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手間暇かかった判りやすい見立て殺人②

      *

 リビングから一階分上がった地下一階。その中央の部屋が目指す部屋だった。

 ドアをノックすると、入り口を細く開けて顔を出したのは熊谷警部だった。捜査責任者の、堂々たる恰幅の刑事である。

 熊谷警部は一瞬、露骨に迷惑そうな顔を見せたが、すぐに取り繕って、

「おや、どうしましたか、特専課の皆さん」

 と、完全にとぼけて云った。

「いえ、あの、この部屋にいる人物に話を聞きたいのですが」

 木島は語尾が萎んでいくのを自覚していた。叩き上げらしい貫禄のある警部を前にして萎縮してしまった。特殊例外事案専従捜査課に所属していても、自分がこの仕事に向いているとはまったく思っていない。自信のなさがこういう時に、如実に表れる。

「申し訳ないが我々は忙しい。ご遠慮いただけると助かりますな」

 と、熊谷警部はドアを閉めようとする。それを必死に押しとどめて木島は、

「いや、でも、誰か取り調べを受けているんですよね」

「そうですが、それで忙しいと申し上げているのです」

「ですから、あの、その相手を警部さん達は疑っているんでしょう」

「それは捜査上の極秘事項です。ですからお引き取り願えますか」

 熊谷警部はきっぱりと拒絶して、話が進展しない。為す術もない木島に業を煮やしたのか、後ろから志我少年が、

「でも、警部さん、それだと僕、困ってしまうんです。事件のレポートを警察庁に提出しなくちゃいけないんで。警部さんに断られたなんて書きたくないんですよ。何だか告げ口するみたいで気が引けるから」

 あくまでも愛想よく、にこにこと云った。無垢な笑顔だけど、はっきり云って脅迫である。熊谷警部はちょっとだけ逡巡した後、

「ま、いいでしょう、少しだけですよ」

 と、ドアを大きく開いた。県警の上層部に因果を含められているのを思い出したらしい。というか、志我が無理に思い出させた。少年探偵、かわいらしい顔をして結構腹黒い。

 入室を許された。紅林刑事も伴って、三人で中に入った。

 部屋の中央で椅子に座っている人物が、目に飛び込んできた。ちょっと目を引く容姿をしていた。

 木島と同じくらいの年回りだろうか。顔立ちがとても整っている。耽美画の中から抜け出してきたみたいに、中性的な美しさだった。男性を表現するのにはおかしいのかもしれないけれど、どこかたおやか、、、、)な雰囲気がある。長い睫毛が愁いを帯びた瞳に影を落としている。儚げで、蜻蛉かげろうみたいに薄幸そうな印象の青年だった。

 そのたおやかな若者は著しく困惑している様子だった。

 己の置かれた立場に納得がいっていない、というか、こんなことになった運命に茫然としている、というか、困り果てている顔つきだ。

 例の黒豹みたいに精悍な刑事と狼のごとく迫力のある刑事に、両脇に立たれているプレッシャーのせいばかりではないようだった。

 木島は一歩進み出て、

「警察庁特殊例外事案専従捜査課の木島といいます。こちらは手伝いの志我くん。よろしくお願いします」

 説明がややこしくなるから、手伝いということにしておいた。中学生に見える少年のほうがメインの探偵で、自分がただのおまけだと、呑み込んでもらうのは煩雑すぎる。

 儚げな青年は、困惑顔をこちらに向けてくる。

「白瀬です、白瀬すぐる。直角の直、一文字ですぐると読みます」

「お困りのようですね」

 木島が水を向けると、

「警部さん達は僕がおじさんを殺したと思っているようなんです。そんなはずがあるわけないのに」

 門司家の下宿人、白瀬直青年は、ほとほと困ったという顔で答えた。

 木島は振り返って、熊谷警部に尋ねる。

「彼に容疑がかかっているんですか」

「特専課さんに隠し立てしても仕方がない、正直に云いますよ。答えはイエスです。現在最も重要な参考人として、白瀬さんにはお話を伺っております」

 答える熊谷警部に、白瀬直は困ったように、

「柔らかい表現で誤魔化すのはよしてくださいよ。厳しく取り調べていると正確に云ってほしいですね、こんなところに軟禁状態で」

「そこはまあ、解釈の違いですな。我々はあくまでも捜査に協力していただいているだけのつもりなのですが」

 ぬけぬけと、熊谷警部は云う。さすがに老練な捜査官だけあって、なかなかのタヌキだ。

 志我少年が無邪気な様子で、

「警部さん、疑っている理由は何でしょうか」

「特専課さんにも得心できるように説明しましょう。いいですか、門司重晴氏は毒殺された。ヒ素と思われる毒物がスポーツドリンクの水筒に混入されていたのです。タイミングを考えると、毒の混入が可能だった人物は限られている」

 さっきリビングで木島達もそう話し合った。

「容疑者候補の中で、被害者の妻、門司真季子夫人は専業主婦。弟の門司清晴氏は文具卸し業の会社員。部下の一谷英雄氏は、被害者と同じ会社なのでスポーツジムとスポーツバーの経営に携わっている。毒物を容易に入手できるような職業の者は一人もおりません。対して白瀬さん、あなたの今の社会的ポジションはどうなっていますか。ご自身の口からどうぞ」

 促されて、白瀬直は困惑しきった様子で、

「東央大学薬学部薬学科、、、、、、修士課程一年です」

 さあどうだ、と云わんばかりに熊谷警部はこちらに向き直ってきて、

「お判りですね、一目瞭然ではないですか。毒物、劇薬の類に日頃から慣れ親しんでいるのは彼しかいないのですよ」

「いや、しかし、それだけで」

 木島の言葉は途中で遮られる。

「それだけで充分でしょう。それとも何ですか、特専課さんは一般の家庭の主婦や文具を扱う会社の社員が、簡単に劇薬を入手できるとでもおっしゃるのですか。それもヒ素ですよ。誰でも彼でも取り扱える物ではない。そんな劇物を入手するには、それ相応の立場が必要なのですよ」

 熊谷警部の云うことも実にもっともだ、と木島も困惑してしまった。シンプルな理由だけに説得力がある。警察が疑念を持つには充分なのかもしれない。

 白瀬直は、さらに困り切った様子で木島に向かって、

「警察庁のかただそうですね、聞いてください、これは何度も警部さん達には云っているんですが、僕には動機がない」

「またその話ですか」

 と、熊谷警部はうんざり顔だ。しかし白瀬は云い募り、

「聞いてください、僕の生い立ちです。僕の母は僕が生まれるとすぐに亡くなりました。元々体が弱かったとかで、出産に体が耐えられなかったそうです。それからは父と、親一人子一人でした。父が一人で僕を育ててくれました。しかし中学一年の夏、父は交通事故で呆気なく他界しました。電柱にぶつかる自損事故で、僕は天涯孤独になってしまいました。親戚がいないわけではないんですが、つき合いはほとんどありません。育ち盛りの中学生を引き取る経済的余裕のある親類はいなかったようです。そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのが門司のおじさんでした。父はおじさんのビジネスパートナーで、元々スポーツジムの経営立ち上げも二人でやったそうなんですね。事故に遭ったのも、ジムの経営を拡張している最中だったらしい。二人は親友でもあったんです。真季子おばさんとの間に子供がいなかったおじさんは、積極的に申し出て僕を引き取ってくれました。役所の書類上はどこかの親戚の扶養に入っているみたいですけど、実質的に下宿させてくれて養育してくれたのは門司のおじさんです。親友の息子の僕を、実の子のように育ててくれた。大学にも行かせてくれて、院に進むのを後押ししてくれたのもおじさんです。僕にとっては恩人です。親代わりといってもいい。そんなおじさんを、僕が手にかけると思いますか。二人目の父と慕うおじさんを、殺す動機が僕にはないでしょう」

 滔々と語った白瀬青年に、白けた目を向けた熊谷警部は、

「表面上はそうかもしれない。しかしね、人間はそう単純に割り切れるものでもないんでね。傍目にも睦まじい夫婦が、内心では殺したいほど憎み合っていた、なんて事例は職業柄何度もお目にかかってきた。実際に殺しにまで発展した例も山ほど」

「僕の場合はそんなことはありません」

「果たしてどうでしょうね」

 と云ってから、警部はこちらに顔を向けて、

「とまあ、さっきからこの堂々巡りをやっているわけなのですよ。我々の重要参考人は強情で、なかなか口を割ってはくれない」

 白瀬も木島に訴えかけてきて、

「木島さん、よく考えてみてください。万一、そんなことがあるはずはないんですが、もし万一、僕が殺人を企てるとしても、安易に毒物などを使うと思いますか。どうです。薬学部の僕が毒殺なんて手口を使ったら、まっ先に疑われるのは目に見えています。殺人現場に名刺を置いてくるようなものでしょう。だから絶対にやりませんよ。毒物を使って疑われるなんて、あまりにも愚かでしょう。僕はそんなことはしません。信じてください、木島さん」

 なるほど、本当だ、と白瀬の言葉はすとんと腑に落ちた。確かにもっともである。さっきの警部の主張がくるりと反転して、白瀬の訴えのほうがすっきりと首肯できる。薬学部の院生が毒物で殺人を企てたりしたら、まっ先に疑われるに決まっているではないか。現にこうして、重要参考人として拘束されてしまっている。犯人ならば、こんな間の抜けた展開は避けるはずである。

 納得できた。白瀬青年はシロだ。やっていない。木島はそう確信した。薬学を学んでいる人物が毒殺に手を染めた、などという安直な話を信じられるはずがない。

 しかし、警部はやれやれと大儀そうに、

「真犯人に限ってそういう云い逃れをするものです。経験上、判ってるんだ」

「でもそうでしょう。犯人ならば僕は毒殺なんてするはずがない」

「いやいや、普段から扱い慣れている物を凶器に使う、これはよくあることなんだよ」

「そんな判りやすいことはしませんよ」

「するかもしれないでしょう」

 熊谷警部と白瀬青年の云い合いは平行線を辿る。

 木島には、どうも警部は経験に頼りすぎて頭が凝り固まっているように感じられる。素直に考えれば、白瀬の主張のほうがすんなり呑み込める。

 どうやら今回のミッションは、真相を解明することでこの無辜むこの青年を冤罪から救うことらしい。これまでより随分前向きな気分になってきた。若輩といえども警察庁の末席を汚す立場としては冤罪を見過ごすことはできない。

 横を見ると、ずっと黙って聞いていた志我少年も、何か決意に満ちた顔つきになっている。

 木島はこっそり、耳打ちして、

「犯人、見つけないと」

「判っています」

 短く応じて、頼もしい少年探偵は凜々しい横顔を見せていた。

                   *

 紅林刑事に案内してもらって、関係者達を訪ねることにした。

 部屋割りも彼に教わった。地下一階の三つ並んでいる部屋のうち、まん中が今いた白瀬直の部屋である。そして、階段から見て右の奥が真季子夫人の部屋。左手奥が門司重晴氏の部屋だった。さらに、階段を降りた地下二階の、リビングの並びの二部屋が、門司清晴と一谷英雄に割り当てられた部屋だということだった。もちろん、昨夜泊まったのもそれぞれその個室である。

 現在は各自、自分の部屋で待機するよう、警察に要請されているという。

 即席の取調室になっているまん中の部屋を出た木島達は、階段から見て右側の廊下を進む。途中、また二人の刑事とすれ違った。少年探偵を見て怪訝そうな表情を浮かべている。それでも熊谷警部の命令は行き届いているらしく、呼び止められるようなことはなかった。注目される志我少年自身は、至って涼しい顔だ。これも慣れているのかもしれない。

 廊下の奥の扉をノックした。

「はい」

 と、か細い返事があって、ドアが開く。目を腫らした女性が顔を出した。被害者の妻、真季子夫人だ。

 泣いていたようで、目の周りと鼻の頭が少々赤い。メイクも少し崩れている。年は四十すぎくらいだろうか、目鼻立ちのくっきりした美人だった。泣き腫らした目でなければ、さらに際だった華麗さだったことだろう。

「あら、刑事さん、こちらの子は?」

 真季子夫人は開口一番、少年探偵に不思議そうな視線を向けて聞いてくる。目立つのだから、これは仕方がない。

 紅林刑事は如才なく、木島を紹介して、

「こちらは警察庁の偉い人です。まだ若いですが、我々県警の刑事よりずっと上の立場の人なんですよ」

 と、異様に持ち上げた。志我少年は人懐っこい笑顔で、

「僕はその偉い人の助手です」

 ご婦人にアピール度の高い、かわいらしい顔で愛想を振りまく。どうやら志我も、助手ということにしておいたほうが面倒が少ないと判断したようだった。

 真季子夫人は破顔して、

「あらまあ、かわいらしい助手さん。今はこんな子が警察の手伝いをしているんですの?」

「いや、その、警察というか警察庁というか、組織が特殊なもので」

 と、木島がもごもごするのを、きっぱりと遮って紅林刑事は、

「失礼します、少しお話を伺ってもよろしいですか。こちらの警察庁のお偉いかたが捜査のために情報を必要としていますので」

 現職の刑事が力強く云うので、木島のもごもごはどうにか有耶無耶になった。

「構いませんよ、どうぞお入りください」

 真季子夫人が云い、木島達三人は部屋に招き入れてもらえた。

 さっき白瀬の部屋ではよく観察する余裕がなかったので、木島はざっと室内を見渡した。全体的な印象は、ビジネスホテルの一室という感じだった。もちろん安いホテルより広々としている。ソファセットなどを置くスペースもある。しかし、何となく殺風景だ。多分、窓の外が曇りで、本来ならば見渡せる南アルプスの山々の絶景が望めないせいだろう。

 亡くなった門司重晴氏とは夫婦なのにどうして別々の部屋なのかと思っていたが、実際に見て理由が判った。二人では手狭だし、何よりベッドがシングルサイズなのだ。ひょっとしたら、あの地上の玄関が小さくて、シングルベッドしか搬入できなかったのかもしれない。

 とりあえず、四人でソファに向かい合わせになって落ち着く。

「このたびはとんだことで、お悔やみ申し上げます」

 と、志我少年は、高校生とは思えない社交性を示して頭を下げた。子リスみたいな小動物系の顔をして、大人びている。

「お気遣いありがとう」

 真季子夫人は、持っていたハンカチで目頭を押さえ、鼻をすする。

「まさか、あの元気な夫があんなことになるなんて」

 木島も少年探偵に負けてはいられない。捜査を円滑に進めるために神妙な顔で、

「お気の毒でした。そのご主人についてですが、どんなかたでしたでしょうか」

 真季子夫人は俯いたまま、

「そうですね、あっけらかんとして、それでいて精力的で、変な云い方ですけど、いい意味で筋肉バカ、というタイプでしたね。筋トレだけしてれば人生ハッピーっていう、何にも考えていないくらい陽気で明るくって。子供っぽいところもあったから、欲望には忠実でちょっとわがままなところもありましたね。図体ばかり大きいのに、元気な小学生男子がそのままおバカな大人になったみたいな人で」

 言葉だけ聞くと辛辣なようだが、口調には哀惜の情が満ちていた。真季子夫人は本当に悲しそうに、

「それでも、私には優しかったんですよ。家事なんかはまるでダメでしたけど、いつでも笑顔で話しかけてくれて体調を気遣ってくれたりして」

 と、またハンカチで目元を拭う。

 しかし、油断はできない。と、木島は気を引き締め直す。容疑者リストを頭に思い浮かべる。白瀬青年を除けば、後は三人しか残っていない。

 木島は居住まいを正して、

「こんな時に申し訳ありませんが、質問をさせてください。ご主人の無念を晴らすためにも」

「ええ、構いません。何でもお答えします」

 真季子夫人が協力的で助かる。

「ご主人が毒殺されたことは警察に聞かされていることと思います。大浴場に持って降りた水筒に、毒が混入されていたことも」

「ええ、聞いていますわ」

「水筒のスポーツドリンクは奥さんが用意したのでしたね」

「はい、私がキッチンでドリンクと氷を入れて」

「それをリビングのテーブルに置いた、ということですね」

「そうです。夫はそれを持って大浴場に降りる。そういう習慣でした」

「失礼ながら、奥さんが水筒を用意する時に毒を入れた可能性があると、警察は勘繰るかもしれませんね」

「あらまあ、私はそんなことはしません。もしやったのなら、すぐに私がやったと判ってしまいますでしょう」

 それもそうか、と木島は考え直す。さすがにそんな判りやすい手口ということはないだろう。

 木島はメモを取り出し、タイムテーブルのページを開きながら、

「奥さんが水筒を用意したのは、お客さん達の車を見送った後、九時五分頃と聞いています。間違いありませんね」

「ええ。バーベキューの後片付けを始めるすぐ前ですから、そのくらいの時間のはずです」

 真季子はうなずく。

 これで水筒に毒が混入されたのは、午後九時五分以降ということになる。しかし木島は別の可能性も考えていた。これより前に、水筒に毒が入れられた可能性を模索しているのだ。そうすると九時に帰ったゲスト達も容疑者の輪の中に入ってくる。バーベキューの席は、酒も入って座が乱れたはずだ。その混沌の中、一人こっそり抜け出して、キッチンまで降りて毒を仕込むことはできなかっただろうか。

 そう思い木島は、隣に座る志我少年に尋ねてみて、

「どうだろう、犯人があらかじめ毒物を水筒の内側に仕掛けていたとしたら。例えば、ゲル状の物質にヒ素を溶かし込んで水筒の中に塗りつけておく。何も知らない奥さんが、後になってその上からスポーツドリンクを注ぐ。この方法ならば、九時前に毒を入れたとも考えられないだろうか」

 しかし、志我が答える前に真季子夫人が、

「いいえ、それはありません。犯人はその方法を使ってはいないと思います」

「どうしてそう云えるのですか」

 尋ねる木島に、真季子夫人は、

「だって、私、ゆすぎましたから」

「ゆすいだ?」

「ええ、スポーツドリンクを注ぐ前、水筒をよく水ですすいだんです。先週から置きっ放しになっていたから、埃なんかが入っていると嫌ですので。きれいにすすぎました。もし毒が水筒の内側に塗ってあっても、私がすすいだ時に流れ落ちてしまったはずです」

 なるほど、それではこの手口は不可能だ。いい手段だと思ったのだけれど。それにしてもこの奥さん、すぐにこうした受け答えができるところを見ると、なかなか頭の回転が速い人らしい。

 木島は仕切り直して、

「では、こういうのはどうでしょうか。毒は氷のひとつに入っていた。犯人があらかじめ、毒入り氷を他の氷の中に混ぜておいたんです。奥さんはそうとは知らずに、それを水筒の中に入れてしまった。毒入り氷は大浴場で溶けて、毒がスポーツドリンク全体に回ってしまった。謂わば毒の時限爆弾ですね。これなら九時前に犯行の準備が整うでしょう」

 すると今度は、紅林刑事が意見を述べて、

「それは厳しいと思います。キッチンの冷凍庫に残されていた氷は、鑑識がすべて調べています。不審な氷はひとつも発見されませんでした。もし木島さんのいう方法なら、毒入り氷は本当にひとつだけだったのでしょうね。それがピンポイントで水筒に入れられると、犯人は計算できたでしょうか。奥さんの行動をよほどうまく誘導しないと、たったひとつの毒入りを水筒に入れさせることなどできないと思うのですが。そんな好都合にいくものか、甚だ疑問に感じます」

「私、そんなふうに誘導された覚えはありませんわ。氷だってバーベキューで飲み物に使った残りを、大袋から適当に取っただけです。ですから、本当にランダムに選んだのですよ。それがたまたま当たり、、、だったなんて、偶然が過ぎると思います。犯人がそんな偶然に頼るでしょうか」

 真季子夫人にも否定されてしまった。氷混入説も却下だ。とすると、事前に水筒に毒を仕込むのはやはり不可能なのだろうか。毒は九時五分すぎ、リビングのテーブルに水筒が放置されていた時に混入されたと見るのが、やっぱり正しいのか。

 そうなると九時に帰ったゲスト達には毒を入れる機会はなくなる。ではやはり、残った内部の人間が怪しいと考えるしかなくなる。容疑者リストをまた思い出す。該当者は少ない。

 それはひとまず置いておいて、木島には気になっていることがもうひとつある。

「奥さんは脛斬り姫の伝説をご存じですか」

 質問すると、真季子夫人はゆったりとうなずいて、

「主人の足が湖で発見されたというあの話ですね」

「はい、その元のモデルとなった昔話です」

「聞いたことがあります。ここの管理をしてくれているお年寄りのご夫婦がいましてね、五十畑さんというのですけど、そのおばあちゃんが聞かせてくれました。龍神湖にまつわる伝説で、この近辺では有名だとかで。きれいな湖なのに、悲しい伝説があるんですのね」

「ご主人の両足はその昔話に見立ててありました。奥さんは、その件について何か心当たりはありますか」

「それ、警察の人にもしつこく聞かれましたわ。でもおあいにくですね、私は何も思い浮かばなくって。夫は龍神湖の伝説にはまったく関心がない様子でしたし、脛を切られてお姫様になぞらえられていたというのでしょう。あの筋肉バカがお姫様って柄でもあるまいし、どうしてそんなふうにされていたのか、まったく判りません」

「繫がりはありませんか、ご主人と」

「ええ、全然。犯人が何のためにそんなことをしたのか、私にはさっぱり」

「そうですか」

 残念。身内に聞けば何かヒントくらいは掴めるかと期待していたのだが、空振りだったようだ。

 ちょっと落胆する木島の隣で、いきなり志我少年が発言する。

「古来より毒は暗殺に使われてきました。中世から近世にかけての欧州の王侯貴族の歴史は、また暗殺の歴史でもありました。権力闘争に明け暮れていた当時の宮廷では、暗殺は日常茶飯事だったのです。もちろんそれは男の専売特許ではありません。あの時代は女性もまた、己の地位を守るため、より高い身分に登り詰めるため、一族の興隆のため、血で血を洗う殺し合いに参加していました。そんな時、非力な女性がよく使用した手段が毒殺です。腕力をまったく必要としない毒を用いた暗殺は、女性に大いに重宝されていました。力を一切使わずに、ちょっと飲食物に混入するだけで、邪魔な相手を抹殺することができたわけです」

 内容は殺伐としているけれど、少年探偵は終始にこやかだった。笑顔で暗殺について語る小動物系の少年。ちょっと怖い。

 ただ、志我が暗に女性が犯人かもしれないと仄めかしていることは、木島にも理解できた。挑発しているのだ。リストの中の女性は真季子夫人しかいない。

 しかし、当の容疑者候補は、この牽制をさらりと躱して、

「あら、非力という点なら、夫に比べたら女性だけでなくて大抵の男性も非力になってしまうでしょうね。何しろ筋トレバカでしたから。使えるために筋肉、というのが夫の口癖でしたのよ。見かけ倒しでない、本当に力のある筋肉が重要とかで、鍛えるのに夢中でした。あの人にかかったら、腕力で敵う人はあまりいないでしょうね」

 しれっとした顔で、真季子夫人は云うのだった。

                 *

 次に話を聞いたのは一谷英雄だった。

 被害者の会社での懐刀と評される人物だ。

 彼は地下二階の、リビングの隣の部屋で待機していた。

 銀縁眼鏡で切れ長の目、引き締まった細身の体型の男である。四十少し前くらいの年齢だろうか。身長はそれほど高くはない。被害者の側近と聞いていたから、何となく故人と同じ大柄なマッチョマンを想像していたけれど、イメージが違った。俊敏な印象で、全然マッチョなどではなく、どちらかといえば卓球選手を思わせる。冷淡そうな目つきは、いかにも切れ者といった感じだ。

 木島と志我少年、そして紅林刑事の三人は、彼の部屋へと通された。

 それぞれ紹介が終わると、四人でソファに落ち着く。中学生みたいな少年が捜査に参加していることについては、一谷は眉ひとつ動かすでもなく無反応だった。めったなことでは動じない性格なのか、それとも他者にまったく関心がないのか。

「社での肩書きは事業本部長となっていますが、実際は門司社長のサポート役、秘書のようなものですね」

 と、一谷は落ち着き払った態度とやたらと歯切れのいい口調で、自らの立ち位置を説明した。

「それで昨日のバーベキューでは、ゲスト側ではなくてホスト側だったんですね」

 木島が云うと、

「そうです、私は常に社長サイドに立っていますから」

 と、一谷は明瞭な発音で答える。何となく、機械の合成音声じみた声質だった。

「昨日のバーベキュー会は社員慰労の意味もあったそうですね」

「はい、先月の売り上げに特に貢献のあった社員に対する報奨でもありました。社長のこの別荘のバーベキューに招かれるのは、我が社の社員にとっては大きな名誉です」

「今回はどういったかたがたがその栄誉にあずかったのでしょうか」

「ジムの支配人、副支配人クラスです。そしてスポーツバーの店長、副店長クラスの九人。名前も云いますか」

「一応お願いします」

「江島浩一、浅利典由、大関恒男、五十嵐邦宏、前田慎、奥村悠哉、久野利和、八巻輝人、石川義洋。以上、九名です」

 何も見ずにすらすらと一谷は諳んじた。頭の中が常に整理されているのだろう。木島は少し感心しながら、

「昨夜、彼らは九時に帰ったんでしたね、東京に」

「そうです、車三台に分乗して」

「ところで、水筒に毒が入っていた話はご存じですよね」

「ええ、警察のかたから」

「実は、ちょっと疑っていることがあるんです。聞いていただけますか」

 我ながらしつこいと思うけれど、木島はひとつ思いついたことがある。

「聞くのは別に構いませんが、疑っていることとは何でしょうか」

 と、一谷は表情を変えずに、興味もなさそうに尋ねてくる。

「実は、毒が水筒に仕込まれていたのではない、という可能性についてです」

「というと?」

 一谷は小首を傾げたが、顔には特に怪訝そうな様子は感じられなかった。木島は構わず続けて、

「カプセルです。カプセルに毒を封入しておいて、それを重晴氏に飲ませた、と考えたらどうでしょうか。例えば、バーベキューの最中に。これならばゲストの九人にも犯行が可能になります。カプセルは胃の中でゆっくり溶けます。ゲストが帰って、重晴氏は一人で大浴場に降りて行く。温泉に浸かったり習慣の筋トレなどをしているうちに、カプセルから毒の成分が染み出てくる。そして死に至る、というわけです。これならば、水筒に直接毒を入れなくても、殺害は可能なはずですよね」

 すると、無表情の一谷は、眼鏡の位置をちょっと指先で直して、

「その可能性は低いのではないでしょうか。警察のかたに事情聴取の時に聞きました、倒れた水筒には毒物の痕跡があったと」

「それは後から偽装したんですよ。転がっていた水筒に、毒を放り込んで」

「では、犯人は大浴場に行ったことになりますね」

「もちろんそうです、足の切断という大事な仕事が残っていますから。大浴場に降りて行ったのは、むしろそっちがメインですね。水筒に細工したのはついでみたいなものですよ」

 木島が説明すると、一谷は淡々と、

「では、ゲストには犯行は不可能ですね。九時に帰ったのですから」

「一人だけ戻って来た、とか」

「どうやってこの建物に入るのですか。一階の玄関の鍵は、社長の弟さんが施錠していましたよ、私も横でそれを見ていました」

「中にいる誰かが手引きしたんです。内側から鍵を開けて」

「では共犯者がいたとおっしゃるのですね。二人がかりで社長の足を切断したと。しかし現場には、ノコギリが一本しか落ちてなかったと刑事さんから聞いています。一人が作業中に、もう一人は何をしていたというのですか。足は二本とも切断されているのですから、二人で二本のノコギリを使ったほうが効率がいいでしょう」

「それは、ノコギリが一本しかなかったんですよ」

 云い負かされそうな木島が、若干苦し紛れに主張すると、隣の紅林刑事が、

「すみませんが、刃物は他にもたくさんあるんですよ、上の道具小屋に」

「えっ、そうなんですか」

「はい、後で見てもらおうと思っていましたが、切断に適した道具ならば多数ありました。ノコギリ一本だけでなくて」

 紅林刑事の言葉で、木島の仮説はあっけなく瓦解してしまった。言葉を失った木島に追い打ちをかけるみたいにして紅林は、

「それに、水筒には被害者の指紋しか残っていなかったことは説明しましたよね。被害者の指紋だけで、水筒を用意した奥さんの指紋は残留していなかったのです。つまりこれは、被害者が手に取る前に、犯人が一度拭き取ったことを表しているのではないでしょうか。リビングのテーブルに置いてあった時に、毒物を投入した犯人が自分の指紋を拭ったと考えるのが最も自然です。奥さんの指紋が残っていなかったことから、犯人が九時五分以降に一度、水筒の表面を全部拭ったのは確かです。犯人以外の人にそんなことをする理由がないからには、犯人が拭いたと考えるしかないですからね。そして、被害者が倒れた後に水筒に細工をしたのなら、その時に水筒を拭いて、被害者の指紋まで拭ってしまったはずなのです。しかし実際には、被害者の指紋だけは水筒に残っていた。これは水筒に余計な偽装など為されていないことの証明になるのではないでしょうか」

 確かにそうだ。ぐうの音も出ない。やはりゲスト側に犯人がいるというアイディアには無理がありそうだ。これ以上、外部犯説に固執しても意味はなさそうである。やはり犯人は内部にいると考えるべきなのだろう。

 木島は切り替えて、被害者の人となりなどを質問してみる。しかし一谷の返答は、奥さんのものと似たり寄ったりだった。脳天気、積極的、筋肉は裏切らないという単純明快な思考。会社でもプライベートでも、人が変わるということはなかったらしい。さすがに筋肉バカとまでは云わなかったけれど。

「ただ、社長のことで警察のかたにだけ話したことがあります。奥様のお耳には入れにくい内容なので」

 ここで一谷は初めて不明瞭に、云いにくそうな態度を見せた。この人でも人間味を表面に出すこともあるのだなと、変な感心をしながら木島は、

「何でしょうか。我々にも守秘義務があるので、ご家族に洩れることはありません」

「実は、ひとつ打ち明けることがあります。会社の経営のことで」

 と、一谷は少し言い淀んで、

「このところ業績が行き詰まって、資金繰りが厳しい状況にありました」

 苦しそうに云う。懐刀ならではの情報だ。

「社長本人はいつものように楽天的に、何とかなるさ、とカラっとしていました。しかし私の目からすると、決して楽観視できる状況ではない、というのが正直なところです。スポーツジムのほうは上半期も安定していて問題はなかったのですが、スポーツバーが全体の足を引っぱっています。八号店、九号店の開店を急ぎすぎたのがその原因です。というのも社長が、お気に入りの女子社員に主任やフロア長などのポストを与えるために、経営戦略を無視して店を増やしたようなところがありまして、女子社員の歓心を買うのに社長が鼻の下を伸ばしたせいで」

 云いにくそうに言葉尻を濁した一谷に、紅林刑事が、

「というと、社長さんは浮気を?」

 聞きにくい部分に遠慮なく切り込む。この辺は、刑事ならではの遠慮のなさなのだろう。しかし、一谷は冷静さを取り戻し、

「いやいや、そういうわけではありません。私といえどそこまで社長のプライバシーに踏み込んだりしません。確証はひとつもありませんので、誤解などなきようにお願いします」

「奥さんは、ご亭主のそういう下心に気づいていたのでしょうか」

 またもや無遠慮な紅林の問いかけに、一谷は冷ややかに首を振って、

「それはないでしょう。社長は家庭内ではそうした一面は一切見せませんでした。私も驚くほど、ご自宅ではそんな素振りは少しもありませんでした。だから奥様は何もご存じないと思います。バーベキューに招待するのは男性社員ばかりです。これも奥様の目を警戒してのことでしょう。その辺りは抜け目のない人でしたから」

 そこで一谷は沈黙した。ここまで喋ればもう充分協力の義務は果たしただろう、といわんばかりに口を噤む。確かに興味深い話は存分に聞かせてもらった。それで木島は話題を変えて、

「一谷さんは龍神湖の伝説をご存じですか。脛斬り姫の昔話を」

「ああ、社長の足が切断されてどうこうという件ですね。刑事さんから聞かれました、何か心当たりはないかと」

「で、どうです、ありますか」

「いえ、全然」

 と、一谷は冷たく云い放った。

「門司重晴氏は脛斬り姫の伝説と、何か繫がりがあると思いますか」

「まったくないと思います。どうして社長がそんな昔話になぞらえられるのか、私にはまるで判りませんね。何の関係もないし、意味も不明です」

「一谷さんは伝説を誰に聞きましたか」

「ここの管理をしている五十畑さんというご老体から、ずっと以前に伺いました」

 と、眼鏡の位置をちょっと指で直して、

「まあ、私には何の感慨も関心も持てない話でしたが」

 五十畑老はあちこちで伝説を語って回っているようだ。話し好きなのだろう。人懐っこい皺だらけの笑顔の、好々爺の姿がイメージできる。

 そんな中、志我少年がいきなり口を挟んできて、

「毒殺の大きな利点は殺害時に犯人が被害者の近くにいなくていいことです。今回もリビングのテーブルに置いてあった水筒に毒物を混入しました。殺害に必要な行動はそれだけです。バーベキューの後片付けの混乱の中で行ったことなので、誰にでも機会はありました。後は犯人がするべきことは何もありません。犯人は何事もなかったように口を拭って、自室で寝てしまえばいい。被害者は毒を飲んで勝手に死んでくれるので、犯人は現場に近寄る必要性がまったくないのです」

 と、にこにこと愛想のいい笑顔で云う。

「しかし、変なんですよね。犯人はその後、足を切断している。深夜に他の人が皆寝静まってからこっそり大浴場に降りて行って、わざわざ切っているんです。せっせと手間暇かけて、そんな作業をしているわけですよ。そして切断した脚部を湖畔に持って行って、脛斬り姫の見立てを完成させた。犯人にとっては、よほどこの見立てが必要だったんでしょうね。自室で寝ていればいいだけなのに、わざわざ手間をかけてやったくらいですから。絶対に見立てを作らなくてはいけない理由があったとしか思えません。それはどんな理由なのでしょうか。どうです、一谷さん、思いつくことはありませんか」

 少年探偵に問われても、一谷は冷淡に、

「さて、私にはとんと。何も思いつかないし、思い当たることもありません」

「考えても判りませんか」

「犯人の意図など考えようがありません。まったく不可解としか云いようがない」

 合成音声みたいな冷たい声質の一谷は、無闇に明瞭な発音でそう云った。

                   *

 地上の玄関から外へ出た。

 ドアを閉じてしまうと、この二帖ほどのコンクリートの一階部分は、やはり物置みたいに小さい。下部に広々とした別荘を隠しているとは見えないほど、こぢんまりとしていた。

 昨夜バーベキュー会が開催されたというだだっ広い空間は、まだ警察関係車輌で埋めつくされている。刑事達が何人が行き交っているのも見えた。

 久しぶりに外の風に当たった気がする。雲の中では陽が傾き始めているのか、幾分涼しくなっているようにも感じられる。

 木島は大きく伸びをした。

 しかし、のんびりはしていられない。コンクリートの玄関部分、その隣に建つ木造の小屋に用があるのだ。板塀とトタン屋根の、質素な造りの小屋である。入り口の引き戸も木の板で作られている。

 紅林刑事はその戸を引き開けながら、

「普段は南京錠で鍵がかかっているそうです。キーはさっき云ったところです」

 別荘本体の玄関を出る時、その位置は教えてもらった。鉄製の扉の横の壁に、キーはぶら下げてあった。木の札が紐で括り付けられた銀色の鍵が、壁のフックに下がっているのを、さっき見せてもらったのだ。

 引き戸を開けたところから覗き込むと、内部は狭い空間だった。ただでさえ小さな小屋なのに、様々な道具がみっしり詰まっている。そのせいで余計に狭く感じられる。

「道具小屋、と呼んでいるそうです」

 と、紅林は説明してくれる。名前の通り、道具がいっぱいだ。

 木島は、紅林刑事に先導されて中へ入った。志我少年も、

「埃っぽいですねえ」

 と、顔をしかめながらついてくる。三人が立ち入ったことで、小屋の内部は満杯になった。

 右手の壁には、工具がずらりとぶら下げられている。スコップ、釘抜き、バール、ワイヤーの束、巻き尺、ロープ、道具袋、などなど。

 奥の壁には、空のバケツ、ポリタンク、箒、三脚、枝切り鋏、釣り竿などが、ぎっちり押し込まれている。長尺物は壁に立てかけられている形だ。

 左手には棚が設えられている。上段と下段の二段に分かれていて、上の段の高さは木島の肩くらいにある。その下段には、バーベキューセット、小型の発電機、電動ドリル、車用のジャッキ、電動カンナ、炭の袋、麻袋の束、などの割と嵩張る物が並んでいる。上段には、ハンマー、スパナ、ペンチ、プライヤー、レンチ、のみ、鎌、などの細々した物が、無造作に積み上げられていた。

 なるほど、やっぱり道具小屋と呼ぶしかないな、と木島は改めて思った。

 紅林刑事はこちらを振り返って、

「一応、ご覧になったほうがいいかと思ったのは、犯人がここからノコギリを持ちだしているからです。現場に残っていた脚部を切断した物です」

 さっき大浴場でタブレットの写真を見せてもらった。両刃のノコギリだ。形状はごく一般的なもので、もちろん現物はもう鑑識が押収している。

「ノコギリはどこに置いてあったんでしょうね」

 木島が尋ねると、紅林刑事は、

「こちらの棚だそうです」

 と、左手の上の段を示して答える。細々とした道具類が積み重なっているところだ。刃物も幾種類か混じっている。さっき一谷の部屋で指摘された通りだ。

 紅林刑事はそっちを指さしたまま、

「犯人は、深夜にここからノコギリを持ち出したものと、我々は考えております。バーベキューの最中やその前の自由時間の時では目立ちますから、恐らく、別荘内の人が寝静まってからここへ来たのでしょう」

 そして、大浴場まで降りて行って遺体の両足を切断したわけか、と木島は思った。

 志我少年が、後ろを振り向きながら、

「ここの鍵はあちらの玄関の中にぶら下がっていましたよね」

「そうだね、だから犯人は別荘の中からやって来た公算が大きい」

 と、木島は答えて、

「泊まっていた人ならば、誰でもノコギリを持ち出せたということになる」

 これで内部犯説はますます堅固になった。外部の者にはこの小屋の鍵を持ち出すことができないのだから。

 紅林刑事は、木島のほうに向き直り、

「それはそうと、もうひとつ興味深いことがあります」

「何でしょう」

「血痕が見つかっているのです」

「血痕ですか、どこにです」

 木島が尋ねると、紅林刑事は、

「見てもらったほうが早いですね」

 と、またポケットからお得意のタブレット端末を取り出す。そして画像を表示して、

「これを見てください」

 写っているのは一本の鉈だった。木の柄が古びた、ごく普通の形をした鉈だ。薪割りなどに使うのだろう。

「ここです」

 と、紅林は画面の上を指で示した。鉈の柄の、金属の刃に近い部分。そこにうっすらと、何かこすったような黒っぽい汚れが付着している。

 木島は目を凝らして、

「これが血痕ですか」

「そうです」

「よく気がつきましたね、こんなに薄いのに」

「鑑識班はこの小屋の内部を一寸刻みに調べました。犯人がノコギリを取りに立ち寄ったことが判ったので、何か犯人を示す手掛かりになる痕跡がないか、徹底的に調査したのです。その結果、この血痕に気がついたわけです」

 紅林刑事が、我がことのように自慢げに云う。木島はさらに画面に顔を近づけてそれを凝視しながら、

「被害者の血でしょうか」

「恐らくそうだと思われます。黒ずんでいるので古いものに見えますが、鑑定したところまだ新しい血跡だと判明しています。恐らく昨夜か、今朝の明け方くらいに付着したものと思われます。血液型も被害者と一致しておりますし、DNA検査でさらに詳しいことが判るでしょうが、多分被害者の血で間違いないでしょうね」

 紅林が説明すると、志我少年が、

「どこにありましたか、この鉈は」

「ここです」

 と、また棚の上段を、紅林は指さす。細々とした工具や道具が積み重なったところだ。

「他の道具類に紛れて突っ込んでありました。上に小型の斧や糸ノコ、片刃のノコギリが載っていました。それらに敷かれて突っ込んであったそうです」

「よく見つけましたね」

 木島は思わず感心して、そう云った。こちらから見るとほとんどの道具類は積み重なっていて、柄の底面の小さな小判型の部分しか見えない。柄の掴む部分や本体の刃は、他の道具がごちゃっと上に積み重なっているから、ほとんど見えないのだ。

「鑑識のお手柄ですね。我が県警もなかなかやるでしょう」

 紅林が自慢げに笑って、

「もっとも、何か証拠になるのかどうかは判りませんけど」

「いえ、これは大きな手掛かりです。大いに興味深い」

 と、志我少年が、小動物みたいなかわいらしい顔に、やけに大人びた微笑を浮かべて云った。

               *

 部屋に入ると緊張感がみなぎっていた。

 空気が、ぴんと張り詰めた気配が伝わってくる。入室した木島はつい反射的に、首をすくめてしまった。

 白瀬直の事情聴取は膠着状態に入っているようだった。

 貫禄のある熊谷警部は立ったまま腕組みし、むっつりと難しい顔で、正面の椅子に座る白瀬直を睨んでいる。

 白瀬の両脇を固める黒豹みたいな刑事と狼のような刑事も、体から立ちのぼる攻撃的な気配を隠そうともしない。威圧的な目をしている。

 彼らに取り囲まれた白瀬青年は、先程と同様に、やはり困惑していた。どうしたら疑いを解いてもらえるのか、その方策が見つからずに途方に暮れたような表情になっている。女性のように肌のきめ細かい、優美な顔立ちも今は曇っている。

 熊谷警部は黙っていた。黒豹、狼の両刑事も睨むばかりで口を噤んでいる。白瀬自身も何も発言しない。まるで四人で、口を開いたら負けというルールのゲームに、命懸けで取り組んでいるふうにも見える。

 睨み続けの膠着状態。一体どのくらい続いているのだろうか。

 冤罪をかけられそうになっている白瀬が心配で、様子を見に来てみればこの有り様だ。刑事達の発する殺気が恐ろしい。来なければよかった、と木島は少し後悔した。

 これは早々に退散したほうがよさそうである。紅林刑事と志我少年を促して、木島は部屋を出ようとした。

 そこへ扉をノックする音が響き、ドアが外から開けられた。こっそり抜け出そうと目論んでいた木島は、出端を挫かれる形になった。

 開いたドアから、丸顔の中年刑事が顔を出す。

「熊谷警部、ご報告が」

 目顔で促されて熊谷警部は、丸顔の刑事に近づいた。刑事はその耳に何やらひそひそと告げている。警部の眉間の皺が一層深くなった。

「よし、判った。ご苦労」

 熊谷警部は丸顔を労い、自ら扉を閉めた。そしてつかつかと足早に進んできて、座っている白瀬の前に仁王立ちになる。

「今、目黒の被害者邸を調べに行った班から報告があった」

 と、熊谷警部は無言ゲームのルールを破って、圧力のある口調で云った。

「白瀬さん、あなたもその家に下宿しているんでしたな」

「はい」

 と、白瀬はうなずく。

「捜査員の一人がうっかり間違えて、被害者とは関係ない扉を開けてしまったそうです。そこがたまたま白瀬さん、あなたの部屋だったらしい」

「それ、違法捜査じゃないんですか、令状もなしに勝手に人の部屋を」

 白瀬は困惑しきったみたいな顔で、不服を申し立てる。

「うっかりと云ったでしょう。つい間違えただけです」

 厳つい表情のまま、熊谷警部は云う。その口調から、全然うっかりではないのだろうと見当がついた。

「つい間違えたものの、部屋の様子は視界に入ってしまったそうでしてね、その捜査員からの報告です。白瀬さん、あなた、机の上にガラス製の薬壜をずらりと並べているそうですね。まるで実験室のようだったと云っていましたよ」

 熊谷警部は、座った白瀬にぐいと顔を近づけて、

「白瀬さん、その薬品は何ですか。どうして自室に実験室のような薬壜が並んでいるんですか」

 白瀬は、のろのろと首を振って、

「あれは別に大した薬品ではありません。過炭化ナトリウム、水酸化カリウム、それに炭化カルシウム。全部何の害もない、中学校の理科室にだってある平凡な化学物質ですよ」

「なぜそんな薬壜を並べているんですか」

「ただの趣味です。ガラスの薬壜はきれいですからね。青や緑、茶色に透明。用途によって色が違っていて。それをインテリアとして並べているだけです。空の壜だけじゃつまらないから、中身も入れて。ただの子供っぽいコレクションです。別に個人所有していても薬機法に触れるものはひとつもありませんよ」

「毒物ではないとおっしゃるんですな」

「もちろんです」

「致死性はまったくないと?」

「ありませんよ。塩化マグネシウムや過酸化ベンゾイルなんかを舐めたところで不味いだけです。そりゃバケツ一杯飲めば死に至るかもしれませんが、それは食塩だって醤油だって同じですよ。もっともそれだけの量の異物が胃の中に入ったら、吸収されるより前に胃が受け付けなくて、確実に吐いてしまうだけでしょうけれど」

 ふうん、と唸って熊谷警部は、疑わしそうな目で白瀬を見ている。

 そこへ、またノックの音がした。膠着状態が解けてきて、事態が動き始めたようだ。

 扉が開き、今度は面長の顔の刑事が上体を覗かせてきた。熊谷警部はすかさずそちらへ移動する。

 再び、耳打ちで何か報告を受ける熊谷警部。難しい顔つきでうなずいている。

「よし、いいぞ。ご苦労だった」

 熊谷警部は部下を労ってからドアを閉め、またつかつかと白瀬の眼前に立ちはだかりに来る。

「今、神田の東央大学へ事情聴取に行った別班から報告が入った」

 熊谷警部はさっきよりもさらに鋭い目つきで、

「楠木教授、ご存じですな」

「はい」

 白瀬はきょとんとした顔でうなずく。

「日曜なのに教授には大学の研究室まで足を運んでいただいた。捜査に協力してもらうために」

 と、警部はじっと白瀬の目を見つめて、

「何を云いたいか判るかね、白瀬さん。教授には劇毒物保管庫の中を確認してもらった。教授が何と証言したか、もうお判りですな」

 その言葉に、白瀬は俯いてしまった。下を向いて、言葉はなかった。警部は追い打ちをかけて、

「教授はこう証言しましたよ、どうも誰かが保管庫の中をいじったようだ、そんな痕跡がある。そして、一部の薬品が減っているような気がする、とも。これでは管理責任を問われると、教授は青くなっていたそうですよ。何の薬品が減っていたか、白瀬さん、ご存じですね、正式に令状を取ってあなたの部屋を捜索してもいいんですよ」

 すると、のろのろと顔を上げた白瀬は、

「三酸化二ヒ素、先生が減っていると云ったのはそれでしょう」

「ほほう、それはどんな性質の薬品ですか。薬学部の院生の白瀬さんなら、我々にご教示いただけるでしょうね」

 熊谷警部がねっとりと迫ると、白瀬は途方に暮れたように、

「ヒ素の酸化物です。無味無臭で白い粉末状。水に溶かせば水和して亜ヒ酸になります」

「毒性は高いのですね」

「非常に。致死量は0.06から0.2グラム。微量で充分、人を死に至らしめます」

「スポーツドリンクに仕込めば、少し飲んだだけで即死しますね」

 白瀬はその問いに、答えにくそうに、

「はい」

 と、表情を固くしてうなずいた。大きく息をついた熊谷警部は、

「どうして三酸化二ヒ素が減っていたと、あなたが知っているんですか」

「それは」

「あなたがくすねたんだね、大学の保管庫から」

 黙ってしまった白瀬に、警部は語気を強めて、

「決定的な証拠だ。これであんたは重要参考人から容疑者に格上げだな。何か申し開きがあるかね」

「判りました、認めます」

「門司重晴氏を殺したのを認めるんだね」

「そうじゃありません」

 と、白瀬は首を振って、

「認めるのは三酸化二ヒ素のほうです。確かにヒ素を少量くすねたのは僕です。しかし使ってはいない。おじさんを殺してなんかいません」

「ではなぜ、スポーツドリンクの水筒にヒ素が混入していたんだね」

「判りません」

「判らないということがあるか、人を殺すために薬をくすねたんだろう」

「違います、断じて違うんです。使うつもりで盗んだんじゃない」

 と、白瀬は激しく頭を振った。

「では、何の用途で盗ったんだ、劇薬を」

「信じてもらえないかもしれませんが、その、一種のお守りのようなつもりでした」

「お守り?」

 訝しげに問う警部に、白瀬はぽつりぽつりと、

「春頃、気分の沈みがちな日が続きました。今にして思えば五月病か何かだと思うんですけど、とにかく気が重く、何をしても気分が晴れなかった。鬱々として、どうにも気がくさくさして、それでつい魔が差してふらふらと、劇毒物保管庫に手をつけてしまって。院に上がったんで鍵の保管場所を教えてもらっていたんですよ、それで保管庫にアクセスしやすくなったのも魔が差した要因のひとつでしょうね。ああ、別に希死念慮などに取り憑かれていたわけではありません。死のうとしたんじゃないんです。ただ、手元に致死性の劇薬を置いておくことで気持ちが開き直るというか、いざとなればこれを飲んで一気に死ぬことだってできる、そう思うと気が大きくなるんです。心に破れかぶれの発破を掛ける、とでもいうんでしょうか、気分を奮い立たせる。そんなお守りとして、手元に置いておきたかったんです。実際、効果は覿面てきめんでした。いつでも死ねるんだ、どんな失敗をしても恥をかいても、すぐに死に逃げ込むことができるんだ、そう思えば多少のことでは動じなくなる。豪胆な気持ちになれるんです。それで気鬱はさっぱり抜けました。まあ、単に五月病から脱しただけかもしれませんけど」

 と、少し苦笑して、

「だから今でも保管しているんです。お守りとして持っている。でも、決して誰かに使うつもりなんてなかった。いざとなれば自分が死ねる、それだけの理由で持っていただけです」

「どうして今まで黙っていたんだ。今回の殺人にヒ素が使われたらしいと散々云ったじゃないですか」

「それは」

「ヒ素を毒殺に使ったからでしょう」

「違います。余計なことを喋ったら疑われると思って。ただでさえこうして疑いをかけられているのに。本当なんです、信じてください」

 切々と訴える白瀬だったが、熊谷警部は、

「私が信じるかどうかはどうでもいいんだ、問題は裁判官が信じるかどうかであってね。要は、毒殺の決め手があんたの手の中にあった、我々としてはその事実で充分なんですよ」

 頑なな態度を崩さない。

 いかん、これでは本当に冤罪になる。木島は隣に立つ志我に、目で合図を送った。何とかしてくれ探偵だろう、と思いを込める。

 志我少年は、やれやれ手のかかる人だなあ、といいたげに少し肩をすくめると、

「警部さん、ちょっと待ってください。白瀬さんが犯人と決めつけるのは、ちょっと早計ではないでしょうか」

 愛想よく云った。

「どうしてだね。決定的な証拠だと思うが」

 怪訝そうな熊谷警部に、少年探偵はあくまでも朗らかに、

「そうともいえませんよ。白瀬さん、三酸化二ヒ素、どこに置いていましたか。まさか机の上の薬壜コレクションと並べて置いていた、なんてことはないでしょうね」

 問いかけられた白瀬は、小刻みに首を振って、

「とんでもない。誰かが間違って触ったら大変です。隠しておいたよ」

「どこに?」

「机の引き出しの一番奥に」

 答える白瀬に、志我はにっこりと微笑みかけて、

「なるほど、毒薬は隠してあった、と。しかし鍵などはかけていなかったんでしょう」

「あいにく引き出しに鍵はついていないから」

「だったらもしかしたら、別の人が毒をかすめ取ったのかもしれませんね」

 無邪気な口調で云う志我少年に、熊谷警部が顔をしかめて、

「いや、待ちなさい、少年。そんなことがあり得るとは思えんぞ」

 しかし、志我はけろっとした顔で、

「充分にあり得ますよ。犯人は門司重晴氏を殺そうと企んでいた。そこで思いつくんです。そういえば下宿人の白瀬くんの部屋には薬壜が並んでいたな、あそこに使える薬はないだろうか。そうして白瀬さんが留守の時に忍び込んで薬品を物色するんです。机に並んでいる壜の中から、ほんの少しずつ中身を拝借するわけですね。そして動物実験です。鳥か犬か、とにかく身近な動物で試します。しかし効果はありません。当たり前ですね、机に並んでいるのは特に害のない薬ばかりなのですから。そこで物色の範囲を広げてみます。並んでいる薬壜だけではなく、もっと他にないか。そうやってごそごそやっていると、お誂えに引き出しの一番奥に隠してある薬壜を発見します。こうやって隠しているところをみると、ひょっとしたらこれは、と犯人の胸は高鳴ったことでしょう。実験してみると効果は思った以上、動物がころりと死んでしまいます。しめしめ、これを使えば重晴氏を毒殺できる。おまけに白瀬に罪をなすりつけることもできそうだ。そうほくそ笑んだ犯人は、毒薬を隠し持ってチャンスを待ちます。そしてバーベキュー会のある夜に、その好機は訪れます。重晴氏が飲むスポーツドリンクの水筒が、リビングのテーブルに放置されているのです。バーベキューの後片付けで皆がわたわたしている間隙を縫って、犯人はまんまと水筒に毒物を混入することに成功したわけです。これで犯人の目的は達成です。重晴氏は命を落とし、ついでに白瀬さんはこうして最重要参考人になってしまっています。どうですか、白瀬さん、引き出しの奥の三酸化二ヒ素は前より減っていませんでしたか」

 にこやかに問いかける志我少年に、白瀬は首を傾げて、

「判らない。最近見ていないから。お守りだからね、机の奥に忍ばせてあるんだ」

 そんなやりとりを苦々しそうに聞いていた熊谷警部は、

「ちょっと待ってくれ、少年、君は犯人が奥さんの真季子さんだと云っているのか。目黒の屋敷の白瀬さんの部屋を探索できるのは彼女しかいないだろう。あの家に住んでいるのは重晴、真季子夫妻、そして下宿人の白瀬さんしかいないんだよ」

 しかし、志我は愛想よくにこにこと、

「いいえ、そうは云っていません。他の人にもチャンスはあります。例えば、弟の清晴氏です。彼は目黒の門司邸の筋トレルームが汗くさくて敵わないと云っていました。お兄さんに、一緒にトレーニングしようとしょっちゅう誘われていた、とも。つまりこれは、しょっちゅう目黒に出入りしていたことを意味します。清晴氏にも毒物を物色する機会は充分にあったわけです」

 爽やかな笑顔で志我少年は続けて、

「さらに、被害者の一の部下、一谷さんもそうです。彼は、社長の重晴氏が女性社員に色目を使っていたのを知っていました。その上で、家庭内ではそういった一面をおくびにも出さないと云っていました。奥さんの前では重晴氏が、浮気心など素振りさえ見せなかったとも証言しています。割と頻繁に家庭内に入り込んでいなくては、こういう言葉は出てこないはずですよ。一番信頼の厚い部下として、目黒にもよく出入りしていたんでしょうね。ですから一谷さんにもチャンスはあったことになります」

 何のことはない。容疑者候補全員に、平等に機会があったことになる。

 熊谷警部は不愉快そうな顔のままで、

「理屈の上ではそうだろうがな。しかし子供のれ言には騙されんぞ。特専課がどんなに優れているか知りませんがね、そんなのは屁理屈にすぎん。白瀬さんが疑わしいことは揺るぎない事実なのですからな」

 強硬な姿勢を崩すことはなかった。

 やれやれ、というふうに、志我少年はもう一度肩をすくめた。

                *

 志我少年の提案で、被害者の泊まった部屋を見に行くことにした。正確には、泊まる前に毒殺されてしまったので、泊まる予定だった部屋、なのだが。

 その部屋は地下一階、階段から見て左に進んだ方向で、真季子夫人の部屋とは反対側である。道中、また二人の刑事とすれ違う。好奇の視線も何度目だろうか。

 目的の部屋には簡単には辿り着けなかった。普通に考えればまっすぐな廊下を歩くだけなのだけれど、この別荘はやはり変則的な構造をしている。廊下の途中に階段があるのだ。一階分下がって、また上がっている。しかも物凄く急角度の階段で、落ちるように下がって這うように上がっている。まるでアスレチックだ。とても危険を感じる。

 紅林刑事の説明によると、

「なんでもこの廊下の進行方向に岩盤の大きな出っ張りがあるそうなんです。それを崩すより、上下に迂回させたほうが工事が楽だったとかで」

「しかし、主人の部屋がこんな不便なところでいいんでしょうか」

 木島が素朴な疑問を口にすると、案内役の紅林は、

「その主人当人が、ここがいいと主張したそうなのです。部屋を往復するだけで、大腿筋や内転筋、それに下腿三頭筋のトレーニングになるなら、これ以上の環境はない、とかで、日常の中のボーナスステージみたいに捉えていたんでしょうね」

 うーん、筋トレマニアの考えることはよく判らん。と、木島はちょっと呆れた。三人揃って、ひいひい云いながら急勾配の階段を下がって上がる。

 そうして部屋に着く。中は当然ながら誰もいない。他の部屋と同じように、ビジネスホテルの一室のようだ。窓の外には曇り空。眼下には、森の樹の頭だけが広がっている。

 さて、どこから調べたものやら、と木島が考えていると、志我少年はてきぱきとドアの内側に向かって行って、

「鍵がかかるようになっていますね」

 観察を開始した。どれどれ、と木島も近づいて見る。なるほど、ドアノブの中央に小さなボタンが付いている。これを押すと施錠される仕組みだ。そして内側からノブを回せば解錠される。少年探偵はそれを見つめながら、

「紅林さん、これ、指紋は採取済みですよね」

「もちろん、午前中に鑑識が入っています。ノブの指紋は被害者と、朝に様子を見に来た奥さんのものだけでした。鍵のボタンは指紋が不鮮明だったそうです。ここしばらく触れた様子は見られないということで、拭いた跡もなかったから、多分使っていなかったのだろうと思われます」

「被害者はこの別荘に来ると、いつもこの部屋なんですよね」

「そのようですね」

「ふうん、ロックは使った形跡がないのか。寝る時に鍵はかけない習慣だったわけだ」

 と、志我は独り言でつぶやいてから、やにわに顔を上げて、

「紅林さん、お使い立てして申し訳ありませんけど、奥さんを呼んでいただけますか、今ここに」

「構いませんよ、できる限りの便宜を図るように主任に云われていますから。使いっ走りくらいお安いご用です」

 紅林刑事は、笑顔で部屋を出て行く。いい人だ。黒豹や狼みたいな怖い刑事にはなってほしくない。

 二人になったところで、木島は気になっていたことを尋ねてみる。

「ちょっと考えたことがあるんだけど」

「何でしょう」

 少年探偵は、ベッドの枕をめくりながら答える。

「水筒に毒を入れたのと遺体の足を切断したのは、本当に同一犯なのかな」

「何ですって」

 と、志我少年は手を止めて、こちらに向き直る。

「いや、だからさ、僕らは何となく、毒を使った毒殺犯と足を切った切断犯が同じ犯人だという前提で捜査を進めているだろう。別人の可能性はないかと、ふと思いついたんだ」

「妙なことを考えますね、木島さんも。でもそういう突拍子もない発想ができるのも、良い随伴官の資質かもしれませんね」

「やめてくれないか、それ。勒恩寺さんみたいだ」

 木島が不平を訴えると、志我はくすりと笑って、

「勒恩寺メモにもありましたよ。案外向いているのかもしれないって」

「本当かい」

「冗談ですよ」

 と、志我はまたちょっと笑顔を見せてから、真面目な表情に戻って、

「毒殺犯と切断犯が別々っていうことは、その二人が手を組んでいたってことですか」

「いや、共犯とまでは云わない。二人組ならばもっと意思統一ができていて、意図の伝わらない見立てなんて作らなかったと思うんだ。あの独りよがりな見立てが、二人掛かりで考えたものとも思えないからね。あれは一人の意志が暴走したみたいに感じられるし。そうじゃなくて、切断犯は便乗しただけなんじゃないかと思うんだよ」

「つまり、切断犯は、毒殺犯が毒を入れる現場をたまたま目撃した、もしくは深夜に大浴場に行って死体を発見したんで、これ幸いとノコギリを持ってきて足を切った、という意味ですか」

「そうそう、さすが探偵、呑み込みが早い。それで切断犯は、その足の部分を見立てに使ったというわけだね。切断犯は毒殺犯の犯行に便乗しただけ」

「それはないと思いますよ」

 と、志我少年は、突き放すみたいな口調で、

「死体を見つけたからって、これは使えるって切断するなんて常人の考えることじゃないでしょう。ただでさえ昨夜のこの別荘には、人を毒殺しようと企んだ毒殺魔がいた。毒殺を実行しようとするのだって充分に異常な精神状態です。その上にもう一人、他殺死体を見立ての道具に使おうとする突飛な考え方をする人がいたなんて、偶然が過ぎます。異常な精神状態の人物がたまたま二人も、昨夜この別荘にいただなんて、そんなご都合主義が通ると思いますか」

「ああ、まあ、そうかもしれないけど」

 正論をぶつけられて、木島は思わずトーンダウンしてしまう。志我はさらに続けて、

「それに切断犯だけが警察に捕まったりしたら、ヘタすれば毒殺の罪まで被せられるかもしれないんですよ。切断犯がそんなリスクを負うなんてバカげています。切断して見立てを作っただけで殺人罪で裁かれるなんて、切断犯にしてみたらたまったものじゃありません」

「それじゃやっぱり、別々ってことはなし?」

「そうでしょうね。同一犯と考えるのが自然だと思いますよ」

「だったら、自殺って線もないのかな」

「自殺?」

 怪訝そうな顔になる志我に、木島はうなずいて、

「そう、被害者は自殺したんだ。白瀬くんの自室から拝借した毒を呷って自ら命を絶った。そういう可能性」

「だとしたら、足を切断したのは誰です? 自殺者本人には、自分の足を切るなんて芸当は不可能ですよ」

「だからそれこそ別人だ。被害者、っていうか、この場合被害者は変か、自殺者に脅かされていて、自分が死んだ後にどうしても足を切って湖畔に置けと命じられていた」

「どうして死んだ相手の命令なんかに従わなくちゃならないんですか」

 と、志我は呆れたように、

「脅している相手が死んでしまったら、そんな脅迫なんて無視するのが普通でしょう」

「そこはほら、頼まれたんだよ、涙ながらに。俺が死んだらどうしても見立てを完成させてくれ、後生だからお願いだ、と悲壮に懇願されて、その情熱にほだされて仕方なく遺志を尊重した」

「そんなヒロイックな。死体損壊で捕まる危険まで冒して、死者の頼みを聞く人はいませんよ。それこそ毒殺の容疑をかけられる恐れだってあるんだし。頼まれたから実行する人なんているはずがないでしょう。まして、あの意味不明の見立てを作ったって、死者にも実行犯にも何の得もないんだから」

「そういうものかなあ」

 自分でも説得力が薄いと感じたので、木島は引き下がるしかなかった。だが、泣きの涙で頼まれたら、渋々でもやる人はいるかもしれないのになあ、と未練たらしく思う。その辺、志我くんは考え方がドライだな、とも感じる。ドライというか割り切っているというか。そういえば勒恩寺探偵もそうだった。理詰めで考えて、情緒に流されない。探偵という人種は皆、こういう合理主義者なのだろうか。それでふと思いついて、木島は、

「志我くんって勒恩寺さんにちょっと似てるよね」

「どこがですか」

 と、いささか不満そうに、紅顔の頬を膨らませて志我は、

「全然似てなんかいませんよ。変なこと云うのやめてください」

 おや、予想外の反応だ。てっきり照れるか喜ぶかすると思ったのだけど。勒恩寺メモに頼ったり口癖を真似してみたり、憧れているとまではいわないまでも、尊敬の対象としてくらいは見ているのかと思っていたのだが。意外に思いながら木島は、

「喋り方なんか時々そっくりになるし、てっきり影響を受けているんだと思っていたよ」

「確かに探偵としての実力は認めないでもありませんけど、あの軽佻浮薄なところは好きになれません」

 そう志我は淡々と云う。

「それに、勒恩寺さんのロマンだの美学だのという、探偵小説至上主義にもついていけません。あの人、いい年なのに勤めにも出ないで、終始密室だのアリバイだの不可能犯罪だのって夢みたいなことばっかり云って。大人げないにも程があるでしょう。僕はああいうふざけた生き方は肯定したくありませんね。堅実な現実主義、これに勝るものはありませんよ」

「ふうん、何だか志我くんって、将来の目標も具体的に決まってそうだね」

「もちろん決まっています。木島さんだって国家公務員一種試験に合格したクチでしょう。だから共感してもらえると思いますよ。自慢にしか聞こえないからあんまり云わないんですけど、僕、こう見えて全国模試でベスト5から落ちたことがないんです。試験は割と得意なほうだから」

「それじゃ、君も官僚志望?」

「はい、そう考えています」

 と、明るく志我少年は、

「それも、お金を扱うところがいいですね。結局、予算を握っているセクションが一番強いですから、僕もそこへ入りたいと思っています。目標は財務官僚です」

 すぐに手の届く願いのように、あっさりと云う。この子なら多分、簡単にやってのけるんだろうな、と思う。しかし、夢があるのかないのか、どっちなのかよく判らない。

 などと木島が考えていると、ドアが開いた。

 紅林刑事が入ってきて、

「奥さんをお連れしました」

 門司真季子がついて来ていた。嘆き悲しむのにもくたびれたのか、目の腫れは治まっている。メイクもきちんと整え直されていて、本来の容色を取り戻したのだろう、華やかな美貌である。

「何か私にご用ですって? かわいらしい助手さん」

 真季子夫人は志我少年に、にっこりと話しかける。どうやら気に入ったらしい。

 さっきまでと打って変わって愛想よく、外面のいい志我は、

「あの、確かめてほしいことがあるんですけど、いいですか」

 相手のニーズに応えて、少し甘えたふうに云う。

「なあに、何でも云って」

「ご主人の持ち物で無くなっていたりする物はあるでしょうか。または、増えている物」

「増えている物?」

 怪訝そうな顔になって、真季子夫人は部屋のあちこちを歩き回る。元より広い部屋ではない。クローゼットの前で、真季子はすぐに声を上げ、

「あら、スーツケースがない」

「スーツケースですか」

 志我もそちらに近寄る。

「そうなの、キャスター付きの、こう、ごろごろ引きずるタイプの、黒いスーツケース。確かここに入っていたはずなのに。あんな大きい物がなくなっているなんて。あらまあ、着替えも全然ないじゃない。下着とかシャツとか、何着かあったはずなのに」

 と、真季子夫人は首を傾げながら、ベッドサイドに向かい、

「髭剃りもなくなってるわね、電気シェーバー。お気に入りの整髪料の壜もないし。それに歯ブラシのセットも。変ねえ。これじゃあの人がどこか旅行にでも行くみたいじゃないの。そんな予定なんてないのに。どうしてなくなっているのかしらね」

「不思議ですか」

 志我少年が尋ねる。真季子夫人はこっくりうなずき、

「不思議ね。私、触ってもいないのに。変ねえ」

「僕も変だと思います」

 と、志我はにっこりと笑った。かわいらしい小動物を思わせる、無邪気そのものの笑顔だった。

                   *

 もう一度、地上に上がった。

 志我少年の要望だった。

 外は、相変わらず陰鬱な曇り空。

 一階の、玄関だけの小さな建物から出たところで、志我少年は立ち止まり、そしていきなり、

「僕、これで帰ります」

「えっ」

 何を云っているんだ、この少年探偵は藪から棒に。木島は呆気に取られてしまう。紅林刑事も目を丸くしている。しかし志我は、至って涼しい顔で、

「もう夕方です。今から都内へ帰ると夜になってしまいますからね。労働基準法に鑑みても高校生の夜間就労は問題がありますし、明日も学校ですから。後は木島さん達にお任せして失礼します」

「お任せって、事件はまだ何も解決していないじゃないか」

「解決はしていないですね。けど、僕の中で一応の解答は出ました」

「解答が出たってどういう意味?」

「色々判ったってことですよ。考えて推論を組み立てて、何が起きたのか理解したんです」

「えっ、それじゃ、犯人が判ったの?」

 びっくりする木島に、志我少年はしれっと、

「はい」

「毒殺犯の正体も?」

「ええ」

「あの見立ての意味も」

「もちろん判りました」

「それじゃ全部判ってるんじゃないか。聞かせてくれないか」

 木島の頼みをあっさりと無下にして、志我は、

「それはできません」

「どうして?」

「動機が判らないんですよ。犯人がどうして門司重晴氏を殺さなくてはならなかったのか、それだけがどうしても読み取れない」

「それくらい判らなくてもいいじゃないか。他が解明できれば充分だよ」

「いいえ、不明点があっては完全な解決とはいえません。僕、無責任なのは嫌なんです。不完全な解明なんて自分が許せない。完全無欠じゃない推定を得々と喋るほど、僕は厚かましくありませんからね」

 それが世界の常識であるかのように、志我少年は云う。いや、捜査なんて犯人を指摘できれば充分だろうに、と思いつつ木島は、

「でも、それで帰るなんて、そんなのありなの?」

「犯人が判明して、動機以外の謎は解けた。自分なりに納得できたから、これで満足です」

「そんな勝手な。君は自分だけが満足ならそれでいいのかい。そのほうがよっぽど無責任じゃないか」

 木島が云い募ると、志我少年はゆっくりと首を振って、

「だって、僕は後のことに責任を取れないんです。いいですか、木島さん、この事件、ひょっとすると終わっていないかもしれないんですよ」

「えっ?」

「今回の事件の特性は毒殺です。毒殺は時間差でも可能な犯行です。さすがに刑事さん達が大勢動き回っている今は、犯人もヘタな行動はできないでしょう。しかし昨夜のうちに、この別荘のどこかに毒薬が仕込まれていたとしたらどうです。第二第三の犠牲者が出るかもしれない。それを阻止できないのならば、そのほうが探偵として不誠実で無責任になってしまう。だから僕は撤退するんです。これ以上ここにいても、僕にできることは何もありませんからね。暗くなる前に行って国道に出ないとタクシーも拾いにくくなります。では、失礼」

 物凄くあっさりと、志我少年は、あっちを向いてすたすた歩いて行ってしまう。別れの挨拶もなしだ。木島は思わず声をかけ、

「後はどうなるんだ、放っておかれても困るよ」

 しかし志我は、後ろ姿のまま 片手を ひらひらと振るだけだった。

 まただ。また探偵が途中で帰った。

 前回に続いて二度目である。こんな展開がそう何度も許されていいのだろうか。

 あんまりではないか。探偵というのは得手勝手なものだとこの半年で学んだけれど、ここまでひどいと言葉を失う。

 紅林刑事と、思わず顔を見合わせる。ぽかんとしている紅林に、木島も途方に暮れて、

「えーと、これからどうしたものでしょうか」

 云ってみたものの、紅林が答えを持っているはずもなかった。

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