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四獣封地伝 落陽の姫は後宮に返り咲く

 序章

 朱色や金色に塗られた柱に軒反りの屋根の建物が立ち並び、枝垂れ柳が風にさらさらと葉を揺らす。瓦は全て国色であるみどり色で統一され、整然とした美しさのあるその場所は、じゅうほうの西側を治めるセイ国の後宮。王の妃やその子供達が住う町だ。
 優美なその後宮に、宮女や宦官を引き連れて派手な深紅の輿こしが通る。輿の上には、金糸で芙蓉を刺繡された碧色の衣に身を包む女がいた。
 王の第一妃、リョヨウ
 自らの権力を誇示するかのような派手な装いをする呂芙蓉を見て、今年九つになったばかりの誠国の王の娘、セイセツは思わず内心で舌打ちをした。
「臭い、臭いのう……。汚らわしいドブネズミのにおいがしおる」
 呂芙蓉はいやそうに鼻に袖をあててそう言うと、詩雪の目の前で輿を止めた。このまま素通りしてくれたらと願っていた詩雪は、小さくため息を吐く。
「臭いと思うたら、そなたか、詩雪公主。相変わらずドブ臭いのう」
 呂芙蓉の言葉に顔を上げると、愉悦に歪んだ笑みで見下ろす彼女と目があった。
 王の娘である詩雪に失礼な物言いだが、周りにいる宮女達は、誰も呂芙蓉を咎めない。
 次の王となる息子を産んだ呂芙蓉は、後宮での実質的な支配者。誰も彼女には逆らえないのが現状だ。
 だが、詩雪は王の正妻である王后の娘。
 このまま軽んじられてばかりいれば、大好きな母の名誉を汚すことにもなる。
 詩雪はグッと目に力を入れて微笑んでみせた。
 たとえ呂芙蓉が着ているものとは比べ物にならないを着ていようとも、母親譲りの輝かんばかりの黒髪に、整った顔立ち。にこりと笑みを浮かべれば、周りをハッとさせる魅力があるのを詩雪自身が知っている。
 予想通り、ここにいるものが皆、詩雪に引きつけられた。
「呂妃様にご挨拶申し上げる。それにしてもドブ臭いとは、そんな臭いはいたしませんが……ああ、もしかして、とうとう心根と同じように鼻もねじ曲がってしまわれたのだろうか」
 詩雪は心底憐れんだ顔をしてそう言って見せる。
 詩雪の口調は少々堅苦しく男っぽいものだった。話し相手になってくれるような侍女も教育係もいない詩雪は、大体の時間を書を読んで暮らしている。そのため、書物に書かれているような堅苦しい言葉遣いが癖になっていた。
 そして、このどこか尊大にも聞こえる口調を呂芙蓉が嫌っていることも知っている。だからこそ別に直す気もない。
 予想通り、呂芙蓉が不快そうに片眉をピクリとあげた。
「それか、呂妃様のお輿の中が臭いだけかもしれぬ。よろしければ何かお香でもお贈りいたしましょうか。お香は良い香りがするだけでなく邪気なども祓うようで……ああ、しかし、邪気を祓うとなると、呂妃様も一緒に祓われてしまうかもしれぬ。どうするべきか……」
 意訳すればお前なんて邪悪そのものと言っているようなもの。
「お前……! よくも……!」
 呂芙蓉は声を荒らげた。
 詩雪は毎度のことなので動じなかったが、詩雪の後ろに隠れていた者はそうもいかなかった。びくりと、体を動かしてしまった。
「ん? 後ろにいるのは誰じゃ!」
 めざとく感づいた呂芙蓉の指摘に、詩雪は内心舌打ちをする。
 呂妃付きの侍女の一人が、詩雪の後ろに隠れている者を摑んで引っ張り出した。そこにいたのは呂芙蓉の息子であり詩雪の異母弟であるチュウケンだった。可哀想なほどに青ざめている。
 性悪な呂芙蓉とは似ても似つかぬ純粋さを持ち、心優しい忠賢は詩雪のことを同腹の姉のように慕ってよく遊びにきていた。
 先ほども、病がちな詩雪の母のために生薬などを薬くす殿どのから勝手に持ち出す、つまりはこっそり盗む詩雪を、無邪気な笑顔で手伝ってくれていたのだ。
 だが、詩雪達親子を嫌っている呂芙蓉にとって、息子が詩雪に構うことは当然気に入らない。
 そこにいるのが忠賢と知るや、侍女はお伺いを立てるために呂芙蓉の顔色を窺う。
 呂芙蓉は忌々しそうに顔を歪めて睨みつけ、忠賢はますます背中を丸めた。
「ご、ごめんなさい。母上……」
「お主、またもやこのようなドブネズミと共にいるとは……! 本当に不出来な息子よ!」
「ごめんなさい! す、すぐに戻りますから!」
「当たり前じゃ! このれ者が!」
 呂芙蓉にどうかつされて、肩を縮こまらせた忠賢は、「……ごめんなさい。姉上」と言って、先ほど薬殿から盗ってきた生薬の入った袋を詩雪に渡す。
 詩雪は、気にしないでいいというように目配せだけをした。
 忠賢は、王として必要な資質を持って生まれ、詩雪のように後宮の者達から軽んじられることはない。だが、彼も辛い思いをしていることは詩雪も分かっていた。
 呂芙蓉は、息子の忠賢がいるからこそ今の権力があるというのに、その忠賢を蔑ろにしている。忠賢が呂芙蓉の目を盗んで詩雪のところに遊びに来るのは、母親に愛されていない寂しさのために他ならなかった。
 呂芙蓉は、己が一番でないと気が済まない質なのだ。故に、自分の子でさえ、自分よりも身分が上であると思うと我慢ならないらしい。
「……ふん、全く面の皮の厚い小娘よ。その年にして王太子をたぶらかすか。流石は何処の馬の骨とも知らぬ男とまじわった上に、陛下の子だと噓をつく汚らわしい女が産んだ子じゃのう」
 その言葉に詩雪の体中が熱くなった。自分のことはいいが、母親のことを言われるのは我慢ならない。
「母上は不貞などしていない! 私は父上の子だ! 誠国の王であられる父上は、母上が噓をついていないことを誰よりも分かっていらっしゃる! だからこそ母上は王后の地位にいらっしゃるのだ!」
「ほう、そうかえ? では、なぜそなたには、王の子ならば必ず持つはずの噓を聞き分ける力がないのじゃ?」
 勿体ぶるようにそう言った呂芙蓉は勝ち誇った顔をしていた。
 これを言われたらもう何も返す言葉などないだろうとでもいうように。
 思わず詩雪は拳を握り込んだ。実際、何も言い返せない。
 悔しかった。握った拳が痛い。爪が食い込んだのかもしれない。だが、その痛みを、悔しさや怒りが凌りよう駕が する。
 詩雪の住う国、誠国は、かつて世界を滅ぼしかけた四匹のきょうじゅうの一匹『まんキュウ』という銀毛の獣を調伏して封じた仙人・セイエンシンクンが始祖となっておこした国だ。
 詩雪達王族は、つまりその仙人の血を受け継ぐ半仙である。そのため王の子は、必ず『噓を聞き分ける』という特別なじんずうりきを持って生まれる。
 だが、何故か詩雪にはその力がなかった。
 詩雪に力がないと分かった時、詩雪の母親はまず不貞を疑われた。塀に囲われた後宮に住う母に不貞などできるはずもない。当然、不貞などしていないと訴えた。
 噓を聞き分ける力を持つ王も、その言葉が噓ではないと認めた。だが、それだけだった。
 廃后こそしなかったものの、その後、王は王后である詩雪の母を顧みることはなくなった。
 そして寵愛は他の妃に、特に忠賢を産んだ呂芙蓉に向けられた。
 一気に寵愛を失った王后の現状を見て、不貞を犯したという話は未だに真実であるかのように後宮内では囁かれている。そしてもともと体の弱かった詩雪の母親は気を弱らせてますます体を壊した。
 自分にちゃんと『王の力』が有りさえすれば。何度そう思ったことだろうか。
 それが有りさえすれば、今のように擦り切れた衣を身に纏うことはなかっただろう。母の体調が悪いと言えば、すぐさま侍医が駆けつけて薬を出してくれただろう。今のように、わざわざ詩雪が薬殿に忍び込んで生薬を盗まなくていいのだ。
 そもそも母が冷遇されることもなかったはずで、きっと今のように寝台から離れられないぐらいに体を弱らせることもなかった。
 詩雪達の不遇は、まさしく己に力が無いことから始まった。どうして力がないのだろうか。ずっと、ずっと……そればかり考えてきた。
(だめだ。あまり熱くなってはいけない。こんな時こそ強がって見せる。この女は私が傷つくのを見て喜ぶような奴なのだから。たとえ噓をつこうとも、思い通りにさせたくない)
 怒りで目の前が真っ暗になりそうな自分を叱咤する。詩雪は呼吸を整えると真っ直ぐ呂芙蓉を見据えた。
「だが、呂妃様、よろしいのだろうか?」
 余裕たっぷりな態度になった詩雪を呂芙蓉が訝しげに見下ろす。
「何がじゃ?」
「もし私の母上が不貞を働いたとして、噓を聞き分けることができるお父上ならばそのことにすぐ気づかれたはずだ。誠実さを何よりの美徳とする誠国で、王に噓をつくことは何よりも重い罪。だというのに、父上は母上を罰さず、廃后にもせずにいるということは、それほどに私の母上を愛していらっしゃるということにならないか?」
 ここまで言うと、呂芙蓉は忌々しそうに眉間に皺を刻み始めた。
「それはつまり、呂妃様よりも母上の方がより美しく魅力的だったということではないだろうか?」
 詩雪はここぞとばかりに自信に満ちた笑みを作って見せた。
 父王が母を愛しているなど、こんなのただのハッタリだ。実際父王は、詩雪の母親を顧みておらず、おそらく情もない。捨てられたのだ。廃后にしないのは、ただ面倒だからに他ならない。
 だが、一番であらねば許せない呂芙蓉は、自分が劣っていると言われることには敏感だ。予想通り怒りで呂芙蓉の顔色が変わる。
「お、お前は、よくもそのようなことをぬけぬけと……!」
 歯を見せて怒る呂芙蓉が滑稽で、詩雪は幾分胸がスッとした。
 とは言え、あまり言いすぎると後々面倒。なんと言っても、呂芙蓉は実質的には後宮の支配者なのだから。詩雪がこの後をどう収めるべきかと考えていると、呂芙蓉が声をあげた。
「そういえば忠賢。先ほどこのドブネズミに渡したものはなんじゃ」
 先ほどまでのげっこうを隠した呂芙蓉は、何か悪いことを思いついた顔をしていた。どうやら懲りずに、詩雪を貶めるネタを見つけたらしい。
 突然話しかけられた忠賢は、またびくりと肩を震わせる。先ほど渡したものというと、おそらく薬殿から盗ってきた生薬の入った袋のことだろう。
「あ、あれは……その、セイからの預かりもので……」
 もごもごとはっきりしない口調で忠賢が言うと、呂芙蓉はにやりと口角を上げる。
「ほう? 医官の李成が詩雪公主に何か渡しでもしたのか? 李成、どうだ? 何か渡したのか?」
 呂芙蓉の声がけに、輿の後ろを付き従っていた医官、李成が前に出てきた。李成は、誠国では珍しい金の髪と色素の薄い青い瞳を持つ美貌の宦官、男子禁制の後宮で働くために体の一部を失った官吏だ。先ほど、詩雪が生薬を盗んだ薬殿の管理人を任されている。
 どこか申し訳なさそうに眉尻を下げた李成は呂芙蓉の前に膝をついた。
「私は……特に渡したものはありませんが……」
「ほう? だとすると、忠賢が噓を? いや、次の誠国の王となる忠賢がまさか噓をつくわけがあるまい。だとすればそこのドブネズミに騙されたか? ああ、そうに決まっている。誠実な我が息子を騙して、盗みの片棒でも担がせたか? なんと恐ろしい」
 詩雪にあらぬ疑いがかけられそうになって、姉を慕う忠賢は慌てたように口を開く。
「ち、違います! 僕は!」
「だまりゃ!!」
 忠賢の言葉を遮るようにして吠えると、呂芙蓉は手元の扇を投げつけた。
「いっ……!」
 扇はちょうど忠賢の額に当たり、忠賢は痛みで思わずしゃがみ込む。
「なんてことを!」
 詩雪は、忠賢のそばに駆け寄って彼の背を支えた。
 扇が当たったところを見ると、少し切れて血が滲んでいたが、傷自体は深くはない。詩雪は、懐からしゅきんを取り出すと傷口に当てる。
 呂芙蓉という女は、平気で人の弱みを突いてくる。詩雪が、忠賢を大切に思っていることを知って、傷つけたのだ。それが弱みだと分かっているから。その傷つける対象が自分の息子であっても、気に入らないものを追い込むためならばなんでも利用する。
「のう忠賢、先ほど李成から預かったと言ったのは噓か? 誠実であることこそが我が国の美徳じゃ。噓をついたのなら罰が必要よのう」
 輿から見下ろして、もったいぶった口調で呂芙蓉は言う。
「ば、罰、ですか……?」
「そうじゃ忠賢よ、そなた詩雪公主が持っているものを地面に叩き落とし、踏み潰せ。わらわは寛大故に、それでそなたの罪を許そうではないか」
「そ……それは……」
 可哀想に、まだ幼い忠賢は泣きそうな顔で戸惑っている。呂芙蓉の言うことを聞けば、詩雪が困ると分かっているから素直に頷けないのだ。
 まだ幼く優しい忠賢には、今の板挟みの状況は辛すぎる。
 詩雪は手に持っていた袋をひっくり返し中身を地面に転がす。
 様々な生薬に、桃もあった。
 今日は珍しく、薬殿に桃がいくつか置かれていたのだ。桃は詩雪の母の好物。これを持っていけば母も喜ぶだろうと、そう思った。
「ふん、やはり薬殿からくすねておったか。公主たるものがこそ泥のような真似をして恥ずかしくないのかのう」
 詩雪は呂芙蓉の言葉に、唇を嚙んだ。
 詩雪達親子に薬が届かないのは、呂芙蓉のさしがねだというのに。後宮の宮女や宦官達は皆、呂芙蓉の怒りを買うのを恐れて、詩雪達親子を遠ざけているのだから。
 だが、今は喧嘩を買っている場合じゃない。母親と異母姉の板挟みになっている忠賢の心を救わねば。
 詩雪は右足を上げ、そして降ろした。
「あ、姉上……!?」
 驚いたような忠賢の声を聞きながら、詩雪は桃を木靴で踏み潰す。
(ああ、もったいない……)
 ぐにゃりとした感覚が足裏から伝わる。
「寛大な呂妃様がこれで許してくれるらしい。忠賢もやっておけ」
 詩雪の言葉に、忠賢は目を見開いた。その目にみるみる涙が溜まって、そしてぎゅっと目を瞑るのと同時に溢れていく。
「ごめんなさい、姉上。ごめんなさい、ごめんなさい……」
 泣き声を嚙み殺したような声で忠賢はそう言うと、詩雪と一緒になって、桃や生薬を踏み潰した。
「ああ、母上の大好きな桃を持っていこうと思っていたのに、全てだめになってしまった……」
 詩雪がそう言って嘆いて見せると、呂芙蓉は満足そうな笑声をあげた。そして忠賢は一瞬驚いたような顔で詩雪を見て、そしてすぐに地面に視線を戻す。
(それでいい……)
 こんなことで忠賢が苦しむことはない。
 詩雪が、地面の土をつけてドロドロに汚れていく桃と生薬を眺めてから顔を上げると、高みの見物とばかりにニヤついた笑みを浮かべる呂芙蓉が見えた。
 どうして、自分には王の子ならば誰もが持つはずの『噓を聞き分ける力』がないのだろうか。

 何度思ったかわからない疑問が、また頭に浮かんでいく。
 詩雪は、母のいる宮へと戻ってきた。
 忠賢が泣きながら桃や生薬を踏み潰す様と落ち込む詩雪を見て、呂芙蓉は満足したらしい。あのあとあっさりと解放された。
 詩雪は木靴についた汚れを手巾で綺麗に拭い取ると、母のいる寝台に向かう。
「母上、起きていらっしゃいますか?」
「あら、詩雪公主、戻ってきたのね。起きているわ」
 詩雪の母はそう言うと、寝台の上でゆっくりと上体を起こした。
 かつて後宮一の美姫と呼ばれていた母の美しさは、病がちになっても健在だ。顔つきは少しやつれてはいるものの、黒髪は星空のようにきらきらと輝き、肌は少し白すぎるが、それもまた彼女の儚い美しさを強調しているかのようだった。
「見てください。母上、この立派な桃を!」
 そう言って、詩雪はたもとから桃を取り出した。
 先ほど全て踏み潰されたと思われた桃だったが、詩雪はそんな時のために一部を袂に隠し持っていた。ちなみに生薬の一部もちゃっかり確保している。
 せっかく手に入れた桃が、忠賢に踏み潰されて落ち込んでいるように見せたのは、ああでもしないと呂芙蓉がうるさいと思って、そういうふりをしただけである。
 噓を聞き分ける力を持つ忠賢も、詩雪が『母上の大好きな桃を持っていこうと思っていたのに、全てだめになってしまった……』と嘆いた言葉に噓を見つけ、無事な桃があることに気づいたはずだ。
「まあ、私の好きなものね。……でも、どうやって手に入れたの?」
「母上の体調を心配した後宮の者達が是非にと。こちらの桃はただの桃ではなく、なんと仙人が愛好する仙桃だというのです。食べればたちまち母上の体調も良くなりましょう!」
 詩雪は大ぼらを吹きながら母に桃を渡した。
 後宮の者達が母の体調を心配しているというのも、仙桃だというのも全て噓。大好きな母に心配をかけたくない。王后でありながら後宮の者達から見向きもされていないなどと思わせたくなくて、詩雪は噓を重ねていく。
 だがその噓はあまりに脆い。
 詩雪の母は悲しげに微笑んだ。
「……ありがとう詩雪。そしてごめんなさい。私が不甲斐ないばかりに貴方にばかり心労を掛けてしまう」
「わ、私は別に、心労なんて……」
 詩雪の噓など、全て分かっているという眼差しに、思わず詩雪は口籠る。母は受け取った桃を寝台の横に置くと、詩雪の手をとった。
「どうか私のことは気にしないで。私のために噓はつかなくてもいい。誠実にもとる行いはして欲しくない。貴方は、優しく賢くて……私の誇り。どうか誠実に生きて」
「……誠実?」
 思わず詩雪は目を見開いた。喉が乾いてうまく声が出ない。母には全てばれている。母に噓をついたことも、時折、薬殿から生薬を盗み出していることも。
 真っ直ぐ射竦めるように見る、母の眼差しが強くて目をそらしたいのにそらせない。
「誠国は、誠実であることを最上の美徳とする国。四凶の一匹である欺瞞の窮奇を調伏した建国の始祖様、誠円真君は、とても誠実なお方だった。かのお方は誰よりも誠実で、それ故始祖様の前では誰も噓偽りを言うことはできなかったのです。詩雪、どうか貴方も始祖様のように誠実に生きて」
「……そんな、こと、言われても」
 詩雪は母の言葉をうまく飲み込めない。
 誠実でいれば、本当に幸せになれるのだろうか。体の悪い母のための薬はどうなる?
 誠実で何も汚れを知らぬままでは、やがて惨めに死に絶えていく未来しか、詩雪には見えない。それに……。
「始祖様は、仙人だ……噓だって聞き分けられる。始祖様が誠実だから周りは噓を言わなかったのではない。仙人で、噓を聞き分けられたから、周りは噓を言えないだけだ。私は、だって……」
 誠国の王の子で、仙人の血を継いでいるはずなのに、詩雪には噓を聞き分ける力がない。絶望的な現実に、詩雪は目を伏せた。
「いいえ。力など関係ありません。始祖様が誰よりも誠実だったからこそ、周りも誠実であろうとしたのです。詩雪、私はおそらくもう長くはない」
「……! そんなこと!」
「いいのです。自分のことは自分が一番よくわかります。私はそれを受け入れています。でも、貴方を一人残すことだけは……」
 そう言って、言葉を詰まらせた。
 詩雪が顔をあげると、目を潤ませた母がいた。
「詩雪、誠実でありなさい。私がいなくとも、貴方が誠実であれば、いつか貴方の周りには貴方に誠実な者達が集まってきます」
 母の言葉を素直に受け止めるには、幼い詩雪は人の汚い部分を見過ぎてしまった。人の悪意や敵意を、当たり前のように浴びて生きてきたのだ。
 大体にして誠実を美徳とするはずのこの誠国に、真に誠実なものがいただろうか。王である父ですら、詩雪達親子に不誠実だったではないか。
 唯一、誠実だと思えたのは、母だけだ。汚れなく、真っ直ぐに生きてきた。だがその母は、汚名を着せられ、後宮で肩身の狭い思いをし、誰にも見向きもされないままその儚い命を終えようとしている。
 誠実に生きて何になると言うのだろう。失われていくばかりではないか。
「ああ、私の可愛い詩雪。どうか、どうか、誠実に生きて……」
 そう言って、母は詩雪を抱きしめた。抱きしめられる直前、詩雪は、母の頰に涙が伝うのをその目に見る。
 死期を悟ったかのような母の言葉は、詩雪の中で重たく響く。だが、幼い詩雪には全てを飲み込むことはできない。
 詩雪は誠実さというものを理解できぬまま、涙に濡れる母を慰めるために力なく頷いた。

 そして五日後、詩雪の母は帰らぬ人となった。医官の話では、流行り病のせいだろうということだった。
 生きている間は、医官にどれほど頼んでも診てもらえなかったのに、死んだら診てもらえるらしい。
 やはり詩雪には、誠実に生きて欲しいと願った母の言葉を素直に受け取ることはできそうになかった。


   *

続きは発売中の『四獣封地伝 落陽の姫は後宮に返り咲く』で、ぜひお楽しみください。

■著者プロフィール
唐澤和希(からさわ・かずき)
群馬県出身、東京都在住。2016年、『転生少女の履歴書』(ヒーロー文庫)で書籍化デビュー。他の著作に「後宮茶妃伝」シリーズ(富士見L文庫)、「五神山物語」シリーズ(スターツ出版文庫)など。

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