」
 それだけは聞いておかねばと問いかける。
 すると沙織は顔を真っ赤にして震えながらも、こくんと確かに頷いた。
「じゃあ、これで私達は失礼します」
 なら長居は無用だと、叶恵は玲司の袖を握ってその場から去ったのだった。

  *

 玲司は帰り道、やはり問いかけてきた。
「ねえ、最後に彼女が抱えていた紙って……?」
「お守りに、と思いまして置いてきました」
「あれって春画だろう? 彼女への正しい性教育のための教材だって言っていたじゃないか」
 そこまであえて口にする必要はないんじゃないか、と叶恵はジト目で玲司を見上げた。しかし彼は不思議そうにするばかりだ。
 そう、今回の原因の一つは、沙織の純潔の解釈だった。
 父の意向で娯楽を厳格に制限された沙織は、男女の交流にも無垢に育てられた。
 男女が婚姻したあとなにをするかも知らなかったせいで、暴行犯に肌に直接触れられパニックになった末、自分は処女ではなくなったと思い込んだ。
 沙織の例は極端だが、良家の少女達が性交についてほとんど知らされないのは別段珍しくない。はじめて会う夫との初夜でどのようなことをするかを知り、驚き怯える例もよくあった。
 だから叶恵は、春画を使って講義をしたのだ。
 恥ずかしそうに、けれど好奇心を隠せずに春画を凝視する沙織には、悪の道に引きずり込んだようで少々罪悪感が湧いた。が、必要なことだと割り切った。
 そのことは離れに来る前に玲司に話していたはずだが。
 と叶恵が考えたところで、「お守り」となる由縁は話していなかったと気づいた。
「一応、春画は由緒正しい勝守りなんですよ。性交というのは力に満ちあふれた行為ですから、昔から縁起物として扱われたんです。これから沙織さんがどうするかわかりませんけど、彼女自身の戦に勝てるようにおまじないです」
 そう説明すると、玲司は意図を正確に理解したようだ。
「そうだね、沙織ちゃんが本当のことを話したとしても、理解を得られるかは別だ。彼女の戦いはこれからなのか」
 彼の言う通りだった。
 誤解がとけ、「狐憑き」が終わっても、沙織の苦難ははじまったばかりだ。
 本当はなにがあったのかを打ち明けたとしても、あの父親は理不尽な怒りを沙織に向けるだろう。今は同情的な母親も、行動が軽率だったと責めるかもしれない。
 沙織自身が抱えた精神的衝撃も癒えるかどうかわからないのだから。
 世間の価値観はひどく冷たい。
(でも、森本様がいれば、大丈夫かもしれない)
 沙織を見捨てず、献身的にどうにかしようとした彼がいれば、少しは救われると思いたかった。
「まあ、お金分はきっちり働きましたからね」
 感傷を振り切るために叶恵が淡々と締めくくる。
 すると玲司は目を細めた。
「かなちゃんは優しいね。お金のためと言いながら、沙織ちゃんを救うためにできる限りのことをしてた」
 その賞賛が後ろめたく、叶恵は黄昏に陰る道へ視線を落とす。
「……別にそんなつもりはありません。あのまま離れたら気分が悪かったし。実際、助言だけでおいとましたじゃないですか」
 叶恵はお人好しではないのだ。
 たった数十分会話しただけの少女の人生を背負う余裕などない。
 明日の出銭の稼ぎ方に頭を痛めているくらい、一人で生きていくだけで精一杯だ。
 ただ、忌ま忌ましい千里眼で観えてしまった事柄には、ほんの少しだけ贖罪がしたいという自己満足だった。
 玲司はふうん、と気のない返事をしながら続けた。
「でも浄化の水や、狐憑きのときも思ったけど、かなちゃんは怪奇や霊的なことにすごく詳しかったよね。詐欺の手口にも造詣が深かった。普通の生活をしていたら出会わないような知識だ。それが思い入れた理由なんじゃないかな」
 のらりくらりとしているくせに、妙なところで突っ込んでくるなと思った。
 まあここまで来て疑問に思わないわけがないか、と叶恵は肩をすくめて用意していた答えを口にした。
「下町の見世物小屋で育ったもので、人を引っかける方法には少し明るいんです」
 噓ではなかった。
 叶恵は幼少期には、すえの見世物小屋で過ごした。
 興行されるのは、上品な人達は眉をつり上げるか卒倒するような、不道徳でナンセンスで下世話な見世物ばかりだった。叶恵はそこで人を騙す様々な仕掛けや、手業を知った。浄化の水の知識は、その中の一つだ。
「騙されたいんならともかく、ありもしない怪異に惑わされるのは可哀想ですよ」
「じゃあどうして君は、沙織ちゃんは純潔を奪われてないって確信していたの?」
 心臓を鷲摑まれた気がした。
 思わず叶恵は隣を見上げる。
 玲司は変わらず朗らかに微笑んでいるが、その彫りの深い顔には、夕日によって深い陰影が刻まれていた。
 今まで以上に得体の知れない不気味さを感じて背筋が凍る。
 一層表情が動かないよう気をつけながら、叶恵は慎重に答えた。
「それは……会場内でできることなんてたかが知れてるじゃないですか」
「なら沙織ちゃんが座っていた席を迷いなく選んだ理由は?」
 畳みかけられ、叶恵は動揺を抑えられなかった。
 いつの間にか歩みは止まっていた。どくんどくんと嫌な風に心臓が波打つ。
「はじめから、君の言動には違和感があったよ。森本くんが会った霊術家を、『女性』と断言していたこともそうだ。彼は一言も性別に言及していなかったのに」
「いえ。そう、でしたか?」
「なら沙織ちゃんの友達に会ったときは? 彼女達から情報を探り出すというより、ほしい情報を引き出すために話しているようだったね。すでに原因を確信しているみたいにだ」
「そんなの、思い込んでただけですよ。私のは探偵のまねごとなんですから」
 まさか些細な言動を覚えられているとは思わなかった。
 自分のうかつさに舌打ちしたくなるが、わかるわけがないとしらを切る。
 そのまま歩き出そうとすると、ふいに玲司の手が叶恵の手を摑もうと伸びてきた。
 とっさのことで、叶恵は素手の手を振り払うように避けて、しまったと思った。
 玲司が確信を帯びた笑みをしていたからだ。
「今、俺に素手で触られるのを避けたね」
 違う、と否定する間もなく、彼は畳みかけてくる。
「俺は二度君の態度が変わる瞬間を見たよ。一つは沙織ちゃんに殴られたとき。そこから君は、事件の解決に積極的になった。もう一つは活動写真館でだ。上演が終わった直後は焦っていたのに、活弁士と別れたときには君の方針は固まっていた。どちらも相手に素手で接触したあとだ。もしかして森本くんのときも、ぶつかったときにはなにかわかっていたのかな?」
 今すぐここから、この男から離れなければいけない。
 でないとすべてが暴かれる。
 だが叶恵が身をひるがえす前に、無情にもそれ、、、は告げられた。
「君は、世の中の怪奇は大体まやかしって言ったね。それは、君自身が本物を知っているからじゃないかな。例えば、人の思考が読める……いいや触れた人や物の過去が読み取れる、とかね」
「っ!」
 正確に言い当てられ、叶恵は真っ白になって立ち尽くした。
 次いで腹の底からこみ上げてくるのは、震えるほどの恐怖と焦燥だ。
(油断した、油断した! こんな初見で看破されるなんて思うわけないだろ!)
 今までの扱いが走馬灯のように叶恵の脳裏をすぎていく。
 叶恵の千里眼を知った瞬間、恐怖と怯えで距離を取る者、いやらしい猫なで声で利用しようとしてくる者。
 そして、都合が悪くなれば、手をひるがえし「噓つき」と弾劾する。
 叶恵は自分と同じような力を持った者が、過去にいなかったか調べたことがある。
 十数年前に力を持つと公言した者達はいた。
 だが彼女達は、総じて様々な実験や世論の好奇の目と心ない批判の中で心を病んで死んでいった。
 ただでさえ叶恵は、過去なにをしていたか知られれば無事では済まない身の上だ。
 ともかくこの男から逃げなければと、叶恵が後ずさったら、着物の袖を摑まれた。
「待ってかなちゃん! 君を利用したり言いふらそうってわけじゃないんだ!」
「そんなの信じられるわけないでしょ!?」
「あっ、かなちゃんやっぱり猫をかぶってたね」
「なんで嬉しそうな顔するのよ!」
 意味がわからなくて、叶恵がなんとか袖を取り返そうと暴れながら抗議する。
 だが玲司はその抵抗をものともせず、朗らかな表情のままで言った。
「あんまり叫ぶと、人がくるよ。注目を浴びたくないでしょ。それに俺、もう君の居場所を知ってるし、今逃げても店に会いに行くよ」
「っ……!」
 一から十までその通り過ぎて、叶恵はギリギリと奥歯をかみしめて睨み上げる。
 自分の急所が握られているのに、どうにもできないのが悔しい。
 この男の手の中だ。
「……じゃあ目的は、なに」
 渋々尋ねると、玲司は一層嬉しそうに微笑んだ。
「俺もかなちゃんに依頼したいんだ」
「依頼?」
「俺が本当に“鬼”か調べてほしい」
 玲司は赤々とした夕日の影で微笑んでいる。
 彼の影は長く伸び、叶恵を呑み込んでいた。

  *

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■ 著者プロフィール
道草家守(みちくさ・やもり)
2013年からWEBで小説投稿を開始し、2015年に作家デビュー。以来、繊細な描写で人気を博す、実力派作家。著作に『帝都コトガミ浪漫譚 勤労乙女と押しかけ従者』(ことのは文庫)ほか「龍に恋う」シリーズ、「青薔薇アンティークの小公女」シリーズ(全て富士見L文庫)など、著作多数。

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