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後宮の悪妃と呼ばれた女

 1.

 その昔、世界で一番大きな大陸のおよそ八割の土地を治めていた大国の名を『ショウラン』といった。
 簫蘭の帝都『ショウケイ』は、広大な国土のほぼ中央にあり、その皇宮は簫京の中心地に位置した。
 皇宮の真ん中には、簫蘭の皇帝、ゲンレイ帝が政を行うせい殿でんがある。だから、この大陸に住む民はこの正殿が世界の中心だと信じて疑わなかった。

 その日、正殿前の広大な中庭は、華やかな輿入れ行列であふれていた。
 まだ初春とはいえ、風のない昼下がり。
 足許に敷き詰められた白い石が陽光を照り返し、上等な絹の下、皮膚が汗ばむ。
 カディナは金糸の刺繡で縁取られた深紅の絹織物で身を包み、色鮮やかな美しいどんの帯を締めている。そして、足許まである長い面紗ベールをかぶり、口許も同じ絹で隠していた。
 これは王女カディナが生まれた国の正装であり、花嫁しょうだ。しかし、この炎天下で、長時間のj着用は拷問以外の何物でもない。
「一体、いつまで待たせるつもりなのか」
 列の最後尾で一刻あまり待たされている。
「カディナ様。これから皇帝陛下に拝謁する高貴な姫君は、そのように不満そうな態
度は見せぬもの。ましてや不平を漏らすなど、もってのほかです」
 従者のカリムが背後から涼しい声でカディナをいさめる。
 久しぶりに再会したカリムの衣服は砂漠を出発した時のそれではなく、すっかり簫京で暮らす武官のような姿になっていた。
 彼はカディナよりも一足先に皇宮へ入った。その三月の間にあるじじゅだい準備を進めつつ、皇宮のしきたりや行儀作法を完全に把握するためだ。
 それにしても、一体どういう経緯で許されたのか、皇宮では持つ者が限られているはずの刀まで帯びているではないか。
 ──人たらしめ。
 わずか三月の間に、この従者がいかにして皇宮の権力者の懐に入り込んだか目に浮かぶようだ。見るからに厚遇されている。
 それなのに、この男は冷遇されている主に向かって、
「カディナ様、最初に申し上げておきます。この皇宮で暮らす者は、下働きの宮女から皇后陛下に至るまで、人前で愚痴や不満は口にしません」
 などと苦言を呈する。
 返事をする気も失せたカディナは従者の言葉を無視し、「暑くてかなわぬ。せめて椅子と日傘を用意させよ」と、振り返りもせずに命じた。
「今しばらく、ご辛抱ください。どの姫様も、お立ちになったまま、謁見の順番をお待ちになっておられます」
 そう言われて見れば、様々な民族衣装に身を包んだ女たちが宮女や宦官、護衛を従え、じっと立っている。
 この花嫁行列は皇太子妃を決めるしゅうにゅう選びのために集められた皇太子妃候補たちの列だ。
 未婚の皇太子のために、簫蘭と和平を結んでいる国や支配されている属国からしょうへいされた妃候補は十名。
 そのひとりひとりが多くの従者をひき連れているため、後宮の入口から正殿の中にある謁見の間に入るまでに相当な時間がかかる。
「私はここにいるどの姫や王女よりも長い距離を旅してここまで来たのだ。それなのに、謁見の順番を最後にするというのは、あまりに配慮がない。そう思わぬか?」
 すると、カリムは懐から出したクジャクの羽を束ねた扇でカディナの首筋に風を送りながら、淡々と答える。
「カディナ様はここにおわす誰よりも遠い小国から輿入れしてきたからこそ、謁見も一番あとなのです」
 侍従の吐く正論にカディナはチッと舌打ちを返し、数カ月前に旅立った故国を思い出す。
 砂漠の空気はこの都のそれよりもはるかに熱い。だが、風は乾いており、ラクダで駆ければ肌に心地いい。
 よく遊んだオアシスの村々のの葉陰を思い浮かべ、カリムの扇が送るわずかな風で暑さを凌しのいだ。
 カディナが生まれ育った国は、この簫蘭から遥か遠く、半島に近い砂漠地帯にある。
 その小国の名は『カナール』、簫蘭の言葉では『ナン』という。
 カナールはちょうど西洋と東洋の文化と血が混ざりあう地域であり、そこに住む民の肌の色は白く、彫りが深い。そして、涼やかな目許をしている。
 カディナの父『ガンダール』は砂漠の中に点在するオアシスのある村々の民や、砂漠を旅する遊牧民ベドウインたちを治める首長だった。
 この首長ガンダールの第一嫡女として生まれたカディナは、民からの貢ぎ物により豊かで何不自由のない生活をしていた。
 だが、邸のある城塞から抜け出しては砂漠でラクダを駆り、遊牧民の子たちと遊ぶような活発な娘だった。その遊びの中で、水が乏しく、サソリや毒蛇と共存せざるを得ない過酷な土地で生きる術を身につけた。
 目を瞑ると砂丘に残る風紋が網膜に浮かぶ。
 そしてふと、思い出した。拾った木の枝を手に砂丘の上へと駆け上がり、ちゃんばらをした少年の横顔を。
 当時、その少年はカディナより背が低く、力も弱かった。
 カディナは泣き虫だった少年を叱咤し、容赦なく打ちのめした。それでも、少年はカディナを慕い、泣きながらでもついてきた。自分もカディナのように強くなりたい、と言って。
 その甲斐あってか、少年はカディナと一緒に砂丘に上るようになってから二年後には、彼女と対等に戦えるようになっていた。
 ところが、彼がカナールにきて三年が経ったある日……。
 少年は忽然と村を去った。
 何の挨拶もなく、大した価値もなさそうな紫水晶の指輪ひとつだけを残して。
 ──あんなに可愛がってやったのに。
 それは五年以上も前の出来事だ。
 が、恩知らずな少年の不義理を昨日のことのように思い出し、不愉快になる。もっと不愉快なのは、憎みながらも、まだ安物の紫水晶の指輪を身につけている自分自身だ。
 ──いや、忘れよう。
 もう何も考えないようにして、カディナは故国とは違う色の日差しに耐えた。
 そして……。
「カディナ様。間もなくでございます」
 カリムが囁く声で、ハッと目を開ける。既にカディナたちの行列は正殿の中にいた。
 ──いつの間に。
 正殿の前にあったあの長い石段をどうやって上ったのか、覚えていない。
 前の輿入れ行列の後ろについて牛の歩みのごとく、ゆっくりと前進しているうちに、うとうとし始めたカディナは、カリムの胸に背中をあずけ、支えられながら前進していたようだ、と気づく。
 いつの間に入室していたのか、重厚なしつらえの広間の後方に控え、前の皇太子妃候補が玄玲帝に挨拶する様子を眺める。
 どこの国から来た娘だろうか、と色鮮やかな衣装に目を凝らす。長い髪に編み込まれた髪飾りに見覚えがあった。カナールと国境を接する高原に住む騎馬民族の正装だ。
 どうやらこの姫君も辺境と呼ばれる土地から、遠路はるばるこの簫蘭までやって来たのだろう。
 ──ご苦労なことだ。人のことは言えないが……。
 同じ境遇の女を憐れんだ時、カリムの指がカディナの背中をつついた。
 前の行列が去り、カディナとその従者たちが玉座の下へ進むよう促される。
 カディナは片膝をつき、両腕を胸の前で交差させて拝礼した。カナール流の挨拶だ。
「佳南の首長ガンダールの第一嫡女カディナと申します。どうぞ、お見知りおきください」
 昨夜ゆうべ、カリムに指南された通りの言葉と仕草でこうべを垂れた。
 カリムからは、母国の名はカナールではなく、簫蘭の呼び方である『佳南』と呼ぶこと、ほどよい声量でしずしずと挨拶し、睫毛を伏せ、決して皇帝と皇后の顔を直視しないこともきつく指導されていた。
 そうやって足許に視線を落としたまま、皇帝の言葉を待っていると、カディナの頭の上に厳かな声が降ってきた。
「父上と兄上のことは残念であった。ちんも心を痛めておる」
 一年前、カナールは簫蘭の兵に攻め込まれ、首長であるカディナの父と王位継承者に決まっていた兄が連れ去られた。その後、どんなに待ってもふたりがカナールに戻ることはなく、村に『流刑地で処刑された』という噂が流れた。
 もちろん、皇帝の命令なく他国に攻め込み、その王と嫡男を害する兵はいないだろう。
 ──自分で滅ぼしておいてよく言うわ。
 私利私欲のために殺した人間の親族に、平然と哀悼の意を述べる人間の顔が見てみたい。好奇心に勝てず、カディナはゆっくりと睫毛を上げ、間もなく大陸のすべてを支配するであろう皇帝の顔を正面から見た。
 ──ふうん……。
 玉座に腰を下ろしている玄玲帝は、贅沢なしゅうを施した黒い着物の上に、金糸で織った眩い衣を羽織っていた。
 視線をさらにひき上げる。滑らかに光る銀髪を冠の中に収め、金のたまかんざしで留めた皇帝の顔が見えた。眉と目じりが左右非対称で、ほうれい線が深く、唇が薄い。
 ──気まぐれで好色、そして冷酷そうな人相をしている。
 カディナはいつもの癖で、玄玲帝の顔の相を読んだ。
 興味深く国主の顔を眺めるカディナに、玄玲帝は一瞬、たじろぐような顔をした。
 それでも構わず、カディナはその視線を隣に座る皇后、ラ・シンに移す。
 こちらも贅を尽くした深い藍色の衣をまとっている。衣の縁には金の花絞の刺繡が施された入念な仕立てだ。豊かな黒髪には挿せるだけの簪と髪飾り。小指は先細りになった銀の筒、指し 甲こう套とうで覆われていた。視線を顔にやる。大きな二重が深く内側に切り込む目頭、上がった目じり。細い眉に通った鼻筋。
 ──これはまた……。なんとも狡猾そうな、かつ残忍そうな人相だ。
 皇帝の凶相が皇后の狂相と交わり、邪悪な相乗効果がこの国に波乱を生んでいる。
 ふたりの顔の相を目に焼きつけたカディナは深く溜め息をつき、再び顔を伏せた。
 失望の表情を隠すために。


 2.

 泯美ミンメイが下級宮女の寝泊まりする大部屋から抜け出したのは、その日の夜半のことだった。
『皆には内緒で、お前に話がある。他の者たちが寝静まったら、裏庭にくるように』
 まだ入宮して間もない宮女に、上役が直々に話をすることは滅多にない。
 ──サングン様が私に何の御用だろう……。
 怪訝に思いながら、裏庭のさんの木の側で待っていると、どこからともなく現れた黒装束の男たちに囲まれた。
「え? あ、あの……。わ、私は尚宮様との約束で……」
 泯美は何が何だかわからず、必死に自分がここにいる理由を述べようとした。
 が、黒装束の男のひとりは有無を言わさず、泯美との距離を詰める。あとずさり、石につまずいてよろめいた彼女のみぞおちを、男が拳で殴った。
「ぐっ……」
 泯美は生まれて初めて経験する強烈な痛みに悶絶し、息が詰まり、そのまま失神した。

 気がつけば、体全体が揺れていた。自分が猿ぐつわをまされ、手足を拘束されたまま大柄な男の肩に担がれていることがわかった。
 ──ここは……。
 景色が逆さまに見える。それでも、なんとなく、ここがどのあたりかわかった。
 後宮の奥にはうっそうとした竹林があり、その中ほどに底なし沼だと言い伝えのある、誰も近寄らない不気味な池があった。まさにその林の中を、黒装束の男に運ばれている。
 悪い予感しかしない。
「う……ううう……っ……」
 助けを呼ぼうとした声はくぐもり、ざっ、ざざざ、と落ち葉を踏み鳴らす男たちの足音にかきけされる。
 ──一体、どこに連れて行かれるのだろう。
「う、ううっ!」
 恐怖と絶望に支配されながらも、必死に声を上げ、身をよじる。
「おとなしくしろ! 痛い目にあいたいのか!」
 押し殺した声で叱責され、口を噤んだ泯美は、しばらくして乱暴に肩から降ろされた。
 そこは池の端にかかる小さな赤い橋の上だった。
 ──こ、ここは……。宮女たちが噂していた底なし沼では?
 ぞっとしながら、横目で橋の向こうに広がる暗い水を凝視する。
「早くしろ」
 先ほど、泯美を黙らせた男が、他の男を急かすように言った。指示された男がふたり、橋の上に倒れ込んでいる泯美に迫る。その目には殺意がみなぎっているように見えた。
 何とか逃れようと、縛られた手足をやみくもに動かすが、あっと言う間に男たちの手で腕と足首をつかまれる。
「落とせ」
「う……う……」
 自分がなぜこんな目にあっているのかもわからないまま、泯美は涙を流し、言葉にならない声で命乞いをした。
 が、男たちは容赦なく、泯美の足に何かを結わえ付け、「えいっ!」という掛け声とともに橋の欄干の向こうに広がる池に投げ落とした。
「んん──ッ!!」
 足に重しをつけられた体は、よどんだ水の底に向かってずぶずぶ勢いよく沈んでいく。
 ──死にたくない!
 泯美は恐怖と絶望の中、声にならない呻き声を上げた。
 ──
 それは宮廷の中で唯一親しくしてくれる宦官の名前だった。
 いつも地味な薄墨色の衣を着ているが、その容姿には夜空の月のように冴え冴えと
した美しさと存在感がある。
 冗談を言う時にはきまって棒の先に毛糸と麻布がついたほっを振り、朗らかに笑う。
 困った時には相談にのり、辛い時にはいつも一緒にいてくれた。
 ──余暉! 助けて!
 泯美はまだ知り合って三月に満たない宦官の名を心の中で呼び、助けを求めた。
 親に売られ、後宮ですべての宮女から見下されている彼女には、他に呼ぶ名がなかったから。
 ──ああ……。一体、どうしてこんなことになってしまったの……。
 泯美の頭の中では、後宮に入ることになる前の出来事から現在までの記憶が走馬灯のように蘇っていた。

 泯美は簫京から遥か遠い、山のふもとにある貧しい村の農家の長女として生まれた。
 その後、一年おきに男児が生まれ、弟が三人、祖父母もともに暮らしており、八人の家族が部屋がふたつしかない狭い家で暮らしていた。
 そんな泯美一家が住んでいた村は、彼女が六歳の時、干ばつによるきんに見舞われた。泯美の実家は食い詰めて、その年の暮れ、彼女は奴婢として幅広い織物を扱う裕福な商家に売られた。
 家を出されるとわかった時は、体中の水分がなくなるのではないかというほど泣いた。親に売られた悲しみと、知らない家に行かされる心細さとで。
 だが、それまで田畑ばかりの農村で、来る日も来る日も農作業と家事の手伝いをするだけの生活しか知らない泯美にとって、町の商家での生活は夢のようだった。
 朝から晩まで洗濯やら掃除やらと忙しい生活には変わりなかった。とはいえ、食事は三食しっかり出されたし、たまにお使いの駄賃をもらうことができ、生まれて初めて金銭を自由に使える喜びを知った。
 商家の旦那様、奥様、そして四人のお嬢様がたは、泯美に用事を言いつける時でさえ、顔を見ることをしない。
 年配の使用人から『私たちは少し役に立つ家畜のような存在さ』と教えられた。
 働き者だが、地味で目立たない泯美は他の使用人から関心を持たれることもなく、目の敵にされることもない。少し寂しくはあったが、商家は居心地がよかった。
 そして、下働きになって十年の月日が経ち、家事も料理も一人前にできるようになった。相変わらず色黒のせぎすではあったが、隣町で布を扱う問屋の番頭との縁談もきた。けれど、このまま空気のようにこの大きな商家の片隅でひっそり生きていたい、と本気で願っていた泯美は縁談に気乗りがしなかった。
 そんな折、商家の末娘、明玉メイユウが後宮にあがる話が持ち上がった。
 後宮は、玄玲帝が政を行い、皇族が住む皇宮の広大な敷地の奥にある。
 宦官や僧侶は立ち入ることを許されているが、玄玲帝以外の男性は許可がない限り、足を踏み入れることはできない。
 そんな男子禁制の場所に、下働きの宮女まで含めると約一万人の女性がいると言われている。
 明玉は町では美人姉妹として有名な商家の四人姉妹の中でも、ひときわ美しかった。
 色が白く、細く弓なりの眉、すっと切れ上がった涼しげな目じり、笑うとキュッと引き上がる口角。農村では見たこともない美人に、泯美はしばしば見惚れた。
 明玉の美貌に目をつけたのは、皇宮の内務府で働く役職者だと聞いた。
 商家の姻戚のそのまた知り合いが内務府の役人で、その上役という男が、後宮の人事を差配する要職にあり、現在、玄玲帝から最も寵愛を受けているびんソ・シュンリン淑妃』を後宮に送り込んだ人物だという。
 淑妃は貴妃に次ぐ妃嬪の高位であるが、春鈴はまだ入内して一年足らずであり、異例の出世だと言われている。それほど玄玲帝の寵愛が深いということだ。
 玄玲帝の正室である皇后には実子がおらず、男子は側室が産んだ現在の皇太子と、別の側室が産んだもうひとりのしんのうのみ。
 だが、そう遠くないうちに、春鈴は玄玲帝の子をはらむはずだから、上役は春鈴に替わる若くて美しい宮女を後宮に送り込むつもりらしい、と大番頭が小間使いの女に話していた。内務府の差配役は、自分の息のかかった宮女がひとりでも多く皇帝から寵愛されることで、自分の皇宮内での地位を盤石にできるのだ、と。
 確かに、明玉のように美しい娘なら、皇帝の目に留まり、寵愛を受ける日がくる可能性もあるだろう。

 泯美が夕餉の支度をしている時、商家の奥様が明玉に言った。
「皇宮へは誰かひとり、うちから下働きを連れて行くといい。淑妃様から何か雑用を言いつけられたら、その者にやらせるんだよ。お前のきれいな手が荒れたら大変だからね」
 すると、明玉は箸を動かしながら、「誰でもいいわ」と本当にどうでもいいような返事をした。
「けど、お前より目立つ娘はダメね」
 そんな母親の心配を、明玉は鼻で笑った。
「私より目立つ娘なんて、町中を探したっているわけないじゃないの」
「それもそうだ」
 母娘は小皿の料理を箸でつつきながら、笑い合っていた。

 そんな母娘の会話を聞いた翌日、泯美は明玉について後宮へ上がるよう、命じられた。
 後宮に入った女は、二度と生きて皇宮から出ることはできない、と聞いたことがある。
 かと言って、奴婢の分際で、お嬢様への付き添いを断ることもできない。
 そんなにいい思い出があるわけでもないのに、住み慣れた商家を離れることが不安で仕方がない。
 泯美はその晩、涙で枕を濡らした。

 決死の覚悟で皇宮の門をくぐった。
 入内するとすぐ、明玉とは離され、同じ日に下働きとして雇われた十名ほどの娘たちと一緒に一列に並ばされ、上役らしき尚宮たちの視線にさらされた。
 商家では誰にも気に留められることのなかった泯美だったが、後宮に住む人々は全ての女に順位をつけなければ気が済まないような空気があった。
 明玉を入内させた内務府の役人から申し送りでもあったのか、泯美は春鈴淑妃の雑用を受け持つよう命じられた。
 泯美は見た目も所作も田舎くさい、とあからさまに見下された。何をやっても後回しにされ、そのせいで明玉から『仕事が遅い!』と叱責される日々が続いた。
 宮廷は天上の世界のように美しかったが、やっぱり商家にいたかった、そう思わずにはいられなかった。
 憂鬱な日々を送っていた泯美に対し、ただひとり優しく接してくれるのは、宦官の余暉だけだった。
『泯美。また、泣いているのか?』
 彼の顔や等身は匠が彫る人形のように整っていた。
『これがなくて困っていたんだろう?』
 明玉から手に入れてくるように命じられたりゅうぜんこうがどこにもなく、途方に暮れていると、どこでその話を聞いたのか、余暉が調達して来てくれた。
 なぜか、あれこれ世話を焼いてくれ、皇宮内の情報を共有してくれるようになった。
 聞けば自分と同じころに宮中へ上がったというが、彼はとにかく物知りだった。
『そういえば、このところ宮中が騒がしいのはどうして?』
 こうして、わからないことは何でも余暉に尋ねた。
『まもなく国をあげての秀女選びがあるからだよ』
 彼から聞いた話によれば、玄玲帝の嫡男で、今は遠征中の皇太子『コウヨウ』のために国の内外から十人もの美女を迎え、皇太子が帰国したら、その中から一名の正室と数名の側室を選ぶのだという。
 十人の妃候補は皇宮の東側の敷地、皇太子の居住域である『東宮』の中にあるそれぞれの寝殿に入り、秀女選びの準備に余念がないと教えてくれたっけ。
 ──余暉。あんただけが私に優しかった。
 とにかく、後宮では目立たないよう、慎重に振る舞うことが長生きするコツだということも、彼から教わった。その忠告にずっと従ってきたのに……。どうして……。
 水底に沈んでいきながら、彼の柔和な笑顔を思い出す。
 ──さよなら、余暉……。短い間だったけど、ありがとう。
 泯美は絶望に支配され、今日まで用心深く繫いできた自分の命を諦めた。


 3.

 カディナは自分の寝台の傍らに膝立ちになって、そこに横たわる宮女の顔を飽きることなく眺めていた。
「素晴らしくよいではないか。カリムが言っていたとおりだな」
 思わず、うっとり呟いていた。
 その声が鼓膜に届いたのか、じっくり観察していた娘の睫毛が震え、やがて目を開けた。
「こ……ここは……?」
 カディナ自らずぶ濡れの衣服を脱がせ、白い寝間着に着替えさせた宮女はトロンとした顔で、寝台の天蓋を見ている。
「ここはうんすい殿でんだ」
 カディナが自分の住まう寝殿の名を告げると、まだ焦点があっていない虚ろな瞳がぼんやりとこちらを見た。自分が今どのような状況にあるのか、まったくわかっていないようだ。
 宮女はじっとカディナの顔を見た後、半信半疑といった様子で呟くように、
「カディナ……様……?」
 と言ってから、自分自身の言葉にハッとしたように身を起こした。
「え? 私、どうしてカディナ様のお側に?」
 周囲をきょろきょろ見回したあと、掛け布団を払いのけて寝台を飛び降り、平伏した。
「も、申し訳ございません! 私のような者が王女様の御前で眠りこけるなど……。どうか私を罰してください、王女様!」
 この宮女が大真面目に困惑していることはわかっている。
 だが、カディナは思わず噴き出し、声をたてて笑わずにはいられなかった。
「あははは。そのように恐縮せずともよい」
「で、ですが……」
 ひれ伏した背中が震えている。
「お前、名は何というの?」
 娘の顔をあげさせたくて尋ねた。だが、彼女は額が床につくほど頭をさげたまま、
「わ、私は泯美と申します。半年ほど前に下働きとして入内いたしました」
 と名乗る。
 ──泯美か……。名前の響きもよいではないか。
 うんうん、と頷いた後、カディナは再び口を開いた。
「私がお前に会うのはこれが初めてだと思うが、何故、お前は私の名を知っているのだ?」
「はい。それは……」
 泯美は恐る恐る、といった様子でやっと顔をあげ、一度は途切れた言葉を繫いだ。
「あれは、今から半月ほど前のことでございます」
 泯美は目を伏せ、静かに話しはじめる。
「あの日、玄玲帝の跡継ぎと見なされている皇太子──紘陽様のきさき候補である十名の姫君たちが従者たちとともに入宮されました」
 泯美はその様子を克明に話した。
「簫蘭と国境を接する国から同盟の証として入内してきた姫君もいれば、簫蘭に征服された辺境の国から服従の証として献上された王族の王女もおられました。大国から嫁いできた姫君の中には数百人の宮女や宦官、護衛の者まで引き連れて来られた方もおられましたから、すべての花嫁行列が皇宮に収まるまでには半日を要しました」
「その様子をずっと見ておったのか? 半日も? どこから?」
 カディナが呆れたように、泯美の話を遮った。
「はい。その日私は、この皇宮の中で一番高い楼閣、ブッコウカクの掃除を言いつけられましたので、その塔の上からこっそりと」
 ああ、あそこか、とカディナは正門の脇にある楼閣を思い浮かべる。中には有名な仏師が作った仏像やマンがあり、最上階は皇族が祈りを捧げるどうとなっていた。
「なるほど。あそこからなら、行列はよく見えたであろう。得心した。続けよ」
「はい。遠目ではございましたが、花嫁行列は壮麗で、それはもう天上の景色を見ているように美しゅうございました」
 その時の様子を思い出すように、泯美は両手の指を組み、目を細める。
「私にとっては疲労と酷暑とで地獄のような時間だったのだが、そなたには天上の景色に見えたわけだな。それで?」
「もっと近くから見たくなった私は、思わず階下に駆け降りて、いけないこととは思いながらも一階の窓から花嫁行列を盗み見てしまったのでございます」
 百花繚乱の姫君たちの中でも、数名の従者しか伴っていない、艶やかな深紅の民族衣装を身にまとった王女に目を引かれた、と泯美は語る。遠目にもその美しさがわかった、と。
 その姫君が、簫蘭から一番遠い砂漠の国から輿入れしてきたカディナ王女であるということは数日後、余暉という仲のよい宦官から教えられた、と泯美は続けた。
 だが、小国である佳南は簫蘭に攻め込まれ、一族は流刑となり、首長と嫡男は処刑された、ともっぱらの噂であることも。
「滅ぼされた佳南から簫蘭への従属の証として輿入れさせられた天涯孤独の憐れなカディナ王女には何の後ろ盾もなく、皇太子妃候補の中で最も地位が低いそうです。しかも、よわい十九と候補の中で一番の年長であり、十八になったばかりの皇太子殿下の正室にはなり得ないだろう。そう宦官の余暉は申しておりました」
「なるほど。お前の言うことは正しい。しかし、いくら物知りの宦官から聞いた話とはいえ、よく本人を前にして、憐れだの地位が低いだの適齢期を過ぎていて正室にはなり得ないだの言えるものだ」
 泯美の言ったことをざっとまとめて嫌みを言うカディナに、泯美はぎょっとしたような顔になって目を見開き、両手で口を押さえて再び平伏した。
「も、申し訳ございません! 私を罰してください、王女様!」
 その大仰な態度を見るたびに、カディナは笑いそうになる。
「まあ、よい。お前の話は真実であり、私が後宮の者たちからどう評されているのかよくわかった。たいへん興味深い。続けよ」
「よ、よろしいのですか? 続けても」
 泯美はおずおずと顔をあげる。
「良い。見聞きしたままを話せ。で、正室になりそうな有力候補はどこの姫だ?」
「では……。恐れながら申し上げます。聞いた話によりますと、十人の皇太子妃候補の中には皇后陛下であられる静思様の姪にあたる、顧コ ・ルリ琉璃という后族の姫がおり、本命と目されているとのことでございます」
 后族というのは代々、大国の王たちの正室を輩出している名家のことである。
「なるほど。その娘が最上位で私が最下位ということか。私は見くびられておるのだな」
 脱力し、自虐的に呟いたカディナだった。
 が、泯美は「恐れながら……」と言いにくそうに口を開く。
「宮女たちの噂によりますと、砂漠からきた王女の立ち居振る舞いは立場の弱い者のそれではなかった、と」
「というと?」
 カディナが膝を泯美の方に寄せ、前のめりになる。
「謁見の際、無遠慮に皇帝陛下や皇后陛下の顔を真っすぐに見つめ、ニヤリと笑った、とか……」
「は? 笑った? 笑ってはおらぬ。あのふたりの人相に失望しただけだ」
 失望? と泯美はオウム返しに呟いて、首を傾げる。
「皇帝と皇后の人相はかつて見たことがないほどの悪相だった。それに引きかえ、お前は本当によい人相をしている」
 カディナがまた泯美の顔を見つめ、陶酔している様子で呟く。
「は? 人相……でございますか?」
「うむ。顔の相のことだ。顔にはその者の性質や内面、これまでの人生が表れる。現在の相で、未来をも占えるのだ。生まれた時には美形でも、身近な者の影響次第で品性が下劣になり、徐々に相が悪くなることもあるのだ。そういう者はきまって、自ら身を亡ぼす。だが、お前の相はすこぶる良い。眉は濃く、瞼が広く、垂れ目。鼻梁はさほど高くなく、鼻の孔は大きめ。唇は……」
 初めて聞く話だったのだろう、最初はうんうん、と興味深そうに聞いていた泯美だったが、突然、両手で顔を覆った。
「お、おやめください! それ以上、聞きたくありません! 不美人であることは自分自身が一番よく知っております!」
 泯美は悲鳴のような声をあげた。
「不美人? 謙遜するでない」
「謙遜などではございません!」
 泯美は顔を真っ赤にして怒っている。
「では、謙遜ではないとして。不美人かどうかは見る者が決めることだ。とにかく、私はお前の顔が気に入った。善良で正直者。手元に置けば、福を呼び込む相だ」
 カディナは困ったようにうつむいてしまった泯美の顔を覗き込むようにして、ひとしきり眺めた。
「で、お前のように善良な者がなぜ底なし沼に沈められたのだ?」
 頰を羞恥の色に染めていた泯美だったが、池に沈められた時の恐怖を思い出したのか、その顔がみるみる色をなくした。
「わかりません……。上役が呼んでいると言われて裏庭に出たところを襲われたのですが、なぜ自分がそんな目にあったのか……」
「身に覚えがないのに、あの池まで運ばれて、投げ入れられたと?」
「はい。誰ぞと間違えられた可能性はありますが」
 カディナは「なるほど」とうなずく。
「絶対に助からないと思いました。夜中に底なし沼のある林の中を通りかかる者などいるはずがないと思ったからです。まさか再び目覚めることができようとは……」
 泯美が怪訝そうにカディナの顔を見る。
「それは……だな。たまたま皇宮の中を散歩しておったら、水音がしてな。行ってみると池に着物の袖が浮かんでおった。それを従者に引っ張り上げさせたのだ」
 皇太子妃候補の王女様が夜中に散歩……。その呟きが耳敏いカディナの鼓膜に届いた。
「夜中に散歩するのは珍しいことか?」
「め、めっそうもございません。王女様がいつどこを散歩されようと自由でございます」
 必死に首を振ったあと、泯美は悲しげに目を伏せた。
「それでは、私はこれでおいとまします」
「もう行ってしまうのか? しばらくここで養生してはどうだ?」
「いいえ。身に覚えはございませんが、万一、本当に私が狙われたのであれば、これ以上ここにいては、カディナ様にまで危険が及ぶやもしれません」
 泯美は深々と一礼し、立ち上がろうとした。
「待ちなさい。その恰好のまま外へ出るつもりか?」
「あ……」
 ようやく自分が寝間着姿だということに気づいた様子で、宮女は室内を見回す。
「わ、私の着物は?」
「あそこに」
 と、カディナが奥の衣桁を指さした。
「だが、まだ乾いておらぬゆえ、この衣を羽織って行くがよい」
 カディナが自分の羽織り物を脱いで泯美の肩に掛けてやると、彼女は恐縮するように身を縮め、じっとしていた。
 そして、すぐにこうに干してある自分の着物を丸めて抱えた。
「お借りしたこの衣はすぐにお返しに上がります」
 泯美は律儀にそう言って、頭をさげてからカディナの居室を出ていった。
「カリム」
 カディナが衝立の向こうに声をかけると、長身の従者が姿を現した。
「何かある。あの善良にして不憫な娘を密かに護衛せよ」
「お任せください」
 頷いたカリムはそのまま、カディナの居室をあとにした。


 4.

 暗闇の中、泯美は窓からさす月の明かりを頼りに、下働きの宮女たちが寝起きする大部屋に戻り、まだ完全には乾ききっていない衣に着替えた。
 そして、雑魚寝の宮女たちを踏まないよう慎重に奥へと進み、一番隅の寝床に入った。
 自分には分不相応な、カディナが着替えさせてくれたらしい純白の寝間着と絹の羽織りは大切に風呂敷に包み、胸に抱いて目を閉じる。
 少し前に自分の身に起きたことが絵空事のように思えたが、思い出すと震えが出るほど恐ろしく、なかなか寝つけなかった。

 明け方、他の宮女たちが起床し、身支度をはじめる気配で目覚めた。
 いつもは誰よりも先に起きる泯美だが、今朝は寝坊してしまい、大部屋を出るのが一番遅くなった。
 彼女の朝一番の仕事は皇族専門の御膳房で受けとった朝餉を、玄玲帝の寵妃である春鈴淑妃の住まい、じょうようきゅうへ届けることだ。常陽宮は商家から一緒に入内した明玉が仕える所でもある。泯美が届ける朝餉は明玉が毒見し、春鈴淑妃に供される。
 その日も泯美は御膳房の中にある妃嬪専用の調理場へ行った。
 いつもは御膳房で一番偉い、特級厨房長が泯美の目の前で最後の盛り付けを行うのだが、今日にかぎっては若い厨師が料理を皿に盛っている。
 羊肉のあつもの(煮込み)、青菜と鶏肉の炒めもの、黒もち米を蒸したもの、桂彩魚の焼きもの、種類豊富な漬物、果物など沢山の小皿が漆塗りの桶の中に並べられていく。その桶を三段重ねた容器を受け取り、常陽宮の裏口に運んだ。
 なぜかその日に限って、取り次ぎの門番がおらず、常陽宮の敷地の中や寝殿の回廊は人が走り回っていた。
 ──いつもと様子が違う。
 ちょうど裏口を通りかかった年配の宦官を呼び止め、恐る恐る声をかけた。
「あの……。春鈴様の朝餉をお持ちしたのですが……」
 すると、泯美を一瞥した宦官が苦い顔になって、「春鈴様は今朝がた、みまかられた」と小声で早口に言い、常陽宮の敷地を出ていった。
 ──みまかられた……とは……。亡くなった……ということ?
 宦官の言葉がすぐには理解できず、意味を呑み込むのに時間がかかった。
 なぜなら、昨夜、夕餉を届けた時、春鈴淑妃は宮女たちとともに庭のツツジを眺めて、笑いさざめいていたからだ。
 ──具合がお悪い様子など微塵もなかったのに……。
 あの美しい淑妃がもうこの世にいないとは、にわかには信じ難かった。
 だが、喪を告げる特別な鐘がゴーン、ゴーン、と後宮の空に響きはじめ、宦官の話が真実なのだと思い知らされる。
 泯美は春鈴淑妃のために運んできた膳をどうしていいかわからず、裏門に立ち尽くしていた。明玉には用事を言いつけられる時だけ呼びだされ、いつもこの門で会っていた。明玉からの指示を受けるためには、ここで待つしかない。
 しばらくすると、憔悴しきった様子の明玉が建物から出てきた。寝殿から出る時は履物をはこうとしてよろめき、敷地を歩く時には何度もつまずいていた。
 入内してからは一日に数回、顔を合わせるだけだが、明玉は日に日に美しく洗練されていくように思えた。しかし今、敷地を横切ってこちらに向かってくる様子はひどく老け込み、急に容貌が衰えたように見える。
 いぶかしく思いながら、ぼんやり明玉を見ていると、その視線に気づいたかのように彼女がこちらに顔を向けた。
「お嬢様」
 商家にいた時からずっとそう呼んでいる。昨日もそう呼んだ。それなのに、今朝の明玉は泯美を見て、大きな目を更に大きく見開いた。
「み、泯……美……。お前……どうして……」
 その顔には亡霊にでも遭遇したかのような、怯えが見える。
「お嬢様……あの……」
 朝餉をどうしたらよいのか聞こうと思い、泯美が近寄ろうとすると、明玉はたじろぐように後ずさる。
「あの……」
 明玉の様子がおかしい。心配して更に近くへ行こうとしたが、彼女はヒッと悲鳴のような声をあげ、先ほど出てきた寝殿に駆け込んでしまった。
 ──死人でも見るような顔だった。どうして……あんな目で私を……。
 明玉の反応を怪訝に思っていると、門の外から男の声が聞こえてきた。
「ご遺体の様子からして、毒殺に違いない、と検死した法医が言っておる」
 毒殺。その言葉にぎょっとして声がする方を見た。
 皇宮の中で起こった事件を調べる刑部衛士の制服を着た男が、春鈴妃嬪の側仕えの尚宮と話している。
「間もなく陛下がお見えになるゆえ、どういう状況で春鈴様がお亡くなりになったのか、お伝えせねばならん。説明せい」
「それが……。春鈴様は夕餉をお召し上がりになった時には、これといって変わったところはございませんでした。側仕えの明玉が銀の箸を使って毒見もしておりますし……」
 初老の尚宮は身を震わせながら答えている。今にも泣き出しそうな声で、自分に落ち度がないことを必死に説明していた。
「では、そのあとは何も口にされておらんのだな?」
 衛士が鋭い口調で確認する。
「はい。何も……。あ、でも。もし、淑妃が夕餉からお休みになる前に何か召し上がるとすれば……」
 尚宮が何かを思い出すように首を傾げた後、答えた。
「ヒチラぐらいかと」
 ヒチラとは菓子の一種だ。淑妃が好んだヒチラは麦粉に水あめと擦りゴマを混ぜあわせ、中心に餡を入れたものだった。
「淑妃はことのほかヒチラを好まれ、定期的に厨房から取り寄せておられました」
 ──そう言えば……。
 数日前、特級厨房長がヒチラを作っているのを見た。
 春鈴淑妃の菓子箱に詰めていたので親切心から、『夕餉と一緒に届けましょうか?』と聞くと、『あとで明玉に渡すことになっている』と拒まれた記憶がある。
 だが、淑妃の口に入る物は全て明玉が毒見をしている。あの菓子も例外ではないはず。菓子は箱や鉢に盛られた中のひとつを選び、毒見役が食べてみるのが決まりだ。
 ──たまたま、明玉が食べた菓子に毒が入ってなかったとしたら?
 泯美は膳をその場に置いて、御膳房へと急いだ。いつも泯美を冷たくあしらう特級厨房長を問い詰める勇気もないままに。
 だが、見習いの若い厨師から告げられたのは意外な事実だった。
「特級厨房長は、今朝がたみまかられた。部屋の鴨居に紐をかけて」
「え? 特級厨房長も亡くなられたんですか? しかも、自死なさったということですか?」
 見習いは春鈴淑妃の訃報に接していないらしく、きょとんとしている。
「は? 他にも誰かみまかられたのか?」
「……。あ、いえ……」
 口ごもる泯美に、見習い厨師は怪訝そうに首をひねりながら御膳房の奥へと入っていった。
 泯美は頭の中で見聞きした事実を整理した。
 春鈴淑妃の夕餉とヒチラは明玉が毒見をしている。が、亡くなった時刻からして、どうやら食事ではなく、毒見をすり抜けた菓子の中に毒が仕込まれていたと思われる。そして、その菓子を作った特級厨房長が自死した。
 得体の知れない恐怖に襲われ、茫然とした時、先ほど常陽宮の近くで尚宮と話していた衛士が数名の兵を連れてやってきた。
「お前が御膳房から常陽宮まで食べ物を運んでおる泯美か?」
「は……はい」
 わけがわからないまま返事をした途端、兵に囲まれた。兵たちの睨むような目を見て、自分が疑われているのだとわかった。
「わ、私は何もしていません……! 御膳房で作ったものを運んでいるだけなんです!」
「申し開きは刑部で聞く。連れていけ」
 衛士が部下たちに命じ、泯美は引きずられるようにして御膳房から遠ざけられた。
「待って! ほんとに何も知りません! 本当です!」
 泣いても叫んでも聞いてもらえないまま、泯美は牢に入れられた。
 固い角材で囲まれた監房の中から「私はやっていません!」と何度叫んでも、自分の声が空しく響くだけ。
 ──噓……。どうしてこんなことに……。
 朝でも薄暗い牢に敷き詰められた藁の上で膝を抱え、ひとしきり泣いた。そして、二刻ほど経って、ようやく落ち着きを取り戻した。
 ──淑妃は本当に特級厨房長に毒殺されたのだろうか。けど、御膳房の管理者がどうして……。
 特級厨房長に淑妃を殺す理由があるとは思えない。だとすると、誰かの罠にはめられたのか、誰かに命じられたのか……。
 想像を巡らせていた時、足音が近づいてくるのに気づいた。
「お、お嬢様……」
 木の柵の向こうに立っていたのは明玉だった。
 いつもは自分を歯牙にもかけない明玉だったが、さすがにこの状況を心配して来てくれたのだろう。泯美はすがりつくような思いで、自分と彼女を隔てている柵に駆け寄った。
「お嬢様! 私は何もしていません! 信じてください!」
 無実を訴えた泯美を見て微かに笑んだ後、明玉は冷たく言い放った。
「泯美……。死んでおくれ」
「え……」
 思いもよらない命令に言葉を失い、泯美はただ暗がりに立つ娘の整ったほの白い顔を見上げていた。
「玄玲帝は寵愛していた淑妃が毒殺されたことに怒り狂っておられる。誰かが責任をとらなければ収まらない」
「そ、その責任をとって特級厨房長が自死されたのでは……」
 泯美の推測を明玉は冷ややかに笑った。
「毒を仕込んだのが厨房長だとしても、それを運んだ者、毒見した者も責任に問われる」
「でも、私は三度の食事しか運んだことがありません。ヒチラを春鈴様のお部屋に持ち込んだのは……別の誰かです」
 さすがに明玉が持ち込んだのではないか、とは言いにくかった。
「何にせよ、すべての食べ物の毒見をなさる責任はお嬢様にあるのではないですか?」
 明玉は唇の両端を引くようにして、ふふっと笑った。
「毒見の私を通さず、お前がこっそり春鈴様にお渡ししたんでしょ?」
 泯美は震えながらぶるぶると顔を振った。
「そんなこと、しません!」
 だが、そんな反応などわかっていたというように、明玉は眉ひとつ動かさない。
「真実など、どうでもいい」
 明玉が泯美の言葉を遮った。
「どうせ、明日になれば、お前は自分がやったと白状するまで拷問される。白状すれば、極刑に処される。そんな苦しい思いをするよりも、今日のうちにこの甘い毒を飲んで、ひと思いに死んだ方がマシだと思わない?」
 明玉が手にしていた小瓶を軽く揺すった。瓶の中の液体らしきものが、ちゃぷと音を立てる。
「毒……。なぜ、私が死ななくてはならないのでしょうか……」
 泯美は震えながら聞いた。
「私の両親に十年も世話になっておいて、理由がわからないの?」
 つまり、明玉が毒見を怠ったことを自分のせいにしようとしているのだ、と泯美は直感した。
「まさか……私を池に沈めようとしたのも……明玉様……なのですか? 春鈴淑妃の死の責任を免れるために?」
 恐る恐る尋ねる泯美を見て、明玉は紅を乗せた美しい唇をゆがめるようにして冷たく笑った。
「今度こそ、確実に死んでちょうだい」
 そう言って、明玉は柵の隙間から牢の中に小瓶を差し入れて、その場を去った。
 ひとり、暗い牢に残された泯美は理不尽な絶望感に打ちのめされた。自分を買った商家一族のため、泯美なりに尽くしてきたつもりだった。特に、年の近い明玉に対しては親近感と憧れを持って細やかに接した。皇宮にあがってからは手足となって働いたつもりだ。
 けれど、自分は彼女にとって、身代わりになって虫けらのごとく、呆気なく、殺される人身御供に過ぎなかった。
 ──自死するか……拷問されて処刑されるか……。
 入内してまだ半年。これまで泯美が尋問や拷問される者を見る機会はなかった。だが、人づてにその恐ろしさは聞いたことがある。真偽にかかわらず、苦しみのあまり処刑されることがわかっていながら白状してしまうのだ、と。
 もしかしたら、特級厨房長も、責任を追及されることを恐れて自死したのかも知れない。あの豪胆そうに見えた特級厨房長が首をくくるほうを選ぶぐらいだから、拷問はきっと、想像以上の苦痛に違いない。
 ──私が耐えられるはずがない……。
 ぞっとした泯美は、思わず明玉が残していった白磁の小瓶に手を伸ばしていた。
 だが、手に取ったものの、すぐに蓋をとって飲み干す気にはなれない。ただ、握りしめた。
 ──死にたくない。
 自分を手放した両親、年老いた祖父母、幼い三人の弟たち。彼らの姿が、十年前の有り様のまま、まぶたに浮かぶ。
 思えば、十年間、一度も実家に帰る機会は与えられなかった。親が商家を訪ねてくることもなかった。寂しかった。けれど、奴婢として売られるというのは、そういうことなのだろう、と家族のことは思い出さないようにしてきた。それなのに、今になって家族に会いたくて仕方がない。
「うう……うぅ……お母さん……母さん……」
 抱えた膝に額を押し当てて泣きながら、母の顔を思い浮かべようとしたが、長く会っていない顔はうまく思い出せない。仔細に思い出そうとすればするほど、その輪郭がぼやけていく。
 ──別れた時、まだ幼かった弟たちももう、私のことなんて覚えてないだろう。
 ここで自分が死んでも誰も悲しむ者などいないのだ。そう思うと自分が道の石ころみたいにとるにたらない存在のように思える。
 ──あと何刻か生き延びたところで仕方ない。
 泯美は握りしめている小瓶を見つめた。
 明玉は『甘い毒』と言っていた。
 ──たとえ甘い味の薬でも、息絶える時は苦しむんだろうな。息が止まるのだから。
 それでも、拷問された後、処刑されるよりは楽に違いない。
 時が経てば経つほど、迷えば迷うほど、明玉への恨みと、この世への未練が募るような気がした。
 ─いや、もう諦めよう。考えても辛いだけ……。
 泯美は小瓶の蓋をとり、毒薬を一気に飲み干すために呼吸を整えた。
 だが、なかなか決心がつかない。ただただ涙が溢れて止まらない。
「泯美」
 不意に名を呼ばれ、ハッとして視線を瓶から牢の外へ移す。
「よ、余暉……?」
 さっきは明玉が立っていた場所に、今度は薄墨色の衣をまとった宦官がいる。いつもの柔和な笑みを浮かべ、じっと牢の中の泯美を見ていた。

  *

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■著者プロフィール
浅海ユウ(あさみ・ゆう)
山口県出身、大阪府在住。2012年に『デビルズナイト』(スターツ出版)で「オトナ女子が本当に読みたい小説大賞」優秀賞を受賞。著書に『京都花街神様の御朱印帳』(スターツ出版)『空ガール!』(マイナビ出版)がある。

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