少年が生まれたのは、一九四五年。彼は五歳で音楽に魅了され、やがて指揮者を目指し世界へと旅立つ。人生を通じ、彼の心の指針となったのは何だったのか。瀧羽麻子さんの『我らが音楽に祝福あれ』は、音楽を愛し、音楽に愛された一人の男の物語だ。
太平洋戦争の終わった年に、北国の農村で生まれた相原佳和。父親はいない。母親は彼を連れて上京し、運よく小宮家のお屋敷での女中の仕事を得る。他の女中たちに可愛がられる佳和は屈託なく育ち、小宮家の末娘で彼より三つ年上の貴子もなにかと面倒を見てくれる。五歳のある時、貴子に誘われて教会を訪れた佳和は、聖歌「主よ、人の望みの喜びよ」の伴奏のパイプオルガンの音色に魅せられる。帰宅した二人はピアノでこの曲をたどたどしくも連弾した。後から振り返ってみれば、それが、佳和にとって音楽の道への扉が開かれた瞬間だった。
物語は数年ずつ時を飛び越えながら、佳和の人生の転機を拾い上げていく。結婚した母親とともに小宮家を出た佳和は、中学では吹奏楽部でトランペットを担当し、高校に進学すると部活は辞めるが河原で演奏を続けていた。そこに声をかけてきたのが、音大生の戸川栄二郎である。その後、佳和の生涯の友となる男だ。彼と音楽談義に花を咲かせ、さまざまな演奏に触れた佳和は音大進学を希望するが、養父に「音楽で身を立てていくのは難しい」と反対される。気持ちの整理をつける佳和だったが、それを知った貴子から音楽をやるべきだと言われる。彼女が引き合いに出すのが、聖書のタラントンの話だ。タラントンとはお金の単位のこと。主人が三人のしもべたちにタラントンを預けて旅に出た。戻ってみると三人のうち二人はそれを元手に商売をしており、もう一人は土に埋めて大切にとっていた。主人が叱ったのは、三人目のしもべ。与えられたものを活用しないのは怠慢だというのである。タラントンとはタレントの語源となった言葉であり、天から与えられた才能は最大限に活かしなさい、というのがこの話の教訓だ。そして佳和も、〈幾許かのタラントンが与えられているのなら、あきらめるのはまだ早いのかもしれない。一タラントンでも五タラントンでも、ありったけ使って、行けるところまで行ってみたい〉と願う。そこへ思わぬ助け舟があり、彼は音楽大学へ進学。やがて指揮者を志し、ドイツへ渡り、師匠となる人物と出会う。
家族の決めた相手と結婚した貴子だが、その後も幾度となく佳和の背中を押してくれる。彼女は言う。「タラントンは、自分のためじゃなくて、世の中のために使わなくっちゃ」「才能を活かして世の中に貢献できるなんて、すばらしいじゃないの」「いい音楽は、ひとを幸せにしてくれるもの。指揮者として、たくさんのひとに音楽を届けることが、よっちゃんの持って生まれた使命じゃないかしら」。
それらの言葉が彼の心に刻まれていく。佳和は決して天才肌ではない。しかし愚直に音楽を、指揮を愛し追求する彼は、とりまく環境や状況を見つめ、自分に与えられたものの範囲でそれを活用していく。彼だけでなく、彼の周囲の人々の、タラントンとの向き合い方も見えてくるのが興味深い。十代の頃に自分の才能に気づき、それを伸ばしていく過程は青春成長小説として、直接的な指導はしない師匠の背中を見ながら成長していく過程は師弟小説、指揮者になってからはその仕事のさまざまな側面が見えるお仕事小説、バブル崩壊後の楽団立て直しなどはライトなビジネス小説……などと、佳和がタラントンを育て、活用する段階に応じてこの長い物語の読み心地も異なってくる。天才と呼べるほどの才能があったわけではないが、実力と機会には恵まれていた佳和は、与えられたものをどう活かしていくのか。時代が現代に近づくにつれ、財政難に苦しむ地方の楽団、人前に出るのが苦手な佳和でも腹をすえて取り組まねばならないプロモーション活動、なかなかチャンスが与えられない女性指揮者志望者の存在など、指揮者が向き合うさまざまな問題や諸事情が、どんどん身近なものに感じられていく。
もちろん全体を通して、音楽小説として読み応えがある。実在のさまざまな曲の、指揮者の耳を通しての味わい方が、また楽しい。さらにいえば、全体を通しては戦後の変化が見えてくる大河小説、さらには、ほのかなロマンス、絆の物語ともいえる。終盤に用意されたサプライズには、胸を打たれた。
素直で、愚直で、音楽を愛し、音楽に愛された佳和。貴子の言った「才能を活かして世の中に貢献する」とは、自分の才能をしぶしぶ社会に還元する、という意味ではないだろう。彼の人生を眺めていると、自分に与えられた喜びを、少しずつ、周囲の人にもお裾分けしているかのようだ。これは地位や名声や金銭や成功や勝利を求めなかった男の物語であり、ただひたすら、自分が愛するものを大事に大事にして生きた男の物語である。その愚直さに愛おしさを、その豊かさに祝福を感じずにはいられない。
■ 評者プロフィール
瀧井朝世(たきい・あさよ)
1970年生まれ。WEB本の雑誌「作家の読書道」、『週刊新潮』『anan』『クロワッサン』『小説幻冬』『紙魚の手帖』などで作家インタビュー、書評を担当。TBS系「王様のブランチ」ブックコーナーのブレーンを務める。著書に『偏愛読書トライアングル』『あの人とあの本の話』、編著に『ほんのよもやま話 作家対談集』、監修に「恋の絵本」「キミの知らない 恋の物語」の各シリーズがある。

