ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 試し読み一覧
  3. 風待ちのひと
  4. 風待ちのひと

風待ちのひと

 プロローグ

 軽く、ひそやかな音が聞こえてきた。
 その響きの心地良さに、トラックで仮眠をとっていた青年は目が覚めた。
 歌うような女の声がした。
「襟足は大事。ここが決まると男っぷりがあがるからね」
「へえ、そんなもんかね」
 運転席からのぞくと、ドライブインの駐車場の隅で小柄な女が男の髪を切っていた。男はキャリーケースに腰掛け、その周りには新聞紙が敷きつめられている。
「そうだよ、男は襟足さ」
 二歩ほど後ろに下がって襟足を眺め、女が男の髪に櫛を入れた。
「襟足良ければ、すべて良し。さあできた」
 男の背を軽く叩くと女が笑った。
「ありがとね、ここまで乗せてきてくれて」
「いやあ、どうってことないや」
 腕を組み、男が笑った。その腕の太さに青年は同業者だと感じた。
 あわててトラックを降り、女の顔を眺めてみる。丸みを帯びた顔はどこか福ふく々ぶくしい感じがした。
 ひょっとしてペコちゃん?
 和歌山県から東京までトラックで鮮魚を運ぶ仕事を始めて五年目。先輩ドライバーからこんな噂を聞いたことがある。
 ──「海沿いの町」という紙を掲げた中年女がヒッチハイクをしていたら、必ず乗せて丁重に扱え。不二家のペコちゃんに似たその女は腕利きの理容師で、乗せるとその礼に必ずドライブインで髪を切ってくれる。
 そうして男ぶりが上がったドライバーにはその後、きまって多くの福が舞い込むらしい。
 ただの噂だと思っていた。
 何度も二人を振り返りながら、青年は休憩所の建物に入った。自動販売機が並んだ一角に行くと、展望台も兼ねたその場所から山々の連なりと海が見えた。
 紀伊半島の南東部、熊野灘に面したこの地方は紀州とも呼ばれ、海にせり出した山が多い。その山々を縫うようにして走るこの国道は、きつい坂とカーブが続く、大型車にとって難所だった。
 そのせいかトラックのドライバーはここ、矢の花峠まで上がってくると、たいていこのドライブインで休憩をとる。峠とはいえ、広い平地を持つ矢の花ドライブインは長距離バスの停留所も兼ねており、大型車専用駐車場や休憩室をそなえていることから、一息入れるには絶好の場だった。
 自販機で缶コーヒーを買うと、青年は煙草を吸いに外へ出た。すると同じくトラックドライバーと思われる男女が灰皿の周りに集まり、くつろいだ姿で煙草を吸っていた。
 中年のドライバーが隣の男に言った。
「おい、見たか? あれがペコちゃんだよ、俺、一回乗せたことがある」
「あれか? 意外と若いな」
「思ったより可愛い」
「そのペコちゃんだけどさ。乗っては駄目なのか」
 煙草を消すと、若いドライバーが卑猥に腰を振った。
「その、ペコちゃんの上に」
「そりゃ駄目、それは絶対にはっ
 中年男が笑った。
「そんなことすると、ハサミでタマをかっ切られる。ペコちゃんのホッペの下ぶくれは悪さをしかけた男のタマタマなのさ。だけどペコちゃんを大事に扱うと、その玉は金に換わって俺らのところにやってくる。なぜならそれは……だから」
 声をひそめて男が四文字の言葉を言った。
「くだらねえ」
「あぁくだらねえ」
「真面目に聞いて損した」
「でも本当さ」
 中年男が笑った。
「俺、あれ以来、絶好調。カミサンももらったし、子どもも生まれた。仕事も独立して大繁盛。少ないけど人も使ってる。トラックもほれ」
 そう言って男は駐車場のトラックを煙草で指し示した。
 並みいるトラックの中で一番豪華な車に乗っていた。
 たしかになあ、と皆がうなずいた。
「あのさあ」
 思いつめたような声で女のドライバーが言った。
「それ、男しか駄目なわけ?」
「女でも一人、乗せた奴がいたな。でもそいつは廃業しちゃったよ」
「そうか、女じゃ駄目か」
 寂しげに女のドライバーが煙草を消した。
「いやいや、だけどあのネエちゃん、トラックは下りたけど玉の輿に乗った。今じゃ運送会社の社長夫人さ。北陸のほうでえらく幸せに暮らしてるって話だ」
 額の汗をぬぐい、女が笑った。
 髪の切りくずをまとめた新聞紙を持ち、ペコちゃんがやってきた。
 ドライバーがいっせいに声をかけた。
「ペコちゃん、姉さん、どこに行くの」
わしさ。田舎に帰るんよ。これから八月いっぱい六週間の夏休み」
 女のドライバーが首をかしげた。
「美鷲? それ、どこ」
 あの道を、とペコちゃんが国道から分かれている道を指さした。
「四十分ぐらい下っていった海辺の町」
「そっちには行かんなあ、あんたらは?」
 皆が首を振った。
「いやあ、いいの。ここまで乗せてもらえたら、あとはバスもあるし」
 散髪された男が缶コーヒーを二本持ってやってきた。
「けどよ、姉さん、バスが出るの二時間後らしいぜ」
「そうなんよ。今は昼間は二時間に一本しかバスが出てないのね。去年はもうちょっと出てたのに」
 青年はペコちゃんを見た。荷物はすでに運び終え、帰りを急いでいるわけではない。ちょっとぐらい遠回りをしてもいいから、このペコ姉さんを乗せてやろうと思った。
「姉さん」
 そう呼びかけたとき、散髪された男が声を上げた。
「なあ、ちょっとあれ、美鷲の車ちゃうか?」
 見ると車体に『美鷲の干物』と書かれた軽自動車が駐車場に止まっていた。
「姉さん、俺がちょっと交渉してきてやるわ」
 いいよ、いいよ、とペコちゃんが手を振った。
「本当に、バスで行くから」
「まあまあ、まかせてよ、散髪のお礼だ。いいから、いいから」
 まかせときなよ、とドライバーたちが口々に言って笑った。
 青年は自分のトラックに戻り、エンジンをかけた。
 国道に入るとき、バックミラーを見ると、リュックを背負ったペコちゃんがキャリーバッグに腰を下ろし、少し困ったような顔をしているのが映っていた。


 第一章

 手洗いを使いたくて、このドライブインに寄ったことをてつは心から後悔した。
 目の前でトラックのドライバーがあの軽自動車の持ち主を大声で捜している。
 純白の内装と、ヒョウ柄のクッション。ラメで飾られたハンドル。ピンクのフェイクファーで縁取られたリアウインドウ。誰もがドライバーは若い女と思うだろう。三十九歳の男が乗る車ではない。
 再び男の声がした。妙に優しい猫なで声だ。
「あの車のドライバー、どちらさん?」
 仕方なく、煙草を消して手を挙げた。
「私ですが」
 戸惑うような顔で男が哲司を見た。
「娘さんの車?」
「まあ、そんなところです」
「あんた、美鷲の人? もし帰るんなら、あの人乗せてやってよ。バスはこれから二時間たたんと来ないみたいで」
 男がキャリーバッグに座っている女を指さした。さっきトラックのドライバーたちが話していた『ペコちゃん』という女だった。
 女が立ち上がって軽自動車に近付き、中を見た。それから嬉しそうに笑うと走ってきた。
「ねえ、これ、舞ちゃんの車じゃない?」
 答えずに哲司は近付いてくる女を見る。
『I LOVE 鮪』と書かれたTシャツにカーキ色のキュロットスカート。白いソックスに白の運動靴。見たところ自分と同じかそれより若く見えるが、野暮ったい服装だった。
「ねえ、兄さん、舞ちゃんの店の人? それなら話は早いわ。乗せてもらえません? そうしたら夕方前には美鷲につけるもんね」
 勘弁してくれよ、と思いながら哲司は軽くため息をつく。それで察してほしかったが、女はさらに笑顔になった。
「兄さん、美鷲水産の新しい人? 仕事中? これからどこかへ寄るの?」
「別に」
「じゃあお願い。乗せてくれんかね。舞ちゃんにはよくお礼を言っとくよ」
「申し訳ないが、この車の持ち主と面識があるわけではないんです」
「ま、それはどうでもいいからさ」
 ドライバーが肩を叩いてきた。
「お宅、美鷲に行くんでしょ。姉さん、乗せるの、乗せないの?」
 一人でいたかった。しかしこの車の持ち主の知人ならば無視するわけにはいかない。
 仕方なくうなずいた。するとドライバーたちが先を争うようにして女の荷物を運んできて、車の後部座席に載せた。
「良かった良かった、安心したよ。じゃあ姉さん、元気でね」
「うん。皆さんも道中気をつけてね」
 口々に良かったと言いながら、ドライバーたちは自分の車に戻っていった。
 やりきれず、哲司はもう一本、煙草に火を付ける。
 挨拶代わりか、思い思いにクラクションをならして大型トラックが次々と駐車場を出て行った。
 女は笑顔でトラックに手を振っている。そして最後の一台が出ていくと、その行き先に向かって丁寧に頭を下げていた。
 車を走らせると、すぐに女が軽くむせた。車内にこもる油の匂いに気付いて哲司は窓を開ける。女が後ろの座席を見た。
 後部座席には二十個のハンバーガーと六ピースのフライドチキン、六箱が置いてあった。
「凄い数のチキンだね。何かパーティでも?」
「いえ、別に」
 東京から一人、母が美鷲に遺した家に静養に来て三日目。突然、ファストフードを死ぬほど食べたくなった。ところが美鷲の近辺に店はなく、矢の花峠まで出て、国道を四十分ほど行った先のショッピングモールにドライブスルーがあると聞いた。
 バスで行くのが面倒だから、レンタカーはないかと母の家を管理してくれた人に聞くと、娘の車を貸してやると言われた。
 ハンドルを切りながら、哲司は助手席の女を見る。
 こんなことならバスにすれば良かった。
 そうしていたら変な女を拾うこともないし、持ちきれぬほど食べ物を買うこともなかった。
 女が指を鳴らした。
「わかった。じゃあこれは何かの差し入れだ。子どものお誕生日会とか。子どもは好きだよね、ファストフード」
 そうした食べ物が好きそうな雰囲気なのに、なぜか女は顔をしかめていた。
「嫌いなんですか」
「嫌いじゃないけど。手早く食べるならスケロクが好き」
「スケロク?」
「ほら、お稲荷さんと海苔巻きのセット」
「あぁ、助六寿司」
「稲荷寿司って美味いよね。でも今どきの子どもは好かないみたいだね」
 自分もそれならハンバーガーのほうが好きだと哲司は思った。
「兄さん、いいお父さんだなあ。お子さんも喜ぶよ。ところでノド飴はいかが?」
「結構です」
「そう」
 女が足下のリュックから、小さな缶を出した。かがんだ背中にはカタカナでマ・グ・ロとあった。
「寿司関係の方?」
 いやあ、と女は笑った。
「旦那はそれも作ってたけど、私は床屋。元、床屋」
 そう言って自分の胸を見た。
「あぁ、このTシャツね。これはね、さっきのドライバーさんがくれたの。私、汗臭かったのかな? 自分は着ないから良かったら着替えなってくれたの。有り難いけど、ちょっと照れるね。女が着るにはちょっとナニじゃない。不名誉だわあ。私、尽くすタイプなのに」
 知らないよ、と哲司は窓を大きく開けて風を入れる。
 どうして女はこうもセックスが好きなのだろう。
 マグロ、と言って女はまた笑った。
「でもね、そっちの意味じゃないの。マグロを運ぶ車だったから。マグロの産地の人なのよ」
「一体何をして、着替えることになったんだか」
 困ったような顔で女が笑った。
「いやあ、トラックが少なかったから、ずっと国道を歩いていたもんでね。もともと長距離のトラックは高速道路を走るからあまり下の道を走ってないのよ。けどね、ヒッチハイクするなら長距離トラックさんが一番」
「どうして」
「なんというか。腕一本で稼いでいる人は裏表がないんだよね。気持ち良く乗せてくれるの。それにみんな、時間までに荷物を届けなきゃいけないから、悪さしようなんて人がいないのよ。普通の人の車に乗るとね、私みたいなオバチャンでも、ホテルに行こうなんて誘う人もいるんだ」
「さっきのドライブインで、福を呼ぶペコちゃんって言われてたけど」
「あぁ、あれはね噂、冗談だよ。そりゃあ私の顔は丸いけど、ペコちゃんって、いい年してちょっと照れるね。でも元はといえば美鷲のドライバーが冗談で言った話を、みんなが面白がって真に受けてくれただけ。シャレだよ、シャレ。でもおかげで旅がしやすくなってるけどね」
「どうしてヒッチハイクを? バスや電車で行けばいいだろうに」
「それじゃあいい男を見つけてもすぐに下ろしてもらえないじゃない。それは困るの。いい町、いい男を見つけてそこに住み着くのが私の夢」
 ゆるやかなカーブを曲がると、突然、視界が開けて、眼下に美鷲の町が見えた。
 女が歓声をあげ、哲司を見た。
「兄さん、どこの人? 去年の夏は見かけなかったけど」
「夏の間だけ、しばらく美鷲にいることになって」
「そうなんだ。私もこの時期だけはどこにいても美鷲に帰ってくるの。だけどここは春もいいよ。この一帯の木は山桜なの。だからね、その時期にここを通るとピンクの雲のなかを降りて行く感じがする。そりゃあ素敵。もう何年も見ていないけど」
 車はゆっくりと山道を下っていき、目の前に海が広がった。
 再び女が歓声をあげた。
 うっとうしくなり、哲司はiPodのイヤフォンを耳に入れて操作した。海を見ていた女が珍しそうに機器を見た。
「すまんねえ、私、はしゃぎすぎた。もう静かにしてるよ」
 答えずに音量を上げた。
 女が肩を叩いて、何かを言った。
 イヤフォンをはずすと、目を丸くして聞いた。
「ねえねえ、兄さん、それ、クラシック? 音楽、好き?」
「静かにしているんじゃないんですか」
「すまんねえ」
 そう言って女が笑った。
 車は美鷲の町に入っていった。
 海辺の小さなこの町は、町を名乗っているが集落という言葉のほうが近い。町の中には細かく水路があり、昔はその水路を使って物を運んでいたらしい。
 三重県の私立の女子校で教頭を務めていた母は、定年後も請われてその学園の運営に携わっていたが、六年前に完全にリタイアし、この美鷲に家を建てて暮らしていた。同じ県内とはいえ自分の知る限り美鷲と母を結びつけるものはなく、なぜ母が陸の孤島とも呼ばれるこの地域に居を構えたのかわからない。
 美鷲の人々に岬の家、と呼ばれているその家のことを哲司は思い浮かべる。
 町を見下ろす岬の突端にあるその二階建ては、母の趣味をふんだんに取り入れたようせっちゅうの造りで、海を見下ろす庭があった。母は常々死ぬときはここで海を見ながら逝きたいと言っていたが、昨年末に東京に来たときに持病が悪化して倒れ、五ヶ月の闘病の末に二ヶ月前に病院で亡くなった。
 日頃から葬儀は不要と言い、亡くなったときのために知人へのお別れの挨拶状を先方の住所まで書いて用意してあったから、一人息子としてなすべきことはほとんどなかった。ある意味、見事な往生ぶりで、心身にそれほど大きな負担はかかっていないはずだった。
 ところが母が逝ってから、突然、夜に眠れなくなった。それから首が右に曲がらなくなり、出社するために最寄りの駅に降りると吐くようになった。そしてとうとう、駅のトイレから出られなくなったのが二週間前。
 体に異常はなく、精神的なものと判断されて医師から休職をすすめられた。病名がつけられるほどではないが、病気になる一歩手前の状態らしい。
 そんな診断結果で休めるはずがないと思った。しかし申請したら有給休暇とあわせて九月まで六週間の休職が認められた。そこで母の家を整理しがてら、美鷲で静養することにした。
 ところが三日前に来たその家は家具類にシーツこそかかっていたが、埃っぽくて落ち着かない。しかも岬から町まで防波堤沿いに歩いて二十分。岬の家に続く坂は急で上り下りするたびに息が切れる。買い物に行くにもスーパーはなく、日用品を買うためにあちこちの個人商店を回らねばならない。静養どころかすべてに疲れてしまい、なぜか突然、ファストフードを死ぬほど食べたくなった。
 でも、まあ、それぐらいでちょうどいいのだ。
 ぼんやりと哲司は思う。
 静養? 静養して何になる?
 すべてが面倒で億劫だった。いっそこのまま何もかも捨て、息をすることすらやめてしまいたい。
 気持ちをなだめたくなり、iPodの音量をさらに上げた。脳内に響き渡るピアノの音にそのまま心をゆだねる。
 音楽はいい。
 音量を上げれば自分の内に閉じこもれる。何も考えなくていい。何も感じなくていい。ただ音に身をゆだねていればいい。
 見下ろしていた海が視界と平行になり、夕方の光を受けて黄金色に輝いた。
 隣を見ると、女の口が開いていた。歓声を上げているらしい。
 女が肩を叩いた。イヤフォンをはずすと、防波堤の手前で車を止めるように言った。それから強引にティッシュにくるんだ金を渡そうとした。断ると目の前の店を指さし、そこに遊びに来いと言った。
「そうしたら、お礼をさせてもらうよ。うんとサービスするから、ぜひ来てね」
 女の指し示した先には、『ミワ』と赤いネオンサインがチカチカとまたたいていた。
「何の店?」
「スナックよ。何に見えるの?」
 わかるか、そんなこと。
 そう思いながら、煙草に火を付ける。
 それじゃあ、と言って女は車を降り、キャリーバッグを引いて店の戸を開けた。
 途端に素っ頓狂な声がした。
「何やのキンコ、そのTシャツ」
 爆笑する男女の声が聞こえた。
 まだ日が落ちていないのに、すっかり泥酔しているような人々の声を聞き、哲司はぼんやりと煙草を吸う。
 一体、何がそんなに楽しいのだろうか。
 どうして母がこの町を愛したのか、さっぱりわからなかった。

 干物屋に車を返しにいき、岬の家に戻ると九時をまわっていた。
 ハンバーガーを手にしたが、油がまわった味に一口で嫌気がさした。買ってきた物を箱ごとすべて流しに突っ込んで二階に上がった。
 客用の寝室に入って、昨日台所で見つけたウォッカを飲む。ストレートで飲みながら、これも昨日から十二年ぶりに吸い始めた煙草を続けざまに吸う。すぐに気分が悪くなり、寝室に続いたユニットバスで吐いた。それなのに浴室から出たら、また酒に手が伸びた。思えば昨日も一昨日も眠れず、酒の量ばかりが増えている。心療内科から処方された薬を飲めば眠れるのだが、そうなると病気を認めてしまうようで、あまり服用したくない。
 波音が聞こえた。
 不意に海が見たくなった。
 階下に降りてサンダルをつっかけ、庭に出て眺めた。
 しかし眼下には闇が広がるばかりだった。夜空も海も境目がなく、ただ黒一色だけが目の前にある。
 海水に触れたくなった。
 小雨が降っていたが、おぼろに月光が差し始めた。それを頼りに庭から道に出て、坂を下る。
 防波堤の階段を下りると、砂浜が広がっていた。
 空気は蒸し暑く、足に打ち寄せる波が心地良い。そのまま水の中に進んだ。目を開けても閉じても変わらぬ闇に惹かれて、どんどん海に分け入っていく。
 進むにつれて体が軽くなるのを感じた。
 楽になりたいな、とふと思った。
 疲れた。なんだかとにかく疲れた。
 波に身を任せ、楽になろう。そう思って目を閉じる。
 もう何も考えたくない。
 二ヶ月前に、勤め先の銀行で同僚が自殺した。遺書にはただ「疲れた、楽になりたい」とあった。その気持ちが今、痛いほどわかる。
 三十五歳を過ぎたあたりから、体の疲れが抜けなくなった。大学卒業後に入った銀行は相次ぐ吸収合併で、気が付けば吸収された側の自分は窓際にいた。それなのに仕事量は減らず、休みもままならない。
 いや、そうではない。
 自分に力がないだけかもしれない。
 何度か転職を考えたが踏ん切りがつかなかった。もう少し頑張れば状況は変わる、いや、変えてみせると思っていた。そうしているうちに気が付くと、外資系の証券会社に勤める妻の年収が自分をはるかに上回っていた。
 大学の同級生だった妻は、当時から優秀だったから当然かもしれない。
 疲れた、とつぶやきながら、空を見上げる。真っ暗だった。
 妻に嫉妬するなど情けない。
 しかし妻を見ていると、家にいるのが息苦しい。しかも母の葬儀の後、妻がスポーツクラブの若いインストラクターと体の関係を持っていたことを偶然に知った。
 さすがに耐えられず、美鷲に来る前に離婚について話したが、中学受験を控えた娘のために、それはペンディングにしておいてほしいと言われた。
 ペンディング、とつぶやいて哲司は笑う。
 ペンディングだってさ。日本語で言えよ。
 保留、宙ぶらりん、と。
 目を閉じ、さらに前に進んだ。急に体が沈んだが、足を動かすと立ち泳ぎができた。疲れたなあ、とつぶやき哲司は笑った。
 沈んでみようか。
 その瞬間、何かに足が吸い込まれるような感覚があり、体が沈んだ。息苦しくなり、手が水をかいた。手足を伸ばしたが、何も掴めない。
 必死で伸び上がると、一瞬、海面に顔が出て、呼吸ができた。しかしまたすぐに水に引き込まれた。死んでもいいと思ったのに、体は勝手に動き、空気を求めて海中でもがいた。しかし何かに吸い込まれるように水面が遠ざかっていく。
 上下がわからなくなり、無数の泡の気配を感じた。それが口から出た息だと思った瞬間、気が遠くなった。すると足に何かが触れた。思い切り蹴ると突然浮上した。
 首筋に数回衝撃があった。そして声がした。
「大丈夫、大丈夫。力、抜いて。力を抜いて」
 声をあげられず、空を見上げ、哲司は突然の空気にむせる。水の中を体が引かれ、今度は背面に衝撃が走った。それが砂地に着いた感触だとわかった瞬間、体が震えた。
「大丈夫? 大丈夫だったら手を挙げて」
 手を挙げて、うつぶせになった。
 死んでもいいはずなのに、体は猛烈な勢いで震え出し、止まらない。
「救急車、救急車を呼ぶよ」
「いや、いいです。大、大丈夫」
 顔を上げると、淡い月明かりの中、マグロという字が目に入った。
 夕方の女だった。
 首筋から何かをはずされた。傘の柄だった。
「歩いていたら、人の手が見えたから、びっくりしたよ。そうしたら急に体が浮いてきたじゃない? もう夢中で傘の柄でひっかけたよ」
 声を出せず、手をついたまま震え続けると頭上から声がした。
「なんで、また、こんな夜に?」
 答えたくなかった。
「ねえ、歩ける? 誰か人を呼ぼうか」
「結構、です。すぐ上が、家ですから」
「兄さん、岬の家の人なの?」
 なんとか立ち上がると、女が肩を貸してくれた。そのまま坂を上り、家に入ると女が大きな声で何度もごめんくださいと言った。
「誰も、いないよ」
「あれ、まあ。じゃあちょっと失礼。お風呂はどこ?」
「もう結構、ですから」
 女は家の中に入っていった。それから腕を引っ張られ、一階の風呂場に引き立てられた。
「あのね、一度震えると、筋肉って自力じゃなかなか止まらないのよ。風呂桶に入って」
 言うなり、女がシャワーで頭から湯をかけた。
「自分で、やりますから、本当に」
「無理にしゃべると舌、噛むよ」
 たしかに舌を噛みそうになり、顔をふせて浴槽に座った。
 猛烈な勢いで湯がたまり続け、へそまで達した。ようやく震えが止まると、女はカランに切り替え、しばらく浴槽に浸かっているように言った。夏だから風邪は引かないだろうが、しばらく筋肉を温めたほうがいいと言う。
「あのね、私が出たらちゃんと服を脱いで、浸かったほうがいいよ。せっかくのお風呂なんだから。ここのお風呂、素敵だね。総ヒノキなんだ」
 どこが素敵だ、と顔を伏せる。二階のユニットバスのほうがはるかに使い勝手がいい。
 ようやく人心地が付き、女を見ると全身が濡れていた。
「あの、どこでもタンスをあけて、適当に何か着てください」
「うん。じゃあ悪いけど、服、貸してもらうね」
 浴槽の湯が胸までたまってきて、ようやく哲司は服を脱いだ。まとわりつくチノパンツを下着ごと乱暴に脱ごうとして、浴槽の中で転び、ふちに手をついた。
 顔を伏せて思った。
 一体、何をしているのか。
 ペンディング、という妻の声がよみがえる。
 たしかに自分は今、何もかも保留、宙ぶらりん、先送り中だった。

  *

『四十九日のレシピ』『犬がいた季節』『彼方の友へ』の伊吹有喜デビュー作、ついに映画化!
「冬のソナタ」の巨匠ユン・ソクホ監督が贈る『夏の終わりのクラシック』原作小説!
 試し読みの続きは、好評発売中の『風待ちのひと』で、ぜひお楽しみください。

■著者プロフィール
伊吹有喜(いぶき・ゆき)
三重県出身。中央大学法学部卒。2009年『風待ちのひと』でポプラ社小説大賞特別賞を受賞しデビュー。他の著書に『四十九日のレシピ』『ミッドナイト・バス』『カンパニー』『彼方の友へ』「なでし子物語」シリーズ、『雲を紡ぐ』『犬がいた季節』『娘が巣立つ朝』など多数。

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す