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ぐるぐる、和菓子

 プロローグ

 りょうは三月二日という日付を忘れない。その日、六歳の彼は母を失った。
 涼太の母は美しいひとだった。いつも忙しくしていて何日も出かけることが多かったが、家にいるときは彼の知らない歌をハミングしながら料理を作っていた。母の作る玉子焼きが、ハンバーグが、エビグラタンが涼太は好きだった。
 とりわけ好きだったのが、ぼたもちだった。
「何が食べたい?」
 あの日、そう訊かれたときも、「ぼたもち!」と答えた。
 母がぼたもちを作りはじめると、涼太は何度もキッチンを覗き込んでは「まだ? まだ?」と母に尋ねた。
「もう少し待ってね」
 そう言って母は振り返り、微笑ほほえんだ。
 すいはんで炊いたもちごめを軽くいて半分つぶすと丸くまとめて、つぶあんでくるむ。母の手の中で白いもちが餡をまとい、形よく整えられていく。その様子を見ているのが涼太はとても好きだった。
「はい、どうぞ」
 皿に並んだぼたもちを手づかみしそうになるのを、ぐっとこらえる。お行儀が悪いと母に𠮟しかられるからだ。手を合わせ「いただきます」と言ってからはしでぼたもちをつまむ。幼い彼の手には余る重さと大きさ。落としそうになる前に口に運ぶ。
 餡の軟らかな舌触りと小豆あずきがわの感触。餅の弾力。小豆のほのかな香り。そして広がる甘さ。涼太の表情は緩む。
美味おいしい?」
 母に尋ねられ、口いっぱいに頰張ったままうなずく。
「そう。よかった」
 そう言ったときの母の表情に、涼太は思わず口の動きを止めた。どうしたの、とこうとしても、口の中はぼたもちでいっぱいだった。あわてて飲み込もうとしてのどに詰まりそうになる。
「ほらほら、慌てて食べちゃ駄目」
 背中をでてくれた母の顔は、もういつもの優しい表情に戻っていた。どうしたの、という問いかけは、もうできなかった。
 そして母は、いなくなった。

「涼君、これ好きだったよね」
いつまでも泣きつづける涼太にはるが差し出したのは、ぼたもちだった。
「ママの?」
「いいえ。買ってきたの。何も食べてないでしょ。さあ」
 母が作ってくれたものより小さかった。色も少し濃い。
 透明なフードパックに入れられたものを、箸でつまむ。小さいから落としそうにならない。
 口に入れて、む。しゃくして飲み込む。とたんに吐きそうになった。
「どうしたの?」
「……まずい……」
 舌に残るいやな感じを水を飲んで消そうとする。でもどんなに飲んでも、感触が消えない。食べかけのぼたもちをパックに戻した。
「ぼたもち、好きじゃなかったっけ? ごめんね」
 千春はそう言って涼太の頭を撫でた。彼は、また泣いた。

 以来、涼太は小豆を食べなくなった。
 小豆餡だけでなく、和菓子全般を口にしなかった。
 自分は甘いものが嫌いなんだ、と思った。
 好きだったのは、ママが作ってくれたぼたもちだけなんだ、と。

 涼太が再び餡を口にするのは、それから十五年後のことだった。


 第一章 きっかけは対数美曲線

  

「おい、河合かわい
 呼びかけられて、涼太は振り向く。じゅんがトレイをもって立っていた。
「おまえも昼飯か」
「うん、ちょっと遅くなった。君たちは?」
「同じく。実験が長引いた。一緒に食おうぜ」
 三人で学食のテーブルを囲む。純二は味噌カツ定食、登志男はカレーライス、そして涼太はさばしょう煮定食を昼食メニューに選んだ。
「おまえ、いつも魚食ってるな」
 カレーを口に運びながら登志男が言う。
「肉とか嫌いなのか」
「嫌いじゃない。むしろ好き。でもこの南食堂は魚が美味うまい」
「そうかな」
「ああ、材料は北食堂と同じものを使っているはずだから、調理の仕方がいいんだ。この生姜煮も臭みが抜けてるし身も硬くなっていない。食材の鮮度もだが温度調整が適正なんだ」
「へえ、そうなんだ。どれ」
 と、純二は涼太の鯖に箸を伸ばす。素早く身をとって口に入れた。
「……うーん、俺には正直、よくわからん。そんなに北食堂と違うかな」
「全然違う」
 涼太は断言した。そして、
「魚を煮るとき、どのタイミングで魚を煮汁に投入するべきなのか知ってるか」
 そう問いかけられ、登志男と純二はきょとんとした顔になる。
「なんだそれ。そういうの、何か関係あるのか」
「煮魚を作る場合、一般的にはふっとうした煮汁に魚を投入するのが正しいと言われているらしい。表面のたんぱくしつが早く凝固して、身の中の旨みを外に逃がさないから、というのが理由だそうだ。でも女子栄養大学調理学研究室による実験では煮汁を沸騰させてから魚を投入した場合と煮汁の材料と一緒に魚を投入して火にかけた場合では有意差は認められなかったという論文がある」
「有意差というのは統計学で使われる概念だな」
 純二が言った。
「この場合、どのように有意差がないと結論づけたんだ? その方法は?」
「官能評価だ。複数の人間がパネルとなって外観、香り、味、テクスチャーという項目で評価する」
「人間の五感を測定器とするわけか。俺たちの好きな物理法則とは違ってあいまいだな」
 登志男が皮肉っぽく言った。涼太はわずかに肩をすくめて、
「たしかにそうだ。しかしこの方法は統計学上意味があるものとして認められている。結果は信用していい。煮汁が冷たいときに魚を投入しようが煮立ってから投入しようが味に変化はない」
「なるほど。ではこの食堂の煮魚が特に美味いというのはなぜだ?」
「これも自明なことだが蛋白質は高温で長く加熱されると硬くなり食味が落ちる。つまり短時間で中まで火が入ればいいわけだ。かといってやみに強火を使えば身を崩してしまう。中火で煮込み時間は六分程度がいい、というのがなかまちさんの結論だ」
「中町? 誰?」
「南食堂の調理師さん。東京の料亭で修業を積んでつきで自分の店を開いたけどバブル崩壊の影響で閉店してしまって、その後はいろいろな社員食堂で調理をしてきて三年前にこの学食にやってきた」
「おい、なんだその情報? なんでそんなことを知ってる?」
「聞いたから。というか、煮魚の作りかたについてだけ訊くつもりだったのに、中町さんがそんなことまで話してくれたんだよ」
「煮魚の作りかたを訊いた? どうして?」
「興味があったからに決まってるじゃないか。他のところで食べる煮魚と何が違うのか知りたかった。中町さんは経験知を優先する人間だから理論的裏付けについてはあまり関心がないみたいでさ。だから僕がさっきの論文を探してきて教えたりもしたけど、あまり興味は持ってくれなかった……ん? どうした?」
 あきれたような顔で自分を見ている友人たちに尋ねると、
「いや、河合ってやっぱり変わってるなと思ってな」
 純二からそんな答えが返ってきた。そして続けて尋ねられる。
「おまえの卒論のテーマって何だったっけ?」
「『へいこうぶん動力学法による輸送物性の計算法』だけど」
「だよな。『加熱による魚類の蛋白質変成について』じゃないよな。なのにどうしてそんなこと調べてるんだ? 今、俺たちがどんな状況下にあるかわかってるか」
「卒研の真っ最中」
「わかってるじゃないか。できなきゃ俺たち大学を卒業できないんだぞ。余裕ないだろ。それともおまえ、もう論文書けちまったのか」
「いや、まだもう少し詰めないと」
「だったらさあ──」
「河合ってそういうやつじゃん」
 登志男が言った。
「なんでも興味を持ったら一直線でさ。それでいて飽きっぽい。ひょっとしたら卒研やるのに飽きちゃってるのかもしれない」
「そうなの? 飽きてるの?」
「うーん、どうかなあ……」
 涼太は首をひねる。
「余裕だなおまえ。それって大学院に行くからなのか」
「そういうわけじゃないけど……なんて言うのかな、そっちのほうが面白そうだったから」
「興味本位制で生きてるな」
 純二が笑う。
「俺たちはさっさと卒論仕上げて就活も終わらせてのんびりするつもりなのに」
「のんびりなんてできるかよ。このご時世に」
 登志男が茶々を入れた。そして涼太に、
「河合かっはどうするの? いや、大学院に行ってからさ。就職、きつくなるかもよ」
「就職までは、まだ考えてない」
 涼太は素直に答える。
「大学院に行くって決めたのも、モラトリアムをもう少し延ばしたいってのが正直なところでさ」
「優雅だねえ。さすがお金持ちのお坊ちゃん……あ、ごめん」
「ん? どうして謝ったの?」
「いや、いやみに聞こえたかもしれないと思ってさ」
「何が?」
「だから……まあいい。本人が気にしてないみたいだから」
 登志男は涼太の問いかけをはぐらかす。
「そんなに煮魚の作りかたが気になるなら、そっちの研究してみたら? 日本の料理法に革命をもたらすかもよ」
「うーん……」
「おまえ、食べるの好きじゃん。俺たちより舌の感覚が鋭いみたいだし」
「そんなこともないと思うけどなあ。まあ、たしかに料理を科学するというのも面白いかもしれないけど……でもなあ……」
 涼太は首をひねりながら、
「ずっと輸送物性の研究をするつもり?」
 純二が尋ねても、
「それもなあ……」
 さらに首をひねる。
「おいおい、それ以上ひねったら顔が後ろ向くぞ」
「どうなんだろうなあ……僕は何を目指すべきなんだろう? わかる?」
「本人にわからないものが俺たちにわかるわけなかろうが。まあ、せいぜい悩め。それが青春の特権じゃ」
 そう言うと登志男はカレーをかっこむ。
 涼太はそんな友人をぼんやりと見ていた。


  *

続きは3月5日ごろ発売の『ぐるぐる、和菓子』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
太田忠司(おおた・ただし)
1959年愛知県生まれ。名古屋工業大学卒業。81年、「帰郷」で「星新一ショートショート・コンテスト」優秀作を受賞。90年、長編ミステリー『僕の殺人』で作家デビュー。2004年、『黄金蝶ひとり』でうつのみやこども賞受賞。17年、『名古屋駅西 喫茶ユトリロ』で日本ど真ん中書店大賞小説部門3位。他の著書に、映画化された『新宿少年探偵団』のほか、「少年探偵・狩野俊介」「目白台サイドキック」「ミステリなふたり」などの各シリーズのほか、『奇談蒐集家』『万屋大悟のマシュマロな事件簿』『麻倉玲一は信頼できない語り手』『道化師の退場』など多数。

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