序章
――物悲しげな桜だ、と幼心に朱里は思った。
幕府が倒れ、五十余年。現在は御上のお座す宮城、その小さな庭園に寒緋桜が咲いていた。父は大人同士、離れた場所で誰かと何事かを相談し合っている。なんとなく子供がいては邪魔だろうと察し、朱里は一人離れて、桜の木を眺めていた。
立派な大木であった。青空の下で広がる枝葉は、帝國が掲げる富国繁栄の象徴のようだ。だが寒緋桜の花は一様に頭を垂れている。そういう花だ、と言われればそれまでだが、朱里はどこか悲哀を感じずにはいられなかった。
冬の名残を含んだ風が、朱里の艶のある長い髪や浜縮緬の着物を揺らした。煽られた袖を押さえようと手を伸ばす。
すぐ近くで、ざり、と草履で地面を擦る音がした。
はっとして、朱里は振り返る。
気づかぬうちに、見知らぬ少年が立っていた。
年頃は朱里よりも少し上だろう。あどけない顔の中に、すでに男らしい精悍さが見受けられた。立派な紋付袴を身に纏い、堂々たる姿である。しかし朱里を見つめる黒い双眸は、大きく見開かれていた。
「君は……もしや、桜の精……?」
感嘆交じりの口調に、朱里は目を丸くした。精霊に見立てられたことなど、六年間の人生で一度もない。
ましてや――退魔士の家に生まれたのなら、精霊は軽々しく口にするものではない。
精霊とは大いなる自然の力を司る存在であり、呪術を扱う者としての基本だ。
今、ここに――年に一度、退魔士達が御上に謁見するための場――『清庭の会』にいるのであれば、彼もまた退魔士の家に生まれた者だ。
退魔士としての心構えを説くか否か、朱里が考えあぐねている間に、少年は我に返ったように目を瞬き、頰を赤く染めた。
「すみません。こんなことを言うつもりでは」
朱里は少年を凝視した。
「私は人です。名前だってあります、私は――」
「待って。いけません、名乗っては」
言われ、朱里はとっさに押し黙る。退魔士はお互い、名を明かさない。特に姓と名の両方――真名を摑まれれば、呪いの的となる。
つい先刻まで窘めるつもりであったのに、立場が逆になってしまった。気まずくて視線を逸らす朱里に、少年はやおら歩み寄ってきた。
腕を伸ばしても届かぬほどの間を空けて、少年は止まった。朱里ではなく、寒緋桜を見ている。
「綺麗に咲いていますね、とても誇らしげに」
「そうでしょうか。私にはなんだか悲しげに見えます。……だって花が全部、下を向いてるじゃありませんか」
朱里は自身の足下を睨んだ。白い足袋や赤い鼻緒も、どこか褪せて見える。
ここ一月、こうして陰鬱になることが多かった。尋常小学校の友人にも心配をかけている。
「――何か、悲しいことがあったのですか?」
頭の上に優しい声が降ってきて、気がつくと顔を上げていた。
少年が包み込むような眼差しで、朱里を見つめている。
心配とも同情とも違う、ただありのままの感情を受け止めてくれるような表情に――朱里は知らぬうちにくしゃりと顔を歪めていた。
「……お、お母様が、先月、亡くなったの……」
堰を切った感情はもう止まらなかった。
「仕方ない、分かってる。去年の流感で親を亡くした子なんてたくさんいるもの。だけど、だけど、あんな、酷いお姿――」
母の死に様が脳裏に浮かび上がる。頰を大粒の涙が伝った。
「う、ううっ……おかあさま……お母様……」
少年はしばらくの間、何も言わなかった。
満開の寒緋桜が放つ香気が、辺りに漂っている。
ひとしきり泣いた朱里は控えめに洟をすすりながら、恐る恐る顔を上げた。
少年は先刻と変わらず、包容するように朱里を見つめていた。
「――俺も君と同じだ。一昨年、母を亡くした」
気安い口調の告白に、朱里は目を丸くした。
「あなたも……?」
「ああ。だからといって、君の気持ちが全部分かるとは言わないけれど。――ちょっとおいで」
優しく手招きされる。大泣きした手前、きまりの悪かった朱里は無言で従った。
朱里が隣に来るのを待ち、少年は桜を真っ直ぐ指差した。
「花が下を向いていたとしても、こうして見ると懸命に咲き誇っている」
それは木の真下に行かなくては知り得ない光景だった。紅色の花が陽光に照らされ、ぼんぼりのように輝いている。一つ一つの花弁が儚くも美しく、そして気高い。
「綺麗……」
朱里はじっと見入る。俯いていたはずの寒緋桜は凜として、強ささえ感じた。自分もあのようになりたいと憧憬を抱くほどに。
しばし黙っていた少年が不意に言った。
「強くていい目だ。君なら、きっと大丈夫」
春風が二人の間を通り抜けた。桜の花弁がはらはらと舞い落ちる。
「あっ、少しそのままで」
ふと、少年が朱里の前髪に触れた。親指と人差し指で一枚の花びらを摘まんでいる。
「えっ――?」
子供とはいえ、身内以外に髪を触れられたことがなかった朱里は、驚いて前髪を押さえた。一方の少年もかあっと目元を染めている。
「ごめん、思わず……。取ってあげなきゃと思って」
手の中の花びらをもじもじと弄ぶ少年を見て、つい、朱里は小さく吹き出した。
「……ありがとう」
すると、少年はますます真っ赤になって俯いた。
大人びたことを言うかと思えば、年相応に照れた顔を見せる。朱里は困惑しながらも、彼に興味を抱かずにはいられなかった。
白磁の頰に朱が差している。大きな瞳は黒曜石のようだ。背が高く、足が大きくて、しっかりとした体つきをしている。梅と五芒星の紋が入った紋付袴がよく似合っていた。袴の裾が少し足りていないので、誂えている間に成長してしまったのかもしれない。
そこまで考えて、朱里はふと、彼の袴の後ろに動くものを見つけた。風に揺れるすすきのようにふわふわとしたそれは――。
「……犬の、尻尾?」
考える前に呟いていた。宮城で飼っている犬がいるのだろうか。だとしても放し飼いにするとは思えないが――。
すると、少年は慌てて尻尾のようなものを後ろ手に隠した。
「俺は――その、まだ未熟者で」
未熟者? 一体、何の話だろう。朱里が質問を重ねようとした、その時だった。
「――そこで何をしているッ!」
胴間声が静寂を打ち破った。心当たりのある声に、朱里はびくりと肩を竦める。
大股で近づいてきたのは、朱里の父・紅蓮野眞源であった。顔は歪み、ぎょろりとした目が怒りに燃えている。
眞源はあっという間に朱里の前までやってくると、乱暴に手を取った。痛みを感じたが、朱里は悲鳴を呑み込んだ。
「大人しくしていろと言っただろう」
「申し訳ありません、お父様」
朱里は涙目になりながら謝罪した。何故、父が憤慨しているのかまるで分からない。
眞源はずいっと、朱里と少年の間に割って入った。
「娘に何を吹き込んだ。穢らわしい妖魔め」
朱里は息を呑んだ。妖魔? この少年が? だがここは宮城だ。物理的にも呪術的にも、帝都でもっとも警護の固い場所であり、妖魔が入り込めるわけがない。
けれど少年は苦しげに唇を引き結んだ。突然現れた眞源に驚いている風でもあり、さらには『妖魔』と呼ばれることに、返す言葉もないように見える。
そこへ、もう一つ、今度は聞き慣れない声が割り込んだ。
「神聖なる『清庭の会』において、随分な言い草ですな」
少年の後ろからゆったりとした足取りで現れたのは、父と同じ年頃の男性であった。少年と同じ家紋の入った紋付袴姿で、細面に銀縁の丸眼鏡をかけている。
「父上……」
場所を譲るように少年は一歩退いた。代わりに眞源と対峙したのは、少年の父親だ。
「もうすぐ会が始まります。急がれてはいかがか」
「そのままそちらに返そう。妖魔の血を取り込んでまで、家の繁栄を願われたのだ。御上の覚えが目出度くなるよう、せいぜい尻尾を振ればいい」
見えない雷電が二人の間に逬っている。先に折れたのは少年の父の方だった。小さく鼻を鳴らして、踵を返す。少年は朱里を見つめていたが、立ちはだかる眞源に気圧されたのだろう。目を伏せて、大人しく父の後を追った。
嵐のような出来事に、朱里は立ち尽くすしかなかった。眞源は去りゆく父子の背中を睨み付けながら、唸るように言った。
「朱里。あれが青梅家の連中だ」
「青梅家――」
父の口から幾度も聞いたことのある名を、朱里は繰り返した。
――青梅家。
朱里が生まれた紅蓮野家と並ぶ、退魔士の大家である。
古くから、紅蓮野家と青梅家は激しく反目している。
発端は平安時代にまで遡る。
青梅家の先祖である陰陽師が、京の流行り病を鎮めるべく祈禱を行った。だが病は収まらず、朝廷はさらに紅蓮野家の先祖へ儀式を依頼した。
儀式は無事成功し、病に苦しんでいた人々は助かった。だが、その直後から紅蓮野に連なる人間が次々と死んでいく。彼らの成功を妬んだ、青梅の呪詛だとされた。そこから泥沼の争いが始まった――らしい。
以来、両家は大正の世の今に至るまで、先祖代々の恨みを抱えている。
朱里にはそんな大昔、何があったのかは分からない。ただ少年と話していたことで父の怒りを買ってしまった、その後ろめたさだけがあった。
黙り込む朱里に、眞源が重々しく告げた。
「奴らは人と妖魔の血を引く、悪鬼だ。人の身でありながら、妖魔の力を使う」
朱里は少年の背後にちらついていた尻尾を思い浮かべる。こんなところに獣がいるのかと最初は思ったが、違った。きっと――彼もまた妖魔の血を引いているのだ。
「幕末期からは、異邦の妖魔を娶ってまで、積極的に血筋を穢しているという」
朱里、と父は静かに呼びかけた。
「そして――時子を、お前の母をあのように無惨な姿にしたのは、奴らよ」
「え……」
朱里を見つめる眞源の瞳には一点の曇りもない。父の言葉が真実なのだと悟った瞬間、さあっと血の気が引いていくのを感じた。
母・時子は先月、亡くなった。自宅の庭で倒れているところを、朱里が発見した。
だが、それはただ亡くなったのではなかった。
あれほど美しかった母は変わり果てていた。その姿はまるで木乃伊だった。全身の血という血を抜かれ、瑞々しかった肌は荒野のように乾き、ひび割れていた。
あの母の遺体を目にした瞬間、朱里の心は一度、砕けた。それはもう二度と塞がらない傷となった。
「異邦には人の生き血を吸う妖魔がいるという。紅蓮野の本邸の強固な結界を破り、下手人は侵入したのだ。呪術に精通し、尚且つ妖魔の血を引く者。青梅の半妖――奴ら以外にそれが可能な者はおらぬ」
芯から冷えていた体に、やがて小さな火が灯った。
それは瞬く間に、朱里の内で身を焦がすほどの怒りとなった。
少年との交流は記憶の彼方――否、何も知らない自分に近づいて、声を掛けてきたことが憎い。朱里が母の死を語っていた時、同情していた態度も白々しく思える。
「あれが……お母様の仇――」
胸の前で拳を握りしめる。目の奥が熱を帯び、視界がぼやけていく。それでも朱里は決して涙を零すまいと、奥歯を嚙み締めた。
「――左様。その魂に刻め、朱里」
父もまた憎悪を込めた口調で、低く唸る。
「青梅家を打倒することこそが、我ら一族の――そして私達遺された者の悲願なのだ」
第一章 紅蓮野家と青梅家
「――あら、ご覧になって。我が女学校の『ジュリヱット』様よ」
多分に揶揄を含んだ声が、校舎の陰から聞こえてくる。紅蓮野朱里が長い髪を翻してそちらを見やると、学友達がくすくすと忍び笑いを漏らしていた。
沙翁の戯曲になぞらえて、名前が『朱里』だから『ジュリヱット』――くだらない渾名だ。姦しい小鳥の囀りに耳を貸している暇は無い。
――私には使命がある。果たさなければならないお役目が。
朱里は颯爽と袴を翻し、学び舎を去る。
赤茶色の門柱を持つ鉄製の正門が見えてきた。満開の桜並木が、文字通り花を添えている。時は夕刻。生温い風が、盛りを終えて散りゆく花弁を弄ぶ。
女学校の生徒達は、迎えの者と共に自動車へ乗り込んでいる。しかし朱里は迎えもなく、自分の足で一人、正門を離れていく。
朱里の通う華族園女学校は、十数年前の火災を受け、永田町からここ青山へと移転した。歩けば少しも経たないうちに青山通りへと出る。
背の高い建物に挟まれた路を、赤い市電が走っていった。市電が通り過ぎるのを待ち、朱里は青山通りを渡った。
郵便局の角を折れ、青山霊園を過ぎる。
中流家庭の住宅が多い青山の一角に、淀んだ空気の小径があった。その一帯には今にも倒壊しそうな長屋が建ち並び、絶えず饐えたにおいが鼻を突いた。ここでは日に五銭も稼げないような人々が、身を寄せ合って暮らしている。
そこへ突然、身なりのいい女学生が現れたのだ。人々の好奇の目が矢のように突き刺さった。大人も子供も、皆が一様に朱里を眺めている。
衆目を振り払うように、朱里は足を速めた。目的地はこの奥――数十年前に廃仏毀釈運動の煽りを受け、打ち壊された寺だった。
「ここね……」
小さな廃寺を見回す。崩れた本堂の屋根や穴の空いた壁が無惨にさらされていた。他には墓地しかない。境内にある桜だけが華やかで、酷く場違いだった。
「ここに『幻影男爵』が現れたという話だけれど……」
――幻影男爵。
それは今、帝都を騒がす怪人の名だった。
夜闇に紛れて女を襲い、体中の血という血を吸い尽くすという、殺人鬼だ。最初の事件は赤坂、次いで神田、浅草、そしてここ青山――すでに帝都で四人の死者を出している。
朱里は廃寺に足を踏み入れ、境内をゆっくりと巡る。
怪人の正体は未だ判然としない。黒い影を纏い、霧のように消える――という、あやふやな目撃談から幻影男爵の名がつけられた。背が九尺もある偉丈夫だという話もあれば、女ばかりを誑かす魅惑の美男子だという説もある。神出鬼没にして、悪逆無道。新聞は面白可笑しく書き立てるばかりで、噂だけが一人歩きしている。
唯一の真実は、残された被害者の遺体だ。
血が抜け、青白くなった体。水分を失い、乾ききった肌。首には血を抜いた跡と思しき二つの穴があり、それ以外に外傷はない。
だが小さな穴二つ程度で全身の血を抜くことができるわけがない。
幻影男爵が只人であるかは疑問視されていた。
朱里を始めとする――退魔士達の間では。
「妖魔の仕業に違いないわ」
幻影男爵は退魔士の敵である妖魔だ。
朱里の使命は、退魔士として幻影男爵を調伏することである。
さらに、朱里には個人的な思いがあった。
被害者達の死に様は――似ている。
幼い日に目撃した、生涯忘れられないであろうあの光景と、酷く似ている――。
すでに辺りは暗くなっていた。日没までに調査を終えようと、本堂の裏に回る。すると縁の下からぼうっと赤い光が漏れているのに気づいた。
朱里は思わず足を止めた。草履の裏がざりっと地面を擦る。
その音を聞いたか、縁の下から「なぁん」と鼻にかかった鳴き声が聞こえた。
「猫……?」
腰を屈めて覗き込むと、年老いた猫が足を折りたたんで座っていた。その猫は全身からゆらゆらと火を放っている。
老猫の正体は『火車』という墓荒らしをする妖魔だ。特に悪行を重ねた者の死体を好む。寺の墓地を狙ってやってきたのだろう。しかし呼吸が浅く、大分弱っているようだ。
「墓までたどり着けなかったのね」
朱里が火車に腕を伸ばした、その時だった。
地響きとともに、本堂の屋根が大きく陥没した。濃い土埃に視界が覆われる。思わず火車を抱きかかえた朱里の首筋に、ひりつくような怖気が走った。今までに幾度となく感じた殺気――これは妖魔に狙われている時の感覚だ。
「――ッ!」
朱里は火車を抱いたまま、本堂から距離を取った。もうもうと上がる土埃の奥に、細く長い影がゆらめく。
人影――のようだった。縦に長く伸びた体軀はひょろりと細い。濃い墨で塗りつぶしたような姿で、顔はおろか何を身に纏っているのかすら分からない。黄昏時だということを勘案しても、まるで陽炎のように正体が摑めなかった。
「何者です」
朱里の誰何の声に、人影は揺らめくのみだ。それでも厳しく睨むと、影が声を発した。
「我、は――」
酷く掠れて聞き取りづらい。おそらく男のものだと思うが、判じかねる。
「我は――貴様らが、こう呼ぶ者……」
一瞬とも永遠ともとれる一拍の後、男は口にする。
「影幻、と――」
朱里は声を上げそうになるのを、すんでの所で呑み込んだ。
影幻――すなわち、朱里の捜し求めていた幻影男爵に違いない。
ただ幻影男爵とこうして言葉を交わしたという話は一向に聞かない。おそらく朱里が初めてなのではないかと思われた。
この機を逃す手はない。朱里は慎重に言葉を選んだ。
「お前が昨今、帝都を騒がす幻影男爵か」
「左様」
「帝都の至る所で四人を殺し、血を抜いた」
「否」
朱里は眉を顰める。自分の罪を逃れようというのか、と思ったが、しかし――。
「我は、鬼。人の血を喫する、鬼――」
それを聞いて、朱里の脳裏に閃くものがあった。
人の血を吸い、食らう鬼――西洋の『吸血鬼』という妖魔だ。
洋行帰りの者にでもついてきたのか、それとも異人と共に入り込んだのか。人も物も海を越えて活発に行き来する昨今、妖魔もまた日本のものと異国のものが混在している。どちらも文明の光が届かぬ闇の中、人に隠れ暗躍しているのだ。
当然、現世の退魔士たる朱里は古今東西の妖魔に精通している。
吸血鬼の伝承は様々あるが、長い両の牙を持ち、それを人の首筋に突き立て、血を吸うという。
唐突に幻影男爵の顔の辺りが横に深く裂けた。口だ――笑っている。そしてそこには朱里の推測を裏付けるように長い犬歯が覗いていた。
瞬間、朱里の脳裏で、幼き日の光景が弾ける。
仰向けに倒れた、青白い母の体。首筋に錐を二本突き立てられたかのような、傷――。
かっ、と頭に血が上り、気がつけば詰問していた。
「――十年前、お母様を殺したのはお前か!」
それを聞くなり、幻影男爵は後ろに飛び退った。途端、影の輪郭が朧気になっていく。幻影男爵はそのまま空気に溶けるようにして、消えていなくなった。
「あっ……」
慌てて手を伸ばすが、そこには黒いもやがあるのみ。吸血鬼は霧に変じることができるという。ならば幻影男爵はまだあそこにいる。
「待ちなさいっ!」
朱里は駆け出した。しかし不意にドンッ、と鈍い衝撃が本堂から発せられる。
急な事態に朱里は動きを止めた。本堂の屋根が完全に壊れている。土煙がもうもうと立ちこめ、幻影男爵であろう霧とともに風に乗って消えていく。
――何かがいる。おそらくは新手の妖魔が。
幻影男爵の発した霧はすでにない。取り逃がしてしまったが、悔やむのは後だ。
やがて土煙が恐れ戦くように左右へ引いた。現れたのはまさしく異形だった。
西洋の甲冑を身につけた騎士が、血を固めたような赤い瞳の馬に跨っていた。騎士は腕に髑髏を抱えている。その代わりというわけではないだろうが――騎士には首から上がない。
尋常ではない威圧感の中、朱里は毅然と騎士へ向き直る。
「お前は『首無し騎士』か……」
古くから西洋に伝わる妖魔だ。首のない男が首級を抱え、黒馬に乗っているという。悪しき妖精であり、死を予言する存在として恐れられている。
なんと間の悪いことか。幻影男爵を目前にしておきながら。
だが無理矢理にでも意識を切り替える。でないと殺されるのはこちらだ。
朱里は持っていた風呂敷包みと火車を手放すと、袂から紐を取り出し、さっとたすき掛けにした。そして帯の中から呪符を一枚取り出す。文字と、それから火炎宝珠に剣が三本描かれた図がある、紅蓮野家に伝わる秘伝の呪符だ。
「――オン・ガルダヤ・ソワカ」
呪符が瞬く間に燃え上がった。火は朱里の手を中心として上下に長く伸び、やがて炎を纏った薙刀の形を取る。
「……ウ、ゥ……」
炎に照らされた首無し騎士は、地を這うような唸りを上げた。伝承によると、この妖魔は人目に晒されることを極端に嫌うのだという。
黒馬が激しく嘶いた。首無し騎士は手綱を強く引き、馬をこちらへけしかける。一気に彼我の距離を詰められた朱里は、しかし臆することなく薙刀を振るう。
「はぁッ!」
力強い踏み込みからの打突を繰り出す。狙ったのは馬だ。
馬の首に、薙刀の切っ先が突き刺さる。
甲高い悲鳴が上がる。馬は前足を高々と上げ、しきりにばたつかせた。騎乗者が落馬してもおかしくはないが、首無し騎士は鞍にぴたりと張り付いたままだ。
「やあ!」
一度、薙刀を引き、今度は馬を袈裟斬りにする。さしもの妖魔も後退った。
――いける。
好機と見て、朱里がさらに追い打ちをかけようとした。
しかしそこで、視界に妙なものが映った。
首無し騎士が首を抱えている方とは反対の手に、何か持っていた。それは粗末な木桶だった。桶を満たしているのは――赤々とした血だ。
首無し騎士は木桶を大きく左右に振った。鮮血が宙を舞う。朱里は首無し騎士が『自身の姿を見た者に血を浴びせかける』という伝承を思い出した。
穢れた血を被れば、どんな呪詛を受けるか分からない。しかし初めて見る妖魔の攻撃に、とっさに体が動かなかった。
「くっ……!」
朱里が思わず歯嚙みした、その刹那だった。
「――危ないッ!」
聞き覚えのない、若い男の声が廃寺に響き渡った。
朱里に降り注ごうとしていた血は、見えない何かによって阻まれる。まるで大きな硝子の壁が、朱里を覆ったかのように。
注視すれば――それは水だった。薄い流水の膜が、朱里と首無し騎士を隔てている。
間違いない、呪術だ。朱里を守った者は退魔士だ。
朱里は素早く声がした方を振り向いた。
廃寺の入り口から、背の高い青年が現れる。
帯青茶褐色の軍服に身を包んでいる。軍帽の下の顔は端整で、意志の固そうな黒目がちの瞳が印象的だった。腰にはサーベル、足元は長靴。紛うことなき陸軍の軍人である。
青年は手印を結んでいた。今、作り出している水の壁の術だろう。
「こちらが守りを固めます、貴女は妖魔の調伏を!」
朱里は我に返って、眼前を見た。
「ア……アァーーア」
首無し騎士は自らの姿を鏡や水に映されることを嫌う性質がある。今度こそ、好機だ。朱里は足を大きく踏み込んだ。水の壁を越えて、大上段に薙刀を振りかぶる。
「はああッ!」
炎が、一閃した。首無し騎士は馬ごと真っ二つにされ、黒い靄となり霧散した。
─廃寺に静寂が戻る。
炎の薙刀が風と共に消える。桜の花びらが風に乗って、流れていく。花弁の行く末をなんとはなしに目で追っていると、青年軍人の強い視線とぶつかった。
彼は信じられないものでも見たかのように、朱里を凝視している。あまりにも無遠慮だったが、青年の目には一切の厭味が無く、眩しいほどに透き通っていた。無垢な幼子の憧憬を一身に受けているようで、やや狼狽してしまう。
「貴女は、もしかして――」
青年はついといった様子で一歩踏み出す。見知った人物かと思ったが、いくら頭の中を探っても記憶にない。
「どこかでお会いしたことが?」
やや警戒心の含んだ口調で返すと、青年は慌ててかぶりを振った。そして表情を隠すかのように軍帽の鍔を深く引く。
「いえ、なんでもありません……。忘れてください。それより妖魔の調伏にご協力いただきありがとうございました」
軍人らしからぬ慇懃な態度に、朱里は毒気を抜かれた。相手が礼儀を尽くしているなら、こちらもそうせねばならない。朱里は深々と頭を下げた。
「こちらこそ危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
顔を上げると、青年は気まずそうに視線を逸らしていた。先ほどの毅然とした佇まいはどこへやら。おかしな方、と心の中だけで呟いた後、気がかりだった老猫の姿を探す。
「そこにいるのは火車ですか?」
青年は朱里に歩み寄ってその足元を覗き込んだ。力なく伏せっている猫――火車を。
「……調伏するのですか」
青年が緊張を孕んだ声音で尋ねてくる。朱里は慎重に火車へ手を伸ばした。
「いいえ。退魔士が調伏するのは、人に仇為す妖魔のみです」
朱里は火車を抱き上げると、廃寺の隅にある墓まで連れて行った。一番手近な墓のそばに老猫の矮軀を置いてやる。火車の表情が僅かに安らいだ。
「墓暴きは褒められたことではありませんが、少なくとも火車は生者に害を為しません」
「……なるほど」
朱里は改めて、青年と向き合う。目を柔らかく細めていた青年は、おもむろに軍帽を取った。黒い髪はさっぱりと整えられている。
「申し遅れました、俺は葵清司郎。陸軍第一管区所属の下士官です」
陸軍に退魔士がいることは知っていた。とはいえ、陸軍の秘密主義は有名であるため、その実情は深く知り得ない。
それよりもさらりと名乗った青年――清司郎の眉間に、朱里はひたりと視線を据えた。
「貴方は退魔士なのですよね。それほど容易く他人に真名を教えていいのですか」
幾分、剣呑な言い方になってしまう。しかし清司郎は何故かふっと親しみの込もった笑みを湛えた。まるで昔馴染みにでも再会したかのように。
「ええ、もちろんこれは表向きの偽名です。ただし清司郎は本名ですので、できればそう呼んでください」
清司郎の明るい声色に、朱里は戸惑い、思わず言われた通りにした。
「……清司郎さま」
「はい」
端整な顔立ちが柔和に緩んだ。反射的にこちらも名乗ってしまう。
「私は……朱里、と申します」
「朱里さん」
嚙み締めるように繰り返され、朱里は困惑した。先刻から調子を狂わされっぱなしだ。神の身ならぬ清司郎にそんなことを知る由はないが。
「俺はとある妖魔の捜索をしていたところ、騒ぎを聞きつけてきました。先ほどは見事なお手並み、恐れ入りました」
「とある妖魔――とは、もしかして幻影男爵ですか?」
「ええ、ご明察です」
なるほど、ついに幻影男爵は陸軍も追う存在になったのか。
「ところで、朱里さんはどうしてこのようなところへ?」
「貴方と同じです。幻影男爵を捜しにきました」
「お一人で、ですか? 危険では?」
「私はこう見えても一人前の退魔士です」
朱里はきっと清司郎を睨んだ。すると、清司郎は叱られた犬のように悄気る。
「ええ……。それは、重々承知しています。失礼なことを言いました、すみません」
とっさに「やってしまった」と内省した。いつもこうだ。人を突っぱねて、いらぬ敵を作る。女学校での人間関係はもう諦めたけれど、何故だろう、この気の良い青年にまで敵意を向けられるのは――心許ない、と思ってしまう。
だって……そう、だって清司郎は幻影男爵を追っている軍人だ。陸軍が現時点で得ている幻影男爵の情報を、できるだけ引き出さねば。
どうしたものかと思案していると、清司郎が軍帽を僅かに上げ、廃寺を見回した。時が経って日が沈み、辺りは宵闇に沈もうとしている。
「ここは幻影男爵による事件があった場所です。まさか他の西洋妖魔に遭遇するとは思いもしませんでしたが。見たところ他に手がかりはなし。……とんだ無駄骨だったようです」
「他の西洋妖魔……先ほどの首無し騎士のことですね。ということは、やはり幻影男爵は海の向こうから来た妖魔ということですか」
清司郎は一瞬目を瞠みはったが、瞬時に表情を引き締める。
「ええ、その通りです。そして朱里さん……『やはり』と仰るからには、貴女は彼奴の正体に心当たりがあるということですね」
うまく言葉尻を捕らえたはずが、清司郎もまたこちらの細かな言い回しから情報を得ていた。ただの物腰柔らかな青年というだけではないらしい。朱里は神妙に頷いた。
「被害者の様子から東欧の伝承にある『吸血鬼』ではないかと推察していました。それから――信じがたいことかもしれませんが、私は先ほど幻影男爵に出くわし、言葉を交わしたのです。自ら、人の生き血を吸う鬼だと言っていました。そして『お前達が影幻と呼ぶ者』だとも」
「なんと」
清司郎が驚きの声を上げる。やはり現時点で幻影男爵と話をした者はいないのだろう。清司郎の反応を鑑みるに、それは事実だと確信する。情報を得るにはこちらも情報を提供する他ない。
「幻惑でも使っているのか、姿は杳として知れませんでした。でも確かに見ました――左右二つの鋭い牙を。けれどすぐ霧となって消えてしまって」
「確か、伝承によると『吸血鬼』は霧や蝙蝠などに変化できるとか。何より退魔士の貴女が言うのです、信憑性はかなり高い……」
清司郎は顎に手を当て、証言を吟味している。朱里は毅然と顔を上げた。
「さぁ、次はそちらの番です。幻影男爵についてご存じのことを教えてください」
「すみません、そうしたいのは山々ですが。実を言うと、こちらは巷の噂ほどしか彼奴について知らず……」
清司郎も軍人だ、それもこの若さで下士官となると、いわゆる士官候補生だろう。噓をついてでも機密を守るに違いない。
それではこちらの言い損ではないか。朱里の責めるような視線に、清司郎は眉尻を下げる。
「言えないのではなく、本当に何も分からないのです。申し訳もありません」
再三謝られては仕方ない。どちらにせよ彼が悪いわけではないのだから。
そっと嘆息し、朱里はふと頭上を見上げた。空には星々が瞬いている。
捜し求めていた幻影男爵と接触できた。けれどそれだけだ。また次も遭遇できるとは限らない。これからも今まで通り、噂を頼りに捜すしか――。
途方に暮れていた朱里を現実に引き戻したのは清司郎だった。
「朱里さん。代わりに、と言っては憚られますが……。もしよろしければ、俺の協力者になっていただけませんか?」
「え?」
思いも寄らぬ提案に、朱里は目を見開く。
「怪人と言葉を交わしたのは、帝都広しといえど貴女一人だけでしょう。彼奴が何故そのような行動に出たのかは分かりませんが、重要な手がかりになることは間違いない。それに朱里さんは腕の立つ退魔士です。――どうか、俺に力を貸してくれませんか?」
竹の如く真っ直ぐな物言いに、朱里はとっさに口ごもる。
「私は、その……」
退魔士同士が協力関係を結ぶことはそうそうない。同じ家の者同士であればいざ知らず、他家の者とは安易に交わらないのが慣習だ。
平安の世、陰陽師が活躍していた頃に比べれば、大正の世の退魔士は足元にも及ばぬほど力が衰えていた。科学が発達し、電灯が夜闇を払う昨今、妖怪、物の怪、魑魅魍魎は――人々にとって忘れ去られた遺物である。
それは妖魔を祓う退魔士とて同じ事だ。現代の退魔士達は数少ない手柄を奪い合う。御上に力を示し、自分達だけは生き残ろうと画策する様は――時に愚かしくすらある。
だが、たとえどんな手を使ってでも、朱里は母の仇が討ちたかった。
――討たねば、ならなかった。
「分かりました、願ってもないことです」
「良かった……!」
無邪気な笑みを浮かべ、彼は右手を差し出してくる。なにを要求されているのか分からないでいると、清司郎ははっとして手を引っ込めた。
「幼年学校の頃に師事していた仏語教師の癖がうつってしまって。あちらでは挨拶代わりに手を握り合うのです。決して不用意に貴女へ触れようとしたわけではなく……」
異人に知り合いがいないので、そういった習慣のことは分からない。が、朱里はしばらく考え込んだ後、おもむろに言った。
「文字通り、私達は『手を結ぶ』ということでしょうか?」
「はい、ええ。そういった意味合いでした」
「承知しました、では」
朱里は改めてこちらから手を差し出した。清司郎は慌てたように軍服で右手の平を拭き、朱里の手をおずおず握った。
男らしい、分厚い手の皮から体温が伝わってくる。夜気に冷え切った手がじわりと温かくなった。ぬくもりは手を伝い、腕を伝い、全身に広がっていく――。
家族以外の男性に触れたことに今更気づき、朱里はそそくさと清司郎の手を振りほどいた。少女らしい恥じらいもあるが、朱里は己の気が緩みかけているのに気づいた。何を絆されそうになっているのか。あくまで清司郎とは対等な協力関係を結ぶだけだ。もちろん幻影男爵を捕らえるまでの。
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■著者プロフィール
住本優(すみもと・ゆう)
1985 年生まれ。作家・シナリオライター。ライトノベル、キャラクター文芸ジャンルなどで執筆している。著作に『あやかし屋敷のまやかし夫婦』(ことのは文庫)、他『最後の夏に見上げた空は』(電撃文庫)など。