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第1回

君の名前の横顔

よこ-がお 【横顔】

〘名〙

① 横から見た顔。横向きの顔。

② (━する)意識的に、横に顔をそむけること。また、その顔。

③ ある人物の日常的な、あるいは、あまり人に知られていないような一面。〔新語新知識(1934)〕

─精選版 日本国語大辞典

 

プロローグ

 空の色はピンクに決めた。赤じゃさすがに、重たい気がして。
 でも実際に塗ってみると、そのピンクは想像より少し薄い。バスのイエローとの取り合わせは悪くないけれど、期待したほど目を惹かない。さて、こうなると、街路樹はどう塗ろう?
 クローゼットを整理していてみつけた3冊の塗り絵は、どれも半分ほど白いままだった。それで、暇つぶしに、オレたちは色鉛筆を引っ張り出してきた。
 隣に座ったふゆあきは、空を素直に青で塗る。真夏の空の天頂の、気圧けおされるくらい純真な青だ。やっぱり空には青が合う。
 その手元をみていると、冬明がこちらに顔を向けた。
「青、使う?」
「いや。木の色で悩んでただけだよ」
「そっか」
 冬明は黒縁の眼鏡をかけた、クールな10歳の少年だ。オレの方はもう20歳――12月には、21歳になる。ずいぶん歳が離れているけれど、オレたちは仲の良い友達をやっている。
 まだクーラーを消せない9月の午後5時に、ふたりで真面目な顔をして塗り絵に取り組んでいた。色鉛筆が走るたびに鳴る、ざらついた音が心地よかった。でもやがて、冬明が手を止めて言った。
「チャロは、馬鹿じゃないんだよ」
「チャロ?」
「友達の。話したことなかったかな」
「聞いたかもな」
 冬明の話は、ずいぶん唐突だった。でもあいつは頭の中で、何度もそのことを言葉にするのか、胸の中に留めておくのか迷ったんじゃないかと思う。冬明は、寡黙ってわけじゃないけれど、繊細な奴なんだ。もしもなにか不用意なことを口にしたなら、相手よりも先に自分自身が傷ついてしまうような。
 それで? とオレは先を促す。冬明が続けた。
「チャロはちょっと、喋るのが苦手なんだ。たぶん頭の中で考えたことを、なかなか言葉にできないんだよ。でもそれは、馬鹿ってことじゃないんだ」
「わかるよ」
 以前、オレのアルバイト先にも似たような女の子がいた。ホールの担当だったけれど、マニュアルには書かれていない言葉がなかなか出てこないみたいで、それでひどく高圧的なクレームを受けたこともあった。仲間内でも「仕事ができない子」ってレッテルが貼られていた。
 でも落ち着いて話をすると、彼女の言葉はとても賢明だった。思考が澄んでいて、頭の回転も速い。ただ、その速度に言葉がついてこないようだった。最新のコンピュータにずいぶん古くて整備もされていないプリンターがくっついているみたいに、アウトプットだけ苦手なのだろう。それは決して、馬鹿だってことじゃない。でも周りからは評価されないし、本人も自信を持てないでいる。
 鮮明な青で空と雲との境を丁寧に塗りながら、冬明は続けた。
「先生はチャロが嫌いなんだよ。それで、よくチャロを怒るんだ。常識的に考えて貴方はおかしい、みたいなことを、すぐに言うんだよ」
 冬明の声は、「常識的に考えて」というところで少し裏返った。自分の言葉に苛立っているようだった。
 オレは、なにかの本で読んだ知識を口にする。
「アインシュタインって賢いおじさんの話じゃ、常識ってのは18歳までに身につけた偏見のコレクションらしいよ」
「そっか」
「もちろん、常識のなにもかもが偏見ってわけじゃない。太陽が東から昇るのは常識だけど、偏見じゃないもんな。でも、だいたいは納得してる」
 それはつまり、自戒の言葉として。物事を考えたり、人と話をしたりするときに、常識なんてものを持ち出すのは的外れなんだろう。本当は検証が必要なことを都合よくすっ飛ばして自分の価値観を押しつける怠慢を感じる。
 街路樹の色は、水色に決めた。淡い色で全体をまとめることにした。色鉛筆を手に取りながら続ける。
「アインシュタインの言うことを信じるなら、大人より、子供の常識の方がまだましなはずなんだよ」
「そう?」
「だって50歳なら、もう32年も前に偏見のコレクションを済ませてるわけだろ? そんなの、ずいぶん古びちゃってるよ。でもオレの常識はまだ2年前にできあがったばかりだし、お前はコレクションの真っ最中ってわけだ。わかるか?」
「うん」
「つまり、本当に常識ってのが偏見の塊だったとしても、若い奴の常識ほど新しくて、まだましなはずなんだよ。先生が言う、古臭い常識なんて聞き流していればいいんだ」
 冬明はしばらく黙り込んでいた。
 そのあいだにあいつは空を塗り終えて、青い色鉛筆をケースに戻した。でも、次の色鉛筆は手に取らなかった。眼鏡の向こうの真剣な目を塗り絵の中のまだ白いところに向けたまま言った。
「古いものより、新しいものの方が正しいのかな?」
 なんだか不意を突かれた気がして、オレは微笑む。
「どうかな。たしかに、わかんないな」
 オレはなんとなく、「古い考え」ってのは、ほとんどイコールで「間違った考え」なんだと思い込んでいた。でも、たしかにそうとは限らない。それもオレの、偏見のコレクションのひとつなんだろう。
 冬明はこんな風に、しばしばこちらの間違いを指摘してくれる。小学5年生のこいつは、オレよりもずっとフェアで綺麗な視点を持っている。
「それでもオレは、大人が子供と話をするときに、常識なんてものを持ち出すのはずるいと思うよ」
「どうして?」
「常識なんて、人それぞれ別のものだから。それは中身が違って当然なのに、立場で自分の方の常識だけを押し通すのはずるいだろ」
 冬明はわずかに頷いて、「そっか」と答えた。こいつはそのひと言で、いろんな感情を表現する。嬉しそうな「そっか」があり、悲しそうな「そっか」がある。だいたいは納得しているけれど少しひっかかってもいて、でもそのひっかかりを上手く言葉にできないときの困ったような「そっか」もある。
 オレは手早く街路樹を塗っていく。ピンク色の空と水色の街路樹の組み合わせは、それなりに美しい。どこか遠い惑星の懐かしい景色みたいで、タコに似た宇宙人によく似合いそうだった。でもその手前を走る黄色いバスはディテールがリアルで浮いていた。
 しゅるしゅると色鉛筆を動かしながら、常識ってものについて考える。オレたちが偏見を常識だって呼び変えて暮らすのは、ある程度仕方がないんだろう。どうしたところで、世の中のなにもかもの客観的な真実を知れるわけがない。それでもなにかを決めるとき――法律を作ったり、誰かを愛したり、小さな子の純粋な質問に答えたりするとき、本当はわからないものをわかった気にならないといけない。常識と呼ばれる偏見を使ってでも。
 だとしても、それを当然だって風に振りかざすべきではないんだろう。本当はわからないことを覚えておいて、注意深く扱わないといけない。
 冬明が言った。
「先生は、常識が大好きなんだよ。チャロを怒るときなんかに、よく使うんだ」
「うん。それで?」
「それで、今日は絵具がなくなった」
 街路樹はまだ1本、白いままで残っていた。けれどオレは、色鉛筆を止めた。
 できるだけ平気な顔をして尋ねる。
「絵具って?」
「学校の、絵具セット。本当は13色入りなのに、12色になってたんだよ。紫色があったはずなのに、でもなくなった」
「どうして、なくなったんだ?」
「ジャバウォックに盗られたから」
 冬明は紫色の色鉛筆を手に取った。それを、眼鏡の向こうの生真面目な瞳でじっとみつめていた。
「先生が怒ったから、ジャバウォックが来たんだよ。それで、僕たちの絵具セットから紫色の絵具が欠けちゃったんだ」
 なんだか困った風に眉を寄せて、冬明はそう言った。

 

1話 私は七年ほど牧野として暮らした――三好愛

 

 なんでもないことなのに、鮮明に覚えている場面がある。
 リビングのテレビに幼児向けのアニメのヒーローが映っていた。玩具のCMだった。ヒーローが朗らかな笑顔で「一緒に遊ぼう」と呼びかける。それに冬明が、大きな声で「遊ぼう」と返す。
 その声は私を、無性に寂しいような、悲しいような気持ちにさせる。この無垢なものが重たすぎて、そう長くは支えられないだろうという気がするから。でも私は決して、冬明を手放してはいけないのだ。無理やりにでも支え続けなければならない。
 当時、冬明はまだ3歳だった。
 あのころの冬明は、同年代の他の子供たちとなにも違わないようにみえた。言葉の発達はやや遅かったけれど、個性と言える範囲に収まっていた。指先が器用な子で、自分で靴を履いたり、ボタンを留めたりするのは早かった。
 冬明にはなにか異常なところがあるのではないか、と疑い始めたのは、あの子が5歳を過ぎたころだった。その時期から冬明は、外出をひどく嫌がるようになった。以前は私が買い物や散歩に誘うと喜んで、自分から靴を履いて「はやく」と声を上げていたのに。
 ただ外出が嫌だというだけなら、もちろんそんな子供もたくさんいるだろう。けれど冬明が好きなチョコレートやカプセルトイを買ってあげる約束をしてどうにか外に連れ出すと、スーパーマーケットだとか、公園だとかで、耳を塞いでうずくまるようになった。
「音が大きい」
 とあの子は言った。
 はじめは広告を流しているラジカセの音量のせいだろうか、近くで遊んでいる子供たちの声だろうか、という風に私は原因を探していたけれど、どうやら違う。実際の音の大小にかかわらず、近くに知らない人が何人かいると、冬明にはうるさく感じるようだった。感覚過敏という言葉に思い当たり、インターネットで調べてみると、発達障害に合併する場合が多いとの記述があった。
 発達障害の四文字は、ずいぶん寒々しく感じた。フェンスのない高所に立ち遥かに離れた地面を見下ろすようだった。
 ――違う。冬明はそうじゃない。
 なんて、無根拠に首を振りたかった。けれど放ってもおけない。
 私はある月曜日に――仕事柄、私の休日はたいていが月曜と火曜だ――市のこども相談センターを訪ねた。けれど、そんなときに限ってあの子は落ち着いていて、質問にもすらすらと答えた。知能にも運動能力にもこれといった問題がないものだから、職員の雰囲気も「心配のしすぎではないですか」という感じになる。それでも念のため、紹介された病院で検査をしてもらったけれど、なにもみつからなかった。
 たしかに私は少し、心配性なところがあるのだろう。人混みが苦手だなんてありきたりだし、冬明にはその不快感を上手く表現する語彙がまだなくて、「音が大きい」という言葉で代用したのかもしれない。
 私はなんとか自分を納得させて、しばらくのあいだは仕事に打ち込んでいた。働くことは好きだった。それでも上手く眠れない夜なんかに、冬明の発育への不安が、ふと目の前に現れるようになった。不安というのはなんだか、浴室の黒カビみたいだ。いつの間にか範囲を広げ、一度気になると目について仕方がない。でも我が子に向けた不安に効く漂白剤なんてありはしない。
 私にとって冬明は、疑いのない「良い子」だった。
 多少の贔屓目は入っているのだろう。でも、聞き分けが良い優しい子だ。大好きなお菓子だっていつも「お母さんも食べる?」と訊いてくれる。歯磨きは嫌いだけど、怠けもしない。玩具で部屋を散らかしていても、ひと言注意すると素直に片付けるし、小学校に入ってからは勉強にも真面目に取り組んでいる。漢字を覚えるのは少し苦手みたいだけど、文章読解は問題ないから国語の成績が悪いわけでもない。
 優しく、真面目な、自慢の冬明。でもこの子には、やはり気になるところがあった。たとえば、自分の空想の世界を強固に信じすぎていた。
 目につくのは、初めから存在しないものが「なくなった」と騒ぎ出す癖だ。本だとか、玩具だとか、場合によっては公園なんかも。元々どこにもないものを「昨日まであった」と言って懸命に捜し始める。以前は私もそれに付き合って一緒に捜すふりをしていたけれど、なんだか疲れてしまって、最近は返事がぞんざいになっている。
 それから、強い人見知りも心配だ。どうやら冬明は知らない人に会ったとき、第一印象でその相手が善人なのか悪人なのか、味方なのか敵なのかを決めてしまうようだ。その思い込みに関してはずいぶん頑なで、相手が優しく声をかけてくれても、じっとうつむいて口をつぐんでいる。
 この性質のせいだろう、冬明には学校でもあまり友達ができないようだった。今年の春から「頭が痛い」と言って早退することが増えたが、病院で検査してみても原因がわからず、心因性のものではないかと言われた。その頭痛は改善せず、最近では登校自体をひどく嫌がっている。
 今、10歳になった冬明が、私を見上げて言った。
「絵具がひとつ、なくなったんだよ」
 9月9日、木曜日。昼を過ぎたころから、激しい雨が降った日だった。
 この子の絵具セットには、12本の絵具のチューブがすべてそろっている。それが初めから12本入りだったことは間違いない。学校の指定に従って、私が買ってきたものなのだから。
 なのに冬明は、その絵具が13本入りだと信じているようだ。
「紫色の絵具がなくなったんだ。ジャバウォックが盗っちゃったんだよ」
 ジャバウォックは、もうずいぶん前からこの子のお気に入りだ。どうやら怪物の名前のようで、おそらくアニメかなにかでみたのだろう。冬明は、自分の周りから物がなくなるのは、ジャバウォックのせいなのだと信じている。
 子供は空想で遊ぶものなのだろう。でも、冬明はもう10歳――小学5年生だ。さすがにそろそろ、現実と空想の区別がついていなければおかしいのではないか。サンタクロースを信じているくらいであれば、親の苦労が報われたようで可愛らしいけれど、プレゼントのひとつも残さない怪物の話を真面目にされても困ってしまう。
 冬明に対して、苛立つことはないつもりだった。不安で、少し悲しいだけだった。
 でも。
「それは初めから、12本入りでしょ」
 私の返事は、自分でも怒っているように聞こえて、ついため息をつきたくなる。

     *

「あの子は、HSCじゃないかと思う」
 そう切り出すと、かえでは缶に入ったままのビールに口をつけて、「なにそれ」と首を傾げてみせた。
 私はウェブのページで読んだままの言葉を答える。
「ハイリーセンシティブチャイルド。感受性が豊かで、敏感で繊細で、傷つきやすい子」
 すると楓は、鼻から息を吐いて笑った。
「なんにでも名前がついているもんだな」
「真面目に聞いてよ」
「ごめん。でも、わざわざ横文字のイニシャルで呼ばなくたって、そんなのわかってたことだろ? 冬明は敏感で、ちょっと傷つきやすい子だよ」
「ちょっとかな」
「それはわかんないけど」
 私は楓が買ってきてくれたスミノフアイスに口をつける。週に一度、日曜の夜はこんな風に、うちのリビングで乾杯するのが習慣になりつつある。冬明は隣の部屋で眠っている。あの子は午後9時を過ぎたあたりで眠る。
 楓が、皿の上のピーナッツを口に放り込んで言った。
「でも、名前があるっていうのは良いことだよね。なんとなく安心する」
「そう?」
「傾向と対策みたいなのも、検索すればすぐにわかるんでしょ?」
「あんまり干渉しすぎない方が良いみたい。逃げ込める場所を作って、早めに休ませて。だから、学校に行けとも言いづらくて」
「困る?」
「まあね」
 やっぱり、小学校にはしっかりと通わせるべきだろう。今のところ冬明は、完全に不登校というわけではない。でもこのままだと、いずれそうなるかもしれない。
「別に小学校なんて、そこそこで良いとオレは思うけどね」
「でも勉強で遅れると、取り戻すのが大変だよ」
「家でだって勉強はできるよ」
「ひとりきりで? 私だって、仕事があるし」
「オレが家庭教師をしようか?」
「貴方だって自分のことがあるでしょう。単位は?」
「2年のときに頑張ったから、今年はちょっと余裕がある」
 だとしても、まさか本当に、楓に冬明のことを任せきりにするわけにはいかない。かといって家庭教師を雇うような余裕はないし、私が冬明の勉強をしっかりみるというのはもっと現実的ではない。仕事と家事で手一杯、というか、正直なところすでに両手からあふれ出している状況だ。冬明の食事は出来合いのものばかりだし、休日には洗濯物の山をコインランドリーに突っ込むのが常だし、いちおう楓が訪ねてくる前にはリビングの見栄えを整えるけれど、それは片付けと呼べるものではない。リビングのぐちゃぐちゃをまるっと寝室に突っ込んで、散らかりの座標をスライドさせているだけだ。社会というのは構造上、まともに働きながら家事までこなせるようにはできていない。「あいさんは、ちょっと頑張りすぎじゃないかな。上手く手を抜くっていうのは、なかなか難しいと思うんだけど、でも自分のお母さんがたいへんな感じなんかも、冬明は気づいているだろうし」
 じゃあどうしろっていうの、みたいな言葉が思わず口をつきかけて、スミノフアイスでどうにか吞み込む。楓はあんまりアルコールに強くないから、もう頰を赤くして、心優しい大型犬みたいな少し潤んだ目でこちらをみつめている。
「週に3日くらいなら、冬明の相手をできると思うんだよ。あいつの勉強をみたり、一緒に部屋の掃除をしたりして、愛さんが帰ってくるのを待ってるよ」
 とりあえず、「ありがとう」と私は答えた。
 でもそれに続ける言葉には、ずいぶん悩んだ。
 冬明のことを考えるなら、楓に無理をさせてでも、この子の優しさに甘えるべきなのかもしれない。でも、それで本格的に、冬明から学校にいく習慣が失われてしまわないだろうか。それにやっぱり冬明や私のことで、楓に無理をさせるのは違う。
 けっきょく私は、逃げるように答える。
「登校のことは、担任の先生にも相談しているから。もしかしたら、誰かに意地悪をされているのかもしれないし」
「その人は、信頼できるの?」
「うん?」
「担任の先生」
 そんなことはわからない。でも、楓を過度に不安にさせても仕方がない。
「評判の良い先生みたいだよ。生徒とも仲が良くて」
「でもさ、冬明はなんだか、先生が苦手みたいだよ」
「あの子は、思い込みが強いところがあるから」
 第一印象で「嫌いだ」と決めてしまった相手とは、なかなか上手くいかない。学校のような、運任せの人間関係を強制される場所には馴染みづらい子なのだろうけれど、親としては、じゃあ登校しなくて良いとも言えない。「近々、スクールカウンセラーの先生に会うつもりなの。そのとき、担任の先生とも話をしてみる」
 私の返事に楓が納得していないことは、表情でよくわかった。でも、この子の立場で口出しすることでもないと思ったのだろう、楓は小さな声で「そう」と答えた。それからこちらを気遣うような、小さな声で切り出した。
「ジャバウォックの話は聞いた?」
 思わず顔をしかめて、私は頷く。
 冬明はどうして、あんなに荒唐無稽な想像を信じているんだろう。子供とはそういうものなのだろうか。私自身が10歳だったころを思い出そうとしてみるが、上手くいかない。けれどさすがに、もう少し現実的だったのではないか。
「楓は? 何歳まで、ああいうのを信じてた?」
 彼は缶ビールに口をつけて、時間をかけて答える。
「覚えてない。初めから、信じてなかったような気がする」
 うん。そんなものだろう。普通は物心がつくころにはもう、漠然とでも現実とフィクションの区別がついているだろう。
 HSCについて調べると、冬明はいくつも、それに当てはまる特徴を持っていた。人混みが苦手。音に敏感。良心的。周りの人の気分に左右される。忘れ物や間違いをしないように過度に注意深いというのもそうだ。一度にいろいろなことが起こると不快に感じるというのも思い当たるところがある。それから、豊かな想像力を持っていて空想が好きだというのは、まさにジャバウォックのことを言っているように感じる。
 楓が缶ビールをテーブルに置く。その小さな音は、妙に寒々しい。
「オレは、あながち噓じゃないような気がするんだよ」
「ジャバウォックが?」
「もちろん、実際にそんな怪物がいるってわけじゃないよ。でも、なんていうのかな。現実に起こっていることを、冬明の目を通して見るとそうなるんじゃないかな」
「もともとは絵具が13本入りだったっていうの?」
「そうじゃないけど。でも生きていると、不思議なこともあるから」
「そう?」
「上手く記憶が繫がらないっていうか、事実と思い出に齟齬があるっていうか」
「たとえば?」
 楓は考え事をするときの癖で、ややうつむいて眉間に皺を寄せた。そんな風な楓の表情は、この子の父親に少し似ている。
「小学校のころ、好きだった女の子がいるんだよ」
「それは初耳だね。クラスメイト?」
「うん。でも、その子の名前を思い出せないんだ。ジャバウォックに盗まれたのかもしれない」
「ただ忘れちゃっただけじゃなくて?」
「忘れられるものかな。初恋の子の名前なんて」
 どうだろう。私の初恋も、小学生のころだった。その相手の顔は少しだけあやふやで、声はまったく思い出せない。けれど名前は、はっきりと覚えている。
 私はまたスミノフアイスに口をつける。このお酒が好きだ、というより、瓶に直接口をつけて飲める種類のお酒が好きだ。
「怪物が思い出を盗んでいったなんて考えるより、ただ忘れているだけの方が、ずっと納得できるでしょう?」
 楓は頷いてみせたけれど、それで話を終わらせるつもりはないようだった。
 眉間に皺を刻んだまま、慎重に続ける。
「でも、それはオレたちに、常識があるからだよね。もっとフラットな視点で考えれば、大好きだった子の名前を思い出せないっていうのは、怪物がいるのと変わらないくらい奇妙なことなのかもしれない」
「本気で言ってる?」
「わりと」
 楓は過剰に、冬明を肯定しようとしているように思える。その姿勢は少しだけ私を苛立たせる。なんだか私が、母親として足りていないのではないかという気がして。
 でも楓のスタンスは、この子の立場だから取れるのだろう。私まで冬明のなにもかもを肯定するわけにはいかない。「常識」というやつを冬明に教えるのも、私の義務だから。
 楓は、出会ったころから変わらないナイーブな目で私をみつめていた。
「もうひとつ、オレには不思議な記憶があるんだよ。父さんの死体を、みたような気がするんだ」
 私はその言葉に、上手く答えられない。口元に力を込めて、左手の中指にした指輪をわけもなくいじっていた。
 でも、そんなはずがない。あの日、楓は自宅にいたのだから。
 ごめん、と小さな声で、楓が言った。

    *

 将来の夢みたいなものに関して、私は小学生のころから一貫していた。
 誰にも打ち明けはしなかったし、卒業文集には「地球を守るためにリサイクルの効率を上げる研究を」なんて小賢しいことを書いたように思うけれど、これはたまたま記憶に残っていたニュースの特集を拝借しただけだった。本当の夢は違う。
 可愛らしいお嫁さんになること――というのはたちの悪い冗談だけど、まったくの噓でもなくて、幸せな家庭を築くことを目標に生きてきた。
 これは、間違いなく両親の影響だ。私の両親は明らかに相性が悪かった。原因はおそらく父の方にあった。とにかく古臭い人で、家のことなんかなにもしないくせに母や私には妙に高圧的だった。けれど私は、どちらかというと、母をより見下していた。母は平然と父の愚痴を私に話した。自分が悲劇のヒロインだと信じているようだった。まだ小学生だった私を仲間に引き込んで、一緒になって父を責めて欲しいのが見え透いていて、その姿勢がひどく気持ち悪かった。
 父のことが嫌いなら、さっさと別れてしまえば良いのに。だいたい、どうして、こんなにも価値観が合わない相手と結婚したんだ。見る目がなさすぎる、というか、未来のビジョンをイメージできてなさすぎるんじゃないか。私はこの人と同じ失敗はしない、と固く誓って生きてきた。
 だから学生のころは、周りと話が合わなかった。私の友人たちはどうやら、目先の恋愛と地続きで結婚があると信じているようだった。けれど私にとっては、なんとなく憧れる相手や休日に一緒に遊んで楽しい相手と、力を合わせて家庭という共同体を運営する相手に求める能力がまったく異なることは明白で、そこを混同すると私の母のようになるぞと言ってやりたかった。本当にそれを口にして、わざわざ雰囲気を悪くするようなことはしなかったけれど。  
 私が結婚相手に求めていた条件は、細分化すればきりがない。
 けれど本質はたったひとつで、意見が合わないとき、しっかりと話し合い、共に妥協点をみつけられる人――ということになる。高校生のときに初めて付き合った相手がこれの正反対で、なにか嫌なことがあるとすぐに黙り込むし、自分が正しいと信じていることに関してはこちらの話なんか聞く耳を持たないタイプだった。彼は私にとって良い反面教師になった。付き合う前は優しく真面目そうにみえる相手にも、この手の地雷が埋まっているのだと気づかせてくれたのがよかった。
 私は恋愛からスリルやときめきを捨て去ることと引き換えに、完璧な結婚生活を手にできるのだと信じていた。求めているのは顔が良い男でも、高給を取る男でもなかった。仕事と家事とを共に家庭の運営に必要なタスクとしてフェアな価値観で天秤にかけられることが重要だった。そのために、炊事や洗濯に関して、最低限の経験を持っていなければならなかった。
 別にまったく高望みではないつもりだけれど、その条件を満たす相手は、決して多くはなかった。大学生のころの恋人に、「結婚に対して夢がなさすぎる」と言われたことはしっかりと覚えている。日常的な会話では気が合う相手だったのだけど、結婚生活のビジョンに関してはまったく話が嚙み合わなくて、口論になったときのことだった。
 たしかに私は、結婚に夢をみていないのだろう。
 でも、夢で結婚してどうするんだ。生活は現実で送るものなのに。

 私が牧野まきの英哉ひでなりに出会ったのは、24歳のことだった。
 彼は9つも年上で、離婚したばかりで、ひとり息子と共に生活していた。
 英哉さんは、これまで出会った男性とは違うような気がした。ずいぶん早い段階でぴんときたというか、本能的な部分で相性の良さを感じていた。けれどそんな、抽象的な感覚で、結婚なんて一生に関わる決定を下すわけにはいかない。
 冷静な目でみたとき、英哉さんはジャッジが難しい相手だった。ひとりで子供を育てているのだから、家事に対する理解はあるだろう。話しやすい人で、私の質問だとか、反論だとかにも誠実に答えてくれるのは素敵だった。歳のわりになんだか子供っぽいところがあり、カプセルトイのマシンが上下2段の列になっているのをみかけると、それをひとつずつチェックしていた。そんなところも嫌いではないのだけれど、家に細々とした玩具が増えるのは困るなという気もした。それからやはり、離婚歴は気になった。上辺の付き合いではみえない彼の問題が原因にあったのかもしれないから。
 彼の息子――楓に会ったのは、英哉さんに出会ってから2年経ったころだった。そのとき私は26歳、英哉さんは35歳で、楓は8歳だった。もしも英哉さんと結婚すれば、この子が私の息子になるのだ。その想像に私の方は緊張していたけれど、楓は快活で、壁を感じさせない子だった。でもじっと顔をみつめると、あの子の瞳はナイーブで、なにか無理をしているのではないかと予感した。
 もう12年も前の8月だ。私たちは3人で、近場の小さな遊園地に行った。
 英哉さんと楓の関係は、なかなかに素敵なものだった。まるで歳の離れた兄弟のようでもあったし、しっかりと親子でもあった。互いが無理なく相手を信頼し合っている感じがして、私は英哉さんへの評価を上方に修正した。
 彼がアイスクリームを買いにいったとき、私は楓とふたりきりになり、そのときに思い切って訊いてみた。
「どうして、お父さんの方を選んだの? その、お母さんではなくて」
 英哉さんと共に生活しているのは、楓自身の意思のようだった。
 そのとき楓は、妙に大人びた顔で、困った風に笑って答えた。
「オレもよく覚えてないんだけど」
「そう」
「でも、お母さんの方は、自分が選ばれて当然だって顔をしてたんだよ。話し方も、こっちの好きにさせるって言いながら、答えは決まってるでしょって感じだったんだ。なんかさ、そういうのって嫌だよ」
 私は楓の言葉に、妙に納得してしまって、この子となら仲良くやっていけるのではないか、なんて考えていた。「へんなことを訊いてごめんね」という私に、「別にへんでもないけど」と彼は軽く答えた。
 その日、帰りの車の中で、遊び疲れた楓が眠っていた。隣の寝息を聞きながら、私はこの子と英哉さんがいる家庭を想像した。こんな風に3人で車に乗って、でも私がワンルームのマンションの前でひとり取り残されるのではなくて、一緒に同じ家に帰り共に玄関を開ける場面を思い描いた。
 できるだけリアルにイメージするつもりだったのに、上手くいかなくて、それは夢のように幸福な想像だった。

 英哉さんからプロポーズを受けたのは、その3日後のことだ。
 想定よりずいぶん早く、もう少し互いが外堀を埋め合う消化試合のような展開があるだろうと思い込んでいた私は慌ててしまって、その混乱のまま思わず、「了解いたしました」と場違いに事務的な言葉で答えていた。それから我に返って、言い直した。
「ああ、待ってください。噓です」
 私の言葉で、真面目な顔を保っていた英哉さんが、噴き出すように笑った。
「結婚してくれないの?」
「そうじゃなくて。返事の前に、訊かせてください」
 私は膨大な「結婚相手に確認すべき質問のリスト」を用意していた。幼いころから一行ずつ書き足し、推敲を重ねてきた。そのはずだったのに、このときは項目のひとつも思い出せなかった。
 代わりに、馬鹿みたいな質問が、ほとんど無意識に口をついて出た。
「どうして、私なんですか?」
 本当はもっと、現実的な話をしたかったのに。家事の分担だとか、働き方だとか、教育に対する姿勢だとかを確認したかったのに。でもその馬鹿みたいな質問が、たしかにいちばん訊きたいことだった。
 苦笑を引っ込めて、英哉さんは言った。
「素直に答えたら、君に嫌われてしまうかもしれないんだけど」
「もしもこんなことで噓をつくような人なら、絶対に結婚なんてしません」
「うん。実は、楓がとても君を気に入っているんだ」
 なんだそれ、という気がしなくもなかった。
「貴方の意思では、ないんですか?」
「もちろん僕の意思でもある。でも、優先順位をつけると、どうしても楓になる」
「そっか」
 実のところ、それは非常に、私の好みの回答だった。子供の意思をないがしろにしないというのは、幸福な家庭を築く上で非常に重要な項目だと考えていたから。
 私はもうひとつだけ、彼に確認することにした。
「もしも私と貴方のあいだに、子供ができたとして」
「うん」
「楓くんと同じだけ、その子を愛せますか?」
 もちろん、といった答えが聞けるものだと思っていたのに、英哉さんの返事は微妙に歯切れが悪かった。
「愛せる自信はあるよ。かなり強く」そして、私がジャッジに困っていると、英哉さんは続けた。「君は? 楓を愛せる?」
 それで、今度は私の方が苦笑する。
 素直な言葉が、彼とまったく同じで。
「愛せる自信はあります。かなり強く」
 テーブルから転がり落ちた卵が割れるみたいな、私自身にはどうしようもない現象で、私はこの人と家庭を築くのだという気がした。

   *

 そして私は、三好みよし愛から牧野愛になった。
 牧野として生活を送った7年ほどは、大半が幸福な日々だった。充分に周到な婚姻とは言えなかったけれど、まあ結果オーライだ、とあのころは思っていた。
 私と英哉さんのあいだには、口論はあったけれど、喧嘩はなかった。家庭内のどんな問題にもそれなりに建設的な答えを出せたし、しばしばどちらかが間違えても、それを改善しようという意思は一貫していた。彼と前妻がどんな過程を辿って離婚することになったのか、私には想像ができなかった。
 けれどその結婚生活は、唐突に終わりを迎えることになる。いや、最後の数か月間には予兆があったから、本当に唐突ということはないか。
 悪いのはもちろん英哉さんだ。そのことに間違いはない。
 だって、彼は死んでしまったから。
 病気や事故なら、まだ諦めもついた。彼を愛し続けることもできた。
 でも自殺だったから、これはもう、どう考えてもあの人が悪い。
 英哉さんはもっとも大切なことを、私には相談しなかったのだ。すべて独りで抱え込んだまま、取り返しのつかない間違いを選んだのだ。あの人は、家族と共に生きていくことを諦めた。
 だからやっぱり、私も母と同じように、相手を見る目がなかったのだろう。
 けれど英哉さんとの結婚が、間違いだったとは言えない。冬明が生まれたから。
 私は独りきりで、あの無垢なものを支え続けられるだろうか。
 夜が来るたび、そのプレッシャーに胸を押さえつけられている。

   *

 次の週――9月の第3週は、冬明が学校を休まなかった。
 このまま学校に馴染んでくれるのではないか。この子は強く、しっかりと育ってくれるのではないか。そんな風に期待していたけれど、金曜の午後、冬明の小学校から連絡があった。頭痛を理由に、あの子が早退するのだと言う。
 その日はどうしても仕事を抜けられなくて、私は仕方なく、楓を頼った。私は冬明と同じように、楓も私自身の子として愛している。そのつもりでいる。けれどあの子の方は、私を母親として扱うつもりはないようで、未だに距離感に少し戸惑う。
 私が帰宅できたのは、午後8時になるころだった。楓は冬明に夕食を用意して、お風呂にも入れてくれたようだった。キッチンには私のぶんの夕食が、ラップをかけて用意されていて、嬉しさと情けなさで、なんだか泣きそうになる。
 このとき冬明は、なんだか気まずげに本を読んでいた。
 できるだけ攻撃的にならないように、努めて軽く微笑んで、私は尋ねた。
「どうして、早退したの?」
 冬明は視線を本に向けたまま答える。
「ジャバウォックがきたんだよ。近くにジャバウォックがいると、頭が痛くなっちゃうんだ」
 また、ジャバウォック。
 やっぱりこの子には、なにか精神的な問題があるのだ。
「絵具のレモン色を、ジャバウォックが盗んでいったんだよ。だから僕の絵具が、11色になっちゃったんだ」
 そう言って、冬明は絵具セットを指さす。
 私はまた泣きそうになり、左手の中指にある指輪を強くつかむ。
「それは初めから、11本入りでしょ」
 冬明は奇妙な妄想にとりつかれている。

   ※

※この続きは11月11日発売の『君の名前の横顔』でぜひお楽しみください!

Profile

著者:河野裕

徳島県生まれ、兵庫県在住。2009年角川スニーカー文庫より『サクラダリセット CAT, GHOST and REVOLUTION SUNDAY』でデビュー。主な著作に「サクラダリセット」シリーズ、「つれづれ、北野坂探偵舎」シリーズ、『ベイビー、グッドモーニング』、15年に大学読書人大賞を受賞した『いなくなれ、群青』から始まる「階段島」シリーズ、山田風太郎賞候補となった『昨日星を探した言い訳』などがある。

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