第一話「草迷宮」
長く続いた武士の世が終わり、元号が「明治」と改められてから二十一年目、明治二一年(一八八八年)の二月初めのある日の昼下がり。
かつての加賀藩の城下町にして、今や石川県の県庁所在地である金沢の町の一角、六枚町に建つ私塾の玄関先に、若い男性の張りのある声が響いた。
「お頼み申します!」
声の主の武良越義信は、人力車を引く車夫である。
日々、街頭で鍛えた大きな声で屋敷の奥に呼びかけながら、義信は玄関脇の看板を改めて確認した。
元は武家の屋敷だったようで、風格のある格子戸の脇には「国語・英語・算術指導 井波塾」「下宿・通学選択可」という文字が並んでいる。達筆で記されたそれらを見ながら待っていると、程なくして屋内から「はーい」と若々しい声が応じた。
「お待たせいたしました」
声変わりを迎えたばかりなのだろう、伸びやかな挨拶とともに現れたのは、色白で小柄な少年であった。
見たところの年の頃は十三、四ほど。身の丈は五尺(約一五〇センチメートル)足らずで、女子のような細面に丸眼鏡を掛け、シャツに小袖に袴という書生風の出で立ちである。
取次役の書生なのだろうな、と義信が思っていると、あどけなさの残る風体の少年は、玄関に立つ義信を見て軽く首を傾げた。
義信の背丈は六尺(約一八〇センチメートル)弱、年齢は今年で二十八。引き締まった浅黒い体に黒地の半纏に股引、腹掛けを身に着け、菅笠を被って肩には羽織を掛けている。どこからどう見ても車夫にしか見えない義信を前にして、少年は眉をひそめた。
「うちでは誰も車を頼んではいませんが」
「え? あ、いや、そうではなくて……。あの、ここでは英語を教えておられるのですよね。俺は、英語を学びたいのです」
少年に向かって義信はおずおずと切り出し、訪問の目的を説明した。
ここのところ車夫の世界も競争が激しく、地元出身ではなく、土地勘もない身では、ただ市街を流しているだけだと実入りが悪い。一方で、最近の金沢では、城の跡地の陸軍駐屯地や町内のあちこちで建設が進む工場などに顧問として招かれる外国人が増えており、彼らは接待や食事のためによく外出する。そこで、英語を身につければ、そういった人たちを顧客にできると思いついた。人力車のお客から、この私塾は先生は若いが熱心で優秀で、受講料もそれほどでもないと聞いていたので、こうして訪れた次第で、云々。
車夫である義信は、体を動かすことには慣れているものの口下手だ。その説明はたどたどしく、ぎこちないものだったが、少年はあっさり理解してうなずいた。
「なるほど。英語だけの受講のお申込みということですね」
「ええ。なので、先生に取次ぎをお願いしたく」
「それは不要です」
「不要? いやしかし、受講料や日程のことを確認しておきたいのですが……。何より、これからお世話になる以上、ご挨拶せねばならんでしょう。なぜ呼んでいただけないのです? 先生はご不在なのですか?」
「いいえ」
少年がけろりと首を横に振る。もしかして馬鹿にされているのか……と顔をしかめる義信だったが、少年は意外なことを口にした。
「ここで英語を教えているのは僕ですので」
「え!? 君が──あ、いや、あなたが、ここの先生……?」
「まあ、そうなります。申し遅れましたが、僕は泉鏡太郎と申します」
驚く義信が見つめる先で、少年はこくりとうなずき、名乗って一礼してみせた。
義信は慌てて「武良越義信です」と挨拶を返し、改めて目の前の小柄な少年を凝視した。ここの塾の先生が若いとは聞いていたが、いくらなんでも若すぎる。
「まだ子どもじゃないか……」
「これでも十六ですが」
義信が思わず漏らした感想に少年──鏡太郎が顔をしかめる。思っていたよりは年上だったが、だとしても若いことには変わりない。
「この井波塾の先生は二十歳過ぎと聞いていたのですが」
「はい、塾長の井波他次郎先生は二十三ですよ。井波先生はここの他にも塾を経営しておられるので、今はそちらで出張講義中です。お手伝いさんもそちらに同行しているので、英語講師の僕が留守番をしているというわけで」
「ああ、なるほど。つまり君──ではない、いや、あなたは、ここの講師として雇われていると」
「いえ、僕はここの寄宿生です。受講料もちゃんと払っていますよ」
「何……?」
なぜ生徒が教える側に回っているのだ。義信が再び当惑すると、鏡太郎は表情を変えないまま答えた。
「僕は基督教系の学校を出ていますので、英語の読み書きはできるのです。ここには受験に備えて苦手な数学を学びに来たのですが、『お前、英語ができるなら教えてみるか』と言われまして、『別にいいですよ』と引き受けた次第で」
「な、なるほど……」
秀才肌で生真面目な少年のようだが、教える時間があるなら数学の学習に充てるべきではないのだろうか。義信はそう思ったが、とりあえず黙っておくことにした。
その後、鏡太郎は義信を塾内へと案内し、一昔前の寺子屋を思わせる畳敷きの教室にて、講義の日時や受講料のことを説明した。
一通りを聞いた義信は「むう」と一声唸って黙った。
日程的には問題はないのだが、受講料が思っていたより高かったのである。
と、鏡太郎は義信が黙った理由をすぐに理解したようで、落ち着いた顔のまま「受講料でしたらご相談に応じますよ」と言い足した。心の声を見抜かれてしまった義信が赤面し、正座したまま肩を縮める。
「お恥ずかしい。車夫の稼ぎは乏しいものでして……。で、ご相談と言いますと」
「よくあるのは、お金以外で支払っていただく形ですね。お米や野菜、味噌などを受講料の代わりに収めていただくわけです」
「ふむ。しかし、農家ならともかく俺は車引きですから、出せるものは何も……」
「そうですか」
「人を運んだ時に貰えるものと言ったら、運び賃の他には噂話くらいですし、そんなものではお代になりませんでしょう。お時間を取らせてしまって失礼しました」
英語を学ぶのはいい思い付きだと自負していたが、これは諦めた方が良さそうだ。そう判断した義信は苦笑しながら一礼し、その直後、目を丸くした。
目の前に正座している鏡太郎の目が、なぜか爛々と輝いていたのだ。
急にどうしたんだと戸惑う義信の前で、鏡太郎は「噂話……」とつぶやき、何かに気付いたようにはっと短く息を吸った。
「……そうか。車屋さんなら毎日大勢の人を乗せますし、運ぶ道中で色々な話を聞くわけですよね」
「え、ええ、まあ……。ですが、お客が車屋に話すことなど、せいぜい他愛もない噂くらいですよ。本当かどうかも分からないような」
「それでいい──いいえ、それがいいのです」
二人しかいない教室に鏡太郎の口早な声が響く。さらに鏡太郎は正座のまま義信ににじり寄り、周りに誰もいないことを確認した上で、口元に手を添えて抑えた声を発した。
「これは相談なのですが」
「な、何でしょうか」
「怪異な噂をご存じなら、ぜひ教えていただきたいのです」
「か、『怪異』?」
誰かの秘密を探れとか教えろとかいう依頼かと思って身構えていた義信が、拍子抜けして問い返す。だが鏡太郎はあくまで真剣な面持ちのまま、確かに首肯した。
「はい、怪異です。怪しい場所、不思議なもの、ありえない事件、化け物、幽霊、妖怪変化……。僕が求めているのはそういう噂です。ああ、昔話ではいけませんよ? 今、この金沢で起きている話が欲しいのです。そういう噂を教えていただければ、場合によっては受講料の支払いを待ちましょう」
「え?」
「そして噂が本当だったなら─つまり、確かめた結果として本当の怪異や神秘に巡り合えたなら、受講料は免除します」
「そ、そんなことができるのですか……?」
「これでも一応講師ですから、その程度の自由は利きます。多分。いかがですか?」
前かがみになった鏡太郎が上気した顔で問いかける。いかがも何も、と義信は思った。商売柄その手の噂ならしょっちゅう聞くし、個人の秘密にかかわる話ならまだしも、信憑性の薄い怪談奇談なら誰に教えても問題はない。
無論、お化けや幽霊が本当にいるとは思えないし、この若い……というかむしろあどけない英語講師がそんな条件を出してきた理由も理解しがたいが、それで受講料に足りるのであれば話は別だ。
というわけで義信が「それでいいのなら是非」とうなずくと、鏡太郎は「こちらこそ!」と力強く応じ、眼鏡越しの目を義信へと向けた。
「では早速一つ」
「いきなりですか」
「入塾料代わりです。さあ」
そう言って促す鏡太郎はすまし顔のままだったが、眼鏡の奥にある双眸は、名前の通り、泉か鏡のように輝いていた。この少年は表情こそ乏しいが、雄弁な目を持っているようだ。義信は気圧されつつ、では、と相槌を打って口を開いた。
「これは先日、花街から帰るお客を乗せた時に聞いた話なのですが……竪町を突っ切ろうとしたら、遠回りをしてくれと言われたんです。理由を聞くと、『黒門屋敷の近くは通りたくない』と」
「『黒門屋敷』?」
「はい。あ、『黒門』というのは俗称で、門が黒いからそう呼ばれているだけだそうで……。元は加賀藩に仕えた武家のお屋敷ですが、今は誰も住んでおらず」
「初めて聞く話ですね。興味深いですが、奇妙ですね。昨今の金沢では、無住の大きな武家屋敷など、どんどん取り壊されているでしょう」
「仰る通りです。そこも開発予定区画なのですが、立ち入るとおかしなことが起きるとか。近隣の住民は皆、怪しいものを見たり、不思議な音を聞いたりしているそうで、『あそこは祟られているので入ってはならない』という話が誰言うともなく広まり、お化けが出ると噂になって工事は進まず」
「『お化け』? それはつまり化け物ということですね。幽霊ではなく。いいですね」
鏡太郎の目がさらに輝く。冷められるよりはいいのだが、なぜそこで興奮できるのかが義信にはさっぱり分からなかった。
「いいのですかね……? 俺は噂を聞いただけですので詳しいことは知りませんが、そもそも、お化けと幽霊は違うものなのですか?」
「断じて違います。お化けは動植物や器物が化けたもの、あるいは生来不思議な姿形や能力を備えているものを言い、幽霊は死んだ人間が生前の姿で出てくるものを言います。どちらもそれぞれ興味深いですが、ただ、怨恨で出てくる幽霊だけはいただけませんね。ああいうのはつまらない」
「つまらない……」
「はい。たかだか人間風情の気持ち、しかも『恨み』などという個人的な感情で動く幽霊など、陰気なだけで面白くも何ともない。慈愛や恋慕の念で姿を見せる幽霊には興味がありますが、どうせ見るならやはりお化けに限ります。でしょう?」
「『でしょう』と聞かれましても、俺は幽霊にもお化けにも会いたくないのですが」
「見解の相違ですね。まあいいです、では早速参りましょうか」
「え? 参るって、どこへ」
「件の黒門屋敷に決まっているではありませんか。場所はご存じですよね?」
そう言って鏡太郎は腰を浮かせたが、壁に掛かった時計を見て静止してしまった。「どうしたのです」と義信が問うと、鏡太郎はやるせない顔で溜息を吐いた。
「もうすぐ英語の講義の時間なのです。忘れていました。何なら忘れていたかった」
心底残念そうに言う鏡太郎である。忘れないでほしいと義信は思った。
「あの、こっちは英語の講義を受けに来たわけですから……」
「分かっていますよ。そうだ、せっかくですから受けていかれますか?」
「いいのですか?」
「構いませんよ。今日の課程は初心者向けの二回目ですから、体験入塾にはちょうどいいかと思います」
講義の支度をすべく立ち上がった鏡太郎は、正座したままの義信にそう告げ「黒門屋敷へ行くのは、講義の後ということで」と言い足した。早く現地に行きたくて仕方ないようだ。義信は思わず苦笑しながらうなずき、姿勢を正して頭を下げた。
「では、よろしくお願いいたします、泉先生」
「……『泉先生』? 僕のことですか?」
「え。おかしいでしょうか。これから講義を受けるわけですから……」
「おかしくないですが、慣れないですね。講義をしていても鏡太郎呼ばわりなので」
そう言って鏡太郎は面映ゆいようなむずがゆいような顔になり、義信に向き直った。
「僕からは『武良越さん』と呼べばいいですか?」
「できれば下の名前でお願いします。幕末の文久生まれとしては、未だに苗字というやつにどうも馴染みがなくて……。仲間内からは『義』とか『義信』と呼ばれていますが」
「なら、『義さん』とお呼びします。よろしくお願いいたします、義さん」
「こちらこそ。お約束の黒門屋敷には講義の後に必ずお連れしますので」
「はい、是非──あ、いや、それはまずいか。後ほど外で合流することにしましょう。光善寺は分かりますか? ここから目と鼻の先にあるお寺です。あの本堂の裏手で落ち合いましょう」
「は? どうしてそんな──」
なぜそんな面倒な手順を踏む必要が。面食らう義信だったが、鏡太郎はその疑問には答えず、「では僕は講義の支度に」と足早に教室を出ていってしまったのだった。
それから間もなく、教室には受講生たちが集まってきた。隠居した老人から商家の若者まで幅広い顔ぶれだったが、いずれも成人した男性だった。
鏡太郎の講義は日常会話を中心にした実用性重視の内容で、教え方も手馴れており、全くの初心者である義信にも分かりやすかった。
義信の隣に座った若者は、芸妓のいる茶屋で働いているんだと自己紹介し、今後は英語を使う客も増えそうなので、店の方針でここに通わされているとも話した。
「うちの旦那が言うには、『お上がまたひっくり返ることもなさそうだから、これからは、長い目、広い目で商売しなきゃなんねえ』ってことでな。まさか、この歳になって塾に通う羽目になるとは思ってなかったよ」
面倒そうに若者がぼやき、義信は「なるほど」と苦笑交じりで相槌を打った。
これより十年ほど前までは、明治維新の立役者の一人であった大久保利通が暗殺されたり、西南戦争のような大規模な国内紛争が起こったりと、政変の余波のような事件も多かったが、そんな騒がしい時代は既に過去のものとなっていた。
良くも悪くも、しばらく世の中の仕組みが変わることはなさそうだ──と、大半の人々が理解しつつあるのが、明治二十年代という時代であった。
また、若者が言うには、鏡太郎がここで教え始めてもう一年になるとのことだった。
それなら慣れているのも道理だが、受験を控えているのなら自分の勉強をした方がいいのではなかろうか。
流暢に講義を進める鏡太郎を見て、義信は再びそう思った。
***
講義が終わると、義信は鏡太郎に言われた通り、空の人力車を引いて光善寺へと向かった。
既に日は傾いており、赤みを帯びた夕日が境内の残雪を照らしている。昼から降っていた雪は止んだようだが、肌寒さはいかんともしがたい。本堂の裏手で義信が手をこすり合わせながら待っていると、息を切らせた鏡太郎が走ってきた。なぜか手には油壺を下げている。
「ああ、泉先生。お待ちして──」
「話は後です!」
義信の挨拶を遮りながら鏡太郎は人力車に飛び乗り、「出してください!」と焦った声で告げた。まるで誰かに追われているような剣幕である。わけが分からないまま義信は人力車の支木と梶棒を握り、慌てて駆け出した。
黒門屋敷のある竪町方面に向かいながら、義信は背後を振り返った。大人二人まで座れる大きさの椅子は小柄な鏡太郎には広すぎるようで、手足を大きく広げ、はあはあと深呼吸を繰り返している。
「大丈夫ですか? 一体何があったんです、泉先生!?」
「お、お気遣いなく……。いつものことです」
「いつものこと?」
「……はい。実は、井波塾は、寄宿生の勝手な外出は禁止なのです……。特に僕は、しょっちゅう出歩くので、先生に目をつけられていまして……もうそろそろ、井波先生のお戻りの時間なので、慌てて抜け出してきたんです……。間一髪でした……!」
「……はあ、それはそれは。にしても、なぜ油壺を」
「これを持っていると、見つかっても、『ランプの油が切れたので買いに出たのです』と言い訳ができるんです」
「な、なるほど……。しかし、ちょうど油が切れたのは幸運でしたね」
「そんなわけないでしょう。油は庭に捨てたんです」
「そんなことをしているから目をつけられるのではないですか?」
「一理ありますね。しかし背に腹は代えられません」
呼吸を整えた鏡太郎が力強く言い切る。そうですか、と適当な相槌を打ちつつ、義信は内心で鏡太郎への評価を改めていた。
最初は秀才肌の生真面目な少年だと思ったが、かなり重度の変わり者のようである。
と、そんなことを考えているうちに、人力車は繁華街である香林坊へと差し掛かっていた。目的地である竪町はこの一画を抜けた先だが、人通りの多い街路では車の速度を落とさざるを得ない。義信は歩調を緩め、それにしても、と鏡太郎に話しかけた。
「よく外出されるとのことでしたが、何をそんなに外に出る用事があるのです?」
「ああ、それは──げっ」
鏡太郎がふいに短く唸り、「嫌な相手が……」と小声を漏らした。
同時に、道の先からやってきた少女が鏡太郎に気付いて「あっ!」と声をあげる。
少女の年の頃は、鏡太郎より少し下の十二、三で、纏っているのは涼やかな水色の小袖。いかにも気の強そうな顔立ちで、綺麗に切り揃えた前髪とくっきりした目鼻立ちは日本人形を思わせる。
お使いの途中なのだろう、風呂敷包みを手にした少女は、鏡太郎を見て一瞬嬉しそうに顔をほころばせたが、すぐにムッと眉根を寄せ、車の隣に並んで歩き出した。
「車でお出かけなんて、いい御身分ですねー、鏡太郎さん?」
「これにはわけがあるんだ。瀧には関係ない」
面倒そうに言いながら鏡太郎が目を逸らす。そんな鏡太郎の横顔を、瀧と呼ばれた少女はじーっと睨みつけた。
「ところで、貸本のお代が溜まってるんですけど」
「……いずれ払う」
「いずれっていつです? ほんと、しょっちゅう借りに来るくせに、お代はいつもつけ払いなんだから……。うちだって商売なんですからね?」
「借りた本はちゃんと返してるじゃないか」
「貸本は借りたら返すのが当たり前です!」
鏡太郎が漏らした小声に、瀧がきっぱりと切り返す。瀧は貸本屋の娘なのかと義信は気付き、同時に、鏡太郎が足しげく外出する理由をも理解した。
「なるほど。貸本屋通いにご熱心なわけですか」
「そうなんですよ車屋さん! この人、借りてばっかりで全然払わないんです!」
「『払える時まで待ってあげる』と言ったのは瀧じゃないか」
「た、確かに言ったけど……あのね、鏡太郎さんだから待ってあげてるんですからね!?」
「だから、それについては何度も感謝しているだろう。何を怒っているんだ?」
顔を赤らめた瀧に対し、鏡太郎は平静な顔のまま首を傾げる。瀧は鏡太郎に好意を抱いているようだが、鏡太郎の方にはまるでその気はないらしい。年頃の少年にしては珍しい……などと義信が思っていると、瀧が「どちらに?」と問いかけてきた。
そこで義信が素直に事情を話したところ、瀧は心底呆れかえった。
「まーた『おばけずき』が始まったんですね」
「『おばけずき』……? また、と言うと、この泉先生は昔からこういう……?」
「はい。昔からこういう人なんです。ほんと、黙って本読んでると可愛いのに」
「大きなお世話だ。お化けが好きで何が悪い」
「悪くないけど変だって言ってるんです。今の時代、古いお化けの本なんか借りていくのは鏡太郎さんくらいですよ?」
「今時、化け物の話など流行らないことくらい、言われなくても知っている。新しい本が出ないんだから、古いものを読むより仕方ないだろう」
「何その開き直り。いつかお化けに呪われても知りませんからね」
「本望だ」
瀧の悪態にきっぱりうなずく鏡太郎である。本気でお化けに呪われたいと願っているとしか思えない断言ぶりに義信は驚いたが、付き合いの長い身にとってはいつものことであるようで、瀧は「はいはい」と適当に受け流し、義信へと視線を向けて頭を下げた。
「変な人ですけど悪い人ではないので、よろしくお願いいたします」
「いえいえ……」
瀧に会釈を返しつつ、義信は、悪い人ではないけど変な人なのだな、と思った。
やがて義信の人力車は、黒門屋敷のある一画へと辿り着いた。
金沢城の南方に位置するこの一帯は、明治になってから区画整理が進められたようで、表通りには新しい商家が、裏通りには長屋が軒を連ねている。夕日の照らす路地では、まだ家に帰りたくない子どもたちの声が方々から響いていた。
「今打つ鐘は?」
「四ツの鐘じゃ」
「今打つ鐘は?」
「五ツの鐘じゃ」
「今打つ鐘は?」
「七ツの鐘じゃ! そりゃ、魔が魅すぞ!」
鬼役の男児が大きな声をあげるなり、その周囲を囲んでいた子どもたちが、わっ、と騒いで逃げ出していく。一方では、数人の女の子が歌を口ずさみながら手毬を突いていた。
「──こーこは、どこの細道じゃ」
「少し通して下さんせ、下さんせ」
「誰方が見えても通しません──」
そんな歌声を聞きながら義信の人力車は薄暗い路地を通り抜け、掘割に囲まれた大きな屋敷の前で止まった。
「着きました、泉先生。看板も何もありませんが、ここだと聞いています」
「ありがとうございます。なるほど、黒門屋敷とはよく言ったものですね」
車から降りた鏡太郎が、興味深げに黒塗りの門を見上げる。
かつては威厳のある武家屋敷だったのだろうが、放置されて久しいようで、門扉は傾いで外れており、柱や塀はカビやコケに覆われつつあった。
門の中を覗いてみれば、広い庭には人跡未踏の荒野のように背の高い草が生い茂って立ち枯れており、かさかさと乾いた音を立てながら揺れていた。「これはこれは」と鏡太郎が嬉しそうに言う。
「まるで草の造った迷宮ですね。それに、この不気味な気配……。すぐそこに長屋があるような町中だというのに、敷地が広いおかげで、まるで人里離れた森の中の一軒家のような雰囲気だと思いませんか?」
「確かに……」
鏡太郎に続いて門の内を眺めた義信がうなずく。
土気色の草の奥には、黒塗りの瓦屋根を担いだ屋敷がそびえていた。幾つもの棟を渡り廊下で繫いだ形式の平屋は、住人が暮らしていた頃ならば見応えもあったのだろうが、寒々とした夕空の下で見るその様は、まるで脚を拡げた大きな蜘く
蛛もの死体のようで、義信はぞっと体を震わせた。
義信はお化けだの幽霊だのの存在は信じていないが、「いるかもしれない」と思ってしまうことはあるし、「本当にいたら怖い」という気持ちも人並みには持ち合わせている。
「なるほど……。これはいかにも出そうですね……」
「ええ、実にいい雰囲気です。では早速」
そう言うなり鏡太郎は無造作に門の敷居をまたぎ、草ぼうぼうの敷地に足を踏み入れた。義信が驚いたのは言うまでもない。
「ちょ、泉先生!? 何を──」
「早くしないと暗くなってしまうじゃないですか」
「そういう問題ではなくて……。言いましたよね、ここには化け物が出るから入ってはいけないと。忘れたのですか?」
「覚えているから来たのです。しかし実際に何が出るのか義さんはご存じなかったわけですから、自分の目で確かめるより仕方ないでしょう。ああ、怖いなら帰っていただいて構いませんよ」
けろりとした口調で言い、鏡太郎は草の中に隠れた飛び石を渡って奥へと歩いていく。小柄な背中が背の高い草に隠れるのを見ながら、義信は青い顔で考えた。
他人の屋敷に無断侵入するのは問題だし、怖い、気味悪い、という思いもある。
だが、曰くつきの屋敷に十歳以上も年下の少年を置き去りにして帰るというのは、いくらなんでも大人げないのではなかろうか。それに、もしここで鏡太郎に何かあったら、英語の講義も受けられなくなってしまう……。
……誰かに咎められたら、勝手に入った鏡太郎を止めようとしたのだと言おう。
そう内心でつぶやき、義信は敷居をまたいで黒門屋敷の庭へ侵入した。
水はけが良くないのか、庭の土は泥のようにぬかるんでおり、草でよく見えないが、あちこちに水たまりもあるようだ。義信は飛び石を踏み外さないよう気を付けながら、早足で進んだ。
「泉先生、待ってください……!」
「ああ、来られたんですか」
既に屋敷の玄関を引き開けていた鏡太郎は、義信が追ってきたことに気付いても喜んだり安心したりする素振りすら見せなかった。今は噂の真偽を確かめることが何より大事なようで、「お邪魔します」と言い放ち、下駄を履いたまま屋敷の中へ入っていく。
義信は少し迷ったが、屋敷の中は雨漏りがひどく、床板は腐ったように湿っていたので、下足のまま後を追うことにした。
放置された武家屋敷に灯りが点いているはずもなく、当然ながら屋敷の中は暗く見通しは悪い。天井が高いおかげで暗がりが多く、今にも何かが飛び出してきそうだ。
「い、泉先生? どちらに……?」
「こっちです、この座敷です」
「この座敷と言われても……。ええと、こちらで──ひっ!」
おずおずと座敷に入るなり、義信は思わず声をあげた。
正面の煤色の広い壁いっぱいに、袖を広げた巨人の影が浮かび上がっていたのだ。
腐った畳、鏡太郎、そして大柄な義信さえも見下ろすようなその姿に、義信はぞっと青ざめたが、そこに鏡太郎の冷静な声が響いた。
「怯えることはありません。ただの雨漏りの跡ですよ」
「あ、雨漏り……?」
「ほら、天井を見てください。水を掛けたら墨汁が垂れてきそうなほどに黒ずんでいるでしょう? 天井があの様子なのですから、壁に染みもできますよ。下から上がってきた水気のおかげもあって、こんな影が浮き上がったものでしょう」
「……なるほど。つまりこれが、黒門屋敷の化け物の正体……」
「そうだとしたら、受講料の免除はできかねますね」
しれっとした顔で言うと、鏡太郎は外れた障子をまたいで奥へと進んだ。まだまだ帰るつもりはないようで、仕方なく義信も後に続く。
それからしばらく鏡太郎は、無言で黒門屋敷の探索を続けた。空き部屋を覗き込んでみたり、戸板を叩いたり、床や天井をまじまじと眺めてみたりする鏡太郎を、義信は不安な顔で見守り続けた。
幸いにもと言うべきか、残念ながらと言うべきか、不思議なことは何も起こらなかったが、外から差し込む夕日はどんどんか細くなり、義信の不安感を募らせていく。だが鏡太郎の方は怖がる気配はまるでなく、座敷を通り抜けて縁側に出ると、草ぼうぼうの中庭を前にして目を細めた。
「見てください、義さん。あれは井戸ではありませんか?」
「それが何か……? これだけ広い屋敷なら、井戸の一つや二つあるでしょう」
「そうではなくて、呪われた武家屋敷の井戸と言えば怪談の原因の定番ではないですか。皿屋敷はさすがにご存じですよね」
「ああ、あの、『いちまーい、にまーい』と皿を数えるという」
「それです。家宝の皿を割った罪を着せられた女性が殺されて井戸に投げ込まれ、皿を数える幽霊が出るようになり、色々あってお家断絶という、あれです。恨みの念を抱えた幽霊は好みではありませんが、家を丸ごと滅ぼしてしまう強さはなかなかいいですよね」
そう言いながら、鏡太郎はぬかるんだ地面に躊躇なく飛び降りた。古井戸に歩み寄りながら鏡太郎が続ける。
「それに、この金沢はご存じのように皿屋敷伝承の多い土地」
「存じませんが……そうなのですか?」
「金沢の怪談の定番といえば皿屋敷ですよ。あとは化け物屋敷と飴買い幽霊ですね」
「飴買い幽霊と言うと」
「『子育て幽霊』という名でも知られる話です。懐妊したまま亡くなった若い母親が、埋葬後に土中で産んだ我が子を育てるために、毎晩飴を買いに来るという、あれです。具体的には」
「け、結構です。こんなところでそんな話は聞きたくないので」
「怖いのですか、義さん? 大丈夫ですよ。子育て幽霊は人に害を為しません」
「そういうことではなく……」
「あの、もし……?」
唐突に、女性の抑えた声が、義信と鏡太郎の耳に届いた。
瞬間、義信の背筋にぞっと悪寒が走りぬけた。義信が弾かれたように振り返ると、濡れ縁の端に、長い髪で細身の娘が一人、赤ん坊を抱いて立っていた。
*
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■著者プロフィール
峰守ひろかず(みねもり・ひろかず)
滋賀県在住。第14回電撃小説大賞〈大賞〉受賞作『ほうかご百物語』で2008年にデビュー。『絶対城先輩の妖怪学講座』『学芸員・西紋寺唱真の呪術蒐集録』『うぐいす浄土逗留記』『妖怪大戦争ガーディアンズ外伝 平安百鬼譚』(以上KADOKAWA)、『金沢古妖具屋くらがり堂』『今昔ばけもの奇譚』テレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』(第6期)ノベライズ(以上ポプラ社)など、妖怪・怪異を扱った作品を多く手掛ける。