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【特別公開】教授のパン屋さん2 第1話

 第1話 小麦と発酵バターのクロワッサン

  1

 パンが焼ける匂いは、どうしてあんなに幸せな気持ちになるんだろう。
 オーブンの熱気にとけて甘い香りがほんわりと漂う。焦げ目がつきはじめた生地から香ばしい匂いがして、じゅわっと染み出たバターの濃厚な香りと混ざり合う。甘くて、優しくて、ほっとする。胸いっぱいに吸い込みたくなるような、幸せの香りだ。
 ばあちゃんが営むパン屋の『フクマルパン』はいつもそんな匂いで満ちていた。小学校が終わるとまっすぐばあちゃんちに走って、焼きたてのパンにかぶりつく。かけっこで褒められた日も、テストで赤点を取った日も、友だちとケンカした日も、仲直りした日も。ばあちゃんが店をたたむまで一日もかかさなかった。
 パンが好きだ。大人になった今も変わらない。いや、子どもの頃よりもっと好きになったかも。
 おれ、福丸ふくまるあさひは警察官だ。一年目の新人で、交番に勤務している。忙しいときに片手でかぶりつける総菜パンは心強い味方で、甘い菓子パンは疲れてささくれた気持ちを丸くしてくれる。お腹も心も満たしてくれる、まさに幸せの食べ物。
 パンの食べ歩きが趣味のおれは、幸せを探しているともいえるかもしれないな。
 自分の考えに、ふっと笑みがもれた。
 今日の幸せ探しはアカプラそばのベーカリーだ。富良野ふらのから初出店した人気店で大きなカウンターにずらりとパンが並ぶ様子は圧巻だ。カウンターの奥が調理スペースになっていて、パンが焼き上がるのを見られるのも嬉しい。どんなパンがあるのか想像しただけで足が弾んだ。
 おろしたての服を着て札幌さっぽろの町をいく。色とりどりのワッペンが縫いつけられたビンテージTシャツで、コーディネイトにも力が入った。好きな服を着て、好きなパン屋を巡る。これ以上の休暇の過ごし方はない。
 爽やかな緑とビルに切り取られた空を眺めていると、不意に視界が開けた。
 北3条広場、通称アカプラはイチョウ並木に挟まれた広場だ。イチョウの爽やかな緑と敷き詰められたレンガの赤が眩しい。その先に立派な建物を見つけて、思わず「おお」と声がもれた。
 赤レンガで造られた洋館で、中央に据えられた八角塔が日光を浴びて黄金色に光っている。
 北海道庁旧本庁舎だ。
 一八八八年、明治時代に建てられた歴史的な建造物で『道庁赤れんが』や『赤れんが庁舎』の名前で親しまれている。札幌を代表するシンボルの一つといって過言ではないだろう。
 だが記憶の中の赤れんが庁舎はぼんやりした印象だ。雨風で汚れ、緑青が吹いた屋根は青緑色に変色していた。札幌駅から徒歩十分ほどの好立地にありながら、灰色のビル群に埋もれている。修学旅行や観光で足を運んだはずが見所が思い出せない人も多いだろう。それが今はどうだ。
「こんなにかっこよかったのか」
 生まれ変わった赤れんが庁舎に自然と足が吸い寄せられていった。
 近づくほどにその大きさに圧倒される。二階建ての洋館は十階建てのビルに負けないくらい大きい。青空と緑豊かな庭園に囲まれていて西洋の貴族が暮らすお屋敷のようにも、映画に出てくる名門校の校舎のようにも見えた。
 大規模改修工事が始まったのは、たしか二〇一九年だ。老朽化や耐震性の問題を解決するために六年もの歳月がかけられた。リニューアルオープンのときは頻繁にメディアに取り上げられて、ちょっとしたお祭り騒ぎになった。レストランや実演販売をする土産ショップが新たに入り、八角塔にも登れるようになったらしい。楽しみながら学べるお出かけスポットに進化した印象だ。
 おれも勉強がてら、見学してこようかな。
 考えながら横断歩道を渡ったときだ。庁舎の門の奥、太い木々の向こうにぽつん、と水色が落ちていた。
 明けたばかりの朝の空を切り取ったような優しい空色をしたバンが生い茂った緑の中に停まっている。外国製のしゃれた車両で、大きく開け放たれたリアにはパンが並んでいた。車両の手前に置かれた木製の小さな看板にはこう書かれている。
〈ベーカリー エウレカ〉
 なんだか、魔法にかけられたみたいだった。
 札幌には謎のパン屋がある。
 出店場所も営業時間も非公開。まれにSNSで目撃報告があるけど、投稿を見てから行っても店は忽然と消えている。神出鬼没の、幻のベーカリー。なんでも空色のバンで、三つ揃いのスーツを着た英国紳士が営んでいる、らしい。
 まことしやかに囁かれる都市伝説のような店。そんなベーカリーが今、おれの目の前にあった。
 数ヶ月前のおれだったら、飛び上がって喜んだに違いない。
 おれは車両に近づいて開店準備をしていた男性に声をかけた。
亘理わたりさん」
 パンの入ったバスケットを抱えた男性が振り返った。
 四、五十代。身長百七十二、三センチ。やや細身。頭髪には白いものが混ざっている。姿勢がよくて、ストライプ模様の上質な三つ揃いのスーツがよく似合っていた。英国紳士と噂されるのもむりはない。
 この人こそ〈エウレカ〉の店主、亘理一二三ひふみだ。整った顔立ちで穏やかそうに見えるけど、この風貌にまどわされてはいけない。
「こんにちは、福丸さん。奇遇ですね」
 落ち着いた低音の声であいさつされ、おれは顔をしかめた。
「こっちのセリフですよ。なんで赤れんが庁舎の前で店やってるんですか」
「もちろん正式な手続きを踏み、指定管理者の許可を得ての営業です」
「いや、そういう意味じゃなくて」
 この紳士はいつもおかしなところに店を出す。なぜこんなところで、といいたくなる場所で会うのは今回が初めてじゃない。絶対に許可が下りなさそうな場所でもきっちり許諾を得ているのだから、ますます謎だ。
 気になるけど、まわりには赤れんが庁舎へ向かう観光客の流れがある。メイン通りから外れているとはいえ商売の邪魔をするのは悪い。なんといっても、このパンの香りだ。
「見てもいいですか?」
 おれがショーケースを指差すと、亘理さんは「どうぞ」と場所をゆずってくれた。
 ふっくら、つやつやのクリームパン。雪のような粉砂糖をかぶったフルーツのデニッシュ、こんがりジューシーに膨らんだカレーパン。ごろりと具材が覗く総菜パンがあれば、クーペが芸術品みたいにきれいなハードパンがある。
 顔がにやけてしまった。食感と味を想像する楽しさと、パンを選ぶ楽しさ。パン屋のわくわくが詰まっていて、あれもこれもほしくなる。でもアカプラのベーカリーや他の店も見たいしなあ。
おれはじっくり棚を眺めて、ほしいものを厳選した。
「すみません、クリームパンとあんパン、あとこっちのハードもください」
「お目が高い」
 亘理さんが熟練の鑑定士みたいにうなずくので、おれは笑ってしまった。
「改良したんですね、菓子パン」
 一目で以前と形が変わっているのがわかった。
 グローブ型のクリームパンは以前よりむっちりと高さが出て、あんパンの表面は黒ごまをまぶしたものから、へそのような窪みに変化していた。
「福丸さんに教えていただいたことが大変参考になりました。フィリングの調整をすると生地を改良したくなり、この形に行き着きました」
 亘理さんが商品を紙袋に詰めながら柔らかな表情を見せた。
 代金を払って商品を受け取る。無地の紙袋にはエウレカの文字が控えめに印刷されていた。
「そういえば、店の名前のエウレカって、どんな意味ですか?」
「古代ギリシア語で『発見した』『わかった』といった意味です」
 ちょっと面食らった。小麦とかおいしそうなイメージの単語じゃないのか。
「パンとぜんぜん関係ないですね」
 おれがいうと、今度は亘理さんが少しびっくりした顔になった。
「そうですか? 数学者であり物理学者、天文学者であり様々な発見と発明をした、かのアルキメデスに思いを馳せるだけでなく、パンの持つ無限の可能性と工学的な視線をかきたてる力強いネーミングだと思うのですが」
 思いもよらない理由にきょとんとして、この人の正体を思い出した。
 職人然として一日中パンのことを考えていそうな人だけど、そうじゃない。
「亘理さんって、やっぱり教授なんですね」
 なにを隠そう、亘理一二三は現職の大学教授だ。それも国立大学、工学部の。
 なぜ教授がパン屋なのか。どうして自らパンを焼き、販売まで担うのか。
「そうですね。教授職ではありますが、よりよく工学とつきあうためにエウレカはかかせません」
 こんな調子で、説明してもらっても謎が深まっていく。
 亘理さんはクロワッサンをトレイに移した。
「今日たまたま会えたのも何かのご縁。ご試食いただけますか?」
「そんな悪いですよ。売り物でしょ」
「お代は要りません」
 すっ、とおれの眼前にトレイが運ばれた。英国紳士風の教授が作った逸品は甘いバターの香りが立ち、くらりとするようないい匂いがした。
「小麦粉は北海道産。もちっとした食感と豊かな甘みがあります。バターはフランス産の発酵バターを選びました。まろやかなコクと芳醇な香りが特徴で、口溶けが素晴らしい。食材が引き立つよう、パンの甘さは控えめに仕上げています」
 クロワッサンがきらきらと輝いていた。こんがりした焦げ色とキャラメル色の縞模様に包まれた生地はぽってりと膨らんでいるけど、角がしっかり立っていて気品がある。うわあ、うまそう。絶対うまいやつだ。
「私が目指すのは『フクマルパン』のようなパンです。その味をよく知る福丸さんにこそ、食べていただきたい」
「そういうことなら遠慮なく」
 クロワッサンを受け取って「いただきます」とかぶりつく。
 パリッ、サク。表面の薄い層が歯切れよく崩れて、しっとりした層が顔を出す。ああ、これこれ、この食感。口の温度でバターがとろけて、濃厚な味がじゅわっと広がる。小麦の甘さが追いかけてきて、噛めば噛むほど旨みが溢れる。バターと小麦。小麦からバター。終わらないリレーを楽しみ、おれは目をみはった。
「すごいふつう」
 びっくりして声が出てしまった。
 どうなってるんだ、このクロワッサンは。見た目は完璧。外側の焼き加減もいい。素材がよくて豊かな風味も感じられた。でも「うまい!」と叫ぶほどじゃない。
「ふ、ふつうですか」
 亘理さんの声に動揺が滲んだ。自信があったに違いない。
「いや、まあ、うまいですよ。小麦とバターの旨みがしっかりあって」
 もう一口食べて、自分の感覚を確認した。
「やっぱり食感かな。外側にもう少しパリッと感がほしいですね。中のふんわり食感は個人的に好きですけど、バターに負けてる気がします」
「私が食べたときは良い出来だと思ったのですが」
「こればっかりはクロワッサンの宿命ですね」
 クロワッサンをほおばると、亘理さんの目がきらりと光った。
「定数であれば変えることはできませんが、おいしいクロワッサンが存在する以上、その宿命は克服できるものと考えられます。材料、製法、どちらに由来するものですか」
 真顔だし口調は淡々としているけど、目はきらきらと輝いている。
 あいわからずパンが絡むと人が変わるなあ。
 半ば感心したとき、おれの背後から大きな声がした。
「ここであったが百年目え!」
 キン、と声が鼓膜に刺さって顔をしかめる。振り返ると、少年がいた。
 身長百六十五センチ、痩せ形。短く刈ったオレンジ色の頭髪。薄い眉毛。右の目尻の下にホクロ。制服をだらしなく着た中学生がいる。
 それも、二人、、
 身長体重どころか、髪型も顔もホクロの位置までぴったり同じの少年たちが不敵に笑った。

  2

 オレンジ色の頭髪の少年は存在感がある。一人でも目立つのにそっくり同じ人物が隣に並んでいるとアプリで加工した画像みたいに現実味が薄い。もちろん作りものじゃない。二人は一卵性双生児だ。
 少年たちはポケットに手をつっこんで、顎をつきだした。
「よおよお、ヘッポコおまわりさんよお」
「今日こそわかってるだろうなァ」
 こういうしゃべり方、どこで覚えるんだか。
 絵に描いたようなチンピラぶりに呆れながら、おれは二人に向き直った。
「お前たち、こんなところでどうしたんだ」
 とたんに双子は目を吊り上げた。
「ちょっとはおどろけよ、もー」
「バレないようにビコーしたのにさあ」
「あ、そうなの? ごめん」
 見た目は尖っていても、おれを驚かすためだけにちょこちょこついてきたとわかると、かわいく思える。
「こちらは?」
 亘理さんがおれに尋ねると、待っていましたとばかりに双子が声を揃えた。
「オレたちは二人で一人。ひとよんで〈第三のオレ〉だ!」
 反応に困る自己紹介だ。いや、自己紹介にもなっていない。
 亘理さんは戸惑う様子もなく、それどころか真顔で前のめりになった。
「〈第三のオレ〉さんとおっしゃるのですか。しかも二人でありながら第三。興味深いです。一対としての名称でしょうか」
「うるせー、二人で一人〈第三のオレ〉だ!」
 話がおかしなほうへ転がっていくのを感じておれは口を挟んだ。
大地だいち大空そら、おれの管轄に住んでる中一の双子です。どっちがどっちかは、今はちょっと」
「ちょっと、じゃねーよ」
「そうだそうだ。そろそろ当てたらどうなんだ」
 双子に痛いところを衝かれ、うっ、と言葉につまる。奇妙なやりとりに見えたんだろう。亘理さんが問うような眼差しをおれに向けた。
「ええと、こいつら見た目がそっくりで、どっちがどっちだかわからないでしょ。でも二人の名前を当てないといけないんです。なんやかんや、いろいろあって」
「なんやかんや、いろいろあって名前を、ですか」
 簡潔にまとめたつもりが、かえって興味を持たれてしまった。
「話、長くなりますけど……聞きます?」
「お願いします」
 おれはじろりと双子を睨んだ。
「こいつら〈第三のオレ〉を名乗って悪さばかりしてるんです。クラスが違うのに授業を入れ替わったり、学食のお代わり無料を悪用して二人一食で済ませたり」
 双子は歯を剥いて凶暴な顔をした。
「おかずは増えないぜ」
「米だけだぜ」
「そういう問題じゃないだろ」
 こわい顔で注意しても、オレンジ頭の二人組は「ゲヒェヒェ」とまったく反省のない不気味な笑い声をあげた。
 こいつら、悪魔にでも取り憑かれたんじゃないか。
 本気でそう思いたくなるくらいひどい変貌ぶりだ。
「前はぜんぜん違う見た目だったんです。二人とも黒髪で、ダイチは制服をきちんと着て真面目な雰囲気があって。運動するソラはジャージに青や緑のTシャツをよく着てました」
 双子と出会ったのは交番で立番をしていたときだ。四月に中学生になったばかりの双子はいつも遅刻ぎりぎりの時刻に交番前を駆けていた。
 おれが「おはよう」「いってらっしゃい」と声をかけると、双子も「おはようございます」「いってきまーす」と返事をしてくれて。そのうち、ちょっとした会話をするようになった。
 どちらかというと物静かな生徒だと思う。大勢でわいわいするより、マイペースで地道に勉強することを好んでいた。しばらく会わない時期があったけど、おれの勤務態勢が変わったせいだと思っていた。
 そして六月中旬。突然こうなった。
「母親が二人を連れて交番にきたんです。こいつらを牢屋にぶちこんでくれって。学食の件は母親が学校に呼び出されて代金を払ったそうですが、二人は授業を入れ替わったり教員をからかったり、いたずらを続けました。他にもコンビニのレジでもめてトラブルを起こして」
 話すうちに、白い光に照らされた交番での一幕が脳裏に蘇った。
 澄んだ風の吹く、夕方の遅い時間のことだ。机を挟んで母親が座り、少し後ろにパイプ椅子を並べて双子が座ると、その一角はすっかり窮屈になっていた。
 おれの上司の井野いの巡査長はドアの横に立って置物のように気配を消していた。制服警官二人が正面に座ると圧迫感がある。女性の相談者を怖がらせないための配慮だ。新人のおれに勉強させる意図もあったんだろうけど。
 双子の母親はひどく疲れた顔をしていた。年齢は三十代後半。衣料品店と清掃の仕事を掛け持ちしていて、身なりには気をつけているようだけど、髪は乱れ、化粧の下から濃いクマと疲労が滲んでいた。
 事情を話し終えたあと、彼女はぽつりとこぼした。
「母親だから、だめなんでしょうか」
 乾いた目を向けられて、おれは固まってしまった。
 彼女はずっと年上で立派に働いている。人生経験も社会経験も豊富だ。社会に出たばかりのおれがいうことなんて吹いたら飛ぶほど薄っぺらだ。
 助けを求めてドアの横に立つ井野巡査長を見たけど、先輩はぴくりとも表情を動かさなかった。それどころか、自分で対処しろ、とばかりに睨んできた。
「いくらいっても聞かないんです。男親が叱ったら違うのかもしれません。でもうちはいないから……もうどうしたらいいのか」
 母親は声を震わせて、額が机につくほど深く頭を下げた。
「警察から厳しくいってください。牢屋にぶちこんでください。そしたら目が覚めるでしょ。どうか、お願いします」
 小さな背中がさらに小さくなるのを見て、胸が痛くなった。双子が憎くていっているんじゃない。仕事と生活に追われ、心身ともに限界なんだ。
 だけどおれは、はい、わかりました、とうなずけなかった。ばかみたいな派手なオレンジ色の頭をした双子が、ぎゅっと唇を噛んでうつむくのが見えたから。
 おれは双子に顔を向けた。
「お母さんのこんな姿が見たくて騒ぎを起こしたのか? そうじゃないよな。怒らないから聞かせてくれ。どうしてこんなことをしようと思ったんだ」
 優しく語りかけたことを、今はちょっと後悔している。
 とたんに双子は舌を突き出し、白目を剥き、悪魔のような形相になった。
「いっつも名前間違えられてムカつくんだよ、ばーか!」
「どいつもこいつも間違えやがって。だったら、どっちがどっちでもカンケーないだろ、あーほ!」
 母親が「あんたたち」と鋭い声をあげたが、双子の勢いは止まらなかった。
「なら、オレがダイチかソラか、わかる?」
 母親は怯んだように息をのんだ。
「ほらな、わかんねーんだ。まじうざい」
「そ、そんな見た目じゃわからないわよ。目の下のホクロだってダイチにしかなかったのに、ソラが書きたしてるじゃない」
 双子の一人が両手を銃のように構えて母親を指した。
「そういうとこだぜマザー、ホクロないとわからないとかさあ」
「この……ばか息子、どうしてふつうにしてられないの!」
「んだとクソババア」
 三人がいっせいに立ち上がり、取っ組み合いを始めた。おれは慌てて机を回り込んだ。親子の間に割って入ったものの、手を出すわけにはいかない。「落ち着いて」「話し合いましょう」というのがやっとで、緩衝材のプチプチみたいにもみくちゃにされた。
「わかりました、おれがなんとかしますから!」
 気がつくと、おれは叫んでいた。
「お母さんが大変なのわかります、でもダイチとソラが苦しそうなのもわかるから」
 わかる、なんて気安くいうものじゃない。口にしてからよくなかったと思ったけど反省はあとだ。拙くても今は伝えたかった。
「二人がこんなことをするのには、わけがあるはずです。腹が立つのはおれも一緒です、でも怒るだけじゃ本当のことはわからないから」
「なら、当ててみろよ」
 おれの胴のあたりから声が響いた。
「どっちがダイチで、どっちがソラか。あんたが当てたらもとに戻ってやるよ」
 オレンジ頭の少年が、新しいおもちゃを見つけたみたいに目を光らせた。

「そういうわけで、二人をもとに戻すには名前を当てなきゃいけないんです」
 当時のやりとりをできるだけ正確に伝えて、おれは説明を終えた。
 双子が荒れるのもわからなくはない。二人が暮らすあたりは小学校と中学校の学区が違う。仲のいい友人と引き離され、知らない人間関係の中に投げ込まれたような状況だ。急激な環境の変化は誰にとってもプレッシャーだ。双子は珍しいし、毎日のように名前を間違えられただろう。母親さえも多忙で自分たちを取り違える。『自分』を認識してもらえないもどかしさと苛立ちがあったのは想像できた。
 自分でもばかだと思うよ。おれが首をつっこんでどうにかなる問題じゃない。警察官の職務からも逸脱している。だけど……必死に暮らしを立てているお母さんと、数ヶ月前までランドセルを背負っていた子どもを放り出すのは、なにか違う。そう思ってしまったんだ。
 その結果、頭を左右に振りながら変顔をする双子が目の前にいるわけだが。
 やっぱり判断を間違ったかもしれない。
「コンビニのトラブルというのは、どういったものだったんですか?」
 亘理さんに訊かれて、我に返った。
「セルフレジの使い方がわからなくて癇癪起こしたんです」
 双子の片方がムッとした顔になった。
「うぜーんだもん、あの機械」
「どんなところがうざかったのですか?」
「店員がいればピッだろ? けどさ、機械のやつ、うぜーんだよ。カードがどうの袋がどうの、しらねーっての」
 交番でも同じ話を聞いたけど、デジタル嫌いの高齢者みたいな言い分だ。
「使い方を聞けばいいだろ。いちいち店員とケンカしなくたって」
「ハッ、あっちが勝手にビビたんだ」
 双子は「あの店員まじうぜー」「ムカつくよな」と口をへの字にして不満を並べた。おれは切ないような、悲しい気持ちが込み上げて亘理さんに訴えた。
「かわいいやつらだったんですよ。ダイチは美術部、ソラは卓球部。どっちも部活が楽しいって話してくれて。勉強もできるんです。毎日、問題集とノートをぎっしりかばんに入れてて。見せてもらったら、紙が真っ黒になるくらい繰り返し練習してたんです。おれ、ちょっと感動したんですよね。まじめにコツコツって続かない人が多いでしょ。でもソラとダイチは小さいことを積み重ねられる、すごいやつらなんだなって。天然なところがあるけど素直でまじめで、これまで反抗なんて」
 一度もない、といいかけて、ふと赤い目で叫ぶ少年の姿が瞼に浮かんだ。
「どうかされましたか」
「そういえば一回だけ反抗っぽいことがあったなって。大した話じゃないんですけど、ソラはカステラが好きなんです。家じゃ滅多に食べられないごちそうで、風邪引いたときとかご褒美をもらえるときに絶対リクエストするくらいで」
 まだ五月、双子が〈第三のオレ〉になる前のことだ。非番で仕事を早くあがると、青いTシャツでスニーカーを履いたソラとすれ違った。ソラは赤い目をして、少し体調が悪そうだった。貰い物のカステラがあったから『カステラ食べるか?』と聞くと、ソラは急に怒って『嫌いだ、バカ!』と吐き捨てて去っていった。
 機嫌が悪かったんだろうと軽く流して、今まで思い出しもしなかった。だけど振り返って考えると前兆だったのかもしれない。
「あれが非行の始まりだったんですかね……」
 亘理さんは神妙にうなずいた。
「学校とコンビニでのトラブル。お母さんは家庭内での解決は難しいと判断されたんですね。失礼ですが、他のご親族へのご相談はされたのでしょうか」
 おれが答えていいことか迷い、オレンジ頭の二人を目顔で見た。
「なんだよ?」
「いや、おれが話すのは違うかなって」
「ハア?」
「ご親族で話し合いはしたのかって」
 双子の顔が見るからに不機嫌に歪んだ。
「イヤミだな。わかりやすくいえよ」
「そのままだろ?」
「だからゴシンゾクってなんだよ、ふつーにしゃべれよ!」
 そんなに怒ることか? おれは首をひねりながら聞き直した。
「お前たちの騒ぎのことで父親とか、じいちゃんばあちゃんと話し合ったか?」
 オレンジ頭たちは舌打ちした。
「んだよ、そんなことかよ」
「いねえよ、母ちゃんシングルマザーだもん」
 双子はつまらなそうに顔をそむけた。どうでもいい。くだらない。そんな声が聞こえてくるみたいだった。
 奇抜な色に頭髪を染めて、眉毛も細く剃って。二人とも別人のように変わってしまった。だけど双子の横顔には屈託なく笑っていた時の面影がある。
 おれは拳を握りしめた。まだ間に合うはずだ。
「よし、今日こそ当ててやる」
 双子をひたと見つめた。
 身長と体格は完全に同じ。顔立ちも同様で、小鼻の張り方や上瞼の丸みにわずかな差があるくらいだ。鏡写しにしたようなそっくりさに改めて驚かされる。
 向かって右のオレンジ頭は少し目が赤くて、腕に赤い湿疹がある。なにかにかぶれたのだろうか。もう一人は右よりふっくらしてる……気がする。眉毛の際にカミソリの傷、左手に虫刺されがあった。
 違いはあるけど、どれもダイチとソラを区別できるような特徴ではない。唯一の身体的特徴の差はダイチの右目の下にあったホクロだけど、今はソラが自分の顔に書きたしている。
 ……油性マジックで描いたのか? マジックなら不自然に色が黒いほうがソラってことにならないか。
「ブブー、時間切れ! へっぽこがまたハズしました!」
 双子が「〈第三のオレ〉サイキョー」とハイタッチする。
「くっそー」
 歯噛みしたとき、気遣わしげに亘理さんが見ていることに気がついた。おれは肩を落としていった。
「やっぱりむりですよね。じつの母親ですら見分けがつかないのに、たまに会うくらいのおれが当てようなんて」
「見分けられますよ」
「え?」
「一卵性双生児の場合、遺伝子は九九・九九パーセント同じです。顔認証システムでも一部の高度なものでなければ双子を判別できませんが、だからといって人間には見分けられないということではありません」
「亘理さんは見分けられるんですか?」
 亘理さんは憂いの漂う表情を浮かべた。
「できます。しかし私にはおいしいクロワッサンを作るほうが難しいのです。あんなにも美しく焼けたのに、なぜ『ふつう』といわれてしまったのでしょう」
「……根に持ってます?」
「とんでもない。福丸さんはダイチさんとソラさんの問題を解決しようとしている。一方、私はおいしいクロワッサンを焼くためのアドバイスをいただきたい。私たちは互いの困難を交換し、乗り越えることができると思いませんか」
 忘れたわけじゃない。ただ低く見積もってしまっていたのだ。この三つ揃いのスーツを着た英国紳士風のナイスミドルは、パンが絡むと人が変わるということを。
 でも断れない。魅力的すぎる提案だ。
「わかりました。その条件でお願いします」
 おれが了解すると、紳士は目尻の皺を深くした。
「では、この問題に解があることを示しましょう。クロワッサンへのアドバイスと引き替えに」

  3

 おれと亘理さんのやりとりを眺めていた双子は、不思議なものでも見るように揃って首を傾げた。一人が口を開いた。
「おっさん、オレたちを見分けられるっていった?」
「はい。福丸さんの代わりに私がお二人を見分けてもいいでしょうか」
「べつにいいよ、どうせむりっしょ」
 会ったばかりの他人に見分けられるはずがない。双子の余裕の態度からそう思っているのが読み取れた。
 おれは小声で亘理さんに尋ねた。
「本当にこんなにそっくりな双子を見分けることなんてできるんですか?」
「どんなに似ていようと構成は異なります。まさに『エウレカ』です」
「エウレカって店の名前の?」
「ええ。エウレカは『発見した』『わかった』という意味だと伝えましたが、紀元前三世紀頃に活躍したアルキメデスの言葉として広く知られています。王冠にまつわる大変面白い話があるのですが、ご存じでしょうか」
「なになに、どんな話?」
 双子の片方が食い気味に話に交じってきた。
「王が金細工師に純金の塊を渡して、王冠を作らせたのです。腕のよい職人で、それは立派な王冠ができたのですが、ある疑惑が囁かれます。金細工師が銀を加え、その分の純金を盗んだのではないか、というのです。そこで王はアルキメデスに真偽を確かめるよう命じます。ただし王冠を傷つけてはいけません。そこでアルキメデスは重さを比べましたが、王冠の重さは職人に渡された純金の重さとまったく同じでした」
「なんだ、本物か」
 つまらそうにいうので、おれはびっくりした。
「なにいってるんだ、重さが同じだけかもしれないだろ」
「ハア?」
 この様子、もしかして本気でわかってないか?
 少し考えて、身近なものにたとえた。
「たとえば『コーラだよ』ってペットボトル渡されたとするだろ。飲んでみたら、めんつゆのソーダ割りだったらどうだ。黒くて量が同じだからって同じ飲み物じゃないよな」
 双子はたっぷり三秒かかって、ハッと息をのんだ。二人とも味を想像したらしく、苦いものを口に放りこまれたみたいな表情になった。
「おえ、やべー」
「まじやべー」
「そういうこと。金塊と王冠の話も同じだよ」
「えっ、金塊ってめんつゆの味すんの?」
 がくっ、とその場に膝をつきそうになった。
「そうじゃなくて。コーラとめんつゆが同じ量あっても、ふたつは違うものだろ。だから重さが同じでも金と王冠は同じものとは限らないってこと」
 亘理さんがうなずいた。
「食べられない。匂いはない。様々な切り口から検証するのはよい試みですね。アルキメデスは体積に着目しました。当時から金と銀では体積が同じでも重さが違うことは知られていました。純金の密度は19.32g/cm3、銀は10.49g/cm3ですから、重さは約二倍。もし銀を純金と同じ重さにしようとしたら、およそ二倍の体積になります」
「ええと……?」
「体積とは、物の見た目の大きさです。もし王冠に銀がまぜられていたら、金塊よりも王冠のほうが大きくなっているのです。王冠を溶かして固め直すことができたら、体積を比べることで混ぜ物がされたか判断できます」
「ああ、そっか。だけど王冠を壊すのはだめでしたよね。紀元前じゃあレーザーで測ったり、非破壊検査機みたいので物質を検知したりできないですよね」
「うんち!?」
 すかさず双子の一人が叫んだ。何事かと思ったら、もう一人が「ちげーよ、けんち」とゲラゲラ笑った。こいつら、小学生か。
「まじめに聞けって」
 空気が読めないというか、その場に合った対応ができていないというか。双子の日常がちょっと心配になった。おれは亘理さんに視線を戻した。
「それで、どうなったんですか?」
「アルキメデスは王冠を壊さずに体積を調べる方法を見つけたのです」
「え、レーザーも非破壊検査機もないのに?」
 さすがにそれは、と喉まで言葉が出かかったけど、亘理さんの話はおれの想像を超えていた。
「答えは、お風呂です」
「風呂?」
「ある日、アルキメデスは風呂に入り、湯船からお湯が溢れるのを目にして気づいたのです。溢れたお湯の体積は湯の中に入った自身の体の体積に等しい、と。その瞬間、彼は『エウレカ!』と叫んだそうです」
 諸説ありますが、と言葉が続く。
「この発見をもとに、アルキメデスは浮力の原理を用いて王冠の問題を解決したと考えられます。すなわち天秤の一方に王冠を、もう一方には金塊を吊して水に沈めたのです。体積が同じであれば天秤は釣り合いますが、そうでなければ天秤は傾き、銀が混ざっている証明になります」
「そんなふうにわかるんですか」
 目からウロコが落ちるみたいだった。
 なんてことのない日常のワンシーンからこんな発見ができるなんて。考え方が柔らかくて、応用して形にする力がある。本当の賢さとはこういうことをいうんだろう。すごい発見をして風呂場で『エウレカ!』と叫ぶ人間臭いところ好感が持てた。漠然と現代人のほうが賢い気がしていた自分が恥ずかしくなった。
 すっかり感じ入っていると、双子の一人が怯えた様子で声を震わせた。
「つまり……オレたちを水に沈めるってこと!?」
「なんでそうなるんだよ」
「筋肉、脂肪、骨密度など個人差があるので可能性はありますが、体内の水分量と呼吸やガスが影響して難しそうですね」
「こわっ、なんてこというんですか」
 思わず亘理さんにもつっこみを入れてしまった。
 亘理さんとしては純粋な気持ちで現実的ではない理由を挙げたんだろうけど、ときどき、ぎょっとさせられる。
「大丈夫、怖い人じゃないから」
 おれは双子にフォローを入れながら、変な人だけど、と心の中で付け加えた。
「もちろん〈第三のオレ〉さんを水に沈める必要はありません。私がいいたいのは、いかに比べようがなく思えても方法はあるということです。あなた方も例外ではありません。三つの質問に答えていただけたら、お二人の名前を当てましょう」
「は? たった三つ?」
「わかりっこないない」
 双子が鼻で笑った。
 おれも疑問がないわけじゃない。だけどそれ以上に亘理さんを信じていた。
「二人とも正直に答えるんだぞ」
 おれが釘を刺すと、オレンジ頭の中学生たちは腕組みして胸をそらした。
「ソラはどっちとか聞くの、ナシだからな」
 ぴりっと緊張した空気の中、亘理さんが口を開いた。
「それではさっそく一つ目の質問です。お二人はここに来る前、何をしていましたか。詳しく教えてください」
「話すほどのことはねーよ」
「そこをぜひ。発表するのはお一人で構いません。別々に答えていただくと行動から名前を特定できてしまうかもしれないので」
「いや、ホントにつまんねー話だから。オレたち資料室のそうじしてた」
 うん、ともう一人が話を引き取った。
「反省文だったけど、サボりまくったら、そうじで許すって先生が。今週はずっと資料室。ほこりがやべーの。古い紙きたねーし。手とか目とかかゆくて」
 まじそれな、と双子が二人で話を進めるので、おれは割って入った。
「待った、反省文ってなんの?」
「〈第三のオレ〉のアレコレだよ」
 おれはうなった。交番に連れてこられてからトラブルを聞かなくなったと思ったけど、校内ではあいかわらずだったらしい。
「ありがとうございます。参考になりました」
 亘理さんがいうと、双子の右側が顔をしかめた。
「こんな話でいいの?」
「ええ。次の質問です。勉強は好きですか?」
「嫌いだね」
 異口同音に双子が即答した。「なにいってるか、わかんねーし」「つまんねーよな」と不満が続くのを聞いて、おれは軽い衝撃を受けた。
「いつから? 教科書とか参考書とか、いつもかばんに入れてただろ」
「全部入れとけば、忘れ物しねーから」
「だけど二人とも勉強好きだったよな」
 ぶはっ、と双子は吹き出して笑った。
「ないない、ずっと嫌いさ。オレたちバカだから」
「そーそー、試験で二十点以上取ったことない」
 おれはあっけにとられた。
 真っ黒になるほど書き取り練習をしたノート。びっしりと解答が書き込まれた問題集。双子のかばんには努力の結晶がたくさん詰まっていた。
「がんばってただろ、あんなに一所懸命。好きじゃないとあんなこと」
「うぜえ」
 冷ややかな目で刺すようにいわれ、おれは言葉を失った。
 双子はいつも楽しそうにしていた。少なくとも誰かに勉強を強要されて、仕方なくやっていたようには見えなかった。
「それでは三つ目、これが最後の質問です。とても大事な質問ですので、正直に答えてください」
 亘理さんの真剣な顔に双子よりおれのほうが身構えてしまった。さっきの質問みたいに双子の知らない一面が出てくるかもしれない。
 固唾をのんで見守っていると、亘理さんが慎重に切り出した。
「パンはお好きですか」
 ぱん。パン? パンっていったか、この人。
 我が耳を疑い、頭の中で言葉を反芻して、おれは驚愕した。
 大事な三つ目の質問がパン! そりゃあ亘理さんにとっては世界一重要なことだろうけど、間違いなく今聞くことじゃない。
 紳士の肩を掴んで揺さぶりたくなったとき、双子が答えた。
「好き!」
「……嫌い」
 おれは意外な思いで双子を見た。
 答えが割れた。考え方どころか呼吸までぴったり合った二人が初めて正反対の意見を口にした。これはひょっとしたら、ひょっとするぞ。
 初めて双子を見分ける手がかりを掴んだ気がした。糸みたいに細くて頼りないけど、これを突破口にしてダイチとソラを見分けられるかもしれない。
「やはりお二人はクロワッサンのようですね」
 唐突に深い感動のこもった声が響いた。
 おれは声のほうを見て、ぎょっとした。
 亘理さんは白い手袋をはめて、クロワッサンを載せたトレイを手にしていた。
 いつの間に。いや、それ以前にだ。
「なんですか急に。えっ、クロワッサン?」
「おわかりになりませんか」
 驚いた様子で尋ね返されて、おれは目をしばたたいた。
 この流れでクロワッサンが出てきたことを理解できる人は世界中探したって、たぶんいない。
 亘理さんはしばらく理知的な眼差しをクロワッサンに注ぎ、目を閉じた。
「わかりました。では結論からお話しましょう」
 そういって手のひらを上にして、並んで立つ双子――向かって右を指した。
「あなたがダイチさん。そしてお隣がソラさんです」
 一瞬、水を打ったようにその場が静まり返った。
「ハ、ハア!?」
「な……テキトーいうな!」
 明らかに動揺した様子で双子が腕をバタバタさせた。
「根拠はあります。ダイチさん、目が少し充血していますね。そして手のかぶれ。資料室を掃除してから症状が出たのではないですか」
 名指しされた双子の右側がさっと手を体のうしろに隠した。
 おれは小声で亘理さんに尋ねた。
「あの、一卵性の双子は遺伝子が九九・九九パーセント同じなんですよね。それならダイチもソラもアレルギーなんじゃあ」
「アレルギーは遺伝的要因に加え、環境要因が大きく関係します。一卵性双生児であってもアレルギーになる人とそうでない人がいるんですよ」
「そうなんですか?」
「たとえば、パン職人は喘息や小麦アレルギーを患う人が多いことが知られています。小麦粉をこね、打ち粉などで舞った粉を吸い、酵母に含まれるアレルゲンに長期間晒されるためです。裏を返せば、そうしたものに触れなければ発症リスクは下がり、いつか発症しても軽度ですむかもしれません。これが環境要因です」
「ああ、花粉症みたいなかんじですね」
 内地ではスギの花粉症がよく取り上げられるけど、北海道ではあまり聞かない。スギの木が少ないからだ。アレルギーになりやすい体質の人でも、スギ花粉に触れなければスギの花粉症になることはないんだろう。
「双子でも一人がパン職人、もう一人が小麦粉と縁がない職業に就いたら、小麦アレルギーになるのはパン職人になったほうだけ……ってわけですね」
「おっしゃるとおりです。職業は極端な例ですが、ちょっとした生活習慣の違いからアレルギーを発症することがあります」
 人によって様々ですが、と前置いて亘理さんは話を続けた。
「未成年でアレルギーが出た場合、喘息やアトピー、花粉症など、他の疾患を併発することが多いと聞きます。ダイチさん、あなたはダニや埃以外に食べ物でアレルギーをお持ちですよね」
 オレンジ頭の少年は目をまん丸にして、呆けた顔で答えた。
「卵アレルギー。子どものとき、卵が好きで。オレだけよく食べてたら、なった」
「じゃあ、お前はダイチなんだな」
 おれの言葉に、双子の右側ことダイチがこくりとうなずいた。
「すっげー」
 隣のソラが賞賛の目で亘理さんを見た。おれも同じ気持ちだ。たった三つの質問で本当にダイチとソラを見分けてしまうなんて、さすが亘理さんだ。
「お前たち、約束は忘れてないな。これで〈第三のオレ〉は終わり。悪ふざけはなし、髪の色も戻すんだ」
 万事解決だ。おれが晴れ晴れとしていったとき、亘理さんがかぶりを振った。
「いえ、肝心の話はこれからです」
「え?」
「お二人は〈第三のオレ〉になる以前から入れ替わってますね」

  4

「クロワッサン」
 吐息にのせるようにして囁き、亘理さんは目を伏せた。
「もし世界一の香りのパンを決めるのなら、頂点に輝くのは間違いなくクロワッサンでしょう。こんがり焼けたクラストから漂うナッツやチョコレートを思わせる香ばしさ。酵母でゆるやかに熟成したクラムのまろやかで甘い芳香。そして心綻ぶ濃密なバターの香りには、誰もがうっとりしてしまうことでしょう。しかしその魅力は香りに留まりません」
 白い手袋をはめた手がトレイにのったクロワッサンを示した。
「この表面をご覧ください。繊細な層が重なっていますね。薄く伸ばしたバターをパン生地で包み、折り重ねることでクロワッサン独特の食感が生まれますが、ここに数学の神秘が隠れているのです。なんと、クロワッサンの食感と風味を決めるのは生地を折る回数なのです」
 声に熱が帯びて、やや早口になっていく。
「生地を三つ折りにして冷やし、同じ作業を二回繰り返せば二十七層の生地に。四つ折り二回なら十六層。折る回数が少なければザクザクとした食感になりますが、食べ応えが出すぎてしまう。かといって多すぎれば生地とバターが馴染んでパンのような食感になります。三の三乗か四の二乗か、二と三の二乗、思い切って三の四乗? おいしく美しい数を持つクロワッサンにはいつも惑わされてしまう」
 亘理さん――いや、パン屋の紳士は、高価な美術品のように掲げたクロワッサンを前に悩ましげな吐息をもらした。
 そうだった、こういう人だった。
 三つ揃いスーツが似合う、英国紳士風のナイスミドル。理知的で物腰も柔らかい、話のわかる人だ。しかし、この風貌に騙されてはいけない。
 この人はパンを愛しすぎるあまり、なにもかもがパンと結びついている。
「クロワッサンのことはいいんで、話を戻してください」
 おれは軌道修正を図った。
「ダイチさんとソラさんにも通じる点ですから、まずクロワッサンの魅力を――」
「最後にお願いします!」
 元気よくハキハキいって、勢いに任せてたたみかける。
「ダイチとソラが前から入れ替わってたって、どういうことです? それも〈第三のオレ〉になる前からって」
 紳士は名残惜しそうにクロワッサンを見つめていたけど、トレイを目線の高さから下ろしてくれた。
「ソラさんの好物はカステラでしたね。家では滅多に食べられないごちそうで、風邪を引いたときやご褒美のときに必ずリクエストするほど好きだった」
「え? ええ」
「では福丸さんが五月に会ったソラさんはなぜ『嫌い』だといったのでしょう」
「そういう気分じゃなかったんじゃないですか?」
 答えてから自分の言葉の矛盾に気がついた。
「風邪のときでも食べたいくらい好きなら『いらない』とか『持って帰る』っていいそうですね」
 だけどあのときのソラは、すごく怒った様子で『嫌い』といった。
「そもそもカステラは中学生のお小遣いでも買えるはずです。なぜソラさんは滅多に食べられないのでしょう。禁じられてはいない、しかし特別なときにしか食べられないという制限が不可解に思えました」
 好物の話を聞いたときは気づかなかったけど、よく考えるとおかしな状況だ。
「いわれてみれば変ですね」
「福丸さんは相手がソラさんだと思った理由はなんでしょうか」
「そりゃあ、青いTシャツを着てたから……」
 はっとして、息をのんだ。それだけだ。青や緑のTシャツをよく着ていたのはソラだから、ソラだと思った。ホクロがあったかは思い出せない。
 おれの表情から察したのか、亘理さんは小さくうなずいた。
「カステラが好物の人物と『嫌い』といった人物が別であれば、矛盾はありません。五月に会ったのはソラさんではなく、ダイチさんだった。そう考えると『嫌い』といった理由や不可解な制限について、ある仮説が立ちます」
 亘理さんは双子を見た。
「ダイチさんには食物アレルギーがある。だから『嫌い』といった。家での制限は食べすぎるとソラさんも発症するおそれがあるからでしょう。カステラに多く入っているのは卵と小麦です。パンにもよく使う食材ですから、アレルギーがあるなら慎重な返答になると思いました」
「だから三つの目の質問でパンのことを訊いたんですか」
「ええ。先に述べたとおり、未成年のアレルギー症状は一つではなく、アトピーなど他の疾患が併発する傾向があります。ダイチさんだけが目や手が赤くなっているのもアレルギー症状の可能性が高いと判断しました」
 おれは舌を巻いた。いつダイチのアレルギーに気づいたのか不思議だったけど、好物のちょっとした話からここまで読み解いていたのだ。
「お二人は六月中旬ではなく、五月から入れ替わっていたんですね」
 双子は気まずそうに視線を逸らした。そんな反応さえ予想していたのか、クロワッサンを手にした紳士は推理を続けた。
「ここで新たな疑問が生じます。以前から入れ替わっていたなら、なぜ六月に〈第三のオレ〉が誕生したのでしょう」
「誰も双子を見分けられないからですよね。ダイチとソラは間違われてばかりで、それで腹を立てて」
 おれが状況を確認すると、紳士は首を横に振った。
「奇妙なのはその点です」
「え?」
「お二人は〈第三のオレ〉を名乗り、授業を入れ替わり、教員にいたずらをした。その結果、保護者が呼び出されたそうですが、なぜ入れ替わっていることを知られたのでしょう。こんなにもそっくりな外見をしているのに」
 おれは雷に打たれたような衝撃を覚えた。
 髪を短く刈ってオレンジ色に染めて、顔立ちどころか目の下のホクロまで書きたしている。こんなに瓜二つでは入れ替わっているかどうかなんて他人にわかるはずがない。それならなぜ、入れ替わりがバレたのか。
「クラスメイトには正体を明かしているのではないですか。その会話を教員が耳にしたか、クラスの誰かが教員に伝えたことでお母様に連絡がいってしまった。違いますか?」
 双子は無言だった。眉間に深い皺が刻まれ、目つきが鋭くなる。
 おれは状況を整理するので頭の中がいっぱいだった。
 ダイチとソラは周囲への反発から〈第三のオレ〉になったはずだ。だけど双子は以前から入れ替わっていて、周囲も入れ替わりを承知していた。
『いつも間違えられてムカつく』『どいつもこいつも間違えやがって』
 交番で語ったあの言葉は嘘だったのだ。
「なんでそんな嘘を」
 わけがわからなくなって双子を見つめた。ダイチとソラは唇をきつく引き結んで、石のように黙っている。
「セルフレジが使いにくかったと話してくれましたね。今回が初めてですか」
 亘理さんが穏やかに尋ねる。
「いつも遅刻ぎりぎりに学校へ向かっていたそうですが、朝の準備が大変だったのでしょうか」
 双子はうつむいて答えない。
「では学校生活はいかがでしょう。好きな科目は」
「るせーなっ!」
 いきなり、ソラが怒りを爆発させた。
「勉強なんてどうでもいいだろ。〈第三のオレ〉は人気者なんだよ。面白くて、みんな笑ってくれる」
 必死さが滲む表情に胸がひやりとした。
「人気者になる必要があるのですか?」
 双子が「ハア!?」と大声を出す。痛いところを衝かれ、それ以上聞かれたくないと叫んでいるみたいだった。
 おれは、なにを見落とした?
 ダイチとソラは目立つ生徒ではなかった。スポーツや容姿で人気を集めるタイプでも話術に長けたタイプでもない。マイペースにのびのびしていると思っていた。そんな双子が、ある日突然、奇抜な容姿に変わった。
「いじめられてるのか」
 たまらず言葉を絞り出すと、ソラが目を吊り上げた。
「ちげえ!」
「だったらなんで急にそんな恰好になるんだよ。おかしいだろ、嘘ついて、まわりの人を困らせて。そんなことするやつじゃなかっただろ。勉強だってあんなにがんばって――」
「わかんねーんだよ!」
 ダイチが怒鳴った。
 その顔を見て、おれはなにもいえなくなった。怒鳴ったのに今にも泣きそうな顔をして唇が震えている。怒り。憎しみ。失望。ぐちゃぐちゃの感情で押し潰されそうになっているみたいだった。
「わかんねーんだよ、がんばっても、わかんねー……」
 ダイチが苦しそうに吐露する。
 かける言葉を見つけられずにいると、亘理さんが静かにいった。
「複雑なことを理解するのが苦手なんですね。授業の内容も、コンビニのレジなど操作の多いものにも混乱してしまう」
 不安を包みこむような声だった。その穏やかな口調を聞いて、亘理さんにはおれには見えていないものが見えているのだとわかった。
 ソラがダイチの肩に手をおいた。途切れた兄弟の言葉を繋ぐように話を続ける。
「昔から、わかんねえこと多いんだ。でもさ、親も先生も元気でいいねって。それが中学になったら……クラスの人となんか話が合わなくて。授業もわかんねえの。わかんねえのに、みんなふつうに点取ってて。やべーって思って、死ぬほど勉強した。したけど、小テストが一、二点ばっかなんだよ、うける」
 ソラは乾いた笑いを浮かべたが、その笑みはもろく顔から剥がれ落ちた。
「ふつうわかるだろっていわれるんだ。簡単だ。誰でもできる。サボってるんだろって。サボってねーって。ダイチも同じでさ。だから二回聞いたらわかるかもって考えて。五月に何回か授業代わってみた」
 おれの脳裏に青いTシャツを着た中学生の姿が浮かんだ。
「カステラの話をした日がそうだな。あれはお前じゃなくてダイチだった」
 ダイチがうなずいた。
「ソラの授業に出てた。でもぜんぜんだめ、二回聞いてもわかんなかった。おかしいよな、なんでみんな一回でわかるんだ? ふつーにわかんねーって」
 うざい。やばい。すげー。双子と話すと、三つの単語ばかり返ってくる。年齢のわりに言葉がつたない。『ご親族』が理解できず、たとえ話を聞いて自分たちも水に沈められると勘違いする。同じ言葉を話しているのに会話がうまく噛み合わない。
 とぼけた性格だと思っていたけど、たぶんそうじゃないんだ。
「六月の中間テスト、ボロボロだったんだ。さすがにクラスで浮いて、学校いるのやべーって思ったんだ。でも気づいたんだ。だったらサボればよくない?」
 なあ、とソラがダイチに水を向けた。
「うん。サボれば点が悪いのはふつうだ。このカッコでふざけたらさ、みんな笑うんだ。空気読めないのも、やらかしたときも、しょーがねーなって許してもらえる。ほっとした。まだ学校にいていいんだなって」
「学校、好きだよ。楽しい。学校行けば母ちゃんも安心するしさ」
 おれの胸にざらりとした苦いものが広がった。
「お二人が〈第三のオレ〉になったのは、そういう理由だったのですね」
 亘理さんが確認すると、双子は明るく笑った。
「ああ、だからこれでいいんだ。おれたち、バカだから」
「バカは笑いをとるしかねーよ」
 二人が明るく笑うほど、胸が苦しくなる。
 そんなわけないだろ。そういいたいのに言葉が喉でつかえた。
 そんな方法間違ってる? がんばれば同級生と同じようにできる? あれ以上、なにをがんばれっていうんだ。
 真っ黒になるまで繰り返し勉強したノート。びっしり書き込みがされた問題集。あんなに一所懸命勉強しても二人は赤点だった。
 誰にでもできる。簡単だ。努力が足りない。ふつうわかるだろ。なんで一回でわからないんだ――ふつうに生活しているだけで、そんな言葉をぶつけられる。
 学校だけじゃない。コンビニのレジで。友だちとの会話で。あとちょっとが理解できない。がんばって世の中の『ふつう』に合わせようとしているのに届かない。
 努力の問題じゃない。努力しても超えられない壁があるのだ。だから双子は〈第三のオレ〉になり、やっと自分たちの居場所を手に入れた。だとしたら、おれになにがいえる?
「この頃、老眼が入ってきたので私は眼鏡をかけます」
 ぽん、と亘理さんの声が響いた。
「電車に乗るときは乗り換えアプリを使いますね。車のときはナビが不可欠です」
 なんの話だ?
 おれと双子がきょとんとしていると、亘理さんは穏やかに語った。
「眼鏡をかけても差別されません。乗り換えアプリを使っても笑われることはありません。誰もが不便を避け、足りないものを補って暮らしている。ダイチさんとソラさんの困り事も同じです。ツールや支援があれば暮らしやすくなります」
 おれは目をみはった。
 亘理さんの考え方が、雪融け水みたいに淀んだ思考を押し流していく。
 双子は悲しそうに笑った。
「なにいってるか、よくわかんねー」
「オレたち、学校の勉強についてけないんだよ。ふつうに話してても、わかんねー言葉多いし、空気読めねーし。忘れ物とか、時間割とか、むずくて」
「それなら学校や物事の進め方があなた方に合っていないのかもしれません。たとえ話をしましょう。お二人は眼鏡をかけて、くらくらしたことはありますか?」
「ある。じいさんのメガネ」
「目の前がぐにゃぐにゃで、なんも見えなかった」
「それはあなた方に合わない眼鏡です。お祖父さんは視力を調べ、自分に合ったレンズを見つけて眼鏡を作りました。ですから、お二人に合わないのは当然です。じつは学び方も眼鏡と同じなんですよ」
「そうなの?」
「ええ。あなた方はなにが得意で、なにが苦手なのかを調べます。それからレンズを選ぶように学びやすい学習方法やサポートする方法を探すのです。まずはお母さんと先生に相談してみましょう」
 ダイチとソラは顔を見合わせた。解決策があることは伝わったはずだけど、双子の表情は曇ったままだ。
「どうした、なにか気になることがあるのか」
「母ちゃん仕事がんばってるんだ。オレたちのためだ。それなのに……」
「オレたちが本物のバカだって知ったら、かわいそうだ」
 おれは頬を叩かれたみたいな衝撃を受けた。同時に腑に落ちた。
 ああ、これだ。これが〈第三のオレ〉になった本当の理由だったんだ。
 ウケを狙ってばかなことをする。本当はやればできるけど、やらない。そういうスタンスでいれば実力は未知数のままだ。
 どうせ母親を傷つけてしまうなら『ふつうの子』のふりをしよう。なんの解決にもならない、それでも双子が精一杯考えた、母親への想い。
「おれが一緒に行く。お前たちが困っていることをお母さんに話そう。お母さん、びっくりするかもしれないけど、やってみよう」
 おれは静かにいった。だけど「あとな」と続けたとき、押さえきれない感情が声に滲んだ。
「本物のバカっていうのは、思いやりがなくて、考える力がないやつのことだ。お前たちは違う。どうにかしようとして自分たちで考えてがんばった。お母さんが悲しまないように気にかけた。だからダイチもソラもバカじゃない。二度と自分たちのことをバカっていうな」
 ダイチとソラはびっくりした顔で視線を交わした。それから照れたように口許を緩めて「やべーな」とおれに笑った。

 もうしねーよ。双子はとても軽い口調で〈第三のオレ〉の解散を約束した。
 オレンジ色の頭髪でいかにも不良然とした二人だけど、その笑顔には以前のあどけなさが戻っていた。
 アカプラのほうへ去っていく二人を見送って、おれは亘理さんに頭を下げた。
「ありがとうございました。おれ、まだまだですね」
 パン屋の紳士は怪訝な顔になった。
「まだまだ、とは」
「夜のパトロールに出ると繁華街に未成年がいるんです。学校に通えないとか家庭環境が悪いとか理由はいろいろだけど、そういう子の中にはダイチとソラと同じ悩みを抱えてる子が結構いて」
 考えることが苦手なところを悪い輩につけこまれ、騙され、傷つけられ、犯罪に手を貸してしまうケースもある。そうした子たちは問題を起こした後に医療機関や公的機関につながり、初めて自分の特性を知るようだった。
「親や学校が気づかなくても、気にかける大人がいたら、もっと違う道があったんじゃないかって思ってたんです。おれもその大人の一人で警察官なのに……ダイチとソラの特性が見えてなかった」
「人の発達は白黒で語れません。白に近い人がいれば、濃いグレーの人もいる。一目でわからないことだからこそ判断が難しい。ダイチさんとソラさんもきちんと調べてみなければ、本当のところはわかりません」
 それに、と亘理さんは言葉を続けた。
「福丸さんは充分できていると思いますよ。少なくとも二人の中学生があんなふうに慕っているのですから」
 おれは目をみはった。おちょくられるし、尊敬されてはいない。だけど嫌われていたら寄りつきもしないだろう。そう思うと少し肩の力が抜けた。
「困り事があるなら解決するのが大前提です。ですが、できないことがあるのは悪いことではないと思うのです」
「え?」
「あの八角塔、設計にはなかったのはご存じでしょうか?」
 亘理さんの視線の先には聳えるように立つ赤れんが庁舎があった。鮮やかな赤茶色の洋館の中央には八角塔が光を受けて輝いている。
「建物のシンボルですよね、焼失したとかじゃなくて?」
「前身にあたる開拓使札幌本庁舎には八角塔があるので、やはり載せようとなったのかもしれませんね。しかし設計にない増設のため、建物が重量で歪んだり塔が風で揺れたりして、ほどなくして撤去されたようです」
「知らなかった。ずっとこの姿だと思ってました」
 亘理さんによると、現在の形になったのは一九六八年の復元改修だという。昔からあるように感じるのも自然なことかもしれない。
「札幌にはこの町が生まれた頃に建てられた洋風建築がいくつか残っています。図面を外国から取り寄せたり、開拓使が招いたアメリカ人技術者たちが設計したりしたようですが、アメリカと札幌では気候も手に入る資材も異なります。できない。わからない。そんなことが数え切れないほどあったはずです」
 亘理さんは言葉をくぎり、思いを馳せるように赤れんが庁舎を見上げた。
「外国の技法を取り入れながら厳しい寒冷地に適した設計に変えたのは、日本人技術者です。そして実際に建てたのは棟梁たちでした。見たこともない西洋の意匠を再現し、手に入らないものを創意工夫で補う。できないことがあるから試行錯誤し、わからないことがあるから知恵を絞る。そうして、たくさんの洋風建築が建てられました。技術と知恵の積み重ねの先に、この風景があるのです」
 おれも庁舎を仰いだ。美しい赤茶色の外壁。青灰色の天然スレートの屋根は水面みたいなモザイク模様だ。注意深く見ると、窓の上に開拓使の象徴である五稜星、赤い星があった。
「できないことがあったから、新しく生まれるものがあるんですね」
 亘理さんがうなずいた。
「人も同じです。できないことに注目するのではなく、できるよう工夫することに目を向けてほしいのです。そこには素晴らしい可能性が詰まっています」
 亘理さんが人に向ける眼差しはとてもあたたかい。
「自分の特性を知り、知識や経験をクロワッサンの生地のように折り重ねていく。何度も失敗するでしょうし、うまく行かないこともあります。それでいいのです。どんな自分になりたいのかは、自分で決めていいのですから。ダイチさんとソラさん、お二人がすてきな人生を折り重ねていけるといいですね」
「はい」
 おれは心の底からそう願った。できないことを乗り越えて形作られたこの町のように、双子が双子らしく成長していく姿を思い描いた。
 赤れんが庁舎を見つめていると、視線を感じた。顔を向けると、亘理さんがトレイにのったクロワッサンを手にこちらを見つめていた。
「そろそろクロワッサンの宿命についてお教えいただけますか」
 表情は薄いけど、答えが知りたくてそわそわしているのが伝わってくる。
 いい話をしていると思ったら、パンへの愛が押さえきれなくなったらしい。
 しょうがない人だな、と内心で笑った。
「じゃあ教えますね」
 コホン、と咳払いして、少しもったいぶってから答えた。
「クロワッサンは焼きたてが一番おいしい!」
 亘理さんは目を丸くした。
「そんな、身も蓋もない」
「はい、身も蓋もないです。でもそうなんです」
 きっぱりといいきって、クロワッサンを指差した。
「亘理さんが試食したとき、焼きたてだったんじゃないですか? おれが食べたときは生地がバターとなじんでる感じがあったけど、焼きたてだとむしろおいしかったと思いますよ」
 湯気がたつほど熱いクロワッサンは、ちぎると蒸気と甘い香りが溢れ出す。サクサクと薄く弾ける層。中はふわっふわっで、じゅわっとバターが染み出す濃厚な味わいだ。ああー、想像しただけでよだれが出てくる。
 亘理さんは形のよい眉を少し寄せてパンを覗き込んだ。
「ということは、試食は冷めてからするのがベストでしょうか」
「そういう考え方もあるけど、おれはリベイクしたときがいいと思います」
 店で焼きたてを買うのは難しいし、冷めたクロワッサンはどうしても風味と食感が落ちる。家で焼き直して食べる人は多いはずだ。
「あとこのクロワッサン、バターの味が強いから生地を折る回数を減らしたほうがいいかもしれません。ザクザクした食べ応えとバターを楽しむパン。そういう見せ方のほうがこのクロワッサンはうまいですよ」
「素晴らしい」
 亘理さんが感銘を受けた様子でうなった。
 おれのアドバイスもなかなかのものだ、と鼻が高くなる。しかし。
「熱を加えることで再びおいしさを取り戻す。何度でもおいしく食べるチャンスを与えてくれるとは、クロワッサンはどこまで素晴らしいパンなのでしょうか」
 パン屋の紳士はおれではなくクロワッサンに賞賛の眼差しを向けたのだった。

  *

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