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第1回

第1話 504八並青

 八並青やなみあおには行きつけの店がない。
 カフェの店主と顔なじみになって「いつもの」を注文したことも、バーで隣の客と意気投合したこともない。そもそもアルコールにもカフェインにも耐性がない。美容院は世間話が苦手で転々としてしまうし、習い事に挑戦してもうまく溶け込めない。次はないな、と悟って壁と同化することにはもう慣れたが、バリアでもあったかのように青が弾かれた輪の中に、後から来ただれかが溶け込んでいくのをの当たりにするのは毎回こたえる。
 子供のころ、雨の日に窓ガラスを眺めていると、先にそこにあった水滴が、新しく窓にぶつかってきた雨粒と一緒になるところに目が留まった。大きくなったりいびつになったりするでもなく、ちいさな丸を保ったまま古い水と新しい水がひとつになるのが不思議で、いつのまにか、ほかと一緒になれない水滴を探すようになった。うっかり飛ばされてきたきり、だれとも手をつなげないままぽつんと乾いてしまう子もいるんじゃないかと思ったが、これまでに迷子の雨粒を見つけたことは一度もない。
 また迷子の雨粒になったと気づくたび、どうすればよかったんだろう、というかすかな後悔のとげが心に残る。ひとつひとつは些細ささいなだけにずっと抜けない。ただ、大人になるにつれてあきらめも覚えた。しかたない、私は初対面の人とすぐ仲良くなるとか苦手なタイプだから。せめて目の前の相手を大事に。いまいる場所できちんとやれば、わかってくれる人は現れる。
 マンション前の人だかりはエントランス付近にひとつ、それを遠巻きに眺めるひとつと二重になっている。青は後者の中にいた。正確には後者の、もう一段階後ろ。前者はいかにも日曜の昼下がりに叩き出されたという様子で、雨にもかかわらず傘を持っていない人もいる。後者は大半が雨避けの上着を羽織り、例外なく傘をさしていた。
 青は気圧性の頭痛持ちで、とくに雨の日には欠かさずイヤホンをつける。ななめがけのバッグよりかさばる手提げの紙袋を肘にかけ、傘を首と肩のあいだに挟んでワイヤレスイヤホンを外すと、案の定、うずきを誘発する雨音が頭に響いてきた。気を紛らわそうと、近くで聞こえる話し声に耳を澄ませる。キッチンから出た煙に火災報知器が反応し、近隣に鳴り響くサイレンがついさっき止まったばかりらしい。
 ――部屋の人、まだ帰ってないみたい。さっき消防の人が話してた。
「……キタガワか!」
 マンションに近い輪から響いた声は、とくに怒気をはらんでいたわけではないにもかかわらず、重厚な扉を閉じるように噂話をぴしゃりと締め出した。髪と同じ灰色の部屋着姿の男性が一歩出て、警備会社のジャンパーを着た青年に「うちじゃない、で、カワシマさんとこでもないなら、キタガワだろう」と、質問ではなく確認の口調で言う。答える前に今度は消防士と警察官が警備会社の職員に話しかけに行き、男性は退くでもなく、腕組みをしてかたわらでそれを聞きだした。
 青は混乱する。青の姓は「北川」ではない。そして、淡い期待も抱く。自分はこの件とは無関係で、うっかり火災報知器を鳴らしたのは別の人かもしれない。たまたま同日同時刻に火の元を放置して出かけ、まだ戻らない「キタガワ」さんがいるのかもしれない。
「五階以外の方は、お部屋に戻って大丈夫です。五階の方はもう少々お待ちください」
「やっぱりキタガワだな。504か?」
 消防士が全体に向けて放った呼びかけに、男性は当然のように個人的な返事をした。
 そこから話は聞こえなくなったが、それが彼らの声量が下がったせいか、自分の血の気が引いたせいか、青には判断がつかなかった。504は青の部屋番号だが、キタガワのほうには心当たりがない。あのおじさんはだれのことを言っているんだろう?
「まあまあ。雨も降っていますし、話の続きはロビーでいかがですか?」
 またひとり「あちら側」の輪から歩み出たのは、赤い傘をさした中年女性だった。
 ほがらかな声と笑顔は緊迫した雰囲気とは相容あいいれないのに、当たり前のように溶け込んでいく。足元に控えている犬の効果もあるかもしれない。一瞬で相手に心を開かせる人種は確実にいるが、青には彼らを彼らたらしめる理由さえわからない。
「話しているうちに、五階の子も戻ってくるかもしれませんから」
 その声を合図に、それぞれの輪が動いた。
 警察官が男性を誘導してエントランスへ向かう。ほかの住人も彼らの後に続いた。一段落したと見て、野次馬に興じていた人たちも引き上げはじめる。それぞれがそれぞれの波に乗る中、青だけがその場に留まっている。
 もうひとり、犬を連れた女性も、エントランスに向かう何人かに話しかけられて足止めされていた。その都度気遣わしげに眉を下げたり、足元の犬の顔を覗き込んでみせたりする。いよいよ人波が途切れかけ、彼女自身も戻ろうとした矢先、その視線が一瞬、なにか探すようにちらっと振り向いた気がした。
 とっさに傘で目元を覆いながら、青は苦い唾液だえきが溢れてくるのを感じた。ビニール傘の外側で、雨粒がくっついては流れていく。耳を雨音にさらしたままそれを眺めていると、数時間前に薬で抑えていた頭痛の種がまた疼き出した。こうなると、立っていられなくなるまで五分とかからない。早く落ち着ける場所に移動しないといけない。
 ――五階の子も戻ってくるかもしれませんから。
「504号室の方ですか?」
 やおら耳元で言われて、青の口から間抜けな声が漏れた。
 とにかく間抜けだった、という印象だけが強烈に残り、後でされた「叫ばれたことより人の喉があんな発声をできることに驚いた。逆再生みたいだった」という説明には想像が追いつかなかったが、ともあれその間抜けさが、パニックに陥りかけていた頭を冷静さのふちへ押し戻した。青自身の語彙ごいで表現すると「スンとした」。
 相手は同じ質問を繰り返し、青はただ「はい」と答えた。
 その女性は、青の死角になったななめから近づいてきていた。マウンテンパーカーを羽織り、青と同じくビニール傘を持っている。二十五歳の青よりはおそらくやや年上だが、母親ほどの世代ではなさそうに見えた。
「駐輪スペースから非常階段で四階に上がって、403号室まで来てください」
「……なんでですか?」
 女性はポケットから右手を出し、エントランスから少し逸れた先を指さした。
 一見路地のような狭い道は、実際はマンション内の駐輪場に続いている。使用には申請が必要だが、開けて入るだけなら住人は全員自室の鍵があればできる。突っ切った先のドアは一階と二階を結ぶ非常階段の踊り場で、そこからロビーを通過せず上の階まで行くことが可能だ。
「それはわかりましたけど……でも、なんでって、そういうことじゃ」
「顔色が悪いから」
 駐輪スペースに関する丁寧な説明に比して、至って簡潔な理由だった。
「いやならいいです」
 その言葉は青が知るかぎり、機嫌をとって「うん」と言わせる手段か、おまえに断られてもどうということはないという見栄か、とにかく、余計な意味を背負うものだった。文字どおり、あなたがいやなら私もこれ以上頓着しない、おしまい、という意味で、言葉に負荷をかけずに「いやならいい」を使う人に、初めて会う気がした。
 女性の後ろ姿を青はしばらく見送ったが、人波が引かないうちに、そして体が動くうちに、指し示された路地へと進んだ。
 うなだれそうな頭を首の上に据え直し、肩甲骨の間を伸ばして胸を張る。ただ、そんな小芝居は不要だとすぐに気がついた。だれもがやっと部屋に戻れるとあって脇目も振らないし、警備会社や消防署の職員も撤収てっしゅうを始めている。人が「帰りたい」の前には平等であることに感心する一方、青は狂おしく羨望せんぼうも覚えた。
 早く帰りたい。私が帰れるのはいつだろう。
 青は世界ごと雨を遮断するように、音楽の途絶えたイヤホンを両耳に押し込んだ。

 ボワティエメゾン504号室は、青の三か所目の住処すみかだった。就職と同時に学生寮から引っ越して、昨年度末に最初の契約更新を終えたばかりだ。
 五階建てのマンション内は、大きく二つのタイプの物件に分かれている。エレベーターを出て右に進むと、ファミリータイプの物件が三部屋ずつ。左手に行って突き当たりの非常階段と逆に曲がったところ、エレベーターからは死角に入る場所に、単身者向けの1Kが各階一部屋ずつ。青の部屋は不動産屋で「最上階、角部屋」とうたわれていたが、車通りの多い道路に面している上に窓が北向きなので現状メリットは感じない。憧れのひとり暮らしに理想的というわけではなかったが、通勤しやすさと家賃という単純な理由で決めた。
 近隣住人に挨拶すべきか迷ったが、同世代の友達にそんなことをしている人はいなかったし、赤の他人がいきなり玄関先に来ても自分なら出ないと思った。分譲側の物件と少し離れていることもあり、波風を立てないよう極力影を薄くして新生活を始めた。宅配ボックスに届いた荷物はすぐに回収しましょう、夜間は子供やお年寄りが寝ていることを考えて行動してくださいといった注意喚起の張り紙がしょっちゅう入れ替わること、それらに「モラルの問題です」「自分がされたらどう思うか考えて行動してください」といった妙にメッセージ性の強い文言が使われていることには少し引っかかりを覚えたが、集団生活自体には寮で慣れていたし、迷惑さえかけなければ大丈夫だと安易に考えていた。
 ただ、そんな楽観は三ヶ月ともたなかった。
 梅雨つゆの只中、その日は朝から土砂降りで、起きて早々に飲んだ頭痛薬の効果も夕方には切れてしまった。大事を取って早退させてもらい、マンションに帰り着くと、エントランス脇の集合ポストで傘を持った女性が郵便物をり分けていた。郵便は昨日見たからいいか、とポストを通り過ぎ、到着したエレベーターに乗り込んで、少し迷った末に「開」を押した。
 ほどなくさっきの女性が近づいてきて、青は「何階ですか」と訊きながら片耳だけイヤホンを外した。実際は四階から乗ってくる彼女と何度か遭遇したのを覚えていたが、同性とはいえ、黙って自分の住む階数を指定されるのも気持ち悪いだろうと思ったのだ。
「待っていてくれたの? 先に行ってって声をかけたのに」
「そうだったんですね。すみません」
 とっさの謝罪には答えず女性は自分で「4」を押し、まだ先端から雫がしたたる自分の傘を、青がいるほうとは反対側に持ち替えた。
 青の出勤と彼女の犬の散歩の時間が重なるらしく、その女性は青にとって、マンション内ではなじみのあるほうだった。犬を連れた住人は青の見たところ彼女だけだったし、青の挨拶にはいつも笑顔で答えてくれた。向こうから「最近あたたかいですね」とか「連休にお疲れさま」とか、答えやすい雑談を足してくれることがあり、たとえ答えられるのが「そうですね」や「はい」の一言だったとしても、そのときだけは、彼女と同じ屋根の下で暮らす一員として認められている気がした。
 雨だから犬は部屋にいるのだろう、たまにはこちらから「わんちゃんはお元気ですか」とでも訊いたほうがいいかもしれない。いや踏み込みすぎだろうか、と逡巡しゅんじゅんしながら青が階数表示をぼんやり眺めていると、彼女のほうがおもむろに青に向き直った。
「あの、おせっかいならごめんなさいね」
 はいっ、と答える声が思わずうわずった。
「帰ってきたら、すぐにイヤホンを両耳とも外したほうがいいんじゃないかしら?」
「……え」
「さっきみたいに聞こえないこともあるし。いまの若い人にとっては普通でしょうけど、人がいるのに音楽を聴いているのは失礼だと思う人もいるから。それにほら、うちは小さなお子さんのいるご家庭も多いの。大人が挨拶を無視したら、よくないでしょう?」
 エレベーターが四階に到着し、女性が「じゃあ、おやすみなさい」と降りていくと、荷が下りたように大きく動いた腕の先から傘の雫がぴゃっと数滴飛び、すでにじっとり湿っていた青のくるぶしにかかった。彼女はそのまま、心なしかいつもより軽い足取りで廊下を右に曲がり、赤い傘を楽しげに揺らしながら視界の外へと消えて行った。
 閉まる扉を見るともなしに眺めながら、注意されたそばから挨拶を無視してしまった、と青は気がつく。だが、同じ挨拶を返すことがなぜだかできなかった。夕方にそぐわない「おやすみなさい」は親密すぎるようにも異様によそよそしいようにも響き、傘の先からふいに飛ばされた雨粒のように冷たい違和感を青の肌に残した。
 エレベーターの扉がふたたび開くと、ぼわぼわと不格好に反響する夕方の防災放送が響いてきた。それはイヤホンを外した耳から頭蓋骨の中まで沁みて、靴下の中に滑り込んできた雨粒と一緒に、鳥肌が立つようなじんわりとした違和感を青の全身に広げていった。

 遠くから聞こえる音に青が目を開けると、まず天井灯が視界に入った。
 いつも寝起きに見ているものと同じ型で、無意識に安堵あんどして寝返りを打つと肩からなにかが落ちる。とっさに掴んで顔の前に持ってきたそれは白いバスタオルで、新品らしく触れたそばから肌にやわらかく毛羽を残した。青が使っているものより、二倍は分厚かった。
 はっと上体を起こす。青が寝ていたのは、自室のベッドではなくフローリングの床の上だった。頭痛の回復具合からして最低でも一時間は寝ている。それにしては背中が軽いのは、体と床のあいだに深い緑色のウレタンマットが挟まっていたかららしい。ちょうど青が寝ていた頭の下辺りに、アスリート御用達のスポーツブランドのロゴが刻印されている。
 六畳ほどの部屋には、さっきまで青が使っていたヨガマットとタオル以外はなにも置かれていなかった。窓は小さなものがひとつだけあるが、向きのせいか外の様子がほとんどわからない。本来は物置にでもする場所なのだろうが、殺風景な雰囲気のせいで独房か隔離病棟のように思えた。一気に落ち着かなくなった青が急いで立ち上がると、その拍子に耳栓がわりにしていたイヤホンが落ち、遠く感じたはずの音が存外はっきり響いてきた。
 からすといっしょに、かえりましょう。
 ただの電子音なのに、いかにも郷愁きょうしゅうをうながす音楽がたっぷりと余韻をはらんで終わる。午後五時。マンション前に着いたのは三時頃だから、二時間近く寝ていたことになる。
 部屋の外に出ると、オレンジがかった光が横殴りに青の視界を覆った。
 とっさに目を閉じてから、おそるおそるそちらを確かめる。光の正体は、分厚い雲の切れ目から挿し込んできた夕日だった。雨上がりの空は一面まだらに染まり、遠くにあるはずの太陽がいまにも燃えながら眼前まで迫ってくるように思える。室内から見るには鮮明すぎるその光景に、一瞬、青は自分が外に瞬間移動でもしたのかと錯覚して立ちすくんだが、すぐに違和感の理由に気がついた。
 物件のメインルームであろうリビングは、がらんどうだった。
 大きな窓にカーテンはかかっていない。そのせいか、高くても五階のはずなのに空が妙に近く感じる。コンセントは三か所、ひとつにはテレビ用のアンテナ端子もあるが、すべてき出しになっていた。キッチンと直結したカウンターの上には、青が持っていたななめがけのバッグがぽつんと置かれている。
 リビングを出ると、短い廊下の先に玄関が見える。玄関のドア、三和土たたきの広さ、天井まで届く備え付けのシューズボックスは、青の部屋と同じだった。むしろ、単身者には大きすぎるとずっと思っていたあの収納は、どうやらこの設計からの流用らしい。右にふたつ扉があり、左側は洗面所。洗面所の明かりは消えているが、奥のすりガラスからは明かりが漏れている。
 入浴中だろうか、と青が声をかけるのをためらっていると、にわかに扉がからからと開いた。青はとっさに息をんだが、予想に反して出てきた女性は乾いた服を着ていて、動じる様子もなく青に向かって会釈した。
「どうも。体調はいかがですか」
「あ、はい。あの……すみません、お風呂の邪魔しましたか」
「いや、大丈夫です。五時を過ぎたので」
 手に持った文庫本を掲げてみせられても、青には意味がわからない。まるで謎解きだ。なにを質問すればいいのかもわからずぼんやりしていると、案外丁寧に補足をされた。
「夕方五時に鳴る、防災放送がね」
「……ああ、ちょうどさっき」
「苦手なんです。ここであれが聞こえないのは、浴室しかないから。私はノイズキャンセリング付きのイヤホンを持ってないし」
 もう少し待ったが、それ以上の追加はなかった。これで十分だと思われているらしい。
 ヤバい人についてきちゃったかな。
 うっすらと後悔する青に、彼女はもう一度「体調はいかがですか」とたずねた。
「ありがとうございます。もう、だいぶ」
「本当はベッドかソファのほうがよかったんでしょうけど、ソファがなくて」
「いえ、大丈夫です。あのヨガマット、やっぱりいいですね。高級なだけあるというか」
「ご存じなんですね」
「パーソナルトレーナーなんです。あ、退職したので厳密には元、ですけど」
「どうりで。いまにも倒れそうな顔色だったのに、姿勢がいいと思いました」
 現状を思い出して口をつぐむ青をよそに、相手は「あれは頂き物なんです」と言った。
「だから、私には価値がわからなくて持て余してしまって。困っていたんですけど、人の役に立ってよかったです。これで心置きなく処分できそう」
 彼女はキッチンに向かって冷蔵庫からペットボトルの水を二本出し、一本を青に渡してリビングの明かりをつけた。部屋に直接挿し込んでいた夕日がじんわりと緩和され、そのぶん雨の上がった外の景色が見える。近くに目立った建物はないが、遠くのビルの灯りがこちらに届くなら、あちらからここが見えてもおかしくはない気がする。
「頭痛薬はありますか」
「はい、この時期は持ち歩いています」
「よかった。それで飲んでください」
 腰を落ち着ける場所もないので、向かい合わせになってキッチンカウンターにもたれ、バーでビールでも飲みかわすようにお互いペットボトルのキャップを開けた。青がバッグからピルケースを出すあいだも、相手は淡々と水を飲んでいる。愛想よく話して油断させるでも、閉鎖空間にかこつけて威圧するでもない。そもそもそういう目的の「ヤバい人」なら、もう少し油断を誘う環境づくりに配慮しそうな気がする。
「このマンション、親切な方が多いですね」
 掴めない状況に、結局、青のほうから探りを入れずにはいられなかった。
「そうなんですか?」
「えーと……はい、仲がよさそうで。一階のロビーで、よく住人の方がお話ししているから。季節ごとに飾りつけも変わるし」
「何年か前にマンションの大規模修繕があって、その時期に理事をしていた方々はいまも付き合いがあるみたいです。管理会社との交渉とか、いろいろ大変だったそうで」
 結託の裏には理由がある、そこに自分は属していない、という意味を読み取って青は安堵する。平日の昼や週末にロビーでよく見る光景は、大学寮のラウンジで開かれていた「女子会」を青に思い起こさせた。とくに約束しているわけではないが、だれかがいれば自然とだれかが話しかけ、そこに自然とだれかが加わり、いつのまにか輪ができている。あれもそういう成り立ちだろうと、寮ではいつも息をひそめて壁際を通っていた青にはぴんと来た。
「ロビーの飾りつけも、401号室の方がいらしてから始まったことですね」
「それ、よく犬を連れている人ですか」
「ご存じでしたか」
「いや……なんとなく、そうかなって」
「割れ窓理論っていうんでしたっけ。まず見える部分の環境改善をすれば、そもそもトラブルを起こす気も薄れるだろうという方針のようです」
 うすうす察してはいたが、あらためて説明されて頭痛がぶり返しそうになる。目の前の相手をロビーで見かけた記憶がないことと、すべて伝聞形で話されていることが救いだ。
「私、前はあの女の人と、朝によくエレベーターで一緒になったんです」
 青が言うと、彼女はペットボトルを口に運びつつ目線と表情で相槌を打った。
「ジムって早朝に来るお客さんも多いし、あちらは犬の散歩で。だから、お顔は知ってたんです。ただ退職してすぐのころ、昼過ぎにコンビニから帰ったらロビーにあの人がいて。管理人さんとお話し中だったので通り過ぎようとしたら『こんにちは!』って呼び止められて、その後『最近お会いしなかったけど、お仕事は休み?』って……」
 話を切り、相手の顔色をうかがう。彼女はあごを上げて水を何口か含み、吟味するように飲み下した。そのまま天井を向いている隆起のない喉仏を、青はガシャポンで当たりが出ることを祈る子供のような気持ちで見守った。
「それは。私だったら、少し嫌かも」
「……やっぱりそう思いますか?」
「そうですね、個人的には」
「考えすぎかなと思ったんです。辞めた理由もべつに前向きじゃないというか、実質クビみたいな感じだったので」
「クビ?」
 失言に気づいて青は口をつぐむ。そもそもここにいる理由が理由なのに、余計な烙印らくいんを押されそうな情報を自分で明かしてしまった。実際、否定する自信も失っている。ただ隠せばより疑われそうで、ほとんど自棄やけになりながら説明した。
「新卒で個人経営のパーソナルジムに就職したんですけど、そこで派閥争いが起こって。私の直属の先輩だった人が独立して、仲のよかったトレーナーやお客さんを引き抜いていったんです。私を指名していたお客さんもほとんどそちらについていって、ただでさえ経営が厳しいのにちょっと、となって」
「そういうのって、ルール違反じゃないんですか」
「普通、問題になりそうですよね。引き抜きだから。ただ、その人は自分のお客さんをいったん後任に引き継いだあと、辞めてからしばらくなにもせずにいたんです。その期間は当時のお客さんと個人的に飲みに行ったり、マラソンやゴルフに出かけたり、あくまで友達として交流していたみたいで。実際には、そういうテイにして話をつけていたんでしょうけど」
「時間稼ぎに後任者を利用したということですか」
「おかしいとは思ったんです、研修期間が終わったばっかりで任されるにしては責任重大だから。でも、やる前から弱音を吐くなってオーナーに説得されて、そういうものかなって」
「災難でしたね」
 憐憫れんびんや怒りといった感情の薄い、単純な労りに青は逆に胸を突かれる。ここに来るきっかけになった「いやならいい」と同じ、重力に従ってまっすぐ落ちる小石のように単純なそれは、むしろ、青の心のひだの奥深くまで入り込んで飛沫しぶきを立てた。
「……いえ。やっぱり、私にも責任はあります。半年間あって、担当しているお客さんも何人かいたのに、ほぼ全員『八並さんがいい』とは思ってくれなかったんですから」
「そうじゃない人もいたんですか」
「ひとりだけ……じつは今日、そのことで、急に呼び出されてうちを空けたんです」
 その結果を思い出して口調が重くなる青とは対照的に、ほお、という返事は軽かった。
「前の職場の移転が決まって、オーナーが、お客さんに餞別せんべつを預かったから取りに来てって連絡してきたんです。立ち退きがあるからできるだけ早くって。送ってもらえばよかったんですけど、私になにか贈りたいなんて人がいてくれると思わなくて、舞い上がって」
 喉が締まり、声が小さくなった。そんなことは火災報知器を鳴らして、雨の休日にマンションの住人を外に放り出す理由にはならない。
 ごめんなさい、と頭を下げた青の耳に、かぽかぽと聞き慣れない足音が響いた。続けて冷蔵庫の開閉音。やがて床しか映っていなかった視界に、黒の穴あきサンダルを履いた足が目の前に戻ってくる。罪悪感の代わりに疑問符で頭が満たされた。このタイミングで冷蔵庫? スリッパじゃなくてサンダル?
「忘れていました。これですよね」
 差し出されたのはたしかに、青が日中に受け取った紙袋だった。全体的にへたっているのは帰り道で降りだした雨のせいでもあるだろうが、受け取るとひんやりと湿っている。
「……冷蔵庫に?」
「はい、念のために」
 青は袋をキッチンカウンターの上に置き、中身を取り出した。長方形の箱に、プレゼント用のラッピングはされていない。オーナーが剥がして確認したのか、贈り主が有料の包装を頼まなかったのかはわからない。表面を覆うビニールは冷えて汗をかいていたが、パッケージの文字を読むことに支障はなかった。ミルクパズル、千ピース。
「……ジグソーパズル、ですか」
「ジグソーパズル、です」
「てっきりお菓子かと思いました。すみません、品質とか大丈夫でしょうか」
「普通、そう思いますよ。プレゼントってお菓子とか、せいぜい入浴剤とかが定番だし」
 恐縮する相手をフォローしたはずの言葉は、口にした瞬間なぜか青自身に響いてきて、瀬戸際でせき止めていたはずの違和感を一気に放出させた。
「変ですよね、無職になった相手に千ピースのパズルって。これからは暇でしょって意味にとられかねないじゃないですか。真っ白っていうのも……黒じゃないだけマシなのかな。そもそもひとり暮らしの部屋で、床にこんなもの拡げる余裕、普通はないですよ」
「お相手がパズル好きとか」
「聞いたこともありません。オーナーも失笑してました。辞めたトレーナーはほかにもいるけど、こんなものお客さんから贈られた人は初めてだって」
「それもなんだか、ずいぶん他人事じみた言い方ではありますが」
「たしかに、お客さんと必要以上に仲良くなるのは苦手でした。トレーナーはお客さんとの関係性が命だから、相手に心を開かせられないのは適性に問題があるって叱られたこともあります。でも、いちいち人に心を開かないと健康になれないって、ハードルが高すぎませんか?」
 それは青がトレーナーの仕事を志して以来、つねに思っていたことだった。
「自分が運動やってきて、怪我でやめたからこそ、ああいう場所にうっすら漂う『運動は万能薬のように人生を豊かにするし、運動好きはそうでない人より優れている』みたいな感じに違和感があって。それに、そういう空間特有の連帯感って、そこにうまく入れない人間からすると隠したつもりでも伝わってくるんです。案外プレッシャーなんですよね」
「なんとなくわかる気がします」
「自分のお客さんには、そんな思いさせたくなくて。トレーナーとの相性とか気にせず、バーベルと同じ器具だと思って、心置きなく体のことに集中してほしかったんです。ただ、プライベートに踏み込まないぶん仕事は全力で……まあ、できてなかったのか。私なんかが理想を掲げるなんて、生意気でしたね。結果、ただの感じ悪い奴になっちゃった」
「感じ悪かったかどうかは、わかりません。私のヨガマットも贈り主は真剣でしたから」
 青はまた床に視線を落とす。自分に宛てられた唯一の贈り物を嫌がらせと感じるひがみっぽさこそが「普通の」贈り物を貰えなかった理由だと、うすうす自覚していたことを露呈させられた気がした。だが、「ただ」と続けられた言葉は、予想に反して非難でも説教でもなかった。
「なにを贈るかは相手の自由ですが、なにを受け取るかは、こちらの自由ですから。負担なら処分してもいいと思います」
 安心より前に、でも、と駄々っ子のような反駁はんばくが口をついた。
「あのヨガマット、とっておいてあったじゃないですか。いらないんですよね?」
「ええ。不要だけど、すぐに捨てるほどストレスでもなかったので。待っていました」
「待っていた?」
「『贈り物』が『私の物』になるのを。結果としてこうして役に立ったので、まあ、これで上書きされたというか。成仏かなと思います」
 この人は怪しい、とあらためて青は思う。
 なにを考えているのかわからないし、わかってもらうつもりもなさそうに見える。それでいて人の話は常温の真水のようにするすると受け入れてしまうから、気づけばこちらばかりが腹の内を明かしている。そして自分のこととなると、妙なことを堂々と言って堂々としている。人に理解されようという気があるようには、とても見えない。
「……お願いが、あるんですけど」
 ただ、そのぶん人の『理解できない』も、決して否定はしてこない。
「手伝ってもらえませんか?」
「なにをでしょうか」
「成仏」
 相手の目が見開かれた。青が初めて見た、わかりやすい感情を伴う反応だった。

 体調管理には昔から注意してきたが、ひとり暮らしを始めて一度だけ、風邪を引いた。
 ふらつきながら探ったキッチンで青が見つけたのが、実家から届いたみかんだった。二日間イオン飲料で過ごして消耗した体では買い出しに行くこともままならず、手軽だしさっぱりしていて当座の体力回復にちょうどいい、喉を渇かせた人にみかんを渡す昔話もあったし、と皮をいて口に入れた直後、トイレに駆け込む暇もなく胃液ごと戻した。
 吐くこと自体が珍しかった上に、飲み込んだばかりのものが嘔吐おうと感を覚えるまもなくポンプのように出てきたのが衝撃だった。そのことが忘れられず、職場に復帰した後、体調を確認してきたオーナーに「みかんが悪くなっていたんですかね」となにげなく話したところ、当たり前でしょ、とあきれられた。八並さん、彼氏の看病とかしてあげたことないの?
 ネットで「みかん 消化に悪い」と検索したら、たしかに書いてあった。薄皮が消化に悪い上に、クエン酸が胃の粘膜を刺激するらしい。ただ同時に、ペクチンが消化をサポートするという情報もあった。彼氏の看病はしたことがないが、実家で風邪を引いたときには母親が缶詰のみかんを出してくれた気がする。だいたい、あんな無害そうな食べ物にそんなリスクがあるなら、もっと大々的に伝えてくれてもいいのに。
『さつまいもは5分以上レンジで加熱すると急激に水分が蒸発し、マイクロ波の摩擦熱によって爆発的に燃焼するおそれがあります』
 いまだって、中が黒焦げになったオーブンレンジを前に「さつまいも 電子レンジ」、そして「火事」まで加えて検索しないと、ここまで核心に迫る情報は出なかった。しかも五分、と青は困惑する。たった五分で焼きいもが作れると思う人いる?
 栄養のことはそこそこ勉強したはずなのに、なんで感覚がこんなに正解とズレているんだろう。なんでも書いてあるインターネットでも一層下に潜っているような情報を、いつみんなは知るの? どうして私だけ、取りこぼされたみたいになにも知らないの?
 青がおそるおそる戻った504号室は、思ったほどひどい様相ではなかった。ドアも壊れていなかったし、火の焦げあとも目につかない。電子レンジを開けて真っ黒になった内壁と炭化した塊を見なければ、なにも起こさなかったような顔で暮らせてしまいそうだった。
 こういうの、処分しないんだな。証拠品だから? 勝手に捨てると証拠隠滅になるのかな。
 もはや自分の判断を信用できず、青は炭になったさつまいもをいったん放置して、狭い室内を見て回った。疑うわけではないが、他人、それも異常を点検する目が入った空間で、あるかもしれない欠損を無視してくつろぐ気にはなれなかった。
 玄関から入ってすぐの場所にあるキッチンは狭い。勤務先だったジムと提携していた会社のプロテインやサプリメントが場所を圧迫しているせいもあって、調理器具も最低限しか置いていなかった。冷蔵庫にも納豆やヨーグルトくらいしかない。そこまで確かめられた可能性は低いが、このキッチンで満足できる人間とは一緒に食事をしたくないな、と他人事のように青は思う。外で美食を楽しんでいるふうでもなく、いかにもあるもので適当に済ませている感じがする。シンクには、朝食がわりのプロテインを飲んだシェーカーが放置されていた。
 左手の扉を開けると洗面所と一体型のトイレ、そして浴室。薄暗いし洗面ボウルが浅くて水跳ねがひどく、最近は洗顔も歯磨きもキッチンのシンクで済ませてほぼ使っていない。そのせいか、どこかうらぶれたような雰囲気が漂っている。奥の部屋は間取りによると八畳ほどだが、無理やり作ったバルコニーが室内にせり出しているせいでより狭く感じる。壁際の凹凸に寄せたベッドは起き抜けのまま、パジャマも脱いだときの形で床に落ちていた。窓の前にかろうじて確保した運動用のスペースには、ダンベルやフォームローラー、バランスボールといった健康器具が散らかっている。その様子が妙にこれ見よがしに思えて、青はそれらを回収してクローゼットにしまった。バランスボールだけは部屋の隅に寄せ、その上に腰を下ろす。
 テレビ台と一体になった棚は、いまだに資格試験の参考書やオーナーに推薦された自己啓発本で大半が埋まっている。小さなソファには洗濯物が積み重なったまま、勉強も食事も身支度もするせいでどれにも集中できないローテーブルにはマグカップやリモコンが散らかったまま。出がけに寝癖を直したヘアアイロンは、コンセントに挿しっぱなしでラグに転がっていた。スイッチを切り忘れていたらここから火が出てもおかしくない。自分でも一瞬ぞっとしたのだから、安全確認に入ったプロからすればなおさらだろう。ほら見ろ、こんな部屋でこんな生活しているからだよと、無駄足を踏まされたことに舌打ちくらいはしたくなってもおかしくない。
 つまんねー部屋。趣味も友達も少なそう。頼まれても遊びに来たくない。
 青は長い溜息をつき、それを途中から腹式呼吸に変えて、バランスボールの上で両膝を抱える。体幹と両手でバランスを取りつつ曲げた足をゆっくり、三秒かけて爪先までぴんと伸ばしたら、同じように三秒かけてゆっくりとまた膝を曲げる。その動作を十セット。
 実家にいたときから、悪い考えがよぎったらトレーニングを始めるのが癖になっている。立ち止まる暇があれば体を動かせ、という父からの教えは、もはや青の体の一部と化していた。筋肉の感覚に集中するために目を閉じると、学生時代に戻ったような心地がする。
 群馬ぐんまの実家にある青の部屋は、いまでも母の手でこまめに掃除されている。ただ、実際に帰ったことは数えるほどしかない。大学二年の夏、そこは青の居場所ではなくなった。
 大会目前に腰の肉離れでドクターストップがかかり、初めて盆休みに帰省した。荷物を置きに一歩部屋に入ると、壁際のチェストにこれまで獲得した賞状やトロフィーが並んでいた。小学生は体力勝負の側面が大きく、競技も大会の規模も見境ない。マラソン、ハードル走、立ち幅跳び。中学から高跳びに専念するようになり、表彰品の物々しさも増していく。
 振り切るようにベッドに寝転がった視界に入ったのは、高一の正月に書き初めをして、そのまま天井に貼っておいた「一念通天」の半紙だった。生まれた日の空が綺麗だったという理由で父がつけた名前を、青は嫌いではなかった。ただ、違う名前にしてくれていたら、こうやって体が壊れるまで空に憧れるように跳びつづけることはなかったかもしれない。そう思った直後、そんなことしか考えられない自分が心底嫌になった。
 十セットの腹筋を終えて目を開けると、カーテンの裾がかすかに揺れていた。
 立ち上がって覗くと、半開きのカーテンに隠れて窓がわずかに開いている。もしかして警備会社なり消防署なりの人が、ここから入って安全確認をしたからドアが壊されなくて済んだんだろうか。だとしたら自分のだらしなさも少しは救われる、と思いつつ青は窓を施錠し、カーテンをひたりと閉め直した。
 この部屋で唯一、悪くないといまの青にも思えるものがこのカーテンだった。パフォーマンス向上には睡眠の質が大事だと、実家にいたとき父が選んでくれたオーダーメイド。色はスカイブルーと白いレースの二枚組で、ひとり暮らしを始めるにあたり、新調するのはお金がもったいないし女性的なものは安全上使うべきではないからと、母親が仕送りの段ボール箱の底に敷き詰めて送ってきた。いまの部屋には寸足らずで隙間から光が入るので、一級遮光の効果も半減しているが、捨てる気にはなれない。
 スマートフォンを開くと、母親からLINEが届いていて指先が冷えた。賃貸借契約の保証人になってもらっている以上、トラブルの連絡が行ったとしてもおかしくない。確認したくなかったが、先送りにしてもこじれるだけだということは退職のときに経験済みだ。
 おそるおそる通知をタップすると、予想に反し、実家の食卓の写真が表示された。
『今日はさつまいもごはんにしました この時期食べられるの嬉しいねー早生の品種だけどちゃんとおいしかったので青も作ってみてください 食べちゃったならまた送ります』
 シンクの下に放置した、母親から送られてきた段ボール箱を思って青はまた溜息をつく。実家で風邪を引いたとき、みかんの缶詰を出してくれたはずの母に「さつまいもってレンジで調理できないの?」と送ったらどう返されるか知りたい気もしたが、一ヶ月も経たずにあの量をひとり暮らしの青が「食べちゃった」と本気で心配している母にそんなことは訊けない。
 実家にいると、青は自分を好きでいられない。
 もともと大好きではないにせよ、嫌な面や欠けた部分だけが目につく。上しか見ていなかったころの自分しか知らない人ばかりの地元にいると、青はいまの自分を、彼らの澄み渡った想い出に影を落とす雨雲のように感じる。過去を励みに未来へ進めるのは、戻れなくてもかまわないほど現在が満たされた人間だけだと彼らに伝えないことが、せめてもの恩返しだと思っている。

 コンビニのイートインでプロテイン入りのゼリー飲料を摂り、帰ってポストで郵便物を選り分けていたとき、青はビラ廃棄用のカゴの中に封筒を見つけた。
 一見ただの白い長封筒だが、郵便番号と宛名の記入欄が淡い墨風の線で縁取られている。茶封筒だとダイレクトメールと区別ができないと思い、近所の書店の文具コーナーで青が自分で買った。中にはセットの便箋に手書きして、コンビニでコピーした謝罪文が入っている。
 封筒の上に宅配ピザのチラシを被せると、持ち帰るべき郵便物はなくなった。ロビーの角を曲がるとエレベーターの扉が開いていて、たまに乗り合わせる学ラン姿の男の子が待っている。太くなりはじめた首にヘッドホンを引っかけた彼は、青が急いで「すみません」と入っていっても階数パネルから視線を上げない。
「何階ですか?」
 変声期は終わっていそうだが、口調はその低音を持て余すようにあどけない。一瞬迷ってから青が「四階で」と答えると、彼はいぶかる様子もなく「4」と「3」のボタンを押し、続けて素早く「閉」ボタンを押した。そうだよな、と青は安堵する。私がいつもは五階で降りることなんてこの子はきっと興味がないし、それが普通だ。さっきの封筒はこの子が捨てたのかな、と思わず手元を見たが、ちょうど大きなスポーツバッグに隠れていた。
 エレベーターが三階に着くと、中学生はわずかにこちらに顎を向け、会釈らしき動作をして降りていった。たとえいまが遅い時刻でも、たぶん彼は「おやすみなさい」とは言わない気がする。所在なげな様子に共感しているうちにふたたび扉が開き、青は五階と同じ設計にもかかわらず、間違い探しのようにも思える四階の廊下に吐き出された。
 403号室のドアを開け、こんにちは、とつぶやきつつ靴を脱いでリビングに入ると、キッチンカウンターに大量のパンが並んでいた。どれも個別に包装され、スーパーの半額の値引きシールが貼ってある。青が目を丸くしていると、並べたであろう張本人がパンから顔を上げて「あ、ちょうどいいところに」と言った。
「お邪魔します。これ、どうしたんですか」
「さっき、後先を考えずに買ってしまいました。お昼がまだなら、一緒にいかがですか」
 403号室の主のことを、青は内心で「あるじさん」と呼んでいる。
 しばらく部屋の一角を貸してほしいと頼んだ日、とっさに「部屋の主さんをさしおいて……」と青が口走ったところ、真顔だった彼女がふっと顔をほころばせ、「いいですね、星新一ほししんいちの本の登場人物みたいで」とつぶやいた。青はその作家の本を読んだことはなかったが、共通の暗号ができたようで少し嬉しかった。二度目に訪ねたときに部屋番号の下の表札が空いているのも確認したので、なんとなく、あらためて名前を訊くのがはばかられたのもある。
 翌日、インターホンを鳴らすと「あるじさん」がすぐ出てきて、真面目な口調で「スリッパがなくてすみません」と言った。おかまいなくと答えつつ、変なやりとりだと青は思った。裸足で床を歩かれて、構うことがあるなら相手のほうだ。あるじさんは続けて「入るとき呼び出さなくていいですよ」と言い、青がたじろぐと「私がいるときは開いているので、声をかける必要もありません」と続けた。あまり反論して「じゃあ来なければいい」と思われても困るので、青はどうにか、あるじさんにとって自室以外はロビーと同じ、共有空間という認識なのだと自分を納得させるように努めた。
 それから一週間、本当に毎日通っている。さすがに常識的な時刻でないと気が引けるので、昼下がりに行き、防災放送を合図に切り上げる。そうすると少なくとも、浴室から出てくるあるじさんに挨拶してから帰ることができた。自炊をしないのか、キッチンにいるときはたいていお茶か水を飲んでいたから、日頃なにを食べているのかと疑問ではあった。
「すごい種類ですね。どこで買ったんですか?」
「ここから二十分くらいの場所に、朝一で前日のパンを値引きするスーパーがあるんです」
「へえ、知りませんでした。いつも駅のほうにしか行ったことなくて」
「この辺りの方はみんなそうですよ、あっちのほうが近い上に、品数も豊富で安いから。どれにします?」
 遠くて品数も少なく安くもないらしいスーパーにあなたはなぜ行くのか、と青が訊く前に話は変わった。逸らされたというより、そこに大事なものなどないと言わんばかりの気まぐれな方向転換に、青はようやく少し慣れつつあった。
「……じゃ、ナポリタンコッペをお願いします」
「おいしいですよね、私も好きです」
「え、じゃあ、一個しかないのに悪いです」
「いえ、今日の気分は別のものなので」
 そう言ってあるじさんが手に取ったのは「ごろごろさつまいも蒸しパン」だった。青が言葉を失っていると、視線に気づいたのか「切り分けましょうか」と神妙な口調で言う。
「大丈夫です。学生時代に食べすぎちゃって、むしろ苦手なんです、さつまいも」
 あわてて口にしてからすぐ、相手の好物を否定しなくてもいいのに、と後悔した。私はいつも、肝心なときに場をしらけさせてしまう。
「それならよかった」
 あるじさんは気を悪くするどころか、そう答えるやいなやいそいそと袋を開けだした。青は拍子抜けする。この人は、人の言葉も文字どおりにしか受け取らないらしい。
「さつまいも、お好きなら今度持ってきましょうか。うちに大量にあるので」
「この季節に珍しいですね」
「そういう品種だそうです。実家からふるさと納税の返礼品が送られてきた、というか、私のために選んだみたいで。たしかに実家にいたころは年中食べてましたけど、当時はまだ十代で陸上をしていたから、腹持ちのいいものが必要だったんです。いまはそうじゃないから、箱いっぱい送られてきたときは正直絶望して」
「絶望するほど多いんですか」
 真面目に訊き返されて、青は力なく笑った。
「単純に持て余すのも、そうですけど。思い知らされる気がして。親にとっての私って、毎日さつまいも食べても余りあるくらいカロリー使ってたころで止まってるんだなって。いまの私は、余生っていうか、亡霊みたいに見えているんだろうなって」
「私は昔、生クリームが好きでした。ボウル一杯食べるのが夢でした」
 あるじさんは黄色い蒸しパンの、いちばん多くさつまいもが載った部分を残して四方をちぎりながら言った。
「それは、なんというかだいぶ、甘党なんですね」
「昔の話です。ただ、いまここでボウル一杯の生クリームを出されたところで、胃もたれする自分を亡霊とは思いません」
「……ごめんなさい」
 青が思わずつぶやくと、あるじさんは「え?」と心底不思議そうな声を出した。
「いい歳して親の悪口とか、大人げなくて」
「悪口ではないですよ。話も聞かず好きでもないものを送られたら、困るのは当然です」
「そうでしょうか」
「ただ、逆に考えれば私も、親がいま好きなものなんて把握していませんから。思い出を基準に選びたい気持ちも少しはわかるかも。いずれにせよ亡霊の決定打にならないので、そんなふうに感じる必要はないと思います」
 ナポリタンがパンの端からこぼれ、青はあわてて反対側の手で受け止めた。ケチャップに染まった手を持て余していると、カウンターの上をウェットティッシュが滑ってくる。
「さつまいも、処分のめどはあるんですか」
「いや……料理も苦手だし、お裾分けのあてもなくて。ひとり、友達が欲しいって言ってくれたので、今度遊びに行って渡すことにはなったんですけど」
「いいお友達ですね」
「はい。私、人付き合いも苦手だから、その子が唯一の親友っていうか」
「そうなんですか」
「ずっと陸上しかしてこなかったので、怪我でやめてから、高校までの友達とはなにを話したらいいかわからずに疎遠になっちゃって。大学でも浮いてたんですよね、初対面の相手と仲良くなるとか、私、そういうの得意じゃないから」
「そうなんですか?」
 一瞬、ナポリタンコッペの最後のひとかけが喉に詰まる心地がした。さっきまでと違うイントネーションは、あるじさんにはそう見えない、という意味だろうか。
「はい。とくに、大勢の輪に溶け込むのが苦手で。変な空気にしちゃうんです。その友達と初めてちゃんと話したときも、私、寮のみんなとやった人狼の最中に泣いたんですよ」
 思い出しただけでも耳が熱くなるが、あるじさんはとくに驚いた様子もなく首を傾げただけだった。そもそも「人狼」というゲームにぴんと来ていないのかもしれない。
「ひとりを責めたり、騙したり、自分のせいで人が『処刑』されたりする感じに耐えられなくて、ガチで涙が出ちゃって。先輩に『なんで? 遊びじゃん』って引かれて、そうだなーってますます落ち込みました。みんな決められたルール内で真剣にやっているだけなのに、なんで私はひとりで素に戻って、みんなが作った空気に水を差しちゃうんだろうって」
「その場はどうなったんですか」
「先輩に気に入られていた同級生が、いきなり『なんてピュアなのー!』って私に抱きついて頭を撫でてきました。彼女が『この子は「赤ちゃん」だから話し合いは免除でーす』って宣言するから、興ざめしてた先輩も『そんな役職ねーから』って笑って、みんなも笑って……その同級生が、今度会う子です」
 よかったです、と、まんざらお世辞でもなさそうにあるじさんがつぶやいた。
「いま思えば、あれで私に現実にも『役職』ができたんです。こいつは『赤ちゃん』だからしかたないって。本当にピュアなわけじゃなくて単にゲームの雰囲気に慣れなかっただけだし、彼女もみんなも、そんなことはたぶんわかってるんですけど」
 ちなみにその子は人狼めちゃくちゃ上手かったです、と青が言うと、あるじさんは納得したように「そんな気がします」と答えた。
「その後もずっと私を気にかけて、遊びに誘ったり、自分の友達を紹介したりしてくれました。最近は、彼女のほうが結婚式の準備で忙しくて会える機会は減っていたんですけど」
「久しぶりに会うのが楽しみですね」
「そう、ですね。でも緊張もします。幻滅されたらどうしようって」
「幻滅?」
「そう……同い年の子が結婚なんて大きな決断をしたのに、自分はなにをやっているんだろうって、つい考えちゃうんです。この子はこれからますます世界が広がっていくけど、私はそうじゃない。自分だけずっと同じ場所で足踏みをしていて、周りはその歩数のぶんだけ、遠くに行っているみたいな」
「あまり考えないほうがいいですよ」
 あるじさんの手の中で、蒸しパンは中央を残してひと口大の小ささになっていた。
「すみません。そうですよね、こんな嫌なこと考えないほうが」
「楽しみな予定も、決まったとたん憂鬱ゆううつになることはあります。強引に理由をつけたら脳がそれを真実と思い込んで、必要以上に悪い価値をつけてしまうので。自分を責めずに、現象として流したほうが楽ですよ。友達と会う前の憂鬱も、家族への違和感も」
 あるじさんは蒸しパンの最後の一片を口に入れ、名残惜しそうに飲み下してから、次のパンに手を伸ばした。迷いなく取ったのは青の顔ほどもあるシナモンデニッシュで、蒸しパンも小さくはなかったのに、本当に甘党なんだなと青は感心する。見ているだけで胸焼けする反面、ナポリタンコッペが収まったはずの胃にはさらなる余裕を感じた。昼に行ったコンビニでは、自分の食べていいものなどひとつもないような気がしたのに。
「たまごサンドも、頂いていいですか」
「どうぞ。甘い系も一緒にどうですか、パズルの糖分補給にでも」
「いや、大丈夫です。私、甘いものを食べるとすぐに眠くなっちゃうんですよ」
「そうですか。では、好きなものがあれば帰りにでも持っていってください」
 そこからは、ぽつぽつととりとめのない話をした。青のパズルの進捗、あるじさんが浴室で読む文庫本の内容(有名なSF小説で、冒頭ばかり繰り返し読んでいるので進まない)。青がいるあいだあるじさんが部屋でなにをしているのか、極端に物が少ないのはどうしてなのか、そういうことは訊かなかった。無害な距離にいる添え物のような存在として、少しでもここにいられる時間を引き延ばしたかった。

 大学生活を過ごした寮の部屋には、当然もう青の痕跡こんせきは残っていない。ただ、同じ時期に在学していた卒業生のSNSを見れば、人生で初めて髪を染め、バイト先のまかないで増量した青の写真が残っている。陸上を引退して絶望していたはずなのに、仲間とタコ焼き器を囲んだりジョッキを掲げたりする表情には、せいせいしたと言わんばかりに一ミリの曇りもない。
「あれ、この写真……」
「あーそれ? いちおう現像したんだけど、やっぱり変かな」
「ううん、懐かしいなと思って」
 ひとり暮らしにもかかわらず、奈菜ななの部屋にはローテーブルやナイトボードとは別に、二人掛けのダイニングテーブルがある。そのテーブルにはいま、結婚式のスライドショー用に現像したという写真が散乱していた。青もよかったら選んで、と促され、キッチンでお茶を淹れる奈菜を待ちながらめくっていた中に、年季を感じる粗い画質の一枚があった。
「若いよねー、二年? 三年だっけ」
 ねー、と青も調子を合わせたが、内心では奈菜が正確な年を覚えていないことに驚いていた。大学二年の正月だ。
 奈菜が親しくしていた先輩の彼氏の部屋で大みそかに集まり、飲み会の後に初詣に行った。青自身も、両親には風邪を引いたと言って帰省をキャンセルして参加した。写真は神社に向かう途中、夜の道路で新年を迎えた瞬間にジャンプしたときのもので、ひとりが着地に失敗して尻餅をつき、ほかの全員が笑う瞬間が切り取られている。青自身も口を大きく開けて笑っている。あまりにばかばかしかったせいで、転んだ友達の姿勢が、自分の選手生命を絶たれた転倒とそっくりだと気づいてもいない。
「参加したの、こんなに少なかったっけ」
「映ったときに気まずくなりそうな人は消してるから」
「そんなことできるんだ」
「簡単だよー、最近のアプリは性能いいし」
 奈菜は人差し指で液晶を撫でるジェスチャーをした後、じっと写真を見ている青に気がついて心配そうに眉をひそめた。
「ごめん、嫌なこと思い出させたかな」
「いや、そんなことないよ」
 そう答えたのは、本心だった。奈菜に誘われて行ったその会は、親に嘘をついた罪悪感を忘れるほどいい思い出とはたしかに言えない。初めてのお酒はまずくて頭痛がしたし、夜の神社で酔っ払いが喧嘩していて怖かった。さらに、奈菜の先輩の彼氏が青の「清楚な感じ」をなぜか気に入り、しつこく連絡してくるようになった。人狼のときから青をよく思っていなかった先輩は、青のほうが恋人を誘惑したと信じ込み、ほかの寮生にまで吹聴したらしい。そのせいで、一時はただでさえ肩身の狭い寮にますますいづらくなった。
 ただ、奈菜の写真を見ると、それも含めて価値ある時間だったような気がしてくる。
「本当に大丈夫? 披露宴。青、優しいから無理して来ようとしてない?」
「ううん。招待してくれてすごく嬉しい」
「それならいいけど……ごめんね、向こうの参列者と人数を揃えるとなると、サークルの人とか呼ばないわけにいかなくてさ。本当に好きな相手だけ、招待できればいいのにね。あ、でも、もちろん例のヤツは来ないから。そもそも先輩ともとっくに切れてるらしいし」
「全然、私にまで気遣わなくていいよ」
 そう答えつつ、いまさら心配される理由が青にはぴんと来なかった。奈菜の交友関係が広いのはいまに始まったことではないし、どこにも属さない青をそれでも招待してくれた気持ちを思えば、殴られるわけでもあるまいし、親しくない相手と気まずくテーブルを囲む程度は欠席の理由にならない。
「現実でも写真みたく、いらないものは簡単に消せたらねー。もうすぐ引っ越すから少しずつ断捨離してるのに全然はかどらなくて。いまミニマリストとか流行ってるけど、人間ってそんな簡単じゃないじゃん? ああいう人たちって要は、プレゼントされたものとか思い出の品も好みじゃなければ手放してるんでしょ。損得しか頭にないって感じで、ちょっと薄情だよね」
 青は思わず写真から顔を上げた。
「成仏……」
「ん?」
「ごめん、なんでもない」
「ああ、違うよ。青のことはそんなふうに思ってないから」
 奈菜があわてたように言ったので青は戸惑ったが、それ、と奈菜が青と自分の視線の間を指さしたことで理由に気がついた。キッチンカウンターに置かれた和菓子屋の袋には、和菓子ではなく青が持ってきたさつまいもが詰めてある。
「それだって、私のほうからもらうって言ったんだし。てか、青の親って相変わらず自己中だね。話も聞かずにいらないもの勝手に送ってくるとか、もはやテロじゃん」
「あー……まあ、逆に考えれば私も、親がいま好きなものなんて知らないから」
「もー、青もそういうとこ変わらないね!」
 話も聞かずに物を送られても困る。あるじさんが言ったことと同じだ。それなのになぜか、あのときと同じように「わかってもらえた」という気は、少なくとも奈菜と出会ったばかりのころほどには起こらない。
 奈菜がお茶を運んでくる。こっち、と軽く顎でローテーブルを示され、青は初詣の一枚をなんとなく持ったまま、マリメッコのクッションが置かれたソファに移動した。
「ミニマリストって、冷たいのかな」
「え、青もなりたいの?」
「いや、最近知り合った人がそうっぽくて」
「ま、綺麗好きなぶんにはいいんじゃない。子供がいるわけでもないんだし」
 こども、と青が復唱すると、奈菜は隣に座りながら「え」と目をみはった。
「そういう話じゃないの」
「そういうって、どういう」
「いい感じの人がミニマリストっぽいけど付き合っていいか、的なことじゃないの」
「ああ違う、同じマンションの女の人」
「えーなんだ、真面目に考えて損した」
 ごめん、ととっさに答えてから、なにに謝ったのだろう、と自分で思う。考える前に奈菜が「同じマンションだから仲良くなるとか、いまどき珍しいね」と話題を変え、たとえ形式的でも話題に乗ってくれた彼女に謝意を示すべく、青は予定より深い説明をした。
「仲いい、のかな。具合悪いとき休ませてくれて、それからちょっと遊びに行くように」
「相手の部屋に? なにしてんの、ふたりで」
「ふたりで……は、べつになにも」
「なにそれ。え、まさか勧誘とか?」
 恥ずかしい話をしていることにいま気づいたとでもいうように、奈菜は声をひそめた。
「そういう感じじゃないよ。普通の人だし、なにもしてこないし」
「そこが怖いんでしょ、宗教やマルチだったらどうすんの? 青、昔から変な相手から目つけられやすいじゃん。見るからにおとなしくて抵抗しなさそうだから」
 断言されて、青はあるじさんの不思議そうな「そうなんですか?」を思い出す。奈菜とあるじさんとでは付き合いの長さが違うし、こちらのほうが正解のリアクションだと頭では納得しながらも、なんの色もついていないあの言葉が忘れられなかった。
「ご近所トラブルみたいのがあったとき、助けてもらったの。それで居心地よくなって」
「居心地って同じマンションでしょ。えっ、やっぱ男?」
「そうじゃなくて……」
 返事にきゅうしながら、青はあらためて、自分が403号室に通っていることの道理のなさを思い知る。奈菜は大学時代からの友人、そして社会人として当然の疑問を述べているだけだ。
 まともな人は私みたいに思わない、と青はうなだれる。ましてや我ながら「知らんがな」で済まされそうな弱音をあっさり承諾するあるじさんは、やっぱりまともではない。
 奈菜は釈然しゃくぜんとしない様子だったが、青が珍しく折れないのでやがてしかたなさそうに「ふーん」と言い、布のティーバッグで淹れた紅茶を飲んだ。昔から奈菜がよく飲んでいた銘柄で、「子供のころから紅茶といえばこれ」らしい。飲み物は水分と栄養補給をするものという価値観で育った青は、一気飲みを許さない香りの強さと高額な値段に驚いた覚えがある。
「私が一緒に行って、ミニマリスト氏の真意を確かめてあげよっか」
 いやっ、と存外強い拒絶が出たことに青は自分で焦り、ありがとう、と急いで付け足す。
「奈菜にこれ以上、迷惑はかけられないよ。ただでさえ式の準備で忙しいんだから」
 言葉を足すうちに拒絶感が遠慮にすり替わっていくことに安堵しつつ、自分が詐欺師になったような気もした。
「その節はごめんね、親のこととか彼氏のこととか、青にいっぱい愚痴聞かせて」
「ううん、全然。私はただ聞くだけで、役に立つアドバイスとかできなかったし」
「いいよー、青にそんなの求めてない! 黙って聞いてくれれば自分で立ち直るから」
 邪気のない笑顔ではっきり言い放たれて、青は一瞬言葉に詰まった。
 十代を陸上に捧げ、人間関係の構築が苦手なまま成長した青にとって、奈菜は同世代の「普通」を教えてくれる数少ない相談相手だった。一方的に三角関係に巻き込まれたときだって、奈菜がうまくとりなしてくれなければ休学も検討したかもしれない。そのぶん、奈菜が頼ってくれたら恩を返したかった。仕事で疲れて帰った深夜に「電話していい?」とLINEがあっても、別れると宣言したはずの男とよりを戻した三日後に再放送の愚痴を聞かされても、彼女のためになるなら文句は言うまいと思った。
 奈菜にとって、それらはすべて「自分で立ち直った」だけだったらしい。
「……奈菜は私がなにか相談すると、毎回ちゃんとアドバイスしてくれたよね」
「青は私の『赤ちゃん』だもん。ていうか、当然のことしか言ってないし! 家族にせよ職場にせよ、青の周りには昔からヤバい脳筋が多すぎなんだよ。体育会系って怖いわー」
 あっさりと古傷を開きながら、奈菜は淡い色のグロスを塗った唇を尖らせる。
「私、青があのジムあっさり辞めたのまだ納得してないからね。お客さんがいなくなったのはあっちの不手際なのに、青の人間性が原因だったような言い方してさ。ちゃんと出るとこ出れば不当解雇で訴えられるよ」
「うーん……それよりは、早く気持ちを切り替えたかったから」
「もー、うちの『赤ちゃん』は本当にピュアだなあ! 親のことといい、あのふざけた男といい、そういう優しさに付け込む奴がいるんだからね?」
 奈菜の手が青の頬を挟み、気をつけなよー、と上下に揺すってくる。これは昔から奈菜がよくする動作で、青の話を「もうおしまい」と切り上げるときの癖だ。だから今回も、逃げることを選んだのは「優しさ」ではない、という説明は奈菜には聞いてもらえない。あの人狼から五年以上の月日が過ぎて、みんなとっくに新しいゲームを始めているのに、青だけがずっと「赤ちゃん」の役職を続けている。
 奈菜は間違ったことは言っていない。現に青自身、家族や職場、それらの象徴する体育会系の風潮にうっすら居心地の悪さを覚え、その多くを飲み込んできた。それなのにこうして激しい表現で言語化されると、抱くべき感情を先取りされたようで心の所在がわからない。自分なりにいろいろ考えた末に辿り着いたはずの諦念や需要は、奈菜から見れば、すべて世間知らずな「赤ちゃん」の見当違いなよちよち歩きだという気がしてしまう。
「……みんな、そこまで悪い人たちじゃなかったよ」
 弱々しい青の弁明は「だからたちが悪いんじゃーん!」とあっさり遮られた。
「悪気なく善意を押しつけてくるのが、いちばん最悪じゃない?」
 なんか、疲れるな。
 悪気がないからたちが悪い、という奈菜自身の言葉が図らずも、青が目を逸らしていた本音をふたりの間に引きずり出す。奈菜はいい子なのに、一緒にいると疲れる。
 現象、現象。
 あるじさんに言われたことを心の中で復唱しながら、帰りたい、と青は渇望する。自分の部屋ではなく、403号室に。あのまっさらな部屋で、あるじさんに思いの丈をぶちまけて、よくあることですよ、とでもあっさり言われたい。ほかの人の「よくある」は「だから我慢しなさい」という直截的な毒、あるいは「だから忘れなさい」という効きすぎる薬のように全身に回るが、あの人の言葉には雑味がない。単純な事実として受け取れる。

 403号室に行くとき、青はスマートフォンを持って行かない。テレビも時計もないので防災放送だけが時間を教えてくれる。そのぶん、逆にこれが聞こえるまでと決めることで雑念を忘れて集中できた。たまにあるじさんが物音を立てるだけの部屋で、真っ白な千ピースの断片と向き合っていると、心がゆっくりといでいく気がした。
 今日はどうしても、いったん気を静めてからでないとひとりになれない。その一心で、青はいったん帰ってから荷物を置き、部屋に余っていた羊羹の袋にさつまいもを詰めて玄関から出た。エレベーターを待つのももどかしく非常階段を駆け下り、その勢いで廊下を進み、403号室の玄関を通り抜け、リビングを突っ切って奥の部屋の引き戸を開ける。
 そして、その場に立ちすくんだ。
 深緑色のヨガマットの上に、顔をハンカチで覆った女性が大の字で寝ていた。
 腹を見せる猫のようにくつろいだその様子は、むしろ青の恐怖をあおり立てる。引き戸を開ける音にも午後五時を告げるチャイムにも反応せず、深い睡眠に入っているらしい。まるで自分の家みたいな態度だ、と青は思う。
「こんにちは」
 ぎぎ、と声のほうに首を向けると、あるじさんが本を片手に近づいてくるところだった。
「お友達ですか」
「いいえ。このマンションの人です」
 青が続きを待っているのを見てあるじさんは少し考え、ああそうか、と言わんばかりに「401の」と付け足した。そうじゃなくて、と言いかけて青が飲み込んだのは、まさに自分も彼女にとって、「このマンションの人」以外の何者でもないことを思い出したからだった。
「具合でも悪いんですか」
「最初はそうだったみたいです」
「なにか、込み入った事情が」
「そういうわけではなさそうですよ。寝心地がいいみたいです、やっぱりそれ」
 あるじさんが指さしたのは、その女性が背中に敷いているヨガマットだった。一度役に立ったから処分すると言っていたはずのそれを、あるじさんは青が次に訪れたときも敷いたままにしてくれていた。床に座るだろう青への気遣いに思えて、見るたびにほんのりと嬉しかった。
 ううん、と女性が身じろぎした。
 伸びをしながら起き上がった拍子に、ハンカチが顔の上からはらりと落ちる。青はそれで初めて、彼女があの犬を連れたおばさんであることを知った。彼女はくしくしと手の甲で目をこすり、満足しきったようにふっくりと水気を含んだ顔で、はー腰痛い、とひとりごちて手を当てる。人んちで爆睡しといて図々しいな、と青は思い、すぐに自分も人のことは言えないと自覚して、私はこんな言い方しない、少なくとも家主の前では、と内心弁明する。
「よく寝たー。いつもありがとう、原田はらださん。そちらはお友達?」
「いいえ。このマンションの人です」
 今度は部屋番号ではなく「そのパズルの持ち主の」と付け加えて、あるじさん――原田さんは、ようやく輪郭がほんのり浮かんできた、壁際に散らばるミルクパズルを指さした。
 最初、青は帰るたびに未使用のピースを箱に片付けていたが、少しでも位置を変えると感覚が狂うと気づいてからは、そのまま置きっぱなしにさせてもらっていた。説明にならない説明になぜか相手は満足したようで、原田さんのじゃなかったんだー、とうなずいている。
「私もここの住人で、石川といいます。でも、どうして原田さんのおうちでこの方がパズルをしているの?」
 当然の疑問は原田さんに向けられているようで、その実、原田さんを経由して青に向けられていた。孤立したボウリングのピンでも倒すようなやり方に、青は言葉に詰まる。
「北側の方よね? 失礼ですけど、ご自宅になにかあるのかしら。ごめんなさいね、前もあったらしいんですよ。あちらはペット禁止なのにこっそり猫を拾って飼っていたとか、防音でもないのにドラムを運び込んで練習していたとか、話に聞いたものですから」
 キタガワの方、という不可思議な響きが、あの雨の日に聞いた「キタガワ」と結び付くまでには少し時間を要した。それがマンションの北側の部屋、つまり単身者用の賃貸物件、ひいてはそこの居住者を示すことに思い至るまでには、さらに時間を要した。
 そしてそれらが結びついた瞬間、青は寒気が走るのを感じた。青が引っ越してくる前からずっと、ここの住人は自分たちを線の外に置いていたのだ。しかも、本人の前でその呼称を口にできるくらい当然の権利として。
 イヤホンを外すよう忠告されたとき、青は疑問を抱きつつも、親切心ゆえの踏み込み方だと思っていた。そこが氷解したとたん、これまで抱いてきた違和感が一気になだれ込んでくる。青が先に乗っていたエレベーターに犬を連れて乗り込むとき、彼女はかならず、青と逆の方向にさりげなく犬をよけていた。
「ジムにお勤めだから、自宅に器材を置く関係でスペースが足りないそうです」
 淡々と説明したのは、ずっと黙っていた原田さんだった。
「そう。下に響くから、あまり飛んだり跳ねたりするのは控えたほうがいいと思うけど」
 そんなことはわざわざ言われるまでもなく、実家でも寮でも注意を払っていた。ただ、それを説明して許しをう気も失せた。
「大丈夫です、どうせクビになりましたので」
 今度は自分で答え、青は返事を待たずに家主に向き直って「突然お邪魔してすみません、用事を思い出したので失礼します」と、我ながら下手な言い訳と共に会釈した。マンション内で人とすれ違ったときにしている、相手の顔を見ない角度の会釈。
 手で払われた虫のようにさまよった視線は、原田さんの持っている本に一瞬だけ止まった。あらすじを聞いて青も興味を持ち、久々に勉強以外の読書に挑戦しようかと考えていたSF小説らしい。題名がわかってもいまさら買うことはないだろう、と思いながら、青はさつまいもの詰まった袋を持ってその場を離れた。

 二十歳まで、青にとって年末年始は実家で過ごすものだった。大学二年の冬、奈菜から大みそかの飲み会に誘われたときも、最初は考えるより前に断った。奈菜が「来たくないの?」と追及してくるとは思っていなかったし、そういうわけじゃないけど家族だから、親にも毎年帰ってこいって言われるし、という弁明に眉をひそめて「青のうちも毒親なんだね」と断定されたときには、怒るより前に衝撃のあまり返す言葉を失った。
「家族だから一緒にいろとか、仲良くしろとか、強制される時点で呪いだと思う」
 比較的厳しい校風の中、寮生でいち早く髪をブリーチし、軟骨も含めて左右で三つのピアスを開けた当時の奈菜は、青から見れば自由と革命の象徴も同然だった。そんな彼女に「うちもそうだから、わかる」と確信を持ってうなずきかけられると、それまで考えたこともなかったにもかかわらず「本当にそうかもしれない」と思えてきて、陸上をやめてからというもの実家に帰りにくいという、なかったことにしていた感情までつい吐露してしまった。
「そんなふうに感じさせられるのって、親がありのままの娘を愛していない証拠じゃない? 陸上選手じゃない自分に価値はないって娘に思わせてる。自分が自分じゃなくなる、一緒にいると自分のことを好きになれない、そういう相手からは、勇気を出して逃げるのも大事だよ」
 その日の夜に青は母親に電話をかけ、風邪を引いたから年末は帰れないと嘘をついた。
 大学時代は、青の行動範囲がもっとも広かった時期だ。その記録が克明に残っているのが当時から精力的にSNSをやっていた奈菜のインスタで、青の水着姿もハロウィンのメイド姿も地層深くにある。何気ない、ややもすると黒歴史になりそうな瞬間を「青春の一ページ」に演出するのが上手い奈菜の写真の数々を見ていると、その前後にどんなことがあったとしても、けっきょくこの瞬間が残ったならよかったかもしれないと思える。
 些細な違和感や不快感など、どうせじきに忘れる。傍目はために楽しげな瞬間を残しておきさえすれば、見返したときに「楽しそう」と思い、そこにおぼろげになった事実の記憶を重ねることで、そこから「楽しかった」という感情が生成される。
 403号室から帰った後、少しだけ休むつもりでソファに横たわり、次に目が覚めたときにはもう外は暗くなっていた。無駄な睡眠の後特有の体の重さを感じながら、この感じが嫌なんだよな、世界で自分だけが時間の流れに置いて行かれたみたいで、と青は思う。いままで、普通の人が普通に重ねた時間にどれくらい乗り損ねたのだろう。確認するためにスマホを手に取ると、まもなく日付が変わるところだった。
 ついでにLINEを開いたが、帰りの電車で送ったメッセージに対する奈菜の返信はなかった。いつもレスポンスが速く、スタンプひとつでも返してくる彼女には珍しい。どうしたんだろう、とふいに疑問を覚え、インスタグラムで奈菜のアカウントにアクセスする。
 青は個人名義のSNSを持っていない。珍しい名前だから、その気になればだれでも探れると思うと気が進まなかった。奈菜のアカウントも非公開かつ匿名のアカウントでフォローしていて、いまだに眠れない夜や気だるい昼下がりには、投稿をさかのぼって昔の自分に会いに行く。
 奈菜の部屋で見た写真が、彼女が思うよりずっと青にとって身近だったのはそのせいだ。いつでも振り返れる思い出さえあれば、人生に価値があったように思える。
 大学時代の友達が結婚の前祝いをしてくれましたぁ😊やっぱり本当の友達といるとなんでもしゃべれるね💕結婚式は親や旦那の思惑もあるので(笑)今日は呼びたい人だけ呼んで食べたいもの食べてお姫様気分でした~!ここにいるみんなは私の宝物!愛してる‼
 奈菜は青の帰宅後に着替えたのか、日中の服とは違う白っぽいワンピースを着ている。白っぽい、と感じたのは、周囲が薄暗くて本来の色がわからないからだ。いかにも雰囲気のあるレストランらしい場所で、彼女の最新のフィードの一枚目である集合写真に映った人たちは、揃って白っぽいワンピースやブラウスやシャツを着ていた。ドレスコードなのかもしれない。場の中心で微笑む奈菜が抱えている花束まで白薔薇だ。
 SNSをやっているらしい友達は写真にタグ付けされ、直接そのアカウントに飛べるようになっていた。ほとんどが本人の顔に紐づけられているが、一枚だけ、ハイブランドの紙袋にリンクが貼られている。辿ってみるとすぐに、花束を持つ奈菜と頬を寄せ合う女性のセルフィーが出てきた。アカウントの持ち主らしい見覚えのある顔は、青が自分の恋人を奪ったと吹聴していた奈菜のサークルの先輩だった。
 今夜は大好きな後輩の結婚祝い!
 出会ってもう七年、昔からとても優しくて、困っている人を見たら放っておけない子。それはいまも変わらないみたい……これからは自分の幸せを最優先してほしいな。
@nana_lucky7 先輩、ありがとうございます😢主役なのに遅刻してごめんなさい💦
@risa_pon_dayo いいよ~事情聞いたら奈菜らしいと思った!でも優しすぎて心配!
@nana_lucky7 なんか話聞いてほしそうだったから放っておけなくて😢
@risa_pon_dayo ね~昔からそうじゃん!私はむしろ奈菜が心配だよ、これ見よがしにだれかなんとかして~ってオーラ出さずにひとりでがんばるタイプだからさ。ま、だからこそご褒美でいい相手に巡り会えたのかもね!これからは無理せずいっぱい旦那さんに甘えなよ~?
@nana_lucky7 ありがとうございます~💕私には何でも受け入れてくれる人がいて幸せです👍プレゼントしてもらったエルメスのお皿も大事に使いますね💕💕💕

 披露宴の話題になったとき「本当に大丈夫?」と気遣わしげにしていた奈菜に、喜色満面で答えた自分を青は殴りたい衝動に駆られる。奈菜がアプリを使って消したい「気まずい相手」は、先輩でもくだらない元彼でもなかったのだ。
 ――本当に好きな相手だけ、招待できればいいのにね。
 もうやめようと思うのに、指と目は頭を裏切って奈菜のフィードを追ってしまう。次の投稿も青が見た覚えのない写真で、温泉旅館で撮られたものだった。日付は先月。部屋付きの露天風呂でネイルを塗った脚を伸ばしたり、浴衣姿でグラスを掲げたりする奈菜の姿を見ててっきり婚前旅行かと思ったら、最後に旅館の入口で撮られた写真が現れた。人のよさそうなおばさんとおじさんが、奈菜を挟んでぎこちなく笑顔を作っている。
 久しぶりに親子水入らずで旅行!快く送り出してくれた彼に感謝です。じつは彼と結婚を決めた理由も家族を大事にする人だったからで……(ノロケじゃないよ!笑)
 親には厳しく育てられて反抗期もあったけど、おかげで大事なことが身についたし、全部愛情だったなって思います。やっぱり人として、家族は大切にしたい。あらためてそう思えた旅でした。今度は二家族で行きたいな💕

 青は写真をもう一度見て、これが奈菜の「あの」両親か、と不思議な気持ちになる。習い事のせいでテレビも見せてもらえなかったとか、学校で無視されたと相談したらおまえが悪いと言われたとか、奈菜からは彼らの愚痴しか聞いたことがない。ただ一方で、彼女は学生時代から一箱五千円の紅茶を常飲し、アルバイトをする暇も惜しんで精力的に遊びに行っては写真を撮り、結婚式の直前といういちばんお金がかかる時期に、おそらく露天風呂付きの部屋をとって温泉旅行をしている。お金を出すからいい親だとは限らないが、少なくとも写真の中の優しげな笑顔を見ると、そちらのほうがまだしも説得力がある気はした。
 奈菜は嘘をついたわけではない。勝手にインスタを覗いたのも、勝手に自分だけの味方だと思い込んだのも、勝手に彼女の意見を鵜呑みにして家族と疎遠になったのも、青がひとりでしたことだ。それに青のほうだって、自分のすべてをわかったような言い方をする奈菜を疎ましく感じ、少なくともしばらくは会いたくないと思った。孤独をまぎらわすためにさんざん甘えておきながら、もういいや、もっと理解してくれる人がいるし、と一方的に距離を置こうとした。そんな自分が、人とのつながりを保つためにしかるべき努力をしている奈菜に、どの口で文句を言えるんだろう? 彼女のために、写真映えする紙袋ひとつ用意しなかったくせに。
 青は顔を伏せたまま手だけを動かし、ほとんどスマホの画面を見ずにインスタグラムのアプリを削除する。そうしながら、明日、403号室に行って作りかけのパズルを回収しようと決めた。今度こそ、自分は、なるべくして迷子の雨粒なのだと受け入れよう。

「これ、いままでのお礼です」
 403号室の玄関先で、靴も脱がないうちから青がそう言って和菓子屋の袋を差し出すと、原田さんはちらりとそれに視線を落とし、珍しく怪訝な顔をしながら口を開いた。
「妙なことを言うようですが、羊羹が入っています」
 火災報知器を鳴らしてしまった後、せめて同じ階の住人には直接お詫びをしようと、青は最寄りのデパートで羊羹を三本買い、同じ数だけ小分け用の袋をもらった。それらは一本も受け取られることがなかったので同じ数だけ袋が余り、そのうちひとつはさつまいもを詰めて奈菜に渡し、ひとつには原田さんにお裾分けをしようと、同じくさつまいもを詰めた。そしてそれを家に置いて、残りのひとつに正しい中身を詰めてこうして持ってきた。
「べつに妙じゃないです、羊羹を買ったときの袋なので」
 そんなことをいちいち説明するのも面倒で、青は最低限の事実だけを伝える。最後の餞別をさつまいもではなく羊羹にしたのは、せめて身銭を切ったものを渡したかったからだ。エルメスを用意することはできないにせよ、自分がいらないものを引き受けさせることで恩を返したような顔をするのは抵抗があった。
「受け取ってください。ずっとご迷惑をおかけしてきたので、せめてものお礼です」
「私、べつに迷惑とは言っていませんよ」
「やっぱり、原田さんもここの人ですね」
 青の言葉の意図を測りかねたように、原田さんの目がころりと丸くなった。
「自分の空間を勝手に利用されても迷惑じゃないんでしょう? 私には真似できません、誰彼かまわずそんなことを許すなんて」
「誰彼かまわず、ではないですよ」
「でも、私を自由に出入りさせてくれたじゃないですか。私は『北側』の住人なのに」
「八並さんは」
 原田さんが青の名前を呼んだのは初めてだった。さっき青が口にした「あるじさん」と訣別けつべつするための「原田さん」とは、まるで異なる自然な響きだった。その事実にはっと虚をつかれ、自然と言葉の続きを青が待ちかけたとき、
「あら、いらっしゃい。こんにちは」
 廊下の後ろから石川さんが顔を覗かせ、青はとっさに羊羹の袋を持った手を引っ込めた。
「どうしたの、そんなところで。早く上がったら? って、私のおうちじゃないけど」
 我が物顔で言う彼女に従うのは癪だったが、たしかにここにいても迷惑になる。青がしぶしぶ靴を脱ぎ、けっきょく受け取られなかった羊羹をキッチンカウンターに置いて手を洗った――マンション内の移動でどれだけ菌が付着するのだろう、と疑問を覚えながら。
 石川さんはいかにも恐縮したように、「きのうはごめんなさいね、不躾な質問ばかりして」と眉尻を下げてみせる。
「心配だったの。このマンション、北側の方をよく思わない方も多いから。まあでも、普通に礼儀正しくしていれば大丈夫よ」
 青の返事を待たず、石川さんはこれで話は済んだと言わんばかりに微笑んだ。
「そんなことより、ミルクパズルは絵柄のヒントがないから難しいでしょう?」
 ご存じなんですね、と答えたのは原田さんだった。私、最初は印刷ミスかと思いました。
「姪がパズル好きでね。小さいころから大人向けのものをやりたがるから、よく手伝っていたの。そしたらどんどん難易度が上がって、小六の冬に千ピースのミルクパズルを」
「千ピース」
「初詣にも行かず、部屋にこもってね。それでも三が日はかかりきりで完成させたのよ」
「……私は二十五歳ですが、二週間で、それしかできていません」
 三が日、という言葉をずいぶん長期間のように発したはずの石川さんは、青の返事を聞いても動揺も恐縮も見せず、そう、と健やかに笑った。
「大人になると、なかなかまとまった時間が取れないですよね。でも、大丈夫。人と比べず、自分のペースでコツコツと続ければいいんですよ。努力した過程に価値があるんだから」
 人と比べない。自分のペースでコツコツと。努力は過程に価値がある。
 まるっこい毛糸玉のような手触りのはずの言葉たちは、青の心の表面を転がりながらささくれを逆撫でする。どうして私のペースが遅いことを、この人に許される必要があるんだろう?
「いえ、いいんです。今日はそれを回収に来ました。これ以上、ご迷惑はかけられないので」
「あら、そうなの? あそこまでやったのに、もったいない」
「人からもらっただけなんです。私自身は、パズルが好きでも得意でもないので」
「プレゼントなら、なおさら完成させないとその方に悪いでしょう。喧嘩でもした?」
「そういうわけじゃ……」
「若いときの出会いは大事にしたほうがいいですよ。友達は人生の財産ですから、簡単に投げ出してはいけないわ」
 友達、と言われて、青は奈菜のインスタグラムの投稿を思い出す。写真映えする美女に囲まれてもなお、あきらかな主役として輝く奈菜。容姿を磨くのみならず、人間関係の構築においても、彼女はそれにふさわしいだけの努力をしてきたのだから当然だ。自分はその光のおこぼれにあずかって、さも自分がそこに参加していたような顔をしていただけにすぎない。
 青は奈菜に、指先ひとつで除外されたと思っていた。でも実際は、奈菜を利用するだけして、面倒になったら逃げるように去ったのは自分のほうだった。
「もちろん、大変なことも多いけど。パズルも友情も、忍耐を学べるという点では同じかもしれませんね。そうだ、よければ手伝いましょうか? わりと得意なんですよ、姪と一緒にやってきて、コツは心得ているから」
 きらきらと善意に輝く瞳を見ていると、それはどう考えても素晴らしい提案で、拒むには根拠が必要だと感じさせられた。当然そんなものはなく、なんとなく嫌、という曖昧な感情しか青は持っていない。悪くない人に対して悪いことばかり考えて、少しでも傷つけば逃げ出したいと考える私は、きっと昔からおかしかった。
 だからずっと迷子の雨粒のまま、誰とも手をつなげない。
「石川さん」
 原田さんが静かな声で言い、青はまた、逃げ出したい衝動に駆られる。もし「それはいいですね」などと続けられたら、その瞬間に崩れ落ちてしまう気がした。
「羊羹があるんですが召し上がりますか。こちらの八並さんから、さきほど頂いたので」
「あら、私まで頂いていいの?」
「せっかくですから。八並さんも食べますか」
「いえ、私は」
 青は答えかけたが、石川さんに「そんなの悪いですよ。お持たせでよければご一緒に」と重ねられたとたん返事に窮した。原田さんにはしたくないことをそうと素直に言えるのに、この人が相手だと、ただ「いまは欲しくない」というだけの言葉が磁石のようにべたべた余計な意味を引き寄せる気がしてしまう。考え込むうちにずるずると流されかけた青に、そういえば、と言ったのはやはり原田さんだった。
「八並さんは、甘いものを食べると眠くなる体質だと言っていましたね」
 いつ言ったか自分でも思い出せないうちに、そう、そうです、と青はうなずいた。
 食い下がられたらどうしようかという懸念は、石川さんがあっさり「そう、じゃ遠慮なく」と答えたことで払拭された。お手洗い借りますね、と去っていく背中を見送ってから、青はゆっくりと、こちらを見ている原田さんに向き直る。
「原田さん」
 玄関先で呼んだときとは違って響くように、なるべく慎重に、青は彼女を呼んだ。
「はい」
「さっきの話の続きなんですけど」
 心当たりがない様子で、原田さんは小さく首を傾げる。
「どうして『北側』の私を、ずっと自由に出入りさせてくれたんですか?」
 ああ、と原田さんはうなずき、八並さんは、とあっさりした口調で続けた。
「だって八並さんは、ただ、そこにいるだけだったから」
「でも私、原田さんの話を聞いたわけでも、相談に乗ったわけでもないですよ。どっちかって言うと私ばっかりしゃべってたし、いろいろしてもらう一方でした」
「それ、八並さんがしろって言ったんじゃなくて、私が好きでしていたことですよね?」
 好き、というシンプルな言葉に、青は絶句する。もう迷惑をかけられないとか、合わせる顔がないとか、無難に線を引くために青が用意してきた建前は、その二文字の前では太陽の下で着込まれた外套のように不格好で無意味だった。
「八並さん、パズルはどうしますか? 私は、どちらでもいいですよ」
 初めて会ったときの「いやならいいです」と同じく、なんの負荷もない言葉だった。
 青がこのパズルを続けようが、やめようが、彼女は本当にどちらでもいいのだ。それだけに青自身がどう考え、そのためになにをしたいのかが剥き出しになる。
 いままでずっと、だれかに選択を任せてきた。それでいて窮屈になるとすぐあきらめて、石川さんにせよ奈菜にせよ、自分をみじめにさせる相手は「そういう人」だからと線を引いてきた。北側と呼ばれることに抵抗を覚えながら、自分だって同じように他者を切り捨てて、自分でさえ好きになれない自分自身から目を逸らしてきた。
 そんな自分がいちばん好きじゃない。たとえ傷ついても、もっと自分が嫌になっても、今度こそ正しく迷子の雨粒になりたい。
「私、もう少しここにいたいです」
 わかりました、と、原田さんはうなずいた。
 戻ってきた石川さんに、青は「やっぱり私、このパズルは自分の力で完成させます。だから手伝いはお気持ちだけで遠慮します」と伝えた。石川さんは「がんばってね!」と笑って両手で拳を作る。少女じみた仕草に辟易へきえきしつつ頭を下げ、青は六畳間に入って引き戸を閉めた。
 リビングの明かりが絶えて、急に視界が暗くなる。闇に紛れて力が抜けるのを感じながら、青は床に敷かれたヨガマットの上にへなへなと座り込んだ。
 原田さんって、やっぱり変。
 つくづくそう噛み締める。無関心に見えるのに、面倒な事態になっても逃げる様子はない。それでいて、甘ったれた若者を直接助けたり説教したりするわけでもない。とぼけた顔で少し風穴を開けて、あとは知らん顔をしている。
 そのかすかな風がなければ、未完成のパズルはきっといまごろ違って見えたはずだ。それが自分の愚かさを象徴するようで耐えきれず、もういいやと投げ出していたかもしれない。これまでたくさんのものをそうしてきたように。
 だけど、少なくともしばらくは、ここから逃げないと宣言してしまった。
 青はゆっくりと立ち上がり、壁に手を這わせながら明かりをつけた。
 ミルクパズルの表面は、天井灯を反射して鈍く光っている。初めて開封したときに感じた、「真っ白なキャンバス」という安直な比喩を思わせる輝きはもうない。ただ、完全に褪せてはいない。青はパズルに近づき、壁の向こうから響いてくる石川さんの笑い声を聞きながら、ぺたりと座ってピースのひとつを取り上げた。
 これを完成させたところで、きっと、生まれ変わった自分なんか待っていない。現実に直面することを先延ばしにする時間稼ぎでしかないのかもしれない。それでもいつでも逃げられるこの場所で、少しだけ、逃げない練習をしてみたくなった。逃げないことで得られるものがあるかないか、この手で実際に、確かめてみればいい。

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