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紫蘭後宮仙女伝 時を駆ける偽仙女、孤独な王子に出会う

賢王と花仙の伝承

「だから! いったい貴様はどこの誰だと聞いているんだ!」
「だから! ここがどこかって聞いてるんだってば!」
 百花国ひゃっかこく後宮こうきゅうは、本来ならば男性立入禁止。妃と宮女と宦官かんがんのみの世俗から切り離された静かな場所なのだが、その日に限って物々しい雰囲気に包まれていた。
 先程から、宦官があちこちを走り回り、外部への出入り口は兵士により封鎖されている。他の場所ならば兵士が捜査を行うのだが後宮内ではそれもかなわず、必然的に捜査は去勢された男である宦官や女兵士により執り行われている。
 今日は半年に一度、妃が親族に会える日。ところが、母に会うために来臨した王太子の命が狙われたのである。正確には宮女が持ってきた湯呑に毒が仕込まれていたのだが、その宮女がどこの誰の差し金で毒を盛ったのかがわからず、とうとう兵士に連行されて後宮から摘まみ出されてしまった─ところが、それで話は終わらない。
 その王太子暗殺の計画を未遂に終わらせたのは、唐突な乱入者だったのだ。
 何故か毛糸玉を手に持ち、背中には矢筒に弓。意志の強そうな凜とした瞳が印象的な、まだ少女と言っても過言ではない娘が現れた。兵士でもなければ、宮女でも、ましてや妃でもない彼女が、何故か毒を盛った宮女を押し潰したのである。
 普通に考えれば、武器を携えた女が後宮にいれば王太子暗殺を企んだ容疑で、毒を盛った宮女と同じく兵士が連れていくべきなのだが、と宦官たちは困り果てた。
 王太子に毒を盛ろうとした宮女に関しては、身元が明らかなため兵詰所に連行して事情聴取ができる。だがこの不審者はどこの誰だかわからないために、兵士が引き取り拒否をした。後宮で下手に蜂の巣をつつくような真似をして厄介なことになるのをおそれたのだ。
 後宮は基本的には一部の例外を除いて・・・・・・・・・妃と宮女、宦官以外の存在を許さない、王のための箱庭のようなものだ。だから出入りは厳密に管理されているが、その分事件が発生すれば捜査にも時間がかかる。
 不審者が、国の現状を憂いた者たちが送り込んだ暗殺者だったら困るし、王の隠し子や愛妾だったらもっと困るからだ。
 引き取り拒否をされた不審者は、仕方なく宦官詰所に連行され、取り調べを受けることとなった。
 せめて身元だけでもわかればいいのだが、この不審者の言っていることはいちいち要領を得ないために、取り調べは難航。それらを行っている宦官たちはますます困惑していた。
「だから、私は草原で落とし穴に落ちて、気付いたらここにいたんだってば! いったい、ここはどこなの……!?」
 彼女は、ここが百花国の後宮だということすら、理解していなかった。
 宦官たちは現在席を外している上長の帰還を待ち望んだ。この訳のわからない女を強引にでも兵詰所に引き渡すか否か、判断しかねていたのだ。
(どうしてこうなったの……! おかしな夢を見たばっかりに……!)
 一方、宦官たちに取り囲まれて詰問されている少女は、必死で頭を搔きむしって叫びたいのを堪えていた。いくら説明しても、聞かれたことに答えても、この場にいる人たちは一向に信じてくれないからだ。正直、彼女にしてみても、彼らの言いたいことが全くわからなくてもどかしかった。
 なにを言っても「噓をつけ」と返されてしまうし、そもそもここがいったいどこかわからない。おまけにこの場所一帯から感じられる剣呑とした空気は、羊たちを狙いにきた狼や羊泥棒と対峙している時ともまったく違う、よそよそしい雰囲気。
 どう考えても、異端者である少女を排除しようとする空気であった。
(私だってこんなところに来たくて来た訳じゃないから早く出ていきたいけど、そもそもここはどこなんだろう。皆高そうな着物着てるし、さっき来た兵士以外武器も持ってないし……お金持ちって護身用の武器も持たないものなの……?)
 彼女は溜息がこぼれそうになるのを、歯を食いしばって耐えた。
 少女が宦官たちに伝えた言葉に、なにひとつ噓はない。ただ、彼女の言葉があまりに荒唐無稽で、誰ひとりとしてそれを信じられないだけである。
 全てのはじまりは、少女…… 紫蘭しらんが、都に出ていた父を出迎えた時まで遡らなければならない。

   *

 草を食む羊を追い立てるのは、もっぱら子供たちの仕事だ。力の強い男は羊を盗みにくる盗賊や狼、大鳥と戦うために、馬に乗って見張りをしている。
 女や幼い子供、足腰の悪い年寄りは、羊の毛を刈り、その毛を紡いで糸状にし、さらに繰って玉にする。玉にした糸ははたで織られて布になる。遊牧民である浮花族ふかぞくの着物は主に彼女たちが織った布でつくられている。
 羊たちの餌になる草を求めて大草原を旅するのが、浮花族の生活であった。
 その日、紫蘭は男たちに交じり馬に乗って見回りをしていた。
「この辺りは大鳥の巣があるって言っていたけれど、この分だったら羊たちを盗まれる心配もないか」
「そうだね」
 繁殖期であったら、遊牧している羊の群れの中に子羊が交ざるし、大鳥も雛を育てるため、餌を取りに襲撃してくることがある。だが幸いにもこの辺りを通り過ぎた時には繁殖期は過ぎ、大鳥の雛たちも巣立ったあとだったらしく、羊たちが襲われることはなかった。
 紫蘭は見張りを終えて、天幕に戻る。
 浮花族は移動した先に天幕を張り、そこで寝泊まりする。羊の骨ではりをつくり、羊の毛で織られた布を張った天幕は、夏は意外なほどに涼しく、冬は暖かい。
 その天幕の周りでは、放牧している羊たちの毛刈りが行われていた。
「ああ、紫蘭──。ちょっと助けておくれ」
 馬から下りた紫蘭に声をかけてくる者がいた。
「ええ? なあに?」
「あいつがまた、毛を刈らせてくれないんだよ。今日こそは刈っちまわないと、そろそろ移動する頃合いだしねえ」
「まあ! まだ終わってなかったの! ちょっと待ってね」
 馬に乗って走り回ったばかりだというのに、そのまま紫蘭は羊を追いかけてすっ飛んでいった。
「こらぁー、大人しく毛を刈らせなさい……!」
 問題の羊は毛をたっぷりと伸ばして、既にどこが肉でどこが毛かわからないほど丸々としていた。毛を刈られまいと逃げ続ける内に、その姿は球状に近付いていく。
「あーあー……あいつまだ毛を刈られるの嫌がってたんだ」
「紫蘭──、頑張ってー」
 皆から声援を投げかけられるが、ちっとも嬉しくない。
 あまりにもその羊の逃げ足が速いせいで、皆が早々に毛刈りを諦めてしまっていた。最初は数人がかりで追いかけていたのが、今は紫蘭のみ。しかし羊も毛を刈られるのを嫌がり続けたせいか、毛の重みに負けて俊敏だった足も徐々に遅くなりつつある。
 距離を詰めた紫蘭が力いっぱい飛びつくと、ようやく羊はべしゃんと草原に座り込んだ。その隙に毛刈りの刃を当てる。
「さあ、毛を刈ってさっぱりしましょうねえ……!」
「めぇぇぇぇぇぇ」
 羊はいななきを上げながらもようやく観念したかのように、紫蘭に毛を刈られはじめた。それを見ていた人々が、拍手を送る。
 毛を完全に刈られてすっきりした羊は、紫蘭から一目散に逃げていった。
 ひと仕事終えてすっきりした彼女が「ふうっ!」と額の汗を手で拭っていたところで、馬の蹄の音がした。
 既に見回りの皆は、それぞれの天幕へと散っていったあとだ。だが、この音が聞こえるということは。
 羊の毛をまとめながら、紫蘭は笑顔で近付いてきた馬上の人物に向かって挨拶をする。
「お帰りなさい!」
 馬に乗っているのは、族長と、その護衛を務める父である。
「やあ、ただいま。紫蘭。おや、あの問題児の毛刈りがやっと完了したか」
 逃げていった羊を眺めながら、紫蘭の父は微笑む。それにつられて紫蘭も笑う。
「そうなのよ! あいつちっとも毛を刈らせてくれなかったから。それよりも、都はどうだったの? お土産は?」
「ああ、ちょっとお待ち。族長と話を終えたら、すぐ戻るからね」
「はあい」
 そう素直に返事をして、父が族長の住む天幕へと向かっていくのを見送った。
 族長と父が百花国の首都、玫瑰まいかいに出かけるのは、浮花族の織った布を売るためである。夏の着衣には少々厚いが、冬には外套として重宝されているらしい。紫蘭は父から聞く玫瑰の話に、毎度興味津々であった。
 紫蘭は集めた羊の毛を、皆で使う毛の貯蔵用の天幕に置くと、そのまま自宅である天幕へと帰る。
 日が暮れる頃、戻ってきた父は酒を飲み、家族は蒸し麺をすすりながら、玫瑰の話に耳を傾ける。
「今年も玫瑰では、月季じゃこうばらが咲き乱れていたよ。どこもかしこも美しくてね」
「素敵ねえ……」
「賢王月季げっきの栄光が、まだ残っているんだねえ……」
 そう口を挟んだのは、紫蘭の祖母である。いつも玫瑰の話をするたびに、彼女はありがたそうに手を合わせるのだ。
「私たち浮花族は、賢王月季に助けられたようなものだからねえ……」
「おばあちゃん、いっつもその話するのねえ」
 紫蘭は呆れ返りながら、蒸し麺をすすった。彼女の態度を気に留めず、祖母は答える。
「そりゃそうさ。百花国も、賢王月季が王になるまでは、それはそれはひどい有り様だったんだから。都に住む人間以外は、皆家畜かなにかと同じ扱い……自分たち以外はみぃーんな力でねじ伏せるような、それはそれはひどいもんだったさ。浮花族だって、もうちょっとで草原を追われて、都で隷属させられていたかもしれないんだよぉ?」
「でも、それって昔の話でしょう?」
 紫蘭は正直、昔話にはあまり興味がない。しかし祖母はことあるごとに、その話を繰り返すのだ。既に紫蘭は耳にたこができるほど聞いているというのに。
「そりゃ紫蘭からしてみれば昔の話だろうさ。でもねえ……賢王月季と浮花族が第八花仙だいはちかせんの提案した調停を受けてくれたから、私たちは今もこうして草原で生活することができているんだよ」
 祖母の言葉に、紫蘭は少しだけ膨れっ面で蒸し麺をすすった。
(玫瑰の話を聞いていたのに、また中断されちゃった……おばあちゃん、いっつもこうなんだもんなあ……もっと話を聞きたかったのに)
 祖母のことは大好きだが、こういうところは好きじゃないと、紫蘭はむくれたまま麺を食べ終えた。
 百花国は、その昔、八人の花を司る仙人……通称花仙によりつくられた国ということになっている。彼らはひとまとめに八花仙と呼ばれている。
 そのため百花国の各地では、花仙信仰が強く根づいていて、あちこちに花仙を祀る廟や寺院がつくられている。その信仰の影響か、天にいる花仙が降り立って人間の手助けをしたという逸話はそこかしこに存在していて、商人とやり取りする時に時折耳にすることもある。
 今も首都、玫瑰では花仙への厚い信仰の一環として、八花仙を象徴する八種類の花が咲き誇るのを街のあらゆる場所で見ることができると父から聞いている。それ以上に咲き誇っているのが賢王月季に敬意を示す月李じゃこうばら ──別名月季花こうしんばら。花仙の花よりも国王の花が優先されることは他の時代でも例があまりなく、彼はそれだけ百花国の歴史の中でも、名君として知られているということだ。
 基本的に浮花族には玫瑰に住んでいる人々ほど花仙を信仰する習慣はないが、第八花仙だけはよく知られていた。
 第八花仙は元々狩りと戦の花仙として知られているが、浮花族を含め遊牧民族や騎馬民族に信仰されるようになったのは、つい百年ほど前からである。
 百花国で続いていた戦乱──異民族狩りを、第八花仙が調停した。賢王月季が王座に就いて以降、百花国では大きな戦乱は起こらず、浮花族も異民族のひとつとして、国に攻め滅ぼされるところだったのを、調停により自治権を得て今も平穏に生活ができている。
 昔からなにかあるごとに子世代、孫世代に言って聞かされている伝承である。それで祖母もなにかあるたびに第八花仙の話をしていたのだ。
 紫蘭の名前も、第八花仙を表す花の紫蘭から取られたものだ。紫色の花らしいが、残念ながら草原にはなく祖母の織った布の模様くらいでしか、見たことがない。
(おばあちゃんは信心深いからなあ……でも大昔の話じゃない)
 たびたび祖母は浮花族が百花国からどんなひどい扱いを受けていたのかという話をし、父が玫瑰に商売にいくことにあからさまに難色を示していた。もう時代は変わったというのに。
 でもよくも悪くも、第八花仙への信仰心が厚い祖母のおかげで、紫蘭は割と自由に生活ができていた。
 草原を求めて転々と移動する生活なのだから、騎馬は女子供でも推奨されていたが、いくら盗賊対策とはいえ、女が男たちに交ざって弓矢を携えて馬に乗ったり、刃物の使い方を覚えたりすることは、基本的に嫌がられる。
 でも祖母たちの年頃の人々は、皆口を揃えて言うのだ。
「できるんだったら、第八花仙様のように女でも弓矢も刃物も扱えたほうがいい。いつなにがあるのかわかったもんじゃないから」
 そんな信仰心の厚い人々のおかげで、紫蘭ははねっ返りだが、騎馬と弓矢を得意とする娘に成長した次第だ。
 夕食を終え、紫蘭は自分の寝床にもぞもぞと入りながら、天井を見た。
(おばあちゃんはあんまり好きじゃないみたいだけど、私もいつかは都に行ってみたいなあ……)
 日頃から草原を渡り歩いているため、人の手によって花が咲き誇っている場所というのを見てみたかった。父が玫瑰に行って買ってこなければ小麦粉も野菜も手に入らないため、都ではなにを食べているのかにも興味があった。まさか浮花族みたいに、羊の乳の発酵食や蒸し麺ばかり食べている訳ではないだろう。
 それにそこには王がいて、妃たちが暮らす後宮があるのだという。なにもかも伝聞でしか知らない知識であり、紫蘭の想像力ではいまいちピンと来なかった。
(でもきっと私は、そこでの生活にすぐに飽きちゃうんだろうなあ……冬ならともかく、ずっと同じ場所になんていられないから)
 そうとりとめのないことを考えながら、紫蘭は目を閉じた。
 彼女にとって、昼は馬や羊を追い、夜は天幕の下で眠る生活が日常。そこから離れることは、ちっとも想像のつかないことであった。
 彼女にとって都の話は、祖母の語る賢王月季と第八花仙の物語と同じく、現実味のない話の中に入れられていたのだ。

   *

 祖母からさんざん玫瑰と第八花仙の話を聞かされたせいだろうか。明け方に見た夢は奇妙なものだった。
 見たこともないような豪奢な着物を着た人々に取り囲まれて、何故か怒られている。最初は一方的に怒られているのかと思っていたが、どうも互いの話が嚙み合っていない。
「だから! いったい貴様はどこの誰だと聞いているんだ!」
「だから! ここがどこかって聞いてるんだってば!」
 堂々巡りの会話に、紫蘭のほうが閉口してしまった。
(どうしてこんなに話が通じないんだろう。なんで話を聞いてくれないんだろう。そもそも、ここはいったいどこなんだろう……)
 色鮮やかな天井に、浮花族の天幕ではまずお目にかかれない太い柱。父の土産話の中でも、こんな奇妙な場所のことは出てきたことがなかった。
 紫蘭はふてくされたまま目が覚めた。
 変な夢見で眠たい体を引きずって朝食を食べ終えてから、いつものように矢筒と弓を携え天幕を出ると、皆がひとつの天幕に集まって、羊毛の糸を繰って毛糸玉にしている。
 羊毛は天幕から着物までなんにでも使える。更に織った布は売り物にもなる。だから冬が終わり気温が上がってくると羊毛を刈り、それを溜め込み、一定量溜まったところで桶に入れて、一斉に毛糸玉に繰っていくのだ。
 それらを染めたり織ったりするのは、毛糸玉が溜まってから行う。
 紫蘭が季節の風物詩を横目に、いつものように見張りに出かけようとしたら、母から「こら紫蘭」と声をかけられる。紫蘭はおそるおそる振り返る。
「今日は溜まった羊毛を全部糸にして繰ってしまいたいから、見張りは他に任せて手伝いなさい」
「……お母さん、私これすっごく苦手なんだけれど」
「そんなことないでしょ。それに小さい子たちも手伝っているんだからね」
 そう母に指摘され、紫蘭は気まずい顔で天幕のほうを見る。
 開け放たれた天幕の入り口から見えるのは、作業する人々の姿だ。紫蘭より少しばかり年下の女の子は糸を繰る練習をさせてもらっているし、まだ糸を繰る技術も弓矢の技術もないような小さい子は、出来上がった毛糸玉を桶に集めていた。あとで倉庫に持っていく分だ。
「苦手だって言うなら、別に紫蘭はいいと思うけどねえ……」
 そう祖母が言うのを聞いて、紫蘭は少しだけむっとする。
 夢見が悪かったのは別に祖母のせいではなかったが、紫蘭はそのせいで眠りが浅かったので、八つ当たりしたくなった。
「やれるし……私のは売り物にならないかもしれないけど、日常使いくらいだったらなんとか」
「そうかい? 紫蘭は弓矢と乗馬ができるんだから、それで十分だと思うけどねえ」
 祖母に悪気があるのかないのか、紫蘭にもわからなかった。ただ祖母がしなくていいと言えば言うほど馬鹿にされているような気分になる。
(おばあちゃん、やめてよ。そういうこと言うのは……)
 観念した紫蘭は、他の女や年寄りに交ざって糸を繰りはじめる。彼女は謙遜しているだけで、普段から弓に弦を張ったり矢尻から矢をつくったりしているだけあり、手先は器用だ。するすると糸から毛糸玉をつくっていく。
 糸を繰っていると、隣で作業をする母は苦笑した。紫蘭は未だに弓を携えて矢筒を背中にかけたまま作業を行っていたのだ。
「もう、こっちが終わってからまだ外に行く気?」
「だってさあ、弓矢はできるだけ練習しないと腕が鈍らない? 今日は天気もいいんだから、いつ羊泥棒が子羊を狙いにくるかわからないし」
「はいはい」
 母の言葉に反論しながらも、手を動かしていく。
 程よく男の拳ひとつ分になった毛糸玉を、桶を運んでいる子供に差し出した。
「これもお願いね」
「はあい……あっ……!」
 まだ幼い子供には、毛糸の量が多過ぎて重かったらしく、そのままぐらりと桶が傾いてしまった。毛糸玉がそのまま転がって散らばり、勢いよく天幕の外へと飛んでいく。
 大事な生活必需品なため、たとえひとつであっても、なくなったら困る。
 紫蘭は、今にも泣き出しそうになっている、桶をひっくり返した子供の肩を叩いた。
「大丈夫。ちょっと取ってくるから、ここで待っててね」
「う、うん……!」
 そのまま作業をしていた天幕を飛び出すと、きょろきょろと草原を見て回る。羊たちの番をしている男たちに挨拶しながら、のんびりと草を食んでいる羊たちを押しのけ、何度も何度もかがんでは毛糸玉を探す。
「おっかしいな……いくら天幕から飛び出たからって、そんなに遠くにまで飛んでいってないはずなのに」
 紫蘭が膝をついて草を搔き分けていると、ようやく丸まった毛糸玉が見つかった。
「ああ、あったあった」
 毛糸玉を拾い上げ、さっさと作業に戻ろうと天幕に向かって駆ける。
 いつもの日常。いつもの風景。このまま天幕まで帰って毛糸を繰る作業に戻っていたら、この物語ははじまらなかっただろうが。残念ながらそうはならなかった。
 紫蘭は足を踏み出した途端に、急に足場が悪くなったことに気付いた。
「……あれ?」
 急に地面に引っ張られる感覚に襲われる。足元には草原が広がっていたはずなのに、急にその場に【穴】が現れたのである。底が全く見えないほど真っ暗な穴がぱっくりと口を開いたかと思ったら、そのまま紫蘭は引きずりこまれるように落ちていく。
「ちょっと……なに。落とし穴……?」
 慌てて紫蘭は手を伸ばして【穴】の側面を摑もうとするが、側面はつるつるとしていて、指を引っ掛ける場所がない。まるで地面を掘った穴ではなく、筒の中を通過しているような違和感だ。そのまま紫蘭は穴に呑み込まれていく。
「ちょっと……! 待って、止まってったらぁ……!」
 羊の世話をしながら、草原を移動する日々。毛を刈り、子羊を育て、乳を搾り、草を求めて旅をする。冬は雪のない地方に移り、仮住まいで春を待つ。
 そんな当たり前の日常が、どんどん遠ざかっていった。


後宮と仙女の降臨

 視界が暗転し、勢いをつけて穴に落ちていく。
(どうなってるの、草原にどうして落とし穴があるの? そもそもこの穴、人が掘れる深さじゃないし、こんなにつるつるに掘れるものなの? それに、ぜんっぜん底が見えないんだけど……!)
 ありえない状況に、落ちるままになっている紫蘭が手に毛糸玉をぎゅっと握り締めて下を見ていたら、更にありえない光景が見えてきた。
 落とし穴の底に、光が広がっていたのである。
 そのまま紫蘭が、穴からぺっと吐き出されるようにして落ちた先は、穴の底にしては広い空間であった。
 地面には石が敷き詰められてぴかぴかに磨き抜かれているし、なにやら花の匂いが漂っている。太い柱は天幕の梁ではありえないものだった。こんなに太い柱なんて、折り畳むのに不便な上に馬車で運びにくいから、天幕にはまず使わない。
 天井にも鮮やかな色で絵が描かれているのを、紫蘭はポカンとした顔で見ていた。
「……ここ、どこ? それに石の床の上に落ちたのに……痛くない?」
 あれだけ高いところから落ちたのに、何故か紫蘭の尻は痛くなかった。慌てて上を見ても穴はもうない。
「……痛っ」
「えっ」
 座り込んであちこちを眺めていた紫蘭は、自分がなにかを踏み潰していることに、ようやく気が付いた。というより、誰かを押し潰している。
 それは綺麗な身なりをし、髪をひとつに結った女性であった。彼女の上に落ちたおかげで、痛くなかったのだと思い知る。
「ご、ごめんなさい! すぐにどきますね!」
 紫蘭は慌ててその女性の上からどくと、彼女が湯呑をひっくり返して床に水溜まりをつくってしまっていたことに気付く。花の匂いがすると思ったのは、どうもその水溜まりから漂ってくるらしい。誰かに花茶でも出そうとしたのだとしたら申し訳ないと紫蘭は思う。
「ご、ごめんなさい、お茶を溢してしまって! あの、大丈夫ですか? ところで、すみません、ここはいったい……」
「あ、あなた何者ですか!?」
 女性が苛立った声を上げ、紫蘭は目を白黒させる。そんな怒った声を聞いたのは、誰かが羊泥棒に遭遇した時くらいしかない。なおも女性は大声を上げる。
「誰か! ここに不審者が……!」
「えっと、誤解です! そもそもここはいったいどこなんですか……!」
 紫蘭は慌ててその女性を説得しようとしたが、彼女は聞く耳を持ってはくれなかった。
 女性が大声を上げた途端に、バタバタと何人もの人が駆け寄ってきた。体の輪郭がわからないゆったりとした着物と、紫蘭が見たこともない変わった髪形からは彼らが男か女かもわからない。が、紫蘭が見慣れている浮花族の男性たちよりも肩幅が狭いように思える。
 そんな人々に、すぐに取り囲まれ、彼女はきょとんとした。彼らは紫蘭から距離を取りつつも、警戒した声を上げる。
「弓矢……!? 貴様いったいどこから……!」
「えっと? すみません。そもそもここはいったいどこなんですか。私、あの人の上に落ちてしまったんですけど、なにがなにやらさっぱりで……あの、お茶を溢してしまってすみません」
「お茶?」
 紫蘭が水溜まりを指差すと、途端に女性は「ち、違います……!」と目に見えて焦り出し、声を上げる。
 それを怪訝に思ったらしい人が、銀色の匙を持ってくると、それを石の床に溢れたお茶に擦り付ける。途端に匙は真っ黒に変色する。それを見た人々は顔を強張らせた。
「この宮女をすぐに兵に引き渡すように! 彼女はお茶に毒を盛っていた!」
「はっ!」
 途端に紫蘭が下敷きにしてしまった女性は、取り押さえられてしまう。
「ちょっと……! 放しなさい! 彼女のほうがよっぽど怪しいでしょう!?」
 宮女と呼ばれた女性はそう言って抵抗するものの、周りは微妙な表情を浮かべる。
 どうして遠巻きにされているのか、紫蘭は最初よくわかっていなかったが、そういえばと気が付いた。
 紫蘭が普段から弓矢を背負っているのは、弓矢の稽古をしたり羊泥棒から羊たちを守ったりするため当たり前のことだったが、この場にいる人々は武器をひとつも持っていない。紫蘭本人は先程から能天気な言動しかしていないものの、武装している。たとえ女であっても怖がられても仕方あるまい。
(どうしよう……この人たちを攻撃する気も威嚇する気もないけれど、これ持ってなかったらあの女の人みたいに訳わからないまま連行されるよね)
 自分から「怖くないですよー」と弓矢を外すのはやめておいたほうがいいと判断した紫蘭は、大人しく状況を見守っていた。
 やがて武装した女性たちが到着した。そのまま宮女は引き渡された。鎧を着て髪を団子にまとめているのは紛れもなく女性たちである。腰には剣を提げている。
 そして彼女たちもまた、紫蘭を見た途端、顔を見合わせてしまった。どうも紫蘭の扱いに困っているらしい。
「……失礼ですが、後宮の治安維持は宦官の管轄ではございませんか? 何者かわからない者をこちらの詰所には連行できません」
「何者かはわかりませんが、彼女は武装しているではありませんか。それならば兵の管轄でしょうが。妃方もおられる場所に、こんな危ない女を置いておけません」
 紫蘭を押し付け合いはじめた人たちを見て、紫蘭はようやく気が付いて、辺りを見回した。
(ちょっと待って。妃がいるって……もしかしてここ……後宮? 後宮ってことは……ここ、玫瑰なの?)
 落とし穴に落ちただけで、どうして草原から玫瑰に出てしまったのか。しかも後宮だなんて。思わず天井を仰いだものの、紫蘭が落ちてきたはずの穴はやはり綺麗さっぱりない。訳がわからなくって、頭を搔きむしっていたが、兵と宦官による紫蘭の押し付け合いは終わらない。
「彼女は王の妾ではなくて?」
「あんな弓矢を携えたような物々しい女、王の好みではないだろう。そもそもそんな妾がいたら我らの耳にも入っている。このような娘を後宮内に入れるとは、そちらの職務怠慢ではないか?」
「私たちは、あのような・・・・・王のためでもきっちりと責務は果たしております!」
 押し付け合いは過熱していく。
 結局兵は「あの宮女は身元が割れていますが、彼女は不明です。そんな不審人物を兵の詰所に連行する訳にはまいりませんから、彼女の身元が特定でき次第、連絡をお願いします」と言い張って、そのまま紫蘭を置いて、立ち去ってしまった。
 こうして紫蘭は、宦官たちに取り囲まれて、彼らの詰所に連れていかれた次第である。
 しかしどれだけ詰問され紫蘭が本当のことを言っても、宦官たちに信じてもらえない。だからといって、紫蘭は玫瑰に知人なんていない。身元を特定する術がなにひとつないために、取り調べは堂々巡りとなってしまっていた。
「落とし穴に落ちて後宮に入ってきただなんて……いったいその落とし穴とはどこにあるというんだ」
「だから知らないってば。気付いたらさっきいたところに落ちたんだから。天井を見たけど塞がってたから、もうその穴もないし!」
「茶房の天井裏が後宮の外部に通じている訳がないだろう、噓ならもうちょっとましな噓をつくんだ」
「本当だってば!」
 宦官たちも困り果てていたが、紫蘭だって同じくらい困り果てている。
 どうも紫蘭が落ちてきた場所は、後宮内の妃や客人にお茶を用意する茶房だったらしいのだが、どうしてそんな場所に落ちたのか、紫蘭にだってわからないのだから、説明を求められても困る。
 先程の宮女のように兵士に取り囲まれてどこか知らない場所に連行されるのも怖いが、拘束されて詰問され、信じてもらえないことを延々と主張し続けるのもつらい。
(どうしよう……本当にどうしてこうなったの)
 ここが百花国の後宮ということ以外なにもわからないのだから、どう立ち回ればいいのか測りかねていた。
 紫蘭が再び「知らない」「わからない」を連呼すべきかと思っていたら。
「おやおやおや。本当に困ったものだ」
 唐突に宦官たちの詰所に、甲高い声が響いた。
 ここにいる宦官たちは皆、中性的な姿をしていたが、その中でもひと際性別不詳の人であった。
 白鳥のようにすらりと首が長く優美な人が、しずしずとその場に現れたと思ったら、紫蘭を上から下まで検分するように眺めはじめた。舐め回すような視線ではあるが、そこに露骨な卑しさはなく、捌く羊を選ぶ族長のように本当に検分するためだけの視線だ。
扶朗ふろう様……! 何者かわからない娘に近付いて、危険です……!」
「ふむ……」
 扶朗と呼ばれた美麗な人は、検分を終えたあと、周りの宦官たちを咎めるかのように目を細めた。
「お前たち、ずいぶんとこの方に対して無礼を働いたようだね」
「はい?」
「はい?」
 宦官たちと紫蘭は、ほぼ同時に同じ返事をした。
 扶朗はばっさりと言い切る。
「この毛の着物。携える弓矢。黒く美しい髪に手に持つ玉。どう見たってこのお方は、第八花仙様ではないか! ああ、申し訳ございません。あなたをこのような狭い場所に押し込め、賊のように辱めるような真似を致しまして!」
「えっと……ええ……?」
 立て板に水のごとくしゃべり、誰にも突っ込む隙を与えなかったばかりか、扶朗が紫蘭に頭を下げて陳謝しはじめたことに、ただただ混乱する。
 その様子を見ていた宦官たちは、途端に顔を青褪めさせたかと思ったら、扶朗にならって彼女に一斉に陳謝しはじめた。彼女はきょろきょろと周りを見回したが、誰からもなんの反論もない。
 第八花仙は、戦と狩りの花仙だ。逸話では弓矢を携え、馬で野山を駆け回っていたと祖母から耳にたこができるほど聞かされてきた話ではあったが、それに近い格好をしているだけで、どうして自分が第八花仙と呼ばれなければいけないのか。
 紫蘭はいきなり陳謝しはじめた人々のつむじを見ながら途方に暮れていたが、やがて扶朗と呼ばれた性別不詳の人物はにこやかに笑いながら、皆が頭を下げてこちらを見ていない隙をついて、紫蘭にしか聞こえぬよう耳元に口を寄せた。
「死にたくないのなら、大人しく言うことを聞きなさい。死にたくないのならね」
「…………っ」
 紫蘭の中にザリッとしたものが走った。この、口から先に生まれたのではないかというような、立て板に水のように話す性別不詳の人物を信用していいものか、測りかねたのだ。
 それでも。彼女はそれに乗ることにした。
「た、大したことない花仙だから! 顔を上げて! ねっ?」
(……いきなり右も左もわからないところで、着の身着のままの状態で放逐されても困るし。落とし穴も消えちゃった以上帰る方法が見つかるまでは、ここに留まったほうがいいかな)
 そう腹を括った紫蘭は、ひたすら頭を垂れる人々の顔を上げさせることからはじめることにしたのだった。

   *

続きは発売中の『紫蘭後宮仙女伝 時を駆ける偽仙女、孤独な王子に出会う』で、ぜひお楽しみください!

石田空

大阪府出身。2017年『サヨナラ坂の美容院』で紙書籍デビュー。著書に『神様のごちそう』シリーズ、『芦屋ことだま幻想譚』(全てマイナビ出版)、『縁切り神社のふしぎなご縁』(一迅社)、『吸血鬼さんの献血バッグ』(新紀元社)、他アンソロジーにも参加。

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