第一部 私の物語
1
薔薇の匂いに誘われて。
目覚めた時、最初に飛び込んできたのは、落ちてしまいそうな青空だった。
随分と深い眠りに落ちていた気がする。
手に触れる冷たい感触は、土のそれだろうか。
上半身を起こして辺りを見回し、花畑の中で眠っていたのだと気付いた。
視界の先に白い小城が建っている。振り返ると、遠く、太陽の方角にも、山のようにそびえる巨大な黒い城が見えた。
ここは何処だろう。私はどうして屋外で眠っていたんだろう。
いや、違う。今、思い出さなければいけないのは、そんなことじゃない。
土のついた手の平を見つめる。幼児のそれではないけれど、皺の刻まれた大人のそれでもない。子どもの手だ。
私は誰? 名前も、年齢も、思い出せない。
分かるのは、自分が女で、黒い靴を履いた子どもだということだけだ。
手がかりを求めて立ち上がってみたものの、一面に咲く薔薇にも見覚えはなかった。
どうしよう。近くに建っている白い小城を目指すべきだろうか。それとも、遠くに見える巨大な黒い城に向かった方が良いだろうか。あれだけ大きな城である。城下町があるだろうし、私のことを知っている人に会えるかもしれない。
「やあ。こんにちは」
白い小城に背を向け、巨大な城に向かって歩き出したその時、軽快な声が背後から届いた。
風に揺れる薔薇の向こうから、背の高い男の子が手を振っている。
あの少年は誰だろう。瀟洒な服を身に纏う彼は、印象的な顔立ちをしており、癖のない髪の下に、水色の瞳を覗かせていた。ただ、やはり彼の顔にも見覚えはない。
「すみません。おかしなことを聞きますけど、あなたは私のことを知っていますか?」
「そうだね。少なくとも君よりは、君のことを知っているんじゃないかな」
どういう意味だろう。
「君は自分の名前も、年齢も、ここで倒れていた理由も、分からないだろう?」
素直に頷く。
「はい。記憶喪失になったみたいなんです。教えて下さい。私は誰なんですか? ここは何処で、どうして、こんなところで眠っていたんでしょう」
「僕も君の名前は知らないんだ。でも、ここが何処かは説明出来る」
そう言って、少年は白い小城を指差した。
「ここは時空の狭間で、あの白い城は、僕らが働く【物語管理局】だよ」
「時空の狭間?」
「そう。ここは物語の中で不幸になった者だけが、最後に辿り着く場所なんだ。自分が誰なのか思い出せないのは、君だけじゃない。ここに召喚された者は、皆、自分の物語を忘れてしまっている。でも心配はいらないよ。君の名前は、城主の『親指姫』が教えてくれるからね」
「奇妙な名前の方が城主を務めているんですね」
「その名の通り、彼女は親指ほどの大きさしかないんだ。だけど、誰よりも物知りで優しい人だ。僕ら【物語管理官】の母親みたいな人さ」
また知らない言葉が出てきた。
「では、早速、親指姫に名前を聞きに行こう。付いてきてくれ」
「あの、その前に、あなたの名前を教えてくれませんか?」
「これは失敬。僕は皆に『王子』と呼ばれている。君もそう呼んでくれたら良い」
この世には無数の物語が存在している。一言で王子と言っても沢山いるはずだ。一体どんな物語かも分からないけれど、王子というのは彼にぴったりな名前だと思った。
ここは物語の中で不幸になった者だけが辿り着く場所だという。つまり、私もまた、悲劇の物語の登場人物だったということになる。
私はどんな物語を生きて、どんな悲しい結末を迎えたんだろう。
綺麗に整備された庭園を抜け、白いお城の前に到着した。
ほとんど山にも見える黒い城と比べてしまったせいで小さく感じていたけれど、なかなかどうして、こちらも立派なお城だった。ゴシック様式の絢爛な作りは、城というより宮殿や王宮と言われた方がしっくりとくる。豪奢な扉を開けて城内に入ると、目映いばかりの陽光が差し込むホールに、沢山の人の姿があった。
「王子。おはようございます!」
私たちを発見して、小さな子どもが駆け寄ってきた。
「王子。今日は可愛らしいお嬢さんを、お連れですね!」
「ご機嫌よう! 王子!」
歩いているだけで次々と挨拶の言葉をかけられる。どうやら王子は、城の住民たち皆に愛されているようだ。
城内の幻想的な雰囲気にも圧倒されたが、何よりも驚かされたのは、住人の多様さだった。年齢や性別はもちろん、人種、生物としての種族までバラバラなのである。王子は制服にも見える衣装を着ているけれど、人々が身につけている服は、それぞれに個性的だった。
皆が異なる物語の登場人物だから、国籍も文化も違うのかもしれない。
「親指姫の部屋は、最上階【天空の間】にある。少し歩くよ」
玄関ホールから続く広間を抜けると、王子は吹き抜けの螺旋階段を上り始めた。
天井が高過ぎて、階段が何階まで続いているか分からない。
そう言えば、私はどんな顔をしているんだろう。
分かるのは、子どもであること、肩の下まで伸びたブロンドの髪をしていること、真っ白な肌をしていることだけである。
「あ、王子! 待って下さい!」
それが視界に入り、思わず前を歩く王子の手首をつかんでしまった。
あの生き物は何だ? 角が生えた恐ろしい容貌の怪物が三人、いや、三匹? 階段の上層階を闊歩している。
「心配いらないよ。彼らはオウガの子どもたちだ」
「オウガ?」
耳慣れない言葉だった。
「オウガというのは北欧の神話に登場する巨人の怪物さ。シャルル・ペローという作家が『長靴をはいた猫』で最初に命名したんだけどね。それから様々な物語に登場することになった。あの三人は『ジャックと豆の木』に登場するオウガの子どもたちだよ」
「ジャックと豆の木?」
「そうか。君は『ジャックと豆の木』を知らないんだね。丁度、そこの通路を右に抜けると、図書館があるんだ。少し寄り道しようか。自分の名前を知る前に、この世界について理解を深めた方が良いかもしれない」
螺旋階段から横に延びた通路を進んでいくと、広間の先に銀色の扉が現れた。
そして、重たそうな扉の先に、息をのむような光景が待っていた。
天井まで壁一面が書架になっており、窓もないのに光の粒子が乱反射している。見渡す限り、三百六十度、数え切れないほどの本が、書架に収められていた。
「物語管理局が誇る【幻想図書館】へ、ようこそ」
橙色の光に満ちた室内は、扉を開ける前には想像も出来なかったほど広い。天井まで何十メートルの高さがあるんだろう。
「この図書館には、古今東西のあらゆる物語が収蔵されている。この城を建設した『雪の女王』によれば、未来で書かれる本まで収められているらしい」
「未来の本ですか? 不思議な話ですね」
「僕らも理屈を知りたいんだけど、女王が教えてくれないんだ。やあ、アヒル君!」
入口近くにいたエプロン姿の鳥に、王子が声をかけた。
「王子、こんにちは」
鳥が喋った!
「彼女に『ジャックと豆の木』を読ませてあげたいんだ。探してもらえるかな」
「かしこまりました。少々、お待ち下さい」
「彼は司書なんだ」
「鳥が司書をやっているんですか? というか、話せるんですね」
「もちろん。物語の中で喋っていたのに、ここに招かれた途端、話せなくなったらおかしいだろう?」
「確かに。それは、そんな気がします」
五分もせずに、エプロン姿のアヒルが、一冊の本を羽に挟んで持ってきた。
ハードカバーの表紙に、雲の上まで伸びる巨大な木が描かれている。
「『ジャックと豆の木』は世界中で知られている童話の一つで、僕らの仕事を説明する上でも良い教材になる。さあ、読んでみて」
王子に促され、本を開く。紙とインクの匂いが香り、最初の一文に目を落とすより早く、私は本の匂いが好きだなと思った。
ある日、主人公のジャックは、母親の使いで牛を市場に売りにいく。しかし、道中で出会った老人に、牛と不思議な豆との交換を持ちかけられ、応じてしまう。
怒った母はそれを捨てるが、豆は一晩で成長し、天まで伸びていく。
ジャックが豆の木を登ると、雲の上には巨人が暮らす城があった。そこで巨人の妻と出会い、彼女の夫と子どもたちがオウガであること、見つかったら食べられてしまうことを告げられる。
妻の機転で命を救われたジャックだったが、オウガが眠ったのを確認してから、金貨を盗み、金の卵を産む鶏を奪う。味をしめたジャックは特製のハープまで盗むのだが、そこで見つかってしまい、オウガに追いかけられる。
ジャックは急いで地上に戻り、豆の木を斧で切り倒すと、追って来たオウガは落下して死んでしまう。
それから、盗品で裕福になったジャックは、母と共に幸せに暮らしたのだった。
「君はこの物語を読んで、どう思った?」
本を閉じると、穏やかな微笑を浮かべて、王子が尋ねてきた。
「ジャックはオウガに敵わないから、逃げたわけですよね。それなのに豆の木を切り倒せたのが不思議です。そんな怪力があるなら、戦っても勝てたんじゃないかなって」
素直な感想を告げると、王子はポカンと口を開け、それから、ふき出した。
「なるほど。そんなことを考えるのか。君は面白いね」
「螺旋階段で彼らを見た時、私は恐怖で震え上がりました。でも、この物語を読んで、そんなことを思った自分が恥ずかしくなりました。だって、オウガは何も悪いことをしていないじゃないですか。盗まれたものを取り返そうとしただけなのに、殺されて。こんな結末、悲しいです」
「『ジャックと豆の木』はイギリスで伝承されてきた物語で、作者の名前は分かっていないんだ。本によって筋立ても異なっている。巨人の宝はもともとジャックの死んだ父親の物だったと書いている本もあるし、雲の上からやって来たオウガに父親が喰われてしまったと説明している本もある。その場合、君の印象も変わってくるだろう?」
「ジャックは盗んだわけではなく、家にあった財宝を取り返した。殺されてしまった父親の復讐を果たした。そう読めるかもしれません」
「今となっては正解も分からないけどね。ただ、少なくとも人間にとって、オウガが恐ろしい生き物だったことは間違いない。だから、ジャックは豆の木を切り倒し、オウガを退治した。でも、考えて欲しい。雲の上で暮らしていたオウガの子どもたちは、それを見て、どう思っただろうか?」
「あ……」
「地上の世界を知らない子どもたちは、突然やって来た泥棒に、父親を殺されたんだ。オウガを退治したジャックは、盗んだ財宝で大金持ちになっている。恐ろしいオウガを倒したことで、皆に祝福されたし、その財宝で家族は幸せになっただろう。だけど、オウガの子どもたちにとっては、ジャックこそが悪魔だ。彼らは父親を殺され、財宝を奪われて、涙で物語を終えている」
「だから彼らはここに召喚されたんですね」
「その通り。物語管理官の仕事は、登場人物を全員、幸せにすることだ。ただ、物事には時とタイミングがある。いつでも、誰でも、救えるわけじゃない。だからオウガの子どもたちは、その時をここで待っている。城で衛兵として働きながらね」
私は物語が好きだった。今はまだ何も思い出せないけれど、大好きだったことは覚えている。
物語は人を幸せにする。ただ、作中の登場人物も同じであるとは限らない。主人公が幸福な結末を迎えても、すぐ近くに不幸になってしまった者がいる場合だってある。
誰一人見捨てずに、全員を救う。
物語管理官とは、なんて素敵な仕事なのだろう。
幻想図書館を出て、再び螺旋階段を上っていく。
階段の終着点に、金色の巨大な扉が待っていた。
「さあ、君の名前を聞きに行こう」
王子が開けてくれた扉をくぐり、天空の間に足を踏み入れる。
最上階であることを忘れてしまうような、壮大な空間が広がっていた。
左右対称に円柱が等間隔で並んでおり、その間に敷かれた大理石の向こうに、鉄の玉座があった。
「姫! 新しい客人をお連れしました!」
王子が呼びかけると、左奥の赤い緞帳が開き、車椅子に乗った少女が現れた。
この無表情な少女が、親指姫だろうか。
彼女が身につけている衣装は、本来、従者や使用人が着る服に見える。黒いワンピースに白いフリルがついたエプロンなんて、姫というよりメイドのそれだ。
少女は車椅子のタイヤを自ら回して、こちらに向かってきた。
彼女がほんの三メートルの距離までやって来たところで、気付く。その膝の上に、美しいドレス姿の小さな人形が乗っていた。
少女が車椅子を止め、両手を広げてその人形をすくう。すると、差し出された手の平の上で、小さな人形が恭しく礼をした。
「はじめまして。物語管理局の城主、親指姫です」
何と! この人形のように小さな子が、親指姫だったのだ。そういえば、親指くらいの背丈だと王子も言っていた。
「驚いたかい。でも、小さいからって甘く見ちゃいけないよ。姫は怒ると怖いからね」
「王子。余計なことは言わないように」
「これは失礼しました」
親指姫に窘められ、王子が一歩下がる。
「物語管理局にようこそ。あなたを心から歓迎します」
愛らしくも凜々しい眼差しで、親指姫はそんな言葉をかけてくれた。彼女の言葉が鼓膜に届き、自分もここにいて良いのだと、ようやく確信を抱くことが出来た。
「姫は私が誰か知っているんですよね?」
「はい。それを伝えるのが、私の務めです」
気付かぬうちに、心臓の鼓動が速くなっていた。
一秒でも早く自分の正体を知りたいが、それは同時に、かつて辿った悲しい結末を知るということでもある。
「教えて下さい。私は誰なんですか?」
こちらの不安を感じ取っているのか、親指姫は一度、優しく微笑んでくれた。
「あなたの名前は『カーレン』です」
名前を聞いてもピンとこなかった。
「すみません。やっぱり、何も思い出せません」
「心配しないで下さい。皆、記憶を失った状態で、ここに辿り着きます。時間と共に、自分の物語を思い出す方もいますが、そうでない方が一般的です。カーレン、あなたが生きた物語の名前もお伝えしますね」
「はい。ぜひ、知りたいです」
それが分かれば、図書館で自分の物語を読むことが出来る。そうすれば、今度こそ何か思い出せるかもしれない。
「『赤い靴』です。あなたは、その主人公の女の子でした」
2
再度、王子と共に、幻想図書館へと向かうことにした。
私という人間について十分に理解出来たら、次は、ここでの仕事を親指姫が決めてくれるらしい。
これだけ大きな城だ。仕事は沢山あるだろう。でも、選べるなら、王子と同じ物語管理官になってみたい。私は早くもそんなことを考え始めていた。
その資質が自分にあるかも分からないけれど、悲しい物語を幸せな物語に変えるなんて、そんな素敵な仕事、なかなかないはずだ。
「あれ、おかしいな。君の本が見つからない」
幻想図書館には古今東西のあらゆる物語が収蔵されており、例外はないという。それなのに、何故か、あるべき書架に『赤い靴』が見当たらなかった。
「誰かが借りているということでしょうか」
「それなら書架の場所を聞いた時に、アヒル君が教えてくれたはずだよ。貸し出しは記録されているからね」
「なるほど。あの、アヒル君も何かの物語の登場人物なんですよね?」
「もちろん。彼は『みにくいアヒルの子』さ」
やはりその物語も知らなかったけれど、反射的に、とても可哀想な名前だと思った。エプロン姿の彼は、みにくいなんて言葉とはほど遠い。ぽっちゃりとした体形も、印象的な灰色の毛も、むしろ可愛らしさ満点だ。とてもじゃないが、私の目には、みにくいアヒルになんて見えない。
「『赤い靴』は何処に消えたんでしょうか」
「考えられる可能性は一つだね。正式な手続きを取らずに、誰かが持ち出したんだ。何百万冊もある本の中から、君の物語が偶然、このタイミングで持ち出されたとは考えにくい。誰かが君の正体を知り、先に持ち出したと考えるのが自然だ」
「でも、それって変じゃないですか。物語管理局に召喚された人の名前が分かるのは、親指姫だけなんですよね。姫に名前を聞いて、私たちはすぐに図書館に移動しました。第三者に本を持ち出す時間があったとは思えません」
「そうだね。これは大きな謎だ。僕も時間を見つけて、『赤い靴』を捜してみるよ。もしも犯人がいるなら、動機も気になる」
「ありがとうございます。王子には何から何までお世話になってばかりです」
「人を救うことが物語管理官の使命だ。当然さ」
私は『赤い靴』の主人公だという。しかし、薔薇園で目覚めた時、履いていたのは黒い靴だった。
本のタイトルになっているくらいである。物語の中で、赤い靴は重要な役割を果たしているはずだ。
物語が終わった時に、私が黒い靴に履き替えていた理由は何だろう。
そこには、どんな物語があり、私は一体、何者なのだろう。
「天空の間に戻ろうか。姫に事情を説明して、仕事をもらおう」
「王子。お仕事って自分では選べないんでしょうか?」
「聞いたことはないね。僕が知る限り、皆、与えられた仕事をまっとうしている。君はやりたい仕事があるのかい? 『赤い靴』というくらいだから、靴職人かな?」
「いいえ。叶うなら、私も物語管理官をやってみたいです」
勇気を出して告げると、王子は笑顔で手を叩いた。
「それは素敵な話だね! やる気のある人間は、いつだって大歓迎さ! この仕事はとてもやり甲斐があるけれど、時に、とても厄介だ。仲間は幾らいても足りない。僕からも推薦しよう!」
「本当ですか。嬉しいです!」
王子の応援は心強い。すぐには無理でも、推薦してもらえれば、いつか任命してもら
えるかもしれない。
天空の間に戻ると、金の扉の前で親指姫が待っていた。先程とは異なり、車椅子の無表情な侍女の肩に、ちょこんと座っている。
小さいというのは可愛いということなのかもしれない。ただ座っているだけなのに、そして、姫は城主なのに、本当に愛らしい。
「カーレン。あなたに新しい靴と衣装をプレゼントします」
車椅子の脇に、真っ赤な靴が一足、置かれていた。
「良いんですか? こんなに素敵な靴……」
「きっと似合いますよ」
それから、姫に促され、侍女が膝の上に置いていた衣装を広げた。
「あれ、これって……」
侍女の少女が掲げた服は、王子が着ているものとよく似ていた。金のボタンが印象的なダブルブレストのジャケットだ。
「物語管理官の制服です」
「じゃあ、私の仕事は」
「はい。あなたを【物語管理官見習い】に任命します」
親指姫はもしかしたら人の心が読めるのだろうか。与えられたのは、希望通りのお仕事だった。
「物語管理官はこの城の花形です。そして、最も責任の重い役職でもあります。カーレン、あなたにそれを務める覚悟はありますか?」
「もちろんです。ぜひ、やらせて下さい!」
やった!
推薦をもらうまでもなく、姫は私にもその資質があると考えていてくれたのだ。
「王子。あなたにはカーレンの指導係をお願いします。引き受けて下さいますね」
「姫、もちろんです。最初から、そんな気がしていましたよ」
王子は分かっていたとでも言いたげな顔で、嬉しそうに笑った。
私は自分がどんな人生を歩んだ人間なのか、まだ知らない。図書館でも確認出来なかったし、今のところ何も思い出せていない。それでも、頑張りたいと思った。誰かを幸せにすることで、いつか自分も幸せになれる気がするからだ。
「今から僕らは先輩と後輩だね。期待しているよ」
「はい! よろしくお願いします!」
3
案内された更衣室で、物語管理官の制服を身に纏い、親指姫にプレゼントされた赤い靴を履くと、不思議と力がみなぎってきた。
やはり赤い靴は私にとって何か重要な意味を持っているのかもしれない。
ようやく自分の姿も見ることが出来た。
年齢は十四、五歳といったところだろうか。
鼻筋が通り、瞳の色は緑。肌は透き通るように真っ白だった。私はこんな顔をしていたのだ。
童話のお姫様のように、誰もが振り向くほどの美貌じゃない。でも、こんな私で良かったと感じられるくらいには、愛嬌があると思う。
「制服、気に入ったみたいだね」
更衣室から出ると、早速、王子に心を読まれてしまった。
「どうして分かるんですか?」
「ご機嫌な鼻歌が聞こえたからね」
そうか。無意識のうちに、私は鼻歌なんかを。もしかしたら、『赤い靴』というのは、歌が好きな少女の物語だったのかもしれない。
「じゃあ、早速だけど、僕たちの仕事について説明しよう」
「お願いします!」
「作家が想像力を駆使して生み出す『物語』は、どれも素晴らしいものだ。哀しい物語であれ、苦しい物語であれ、どんな本も必ず誰かの心を熱くする。時代も国境も超えて、勇気を与えてくれる。でも、結果として、作中には不幸になってしまう者が生まれる場合がある。物語管理官の任務は、そういった登場人物を別の結末に導くことだ」
「具体的には何をしたら良いのでしょうか?」
「まず【物語の鍵】を振って、【時空の扉】を作る。その扉から物語の世界に飛び込み、ストーリーを変えるんだ」
「つまり私たちも登場人物の一人になるということですか?」
「そういうことだね。任務では注意しなければならないことが五つある。まず一つ目。本来の物語を尊重するために、大前提を変えてはいけない。『ジャックと豆の木』を思い出して。ジャックが不思議な豆を手に入れなければ、オウガが死ぬことも、子どもたちが親を失うこともなかった。でも、それでは別のお話になってしまう」
確かに。ジャックが豆の木を登らなければ、あの童話は始まらない。
「二つ目。介入するのは、極力、中盤から終盤にかけてだ。物語は生きている。序盤から展開を変えてしまうと、想像も出来なかった危険が発生しかねない。物語管理官の強みは、結末までの出来事をすべて知っていることなのに、それを生かせなくなる」
「そうか。展開が変わってしまったら、事態を察知出来なくなりますもんね」
「話が早くて助かるよ。だから、なるべく物語を忠実になぞりながら、ここぞという場面で介入するんだ。任務では動くべき場所を正確に見極めるセンスが重要になる」
「物語を細部までしっかり理解しておく必要がありますね」
「その通り。三つ目。物語に持ち込めるのは、身につけている衣装や装身具だけだ。帽子を被っても良いし、コートを羽織っても良いけど、道具を持ち込むことは出来ない」
なるほど。作品に登場しない物に頼ってはいけないということか。
「四つ目。物語の鍵は、出現してから三日以内に使用しなければならない。その期間を過ぎると、時空の扉を開けなくなる」
「難易度が高い任務でも、完璧な作戦を思いつくまで旅立ちを先延ばしにするということは出来ないんですね」
「うん。準備に集中するあまり、時間切れで失敗してしまった管理官もいる。十分に注意して欲しい。最後に五つ目。物語管理官には一つ、禁忌がある」
「禁忌ですか?」
王子の顔に、憂いの影が射した。
「それは、絶対に自分の物語に飛び込んではいけないということだ。君の場合であれば、『赤い靴』の鍵が現れたら、それはほかの管理官に託されることになる」
「そうなんですね。でも、どうしてですか? 自分自身の物語であれば、誰よりも真剣に任務と向き合える気がします」
「どんな管理官も冷静ではいられなくなるからだそうだ。実際、過去に禁忌を犯し、失敗した管理官がいるらしい」
私の今の立場は見習いである。今後、正式な任命を受けられる保証もないし、そもそも『赤い靴』を読んでいないから、自分がどんな結末を迎えたのかも分からない。今のところ、ルールを破ってまで、どうこうしようなんて気持ちはまったくなかった。
「分かりました。五つの注意事項を心に留めて、頑張ります。まずは物語の鍵が必要なんでしたよね。それは、何処にあるんですか?」
「新しい物語の鍵は、雪の女王の部屋に不規則に現れるんだ」
「この城を造った方でしたっけ?」
「うん。女王は副城主を務めているんだけど、実直な親指姫とは対照的な人だから、気を付けて欲しい。素晴らしい力を持っているのに、悪戯が大好きで、普段から余計なことにばかり能力を使っている」
「覚えておきます」
「では、新しい鍵をもらいに女王が暮らす【氷の館】に行こう」
目的地は幻想図書館の反対側、城の外に突き出した空中回廊の先にあるらしい。
螺旋階段を下り、空中回廊に出ると、気持ちの良い風が吹き抜けていった。
天空の間のある最上階から数階下ったのに、まだ想像していた以上の高さがある。
「あれが氷の館だ」
空中回廊の先に、奇妙な形の屋敷が存在していた。大木の一角に作られた鳥の巣のように、そこだけ独立しており、槍のような物が無数に突き出している。
「変わった外壁ですね。ハリネズミみたいです」
「針のように見えるのは氷柱さ。雪の女王の部屋は、氷で出来ているんだ」
「あの部屋も女王が造ったんですよね?」
「もちろん。女王は不思議な力を持っている方だからね」
氷の扉をくぐり、室内に足を踏み入れると、白銀の世界が広がっていた。
寒さが背筋まで伝わってきて、思わず震えてしまう。
外観よりも明らかに中の部屋が広い。左側の壁には、数え切れないほどの鍵がぶら下がっていた。
「あれが物語の鍵ですか?」
「いや、あれはかつて物語の鍵だったものだ。使用済みで、今は【記憶の鍵】と呼ばれている。物語管理官が任務に成功すると、物語の鍵から進化するんだ。記憶の鍵はアルバムのようなもので、管理官に救われた物語を確認することが出来る」
左側の壁は、ほとんど天井近くまで記憶の鍵に覆われている。先輩管理官たちは既にこれだけの数の物語に飛び込み、登場人物たちを救ってきたのだ。
「やあ、王子じゃないか」
後方から低い声が届き、振り返ると、目の前に痩せ細った不気味な女が立っていた。あまりの距離の近さに、思わずのけぞってしまう。
足音一つ聞こえなかった。いつの間に真後ろに……。
「女王。彼女を驚かせないで下さい」
「面白いことを言うねぇ。私はむしろ驚かせたかったんだよ」
「知っています」
真っ白な髪の下に、透き通るような青白い顔が覗いている。女王が不気味な笑みを浮かべると、周囲の気温がさらに下がった。
「カーレンと言ったか。今回の新人は可愛らしい子じゃないか。どれ、その顔を、もっと見せておくれ」
細長い指が私の頰に触れるより早く、王子が私の腕を摑んで引き寄せた。
「女王。僕らは新しい鍵を受け取りに来たんです。彼女に悪戯をするのはやめて下さい。いつかのように、また自分の顔と取り替えて、遊ぶつもりだったでしょう?」
「王子は私を誤解しているねぇ。そんな酷いことはしない。ただ、ちょっと左目を借りようとしただけさ。その緑の瞳に映る世界に興味があったのでね」
左目を借りる? 一体、何をされるところだったんだろう。
女王から目を離さずに、じりじりと後ろへ下がる。
王子が言っていた通り、この人には気を付けた方が良さそうだ。
「ほら。これが一時間前に現れた、新しい物語の鍵だ。見習いには丁度良い仕事かもしれないね」
「頂きます」
女王から鍵を受け取ると、王子は右足を引き、右手を身体に添えて礼をした。
「図書館に用事があったのでね。ついでに本も借りてきたよ」
雪の女王が指を鳴らすと、一冊の本が空中に現れ、私の手の上に落ちた。
本の表紙には『マッチ売りの少女』と書かれている。商売人の話だろうか。
「感謝します。では、僕らはこれで」
長居は無用ということだろう。王子の後に付いて部屋を出ようとしたのだけれど、
「待ちたまえ。副城主として忠告しておきたいことがある」
扉の前で振り返ると、女王が見つめていたのは私ではなかった。
「王子。その小娘には気を付けた方が良い」
「どういう意味ですか?」
女王の顔から不敵な笑みが消える。
「あの『赤い靴』のカーレンだ。さぞかし老兵を恨んでいることだろう。久し振りに禁忌を犯す人間が現れるとすれば、その小娘さね」
老兵を恨む?
私は物語の中で、その老兵に何かされたのだろうか。たった一つの禁忌を犯そうとするほどの、何かを。
「不幸な結末を迎えた者は、自分の物語に飛び込んだ場合、往々にして復讐に囚われ、過ちを犯す。頭に血が上り、酷い失敗を繰り返すことになる」
「ご忠告ありがとうございます。でも、彼女はそんな人じゃありません」
王子は一秒も迷わずに、そう断言した。
「僕は彼女を信じています。杞憂ですよ」
「今日、会ったばかりだろう? 何が分かるというんだ」
「実は図書館から『赤い靴』が消えていたので、彼女は自分の物語を知らないんです。だから、誰かを恨んでいるということもありません」
「なるほど。だが、すべての事象には意味があるものだ。誰かが本を隠したのであれば、そこには相応の理由がある。小娘が生きた物語が、目を逸らしたくなるほど凄惨だったからか、それとも、もっと別の理由があったのか」
長く細い指で自らの顎を撫でながら、
「重ね重ね忠告するが、この小娘をしっかりと見張っておいた方が良い」
雪の女王は私を見据えて、そう断言した。
「僕は指導係です。見張るのではなく、見守るのが務めです」
「さすがは王子。私の凍てついた胸まで熱くなるようだ」
「行こう。気にしなくて良い。思ってもいないことも口にする人だ」
「頑張りたまえ! 君たちの未来のためにもね!」
女王の笑い声が響いたが、王子はもう振り返らなかった。
部屋を出ると、噓のように天候が変わっていた。
つい先程まで雲一つない大空が広がっていたのに、激しい雨が降っている。
「女王が天候を変えたんだ。何がお気に召さなかったのか知らないが、本当に困った人だよ。回廊の床が濡れている。滑らないよう気を付けて」
空中回廊は両脇に手すりがあるだけで吹きさらしだ。
強い風に煽られ、バランスを崩した私の手を、王子が摑んだ。
王子の手の平は不思議と温かい。そして、迷いや恐怖を打ち消すように、力強い。
それなのに、何故だろう。
不気味に笑う女王の顔が、どうしても頭から離れなかった。
4
物語管理局に辿り着いた者には、それぞれ自室が与えられる。
もらえる部屋は人間なのか動物なのかによって異なるらしく、私が与えられたのは、西の湖が見える見晴らしの良い小部屋だった。
ロココ式の装飾が施された赤木の机、ハートをモチーフにした猫脚の椅子、スタイルカーテンを施した天蓋付きベッド、備え付けの家具は、どれも可愛いのに高級感がある。まるでお姫様にでもなった気分だ。
作中で幸せになれなかった者を救うには、物語の細部や結末を正確に把握しておく必要がある。
一通り室内の家具を愛でてから、椅子に腰掛け、雪の女王に渡された書籍を開いた。
見習いとして私が挑む最初の物語は、『マッチ売りの少女』である。
大晦日の夜に、年端もいかない少女がマッチを売っている。
しかし、購入者は現れない。馬車にひかれそうになり、靴を失い、少女は裸足で震えているが、お金をめぐんでくれる者も、心配して声をかけてくれる者もいない。
マッチは一本も売れていない。このまま帰宅すれば、父親にぶたれてしまうだろう。
凍える少女は、暖を取ろうとマッチに火をつける。すると火の中に、ご馳走やクリスマスの風景、この世でたった一人、優しかったおばあさんの姿が浮かび上がった。
火が消えてしまえば、おばあさんも消えてしまう。大急ぎで残りのマッチをすべてすると、周囲は真昼よりも明るくなった。それから、少女はおばあさんに抱き締められ、光に包まれながら天高く昇っていく。
翌日の寒い朝、路地には燃え尽きたマッチを握り締めたまま死んでいる少女がいた。
とても短い物語だ。あまりにも悲痛な物語だ。
それなのに。こんなにも哀しい物語なのに。一度読んだだけで、私の心は『マッチ売りの少女』に囚われてしまった。虜になってしまった。
哀しいがゆえに美しい。記憶ではなく心に染み込む物語だった。
もう二度と、私はこの素晴らしい物語を忘れないだろう。
今回の任務は、この少女を救うことである。
喜びに満たされて死んだ少女の亡骸は、微笑んでいた。だけど、こんな結末が、寒さに凍えて死んだ少女の人生が、幸せであったはずがない。
私は絶対に、彼女を、マッチ売りの少女を、救いたい。
王子とは正午に一階の食堂で会うことになっていた。
早く、この物語を読んで欲しい。
気付かぬうちに溢れていた涙を拭い、足早に待ち合わせの場所へと向かう。
食堂の扉を開けると、ティーカップを手にした王子が待っていた。
「やあ、早かったね」
「心に残る物語でした。すぐに任務の相談がしたいです」
林檎の甘い香りを漂わせる王子に、本を差し出す。
「ああ。言ってなかったけど、僕はもう読んでいるんだ」
王子はティーカップをソーサーに置くと、真面目な顔で私に向き直った。
「話し合いの前に、確認しても良いかな。君が救いたいと思っているのは誰?」
どうしてそんなことを質問するんだろう。
「もちろん、マッチ売りの少女です。間違っていますか?」
「いや、僕もそのつもりだよ。ただ、作品によっては、複数の人間が救出対象になることもあるんだ。だから、任務に向かう前に、慎重に物語を精査する必要がある」
「分かりました。私からも一つ、質問させて下さい。物語の鍵は、今日、氷の館に現れたんですよね? 既に『マッチ売りの少女』を読んでいたということは、王子は次の任務がこの物語になると知っていたんですか?」
「いや、任務とは関係なく読んでいたんだ。彼女はこの城の住人で、友人だからね。作戦を立てる前に、会っておこうか。彼女は洋裁師として働いている。僕らが着ている制服も彼女が作ったものだよ。この時間なら三階の裁縫室にいるはずだ」
「そうだったんですね。もっと幼い子を想像していたので、意外です」
「彼女は確か九歳だったかな。この城で暮らしているマッチ売りの少女は、まだ救われていない。だから、今の彼女は物語中の姿だ。裸足だし、とても痩せている」
「この城には食堂があるし、食べ物が足りていないようにも見えません。それなのに、どうして彼女は痩せているんですか?」
「僕たちは物語を終えた時の姿で、ここに召喚される。死んでしまった者は、その直前の姿だ。物語を生きたものの本能とでも言えば良いのかな。物語管理官によって結末を変えられるまで、身体が本来の姿を維持しようとするんだ」
「そんなの……。一日中、裸足で、好きな物も食べられないなんて、あんまりです」
「だからこそ、僕ら物語管理官の仕事があるんだ」
裁縫室に出向くと、小柄な少女がミシンに向かい、一心不乱に手を動かしていた。
自分の仕事に夢中なのだろう。少女は私たちに気付いていない。
彼女の隣には、色とりどりの布が高く積まれていた。
背後の壁に完成した服がかけられており、陽光が差し込む左側の窓辺には、小さな鉢が置かれていた。
咲いている一輪の花はヒナギクだろうか。少女の仕事を見つめながら、鉢の縁に止まったひばりが楽しそうにさえずっていた。
「二人は今日も仲良しだね」
王子がヒナギクの花弁を優しく撫でると、ひばりが軽やかに飛び上がり、王子の肩に飛び乗った。
それから、ひばりが誇らしげに歌い出すと、裁縫中の少女が私たちに気付いた。
「やあ、仕事中にすまない。君の物語の鍵が現れたよ」
王子がそれを告げると、少女は痩せ細った手で顔を押さえて泣き出した。
「やっと私の番が来たんですね」
瞳に涙を滲ませたままうつむき、少女は自らの足を触る。
「物語の中で命を与えられていなければ、私は存在しません。この世界に生んでもらえただけで、本当に幸せです。でも、自分の人生を知ってから、ずっと、胸の奥が冷たいんです。忘れられない寂しさが、凍えるような孤独が、心の奥の方に住んでいて、食事も喉を通らなくて」
「長い間、つらかったね。でも、もうすぐだ」
「王子。どうか、お願いします。私を救って下さい。私も皆と笑顔でご飯を食べたいんです。可愛い靴だって履いてみたい」
涙を流しながら頼む少女に、王子は胸を張る。
「任せてくれ。僕は誰もが幸せになった世界が見たい。カーレンも同じ気持ちでいる。絶対に君を救うよ」
「はい。私も全力を尽くします!」
決意を口にすると、マッチ売りの少女は、痩せた手で私の手を握り締めてきた。
その温もりを胸に刻み、きびすを返したところで、不意に思った。
貧しさに苛まれ、真冬の夜に命を落としたマッチ売りの少女は、今も満足に食事が出来ないという。でも、私はどうだ? 『赤い靴』の女の子である私には、今のところ自覚出来る不幸の片鱗がない。
私は物語の中で、一体どんな哀しい結末を迎えたんだろう。
物語管理官は【冒険の間】から旅立つ。
銅の扉を開けて薄暗いその部屋に入ると、中央に二つの姿見鏡が立っていた。その鏡面が七色に輝いている。
「これは別の管理官が飛び込んでいる時空の扉だ。表面の発色は使用中の証さ。後から別の管理官が入ることは出来ない。さあ、僕らも準備をしよう」
王子が物語の鍵を振ると、目の前に三つ目の姿見鏡が出現した。
「覗いてご覧。普通の鏡とは違うことが分かるはずだよ」
「本当だ。何も映っていませんね」
鏡面に霧がかかっており、前面に立っても何も見えなかった。
「物語の世界に飛べるのは一度きりだ。誰かが通過すると表面が七色に輝き、入れなくなる。もちろん、戻って来ることは出来るけどね」
「一人しか出入り出来ないんですね。じゃあ、任務も私一人で?」
「いや、手を繫いで入れば、複数の人間が同時に鏡を通り抜けられる。見習いの君を一人で行かせるわけにはいかないよ」
空中回廊で風に煽られた時に、一度、王子と手を繫いでいる。
華奢なのに王子の手は力強かった。思い出しただけで自然と頰が熱くなる。
「扉を一度しか通過出来ないということは、失敗したらどうなるんですか?」
「当然、該当する人物は不幸なままだ。城内での状況は何も変わらない」
「永遠に不幸なままということですか?」
「管理官が任務に失敗した場合、時間をおいて、再度、物語の鍵が現れるんだ。ただ、救出が先送りになるから、随分と待たなくてはならない」
そうか。失敗する可能性もあるから、彼女はあんなにも切実な表情を見せたのだ。
「責任重大ですね」
「ああ。だから事前準備が重要になる。どうやって救うのか、どうすれば本当の意味で救えるのか、しっかりと整理してから、物語に挑む必要がある」
少し前に見たばかりの少女の涙が忘れられない。
悲しい涙は、今日で終わりにしてあげたい。
「とは言っても、今回は、そこまで深刻に考える必要はない。大変なのは邪魔をする者がいる物語だ。戦う相手がいる場合と言い換えても良い。例えば勇者や戦士が登場する物語で、悪役を救う場合は、難易度の高い任務になる。何しろ敵は英雄だし、そもそも救う相手が協力的でない場合も多い」
「なるほど。でも、今回の場合、悪役はいません」
「その通り。少女の父親は彼女につらく当たっているけれど、それは娘が憎いからじゃない。少女が靴を失ったのも、単なる事故で、そこに悪意があったわけじゃない。カーレン、これは君の初めての仕事だ。僕はあくまでも助手に徹しようと思っている。どうすれば彼女を救える? 彼女の救いとは、幸せとは、何だ?」
簡単なようで、しかし、とても難しい問いだった。
裁縫室で会った彼女は、物語の中で命を与えられたことを、心から感謝していた。そして、いや、だからこそ、消せない寂しさと孤独に悩んでいた。
少女が愛した物語を、大きく変えることは許されない。きっと、そんなことは彼女も望んでいない。物語を尊重しながら、彼女の願いを叶える必要がある。
「答えが見つかったら、一緒に行こう。君がこの物語を変えるんだ」
*
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著者プロフィール
綾崎隼(あやさき・しゅん)
1981年新潟県生まれ。2009年に第16回電撃小説大賞選考委員奨励賞を受賞し『蒼空時雨』(MW文庫)でデビュー。「花鳥風月」シリーズ、「ノーブルチルドレン」シリーズなど人気シリーズほか多数刊行し、『死にたがりの君に贈る物語』(ポプラ社)ではベストオブけんご大賞を受賞。他著書に『ぼくらに嘘がひとつだけ』(文藝春秋)など。恋愛小説、ミステリ小説の書き手として10代20代女性読者から多くの支持を得ている。