目次に並ぶ文字の意味が、ほぼわからなかった。
「ヴィルトゥオーゾのカプリス」、「シュヴァリエのクラージュ」、「トルバドゥールのパシオン」、「ピオニエのメルヴェイユ」――。理解度としては、ええーっと……フランス語……です、か? 程度でしかない。
併記されている「ポワレ」や「コンフィ」はなんとなくなら想像できた。ポワレは焼いたもの。コンフィはオイル系でじわじわ煮たもの。調理法……です、よね? 程度に。もちろん、自信はない。
キッチンカーと、客席として使用する小さなサーカステントを詰め込んだトラックで、全国各地を旅するビストロ「つくし」を営む江倉有悟と颯真の兄弟を中心に描かれた本書『すきだらけのビストロ うつくしき一皿』には、フランス語だけでなく「よく知らない」ものごとが次々に登場する。
たとえば。「不協和音」は知っていても、<音楽では、隣り合った二音は互いにぶつかり合い、濁った響きになってしまう>とまでの知識がある人はそう多くはないだろう。シェイクスピアの「夏の夜の夢」は有名作品ではあるけれど、大半の人は原作を読んだこともなければ芝居を観たこともないのでは? 個人的には、美術展に行ったことはあるけれど「フランスで活躍した画家」をすらすら挙げることは難しいし、クラシックのピアノコンサートに足を運んだこともなければ、能や狂言は観たいと思ったことさえなかった。
「よく知らない」のは、これまで興味がなかったからだ。そして興味がなかったのは、乱暴な言い方をすれば、自分にとって必要ではなかったからだろう。でも、だけど。本書を読み終えた今、自分のなかで好奇心がむくむくとわきあがってくるのを感じている。うわ、美味しそう! あぁ面白そう! これはもっと知りたい! 本書には、なにかを「好きになるきっかけ」が、たっぷりと詰まっている。
物語は、一本の電話がかかってきたことから動き出す。「ひとを捜したいんだ」。有悟は、ある事情から、かつて世話になった「翁」と呼ばれる人物を見つけだし、どうしても渡したいものがあると言い出す。ところが「翁」の住所や連絡先はおろか、本名すらわからないという。年齢不詳、顔写真もない。有悟にわかっていることは、翁が自分の料理を気に入り、特にナス料理を褒めてくれた事実だけ。あまりにも漠然とした話に憮然としつつも、颯真は「翁」捜しに協力することに。
「翁」は、いわゆるパトロン的な人物で、様々なジャンルの若き芸術家たちが、その才能を存分に発揮しかがやくまでを支援している。有悟と颯真は「翁」の情報を求め、彼から支援を受けた「かぐやびと」と呼ばれる人々の話を聞きに日本各地へと出向き、その先々でビストロ「つくし」を開く。
一方、独特の雰囲気をもつ「つくし」には、それぞれに鬱屈を抱えた客がやって来る。商品企画を担当する同僚とウマが合わないジュエリーデザイナー。交際中の年上女性にサプライズで指輪を贈ろうと目論むが、まったく思い通りにことが運ばない青年。自分の失言で夫婦仲がぎこちなくなり、妻が浮気しているのではないかと疑心暗鬼になっている夫。主演女優と演出家の衝突に気を揉む舞台監督。進みたい道への手応えが得られず、なにもかもうまくいかないと意気消沈している服飾系の専門学生。忙しない日々のなか、定年退職した父親に痴呆がではじめているのではないかと案じる娘。
シェフとして調理を担当する、シロクマのように大きくおっとりとした有悟と、ギャルソンとして給仕を担う、細く俊敏な猫のような颯真。ふたりの過去と、ビストロを営むことになった経緯や、「翁」とのエピソード、「かぐやびと」との関わりを描く章と、店を訪れた客たちの視点で綴られる章。音楽、美術、芝居、ミュージカル、映画、能、そして料理を、提供する側と享受する側から綴る物語は、意外なところで交わり、繋がり、続いていく。謎解きの愉しさがあり、お仕事小説の厳しさがあり、家族小説の切実さがある。
果たして有悟と颯真は「翁」に巡り合えるのか。それはもちろん、物語の太い幹ではあるものの、そこから広がる枝葉の美しさが読者の心を強くする。「好きなものは増えれば増えるほどあなたを強くする。たくさん出逢ってほしいわ、映画でもお洋服でも本でも」。<ビートルズとほぼ同世代>のある登場人物の言葉を、そっと胸に留めておきたいと思う。
冒頭に記した謎のフランス語は、客に合わせて有悟が作る「本日のスペシャリテ」の料理名だ。どんな意味があるのか。ここには知ることの楽しさが溢れている。
――引用――
★「ヴィルトゥオーゾのカプリス」、「シュヴァリエのクラージュ」、「トルバドゥールのパシオン」、「ピオニエのメルヴェイユ」=目次
★<音楽では、隣り合った二音は互いにぶつかり合い、濁った響きになってしまう>=P44~P45
★「好きなものは増えれば増えるほどあなたを強くする。たくさん出逢ってほしいわ、映画でもお洋服でも本でも」。=P204
★<ビートルズとほぼ同世代>=P199
プロフィール
藤田香織(ふじた・かをり)
書評家。1968年生まれ。音楽出版社勤務の傍らブックレビューを書き始め、98年にフリーライターに。著書に「だらしな日記」シリーズ、『ホンのお楽しみ』、杉江松恋さんとの共著に『東海道でしょう!』など。