プロローグ
三月も後半に突入した某日。洋菓子店『月と私』に、飛行機で海を越え子羊たちがやってきた。
「あっ、アニョー・パスカルの型、アルザスから届いたんだね。見せて見せて。うーん、型だけだとちょっとシュール? でも可愛いっ」
麦の言葉に店のオーナーパティシエである姉の糖花も、子羊たちの愛らしさに目をうるませてコクコクうなずく。
本日は店はお休みで、麦も糖花もトレーナーにパンツだったり、カーディガンにスカートだったりと私服姿だ。
イートイン用の丸いテーブルに、ミルクベージュの陶器の子羊たちを、梱包を解きながらひとつずつ並べてゆく。
丸みを帯びたフォルムや突き出した脚は、やっぱりちょっとシュールだけど、ひょろりと長い銀の留め金をはずして、ぱかんと開くと、キュートな子羊が現れる。ここにビスキュイの生地を流し込んで焼き上げるのだ。
『月と私』では、四月からイースターのお菓子を販売する。
イースターはキリストの復活祭で、春の訪れを祝う日でもある。春分の後の最初の満月の次の日曜日と決められていて、この時期海外では卵やうさぎの形のお菓子を食べてお祝いするのだ。アニョー・パスカルも『復活祭の子羊』を意味するイースターのお菓子だ。
「アニョー・パスカルをいただくのは、アルザス地方独自の風習なのですね。日本ではイースターエッグやイースターバニーと一緒にアニョー・パスカルを並べるお店も増えてまいりましたが」
こちらもシャツにスラックスの語部が、艶のある美声で語る。普段、店で接客をしているときは執事のような黒い燕尾服に身を包み、前髪を後ろに撫でつけ、ストーリーテラーを名乗っているが、今は前髪もおろしている。
住宅地の片隅にある小さな洋菓子店に彼が訪れ、販売と企画と宣伝その他を一手に引き受けるようになってから、店も、麦の姉も、劇的に変わった。
店の屋根は、くすんだ茶色から明るい水色になり、入り口に空の水色と月の黄色、二つの円を重ねた看板がかかげられ、店内には、三日月、半月、満月の形をしたお菓子があふれている。
お客さまも従業員も増え、姉は朝露を含んだ花のように美しく、みずみずしくなった。
ここ数日はさらに輝いていて、幸せそうににこにこしている。かと思うといきなり顔を赤らめたり。
お姉ちゃんとカタリベさん、ホワイトデーに絶対なにかあったよね……。
あの日は麦にも忘れられない出来事があり、そのせいでぼーっとしていて、周りに気を配る余裕がなかった。
けれど語部が、店の二階のリビングで三人で食卓を囲んでいるときに、姉をたいそう甘い声で『糖花さん』と呼ぶようになったのは、ホワイトデーの翌日からだ。
以前から店では『シェフ』と呼んでいて、それ以外では『糖花さん』と呼んだり呼ばなかったりだったのが、勤務外は『糖花さん』で固定したようで、深みのある美い声で頻繁に、
──糖花さん。
と語りかける。
そのときの語部の表情が、麦までドキッとしてしまうほど甘く優しく、姉も頰をカスタードクリームのようにとろとろにゆるめて、
──はい。
と答えて、見つめあったりしている。
あたし、邪魔?
いや、すでに麦の存在は二人の中から消えているのかも。
まぁ、もともとお姉ちゃんとカタリベさんは両思いだし、早くつきあっちゃいなよって思ってたからいいんだけど……。
糖花と語部は、いつのまにか顔を寄せあうようにして語らっている。
「子羊の額に、お砂糖で描いた白い三日月をちょこんとのせようと思うんです」
「三日月をたたえた子羊、いいですね。リボンは店のイメージカラーの水色と黄色、二種類用意しましょう。ああ、しかしピンクも春らしくて捨てがたい」
「ピンクのリボン、わたしも春めいていて素敵だと思います。春色のリボンを巻いた子羊をケースの上にたくさん並べたら、きっとお花が咲いたみたいに可愛いです」
仕事の話をしているようだけど、距離が近い! 見つめあう眼差しや、かもしだされる雰囲気が甘々だ。
「亡くなった母がイースターが好きで、うちでは子供のころから毎年祝っていたんです。だからイースターには思い入れがあって」
「そうですか、糖花さんのお母さまが」
語部がまた目を細める。
糖花も唇をほころばせて、
「『春を迎えるお祝いよ』って──うきうきと支度していました。イースターエッグに、イースターバニー、アニョー・パスカル、イースターは可愛いものがいっぱいよって。母が百均でシリコンの羊の型を見つけてきて、一緒にアニョー・パスカルを作ったり」
ほのぼのと語る糖花を、語部はやっぱりどこまでも甘く優しい表情で見つめている。内気な糖花がそんな安心しきった表情で子供時代の話をしてくれるのが、嬉しくて仕方がない様子だ。
カタリベさん……ダダ漏れだなぁ……。
仕事以外では私に話しかけないでください、などと言って空々しい笑顔で姉を突き放していたのが噓のようだ。
ひょっとしてもう、つきあってる?
それはいいことなのだけど……う─ん……。
麦が苦い顔をしてしまったのは、姉への片想いをこじらせまくっている幼なじみの顔を思い浮かべたためだった。
今はタイミングが悪いというか、なんというか……。
二人はまだ近い距離で親密に話している。
「明日、デパートのイースターコーナーに置いていただく商品の打ち合わせをしてまいります。アニョー・パスカルもラインナップに加えていただきましょう」
「はい、ぜひ。休業日なのに語部さんにばかりお仕事させてしまって申し訳ありません。やっぱりわたしも一緒に……」
「ダメだよ、お姉ちゃん! 明日はマリー・ローランサン展に行くんでしょう?」
麦はつい叫んでしまった。
姉がびっくりして振り向く。
「や、あの、だってお姉ちゃん、マリー・ローランサン、ずっと楽しみにしてたじゃない。もうチケットも買っちゃったんでしょう? 展覧会は今週いっぱいまでだから、明日を逃したら行けなくなっちゃうよ」
服の中に汗をかきながら言いつくろう。
明日、糖花に京橋の美術館へ行ってもらわなくては具合が悪いのだ。
あまり強くすすめると語部に不審に思われそうで、ひやひやする。
すでに視線を感じていて……。
え? バレてる?
けれど語部は麦から視線をそっとはずし、糖花に向かっておだやかに微笑んだ。
「麦さんの言うとおりです。仕事は私の趣味でもありますのでお気になさらず、糖花さんは『マリー・ローランサン展』を楽しんできてください」
思わず胸を撫で下ろした。
実は──幼なじみの令二に、姉がマリー・ローランサン展へ行くという情報をリークしている。
ごめんなさいっ、カタリベさん! でも、あたしだけホワイトデーに爽馬くんとうまくいっちゃって、令二くんに後ろめたいんだよ〜。
*
続きは4月9日発売の『ものがたり洋菓子店 月と私 よっつの嘘』で、ぜひお楽しみください!

■ 著者プロフィール
野村美月(のむら・みづき)
福島県出身。『赤城山卓球場に歌声は響く』で、第3回えんため大賞小説部門最優秀賞を受賞。著書に、「文学少女」「ヒカルが地球にいたころ……」「むすぶと本。」「世々と海くんの図書館デート」「三途の川のおらんだ書房」の各シリーズのほか、『記憶書店うたかた堂の淡々』『ビストロ・ベーテへようこそ』など多数。
子供のころからスイーツが大好きで、Instagram(ID:harunoasitaha)で情報発信している。