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手間暇かかった判りやすい見立て殺人①

 龍神湖には龍神様がおわします

 龍神様は水と天候を司る神様です

 ある日、龍神様が云いました

「人間の姫君を贄として差し出せ」

 その命令にお殿様は大いに腹を立て

「神といえども我が娘を人身供儀じんしんくぎにせよとは何たる狼藉。兵を出せ。神を討ち取れ」

 法螺貝を吹き鳴らさせ、大々的に出兵しました

 しかし龍神様はこれに怒り、大嵐を招きました

 風が唸り、雷が轟き、豪雨が叩きつけられました

 川が溢れて殿様の軍勢は水に流されます

 騎馬武者も弓兵も足軽も、みんな溺れてしまいました

 龍神様のお怒りは激しく、嵐は一向にやみません

 姫様ははらはらと涙を落とし

「このままでは田畑も民の家もすべて流されてしまいます。民が飢えるのは見とうございません。父上様、私は我が身を贄として差し出します」

 殿様は困ってしまいました

「それはならぬ。そなたが命を落とすなど断じて耐えられん」

「いいえ、民のために私は人身御供になります。お許しください」

 嵐の中、姫様はお城を飛び出し、裸足で駆け出します

 龍神湖までやって来た姫様は岸辺に立ち、両手を合わせて南無阿弥陀仏と念仏唱え、いざ我が身を湖に捧げようとすると、姫を哀れと思し召した地の神様が、姫の足の裏をぴたり地面に縫い付けて、一足も動けぬようにしました

 これでは姫様も湖に身を投げられません

 そこへお殿様が追いついてきました

 姫様は涙ながらに

「父上様、このままでは供儀の願いが達せられません。どうぞお慈悲ですから、我が望みを聞き届け給え」

 お殿様は娘の民を思う心根に打たれ、号泣のうちに佩ける太刀をば抜きたれば、獅子の如き咆吼を発すると、刀を横一文字に一閃、姫の足を薙ぎ払います

 両の足を斬られた姫様の体は、嵐の風に押されて湖へと真っ逆さま、飛沫を上げて沈んでゆきます

 人身御供を捧げられて満足した龍神様は

「良かろう良かろう」

 と、嵐を止めました

 たちまち空は晴れ渡り、風も雷もぴたりと治まりました

 民の暮らしは守られたのです

 龍神湖は先程までの荒れようが嘘のように、さざ波ひとつ立たぬ鏡の如き静けさです

 湖の岸辺には、膝を斬られた姫君の足だけが、二本立ったままで残されておりました

 これが今も伝わる脛斬り姫の伝説です

                    *

 爪先が湖を向いていた。

 ちょうど、湖に飛び込む人が靴を几帳面に揃えた、というふうに見える。

 しかし、並んでいるのは靴ではない。その中身だ。

 脛の部分でざっくりと切断された、人間の裸足の脚部である。それが両足揃って並んでいた。脛から上はどこにもない。

「被害者の両足はこうして湖の岸辺に並べられていました」

 と、刑事が説明してくれる。

 実にシュールな絵面だった。見ようによっては、膝から上が透明な人間が湖畔に立ち尽くしているようにも見える。

 騙し絵みたいに、見る者を混乱させる情景だ。人体の一部なのか、ただの靴なのか、見ているうちにこんがらがってくる。

 しかし探偵は惑わされた様子もなく、至って冷静に口を開いた。

「なるほど、さっき聞いた脛斬り姫の伝説にそっくりですね。これは正に見立て殺人です」

                   *

 また三ヶ月ほどおいての出動だった。

 九月の日曜日の朝、電話で叩き起こされた木島壮介は、何か法則のようなものがあるのだろうかと訝しく思った。

 そんな無駄なことを考えている暇もなく、迎えの車はすぐにやって来た。今回もごく普通のセダンだ。運転しているのは前回とは違う運転手。ただ、無口な中年男性という点だけは共通していた。

 何の説明もなされぬまま、木島は後部座席に押し込まれて、車は発進した。

 そして、予想よりはるかに長いドライブになった。

 中央自動車道を西へひた走り、笹子トンネルを抜け、甲府の手前の一宮御坂いちのみやみさかインターで降りて国道137号線を南下。このまま進むと富士五湖まで着くという途中で脇道に入り、しばらくしてからやっと止まった。

 木島を降ろすと、乗ってきた車はすぐに行ってしまう。無口な運転手の声は、結局一度も聞けず仕舞いだった。

 一人取り残された木島は、長距離移動で強張ってしまった背中と腰を伸ばす。ここまで来れば富士山も間近だろうが、あいにくの曇り空である。天下の名峰は影も形も見えない。残暑の蒸し蒸しとした空気が、都会より幾分マシに感じられるだけだった。

 周囲を見回すと、どうやらこの辺りは別荘地らしい。そこかしこに広い敷地の瀟洒な建物が、優雅さを競うように建っている。しかし木島が車から降ろされた場所は、車道に面してだだっ広い空間が広がっているだけだった。空き地か駐車場のようにも見える。土が剥き出しの地面の、ただの何もない土地だ。広い敷地の突き当たりは崖にでもなっているのか、ここからでは先が見通せなくなっている。ただ、その何もない土地に今は車が数多く停まっていた。てんでバラバラの方向を向いて十数台ほど。パトカーも混じっているので、恐らく全部が警察関係車輌なのだろう。どうやらここが今日の現場らしい。

 しかし、別荘地の一角なのに、それらしき建物は見当たらない。だだっ広い敷地に車が並んでいるだけだ。土地の突き当たりに、小さな人工物が建っているのみである。崖の手前に木造の粗末な小屋が一軒。そしてもうひとつ、小型の四角いコンクリートの建造物が、小屋の隣にちょこんと建っている。何の用途に使うのか判らないけれど、プレハブ製物置程度の大きさである。造りは頑丈そうで、鉄のがっしりした扉が一枚ついている。はて、何の小屋なのだろうか、と木島は首を傾げた。

 車の間を、何人かの人が忙しそうに行き交っている。彼らも多分、警察関係者なのだろう。

 さあどうしたものか、と木島が逡巡していると、

「木島さんですね」

 と、いきなり後ろから声をかけられた。木島は慌てて振り返る。

「警察庁の木島さんですよね、随伴官の」

 声のする位置が予測よりずっと下方なので、一瞬戸惑ってしまった。相手の頭の位置が思ったより低い。

「え」

 そして木島は、思わず絶句した。声をかけてきたのが子供だったからだ。中学生くらいだろうか。大きなくりくりとした瞳の、子リスみたいに敏捷そうなかわいらしい少年だ。

 呆気に取られた木島がぽかんとしていると、子リスのような少年は、くすっと笑った。

「思ってた通りの反応だ。木島さんって判りやすい人ですね。勒恩寺ろくおんじさんのメモにもあったけど」

 中学生らしい澄んだ声で云う相手に、木島は唖然としながら、

「えっ、勒恩寺さんって、それじゃ、君が」

「そう、探偵です。志我しがといいます、志我さとる。今日はよろしくお願いします」

 少年は丁寧なお辞儀をしてくる。木島はまだ戸惑ったまま、

「えーと、勒恩寺さんのメモって?」

「木島さんの写真と、あと勒恩寺さんからの注意書きがメール添付で送られてきました。木島さんの取扱説明書みたいな」

 と、志我少年はかわいらしい笑顔で、

「新任の随伴官さんはどう扱えば動かしやすいか、とか、こういう性格だから注意せよ、とか。勒恩寺さんはそれを探偵全員に回しているみたいですね」

 写真は、例の隠し撮りしたものに違いない。木島は、中学生相手に敬語も変だろうと思って、フランクな言葉遣いで、

「探偵全員って、何人いるの? 僕は勒恩寺さんと、あと作馬さくまさんしか知らないけど」

「さあ、僕も知りません。全員が知り合いってわけじゃありませんから。とにかく、今日の探偵は僕が務めるようにと申し受けて来ました」

「でも、中学生が探偵って、そんなのありなのかな」

「嫌だなあ、これでも高校生ですよ、僕。高校二年生。そんなに幼く見えますか」

 と、少年は少し不満そうに頬を膨らませて云う。

 いや、中学生でも高校生でもどっちでも同じだ。とにかく意表を突かれた。今まで出会った探偵もアクの強い二人だったが、まさか少年探偵までいるとは、完全に意想外だった。警察庁刑事局はどういう基準で探偵の人選をしているのやら。上層部の人達のすることはよく判らない。

 ぼうっとしている木島に、

「とにかく行きましょう。もたもたして行動が遅いのが木島さんの悪い癖だって、勒恩寺メモにもありましたよ。本当にもたもたするんですね」

 と、志我少年が急かすように云う。悪びれもせず、悪口までおまけしてくれる。小動物系のかわいらしい顔をして、この少年探偵、存外性格は悪いのかもしれない。

 それはともかく、確かに行動しないことには何も始まらないのには同意する。

 車の間をすり抜けて、二人で広場の奥へと向かった。木造の小屋の前に刑事が一人立っていたので、そちらに近づく。年嵩の老練そうな刑事だ。

 志我少年にせっつかれて、木島は身分証を取り出した。例の、身の丈に合っていないことこの上なしの、警部補の階級が記されたものである。

 立場と用件をおずおずと伝える。何度やっても慣れない。

 びくびくと挙動不審の木島に、年輩の刑事はあからさまに怪訝そうな顔で、

「ちょっと待っててくれ、責任者を呼んでくる」

 と、その場を立ち去ってしまった。

 木島は志我少年に向き直り、

「やっぱり変だよね、僕達。物凄く場違いだと思うけど」

 高校生相手に泣きつくのも我ながらどうかと思うのだけど、不安なのだから仕方がない。傍目にはどんなコンビに見えるのか、甚だ心許ないのだ。まだスーツが板についていない新卒丸出しの自分と、実年齢よりずっと幼い印象の少年の二人組。これで警察庁の派遣した特殊事件の専門家に見えるものだろうか。実に心細い。

「やれやれ、木島さんは自信のない人なんですね。勒恩寺さんのメモにも書いてありましたけど」

 よほど大人びた物腰で、志我少年は呆れたように云う。

「あの人のいうことだから話半分に読んでたんですけど、割と的確に木島さんのことを評しているみたいですね」

「勒恩寺さんはメモに何て書いてたの。あ、やっぱりいいや、聞きたくない」

 どうせ碌でもないこと満載に違いない。

「ほら、そういうところもですよ。すぐ弱気になるのが欠点、って書いてありました」

「やっぱり碌なことが書いてないんじゃないか」

「そうでもありませんよ、ちゃんと誉めるところは誉めていました」

「あの勒恩寺さんが人を誉めるとは思えない」

「木島さん、何か被害妄想なんじゃないですか。その旨、追記しておきましょうか」

「いいよ、そんなことしなくて」

 などと云い合っているうちに、

「警察庁のかただね」

 話しかけられた。近づいて来たのは、五十絡みの堂々とした男性だった。特に腹周りの恰幅がいい。

「捜査の指揮を執る県警捜査一課の熊谷くまがいです、熊谷警部」

 こちらが若僧二人なのに、丁寧な態度で、恰幅のいい男は自己紹介した。叩き上げの警部なのだろうか、エリート臭はないが、自信に満ち溢れて見える。警部は両脇に、二人の刑事を従えていた。両方とも四十才くらいか、黒豹みたいに精悍な男と、狼みたいに迫力のある男だった。どちらも鋭敏そうで、見るからに有能らしい刑事達だった。

 完全に圧倒されながら、木島はもごもごと、

「えーと、警察庁特殊例外事案専従捜査課の者です、私は随伴官の木島、こっちは志我くん、探偵です」

 へどもどする木島に対し、熊谷警部は、中学生にしか見えない少年探偵に驚くでもなく、

「特殊例外事案専従捜査課さんのお噂はかねがね伺っております。しかし今回は結構です。どうかお引き取り願えますかな」

「いや、それはちょっと」

 木島は返答に困ってしまう。確かにこの実力者揃いらしい刑事達に任せたほうが、ことはスムーズに運びそうである。しかしさすがに手ぶらで帰ったら叱られる。こっちも任務なのだ。

「そういうわけにはいかないのですが」

「いや、県警だけで戦力は足りているんで」

「そこを何とか」

「いやいや、何とも」

「どうにかひとつ」

「どうにもならん」

 などと押し問答をしていると、横合いから志我少年が、

「警部さん、上に問い合わせたらいかがでしょうか。いざという時に責任を取ってくれそうな上役にでも」

 にこにこと愛想良く提案した。どうやらこの少年探偵、外面はいいらしい。

「そうですな、連絡してみましょう」

 と、熊谷警部は電話を取り出しながらその場を離れて行った。木造の小屋の裏に回り、そこで電話をする気のようだ。

 黒豹みたいな精悍な刑事がこちらをじろりと見て、

「何でも特殊な事件を専門に扱っているそうですが、それは本当ですか」

 低くドスの利いた声で尋ねてきた。

「ええ、まあ、そんな感じです」

 木島があわあわと答えると、

「ふうん、探偵課が本当に実在するとはな」

「おい、その呼び方はやめておけ」

「そうか」

 狼のような刑事にたしなめられて、黒豹はそのまま黙ってしまった。

 気まずい沈黙が続く。

 本物のプロの刑事に何を喋っていいものやら、木島にはとんと判らない。しょうことなしに上を見上げると、頭上には曇天の空が広がっているだけ。鳥が一羽、視界の隅を滑空して行く。

 気まずさがピークに達した頃、熊谷警部が戻ってきた。そして先程とは打って変わって、

「特専課さん、失礼しました。どうぞご自由に捜査をなさってください。現場の各捜査員にも、便宜を図るよう通達を出しておきます」

 物判りがよさそうに云う。この転身ぶり、どうやら上の者に因果を含められたらしい。県警のお偉いさんが警察庁の顔色を窺ったに違いない。

「私どもはご一緒できませんので、案内役をつけましょう。おおい、紅林くればやし、ちょっとこっちへ来てくれ」

 警部に呼ばれて、若い刑事が駆けて来た。三十手前の年格好か、精悍な黒豹や狼とは違って、ごく平凡な容姿のいささか頼りない印象の青年だった。

「こちらは特専課のお二人だ。丁重にご案内しろ。最大限、お二人の捜査に協力を惜しまぬように。まあ、若い人は若い者同士で、ということで」

 と、警部は最後の台詞を木島に向けて、愛想良く笑った。一番戦力にならない若手を押しつけるから後は勝手にやってくれ、というのが本心らしい。それでも志我少年は丁寧に、

「ありがとうございます、案内の刑事さんまでつけてくださって。お気遣い、感謝します」

 と、あくまでも外面がいい。

「では、これで。我々は失敬します」

 そう云い残して、熊谷警部は去って行った。お共の肉食獣系刑事二人も、同行する。

 三人だけになると、若い刑事は、

「紅林といいます。何なりとお申し付けください」

「あ、どうも、木島です。こっちは探偵の志我くん」

「志我悟といいます。高校生ですけど、よろしくお願いします」

 志我も挨拶する。

「こちらこそ、どうぞよろしく」

 頭を下げる紅林刑事は、どこからどう見ても普通の若者といった感じだった。これでも県警で研鑽を積むと、黒豹や狼刑事みたいに成長していくのだろうか。

 そんなことを考えながら、木島はボイスレコーダーを胸の内ポケットで起動させた。前回役に立った小型の録音機だ。出動の際は、胸ポケットに忍ばせることにしたのである。

「では早速、現場を見ていただきましょう」

 と、紅林刑事が、先に立って歩き始める。木島は志我少年とうなずき合い、それに続いた。

 紅林は車の隙間を縫って広場を横切る。そして車道を渡り、森の中へと入っていった。

 どこへ行くつもりなのか。こっちの奥に別荘が建っているのだろうか。しかし、こんな森の中にそんなスペースがあるとも思えない。不思議に思いながらも、木島は刑事の背中を追った。

 獣道と呼んでいいほど頼りない道だった。狭く、足元が悪い。左右から木々の枝が張り出して、邪魔になる。大層歩きにくい。

 そんな道を、三人で縦列になって進んだ。

 紅林刑事は思い出したように、

「そうそう、この地方にはこんな昔話がありましてね」

 と、語りだしたのは脛斬り姫の伝説だった。雑談にしては懇切丁寧に語り終えてから、紅林は、

「どうですか」

 感想を聞いてきた。

「はあ、お姫様がかわいそうだと思いました。あと龍神様も残酷で酷いですね」

 と、木島は小学生の読書感想文みたいな返答をした。伝説を長々と喋ったのは、何か事件と関係あるのだろうか、と首を傾げながら。

 志我少年は至って平静に、

「神は崇めるだけではなく、畏怖の対象でもありました。古来より天災も疫病も神の為せる業として、人は捉えてきました。水害、干魃、長雨、蝗害こうがいといった自然の営みも神の思し召しと考えたのです。人に恵みを与えてくれるありがたい神もいれば、災いしかもたらさない荒ぶる神もいます。龍神の水害もそうした荒ぶる神による災害の一種なのでしょうね。だからこそ人は神を畏れ、時には人身御供を立てて神への供物としました。そんな生け贄の伝承は全国各地にありますね」

「詳しいんですね。高校で民俗学のクラブにでも入っているんですか」

 紅林刑事が誉めても、志我は涼しい顔で、

「これくらい常識の範疇です」

 かわいい顔立ちのくせに可愛げのない口調で云った。

「着きました」

 紅林刑事が立ち止まった。

 そこは長い森の道を抜けたところだった。少し開けた平地が広がっている。それより眼前の光景に圧倒される。

 湖だ。

 満々と水を湛えた青い湖面。水面にさざ波が走る。大きな湖が、そこには広がっていた。 

 湖畔からは壮大なパノラマが望める。周囲の木々の緑。穏やかで静かな、それでいて雄大な湖水。美しく、心が洗われるような豊かな自然の風景だった。湖を渡ってくる風も涼しく、気持ちいい。立っているだけで爽快な気分になる。

「天気さえよければ、湖の向こうに富士山が大きく見えるんですよ。本当に見事な眺めなんですから。裏富士のほうが美しいと、地元の者は信じていますからね、是非見てもらいたかった」

 紅林はそう云って、恨めしそうに曇り空を見上げた。とはいうものの、これはこれで素晴らしいロケーションだと木島は思う。

「これが龍神湖です」

「ああ、脛斬り姫の」

 木島が相槌を打つと、紅林はうなずいて、

「この辺りを治めていた武将といえば武田家ですから、伝説のお殿様は武田の殿様とも云われています。ただ郷土史研究家に云わせると、伝説はもっと古い時代から語り継がれているものだから、武田よりも昔の小さな豪族だったと考えたほうがいいとのことです。脛斬り姫の伝承は創作でしょうけど、ここがモデルですから、ひょっとしたら若い女性が生け贄に捧げられた、というようなことがあったのかもしれません」

 と、そんな解説をしてから、

「おっと脱線しましたね、こちらへどうぞ。事件の現場にご案内します」

 開けた平地の一角が、黄色の規制テープで仕切られている。湖に面した岸の一部だ。外縁がちょっとした崖になっており、水面より高くなっている。

 制服警官が一人、規制線の前で立哨りっしょうの任に当たっていた。のどかな景色の中で、立ち番の警官は退屈そうだ。彼に軽く敬礼して、紅林刑事は規制テープをくぐった。木島と志我もその後に従う。木島は歩み出て、岸から湖面を覗いてみた。五メートルほど下が水面だ。崖は垂直に切り立っている。変な喩えとは思うけれど、入水自殺にもってこいの場所だと感じた。

「ここが現場ですか。それにしては捜査員の皆さんの姿が見当たりませんが」

 志我少年に尋ねられ、紅林刑事は、

「実は第二の現場なのです。遺体の一部がここで発見されています」

 と、スーツのポケットから小型のタブレット端末を取り出した。その電源を入れながら、

「もちろん現物は回収済みです。鑑識の作業も終わっています。写真だけでも見てください」

 と、紅林はタブレットの画面をこちらに向ける。

「最大限の協力をせよとの主任の指示です。お見せしても構わないでしょう」

 何とも奇妙な現場写真だった。

 湖岸に、人間の足だけが並んでいる。

 脛のちょうど中間辺り、踝から二十センチほどのところで脚部が切断されている。その両足が、湖に向かって揃えられていた。湖に飛び込んだ人がうっかり足だけ忘れていったみたいな、シュールな絵面だ。何だか不可思議で、生々しさを感じさせない。

「被害者の両足はこうして湖の岸辺に並べられていました」

 紅林刑事の解説に、少年探偵はうなずいて、

「なるほど、さっき聞いた脛斬り姫の伝説とそっくりですね。これはまさに見立て殺人です」

 顔色ひとつ変えずに冷静に応えた。高校生でも探偵ならば、死体の脚部の静止画くらいでは動じないらしい。

「うちの先輩刑事も見立てとか何とか云っていましたけど、自分にはそれが何だか、よく判りません」

 紅林が云うと、志我は冷静な口調のままで、

「見立てというのは、ある物を別の何かと見做みなして模倣することです。例えば、かき氷を山の形に盛りつけて富士山になぞらえる、そういうメニューがあったりするでしょう、あれが見立てですね。探偵小説だと、氷を使うのではなくて、死体を何かになぞらえることが多いようです。小説や戯曲、映画などの一場面を、死体を使って模倣するわけですね。あとは、子守歌や手毬唄の歌詞、童謡にマザーグースの詩、そういうのになぞらえて死体を装飾するとか。俳句や短歌に詠まれた場面を使うこともありますね。有名なのは、芭蕉ばしょう其角きかくの句に死体をなぞらえた見立て殺人が知られています。今回の事件は、脛から下の足の部分だけが湖に向けて立っている。これは脛斬り姫の伝説のラストシーンにそっくりです。印象的な場面に見立てた、と考えるのが自然でしょう。ただ、性別は違っていますが」

 そう、性別が違う。伝説では、たおやかなお姫様の足が湖畔に残る。しかし写真に写っているのはどう見ても、むくつけき男の足である。黒々とした臑毛すねげが密生し、全体的に逞しく骨張っている。これを女の足と見間違える人などいないだろう。被害者は間違いなく男性だ。

「男の足では脛斬り姫の見立てになっていないのではないでしょうか」

 紅林が生真面目な表情で聞くのを、志我少年は頭を振って、

「いいえ、見立てというのは元ネタそのものでなくても構わないのです。死体でうぐいすを表すように。女性の足ではこの場合、かえってただの再現になってしまいます。男の足を姫君の代用品に仕立てたところが、逆に見立ての度合いが高いとも云えるのじゃないでしょうか。別の物を本物になぞらえるのが見立ての本質なのですから」

 それを聞いた紅林刑事は、

「なるほど、そういうものなのですか」

 と、タブレット端末をしまいながら、

「足を発見したのは近所の住人です。犬の散歩に湖まで来て、見つけたそうです。発見時刻は午前十時頃。その時点にはもう本体、というか体のほうも見つかっていて、我々捜査陣は現着していました。足のない死体を調べている時に脚部発見の報せが入ったので、現場はざわめいたものです」

 その報告を聞いた志我少年は、湖に背を向けて、

「では、その本体の発見現場に案内してもらえますか。ああ、その前に一応聞いておきます。足以外にここで何か痕跡は見つかっていますか」

「いいえ、この通り下は固い地面です。犯人の足跡などはまったくありませんでした。その他、手掛かりになりそうな遺留物も無しです」

「やっぱり。紅林さんが何も云わないからそうだと思いましたよ。だったらもう、ここでは見るべきものはありませんね」

「はい。特異な現場なのでまず見立てのほうを見てもらおうと思いまして」

 と、紅林刑事は云った。なるほど、確かに異様な現場だ。県警の上のほうで誰か、特専課向きの事件だと判断した人がいたのだろう。

 森の獣道に戻りながら、紅林は振り返り、

「見立ての話に戻りますが、何のためにそんな変なことをするのでしょうか」

 その後ろを歩きつつ、志我少年は答える。

「そうですね、例えば、見立ての元ネタを特定の何者かしか知らないケースなどがあります。元ネタを知っている人物が一人しかいなければ、見立てを施したのは自動的にその人しかいないことになる。警察はまっ先にその一人を疑うでしょう。そう誘導するために犯人が、見立ての場面を作ったという場合です。今回ならば、龍神湖の脛斬り姫伝説が非常にマイナーで、ごく一部の郷土史家しか知らない、とすれば、犯人はその郷土史家に罪をなすりつけるために脛斬り姫の見立てを作った、ということになります」

 なるほど、元ネタを知らなければ見立ての場面を再現できるはずがない、そういう発想か、と木島は思いながら、

「脛斬り姫はマイナーな伝説ですか。特定の人しか知らないとか」

 尋ねると、先頭を歩く紅林はちょっと振り向いて、

「いえ、割と有名ですね。自分も地元出身で、子供の頃から親しんでいるくらいですから。観光協会の、龍神湖を紹介したパンフレットにも載っているほどですし。小学校のキャンプなどのイベントの時などは、地元の古老が語るのをよく聞かされたものですよ。多分あれ、今でもやっているんじゃないかな。だからこの辺りの住人ならば、間違いなく皆、知っているでしょうね」

 紅林と志我の後をついて、獣道を進みながら木島は、

「それじゃ、特定の誰かに罪をなすりつけることはできそうもありませんね」

「でしょうね」

 と、先頭の紅林がうなずく。志我少年探偵は、

「狂信的な信念の発露、というのも見立て殺人の動機としてはありがちです。例えば、死者を神のように崇めていて、どうしてもキリストになぞらえたくて磔刑の形にするとか」

「脛斬り姫に心酔して、どうしても足が湖畔に残る場面を再現したかった、ってこと?」

 木島が尋ねると、先頭を行く紅林は、

「いやあ、それはどうでしょう、ピンと来ませんね、その線は。我が地元民は親しんでいる昔話ですけど、あくまでも親しみでしかありません。狂信的に信奉するイメージは、どうにもしっくりきません」

 否定されても気にする様子もなく、志我少年は、

「何かのメッセージ、という可能性もありますね」

「というと?」

 木島が聞くと、前を歩きながら志我は、

「脛斬り姫の伝説通りに死体を装飾することで、誰か特定の相手に伝言を伝えたかったのかも」

「それはどんな伝言?」

「そこまでは判りませんよ。当人同士にしか伝わらないメッセージなんですから。犯人と、それを伝えたい相手にしか通じないんです」

「それじゃこっちとしては読み解きようがない」

 木島が云うと、志我少年は、

「そう。しかし、そこまでするか、というのが正直な感覚です。脛斬り姫のメッセージを送るのなら、なにも本物の人の足を使うことはないとは思いませんか。ただのマネキンか何かで代用させればいい。わざわざ人体切断なんかしなくても、脛斬り姫伝説を模することはできるんです。だからこのアイディアはありそうもないですね」

「ふうん、君が云うんならそうなんだろうね。他には何か可能性ある?」

 木島の質問に、森の中の狭い道を歩きながら志我は、

「見立てはカムフラージュ、というのはどうです。本当の目的は、被害者の脚部を利用すること」

「利用、ってどうやって?」

「例えば、足を切って持って行って、それをスタンプみたいに使うとか。痕跡の残りやすい材質の床の上を、一、二、一、二と、足の裏を捺すわけです。それで床に、被害者の足底紋が残る。あたかも被害者が自分の意志で、そこを通ったかのように偽装できるんです。犯人の目的はその足跡を残すこと。でも、スタンプに使った足をその辺に放っておいたらすぐに目論見がバレちゃうから、見立てに見せかけて誤魔化そうとしたわけです。この手法ならば、壁を伝って天井を歩かせて“怪奇、無重力男出現”なんて演出もできそうですね。どうですか、紅林さん、どこかに被害者の足跡はありましたか」

「いやあ、ありませんね、残念ながら」

「そうですか、いいと思ったんだけどなあ。足跡がないんじゃ仕方がありません。それならスタンプ説も撤回しますよ。だったら純粋に見立てと考えたほうがいいのかな。それにしては意図が不明だけど。まだ情報が足りないのかもしれませんね。死体本体の発見現場を見てから考え直すのがよさそうです」

 と、志我少年は云う。

 それももっともだ、と木島は思った。

 今考えても、犯人の意図は判らないのかもしれない。

 死体の足を切断してきて、湖畔に置く。そうやって脛斬り姫の伝説の見立てを作る。

 その行為に何の意味があるのか。

 犯人は何のためにそんなことをしたのか。

 見立てなど作ってどうしようというのだろう。

 木島には、今のところさっぱり判らない。少年探偵はこの不可解な謎を解き明かしてくれるのだろうか。

             *

 元の場所に戻って来た。

 別荘地の空きスペースである。

 警察車輌が十数台、停まっている。

「こちらです」

 と、先頭を歩く紅林刑事は、車の隙間を縫ってすいすいと進む。志我と木島はその後をついて行く。

 奥の、崖っぷちまで到着した。

 崖ぎりぎりに、例の用途不明の建造物が建っている。物置くらいの大きさの、四角いコンクリートの建物だ。

 隣には粗末な造りの木造の小屋。こちらは本物の物置らしいと見当がついた。

 紅林は、コンクリートの固まりに向かい、その頑丈そうな鉄のドアのドアノブを掴んだ。中の広さはせいぜい畳二帖分くらいしかなさそうなのに、何が入っているのだろうか。木島には予想も立てられない。

 紅林が遠慮ない態度で、重そうなドアを開く。木島は、志我少年の低い頭越しに、中を覗き込んだ。意外なことに、階段があった。下へ降りる急な階段だ。これは意想外だった。てっきり地上だけに建っているものだと思っていたのだが、ここはただの入り口で、先が続いていたのだ。

 紅林はドアノブを掴んだまま振り返って、

「この辺りは高級別荘地なのですが、これもその一軒のようです。凝った造りですよ、地下に建物があるんですね。もっとも地下といっても、崖の岩盤の斜面にへばりつくみたいになっているんで、片面は外に開けているのですが」

 予想外のことに、木島は感心するしかなかった。小屋ではなく、別荘への入り口だったのか。地上の建物は、玄関部分でしかなかったわけだ。

 紅林に先導され、木島と志我も靴を脱いで玄関に入った。そして急な階段を降りる。階段も壁も、コンクリートのしっかりした造りだった。

 そのままどんどん降りた。

 紅林に連れられ、木島と志我の順に階段を下がる。途中で何人かの刑事達とすれ違った。場違いな三人組を、彼らはぽかんとした顔で見送っていた。

 一体どこまで降りるのかと不安になった頃、突然開けた場所に出る。そこは、リビングルームだった。ごく一般的な、いや、一般的よりかなり広い、立派なリビングルームである。

 カーペット敷きの床、ソファセットにテレビ、そしてオーディオ機器などが揃い、機能的で小洒落た印象のリビングだった。

 正面には窓が大きく取ってあり、眼下に森の樹木が広がっているのが展望できる。晴れていれば陽が入って、気持ちのいい眺めなのだろう。

 左手奥にはダイニングテーブル。食事などはそこで取るのだろう。広いキッチンもその奥に見える。

 紅林は、しかしキッチンとは反対の右側へ進んだ。リビングスペースの右奥だ。その突き当たりにまた、さらに下へ降りる階段があった。まだ下層があるのか、と木島はちょっと驚いた。これまでも相当下がって来ているのに。

 紅林は躊躇なく、

「この下へ向かいます」

 と、階段に足をかけ始める。今度は、今までよりさらに狭く、急だった。

 階段は、トンネルのような円筒形の壁に囲まれている。そこを勾配のキツい階段が下がっている。人一人通るのが精一杯の狭さだ。そして、階段というよりほとんど梯子段である。体感ほぼ九十度の、ヘタをすれば転げ落ちそうになる階段だった。それが遙か下まで続いている。危ないことこの上ない。幸い、鉄製の手摺りが両側に設置してある。それを掴んで、おっかなびっくり降りることになる。木島は慎重に歩を進めた。

 それにしても長い。転がり落ちそうな恐怖心から長く感じるわけではない。実際に長い。恐らく2フロア分くらい下がっていることだろう。

「急斜面ですねえ」

「これは怖いね」

 と、志我と恐ろしさを分かち合って降りる。そうして降り立ったところは、浴室だった。

 これも予想外だった。木島は思わず目を見張ってしまう。まさか浴場があるとは。しかも広い。

 ちょっとした温泉旅館の露天風呂ほどの面積はありそうだった。壁も天井も、天然の岩場に見える。元からあった岩の洞穴を、浴場として活用したのかもしれない。

 右手に大きな湯船がある。五、六人くらいはゆったり浸かれそうだ。個人の別荘でこの広さは、なかなか贅沢といえるだろう。

 洗い場は、黒い石畳。これも広々としている。やはり複数人同時に体を洗えそうだ。惜しむらくは、壁に備え付けのシャワーがひとつしかない。まあ、個人の別荘なのだからこれで充分なのかもしれないが。

 シャワーのついている壁には、床掃除用なのだろう、デッキブラシが一本立てかけてある。

 そして特徴的なのは階段の左手、湯船の反対側の壁だった。いや、壁というか、壁がない。すっこりと一面が抜けている。床から天井まで、遮るものは何もない。それで露天風呂という印象が強まっているのだ。

 きれいに抜けた壁のない向こうには、本当に何もなかった。下は崖になっているようで、中空に向けてすこんとすべてが抜けている形だ。あっけらかんと素通しの空間の向こうには、曇り空が見えるだけ。そして視界の下のほうには、森の木々が広がっているのが見渡せる。

 こんなふうに隠すものがまったくないと、変質者が覗き放題なのではなかろうか。木島はつい余計な心配をしてしまう。それで怖々近寄って、壁のすっこり抜けた足元を見下ろしてみた。

 下は垂直の崖になっている。岩肌が真下まで続いており、十メートルくらい下の地面まで、取っかかりも何もない。これでは痴漢が這い上がって来ることも不可能そうだ。眼下に見えるのは、人の手が入っていない自然の森と、生い茂った藪だけだった。足場が悪くて、崖に近づいて来るのも無理だろう。

 鳥の視点で上空から見れば、岩盤の崖の中腹に、ぽっかりと四角い穴が空いているように見えるに違いない。

 紅林が近づいて来て、

「龍神湖や富士山は反対側なのでここからは見えません。ただ、曇ってさえいなければ南アルプスが一望できるはずです。天気が悪いのが返す返すも残念です」

 地元出身者としては、都会の者に絶景を自慢したいらしかった。

「しかし、曇り空でも雄大な眺めでしょう」

 と、紅林は名残惜しそうに云ってから、後ろを振り返って、

「浴場も広いですよね。大浴場と呼んでいるらしい。確かに大浴場です、この広さですから。お湯も天然温泉だそうですよ。無限に湧いてくると聞きました。天然の温泉に眺めのいい浴場。何とも羨ましい別荘ですね」

 湯船には、お湯が満々と湯気を立てている。温泉が滾々こんこんと湧いているのだろう。残暑の気配はまだ残っている。服を脱いで飛び込んだら、さぞかし爽快だろう。

 などと呑気なことを云っている場合ではない。木島は、紅林刑事のほうに向き直って、

「もしかしたら、ここが現場ですか」

 見当をつけて聞いてみる。何の意味もなく浴室に案内するはずがないと思ったからだ。

 果たして、紅林刑事はうなずき返してきて、

「そうです、ここが遺体発見現場です。もちろん遺体はもう運び出していますが」

 と、再びタブレット端末を取り出す。

 死体が片付けられていると知って、木島は心底ほっとした。春に、頭を撃ち抜かれた死体を間近に見たのが未だに尾を引いている。また死体を見る羽目になるのか、と車中からびくびくしていたのだ。凄惨な他殺死体の見物などご免蒙りたい。やはり特殊例外事案専従捜査課は自分には向いていないと思う。早く配置換えをしてほしい。実際、異動願いはもう上に提出している。

 そんな後ろ向きなことを考えている木島に、厳しい現実が突きつけられた。紅林がタブレットの画面を見せてきたのだ。そこには容赦のない現実が、死体という形を取って写っていた。

 死体はこの大浴場の石床に倒れている。

 うつ伏せで、頭を壁のない空間のほうへ向けている。壮年の男性だ。がっしりしていて、倒れていても背中や肩の筋肉が盛り上がっているのが判る。裸なので、体格がいいのがはっきりと見て取れる。腕も筋肉質で太く、腰回りも引き締まっている。ただ、身長が判りにくかった。恐らく、かなりの大柄なのだろうが、何しろ膝から下が無い。そのせいで、死体はやけに寸詰まりに見えた。

「これが発見直後の様子です」

 そう云って紅林は画面をスワイプし、様々な角度から撮った死体を見せてくる。

 木島は目を背けたくなったけれど、志我少年は身を乗り出し、食い入るように画像に見入っている。探偵とはいえ、高校生にこういうのを見せるのは倫理的にいかがなものなのだろうか。大人としては疑問に思わないではないが、当人は至って平気そうな顔色をしている。それどころか、好奇心に瞳が爛々と輝いている。慣れているのかもしれない。子リスみたいな小動物系の顔をして、嬉々として死体写真に見入る高校生。何ともちぐはぐな構図である。

 写真なので現実感が薄いのが、木島にとってはありがたかった。画像の死体はやけにのっぺりとしていて、肌の質感の不自然さがゴム人形を思わせる。膝から下がないのも、作り物めいて見える原因のひとつだろう。

 木島は勇気を振り絞って、薄目で写真を観察する。

 顔立ちは整っていると思われる。きりっとした眉と彫りの深い目鼻立ちで、生前はなかなかの二枚目だったのだろう。ただし、湯殿に伏した死体は顔が苦悶の表情で歪んでいて、ハンサムぶりが台無しになっていた。

 紅林が画面をスワイプするたびに、色々な角度から撮った写真が表れる。

 顔面の左下を床につけている。両手は首の辺りを掴むようにして、うつ伏せの体の下に敷き込んでいる。爪で掻き毟ったのか、喉元に無数の傷がついている。がっしりと筋肉質な背中が盛り上がり、引き締まった臀部が緩やかな曲線を描いている。

 そして膝の下。脛の中ほどの部分で足が切断されていた。切断面のアップは、さすがに直視できない木島であった。

「死者は門司重晴もじしげはる氏、四十六才、東京都目黒区在住。ここの別荘の持ち主でもあります」

 紅林刑事はタブレットを掲げたままで説明する。

「門司氏は都内でスポーツジムを八軒、スポーツバーを九軒経営する、いわゆる実業家というんですかね。昨日は土曜日でしたから、週末をこの別荘で過ごすために来て、奇禍に遭ったと推量されます。死亡推定時刻は昨夜の九時から十一時頃。死因は毒殺です」

「毒殺、ですか?」

 と、木島は思わず聞き返す。脚部の切断という手口から、もっと暴力的な死因かと、てっきり思い込んでいた。毒殺は考えていなかった。

 紅林刑事は、ひとつうなずいて、

「監察医の見立てでは、恐らくヒ素系の毒物を経口摂取したと思われるそうです。遺体の状況に、ヒ素系の毒物特有の特徴が見られるとのことでした。詳しいことは解剖で判明するでしょう。そして、毒物はここに混入していたと思われます」

 と、タブレットの画面をまたスワイプした。

 写し出されたのは銀色の水筒だ。ステンレス製らしい、シンプルな円筒形のデザインのものだった。蓋が開いた状態で、死者の右手から五十センチほど離れた床に転がっている。

「この水筒にスポーツドリンクを入れて、ここで入浴しながら飲むのが被害者の習慣だったそうです。水筒は倒れているので中身はほとんどこぼれてしまっていましたが、内部にわずかな液体が残留していました。鑑識が簡易式の検査キットで調べたところ、あきらかにスポーツドリンクには入っていない薬物が検出されています。これも詳しい鑑定結果待ちですが、ヒ素と覚しき反応が出たということです。状況的に考えて、この水筒に毒物が混入されていたと断定しても構わないだろう、というのが我々捜査陣の見解です」

 紅林刑事の丁寧な説明を、志我少年は画像に見入りながら聞いている。

 紅林はまた別の画面を出しながら、

「そして、こちらが脚部を切断したと思われる道具です」

 写真は、両刃のノコギリだった。特に珍しくない形の、普通の大工道具だ。

「遺体の足元、といっても足はないのですが、湯船の近くの床に置いてありました」

 紅林が云うと、すかさず志我少年は、

「指紋はどうでしたか」

「ノコギリから残留指紋は検出できませんでした。きれいに拭き取ってあったからです。ただ、刃のほうには脚部を切断した痕跡が残っていました。血痕や脂、人体の組織、筋繊維など、だいぶお湯で洗われて消えかかっていましたが、これらははっきりと検出されたそうです。それから、水筒の指紋も被害者のものしか付着していませんでした。蓋からも本体からも、被害者一人分の指紋しか出ておりません」

 説明を終えたようで、紅林はタブレットをしまい始める。そこに声をかけて木島は、

「この場所で毒死して、ここで足を切断された。ということでいいんですね」

「我々はそう見ています」

 答える紅林に、今度は志我が、

「何か遺留物はありましたか」

「特に見つかっていません。犯人を特定できそうな残留物は何も発見できませんでした。被害者の遺留品ならば、バスローブにバスタオル、スマートフォンがそこの棚に置かれていました」

 と、紅林は、階段を降りたところに設えられた木の棚を指さした。

「被害者が入浴する際に置いたのでしょうね。他に注目すべき点は、特にありません。床はほとんどお湯で流されて、何も残っていない状態でした。犯人の痕跡はすべて洗い流されてしまったわけです。浴場という特殊な現場のせいで、我々としては始めから大きくアドバンテージを失っているといえるでしょう。ああ、それから、あまり関係ないかもしれませんが、脚部切断面はあまりきれいではなかった、とこれも監察医の先生の見解です。素人が強引にノコギリで切ったのがよく判る、との先生の弁です。少なくとも外科的な知識や経験のある者の手際とは見えないそうです」

 そうやって切断した下肢を持って行って、龍神湖の岸辺に並べたわけか。と、木島は考える。何のために、わざわざそんな手間のかかることをしたのだろう。やはり見立てを完成させるためにか。しかし、そうまでして脛斬り姫の伝説になぞらえることに、何の意味があるのだろう。犯人の意図が掴めない。

 志我少年が唐突に、

「ところで、紅林さん、繋げてみましたか」

 と、尋ねた。

「はい?」

 紅林はきょとんとしている。そんな相手の反応に構わず、志我は、

「死体と脚部、繋げてみましたか、と聞いているんです。切断面は合致しましたか。よもや足だけは、ここで発見された門司重晴氏のものではなかった、なんてことはないでしょうね」

「いや、まさか」

 と、紅林刑事は目を白黒させて、

「間違いなく本人の足です。監察医が確認していましたから」

「そうですか、そこまでトリッキーな事件ではないんですね」

 と、涼しい顔で云う志我少年に、木島は問いかけて、

「別人の足の可能性もあった、と云いたいのかい。もしそうなら」

「被害者は二人、ということになりますね。門司重晴氏と、足の持ち主の二人。でも、今回はそこまで複雑じゃないみたいです。ちょっと残念ですね。事態が錯綜してたほうが解決のしがいがあったのに」

 と、子リスみたいな前歯を見せて、志我は無邪気に笑った。かわいらしい顔をして怖いことを云う少年探偵である。

                  *

 急勾配の、梯子段みたいな階段を、えっちらおっちらと上がった。

 苦心してリビングに戻ってきた。

 やれやれ、死体と直接のご対面は免れた、と木島がほっとしながら向こうを見ると、人影があった。リビングスペースの奥のダイニング、そのさらにあちらのキッチン。そこで男が一人、ごそごそしていた。刑事の一人かと思ったけれど、少し挙動が不審だ。紅林の顔を見てびくりとしている。

「門司さん、あまりうろつかないようにお願いしたじゃないですか。できるだけ自室で待機していてくださいと」

 紅林刑事がしかめっ面で云うと、相手の男は決まり悪そうに、

「いや、すみません、ちょっとこれをね」

 と、コーラの缶を掲げて見せてくる。

「部屋に一人でいると、どうにも気が滅入って。気分転換にと思って」

 言い訳するかのようにごにょごにょ云う男は四十才くらいだろうか。背は高いが、貧弱な印象の男だった。顔立ちが、さっき写真で見た被害者と似ている気がする。もっとも被害者とは違って、ふにゃっと気が抜けた顔で、写真の顔から二枚目要素を差し引いたみたいな感じだ。

 紅林が紹介してくれて、

「こちらは被害者の弟さんで、門司清晴きよはる氏です」

 ああ、道理で似ているはずだ。と、木島は納得した。ただ、体格はまったく違っている。被害者は写真でも判るほどがっしりとした筋肉質だったけれど、この弟のほうは痩せこけて情けない体つきだ。

「いやあ、申し訳ない。これがないとどうにも落ち着かなくって」

 と、門司清晴は、缶のコーラをぷしゅっと開ける。それをぐびぐびと飲んで、手の甲で口元を拭いながら清晴は、

「それで、刑事さん、こちらの二人は?」

 と、木島達を不思議そうに見て尋ねる。気になるのはもっともだろう。中学生にしか見えない少年探偵は、殺人の捜査の場には不似合いだ。

「東京の警察庁から出向してきているお二人です。我々の手伝いをしてくれています」

 紅林刑事は真っ正直に答えている。

「へえ、こんなに若いのに?」

 清晴は目を丸くする。若いというより、幼いのだが。

 しかし、志我少年探偵はまったく気にしたふうでもなく、

「紅林さん、弟さんも昨夜からここにいらしたんですか」

「ええ」

「だったら事件関係者ということになりますね。清晴さん、でしたね、ちょうどいい。少しお話を伺ってもよろしいですか」

 志我は愛想よく云う。その外面の良さが功を奏したのか、

「構わないよ、どうせすることもないし。話でもしていたほうが気が紛れるだろうしね」

 と、コーラの缶を持ったまま、清晴はリビングのスペースに移動してきた。

 それで座って話すことになった。門司清晴が窓に面したソファに座り、志我少年と木島がそれに向き合って並ぶ。紅林刑事は審判みたいに、木島達と垂直に位置するソファに腰かけた。

 木島は一応大人の社会人として、儀礼的に、

「お兄さんのこと、残念でした。お察しいたします」

 深々と頭を下げる。

「これはご丁寧にどうも。いや、しかし信じられませんよ、兄があんなことになるなんて。頑健なのが自慢で、百まで生きそうだったんですが。私も未だに実感が湧きません」

 と、門司清晴は、しょんぼりと肩を落とした。

「少し強引なところはありましたが、頼りがいのあるまっすぐな気性の男でしたよ。気骨があって、裏表のない性格でね。身内の私が云うのも何ですが、亡くなるには惜しい好人物でした」

 しんみりと語った清晴だったが、しかし無理をした作り笑いを顔に浮かべると、

「いや、失礼、湿っぽくなってしまいましたね。それで、私は何を話せばいいんですか」

 木島がどう切り出そうか迷っていると、志我少年が横からさっさとイニシアティブをかっ攫っていって、

「まず、昨日の経緯をお聞かせ願えますか。僕達はまだ事件の前後関係を何も知りませんので」

 やけに大人びた喋り方の少年探偵に鼻白んだのか、門司清晴は少し戸惑った様子だったが、快く、

「警察の人には何度も話したことだけど、まあ、構わないよ。ちょうどいい退屈しのぎだ」

 と、前置きしてから、

「昨日は、兄の会社の慰労バーベキュー会があったんです。兄が会社を経営していたのは知ってるかな? その中で功績のあった社員を別荘に招いてもてなすという主旨でね、高級な肉をたらふく食べてもらおうという企画でした。兄はそういうのが好きでね。しょっちゅうそんなことをやっていた、会社の人を招待してね。昨日も、社員九人を招いてのバーベキュー会ということになった。車を五台連ねてここへやって来ました」

「皆さん東京の人ですか」

 志我少年の、タイミングの間合いがうまく計算された質問に、清晴はうなずき、

「そうだよ」

「出発の時間は?」

「向こうを出たのが昼すぎ。私も、兄の目黒の自宅を正午頃、一緒に出発した。食材やら飲み物やら荷物が多いからね、主催側は一旦目黒のほうに集まったんだ。あちこちで他の車と合流しながらこっちへ向かった。着いたのは午後二時頃。と、こんな感じでいいのかな」

「結構です。整理されていてとても聞きやすいです。お話がお上手なんですね」

 と、志我少年は、あくまでもにこにこと愛想よく云う。外面がよくて相手を持ち上げるのもうまい。

「いやいや、君のほうこそ一端の刑事みたいだ。質問が堂に入っている」

 と、清晴は少し笑って、

「それで、着いてから、社員さん達ゲスト側はそこからそれぞれ遊びに行った。龍神湖まで散策に行く者、兄自慢の大浴場で露天風呂気分を楽しむ者、上の広場でレジャーチェアを広げて昼寝をする者。男ばかりの九人で女っ気はなかったけどね、それでも皆、楽しんでいたようだった。我々ホスト側はバーベキューの用意だ。そこのキッチンと地上の広場を何往復もして、階段を上がったり下がったりで大わらわだったよ」

 広場というのは、今は警察車輌でいっぱいのあのだだっ広い空間のことだ。あそこならばバーベキューを楽しむスペースも充分にあることだろう。花火をするのにもいいかもしれない。野郎ばっかりで楽しいかどうかは置いておいて。

 そして清晴は、この別荘の構造を解説してくれる。

 この建物が、広場の奥の岩盤の斜面にへばりつくように作られていることは、さっき紅林刑事にも聞いた。

 清晴によると、別荘は四階層で構成されているという。一階は地上にある、例の玄関だ。畳二帖ほどの広さしかない、あのコンクリートの物置みたいな建物。そこから階段を降りたところが地下一階。ここには客室が三部屋並んでいるらしい。さらに一階下がったところが地下二階。このリビングのスペース、ダイニングやキッチンがある。さらに客室が二部屋、リビングの隣に並んでいるという。そして、さっき降りて行った地下三階が大浴場。別荘の持ち主だった門司重晴氏ご自慢の、また最期の時を迎えた浴室である。

 地上の玄関から地下三階の浴室まで、この別荘は四階建てということになる。もっとも崖の岩盤にへばりついて、重量は岩場に預けているわけだから、四階建てという表現が妥当かどうかは判らないけれど。

 なんでも温泉の湧く岩盤の洞穴が地上から随分低い位置にあって、その自然の空間をどうしても浴室に改装したいという主の要望で、こうした変則的な建物になったということだ。

 水仕事のできる設備が地上にはないから、バーベキューの準備のために、この地下二階のキッチンと上の広場を何往復もしなくてはならなかった、というのが清晴の説明だった。

「重晴さんも準備に参加したんですか」

 志我少年の質問に、清晴は苦笑して首を振り、

「兄はそういうことはしないんだ。ゲストをもてなして、率先して龍神湖までハイキングに行ったよ」

「では、準備をしたのは誰と誰でしょうか」

「事件関係者だね、警察の人に云わせると」

 と、清晴は少し皮肉っぽい云い方をして、

「準備をしたのは身内だね。まず私。別荘の主人の不肖の弟。そして兄の奥さん、真季子さん。支度は主にこの真季子さんの陣頭指揮の下に行われた。何せ女性は義姉一人だったから。次に、兄の会社の一谷いちたにさん。この人は兄の腹心というか補佐役というか、いってみれば懐刀みたいな人だね。兄が一番信頼している部下。彼は身内同然に扱われているから、バーベキューの準備にも当然駆り出された。もう一人は白瀬しらせくん。訳あって兄の目黒の自宅に下宿している大学生、いや、学生じゃなくてもう院生か。準備したのはこの四人だな」

 木島はすかさずメモを取った。

 

 門司清晴   被害者の弟

  門司真季子   被害者の妻

 一谷     被害者の一の部下

 白瀬     被害者宅の下宿人

 とりあえず、この四人が関係者ということか。もしかしたら捜査一課が容疑者候補として見ているのも、この四人かもしれない。

 そんなことを考えているうちにも、清晴の話は続いている。

「そしてバーベキューが始まりました。時刻は午後五時。食事には少し早いのかもしれないけど、呑み助達に云わせると、ビールを開けるのにはちょうどいい時間らしい。ゲストの社員さん達はひたすら呑んで食って、私はひたすら肉を焼き続けましたよ」

「清晴さんは完全にホスト側なんですね」

 木島は尋ねてみた。あまり高校生ばかりに働かせるのも、大人としてどうかと思ったのだ。向いているとは到底思えないこの仕事だが、少しは参加しないと給料をもらっている手前、申し訳がない。その質問に清晴はうなずいて、

「そう、身内だからね、もてなし側ですよ。少しはお客さんとも喋ったけど、えーと、石川さん、久野くのくん、八巻やまきくん、といったかな、三人くらい」

 その云い方に違和感を覚えた。まるで部外者のような口ぶりだったからだ。

「あれ? 清晴さんはお兄さんの会社の社員ではないんですか」

 木島が云うと、清晴は片手をぱたぱたと振って、

「いやいや、違います。私はまったく別の、小さな会社でしがないサラリーマンをやっていますよ」

「あ、そうなんですね」

 準備を手伝っているから、てっきり会社内の人なのかと思い込んでいた。木島は先入観に囚われていたようだ。

「ちなみに、どんな会社ですか」

「文房具の仲卸業です。オフィスや学校なんかの大口の販売先には仕入れもしますけど」

 全然別の業種だった。

「続けますね。バーベキューがお開きになったのが午後九時前、八時四十分か四十五分か、そのくらいです。ゲストはそのまま車で帰りました。酒がまったくダメな人が三人ほどいて、彼らが運転手役ですね。九時頃、三台の車に分乗して九人全員、東京に戻って行きました。我々ホスト側は後片付けです。準備の時と同じように、地上とそこのキッチンを往復しててんやわんやでしたよ」

 清晴が云うと、紅林刑事が片手を上げて、

「失礼、ここでちょっと口を挟ませていただきます。例の毒入り水筒ですが、あれが用意されたのもこの時間でした。水筒にスポーツドリンクと氷を入れた。被害者の奥さん、真季子さんがそれを準備したそうです。彼女の証言によると、それが片付けを始める直前、九時五分頃だったらしい。そしてこのリビングのテーブルに置いた。今、我々が囲んでいるこのローテーブルですね。そうすると、大浴場に降りる重晴氏がそれを持っていく、いつもそうした段取りだったそうです」

 その報告を聞いた木島は、

「お兄さんは片付けを手伝わなかったんですか」

 尋ねると、清晴はちょっと笑って、

「まさか。兄がそんなことをするはずがないと云ったでしょう。こういう時、兄は王様ですからね。片付けなど我々家臣の仕事です。主人は下々の雑事などには関心がないものですよ。一人悠然と風呂に降りていって、筋トレに励む」

「筋トレ?」

「兄は筋トレマニアでしてね。スポーツジムを何軒も経営しているくらいで、筋肉至上主義でした。といっても、ボディビルのような見せる筋肉とは違う、実用的な使える筋肉を磨く、というのが兄のモットーでした。私にはその違いがよく判りませんでしたが」

 と、清晴は、細い腕で薄い胸板を撫でて、

「自宅にも筋トレマシン専用の部屋がありましてね。私もしょっちゅう誘われるんですが、そのたびに逃げ回っていましたよ。訳の判らないごついマシンが並んでいて汗くさくって、あんな部屋には五分といられたもんじゃありませんから。でも兄はそんな部屋に籠もって黙々と鍛えてるんです」

 理解できない、とばかりに清晴は肩をすくめて、

「ここでもそうです。さすがに専用部屋は作れなかったみたいですが、その代わり、大浴場で全裸筋トレですよ。洗い場で腹筋、背筋、スクワット。たっぷり汗を流して温泉に飛び込む。さっぱりしたらまた洗い場に出て、筋トレ筋トレまた筋トレ。変な趣味でしょう。そうやって暇さえあればトレーニングしている。風呂に浸かって体をほぐしてから筋トレ、喉が渇いたら水筒のスポーツドリンクで水分補給。その繰り返しです」

 昨夜は、そのスポーツドリンクに毒が混入していたわけだ。

「片付けは十時半頃に終わりました。我々がばたばたしているうちに、兄は下の浴場に降りて行ったみたいですが、私はいつ降りたのか知りません。見ていませんでしたから」

 清晴の言葉に、紅林刑事が補足して、

「片付けに参加した四人とも、同様の証言でした。被害者が何時頃に大浴場に降りたのか、誰も確認していません。全員、片付けに忙しくて気がつかなかった、と証言しています。ただし、片付けが終わった時にはスポーツドリンク入りの水筒はこのテーブルからなくなっていましたから、片付けの最中に被害者が降りて行ったのは間違いないと推定されます」

 片付けに参加した四人は、バーベキュー会場だった地上とこの地下二階のキッチンを、慌ただしく往復していたのだという。恐らく被害者は、たまたま誰もここにいないタイミングで大浴場に降りて行ったのだろう。

「片付けが終わったら我々はお役御免です。地上階の玄関に施錠して、皆でリビングに降りてきました。一休みしてから、各人ばらばらに自分に割り当てられた個室に戻った。兄が一泊するんで我々も付き合って泊まったわけです。と、昨夜の私の行動はこんなものですね」

 清晴が締め括ると、志我少年が質問役を代わって、

「部屋に戻った順番を覚えていますか」

「いやあ、よく覚えていないね。刑事さんにも聞かれたんだけど、てんでに戻ったとしか記憶していないんだ。申し訳ないが」

 清晴が頭を掻くと、横から紅林刑事が、

「証言をまとめると、最初に真季子夫人、二番目は一谷氏、次に白瀬くん、最後が清晴さんだったようです」

「うーん、私自身は全然覚えてないけど、他の人がそう云うんなら、まあそうなんだろうね」

「記憶が定かでないのはお酒で酔っていたからですか」

 志我の質問に、清晴は首を振って、

「いや、私は下戸でね。覚えてないのは、ただぼんやりしていたからだろう。酔ってはいない。飲むのはこれ一本槍」

 と、缶コーラの残りを飲み干して、

「兄も同じ。下戸なのは血筋かな。だいたい酒なんか呑んで風呂場で筋トレなんて危ないでしょう。さすがの兄もそこまで無茶はしない。素面しらふだから筋トレに精を出してたわけだよ」

「お兄さんは大浴場から上がって来なかったんですよね」

 志我少年が聞く。大浴場で毒入りスポーツドリンクを飲んで死んだのだ。上がって来るはずがない。当然、清晴もうなずき、

「そう、上がって来なかったね」

「片付けが終わって、皆さんが解散する時間になっても?」

「うん」

「変に思いませんでしたか」

「全然。何しろ兄の筋トレは長くてね。筋金入りのマニアだから。二時間でも三時間でもやっている。いつもそうだから、戻って来なくても誰も変だとは思わなかった。長い時なんて夜中までやってるくらいだし」

「清晴さんは大浴場には行かなかったんですか。バーベキューと後片付けで汗をかいたでしょう」

「いや、各部屋がバストイレ付きだからね。ユニットバスで狭いけど。兄の筋トレが始まったら、誰も近寄らないのが不文律だったよ。一緒にやれってうるさいから」

 と、清晴は苦笑して、

「そもそも大浴場は兄が趣味で造った兄の城みたいなところがあったからね。遠慮して私達はあんまり使わないんだ。まあ、たまに兄がいないのを見計らって、こっそり浸かりに行くこともあるけど。南アルプスの大パノラマを眺めながらの温泉は格別だからね。兄が湖にランニングなんかに出かけると、ちょっと入らせてもらっていたものだよ。義姉なんかもそうしていたみたいだし」

「解散になってから、どうしましたか」

「もちろん寝たよ、特にすることもないし。ユニットバスで汗を流して、すぐに寝たね」

 清晴が云うと、紅林刑事が、

「他のかたもそのまま就寝したと証言しています。夜中に変わったことは特になかったとのことです」

 その報告に清晴はうなずいて、

「そう、そのまま朝になった。で、翌朝、今朝のことだけど、私は八時頃ここに来た。コーラが欲しかったから。他の皆も、ダイニングに集まって来ていたな、義姉と白瀬くんが朝食の用意をしてくれていて。それを揃って食べた。ところが九時を回っても兄が起きてこない。そろそろ起こそうと義姉が部屋へ行ったんだけど、怪訝そうな顔で戻ってきました。兄は部屋にいなくて、ベッドにも寝た跡がなかったそうです。まさか夜通し筋トレしていて、まだ続けているわけじゃあるまいな、と皆で不審に思って一谷さんが代表で降りて行った。それですぐに顔色を変えて戻ってきた」

「ご遺体を発見したんですね」

 木島が云うと、清晴は顔をしかめて、

「そうです、まさかあんなことになっているなんて。大騒ぎになって警察を呼んで、もう大混乱でしたよ」

 死体発見は九時。龍神湖で脚部が見つかったのが十時といっていたな、と木島は思い出していた。

 志我少年が冷静な口調で、

「少し整理させてください。ゲストの九人が帰ったのが昨夜の九時でしたね」

「だいたいそのくらいだ」

 と、清晴がうなずく。

「被害者の奥さんがスポーツドリンクの水筒を用意したのがその直後、九時五分頃」

 志我の言葉に、今度は紅林が、

「本人の証言ではそうなっています」

「毒はその水筒に入っていた」

「うん」

 と、木島は首肯する。志我はちょっと小首を傾げると、

「ということは、九時にこの別荘を離れたゲスト九人には毒を混入する機会はなかったことになりますね」

「はい、捜査陣もそう見ています」

 と、紅林刑事が云う。志我はなおも、

「では、残った人達にしか毒を入れる機会がない、と云えます」

「多分、そうだね」

 と、木島は肯定して、

「外から何者かが忍び込んだんじゃなければ」

 そう云うと、清晴が首を振って、

「いやいや、そりゃ無理でしょう。片付けの時は我々が引っ切りなしに地上とキッチンを往復していたんですよ。不審な人物が入って来たりしたら、すぐに見つけます。ここの出入り口は一階の玄関しかないんだから」

 となると、ますます関係者が怪しくなってくる。木島はメモに目を落とした。

 門司清晴

 門司真季子

 一谷

 白瀬

 この四人の容疑が強くなったというわけか。木島がそう考えていると、志我少年がさらに確認して、

「奥さんは九時五分に、このテーブルに水筒を置いた、と云いましたね」

「そう証言しています」

 と、紅林刑事が応じる。

「見ましたか、ここに置いてある水筒を」

 志我は清晴に質問を放つ。しかし、相手は顔をしかめて、

「それが、思い出せないんだよ。片付けに手一杯で、多分見ていないんじゃないかな。見た気もするけど、他の日と記憶がごっちゃになっているかもしれない。いつもの習慣だから。義姉は、頃合いになると水筒を用意してここに置く。兄は自室でバスローブに着替えて、携帯電話だけ持って大浴場に降りて行く。その時、ひょいっと水筒を持っていくんだ。いつもそうしているからね。さっき刑事さんが云ったように、昨夜もきっとそうしたんだと思う」

「ひょいっと持っていった時には、もう毒は水筒に入っていたんですね。つまり犯人が毒物を混入したのも、ここに水筒が放置してあった短い時間の間だったということになります。後片付けで皆さんがごたごたしているのに乗じて、犯人は水筒に毒薬を放り込んだんですね。もっとも、奥さんがスポーツドリンクを用意した時に入れたのなら話は別ですが」

 と、志我少年は最後に物騒なことを付け加えて云った。

 木島はメモ帳の次のページにタイムテーブルを書いてみた。

2:00 別荘に到着

5:00 バーベキュー開始

8:45 バーベキュー終了

9:00 ゲストの車出発

9:05 真季子、水筒を用意。リビングのテーブルに置く 後片付け開始

   (この直後、犯人が毒物を水筒に混入か?)

   (門司重晴、水筒を持って大浴場へ降りる)

   (死亡推定時刻 9:00~11:00)

10:30 後片付け終了 関係者各自自室へ 就寝

   (深夜、犯人は大浴場へ、脚部切断)

 最後の一行は木島の考えに基づく推測である。さすがに関係者達が起きている時間帯に、大浴場まで降りて足を切ることは誰にも不可能だろう。従って犯人は、皆が寝静まった夜中に足を切断したと考える他はない。

 木島は一応、清晴に尋ねてみて、

「夜中に何者かがこの別荘に忍び込んできた可能性はあるでしょうか」

「ないでしょうねえ。片付けが終わってすぐ、私が一階の玄関の鍵をかけましたから。誰も入って来られませんよ」

 清晴は断言する。

 となるとやはり、関係者四人のうちの誰かが、深夜にこっそり大浴場に降りて、足の切断を実行したことになる。

 どうやら容疑者は絞られたようだ。

 志我少年も独自の視点から清晴に質問をして、

「ところで、龍神湖の脛斬り姫の伝説はご存じですか」

「ああ、あの兄の足が見つかった場所がどうこうという一件だね。伝説はもちろん知っているけど、何の関係があるのやら」

 と、清晴は眉をひそめて、

「ここの別荘の管理を任せている地元の老夫婦がいてね。五十畑いそはたさんというんだけど、元は農家で、引退してからこの別荘地で何軒か管理の仕事をしているんだ。別荘の持ち主は毎日来るわけじゃないからね、滞在していない期間は掃除をしたり建物に風を通したり、ここの場合だと温泉のメンテナンスとかも、その老夫婦にお願いしている。伝説はそのおじいちゃんに聞かされたよ。昔からこの近辺に伝わる昔話だと」

「その脛斬り姫の伝承に見立てて足が発見されているんです。何か心当たりはありませんか」

「刑事さんにも聞かれたけど、さっぱりだね。兄とそのお姫様には何の共通点もなさそうだし、そもそも兄は昔話なんかにはまったく興味のないタイプだったし。何の繫がりがあるのか、まったく判らない」

「では、思い当たる節はないんですね」

「全然。犯人が何のつもりでその見立て、というんですか、そんなことをしたのか、まるで意味不明だよ」

 清晴が答えると、志我少年は丁寧にお辞儀をして、

「とても参考になるお話の数々、どうもありがとうございました」

「いやいや、喜んでもらえたなら何よりだ」

 高校生に礼儀正しく頭を下げられ、清晴もまんざらでもなさそうだった。

 木島も、随分助かった。清晴の証言のお陰で、事件の経緯はだいたい掴めた。容疑者が極めて少ないことも判明した。

 木島は少年探偵に向き直って、

「次はどうするの?」

「警察が重要な容疑者として身柄を拘束している人物がいるはずです。いわゆる重要参考人ですね。その人の話を聞きたいと思います」

「どうしてそれを」

 と、紅林刑事がびっくりしている。木島も驚いて、

「そんなこと紅林さんは一言も云っていないよ」

 少なくとも木島は聞いていない。

「もちろん紅林さんに教えてもらったわけではありませんよ。でも判るんです。勒恩寺さんならばきっとこう云うんでしょうね。俺の論理がそう告げている」

 と、少年探偵はにっこりと笑った。無邪気な、子供みたいな笑顔である。

「どんな論理でそんな結論が出るんだい」

 木島が聞くと、志我は笑いを納めて、

「別に難しいことじゃありません。簡単な推論です。だって、容疑者がある程度絞られているでしょう。なのにそのうちの一人のはずの清晴さんはこうして自由に動き回っています。警察の監視の目もなく、呑気にコーラを飲みにふらついている。これは他に誰か容疑の濃厚な人がいて、捜査陣の取り調べがその人に集中していることの表れとしか思えません。そうでなければ清晴さんにもべったりと監視役がついているはずですから。でも清晴さんは刑事さんを引き連れていない。だから警察が誰か一人を強く疑っていて、付きっきりで尋問している最中なんだろうと思ったわけです。ね、簡単でしょう」

 そう云って志我少年は、また屈託のない笑顔を見せた。

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