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2021年11月17日の夜の帰省の話

 古びた写真のように、前後が繋がらない記憶がある。
 一台の自転車が緩やかなカーブになった坂道を走っている。山道のような印象だけど、そんなところを自転車で走るとも考えづらく、もしかしたら木々が多い公園沿いなのかもしれない。その自転車を漕いでいるのは父で、私は後ろの、幼児用のシートにいる。たぶん当時の私は五歳か六歳か。はっきりしないけれど、それくらいじゃないかと思う。
 私たちがどこに向かっていたのかわからない。暑かったのか寒かったのか、季節もなにも覚えていない。でも、よく晴れた日だった。父は小さな声で歌を唄っていた。
 この光景だけを私が覚えているのは、きっと父の歌のせいだ。とはいえ歌そのものは、とくに印象的なものではなかった。当時の私はその歌のことをなにも知らなかったし、今となっては歌詞の一節も思い出せない。なんとなく優しい歌だったように思うけれど、子守歌というのでもなかった。
 父が唄うのは珍しいことだった。ふだん、どうにか歌と呼べるものを口にするのは、野球の応援歌くらいのものだった。あのとき父が唄ったのは、なんという歌だったのだろう?
 きっと、もうその曲のタイトルを知ることはないのだ、と私は考えていた。
 11月17日、午後8時。父の危篤を知らされて、明石から徳島に向かって車を走らせているさなかのことだった。

 
 その車に乗っていたのは、私と妻と、まだ幼い子がひとりだった。
 取捨選別をする余裕もなく慌てて荷造りをして家を飛び出したものだから、軽自動車には雑多な荷物が積み込まれていた。トランクがひとつ、リュックがふたつ、大きな紙袋もいくつか。さらにふたりぶんの礼服とそれに合わせる黒い靴まで載っていて、ずいぶん狭苦しい感じがした。
 妻にガソリンを入れてもらっているあいだに、「そちらに向かっているところだよ」と母に連絡した。あとはひたすらカーナビに従って走った。道はよく空いていた。
 幼い子供は、遊び疲れてうとうとし始めたころに急に親が騒ぎだして車に詰め込まれたものだから、ずいぶん不機嫌だった。まだ人が死ぬことがわからない歳だから、こちらの事情を呑み込めるわけもなく、「病気のおじいちゃんの状態がずいぶん悪くて」なんて言ってみても嫌だ帰ると繰り返していた。
 後部座席の妻とはずいぶん個人的で具体的な相談をした。「父親の葬式でも香典がいるんだっけ?」なんて風な、あまり他者には聞かせられない種類の相談だった。
 父の死が間近に迫っていることに関しては、あまり悲しいという感じでもなかった。混乱していて感情的になれないというより、もうずいぶん前からそのことを繰り返し考えて、ひと通り悲しみ終えている、という感覚に近かった。父の病気を知らされてから4か月半ほど経っていたし、そもそも私は昔から、それなりにじっくりと両親が死ぬことを想像して暮らしてきた。けれどさすがに感傷はあり、幼いころ自転車で聞いた父の歌のことを思い出していた。
 たぶんもう、父はこちらの質問には答えられないだろう。もしも意識があったとしても、もう三〇年も前に唄った歌詞の一節もわからない鼻歌のことなんて訊かれても答えようがないだろう。だからその歌のことは調べようがない。けれど、私はこれからもずいぶん長いあいだ、「父が自転車を漕ぎながら唄ったのだ」ということを覚えているだろう。良いとか悪いとかではない、ささやかだけど、でも意外に大切な思い出として。

 
 車が高速に乗る直前、妻が「ねぇ」と言った。ずいぶんシリアスな声だったけれど、その続きはなかった。「なに?」と尋ねると、「あとで話す」と妻は答えた。
 でもそんな風に言われたら、気になって仕方がない。「いま教えてよ」という私に、おそるおそるという感じで妻は言った。
「助手席の、窓の上のなに?」
 私は反射的に、そちらに目を向けた。
 車内だ。ちょうどアシストグリップにひっかかっているような位置に、黒いなにかがある。あまり上手な喩えではないけれど、ウニを平たく押しつぶしたような無数のトゲがあるようなそれのシルエットが、夜道の街灯に照らされて浮かび上がる。虫――いわゆるゲジゲジの一種にみえる。私はほんの一瞬そちらに目を向けただけだったためはっきりしないが、ずいぶん大きい。印象では5センチほどある。
「虫?」と私は尋ねる。
「わかんない。あんな玩具持ってた?」と妻が答える。
 私たちの幼い子供は遊び場にこだわりがなく、車内のあちこちにもトミカだとかレゴブロックだとかレストランのキッズセットについてきた玩具だとかを潜ませている。そのうちのひとつをアシストグリップにひっかけていても不思議はない。小さな羽虫程度ならともかく、5センチもあるゲジゲジが車内に入っていたことなんてこれまでなかったものだから、子供の玩具だということにしてしまった方がすっきりする。けれど我が子がそんな玩具を持っていた記憶もない。
 運転中でそちらを注視できない私は、「動く?」と妻に尋ねる。
「動いてない」と妻は答えた。
「じっとみてて。動いたら教えて」
 私は前をみて運転を続けるしかない。車は高速の料金所を通過していた。
 とにかく次のサービスエリアで車を止めて確認しよう。けれどそれがあるのは、明石海峡大橋を超えて淡路島に入ってからだ。あれは、本当に虫なのか。我が子の玩具でなくても、ゲジゲジと見間違えるようなものを私たちは持っていなかっただろうか。
「動いた!」妻の叫び声が、私の希望を打ち砕く。「動いた! 動いた! 動いた!」妻がそう連呼する。けれど車はすでに高速を時速80キロで走行している。私はそちらに目も向けられない。ともかく、私の方も叫んだ。
「どっちに動いたの!?」
「こっち!」
「じゃあよかった!」
「よくない!」
 大混乱である。幼い我が子だけが未だに不機嫌そうに黙り込んでいる。
 どうやらそのゲジゲジだと思われる虫は、天井を這い妻が座る後部座席にずいぶん近づいているようだ。「どうしよう、テッシュでつかむ!?」と妻が言った。
「できるの?」
「できない!」
「やってよ!」
「また動いたこっちくる!」
 妻とふたりでそんな風に盛り上がりながら、つい笑う。
 そろそろ父が死にそうだというのに。ちょっと前まで感傷的に、幼いころに聞いた父の歌のことなんかを考えていたのに、ゲジゲジ。この展開は、PCの前で頭を捻っても思いつかない。
 車内に大きなゲジゲジが出るなんてどうしようもない出来事の、最良のタイミングは、父の危篤を知らされて慌てて帰省している道中なのかもしれない。騒げるはずもないときに、私たちは大声で騒いでいたから。そんなことを考えているあいだに、ゲジゲジは妻の手によって車外に追い出された。

 
 病院に到着すると、一時は呼吸が停止していた父が、どうにか少しだけ持ち直していた。意識はなく、脈拍は速く、血圧は低い。手を握るとずいぶん温かかった。熱があるようだ。
 母と交互に看病をしていた伯母から「なにか声をかけてやって」と言われて、少し困った。これが私が、父に向かって話す最後の言葉になるかもしれない。そんな風に思うとなんだか悩み込んでしまって。はじめに思い浮かんだ言葉は「がんばって」だったけれど、父の呼吸はずいぶん苦しそうで、それを口にする気にはならなかった。
 けっきょく私は、私なりに配慮した――けれど、取りようによってはずいぶん冷たい――ひと言だけを父に告げた。
 けれど今思えば、ゲジゲジの話をしてもよかったのかもしれない。あるいは幼いころに自転車で聞いた歌のタイトルを尋ねてみても。
 病室を出て、実家に戻り子供を眠らせてから、私はこの文章を書き始めた。現在、午前三時二七分。父はおそらく、まだ生きている。

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