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様々な角度から、現実世界の「怪物の卵」を描いた物語                 

「サクラダリセット」シリーズや『いなくなれ、群青』にはじまる「階段島」シリーズで人気を博し、昨年は『昨日星を探した言い訳』で山田風太郎賞の候補になるなど注目される河野裕。新作『君の名前の横顔』は、ある家族の物語である。
 主要人物はまず、三好愛、三十八歳。夫を亡くして十歳の息子、冬明と二人で暮らし、仕事は工務店の営業職。もうひとりは二十歳の大学生、牧野楓。じつは愛と楓は親子の関係である。なぜ苗字が違うのか? その理由は、なかなかつらいものがある。
 楓の父親、英哉は最初の結婚で楓を授かったが離婚、父親と暮らすことを選んだ楓を引き取った。その後愛と出会って再婚し冬明をもうける。だが建築士だった彼は、ある仕事がきっかけでSNS上で見知らぬ人々から大バッシングを受け、自ら命を絶ってしまった。誹謗ひぼう中傷は家族にも及んでいたため愛たちは引っ越し、愛と冬明は復氏届を提出して旧姓の三好に戻り、楓は牧野姓のままでいることを選んだ。それが五年前。大学に進学した楓は今は一人で暮らしているが、日曜日の夜には愛たちの家に顔を見せるのが習慣となっている。
 現在、愛と楓には気になっていることがある。十歳となった冬明が「頭が痛い」と言って学校を早退するようになり、登校を嫌がるのだ。病院で検査しても原因は見つからず、心因性のものではないかと言われている。そんな冬明は、最近なんだか奇妙なことを口にする。たとえば、学校の絵の具セットが十三色入りだったのに、ジャバウォックが盗んで十二色になったという。他にも、彼のまわりでいろんなものが盗まれているというのである。
 愛と楓の視点を交互に入れ替えながら、物語はテンポよく進んでいく。丁寧に描写される視点人物たちの感情の機微、印象的な言葉やエピソードの数々がこちらの心に響いてくる。なかでも、冬明のフラットな目線が非常に魅力的だ。たとえば彼は、ちょっと太った同級生に対する「ポッチャ」というあだ名を教師が禁止したことについて不満を漏らす。人の体型を揶揄やゆしてはいけないという意図だと理解はできるが、冬明の「太ってるのは悪いことだってみんなが思っているから、それをあだ名にしちゃいけないわけでしょ? みんなが太っていても、何の問題もないって思ってたら、デブリンでもポッチャでもいいはずだよ」という指摘に、はっとさせられる。教師がやったことは、体型に対する偏見をそのままにしているどころか、積極的に肯定してしまったとも言えるのだ。冬明は小学生ながら、そこに気づける聡明さがある。だからこそ、彼が言うジャバウォックとは何かが、気になるところだ。
 ジャバウォックは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』の作中詩で言及される奇妙な怪物のことだ。その詩自体が造語だらけで非常に難解(邦訳も翻訳者によって異なるが、共通するのは何を言っているのかよくわからないという点)。楓の友人の千守によると、ジャバウォックも造語であり、『昂揚した議論のたまもの』という邦訳表現があるようだ。それにしても、冬明はなぜ『鏡の国のアリス』にしか出てこないこの怪物を知っていたのか? 彼が言うジャバウォックによる盗みは、いったい何を示しているのか? 子供の無邪気な嘘なのか、勘違いなのか、それとも実在するのか。楓がこの真相を突き止めようとしたところ、友人の千守から意外なことを言われる。五年前、つまり英哉が死んだ時にも、ジャバウォックはいた、と。
 過去に悲しい出来事があったこの家族がどうか無事に生きていけるようにと、はらはらしながらページをめくることになるが、しかし残念ながら読み手の願いは叶わず、家族を守るために懸命な愛の身には災難が降りかかり、一方楓は、とんでもない事実を知ることになる。二人の感情の爆発に読者も呑み込まれ、打ちのめされ、息が苦しくなる。そしてもう息ができないと思った瞬間、また新たな展開が待っている。壮大で壮絶な景色が広がっていくのだ。
 読み終えた時、現実世界にも怪物はいるのだと実感する。ジャバウォックだけではない。かつて英哉を集中攻撃したSNSの中や、さらに言えば、一人一人の心の中にだって怪物はいる。偏見、無関心、身勝手な正義感、自己保身、すでに定義された言葉や価値観に対する疑いのなさ……ああ、この物語はさまざまな角度から、「怪物の卵」を描いていたのだと気づかされる。と同時に、この三人の物語を通じて改めて感じるのは、たとえ取り戻せない過去があったとしても、大きな喪失があったとしても、人は生きていく、いや、生きていけるということだ。
 作中、バールという道具が象徴的に登場する。それは、心の中で凝り固まった思考や言葉の定義を解体するアイテムでもある。これは、読者の心にもバールの一撃を与えてくれる作品。もちろん、いい意味で。

 

プロフィール
瀧井朝世(たきい・あさよ)
1970年生まれ。WEB本の雑誌「作家の読書道」、『別冊文藝春秋』『WEBきらら』『週刊新潮』『anan』『クロワッサン』『小説宝石』『小説幻冬』『紙魚の手帖』などで作家インタビュー、書評を担当。TBS系「王様のブランチ」ブックコーナーのブレーンを務める。著書に『偏愛読書トライアングル』、『あの人とあの本の話』、「恋の絵本」シリーズ(監修)、『ほんのよもやま話 作家対談集』。

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