はじめて書いた小説『つぎはぐ、さんかく』(応募時のタイトルは「つぎはぐ△」)で第十一回ポプラ社小説新人賞を受賞し、デビューを果たした菰野江名。待望の第二作『さいわい住むと人のいう』は読者をどこに連れていくのか予想のつかない展開で、じっくりと登場人物の人生模様を堪能させる密度の高い長篇だ。
目次を開くと、「二〇二四年 青葉」「二〇〇四年 千絵」「一九八四年 桐子」「一九六四年 百合子」「二〇二四年 百合子」「二〇二四年 祐太郎」とあり、本作が視点人物を替えていく連作で、途中まで時間が遡る形式だと分かる。では、ここに名前を記された人物たちはどのような繫がりを持つのか。
第一章の視点人物、青葉は地方の町の市役所に勤務する青年。地域福祉課に異動となった彼は、民生委員から「今後お世話になることもあるかもしれないから」と、八十歳を超えた老姉妹を紹介される。青葉が「まさに御殿」と表現する豪邸に住む二人は、姉の香坂桐子が元教師で、地域には彼女を慕う元教え子やその家族がたくさんいるようだ。と聞くと優しく面倒見のよさそうな人物を想像するが、実際の桐子は表情が乏しく口調はそっけない。妹の百合子のほうが温和で愛想がよい印象だ。
出会ってからほどなく、青葉のもとに姉妹の訃報が届く。二人とも自宅でほぼ同時期に亡くなったのだという。事故や殺人の可能性はないらしいが、では何があったのか。そもそも姉妹には他に家族はいなかったのか。生前の桐子は「この家は、すべて私が働いて貯めたお金で建てたの」と言っていたが、一教師が豪奢な屋敷を建てるのに、どれくらいの苦労と工夫があったのか――。いくつもの謎を提示して第一章は幕を閉じる。
二十年前に遡る第二章では、暴力を振るう夫から逃れ、幼い子供を連れてこの町にやってきた女性と姉妹との出会いが描かれる。ここでも変わらず桐子はそっけなく百合子は温和で、二人はそれぞれのアプローチで親子を救う。このエピソードが挿入されるのには、ちょっとした理由がある。もちろん読めば分かる。
第三章、第四章でいよいよ二人の過去が明かされていく。じつは姉妹は戦争孤児で、いくつもの家庭をたらいまわしにされて窮屈な思いをしてきた。そのため桐子の中では、いつか姉妹二人で理想の家を持つ、ということが明確な目標となっていく。黙々と勉学に励む彼女だが、進学するには学費の問題がある。そもそも大学に行く女性が多くはなかった時代だ。意外にも七軒目の居候先の夫婦が大学進学を勧めてくれるのだが……。
戦後の日本を背景に描かれる姉妹の歴史に圧倒される。結婚するのが当たり前だった時代、桐子にとって幸せとは家庭を築くことではなく、自分と妹のために自立した居場所を作ることだった。百合子は望んではいなかった人生の選択を課せられるが、人に寄り添うなかで存外の平穏を見出していく。二人はまったく異なる道を歩んでいくのである。
「誰かのために」という思いは時に独善的で、その「誰か」の重荷となる。妹の幸福を祈る桐子の思いは、次第に姉妹の間に葛藤を生む。互いに思いやるからこそすれ違っていく二人の思いが丁寧に掘り下げられていく。こうした、家族のような近しい人同士の間に生じる複雑な心情を掬い上げるのが、著者は実に巧い。
一方、桐子が教師として人望を集めているのに、本人にその自覚がないのが愉快だ。本人は「自分と妹のため」に働いているのだが、結果的に多くの人々を救っているのだ。別段正義感が強いわけでも世の中の理不尽を正したいわけでもない。合理的な考え方の彼女は、単に状況を冷静に見つめ、建設的な対処法を提示しているだけだ。作中、ある人物が彼女について、「間違いを許さないのではなくて、どうしたら間違いじゃなくなるかを、一緒に考えてくれるような先生」と表現するが、まさにその通り。ふと、昨今のSNS等で散見される、他者の間違いを許さず叩き潰そうとする振る舞いと対照的だという印象を抱く。
タイトルの「さいわい住むと人のいう」は、いわずとしれたカール・ブッセのあの有名な詩の一部だ。作中でも〈山のあなたの空遠く『幸』住むと人のいふ〉と引用されている。山の向こう、遠い空の彼方まで行けば幸せがあると人はいう――それはつまり、現実の今ここには幸せがない、という意味を持つ。
これは、波乱に満ちた人生を辿った姉妹が、それぞれの道のりで山の向こうに辿り着いた物語でもある。山の向こうで二人それぞれに見えた景色は違ったかもしれない。それでも、幸せは共有できる。誰かと人生をともにすることの難しさと複雑さを浮き彫りにしながらも、誰かを求めること、繋がることの喜びを教えてくれる作品だ。
◆ プロフィール
瀧井朝世(たきい・あさよ)
ライター。さまざまな媒体で、作家インタビュー、書評などを担当。著書に、『偏愛読書トライアングル』(新潮社)、『あの人とあの本の話』(小学館)、『ほんのよもやま話 作家対談集』(文藝春秋)、監修に、「恋の絵本」シリーズ(岩崎書店)、編著に「キミの知らない 恋の物語」シリーズ(汐文社)などがある。