自由に生きたければ
なくてもいいものを手放しなさい
── トルストイ ──
今年も冬がなかなか巡ってこない。そう思っていたら、数日前から急に寒くなってきた。
阿紗はダウンジャケットを羽織り、家を出た。マンションの小さなスロープを下りて国道沿いの道を歩いていく。
「もう十二月だっていうのに、コートなしで歩いている人が多いねぇ。ひと昔前の冬はもっと寒かった。日本も東南アジアみたいな気候になったねぇ」
おばあさんというよりは、おじいさんと言ったほうがしっくりくる、あのしわがれた声がする。いつもいつも判で押したように同じ。それでも阿紗は相槌を打つ。そうしないと八重がすぐ不機嫌になるから。
「東南アジアねぇ。行ったことないけど、きっとこんな感じなんでしょうね。夏は湿度が高くて冬はポカポカ」
「まぁ、寒いよりは暖かいほうがいいやね。あたしは暖かい冬が好き。ソ連なんかに生まれなくてほんとによかった」
「八重さん、ソ連じゃなくてロシア」
「あんたはもの知らずだね。昔はソ連って言ったんだよ」
何かを思い出したかのように突如として色づき始めたイチョウの木を横目に阿紗は石畳を歩く。空は雲に覆われている。どんよりとした灰色。
「イチョウの葉っていうのは、曇り空でも映えるねぇ」
いつも灰色の服を着ていた八重はイチョウ色のマフラーを巻きなおしながらよく言った。そしていつもここで曲がった。阿紗は駅前の交差点を左に折れる。
ゆるやかな坂を上りきる手前でガラスに覆われた掲示板が視界に入った。
今月のことば──
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
ヨハネによる福音書12:24
ほんとうは絵本を買いに二ブロック先の本屋まで行くはずだった。
でも、今すぐじゃなくてもいい。
阿紗は立ち止まった。
もう何千回、何万回と通った場所なのに、初めて掲示板の奥に建つ教会をまじまじと見上げた。
大きなイチョウの木の脇の階段を上る。アーチをくぐり、小さな回廊を進む。中庭の聖人像を横目で見ていると、奥のドアが開いた。灰色のジャケットを羽織った神父と思しき男が出てきた。目礼すると、柔らかな笑みを浮かべて言った。
「こんにちは」
「こんにちは。あのあたし、お祈りしたいんですけど」
祈り……。
誰が?
思ってもみなかった言葉が口をつく。
「どうぞ、お御堂はそちらです」
神父は今しがた出てきた部屋を指し示した。
阿紗は生まれて初めてお御堂といわれる部屋の扉を開けた。
入ってすぐ右の小さな壺に聖水が入っている。人差し指につけ、十字をきる。
正面の祭壇には大きな銀色の十字架がかかっている。
ドア近くの椅子に腰かけた。
父と子と聖霊の御名によりてアーメン
十字架にかけられたイエスキリストを見ながら、もう一度、十字をきる。
めでたし聖寵充ち満てるマリア
主御身と共にまします
御身は女のうちにて祝せられ
御胎内の御おん子こ イエズスも祝せられたもう
天主の……
そのあとが出てこない。
門前の小僧は習わぬ経を読めるが、隣人の八重に教えてもらった祈りさえもロクに覚えていない。
かわりにずっと抑えていたものが込み上げてくる。
「あたしが死んだら、一度くらいは教会で祈ってみなよ」
なぜ今になって八重との約束を果たしているのだろう。
もっと早く来たってよかった。
でも、いつもこの場所を素通りし、見て見ぬふりをしてきた。
どれくらい祈っていたのだろう。
神の家の中で佇んでいた。
佇みながら、八重を感じていた。
阿紗はお御堂を後にした。
回廊を渡り、階段を下りようとしたところで、きっぱりとした風が吹き上げてきた。
教会のイチョウの木が揺れた。はらはらと黄金色の葉が舞ってくる。
八重さん、もしかしてそこに来てる?
からんと音を立てて足もとに何かが落ちた。阿紗はしゃがんでそれを拾った。イチョウの木が落とした銀色の実。
風が頰に吹きつけ去っていく。
ほんとうの冬が巡ってきた。
阿紗は握りしめていた拳をゆっくりと開いた。
八重の置き土産。絶対に片づけられない、一粒の銀色の実。
八重はもういない。二年前からわかっていた。それでもずっと認めたくなかったことが、ようやくすとんと心に落ちた。
その途端、堰を切ったように涙が溢れてきた。
1
絵本の中では十二色揃ったクレヨンたちが笑みを浮かべている。
みるちゃんは言いました。
「いままで、ほんとうにごめんね」
そうしてタンスのはしっこにはさまって、かけてしまったきいろちゃんの頭をやさしくなでてくれました。
「もうぜったいにまいごにしたりしないからね。
だって、きいろちゃんがいなきゃ、おひさまもひまわりもかけないもん」
みるちゃんは、あかくんとみどりちゃんのあいだ、なつかしいクレヨンのお部屋にきいろちゃんをもどしました。
「ありがとう」
きいろちゃんはお礼を言いました。
みるちゃんには聞こえない声。
でも、きょうはちゃんと届いている、そんな気がします。
「きいろちゃん、おかえり~」
「みんな待ってたんだよ」
なかまたちがなつかしいお部屋でかん声をあげています。
ページをめくりながら、阿紗は知らず知らずのうちに頷いていた。片づけができない子はクレヨンや色鉛筆をよくなくす。自分もそういう子供だった。
生活のすべてにおいてだらしなく、家事能力ゼロ。困ったときは金で解決とばかりに愛情がわりの消費を惜しまなかった母はクレヨンの色が揃わなくなると、すぐに新品を買った。十二色のはずなのに九色。二十四色のはずなのに二十一色。三十六色のはずなのに二十八色。空席が目立つ箱ばかりが増えていった。
やがてその箱が邪魔になり、不揃いのクレヨンたちはモロゾフのクッキー缶に入れられた。それでもクレヨンはなくなり続けた。それも決まってよく使う色が。自分もみるちゃんみたいに、黄色のクレヨンをよくなくした。あれがないと致命的。おひさまもひまわりも、今ならピカチュウも描けなくなってしまう。
あたり一面に散らばるリカちゃん、シルバニアファミリーのフレアやラルフ、人形たちの服や小物が瞼に浮かんでくる。ない、どこにもない、黄色いクレヨンが。レゴや積み木の山を探ってみたが、やはりない。タオルケットをめくっても見つからない。スウェットシャツにストッキング、靴下の片割れ、いらないものばかりが出てくる。血まなこになって迷子のクレヨンを捜していた五歳の自分。カオスのような部屋。二度と戻りたくない空間。
阿紗は絵本を閉じた。
大きく息を吐き、残像を振り払う。
窓の外は明るい。いつの間にか地面に打ちつけていた雨の音が消えている。
店の前に置かれたオリーブの木がかすかに揺れている。目を凝らすと、細長い葉先から身震いするみたいにしずくが落ちた。
天の気まぐれのように突然降りだした雨も風もおさまっている。
カップに残ったコーヒーを飲み干した。ほどよい酸味が広がり、すっと消えていく。銀色の筒から丸まった紙を抜き、腰を上げる。
「ごちそうさまでした」
熟年起業組のマスターに一礼してドアを開けた。
風が頰をくすぐる。向かいの家の庭から木々に染みた雨のにおいが漂ってくる。東の空を見ると、虹が出ていた。
いったい何年ぶりだろう。七色のアーチを見るのは。頭をよぎった昔の嫌な思い出が一気に消えていくほどのすがすがしさだ。
きょうは……と言っても、正午を過ぎてしまったが、何かいいことが起こりそうな気がしてきた。午後二時になったら家に子供たちがやって来る。読み聞かせの仕事が終わったら、隣町にでも行ってみようか。
国道15号沿いの道に出た。二、三歩踏み出したところで、ぽつぽつしずくが落ちてきた。
また雨?
違う。
犯人は歩道に植えられたイチョウの木だ。さわりと吹いた風に誘われて、またぽつり。振り返ると、ついさっきまでくっきりと浮かんでいた虹は跡形もなく消えている。それでも、仰ぎ見たときの心地よさはたしかに残っている。
イチョウの木が途切れたところを右にそれ、古ぼけたレンガ色のマンションに入っていく。申し訳程度のソファセットが置かれたエントランスを抜け、正面のエレベーターへと向かい、八階まで上がる。ガタンと故障寸前のような音を立て動き出す箱は、意外と早く目的の階へ着く。機械的に身体が右に曲がる。
なんだろう、宅配便?
薄暗い廊下の突き当たり、805号室。我が家の前に大きな荷物がある、と思ったら、違った。荷物は動いている。巨大化したねずみのような老婆がしゃがみ込んでいる。
「どうしたんですか」
思わず駆け寄った。大理石もどきの床がじんわり濡れている。老婆の髪からしずくがぽたりと落ちた。
「どうしたもこうしたもこのザマだよ」
シワに囲まれた斜視気味の目がこちらを睨む。まるで阿紗が雨を降らせでもしたかのように。
「いきなりの雨でしたからね」
老婆の表情がさらに険しくなった。
「雨? そんな生易しいもんじゃないよ、あれは。スコール? 突然ドシャーッと。いつの間にか日本も東南アジアみたいな気候になっちまった。というかさ、この安もんの床、あんたどう思う? どうにかなんないのかね、冷たいんだよ。こんなんじゃ尻から冷えて死んじまう。ったく、どうしてくれんだ。こっちは鍵なくして部屋に入れないんだよ。ずっと突っ立ってるわけにもいかないんだよ。だいたいさ──」
これが噂の難物か。
阿紗は初めて見る隣人をまじまじと見つめた。肩まで伸びた灰色の髪を無造作にひとつにまとめ、ねずみ色のワンピースをでれっと着ている。これまでの人生の不満を凝縮したかのように眉間には深いシワ。
「お隣の804号室には、ばあさんがひとりで住んでるんですがね。これが相当な変わり者でして」
このマンションに越してきた当初、管理をしている不動産会社の担当者が言っていた。
「世の中に対しても人に対しても、とにかくいつも怒っている。不機嫌が服着て暮らしているみたいなばあさんです。つかず離れずっていうより、つかないほうがいいですよ」
たしかに、こんな厄介者とはかかわらないほうがいい。
さっさと部屋に入ろうと思った。だが、斜視気味の目は何かを察したようだ。
あんた、あたしを見捨てる気?
無言のプレッシャーが矢のように飛んでくる。
「部屋に入れば、合い鍵はあるんだ。だから部屋にさえ入れれば」
老婆はしゃがんだまま阿紗の背中に言った。
「末野の奴、電話かけてもいやしない。いや、あれは絶対にいるね。居留守を決め込んでいる。いつ戻るって聞いたら、半日は戻らないとさ。ったく、何、悠長なこと言ってんだ。あいつは悪魔か。あたしにここでどうしてろっていうんだ──」
べらんめぇ調で担当者をののしっている。
「──連絡つくまでずっとここでしゃがんでろっていうのかい。いいかい? あたしは見かけほど若くないんだ。こんな濡れネズミでいたら凍死してしまう」
ただ今の気温……体感でも25度はある。
いくらずぶ濡れになっても九月に凍死はしません。今年は残暑が厳しく、例年よりずっと暑いんだから。心の中で反論していると、セルフイメージよりは十歳は老けているであろう、推定七十五歳の老婆の目の光が変わった。
「噓じゃないよ、寒いんだよ。このままじゃ風邪ひいちまう」
自分で自分を抱き締めるかのように身を縮め、こちらを見上げる。
横目で804号室のドアに掲げられた表札を見た。
五百井。
大学のとき、同じ苗字の教授がいた。「いおい」と読むのだろう。
二年と十ヶ月前の記憶が蘇ってくる。挨拶がわりのタオルを渡そうと何度もインターフォンを押した。午前中に出なければ午後に。出なければ日没後に。三十回、いやもっと押したかもしれない。それでもこの老婆は無視し続けた。きっとドアののぞき穴からこちらを見て、居留守を決め込んだのだろう。
そんな人間不信の塊のような女が、今、自分を頼っている。
どうしたものか。
トートバッグから部屋の鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。左に二回。ゆっくりと回す。
「じゃあ、お気をつけて」
そう言い残すはずだった。
だが、お節介な唇が勝手に動く。
「とりあえず、こちらでお待ちになりますか。中でお話を聞きます」
まったく何を言ってるんだろう。ここでいい人ぶったって、何の得にもならない。末野だって、高い管理費を取っているのだから、いつまでもこの老婆を放置はしないはずだ。数時間以内にマスターキーを持ってここまで駆けつける。なのに……。つい親切な隣人を演じてしまう自分がわからない。
「いいの? ありがとうございます」
などと殊勝な態度を取るはずもなく、老婆はふんっと鼻を鳴らし、阿紗の後に続いて家にあがった。
玄関の右、廊下というには短すぎる通路の先のリビングのドアを開けて、ソファを指した。
「そちらにどうぞ」
老婆は濡れた服のまま、腰を下ろすと値踏みするかのように部屋を眺める。
「ここ何畳? 同じマンションだってのに、また随分と広いんだね」
責めるように言う。
804号室の間取りなど知ったことではないが、マンションの造りからして同じ平米数に思われる。ここが広く感じるのは、お宅が物で溢れているからじゃないですか、などと返すのもバカらしい。阿紗は相槌も打たず洗面所に行きタオルを持って、リビングに戻った。
「ほんとに風邪ひきますよ、拭いてください」
「わかってるよ、このままじゃ凍死しちまう」
老婆は束ねた髪をほどき、ごしごし拭き始めた。老人特有の枯葉を煮詰めたようなにおいが漂ってくる。
黙って窓を開けた。ほどよい湿り気を含んだ風が入ってくる。壁にかけてある温度計を横目で見る。25・2度。体内センサーはいつだって正確だ。
「ドライヤー使います?」
「いらないよ、そんなの。これでじゅうぶん」
「だけど、災難でしたね。鍵、いったいどこでなくしたんですか」
髪を拭いていた老婆の手が止まった。
「あんた、バッカじゃないの。わかってたら、こんなところにいないよ」
いきなりバカ、しかもこんなところ呼ばわり。
はちみつミルクを出そうと思っていたが、親切心はしぼんでいく。
「落としたから、今、手もとにないんだろうが。鍵がなくなるっていったら、フツーそうだろう。雨が降る前だか後だか、とにかくどっかで落とした」
老婆はワンピースのポケットに手を突っ込み、引っ張り出した。裏返った袋状の布に大きな穴が空いている。
「これ、この前まで小さかったのに、いつの間にかこんなに大きくなっちまった。あたしは用心深いからねぇ。なくしたときのために合い鍵は三本も作ってたんだ。でも、これで、残るは一本」
「部屋に、たしかにあるんですよね」
「しつこいね、さっきからあると言ってんだろ。あんた、あたしが年寄りだから、ボケてると思ってんだろ」
「ただ確認しただけです」
「悪いけど、あたしは記憶力だけはいいんだ。チェストの引き出しの真ん中にちゃんとしまってある」
斜視気味の目がこちらを睨んだところで、壁にかけた鳩時計が午後一時を告げた。老婆の肩がぴくりと上がる。
「なんだよ、デカイ音だねぇ。今どき鳩時計なんて。せっかくくつろいでいるのに、びっくりするじゃないか」
老婆は我が物顔でソファに座り直し、大きく伸びをした。
この目つきの悪さ、ごつい鷲鼻、底意地の悪さがにじみ出た喋り方。白雪姫やヘンゼルとグレーテル、眠れる森の美女……。けなげな主人公を不幸の渦に落とし入れる魔女そのものだ。
なんでまた自分は、こんな性ワルを部屋に入れてしまったのか。まったく魔術にかかったとしか思えない。
阿紗はリビングに続くキッチンに行き、冷蔵庫から牛乳を取り出した。大きめのマグカップに注ぎ、レンジで二分。そこにアカシアはちみつをたっぷりとたらす。
「温まりますよ。これ飲んでゆっくりしていてください」
はちみつミルクを老婆に渡し、短い廊下を通って寝室に行った。ベッドの前の窓から顔を出し、隣室をのぞく。
視線を左九十度に向けると四角いベランダがある。鉄柵までは難なく届きそうな距離。さらに身を乗り出して見る。鉄柵の前に目隠しを兼ねたブロック塀が張り出ている。幅二十センチ。じゅうぶん足場となる。
ベランダの先で薄汚いレースのカーテンが揺れている。不用心なのか、それとも換気しているつもりか。主がいない部屋の窓は開けっぱなしだ。
阿紗は窓の下に視線を移した。通用門付近には配送の軽トラックが一台とまっている。八階のここから地面まで三十メートル近くある。真っ逆さまに落ちれば、脳はくだけ散る。
だが……。
サイドテーブルがわりのスツールを窓際に引き寄せ、上に乗る。窓を越えるのにちょうどよい高さになった。手を伸ばし鉄柵をつかみ、足場のブロックに片足をかければ……思ったより簡単に隣のベランダに移れそうだ。
いったんスツールから下りた。
ほんとうに越えるのか。
我ながら突拍子もないことを思いついた。だが、魔女を追い払うにはこれしか方法がない。
ほんの数秒、宙を舞う恐怖よりも、あの厄介者にこのまま居座られる不快感のほうがずっと大きい。
リビングに戻った。ソファに浅く腰かけた老婆は、ヴェールのようにタオルをかぶり、腕組みをしている。コーヒーテーブルのマグカップは空っぽ。
「あの……」
老婆はこくりこくり舟をこいでいる。こちらが命を賭した自問自答をしていたこの数分の間に、はちみつミルクを飲み干し、入眠までしてしまうとは。
揺り起こそうかと思ったが、やめた。
どうせまた不機嫌に鼻を鳴らされるにきまっている。
白川夜船のうちに、事を済ませてしまおう。
「そこでしばらく休んでてください。すぐ戻ってきますから」
阿紗は小声でそう言うと、リビングのドアをそっと閉めた。
寝室に移動する。
別にたいしたことじゃない。ここが八階と思うから恐怖が先に来るのだ。じゅうぶんな幅の足場に一五八センチの身長でも容易にまたげる高さの鉄柵。窓から身を乗り出しさえすれば、一分とかからず、隣のベランダに移動できる。
腹を決めたはずだが、もうひとりの自分が問いかける。ほんとうにそこまでする必要があるだろうか。
ある。
厄介者を家に招き入れたのは自分だ。こうなることはわかっていたはずなのに、つい情にほだされて……。でも、嫌なものは嫌なのだ。あの途轍もなく性格の曲がった老婆に居座られるのは。もはや一分たりとも耐えがたい。
阿紗はカーテンを逆サイドにきっちり寄せ、スツールの上に乗った。大きく息を吐く。この先は真下を見ないようにしよう。
もう一度、深呼吸し、半身を乗り出した。風が頰を打つ。隣のベランダの鉄柵の手すりをしっかりと握る。右足を踏み出し、ブロック塀の上に乗せる。あとは左足を上げれば、部屋から脱出だ。
よしっ。
宙を飛んだ。
と思う間もなく、鉄柵を越え、隣のベランダへと着地した。
案ずるより産むが易し。だが、産んだ先には案じた以上の障壁があった。
ミイラ化した植物と段ボール箱が散乱するベランダ。その先のホコリにまみれた網戸を開けて、立ちつくした。
何の罰ゲーム?
うちと同じ間取りだとすれば、十畳はあるはず。なのに、足の踏み場がどこにもない。
この物が散乱し、なんとも言えぬ侘しいにおいが充満する部屋から、鍵を見つけなければいけないのか。
足の甲にカラカラに干からびた落葉がまとわりつく。靴下のままベランダを飛び越えてきたことに気がついた。隣の家に足を踏み入れる。わずかな隙間に立つ。
「悪いけど、あたしは記憶力だけはいいんだ。チェストの引き出しの真ん中にちゃんとしまってある」
チェストってどれ?
ビールの空き缶、マッサージ器、脱ぎ捨てた靴下、ペットボトル、紙袋にレジ袋、朽ち果てつつある観葉植物、雑誌、段ボール箱……。ローテーブルの上の灰皿には吸い殻がチョモランマのごとく詰まっている。とにかく物、物、物……。家具のレイアウトがわからない。
胸の奥がざわざわしてくる。あの世界一、居心地の悪い廃墟にいた頃のことが思い出されてくる。
母は愛人として我が身を飾ること以外、何もできない女だった。週に一、二度、男が訪ねてくる日はリビングと寝室に散らばっている物すべてを六畳の阿紗の部屋に押し込めた。夜九時頃、やって来た「パパ」に挨拶をし、近況を報告したあとは、阿紗は部屋に籠らざるをえなかった。小さな廊下を隔てて聞こえてくる母の嬌声が嫌で嫌で、いつもヘッドフォンで音楽を聴いていた。
「THE END OF THE WORLD」
聴いていたのは英語の歌だった。小学校一、二年生の頃のことだ。歌詞の意味などわかるはずもない。母が子供部屋に押し込んだゴミの山の中からたまたま見つけた淋しげなジャケットのCD。ゴミの海に浮かぶイカダのようなベッドの上で膝を抱えて、繰り返し聴いた。
使用済みのタオルやよれよれの部屋着、脱ぎ捨てたままのストッキング、汚れたスリッパ、髪の毛がついたままのカーラー、残量が少ない化粧水、使わなくなったダイエット器具……薄暗い部屋のドアが開いたかと思うと、次々と母が見捨てた物が放り込まれる。ドア付近には飽きられた流行の服たちが、洗濯もしてもらえないまま山となっていた。六畳の部屋に淀んでいた侘しく煤すすけた空気。愛されなくなった物たちが発する死のにおい。
ヘッドフォンの外のことは何も聴かない、何も見ない、何も感じない。何を言っているのかもわからない外国の女の歌声と物悲しい旋律に集中した。
どういうわけか。きょうは昔のことばかり思い出す。
阿紗は呼吸を整え、部屋を見回した。
ベランダから入って左の物置き場はダイニングテーブルだろうか。
正面の脱ぎ捨てられた服がキャベツのように折り重なった下にはソファがある。脇には麦わら帽子をふたつ重ねてかぶった薄汚れたスヌーピーのぬいぐるみ。その隣にエスニック調の布で覆われた物体がある。覆われたというより、放られたというほうが近い。だらりと垂れ下がった布を取ると、三段のチェストが顔を見せた。
真ん中を開けようとした。何かがはさまっていてびくともしない。もう一度強く引く。動かない。今度は引き出しを持ち上げるようにして引っ張り、少しだけ動いたので、左右にがたがたと揺らす。奥にはさまっていたペンが取れて、なんとか引き出せた。
黄色いリボン、ポケットティッシュ、絆創膏、乾電池、チーク、サプリメント、割りばし、栓抜き、体温計……。深さ二十センチはある引き出し一杯に秩序なく物が詰まっている。地層でいうところのいちばん上、泥岩の部分の物をローテーブルのわずかに空いたスペースに置いていったが、いくら掘り起こしても鍵は見つから
ない。
というか今、何時なんだろう?
時計が見当たらない。物が溢れている部屋に限って、肝心な物が見つからない。あるとしたら、あの下……。ソファの上で折り重なっている服を横目で見た。急に鼻の奥がムズムズしてきた。
マズい。
そう思ったときは遅かった。唾が飛ぶような大きなくしゃみが出た。おさまる間もなく、たて続けに二回。何年かぶりのハウスダストアレルギー。鼻水が垂れてくる。
ティッシュ。さっき引き出しから発掘したばかりのポケットティッシュに手が伸びそうになったが、やめた。きっとホコリまみれだ。ローテーブルの上のティッシュボックスを取り、鼻をかんだ。
「あんた、そこで何してんの?」
低く刺すような声がした。
老婆がそこに立っている。
なんで?
雨上がりに虹を見て、家に戻ると奇妙な隣人がいて、鍵をなくしたと騒がれ、部屋に招き入れたが、後悔し、ベランダを越えて隣のゴミ箱のような部屋に入り、何年かぶりにハウスダストアレルギーが再発した……。これはすべて悪夢なのか。
「何って、お宅の合い鍵を捜しているんじゃないですか」
「いったいどっから入ったんだよ」
盗人でも見るような目がこちらを見る。
「玄関から入れないからベランダから」
「柵を越えたのかい? 驚いた。よくもまぁ──」
「そっちこそ、どこから?」
「どこからって玄関からに決まってんだろ」
「だって鍵なくしたって」
「それがさ──」
ワンピースの襟ぐりに手を入れると、ネックレスのようなものを引き出してこちらに鍵を見せた。
「ないないと思ってたら、首からぶら下げていたんだよ」
疲れがどっと押し寄せてきた。
老婆はニッと笑った。目が月みたいになった。
*
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プロフィール
著者:越智月子(おち・つきこ)
1965年、福岡県生まれ。2006年に『きょうの私は、どうかしている』でデビュー。他に『モンスターU子の嘘』『女優A』『帰ってきたエンジェルス』『お願い離れて、少しだけ。』『不惑ガール』『咲ク・ララ・ファミリア』『恐ろしくきれいな爆弾』『鎌倉駅徒歩8分、空室あり』など。